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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第116話 伝えたあとも、変わらない朝



翌朝、アルはいつもより少し早く目を覚ました。


窓の外はまだ完全には明るくなっておらず、東の空が淡い青へ変わり始めたばかりだった。塔を囲む森から鳥の声が聞こえ、夜の冷気を残した風が窓枠の隙間からわずかに入り込んでいる。


眠気は残っているのに、もう一度目を閉じる気にはなれなかった。


昨日の午後、中庭でセリーへ口にした言葉を思い出してしまったからだ。


『好きな人に「見たいから見てる」って言われたら、普通は照れると思う』


そして、聞き返されたあとには、はっきり答えている。


『うん。セリーのこと』


布団の中で仰向けになったまま、アルは片手で顔を覆った。


(改めて思い出すと、ものすごく恥ずかしいな……)


後悔しているわけではない。


言わなければよかったとも思わないし、言葉を取り消したいとも思わない。むしろ、自分の気持ちを隠さずに伝えられたことについては、どこか安堵している。


それでも、もっと他に言い方があったのではないかとは思う。


二人で静かに向き合い、覚悟を決めて気持ちを伝えるような場面を想像したことがなかったわけではない。現実には会話の流れで口から滑り出し、言った本人が一番驚くという締まらない形になった。


しかも、セリーから返ってきたのは拒絶ではなかった。


嫌ではない。


とても嬉しい。


ただ、自分の気持ちをまだすべて言葉にできない。


それで十分だと、昨日の自分は本当に思った。


今もその考えは変わっていない。


けれど――。


(今日、どんな顔して会えばいいんだ?)


そこだけは、まったく考えていなかった。


アルはしばらく天井を見つめていたが、やがて自分でおかしくなって小さく笑った。


昨日まで何度も一緒に食事をし、手をつなぎ、散歩をしてきた相手である。好きだと知られたからといって、突然会い方が分からなくなるのは妙な話だった。


それでも胸の奥に落ち着かないものを抱えたまま身支度を済ませ、アルは自室を出た。


廊下には朝の静かな空気が残っている。


食堂へ近づくにつれて焼いたパンの香りが漂い始め、アルは歩みを少し緩めた。


扉の向こうにセリーがいる。


その当たり前の事実を、今日はいつもより強く意識してしまう。


(普通にしよう。いや、普通って何だよ)


