第118話 聞こえた人と、聞こえなかった人
夜明け前に記録された一度きりの小さな音について、旧保養施設で最初の確認が行われたのは、空が薄く明るくなり始めてからだった。
夜勤を終えた二人の兵士は、交代した者たちへ口頭で印象を揃えて伝えることはせず、それぞれが先に自分の記録を完成させている。音を聞いた兵士の紙には「遠方。小音一回。方向判断困難。金属音か不明」とあり、もう一人の紙には、同時刻について特記事項なしと記されていた。
どちらも書き換えられていない。
朝の確認に来たガルムは二枚の記録を並べ、しばらく黙って読んだ。
リディアはその向かいに立ち、観測位置や基準具の状態を記した別紙を確認している。フェリクスは少し離れた資料机に座っていたが、珍しく自分から二人のところへ寄ってこなかった。
「基準具は?」
ガルムが尋ねると、リディアは手元の記録を一枚めくった。
「設置位置に変化はありません。交代前と交代後の確認でも一致しています。受動計測値にも、音が記録された時刻の前後で明確な変動はありません」
「表示部は?」
「発光なしです。二人とも同じ記録になっています」
ガルムは二枚の夜間記録へ目を戻した。
一人は聞いた。
一人は聞いていない。
以前なら、「本当に鳴ったのか」を確定させるために、もう少し踏み込んでいたかもしれない。しかし、今必要なのは事実を一つへまとめることではない。
「聞いた方を呼んでくれ」
「もう待機しています」
リディアが扉の方へ目を向けると、夜勤を終えた兵士が入ってきた。眠気はあるようだが、受け答えに問題が出るほどではない。
ガルムは椅子を示した。
「座れ。尋問じゃないから楽にしていい」
「はい」
兵士が腰を下ろす。
「記録した音について、書いた以上のことを今から思い出そうとしなくていい。確認したいのは、書いたときにどう判断したかだけだ」
兵士は一度、自分の記録へ目を向けてから頷いた。
「分かりました」
「遠方と書いたな」
「はい。ただ、距離を判断できたという意味ではありません。近くで鳴ったようには感じなかったので、そう書きました」
ガルムはそこで言葉を挟まず、リディアが記録用紙の余白へ補足を書き込む。
「方向判断困難、とある」
「どこから聞こえたかは分かりませんでした。右とか左とか、北とか西とか……そういうのは書けないと思いました」
「金属音か不明?」
「硬い感じはしたんです。でも、以前聞いた音と同じかと聞かれたら、自信がありません」
ガルムは頷いた。
「それでいい。以前の音に似ていたことにする必要はない」
「はい」
「もう一人が聞いていなかったことを知ったのは?」
「自分の記録を書いたあとです」
「それを聞いて、自分の記録を変えたいと思ったか?」
兵士は少し考えた。
「最初は、俺の聞き間違いだったのかなとは思いました。でも、聞こえたと思ったこと自体は変わらないので、そのままにしました」
「それでいい」
ガルムは記録を閉じた。
「休め」
兵士が退室したあと、フェリクスがようやく席を立って近づいてきた。
「確認はそれだけですか?」
「それ以上、何を聞く?」
「いえ。私もそれでいいと思います」
ガルムがわずかに眉を上げる。
「お前なら音の高さとか、響き方とか聞きそうだが」
「聞けば答えようとしてしまうでしょう」
フェリクスは空いた椅子へ座った。
「本人が最初に書かなかった細部を、朝になって質問で作ってしまう可能性があります。少なくとも今は、そこまでして情報量を増やす必要はないと思います」
リディアが記録から顔を上げた。
「研究院から届いた手順を読んだ影響ですか?」
「少しはあります。ただ、それ以前から我々がやっていたことの延長でもありますね」
フェリクスは二枚の紙を見比べた。
「一人が聞いた。一人が聞かなかった。どちらかを消さなくても、記録として成立する」
「問題は、これをどうまとめるかだな」
