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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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115/225

第115話 待つあいだにも、暮らしは続く



王立魔導研究院から新しい回答が届かないまま、二日が過ぎた。


照会そのものは受理されている。エルを通じて確認できるのはそこまでであり、「外部状態確認部」に関する資料が見つかったのか、閲覧権限の確認に時間がかかっているのか、それとも単純に担当部署で処理が滞っているのかは分からない。


以前のアルなら、二日という時間をもっと長く感じていたかもしれない。


けれど今朝、塔の食堂で目を覚ますような香草茶の匂いを嗅ぎながら、アルが考えていたのは研究院のことではなかった。


「セリー」


「はい」


「これ、俺の分?」


「はい」


「多くない?」


目の前の皿には、焼いた卵と野菜、それに薄く切った肉を挟んだパンが二つ載っている。さらに横には果物まで添えられており、朝食としては明らかにいつもより量が多かった。


セリーは自分の皿を置きながら、平然と答えた。


「昨日の昼食が少なかったためです」


「昨日は町で食べたから仕方ないだろ」


「仕方がないことと、必要量を摂取できていないことは別です」


「俺、ちゃんと食べたよ?」


「パン一つとスープです」


「見てたの?」


「隣におりましたので」


アルは反論しかけたものの、昨日の昼を思い出して諦めた。


リューネの町で支援窓口の試行状況を見たあと、予定より長く住民たちと話していた。そのため昼食が遅れ、空腹を感じる前に簡単な食事だけ済ませて塔へ戻っている。


「……全部食べないと駄目?」


「主様が今、食べられないと感じているのでしたら残して構いません」


「そこは無理やり食べさせないんだな」


「私は主様の食事量を気にしていますが、主様の胃ではありませんので」


あまりにも真面目な顔で言われ、アルは笑った。


「じゃあ食べられるところまで食べる」


「はい」


セリーは満足そうに頷くと、向かいではなく今日もアルの隣へ座った。


ここ数日、彼女がどこへ座るかは一定していない。隣の日もあれば向かいの日もあり、一度だけ少し離れた窓際へ自分の椅子を運んだこともあった。


理由を尋ねると、その日は朝の光を見ながら食べたかったらしい。


アルは、その変化が好きだった。


決められた位置ではなく、セリーがそのとき座りたい場所を選ぶ。それだけのことなのに、彼女自身の暮らしが少しずつ広がっているように感じられる。


アルが一つ目のパンを半分ほど食べたところで、腕輪のエルが淡く光った。


「研究院?」


『いいえ。旧保養施設からの定時報告です』


「そっちか。何かあった?」


『昨夜は、観測対象となっている発光、音、受動計測値の変化、落下物等の新規事象は確認されていません』


アルはパンを持ったまま頷いた。


「分かった。記録だけ共有して」


『すでに共有されています。ガルムから判断依頼はありません』


「了解」


エルの光が弱くなる。


アルはそのまま朝食へ戻ろうとしたが、隣にいるセリーがこちらを見ていることに気づいた。


「どうした?」


「以前でしたら、もう少し質問されていたと思いまして」


「例えば?」


「昨夜の観測位置に変更はなかったか、担当者は誰だったか、受動計測値に本当に変化がなかったか、などでしょうか」


「ああ……」


確かに聞いていた気がする。


しかも、その多くは現場の記録を読めば分かることだった。


「今は、ガルムたちが必要なところを見てるって分かってるからな」


「はい」


「何もなかったって報告を、俺がもう一回細かく確認しても仕方ないし」


言いながら、アルは少しだけ胸の奥に残る感覚へ気づいた。


任せることには慣れてきた。


それでも、自分が細部まで知らない時間が増えることへの小さな寂しさは、まだ消えていない。


(でも、それでいいんだろうな)


