第117話 開けないために知ること
王立魔導研究院から追加の回答が届いたのは、翌日の昼を少し過ぎた頃だった。
そのときアルは塔の資料室にはおらず、中庭の片隅で古くなった木製の椅子を眺めていた。背もたれの一部が緩んでいるらしく、セリーが状態を確かめるために椅子を裏返している。
「これ、直せそう?」
「接合部が緩んでいるだけですので、補修は可能だと思います。ただし、木材そのものにも劣化があります」
セリーは接合部分を指先で確認したあと、椅子をゆっくり元へ戻した。
「修理して使い続けることもできますが、新しい椅子へ交換することもできます」
「セリーはどうしたい?」
「私ですか?」
「うん。俺だけが座る椅子じゃないだろ」
問いかけられたセリーは、椅子とアルを交互に見た。以前なら、使用可能かどうか、補修効率がどうかという基準を先に答えていたかもしれない。
今は少し考えてから、背もたれへ手を添える。
「私は、直してもう少し使いたいです」
「理由聞いてもいい?」
「はい。長くここにありますし、主様と何度も座りましたので」
アルの口元が自然に緩んだ。
「じゃあ直そう」
「主様は交換したかったのではありませんか?」
「別に。俺もこれ好きだよ」
アルは椅子の座面を軽く撫でた。塔へ来たばかりの頃、この中庭そのものが自分を閉じ込める場所の一部に思えていた時期がある。それが今では、ここで茶を飲み、セリーと話し、ときには何もせず並んで座る時間を好むようになっていた。
椅子も同じだった。
古いから残すのではない。
昔からあるものだから守らなければならないわけでもない。
今も使いたいと思うから、直して残す。
そんな単純な理由で十分なのだろう。
「では、午後に補修します」
「俺もやるよ」
「主様は木工補修がお得意でしたか?」
「……見て覚える」
「私が行った方が早いと思います」
「それでも手伝いたいんだけど」
セリーは少し考えてから頷いた。
「では、主様には木材を押さえていただきます」
「そこからか」
アルが笑ったところで、左手首のエルが淡く光った。
『アル。王立魔導研究院から追加回答を受信しました』
アルの表情が変わる。
しかし、すぐに資料室へ走り出すことはしなかった。
「緊急?」
『緊急性を示す記載はありません。照会中だった関連別紙について、閲覧可能範囲が確定したとのことです』
「分かった」
アルはセリーを見る。
「椅子は?」
「逃げません」
「じゃあ、あとで一緒に直そう」
「はい」
二人は並んで資料室へ向かった。
◇
資料室には、すでにブラートとアンナマリーがいた。
二人とも研究院からの回答をエル経由で受け取っていたらしく、机の上にはこれまでの設備資料と照会内容が整理されている。
アルが入ると、アンナマリーが顔を上げた。
「まだ全文は読んでいないわ。あなたが来てからの方がいいと思って」
「ありがとう。でも、俺を待たなくてもよかったのに」
「そういう意味ではないわよ」
アンナマリーは苦笑しながら、手元の紙を軽く叩いた。
「今回の資料には、これまでの照会と直接つながる部分があるでしょう。別々に読んで、最初の印象だけで話が分かれるより、一度同じところを読んでから意見を分けた方がいいと思っただけ」
「それなら分かった」
アルは向かい側へ座り、セリーはその隣へ椅子を置いた。
最近では、この配置について誰も何も言わない。
ブラートが一瞬だけ二人を見たものの、すぐに資料へ視線を戻した。
エルが机の中央へ淡い文字を投影する。
『王立魔導研究院・旧資料保管部より回答。前回照会における「外部状態確認部」関連資料について、付属別紙の一部を確認。原施設照合は継続中であり、照会対象施設との同一性は保証されない』
最初から明確な注意書きが入っている。
アルは黙って続きを待った。
『当該別紙は、設備管理資料から保護行政記録群へ移管された資料の写しと推定される。ただし、移管時の分類変更理由は現存索引から確認できない』
アンナマリーが小さく息を吐いた。
「設備の資料なのに、行政記録側へ移されたのね」
「理由は分からない、か」
アルはそこを確認した。
『はい。研究院も理由を確定していません』
エルが続ける。