ガルムが言った。
夜間記録をそのまま保存するだけなら難しくない。しかし、塔や他の担当者へ送る日次報告では、ある程度の要約が必要になる。
リディアは少し考え、提案した。
「『一名が小音一回を記録。他一名は同時刻に認識なし。発生源・方向・材質推定不能。表示部および受動計測値に同時変化なし』ではどうでしょう」
「いいと思う」
フェリクスも頷いた。
ガルムは文面を確認したあと、一箇所だけ指で示した。
「『音発生』じゃなく『小音を記録』のままでいけ。実際に設備から音が発生したことまでは確定していない」
「分かりました」
リディアが修正せず、その表現を維持する。
聞こえたという記録は残る。
聞こえなかったという記録も残る。
そして、その二つを無理に一つの結論へ変えない。
窓の外では朝日が古い建物の壁を照らし始めていたが、西側の壁にも、表示部にも、目で分かる新しい変化はなかった。
◇
塔へ報告が届いた頃、アルは食堂で朝食を取っていた。
昨日補修した中庭の椅子はまだ使用していない。朝一番で状態を確認したセリーから、「補修材の安定をもう少し待ちます」と言われたためだ。
アルは一瞬だけ座って確かめたいと思ったが、セリーに見つかる未来が容易に想像できたのでやめておいた。
今朝の食卓では、二人は向かい合って座っている。
アルが選んだわけでも、セリーが距離を取りたがったわけでもない。セリーが料理を運んだあと、そのまま近い方の椅子へ座った結果だった。
昨日は隣だった。
今日は向かい。
それだけの違いである。
「主様」
「ん?」
「先ほどから私の後ろをご覧になっています」
「椅子のこと考えてた」
食堂の窓から中庭の一部が見えており、その先に補修中の椅子がある。
セリーは振り返らずに答えた。
「まだ座ってはいけません」
「座らないよ」
「確認のために少しだけ、と思っておられませんでしたか?」
アルはパンを持ったまま黙った。
セリーがこちらを見る。
「……ちょっとだけ思った」
「やはり」
「でもやってない」
「はい。それは存じています」
「信用されてるのか、されてないのか分からないな」
「主様が座らないと判断されたことは信用しています。座って確かめたいと思われることも予想しています」
アルは笑いながらパンをちぎった。
「それ、両立するんだな」
「すると思います」
そのときエルが淡く光った。
『旧保養施設から日次報告が届いています』
アルは食事を止めずに尋ねた。
「緊急?」
『いいえ』
「じゃあ読み上げて」
エルが簡潔な報告を読み上げる。
一名が小音一回を記録。
もう一名は同時刻に認識なし。
発生源、方向、材質推定不能。
表示部と受動計測値に同時変化なし。
アルは咀嚼していたパンを飲み込み、少し考えた。
「一人だけ聞いたのか」
『はい』
「その人の記録は、もう一人に確認する前に書いてる?」
『はい。個別記録完了後に相互確認しています』
「なら、分かった」
それ以上は聞かなかった。
セリーがスープの器を置く。
「主様は、聞こえたかどうかを確かめなくてよろしいのですか?」
「確かめる方法がないからな」
アルは自分の器へ視線を落とした。
「二人のうち一人が聞いたなら、本当に何か鳴った可能性はある。でも、一人しか聞いてないから間違いってことにもできないし、聞いた人が正しいから何か鳴ったってことにもできない」
「はい」
「だったら今は、そのまま残すしかないと思う」
セリーは静かに頷いた。
「私は、その方がよいと思います」
「それに、今までの音と同じかも分からないんだろ?」
『記録上、同一性は判断されていません』
エルが答える。
「じゃあなおさらだな」
アルは朝食へ戻った。
以前なら、旧保養施設で何か起きたと聞くだけで食事を早めていたかもしれない。
今は違う。
現場で安全条件が守られ、緊急性もない。
ならば、自分が朝食を途中でやめる理由はなかった。
