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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第119話 違うまま残すということ



旧保養施設の朝は、前夜の記録を確認するところから始まった。


夜明けから少し経ち、古い窓から差し込む光が観測室の床を斜めに照らしている。夜勤を終えた兵士たちはすでに個別記録を書き終えており、ガルムの前には二枚の記録紙と受動計測器の記録、それから視覚基準具の位置確認票が並べられていた。


問題になっているのは、深夜に一人の兵士だけが認識した変化だった。


『右側表示部付近、一瞬明るく見えた可能性あり。発光と断定せず。継続確認できず』


もう一人の記録には、同時刻について特記事項がない。


前夜の小さな音とよく似た構図ではある。


しかし、ガルムは二つを同じ出来事としてまとめなかった。


「確認するぞ」


向かいに座る二人の兵士へ声をかける。


「先に言っておくが、昨日の音と関係があるかどうかを聞くつもりはない。今朝確認するのは、昨夜それぞれが何を記録したかだけだ」


二人が頷く。


ガルムは明るさを記録した兵士へ視線を向けた。


「一瞬明るく見えた可能性、と書いたな」


「はい」


「発光と書かなかった理由は?」


兵士は少し考えてから答えた。


「光ったところを見た、という感じではなかったからです。視界の端で、右の辺りが少し明るくなったように思って見直したんですが、そのときには普段と同じでした」


「色は?」


「分かりません」


「長さは?」


「分かりません。一瞬だったと思いますけど、時間を測れるほど見ていません」


ガルムはそれ以上細部を求めず、隣の兵士へ視線を移した。


「お前は?」


「見ていません」


「その時刻、右側を見ていたか?」


「ずっと右だけを見ていたわけではありません。全体を順番に確認していました」


「なら、『変化なしを確認した』じゃなく『認識していない』だな」


「はい」


リディアが二人の言葉をそのまま補足欄へ残す。


片方が見たから、もう片方が見落としたと決めない。


片方が見ていないから、最初の兵士の錯覚だったとも決めない。


フェリクスは少し離れた机で腕を組み、やり取りを聞いていた。


「受動計測器は?」


ガルムが尋ねる。


リディアは別紙を確認した。


「該当時刻の前後に、通常変動幅を超える値はありません。基準具も朝の確認では前夜の位置を維持しています」


「音は?」


「二人とも記録なしです」


ガルムは一度頷き、二人の兵士を見た。


「分かった。休んでいい」


兵士たちが退室すると、フェリクスが席を立った。


「昨日は一人だけが音を聞いた。今日は一人だけが明るさを感じた」


「並べたくなるか?」


ガルムが尋ねる。


フェリクスは苦笑した。


「ものすごく」


「だろうな」


「でも、並べて関係があるように書くのはまだ早いですね」


フェリクスは二枚の記録を見比べた。


「昨日の音は、方向も発生源も分からない。昨夜の明るさは、発光だったかどうかすら分からない。時間も別ですし、同時変化もない」


リディアが頷く。


「比較表には入れられます。ただし、『音の翌日に明るさ』のような項目を新しく作る必要はないでしょう」


「同意します」


フェリクスが答えた。


ガルムは窓の外へ目を向けた。


朝の光の中では、三つの古い表示部はいずれも静かなままである。


「日次報告はどうする?」


リディアは少し考えてから読み上げた。


「『一名が右側表示部付近について、一瞬明るく見えた可能性を記録。他一名は同時刻に認識なし。発光の継続確認なし。色・持続時間不明。受動計測値および音に同時変化なし』」