考えているうちに食堂の扉が開いた。


内側から姿を現したセリーと、真正面から目が合う。


「おはようございます、主様」


いつもと変わらない声だった。


アルは一瞬遅れてから返事をした。


「お、おはよう」


セリーが瞬きをする。


「どうかなさいましたか?」


「いや、なんでもない」


そう答えたところで、自分でも説得力がないと思った。


セリーはアルの顔を数秒見つめたあと、扉を大きく開ける。


「朝食ができています」


「うん」


アルが食堂へ入ると、テーブルには二人分の食事が並んでいた。


野菜と豆を煮込んだスープ、薄く焼いた卵、パン、それから小さく切った果物。特別豪華でも簡素でもない、これまで何度も一緒に食べてきた朝食だった。


その光景を見ただけで、アルの肩から少し力が抜けた。


昨日、自分が好きだと伝えたからといって、朝が別のものになるわけではない。


「主様」


椅子へ向かおうとしたアルへ、セリーが声をかけた。


「ん?」


「私は、こちらへ座りたいです」


セリーが示したのは、アルの隣だった。


一瞬、胸が強く鳴る。


けれどアルは、その意味を勝手に大きくしないよう意識しながら頷いた。


「うん。俺も隣がいい」


二人は並んで座った。


肩が触れるほど近くはない。手を伸ばせば届く程度の、最近では珍しくなくなった距離だった。


セリーがスープへ匙を入れる。


アルも食べ始めた。


しばらくは、いつもの朝と同じように食事をしていた。


しかしアルは、自分が何度もセリーを横目で見ていることに気づいている。


三度目くらいで、とうとうセリーがこちらを向いた。


「主様」


「はい」


なぜか敬語になった。


セリーの目元が少しだけ柔らかくなる。


「何度もこちらをご覧になっています」


「……気づいてた?」


「はい」


「ごめん」


「謝られることではありません。昨日、私は主様を見たいので見ていると申し上げました」


そうだった。


むしろ、そこから始まったのである。


アルは匙を置き、少し迷ったあとで正直に話すことにした。


「昨日、俺が言ったことで、今日から何か変えなきゃいけないのかなって、朝からちょっと考えてた」


セリーも匙を置いた。


「何を変えるのでしょうか?」


「それが分からないから困ってた」


アルが苦笑すると、セリーはしばらく考えた。


「私は、今朝も主様と朝食を食べたいと思いました」


「うん」


「隣に座りたいとも思いました」


「それも嬉しい」


「ですが、昨日より近くへ座らなければならないとは思いませんでした」


アルは彼女の言葉を聞きながら、胸の奥にあった落ち着かなさが少しずつほどけていくのを感じた。


「俺も、そうかも」


好きだと伝えた。


だから今日から毎日、昨日より関係を進めなければならないわけではない。


手を握った翌日にもっと強く抱きしめる必要もなければ、気持ちを伝えた翌日に関係へ名前を付ける必要もない。


「昨日の続きだからって、今日を決めなくていいんだな」


「はい。私はそう思います」


セリーはそう答えると、少しだけ間を置いた。


「それに、主様が私を好きだとおっしゃったことは、今日も嬉しいです」


アルは危うくスープをむせそうになった。


「急に言うなよ」


「昨日のことについてお話ししていましたので、急ではないと思います」


「セリーに悪気がないのが一番困る」


「困らせたいわけではありません」


「分かってる」


アルは顔が熱くなるのを感じながら、再び匙を取った。


隣を見ると、セリーもほんの少し頬が赤い。


それに気づいた瞬間、アルの緊張は不思議と軽くなった。


自分だけが戸惑っているわけではない。


セリーもまた、自分の中に生まれているものを確かめながら、今日を過ごしている。


二人はそれ以上、昨日の言葉について話さなかった。


朝食はいつものように続き、セリーが作ったスープはいつものように美味しかった。


          ◇


朝食を終えたあと、アルは資料室へ向かった。


王立魔導研究院から新しい回答はまだ届いていない。


エルに確認しても、返ってきたのは「照会継続中」という情報だけだった。


「じゃあ、待つしかないな」


『はい』


「旧保養施設は?」


『昨夜も新規の発光、音、受動計測値の明確な変化は確認されていません。視覚基準具の位置についても、観測開始前後で変化なしと記録されています』


「了解」


資料室にはブラートがいた。


窓際の机に座り、リューネから届いた支援窓口の試行記録を読んでいる。


「おはようございます」


「おはよう。今日はそっち?」


「はい。旧保養施設については現場から判断依頼がありませんので、こちらを」


アルは向かいへ座った。


机上には、町の窓口職員がまとめた数日分の簡単な報告がある。


過去記録を使うかどうかについて、最初に尋ねられた方が安心する人もいれば、毎回選ばされることを負担に感じる人もいる。


職員から説明だけしてもらい、自分から必要なときに申し出たい人もいる。


一方で、自分から言うのは難しいため、職員側から確認してほしいという人もいる。