寂しさがあるからといって、仕事を自分へ戻す必要はない。


アルは二つ目のパンへ手を伸ばし、そこで一度止まった。


「これ、半分セリー食べない?」


「主様が食べられないのでしたら」


「いや、食べようと思えば食べられる。でも一緒に食べたい」


セリーはアルとパンを交互に見た。


「では、半分いただきます」


「うん」


アルがパンを分けると、セリーは受け取った。


二人で同じものを食べる朝は、調査が進んだわけでも、謎が解けたわけでもない。それでも、待っている時間まで何かのために差し出さなくていいのだと、アルは以前より自然に思えるようになっていた。


          ◇


旧保養施設では、その日の午前中から新しい観測方法の試行が始まっていた。


提案したトーマス・ベルン自身が、リディアとともに床へ置く低い基準具を確認している。


もちろん、床そのものには何も固定しない。


細い木製の台座に数字を記した板を差し込み、既存設備や壁から十分な距離を取ったうえで置くだけの簡単なものだ。何か異常があれば即座に撤去でき、床や壁へ傷も残さない。


「三番、もう少し左でもいいですか?」


トーマスが尋ねる。


リディアは観測位置から板を見て、首を横へ振った。


「そこから動かさない方がいいと思います。左へ寄せると、夜間に柱の影へ入る可能性があります」


「分かりました」


トーマスは位置を変えず、手元の紙へ書き込んだ。


少し離れたところでは、ガルムが腕を組んで二人を見ている。


「どうだ?」


「昼間の視認性は問題ありません。ただ、夜間に同じ見え方になるかは別です」


リディアが答える。


「今夜は新しい基準だけで記録するのか?」


「いいえ。数日は今までの表現も併記した方がいいでしょう。例えば『右寄り』と記録していたものを、今日から突然『基準三と四の間』だけにすると、過去記録と比較しづらくなります」


「俺もそう思います」


トーマスが紙をガルムへ差し出した。


そこには、新旧の記録方法を並行して使う期間についての簡単な案が書かれていた。


ガルムは内容を確認してから、トーマスへ返す。


「現場で使う奴らにも見せろ。書きづらいなら直していい」


「はい」


「お前が作ったからって、お前の方式にする必要はないからな」


トーマスは一瞬だけ目を丸くしたあと、しっかり頷いた。


「分かりました」


少し離れた資料机では、フェリクスがその会話を聞きながら古い図面を読んでいた。


以前の彼なら、自分が発見した資料や仮説へ他人が修正を入れることに、多少なりとも不満を見せていたかもしれない。


今は違う。


トーマスが持っている紙へ目を向けたあと、むしろ興味深そうに口元を緩めた。


「観測方法そのものを記録しておいた方がよさそうですね」


ガルムが振り返る。


「どういう意味だ?」


「後から記録だけ読む人間は、数字があると最初から精密だったように思ってしまうことがあります。いつから基準具を使い始めたのか、その前は目測だったのか、移行期間はどうだったのか。そこも残しておかないと、十年後に誰かが比較するとき困ります」