『確認可能部分――「外部状態確認部において確認札を認めない場合、開口を保留し、保持状態を変更せず、代替確認手順へ移行すること」』
部屋の空気がわずかに変わった。
アルは反射的に口を開きかけたが、そこで止めた。
確認札がない。
開口を保留する。
保持状態を変えない。
代替確認手順へ移る。
それらの言葉が、現在の旧保養施設と結びつきそうに見える。
だからこそ、すぐに結びつけてはいけない。
「続きがある?」
『あります』
エルの投影文字が切り替わる。
『「確認札不在をもって対象不在と判断してはならない。表示状態のみをもって内部状態を断定してはならない。代替確認完了前の開口、保持解除、内部器操作を禁ず」』
ブラートの眉がわずかに動いた。
アンナマリーはすぐに紙へ書き写すのではなく、最後まで聞く姿勢を保っている。
『次項。「確認札の不在には、未装着、脱落、破損、表示不能、確認位置不一致、その他の理由を含む。理由不明の場合は不明として記録し、推定理由を確定記録へ置換しないこと」』
アルは椅子の背へ身体を預けた。
「……思ったより、今の俺たちがやってることに近いな」
アンナマリーがすぐに返す。
「考え方としてはね。でも、それが今調べている施設の手順だったかは別よ」
「うん」
アルは頷いた。
その線引きを最初に言ってもらえたことがありがたかった。
ブラートがエルへ尋ねる。
「代替確認手順の内容は?」
『一部のみ閲覧許可されています』
「一部?」
『個人識別情報、および保護対象個別記録へ接続する参照番号が含まれる部分は非開示です。手順部分のみ回答されています』
アルはそこで少し安堵した。
今必要なのは誰がそこにいたのかではない。
何を確認せずに開けてはいけなかったのかである。
『代替確認手順。第一段階――外部状態確認部の表示、確認札受け、補助表示窓、周辺保持線の状態を、接触を伴わない方法で確認する』
セリーが静かに聞いている。
『第二段階――設備記録と直近勤務記録を照合し、確認札の最終確認時刻、保持状態変更記録、内部器操作記録の有無を確認する』
アルの視線が少し鋭くなった。
現在の自分たちも、設備だけを見ずに夜間勤務記録や過去の変更履歴を調べている。
しかし、それが同じ設備だから似ているのか、単に安全な確認方法として共通しているのかは分からない。
『第三段階――記録不一致、確認不能、または保持対象の状態が不明な場合、現場判断による開口を行わず、管理担当および保護担当の双方へ照会する』
そこで回答文は一度途切れた。
アルは次を待ったが、エルは続けない。
「終わり?」
『閲覧可能な手順本文はここまでです。この後に参照番号がありますが非開示です』
「そっか」
アルは机の上へ視線を落とした。
今までより大きな情報が届いた。
それでも、答えではない。
むしろ新しい疑問が増えている。
「保持対象って、この資料でも出てきたな」
アルが言うと、アンナマリーが頷いた。
「ええ。でも、これまで確認した通り、この言葉だけで人を意味するとは限らないわ。薬品、記録、移送待機中の何か、設備が守っていたもの全般に使われた例がある」
「分かってる」
「ならいいの」
責める口調ではない。
確認するための言葉だった。
ブラートが別の資料を手元へ寄せる。
「気になるのは、設備管理資料から保護行政記録群へ移された理由ですね」
「うん」
アルもそこは気になっていた。
設備だけの手順なら、なぜ行政記録側へ分類されたのか。
ただし、その疑問から「人がいたからだ」と飛躍することはできない。
「理由を追加で聞く?」
アンナマリーの問いに、アルはすぐ答えなかった。
以前なら、気になったことを全部まとめて照会していたかもしれない。
今は、何を知る必要があるのかを考える。
「研究院がもう移管理由を確認してるなら、その結果は待ちたい。でも、新しい質問は今すぐ増やさなくていいと思う」
「私も賛成」
アンナマリーが答える。
ブラートも異論はないようだった。
「現場には?」
「全文共有。非開示部分があることも、施設同一性が未確認なことも一緒に」
アルは少し考え、付け加えた。
「それと、俺たちが今やってる方法と似てるっていう感想は送らなくていい」
ブラートが口元を緩める。
「現場が自分たちで読むためですね」