今のところ、一つの方式へ統一できる結果にはなっていなかった。


「うまくいってないようにも見えるな」


アルが言うと、ブラートは紙から目を上げた。


「そう思われますか?」


「昔の俺なら、たぶん」


アルは報告の一枚を手に取った。


「今は、違う人が違うことを望んでるって分かっただけでも意味がある気がする」


ブラートは小さく頷いた。


「町の職員たちも似た結論のようです。こちらをご覧ください」


示された紙には、職員会議で出た意見が記録されている。


『方式を一つに決めることを急がない』


『相談者が選択方法そのものを選べる余地を残す』


『選ばないことも可能とする』


『緊急時は別途安全確認を優先するが、その理由を記録する』


さらにその下には、別の職員からの異論も残されていた。


『選択肢を増やしすぎれば、相談に来ただけの人へ新しい負担を作る可能性がある』


アルはその一文で手を止めた。


「これ、誰が言ったの?」


『職員名は共有対象外です』


エルが答える。


「そっか。それならそれでいい」


名前が分からなくても、意見そのものは読める。


「でも大事だと思う。選べるようにしようとして、選ぶ仕事を増やしたら意味ないもんな」


ブラートが静かに笑った。


「アルがそれを言えるようになったのは、かなり大きな変化ですね」


「昔の俺、そんなに何でも決めさせてた?」


「王太子時代はむしろ逆です。ご自分で決めすぎていました」


「そっちか」


「今は他人へ決定を戻すことを大切にされていますが、それが行きすぎれば、『自分で決めろ』という別の命令にもなり得ます」


アルは背もたれへ身体を預けた。


「難しいな」


「難しいから、町の人々が試しているのでしょう」


ブラートは報告書を閉じた。


「そして、今のところアルの許可を求めてはいません」


「それ、わざわざ言う?」


「少し嬉しそうな顔をされると思いまして」


「……してる?」


「はい」


アルは否定できずに笑った。


町が、自分のいないところで迷っている。


それを以前なら不安に思ったかもしれない。


今は、迷えることそのものが大切なのだと感じる。


誰か一人の正解に従うだけなら、迷う必要はない。


けれど、その正解が間違ったとき、誰も止められなくなる。


「ブラート」


「はい」


「俺がまた何でも決め始めたら、止めてね」


「以前から止めています」


「そうだった」


二人の間に小さな笑いが生まれた。


          ◇


昼前、旧保養施設ではフェリクスが資料机の前で珍しく腕を組んだまま動かなかった。


目の前には、古い設備記録が三枚並んでいる。


ガルムが部屋へ入ってきても、すぐには気づかなかったほど集中していた。


「何か見つけたか?」


声を掛けられて、フェリクスが顔を上げる。


「見つけた、というほどではありません」


「お前がそう言うなら珍しいな」


「私だって慎重になることはありますよ」


「最近はな」


フェリクスは反論せず、一枚の資料をガルムへ向けた。


「外部確認札について、同じ名称はまだ見つかっていません。ただ、『確認具』という語が別の設備記録にあります」


「同じものか?」


「分かりません。だから困ってます」


ガルムが資料を見る。


記録は古く、端が欠けている。判読可能な箇所には、設備を開く前に外部から状態を確認し、確認できない場合は作業を止めるという趣旨の文言が残っていた。


ただし、施設名は欠けている。


設備の種類も完全には分からない。


「使える情報なのか?」


「今すぐ現場へ使うという意味なら、ほぼ使えません」


フェリクスは椅子へ座り直した。


「でも、『確認できないなら開けない』という考え方が、少なくとも一つの設備だけの特殊な手順ではなかった可能性はあります」


「可能性、か」


「はい。それ以上は言えません」


そこへリディアとトーマスが入ってきた。


二人は朝の基準具確認を終えたところらしく、トーマスが位置記録を持っている。


「何かありましたか?」


リディアが尋ねると、フェリクスは資料を見せた。


説明を聞いたリディアは、すぐに現在の西側壁へ話をつなげなかった。


「施設も設備も不明なら、一般的な安全思想の参考程度でしょうか」


「私もそう思います」


フェリクスが素直に答える。


トーマスは資料を覗き込んだあと、少し考えてから尋ねた。


「これって、今の観測記録に何か追加した方がいいんですか?」


「しなくていい」


ガルムが答えるより先に、フェリクスが言った。


三人の視線が集まり、フェリクスは少し居心地悪そうに眉を上げる。


「何です?」


「いや」


ガルムが口元を緩めた。


「続けろ」


フェリクスは咳払いしてから説明した。


「今の観測は、何が起きているかを見るためのものです。この資料を読んだからといって、『確認具に関係しそうな変化を探そう』なんて始めたら、観測する側が資料に引っ張られます。少なくとも現物との関係が分かるまでは、今の項目を変える理由はないでしょう」