リディアが頷いた。


「必要ですね。基準具の位置も、設置した日ごとに確認した方がいいでしょう。固定していない以上、誰かが蹴る可能性もありますから」


「俺じゃないですよ?」


「まだ誰もあなたとは言っていません」


「先に否定しておこうかと」


ガルムが小さく息を吐いた。


「蹴った奴の名前を記録する必要はない。位置が変わったなら、変わった事実と再設定したことを残せばいい」


「そうですね」


リディアが答える。


誰が悪かったかを探すための記録ではない。


後から比較できるようにするための記録である。


目的を間違えれば、観測を正確にするための仕組みが、いつの間にか人を監視する仕組みへ変わってしまう。


そのことを、この施設にいる全員が以前より意識するようになっていた。


          ◇


昼過ぎ。


旧保養施設の別室では、名前を明かしていない子供が窓辺に座り、紙で作った「みち」を膝へ載せていた。


木札は部屋に残してある。


以前なら、外へ出る前に何度も木札を見たり、戻ったときにすぐ確認したりすることがあった。


今日は違った。


庭から戻ってきたあとも、子供は木札のところへ直行しなかった。


ナディアはそれに気づいていたが、何も言わない。


「みち」の端が少し折れている。


子供は指でその折れた部分を何度か撫でてから、ナディアを見た。


「これ、なおしていい?」


「あなたのものだから、直したいなら直していいよ」


「ちがうのにしても?」


ナディアはすぐには答えず、子供の顔を見た。


「違うものに作り直したいの?」


「まだ、わかんない」


「だったら、まだ決めなくてもいいと思う」


子供は紙を膝へ戻した。


しばらくすると、窓の外から鳥の声が聞こえた。子供はそちらへ顔を向け、紙のことを考えるのをやめたように庭を眺め始める。


ナディアも黙って隣にいた。


やがて子供が、小さな声で尋ねた。


「なおしたら、まえのなくなる?」


「紙の形は変わるかもしれないね」


「じゃあ、まえの、いなくなる?」


その言葉に、ナディアは少し考えた。


形が変わることと、過去が消えること。


この子にとって、それはただの工作の話ではないのかもしれない。


けれど、そうだと決めつけるのも違う。


「私は、今の『みち』があったことを覚えてるよ」


「かみに、かかなくても?」


「うん」


「ほんと?」


「本当。全部を紙に書かなくても、あったことがなくなるわけじゃないよ」


子供は自分の「みち」を見た。


「ぼくも、おぼえてる」


「うん」


「じゃあ、いい」


そう言ったものの、すぐに作り直し始めることはなかった。


子供は「みち」を膝に載せたまま、また庭を見る。


決めなくてもいい。


直してもいい。


直さなくてもいい。


そして、今決めなかったことを、あとで決めてもいい。


ナディアはその選択を記録用紙へ書こうとはしなかった。


子供が紙工作をどうするか迷ったことまで、保護記録へ残す必要はない。


少しして、子供が自分から言った。


「きょう、これ、かかなくていい」


「うん。書かないよ」


「でも、わすれない?」


「私は覚えてると思う。でも、もし忘れたとしても、あなたが今日ここで迷ったことが嘘になるわけじゃない」


子供はしばらく考えたあと、ゆっくり頷いた。


その日の午後、「みち」は結局、直されなかった。


それもまた、決定ではない。


ただ、そのときは直さなかったというだけだった。


          ◇


塔では、アルが中庭の長椅子に座っていた。


午後の日差しは暖かく、風も弱い。膝の上には何も載っておらず、手元に資料もない。


隣にはセリーがいる。


彼女も何もしていなかった。


「セリー」


「はい」


「俺たち、何もしてないな」


「はい」


「平気?」


「何がでしょう?」


「いや、なんとなく」


アルは背もたれへ身体を預けた。


「前だったら、何もしてない時間があると落ち着かなかった気がする」


「主様は今も少し落ち着いておられないように見えます」


「分かる?」


「右手の指が先ほどから動いています」


指摘されて、アルは自分の右手を見る。


確かに親指で人差し指の側面を何度も撫でていた。


「癖かな」


「考え事をされているときによくなさいます」


「そんなに見られてたのか」


「長くお仕えしておりますので」


セリーはそう言ったあと、少し間を置いた。


「ですが、それだけではありません」


アルは隣を見る。


最近のセリーは、「仕える」という言葉を否定しない。


作られた目的も、長く続いた主従関係も、自分の一部として認めている。


そのうえで、それだけではないと自分の言葉で足していく。


「今は?」


アルが尋ねる。


「今は、主様を見たいので見ています」


「それ、結構恥ずかしいな」


「そうなのですか?」


「好きな人に『見たいから見てる』って言われたら、普通は照れると思う」


口から出てから、アルの身体が固まった。


セリーも動きを止める。


アルは数秒遅れて、自分が何を言ったのか理解した。


(……言った)