「うん。俺が先に『似てる』って言ったら、似てるところばかり探すかもしれないから」
エルが確認する。
『回答原文と既存の注意書きのみを共有します』
「お願い」
通信処理が始まる。
その間、セリーはずっと黙っていた。
アルは隣を見た。
「セリーはどう思う?」
「私は、今の段階で壁を開けない理由が一つ増えたように感じます」
「開ける理由じゃなくて?」
「はい」
セリーはまっすぐ答えた。
「もしこの資料が現在の施設と関係していなかったとしても、確認できないものを確認できたことにして開ける必要はありません。関係していた場合には、なおさらです」
アルはしばらく彼女を見つめ、それから頷いた。
「俺もそう思う」
知ることが増えたから、できることを増やす。
必ずしもそうではない。
知ったことで、まだしてはいけないことがはっきりする場合もある。
◇
旧保養施設へ回答が届いた頃、ガルムたちは昼の観測記録を確認していた。
新しく導入した視覚基準具については、早くも意見が分かれている。
位置を説明しやすくなったという兵士がいる一方で、数字を確認しようとして視線が基準具へ寄りすぎるという者もいる。
トーマスはその両方を紙へ残していた。
「自分で提案した方法の悪いところまで、よく書けるな」
ガルムが言うと、トーマスは少し困ったように笑った。
「悪いところを書かないと、あとで俺の提案が正しかったみたいになるじゃないですか」
「正しくしたかったんじゃないのか?」
「使いやすくしたかったんです」
答えを聞いたリディアが、資料から顔を上げた。
「その違いは大切ですね」
「でも、数字がある方が報告は楽なんですよ。だから、なくした方がいいとも思ってません」
トーマスは自分の記録を指した。
「見る人によって邪魔になるなら、置く数とか高さとか、まだ変えられるかもしれないですし」
「今夜までは変えない」
ガルムが決める。
「昨日と同じ条件でもう一度取る。そのうえで、危険や明確な観測阻害が出たら即停止。それ以外は明日の昼に比較する」
「了解です」
そこへエル経由の共有資料が届いた。
フェリクスが真っ先に反応したものの、手を伸ばす前にガルムを見る。
「読んでいいですか?」
「俺の許可が必要なのか?」
「いや、必要ないですけど、最近あなたが私を見る目がですね」
「勝手に読め」
「はいはい」
フェリクスは共有文を開いた。
リディアとガルムも、それぞれ同じ資料を確認する。
読み進めるうち、フェリクスの表情からいつもの軽さが消えていった。
「……これは」
口にしたところで、自分から止まる。
ガルムが横目を向けた。
「何だ?」
「言い切りそうになりました」
「何を?」
「今の西側壁も同じ手順だったんじゃないか、と」
フェリクスは自嘲するように笑った。
「危ないですね。文章があまりにも今の状況と似て見える」
リディアは回答文の冒頭を指で示した。
「原施設照合未了です」
「はい。大きく書きますか」
「何をです?」
「未確認」
ガルムが鼻で笑った。
「昨日も書いてただろ」
「今日の分も必要です」
フェリクスは本当に新しい紙へ「施設同一性未確認」と大きく記した。
トーマスはその様子を見ながら、研究院の回答をゆっくり読んでいる。
「確認札がないとき、開けないってことですか?」
フェリクスはすぐには答えず、原文を見直した。
「この資料では、『確認札を認めない場合は開口を保留して代替確認手順へ移る』です。札がないから永久に開けない、ではありません」
「ああ……そうか」
「しかも、確認札不在には脱落や破損、表示不能なんかも含まれる。だから『札がない=中に何もない』ともしていない」
トーマスは頷きながら、もう一度文章を読む。
「じゃあ、今の壁に札があるか探します?」
「探さない」
今度はガルムとフェリクスの声がほぼ同時に重なった。
二人は互いを見た。
フェリクスが肩をすくめる。
「どうぞ、隊長」
「今までの観測範囲で自然に見えるものは記録する。札を探すために近づく、照らす、触る、壁の隙間を覗く、位置を変える。そういうことはしない」
「分かりました」
トーマスは素直に頷いた。
リディアが補足する。