リディアが頷く。


「同意します」


トーマスも納得したように記録紙を抱え直した。


「じゃあ、いつも通りで」


「ああ」


ガルムが答えた。


そのあと、トーマスは基準具の位置確認について報告した。


昨夜から今朝にかけて位置変化はない。


視認性にも問題なし。


ただし、一人の観測者から「数字を確認しようとすると、以前より基準具そのものへ意識が向きすぎる」という意見が出ていた。


「それは残そう」


リディアが言う。


「方法を細かくしたことで観測しやすくなる部分と、逆に視線が誘導される部分があるなら、両方必要です」


「基準具を減らしますか?」


トーマスが尋ねる。


「今すぐ変えなくていいでしょう。まず数日分の意見を集めてから考えたいです」


ガルムも頷いた。


「危険が出たなら止める。使いにくいだけなら、少し様子を見る。ただし『新しい方法だから慣れろ』で押し切るな」


「はい」


トーマスはその言葉も記録へ加えた。


自分が提案した方法に問題があるかもしれない。


それでも、彼の顔に落胆はなかった。


良い方法を提案することより、使える方法へ直していく方が大切だと、この数日の経験で分かり始めていた。


          ◇


午後になると、塔へ一通の短い連絡が届いた。


王立魔導研究院からだった。


アルは中庭でセリーと茶を飲んでいたため、エルには緊急性だけを先に確認した。


『緊急ではありません。ただし、照会中だった資料について進展があります』


「じゃあ読む」


セリーが持っていた茶器を置き、アルも同じように机へ戻した。


エルの光が二人の間へ小さな文字列を映し出す。


『「外部状態確認部に関する用語照会について、関連資料の一部が別分類へ移管されていることを確認。現時点で原施設との照合が完了していないため、設備同一性について回答不能」』


アルは一度そこで読み止めた。


「回答不能、か」


「はい」


セリーが静かに続きを待つ。


エルが次の文章を表示した。


『「索引上確認可能な語として、『外部状態確認部』『確認札』『状態表示窓』『開口前確認』『保持状態』『再確認待機』を確認。ただし、各語が同一設備または同一手順に属することは現時点で未確認」』