「主様」
「今度は何?」
「少し嬉しそうです」
「音がしたかもしれないのに?」
「そちらではありません」
セリーはアルの前にある果物を指した。
「報告を聞いたあとも、朝食を続けておられます」
アルは自分の手元を見た。
確かに、無意識に次の果物へ手を伸ばしている。
「そう言われると、ちょっと嬉しいかも」
「では、もう一つどうぞ」
セリーが自分の皿から果物を一切れ移そうとする。
「いや、それはセリーが食べて」
「私は十分です」
「昨日も俺の食事量見てただろ。今日は普通に食べてるから大丈夫」
「そうですね」
セリーは果物を自分の皿へ戻した。
アルはそれを見て笑う。
渡そうとして、やめる。
それもまた、その場で変えていい選択だった。
◇
午前中、王立魔導研究院では、関連別紙の移管経路を追う作業が続いていた。
旧資料保管部の研究員は、設備管理資料側の索引と保護行政記録群側の受入簿を並べ、番号を一つずつ照合している。
昨日までに確認できたのは、外部状態確認部に関する別紙が、ある時点で設備資料から切り離されているということだった。
問題は、その時期である。
設備側の索引には移管年が記されていない。
一方、行政記録側には受入時期らしき数字が残っているものの、文字が擦れて一部が読めない。
研究員は拡大用の魔導具を使おうとして手を止めた。
原資料への強い魔力照射は、保存規定上制限されている。
使えるのは低出力の補助光までだ。
隣で作業していた保管担当者が顔を上げる。
「読めそうですか?」
「無理に読まない方がいいですね。数字の末尾が三にも八にも見えます」
「推定で仮入力します?」
研究員は首を横へ振った。
「照会回答に使うならやめましょう。内部検索用なら候補を二つ残せますが、外へ出す情報では『判読不能』でいいと思います」
担当者は頷き、端末へそのまま入力した。
二人が探しているのは、依頼者の欲しがる答えではない。
資料に残っている範囲で言えることだった。
しばらくして、別の受入簿から一つの記載が見つかる。
『設備付属確認資料 一部行政側移管。理由――保護判断手順との重複による』
研究員の指が止まった。
「これ……」
担当者も横から覗き込む。
「理由がありますね」
「あります。でも施設名がない」
記載は複数施設の資料をまとめた受入簿に書かれており、どの設備付属資料を指しているのかが直接結びついていない。
さらに「保護判断手順」という言葉も、それだけでは対象を示さない。
人かもしれない。
物品かもしれない。
記録かもしれない。
設備そのものを保護する判断かもしれない。
研究員は別紙へ転記し、横に注意書きを加えた。
『関連可能性あり。対象資料との直接対応未確認』
答えへ近づいたように見えても、線がつながっていなければつながったことにはしない。
その姿勢は、遠く離れた旧保養施設で行われている観測と、奇妙なほどよく似ていた。
◇
昼前、リューネの町では支援窓口の試行について小さな話し合いが行われていた。
アルは参加していない。
アンナマリーも塔に残っており、町側の職員と臨時代表だけで進められている。
議題は、過去記録を利用するかどうかの確認方法だった。
数日試した結果、相談開始時に必ず口頭で尋ねる方法には問題が見え始めている。
「毎回聞かれると、自分が何か重要なことを決めなきゃいけないみたいで疲れるって人がいました」
窓口職員が報告する。
向かいに座る臨時代表のイーダが頷いた。
「逆に、聞いてほしいって人もいたんでしょう?」
「はい。自分から『前の記録を見てください』と言うのは難しいから、最初に確認してもらえる方が助かると」
「じゃあ、どっちかに統一は無理ね」
別の職員が資料へ目を落とした。
「用紙に選択欄を作る方法も試していますけど、文字を読むのが苦手な人には使いにくいです。それに、相談内容を書く前に選択欄があると、そこから先へ進みにくい人もいました」