「資料に『確認札』と書いてあるからといって、現在の施設に同じものが残っているとも限りません。先に探すものを決めてしまうと、それらしく見えるものを札だと思い込む可能性があります」
「はい」
フェリクスが資料の第三段階を指す。
「むしろ今重要なのはこっちでしょう。記録不一致、確認不能、保持対象状態不明なら、現場判断で開けない」
「ただし、この施設の手順だったとはまだ言えない」
ガルムが釘を刺す。
「もちろん」
フェリクスは珍しく即答した。
「だから、今の調査条件は変えない。それでいいと思います」
ガルムは研究院の回答を閉じた。
「なら、今夜も同じだ。壁は開けない。音を出して反応を試さない。強い魔力走査もしない。基準具は昨日と同じ位置。観測者は先に自分の記録を書いてから比較する」
「了解です」
部屋にいた全員が、それぞれの役割へ戻っていく。
新しい資料が届いた。
それでも、現場で急にやることが増えたわけではなかった。
◇
同じ頃、施設の別室では、名を明かしていない子供が床へ座っていた。
低い机の上には木札があり、その少し離れた場所に紙で作った「みち」が置かれている。
昨日、子供は折れた部分を直すかどうか迷い、結局そのままにした。
今日になっても折れ目は残っている。
ナディアは机の向かい側ではなく、少し離れた椅子へ座って布を畳んでいた。子供から声を掛けられない限り、紙のことを尋ねるつもりはない。
やがて子供が「みち」を持ち上げた。
折れた部分を見つめ、指で軽く押す。
「ナディア」
「なあに?」
「これ、なおす」
「うん」
ナディアはそれだけ答えた。
子供は少し待った。
何か質問されると思ったのかもしれない。
しかし、ナディアは布を畳み続けている。
「きのうは、なおさなかった」
「うん」
「きょう、なおしていい?」
「もちろん。あなたのものだからね」
子供は紙を見た。
「きのう、まちがい?」
ナディアは手を止めた。
この問いには、きちんと答えた方がいい。
「昨日は、昨日のあなたが直さなかった。それでいいと思うよ」
「きょうは?」
「今日は、今日のあなたが直したいんでしょう?」
「うん」
「だったら直していい。昨日が間違いになるわけじゃないよ」
子供はしばらく黙っていた。
それから折れた部分をゆっくり開き、ナディアが以前用意していた紙用の糊へ目を向ける。
「つかっていい?」
「いいよ。少しだけ付ければ大丈夫」
子供は慎重に糊を使った。
折れた場所へ薄い紙を重ねる。
元とまったく同じ形には戻らない。
補修したところだけ、少し厚くなった。
子供はそれを見て眉を寄せた。
「ちがう」
「前とは少し違うね」
「なおしたのに」
「直したら、前とまったく同じになるとは限らないよ」
ナディアはそう答えたあと、余計な意味を加えなかった。
紙の話は紙の話として置いておく。
子供が何か別のものと結びつけるなら、それは子供自身が話すときでいい。
「でも、みち?」
子供が尋ねる。
「あなたが『みち』だと思うなら、私はそう呼ぶよ」
子供は補修した紙を両手で持ち上げた。
しばらく眺めたあと、ほんの少し笑った。
「みち」
「うん」
「ちがうけど、みち」
「そうだね」
子供はそれを机へ戻した。
木札の隣ではなく、今日は少し離れた場所だった。
ナディアは位置を直さない。
その距離の意味も尋ねない。
記録用紙にも書かなかった。
子供が紙を補修したという日常の出来事を、保護記録へ変える必要はないからだ。
◇
夕方、アルとセリーは約束していた椅子の補修を始めた。
中庭には傾いた陽が差し込み、古い石床の上へ二人の影が長く伸びている。
セリーが接合部へ補修材を入れ、アルは言われた通り木材を押さえていた。
「俺、本当に押さえてるだけだな」
「動かれると困りますので、重要です」
「それ、慰めてない?」
「事実です」
アルは笑いながら、ずれないよう背もたれを支え続けた。
セリーの顔はすぐ近くにある。
細かな作業へ集中しているため、彼女はアルを見ていない。
昨日までなら、それだけで特に意識しなかった距離なのかもしれない。
今は違う。
好きだと伝えたことを、お互いが知っている。
その事実があるだけで、同じ距離でも少し違って感じられる。
(でも、何かしなきゃいけないわけじゃない)
アルは自分にそう言い聞かせるというより、確認するように思った。