アルは目を細めた。


昨日まで自分たちが持っていた「外部確認札」という言葉と、「確認札」という言葉が近い。


しかし、研究院自身が同一設備とは言っていない。


「続きは?」


『以上です。関連別紙については、閲覧権限および移管経路を引き続き確認中とのことです』


アルは少し驚いた。


研究院側で確認されている「確認札不在時――開口保留」や「代替確認手順は別紙参照」という索引文言は、今回の回答には含まれていない。


もちろん、アルにはそれを知る方法がない。


彼が知っているのは、今届いた内容だけだった。


「思ったより少ないな」


『はい』


「でも、これでいいのか」


セリーがアルを見る。


「なぜでしょう?」


「向こうも、分かってないところを分かったことにしないで送ってきてるから」


アルは椅子へ座り直した。


「俺たちが欲しいのは、早い答えじゃない。間違って壁を開けないための情報だし」


「では、追加で問い合わせますか?」


アルはすぐには答えなかった。


確認札。


開口前確認。


保持状態。


再確認待機。


気になる言葉はいくつもある。


けれど、一つずつ意味を尋ね始めれば、研究院側でも断片だけが先に返ってくるかもしれない。


「今は待とう」


「はい」


「別紙を確認してくれてるなら、その結果を先に見たい」


エルが確認する。


『現場へは全文を共有しますか?』


「うん。研究院の注意書きも含めてそのまま。俺の解釈は付けなくていい」


『承知しました』


通信が終わる。


アルは茶器を持ち上げたものの、中身が少し冷めていることに気づいた。


「冷めちゃった」


「淹れ直しますか?」


「セリーは?」


「私は、このままでも構いません」


「じゃあ俺もこのままでいい」


二人で少し冷めた茶を飲む。


研究院から新しい言葉が届いた。


けれど、午後の中庭は何も変わらない。


風が木々を揺らし、遠くで鳥が鳴いている。


「主様」


「ん?」


「昨日のことを、今お尋ねしてもよろしいですか?」


アルの手が止まった。


資料よりよほど緊張する。


「うん」


セリーはすぐには続けなかった。


両手で茶器を包み、しばらく水面を見つめている。


「主様は、私へ答えを求めないとおっしゃいました」


「うん」


「ですが、私が何かをお伝えしたくなった場合は、お話ししてもよろしいのでしょうか」


アルは一瞬、言葉を失った。


「もちろん」


声が少し早くなったため、アルは呼吸を整える。


「もちろん聞きたい。でも、今言わなきゃいけないって意味じゃないからね」


「分かっています」


セリーは顔を上げた。


「私は昨日から、主様に好きだと言っていただいたことを何度も考えました」


アルは黙って聞いた。


胸は速く打っている。


それでも、続きを促す言葉は口にしなかった。


「嬉しいという気持ちは、今も変わっていません。主様と食事をしたいと思いますし、一緒に歩きたいと思います。主様が別の場所へ長く行かれるのであれば、私は寂しいと思うでしょう」