ハンスが腕を組む。
「選択欄を増やせば親切になると思ってたが、そう単純でもないか」
「選ぶものが増えるほど疲れる人もいますから」
イーダは机上の記録を見ながら考え込んだ。
「だったら、窓口側が相手を見て勝手に決める?」
その案に、職員の一人がすぐ首を横へ振った。
「それも怖いです。『この人は説明しなくてもいい』『この人には聞いた方がいい』って職員が分類し始めたら、前と似たことになるかもしれません」
部屋が静かになる。
誰かが悪い案を出したわけではない。
相手の負担を減らそうとしても、その判断を職員側だけで固定すれば、本人の声がまた遠くなる可能性がある。
しばらくして、イーダが口を開いた。
「じゃあ、今は決めない?」
「それも選択肢だと思います」
窓口職員が答える。
「試行期間中ですから。口頭確認と用紙方式をもう少し続けて、相談者から『こうしてほしい』と言われた場合はそちらを優先する。ただ、何も希望を示さない人へ毎回選択を迫ることは減らしてみる」
「減らすって、どのくらい?」
「そこを今すぐ数字にすると、また数字だけが残る気がします」
ハンスが苦笑した。
「難しいな」
「はい。でも、今のところ危険な事例は出ていません。だから急いで一つに決めなくてもいいと思います」
話し合いは結論を出すためではなく、次に何を試すかを決めるところで終わった。
その記録は後ほど塔にも共有される。
だが、承認を求める文面にはならない。
◇
午後、塔の中庭では補修した椅子の確認が行われていた。
セリーが接合部を丁寧に調べ、軽く力をかけても動かないことを確かめる。
アルは隣で待っていた。
「どう?」
「問題ないと思います」
「座っていい?」
「はい」
許可を得たアルは、まず片側へゆっくり腰を下ろした。
軋む音はしない。
背もたれへ少し体重を預けても、昨日まであった微かな揺れは消えている。
「直った」
「はい」
アルは座面の隣を軽く叩いた。
「セリーも座る?」
「座ります」
彼女が隣へ腰を下ろす。
二人分の重さがかかっても、椅子は安定していた。
「前よりしっかりしてるな」
「補修したためです」
「でも、見た目はほとんど同じ」
「接合部には新しい補修材が入っています」
アルは背もたれを振り返った。
外から見れば以前と大きく変わらない。
けれど、確かに同じではない。
昨日、名を明かしていない子供が紙の「みち」を補修したことをアルは知らない。
だから、そこに共通する意味を見つけることもない。
彼にとって目の前にあるのは、自分とセリーで直した一脚の椅子だけだった。
「セリー」
「はい」
「これ、どれくらい使えるかな」
「分かりません」
予想していなかった答えに、アルは隣を見る。
「分からないんだ」
「木材の内部まで完全に確認したわけではありませんので、何年使えるとは申し上げられません」
「そっか」
「ですが、異常があればまた確認できます」
セリーは背もたれへ軽く触れた。
「次に壊れたときも、必ず修理するとは限りません。そのとき交換したいと思うかもしれません」
アルは笑った。
「それでいいな」
「はい」
二人はしばらく座っていた。
今日は小指も触れていない。
肩も離れている。
それでも、アルは昨日より遠いとは感じなかった。
昨日触れたから、今日も触れなければならないわけではない。
セリーが自分をどう思っているのかについても、昨日より答えが増えている必要はない。
アルはそのことを以前より自然に受け止められるようになっていた。
「主様」
「ん?」
「今日は触れなくてもよいですか?」
アルは少し驚いた。
「もちろん」
セリーは前を向いたまま続ける。
「触れたくないという意味ではありません。今は、この椅子に二人で座っているだけでよいと思いました」
「俺もそれでいい」
答えると、セリーの表情が柔らかくなる。
「はい」