昨日、セリーは自分の気持ちを話してくれた。
好きではないとは思わない。
けれど、同じ「好き」という言葉で呼べるかはまだ分からない。
それでいい。
今は一緒に椅子を直している。
「主様」
「ん?」
「力が緩んでいます」
「あ、ごめん」
アルが慌てて支え直すと、セリーが少しだけ笑った。
「何か考えておられましたか?」
「セリーのこと」
言ってから、今度は昨日ほど慌てなかった。
セリーの手が一瞬止まる。
「そうなのですか」
「うん。でも作業の邪魔するほど考えるのは駄目だな」
「私のことを考えないでくださいとは申しません」
セリーは再び作業へ戻った。
「ですが、今は椅子も押さえてください」
「はい」
しばらくして補修が終わる。
接合部が安定するまでは座れないため、二人は少し離れた石段へ並んで腰を下ろした。
いつもの椅子は目の前にある。
「直ったな」
「まだ補修材が安定していませんので、使用は明日以降です」
「明日座れる?」
「状態を確認してからです」
「分かった」
アルは夕暮れの中庭を見渡した。
研究院から届いた資料のことが頭の片隅には残っている。
確認札。
保持状態。
代替確認。
現場判断による開口を行わないという古い手順。
知りたいことは増えた。
それでも今すぐ何かをしなければならないわけではない。
「セリー」
「はい」
「古いものを残すのって、難しいな」
セリーが隣からアルを見る。
「椅子のことでしょうか?」
「椅子も。資料も。制度も、人の記憶も」
アルは補修した椅子へ目を向けた。
「残ってるから正しいとは限らない。でも、古いから捨てていいわけでもない。直したら前と同じになるとも限らない」
少し離れた場所では、風に揺れた葉が石床へ一枚落ちた。
セリーはしばらく考えてから口を開く。
「同じでなくても、残したいと思うことはあるのではないでしょうか」
「うん」
「この椅子も、修理前と同じではありません」
「そうだな」
「ですが、私は明日も使いたいです」
アルは笑った。
「俺も」
セリーの手が石段の上へ置かれる。
アルの手とは少し離れていた。
昨日なら、その距離をどうするのか考えたかもしれない。
今日は考えなかった。
しばらく二人で夕暮れを眺めていると、セリーの小指が石の上を少しだけ動き、アルの小指へ触れた。
アルはその触れ方をそのまま受け取った。
握らない。
離れもしない。
「今日はこれ?」
「はい。今は、これがいいです」
「俺も」
空の色がゆっくり変わっていく。
◇
その夜、旧保養施設では観測が続けられていた。
視覚基準具は前夜と同じ位置に置かれている。
二人の観測担当者は互いの記録を見ないまま、それぞれの位置から古い設備を見守っていた。
夜半を過ぎても、大きな変化はない。
表示部に発光はなく、受動計測値にも目立った変動は見られない。
音もない。
時間だけが静かに過ぎていく。
やがて交代時刻が近づいた頃、一人の兵士が記録紙へ視線を落とした。
何も起きなかった時間を記す。
その直後、もう一人の兵士が顔を上げた。
何かを見つけたわけではない。
ただ、遠くから小さな音がしたように感じた。
彼はすぐ隣の兵士へ尋ねなかった。
まず自分の記録へ、聞こえたと思った時刻と印象を書く。
『遠方。小音一回。方向判断困難。金属音か不明』
書き終えてから、もう一人へ確認する。
「今、何か聞こえたか?」
相手は少し考えた。
「俺は分からなかった」
「了解」
それだけだった。
聞いた者と、聞かなかった者。
どちらかを正しいことにする必要はない。
記録には両方が残された。
壁へ近づく者はいなかった。
音の発生源を探して歩き回る者もいない。
古い壁は、夜の中で変わらずそこにあった。
研究院から届いた手順には、確認できない場合は開口を保留すると書かれていた。
けれど、その資料がこの施設のものなのかは、まだ分からない。
だから彼らは古い手順へ従ったのではなく、今まで自分たちで決めてきた安全条件を変えなかった。
新しい情報が、すぐに新しい行動へ変わるとは限らない。
知ったからこそ、動かない方がいいこともある。
そして夜明け前、交代した兵士が記録を受け取ったときにも、西側の壁は一度も開かれることなく、静かなまま残っていた。