セリーの指が、茶器の縁をゆっくりなぞる。


「主様に触れたいと思うこともあります。触れずに隣へいたいと思う日もあります。主様が他の方とお話ししているからといって、いつも嫌だとは思いません」


最後の一言に、アルは少しだけ笑った。


「そこまで確認したの?」


「恋愛について書かれた記録を少し読みました」


「待って。何読んだの?」


「一般的なものです」


「そこじゃなくて」


アルが思わず身を乗り出すと、セリーの口元に小さな笑みが浮かんだ。


緊張していた空気が少しだけ緩む。


「嫉妬しなければ恋ではない、という記述もありました」


「それ、絶対参考にしない方がいいと思う」


「私もそう思いました」


「ならよかった」


二人で笑ったあと、セリーは再び静かな表情へ戻った。


「私は、自分が主様を好きではないとは思いません」


アルは息を止めかけた。


けれどセリーは、そこですぐに「好きです」と続けなかった。


「ただ、私が今感じているものを、主様がおっしゃった『好き』と同じ言葉で呼んでよいのか、まだ分かりません」


「うん」


「それを確かめるために、何かをしなければならないとも思いたくありません」


「うん」


アルはゆっくり頷いた。


「しなくていいよ」


セリーの肩から、わずかに力が抜けたように見えた。


「ありがとうございます」


「でも、一つだけいい?」


「はい」


「今言ってくれたこと、すごく嬉しい」


アルは隠さず笑った。


「好きじゃないとは思わないって、それだけでも俺にはかなり嬉しい」


セリーは一瞬目を伏せ、その頬が淡く染まる。


「そうなのですね」


「うん。だから、ありがとう」


二人の間に沈黙が落ちた。


けれど、それは答えを待つための沈黙ではない。


セリーはしばらくして右手を机へ置いた。


アルの左手とは少し離れている。


アルは動かなかった。


やがてセリーの方から距離を縮め、指先がアルの手の甲へ触れた。


「今日は、こうしたいです」


「うん」


アルは手のひらを返した。


セリーの指がその上へ重なる。


握るかどうかは、セリーに任せた。


しばらく触れていただけだったが、やがて彼女の指がゆっくりとアルの手を握る。


アルも同じくらいの力で握り返した。


それ以上は進まなかった。


それでよかった。


          ◇


夕方、旧保養施設へ研究院の回答が共有された。


フェリクスは「確認札」という語を見た瞬間に資料机へ向かったものの、途中で自分から歩みを緩めた。


ガルムがそれを横目で見ている。


「何ですか、その顔」


「止めなくて済んだと思ってな」


「私だって学習します」


「そうだな」


フェリクスは椅子へ座り、昨日見つけた「外部確認札挿入部」の図面と、研究院から届いた用語一覧を並べた。


リディアも隣へ座る。


「似ていますね」


「ええ。でも研究院側も、各語が同一設備に属するか未確認と言っている」


フェリクスは紙へ大きく「未確認」と書いた。


ガルムが眉を上げる。


「ずいぶん大きく書いたな」


「自分への警告です」


「それなら役に立ちそうだ」


フェリクスは笑いながらも、その文字を消さなかった。


「外部確認札」と「確認札」。


「外部確認札挿入部」と「外部状態確認部」。


「状態表示窓」と、現在観測している三つの表示部。


いずれも似ている。


けれど、似ていることと同じであることの間には、まだ大きな空白が残っている。


「現場側は変えません」


リディアが言った。


「観測方法も、壁への接触条件も、今まで通りです。新しい用語が増えたことだけで、観測対象を増やす理由はありません」


「異論なし」


ガルムが答える。


フェリクスも頷いた。


「別紙が出るまで、資料側を探します」


「開け方を探すなよ」


「探しません」


フェリクスは少し間を置き、真面目な表情で付け加えた。


「今知りたいのは、開ける前に何を確認していたのかです」


ガルムはそれ以上何も言わなかった。


その言葉が、現在の調査方針と一致しているからだ。


          ◇


夜。


塔の中庭には薄い雲が流れていた。


アルとセリーは食後の散歩へ出ていたが、今夜は手をつないでいない。


昼間に長く触れていたから、という理由ではない。


ただ、二人とも自然に並んで歩いていた。


アルは昼間の会話を何度も思い出している。


セリーは、自分がアルを好きではないとは思わないと言った。


それは恋人になるという返事ではない。


恋愛感情を確定した言葉でもない。


それでもアルにとっては十分すぎるほど嬉しかった。


(焦らなくていい)


以前なら、その先を知りたくなっていたかもしれない。


いつ答えが出るのか。


自分と同じ気持ちなのか。


いつ関係が変わるのか。


けれど、今はその問いをセリーへ渡したくない。


「主様」


「ん?」


「嬉しそうです」


「分かる?」


「はい」


アルは隠すのをやめた。


「昼のこと思い出してた」


「私もです」


「そっか」


二人は歩き続ける。


少し先で、夜露を受けた葉が月明かりを反射していた。


「セリー」


「はい」


「明日、俺の気持ちが変わってなかったって報告しなくてもいいからね」


セリーが足を止めた。


アルも数歩先で止まり、振り返る。


「昨日、朝から確認しなくていいって言われたからさ。俺も、毎日好きって言って証明しなきゃいけないわけじゃないと思って」


セリーは少し考えてから、ゆっくり頷いた。


「はい」


「でも言いたくなったら言うかも」


「それは構いません」


「セリーも、何か言いたくなったら言って」


「はい」


それだけ確認すると、二人はまた並んで歩き始めた。


決まりにはしない。


毎日の義務にも、確認作業にも変えない。


昨日伝えた気持ちが、今日の二人を拘束する命令にならないようにする。


それでも、昨日の言葉が消えたわけではない。


塔へ戻る直前、セリーがアルの袖を軽く摘まんだ。


手を握るのではない。


ほんの少し、布越しにつながるだけだった。


アルは何も尋ねず、歩調を少しだけ緩める。


セリーも袖を離さなかった。


研究院では、まだ関連別紙の確認が続いている。


旧保養施設では、今夜も観測が始まっている。


壁の向こうに何があるのかは分からず、確認札の意味も、開口前に何を確かめていたのかも判明していない。


それでも、分からないことを急いで埋めなくても、時間は止まらない。


調査も、人も、関係も、それぞれ違う速さで進んでいく。


そして塔の扉をくぐるまで、セリーの指はアルの袖を静かに摘まんだままだった。

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