説明しなくてもよかったのかもしれない。
けれど、セリーが自分から言葉にしたかったのなら、その言葉も大切にしたい。
アルはそれ以上意味を尋ねず、同じ景色を眺めた。
◇
夕方になって、リューネから話し合いの記録が届いた。
アルは中庭の椅子に座ったまま、それを読んだ。
口頭確認を好む人。
用紙を好む人。
自分から言いたい人。
毎回聞かれたくない人。
文字を読むこと自体が負担になる人。
まだ希望を言葉にできない人。
一つの方式では、すべてを拾えない。
「決まらなかったんだな」
アルが言うと、隣のセリーが記録を見る。
「はい」
「でも、失敗って感じはしない」
「なぜですか?」
「違う人がいるって分かったから」
アルは紙を膝へ置いた。
「一つに決める前に分かってよかったと思う。もし最初の数人が口頭確認を喜んだからって、それを町全体の正解にしてたら、毎回聞かれるのがつらい人は困るだろ」
「はい」
「逆も同じだし」
セリーは少し考えた。
「主様は、町へ何か伝えますか?」
アルは記録の最後を見る。
そこには「承認依頼」という文字はない。
単なる共有だった。
「今はいいかな」
「感想もですか?」
「聞かれたら言う。でも、今送ったら、俺の感想が次の判断に影響するかもしれない」
アルは記録を閉じた。
「町の人たちが自分たちで迷ってるなら、もう少し迷ってもらおう」
セリーが微笑む。
「主様は、迷うことを悪いことだと思わなくなりましたね」
「昔は嫌だったんだと思う。決められない自分が頼りなく見える気がして」
アルは少しだけ遠い目をした。
王太子だった頃、判断を保留することは弱さだと思っていた時期がある。
誰かが答えを待っているなら、王太子である自分が決めなければならない。
迷っている姿を見せてはいけない。
そんな考えが、いつの間にか自分自身を追い込んでいた。
「今は?」
セリーが尋ねる。
アルは少し考えた。
「決めない方がいいときもあるって分かった。でも、何でも決めなくていいってわけでもない」
「はい」
「そこが難しい」
「難しいままでもよいのではありませんか?」
アルは隣を見て笑った。
「最近のセリー、そういうこと言うようになったな」
「主様の影響でしょうか」
「俺?」
「分からないことを、分からないまま置いておくことをよくなさいますので」
「褒められてる?」
「褒めています」
アルは少し照れながら、夕方の空へ視線を戻した。
◇
夜が深まる頃、旧保養施設では再び観測が始まっていた。
前夜に一人だけが聞いた小さな音について、追加の探索は行われていない。
基準具の位置も変わらず、観測者の配置も同じ条件を維持している。
フェリクスは夜勤に入る兵士たちへ余計な説明をしなかった。
前夜に音があったかもしれないことは引き継ぎ記録に含まれているが、「今夜も鳴るかもしれない」と強調することはしない。
期待させれば、音を探してしまう。
音を探せば、普段なら気にしない建物の軋みまで意味のあるものに聞こえる可能性がある。
ガルムは観測室を出る前に、トーマスへ声をかけた。
「今夜は担当じゃないんだな」
「はい。明日の朝からです」
「なら寝ろ」
「資料を少し――」
「寝ろ」
トーマスは苦笑した。
「分かりました」
「寝不足の奴が観測方法を考えてもろくなことにならん」
「フェリクスさんにも言った方がいいんじゃないですか?」
少し離れた机で資料を読んでいたフェリクスが顔を上げた。
「なぜ私を見るんです?」
「分かりやすいからです」
「私はちゃんと寝ていますよ」
ガルムが無言でフェリクスを見る。
「……最近は」
「今夜は日付が変わる前に寝ろ」
「はい」
小さな笑いが起こった。
古い施設の謎は消えていない。
壁の向こうに何があるのかも分からない。
研究院では今も資料が調べられている。
それでも、そこにいる人間たちは眠り、食べ、交代しなければならない。