以前から、自分の中では分かっていた。


セリーが好きなのだろうと認めてもいた。


けれど、それをセリー本人へ直接伝えることはしていなかった。


今の言葉は、きちんとした告白ではない。


しかし、聞き間違えようのない言い方だった。


アルは慌てて言葉を重ねそうになり、止めた。


今の発言をなかったことにするための説明をすれば、かえってセリーへ答えを迫るかもしれない。


だから、黙って彼女を見る。


セリーはしばらくアルの顔を見つめていた。


頬の色が、ほんの少しだけ変わっている。


「主様」


「うん」


「今の『好きな人』は、私のことでしょうか」


逃げ道のない質問だった。


それでも、不思議と逃げたいとは思わなかった。


アルは一度だけ息を吸った。


「うん。セリーのこと」


セリーの視線がわずかに揺れる。


アルは続けた。


「でも、今すぐ何か答えてほしいって意味じゃない。俺が勝手に言っちゃっただけだから」


「勝手に、でしょうか」


「……言うつもりじゃなかったから」


「では、言いたくなかったのですか?」


アルは首を横へ振った。


「違う。言いたかった。でも、俺が言ったら、セリーも何か決めなきゃいけないみたいになるのが嫌だった」


言葉を選びながら、アルは自分の膝へ視線を落とした。


「セリーが俺を大切だって言ってくれたことも、一緒にいたいって言ってくれたことも、俺はすごく嬉しかった。それを俺の『好き』に合わせて、恋なのかどうか決めてほしくなかったんだ」


セリーは黙っている。


中庭では、風が木々の葉を揺らしていた。


「だから、答えはいらない」


アルは顔を上げた。


「今のは俺の気持ちの話。セリーの気持ちはセリーのものだから」


しばらく沈黙が続いた。


アルの胸は速く打っていた。


(答えはいらないって言ったくせに、緊張してるな、俺)


期待がないわけではない。


好きな相手から同じ言葉を返してもらえたら嬉しい。


けれど、その期待があることと、答えを要求しないことは両立できるはずだった。


やがてセリーが、自分の手を長椅子の上へ置いた。


アルの手のすぐ近くだった。


触れてはいない。


「主様」


「うん」


「私は、まだ自分の気持ちをすべて言葉にできるとは思っておりません」


「うん」


「ですが、主様が私を好きだとおっしゃったことは、嫌ではありません」


セリーはそこで少し息を整えた。


「とても嬉しいです」


アルの肩から力が抜ける。


「そっか」


「はい」


「それだけで十分」


セリーはアルを見つめたまま、ほんの少し首を傾げた。


「本当に十分ですか?」


アルは正直に考えた。


「もっと聞けたら嬉しいとは思う」


セリーの目が少し大きくなる。


アルは苦笑した。


「でも、嬉しいと思うことと、言ってほしいって要求することは違うだろ。だから今は十分」


「……はい」


「それに、俺も自分の気持ち分かるまで結構時間かかったし」


「いつ分かったのですか?」


その質問には、アルが今度こそ固まった。


具体的な時期を答えれば、過去のどこかを切り取って説明することになる。


だが、自分でも一瞬で恋に変わったとは思っていない。


「いつからっていうのは、分からない」


アルは正直に答えた。


「気づいたときには、たぶんもう好きだった。でも、その前から大切だったし、一緒にいると安心したし、離れたら寂しいと思ってた。だから、どこから恋だったのかは俺にも分からない」


「そういうものなのですね」


「俺の場合はね」


セリーは自分の胸元へ手を置いた。


「私も、分からないものがあります」


「分からないままでいいよ」


「はい」


二人の手は、まだ触れていなかった。


しばらくして、セリーの小指が少しだけ動く。


その指先が、アルの小指へ触れた。


アルは握らない。


触れた分だけを受け取る。


「今日はこれがいい?」


「今は、これがいいです」


「俺も」


二人は小指だけを触れ合わせたまま、中庭に座っていた。


恋人になったわけではない。


関係へ新しい名前を付けたわけでもない。


それでも、アルの気持ちは初めてセリー本人へ伝わった。


そしてセリーは、答えを決める代わりに、今の自分が嬉しいと伝えた。


それ以上を急ぐ必要はなかった。


          ◇


同じ日の夕方。


王立魔導研究院の資料保管部では、照会担当の研究員が三冊の古い索引簿を机へ並べていた。


前日に確認した「外部状態確認部」の資料番号には、確かに別紙が紐づいている。


しかし、その別紙の移管先が問題だった。


設備管理資料から切り離され、「保護行政記録群」の一部へ再分類されている。


なぜ設備資料の別紙が行政記録へ移されたのか。


理由は索引だけでは分からない。


さらに、同じ資料番号の末尾に、別の注記が残っていた。


「原施設照合未了」


研究員はそこで手を止めた。


旧保養施設の資料だと断定することはできない。


だから回答文へ施設名を書き込むこともできない。


一方で、照会者が求めている「外部状態確認部に関する用語一覧」については、一部だけなら返答できる。


研究員は別の索引を開き、確認できた用語を一つずつ抜き出した。


外部状態確認部。


確認札。


状態表示窓。


開口前確認。


保持状態。


再確認待機。


どれも意味までは書かれていない。


さらに最後の一項で、研究員の筆が止まった。


「確認札不在時――開口保留」


その下には、もっと小さな文字で補足がある。


「代替確認手順は別紙参照」


だが、その別紙こそ、行政記録側へ移されていた。


研究員は回答文を書き始めたものの、「確認札不在時は開口禁止」とは書かなかった。


原文は「保留」であり、「禁止」と同じ意味とは限らない。


代替確認手順が存在した可能性も、索引上は示されている。


分かっていることより強い言葉へ置き換えてはいけない。


研究員は確認できた原文と、確認できていない部分を分けて記載した。


そして最後に、別紙の閲覧可否を保護行政記録の担当部署へ照会する。


回答は、まだ完成していない。


塔のアルたちも、そのことを知らない。


ただ一つ確かなのは、壁を開けるための方法ではなく、開ける前に何を確かめる必要があったのかという問いの方が、少しずつ形を持ち始めていることだった。


その夜も、旧保養施設の西側の壁は開かれなかった。


新しく置かれた基準具の向こうで古い壁は変わらず立ち続け、観測担当の兵士たちは、何かが起こることを期待するのではなく、起きたことと起きなかったことを同じように記録していった。


塔ではアルとセリーが夕食を終え、それぞれの時間を過ごしている。


アルは自室で本を開きながら、昼間に口からこぼれた言葉を思い出して何度か顔を覆った。


(あれが俺の初めての伝え方で良かったのか……?)


考えれば考えるほど格好がついていない。


それでも、取り消したいとは思わなかった。


一方のセリーも、自室で自分の右手を眺めていた。


昼間に触れ合わせたのは小指だけだった。


手のひら全体を重ねた夜より触れていた面積はずっと小さい。それなのに、思い出すと胸の奥に説明しにくい感覚が残っている。


(主様は、私を好きだとおっしゃいました)


その事実を考えると嬉しい。


では、自分はどうなのか。


すぐに答えを作ろうとしたところで、セリーは考えるのをやめた。


今日、答えなくていいと言われたからではない。


自分自身が、急いで名前を付けたくないと思ったからだ。


ただ、明日の朝も主様の顔を見たい。


一緒に食事をしたい。


隣へ座るか向かいへ座るかは、そのとき決めたい。


触れたくなったら、自分から触れたい。


その一つ一つが今の自分の気持ちであり、それをまだ一つの言葉へまとめなくても、なくなるわけではない。


セリーは右手を下ろし、窓の外へ目を向けた。


塔の夜は静かだった。


答えを待っているものはいくつもある。


研究院からの返事。


古い施設の壁。


確認札の意味。


その向こうに何があるのか。


そして、自分自身の気持ち。


けれど、待っているあいだにも時間は流れ、食事をし、笑い、誰かと並んで座り、ときには触れ、ときには触れずに過ごしていく。


答えが出るまで、暮らしを止める必要はなかった。

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