謎があるからといって、全員がその前へ立ち続ける必要はなかった。
◇
その夜、観測開始からしばらくは何も起きなかった。
古い建物が冷えていくにつれて、梁や床から小さな軋みが聞こえることはある。それらは以前から確認されている通常範囲の音として、必要なものだけが記録されていった。
日付が変わったあとも、表示部に発光はない。
受動計測値にも明確な変動はない。
西側の壁にも変化は見られなかった。
前夜に音を聞いた兵士は今夜の担当ではない。
観測している二人は、それぞれ自分の仕事を続ける。
やがて深夜。
一人の兵士が、視界の端で何かが変わったように感じた。
彼はすぐ隣へ声をかけず、まず正面へ視線を戻す。
表示部を確認する。
明確な発光はない。
基準具の位置にも変化はない。
それでも、先ほど一瞬だけ、右側の表示部付近が普段より明るく見えた気がした。
兵士は記録紙へ書いた。
『時刻――。右側表示部付近、一瞬明るく見えた可能性あり。発光と断定せず。継続確認できず』
書き終えてから、もう一人へ尋ねる。
「今、右側、何か見えたか?」
相手は自分の記録を確認したあと、首を横へ振った。
「俺は見てない」
「分かった」
それ以上は話さない。
二人とも壁へ近づかなかった。
数分後にも変化はない。
受動計測値も動かない。
音も聞こえない。
これまで記録されてきた数分間の弱い発光とは異なり、今回は発光だったかどうかさえ確定できなかった。
だから、同じものとして扱わない。
夜勤記録には、一人が「明るく見えた可能性」を記したことと、もう一人が認識していないことの両方が残った。
◇
翌朝。
まだ塔へ報告が届く前、王立魔導研究院では昨日見つかった受入簿の記載について、別の索引との照合が行われていた。
『設備付属確認資料 一部行政側移管。理由――保護判断手順との重複による』
その一文と直接結びつく資料番号は、まだ見つかっていない。
しかし、保護行政記録群の古い分類表から、「保護判断手順」という項目の説明が一部だけ確認できた。
研究員は擦れた文字を低出力の補助光で読み取る。
『保護判断――対象状態を直接確認できない場合における、状態変更・移送・開口・解除等の可否判断手順。対象種別を問わず適用する場合あり』
研究員はそこで手を止めた。
対象種別を問わず。
つまり、この言葉だけでは人間を意味しない。
むしろ、人間だけに限定して読む方が危険だった。
さらに下には、短い注意書きが残っている。
『確認不能は不在を意味せず。応答不能は拒否不存在を意味せず』
研究員の視線がその一文で止まった。
前半は設備や物品にも使える。
後半には、明らかに意思を持つ対象を想定したような言葉が含まれている。
だが、同じ分類の中に書かれているからといって、同じ対象についての文章とは限らない。
複数種類の保護対象へ共通利用された手順なら、異なる状況の原則が同じ頁へまとめられている可能性もある。
研究員は回答案へそのまま書き写さなかった。
まず、どの資料と接続する記載なのかを確認する必要がある。
塔のアルたちは、この一文をまだ知らない。
旧保養施設のガルムたちも知らない。
彼らが知っているのは、昨日までに共有された範囲だけだった。
それでよかった。
まだ線になっていない点を、遠くにいる誰かへ線として渡してはいけない。
研究員は新しく見つかった分類表の番号だけを記録し、照合作業を続けた。
答えは、まだ出さなかった。
その頃、旧保養施設では夜間記録の確認が始まろうとしていた。
一人だけが聞いた音。
一人だけが見たかもしれない明るさ。
聞こえなかった者も、見えなかった者もいる。
どちらかを間違いとして消せば、記録は綺麗になる。
けれど、綺麗な記録が正しい記録とは限らない。
違うものが違うまま残っているからこそ、あとから分かることもある。
古い施設の朝は、まだ答えのない記録を抱えたまま、静かに始まっていた。