「それでいけ」


「発光とは書かない?」


フェリクスが確認する。


「本人が発光と断定してないんだろ」


「そうですね」


ガルムは前夜の音の記録も手元へ寄せた。


「あと、昨日の小音と関連づける文は入れるな」


「比較表には別々の事象として残します」


リディアが答える。


「それでいい」


ガルムは記録を閉じた。


新しい出来事が増えた。


それでも、謎が一つ増えたとさえ言い切れない。


人が見たり聞いたりしたものは、計測器の数字のように綺麗には揃わない。


だからといって、人の観測を捨てればいいわけでもなかった。


          ◇


塔では、アルが朝食後に日次報告を受け取った。


今朝の食事はすでに終わっており、セリーが食器を片づけている。アルは窓際の椅子へ座り、エルが表示した報告文をゆっくり読んだ。


「一瞬明るく見えた可能性、か」


『はい』


「発光とは確認できてないんだな」


『現場記録では、そのように整理されています』


アルは昨日届いた小音の記録を思い出した。


一人が聞いた。


一人は聞かなかった。


そして今度は、一人が明るく見えたかもしれないと記録し、もう一人は認識していない。


似ているように思える。


けれど、似ていると思うことと、同じ原因だと判断することは違う。


「現場から何か聞かれてる?」


『いいえ。共有のみです』


「なら、そのままで」


アルは報告を閉じた。


食器を片づけ終えたセリーが戻ってくる。


「追加の指示はなさらないのですか?」


「今のところは」


アルは空になった食卓へ肘をつかないよう気をつけながら、背もたれへ身体を預けた。


「前だったら、『昨日は音で今日は光なら何か動いてるんじゃないか』って考えたかもしれない」


「今は考えないのですか?」


「考えるよ」


アルは苦笑した。


「考えちゃうのは止められない。でも、考えたことをそのまま事実にしないようにはしたい」


セリーは向かいの椅子へ座った。


「主様は、昨日の音と昨夜の明るさに関係があると思っておられますか?」


アルはすぐには答えなかった。


自分の中に浮かんでいる印象を確かめる。


「あるかもしれないとは思う。でも、ないかもしれないとも思う」


「はい」


「今はそれ以上じゃない」


セリーは小さく頷いた。


アルは彼女を見ながら、ふと昨日の会話を思い出した。


自分の気持ちも、どこか似ているのかもしれない。


好きだという自分の気持ちは分かっている。


セリーが自分を大切に思い、触れたいと感じ、一緒にいたいと望んでくれていることも知っている。


けれど、それらをすべて一つの言葉へまとめるのは、セリー自身が決めることだ。


似ているから同じだと決めない。


分かりやすい名前を急いで付けない。


「主様?」


「ごめん。別のこと考えてた」


「何でしょう?」


アルは一瞬迷ったが、隠す必要もないと思った。


「セリーのこと」


彼女の頬がわずかに動く。


「またですか?」


「またです」


「椅子を押さえている途中ではありませんので、今日は問題ありません」


アルは吹き出した。


「基準そこなんだ」


「はい」


セリーも少し笑った。


その表情を見ていると、胸の奥が温かくなる。


アルはそれを好きという言葉で呼べる。


セリーが同じ言葉を使うかどうかは、まだ分からない。


それでいい。


          ◇


昼前、塔へアンナマリーがやって来た。


手には王立魔導研究院から共有された最新の照会状況と、これまでの設備資料をまとめた束を持っている。


「研究院から正式な追加回答はまだないわ」


資料室へ入るなり、彼女はそう告げた。


アルは机の向こうで顔を上げる。


「じゃあ何かあった?」


「回答ではなく、照会状況の更新だけ。関連別紙の移管理由について、保護行政記録群側の索引も調べているそうよ」


「見つかったとは書いてない?」


「ええ。『照合継続中』だけ」


実際には研究院側で「保護判断手順との重複による」という受入簿の記載が見つかっている。


さらに「保護判断手順」の古い分類表から、新しい文言も確認されている。


しかし、資料同士の直接対応が確認できていないため、研究院はまだそれを回答へ含めていない。


当然、アルもアンナマリーもその事実を知らない。


「なら待つしかないな」


アルが答えると、アンナマリーは向かいへ座った。


「それとは別に、旧保養施設の昨夜の記録を見たわ」


「明るく見えたかもしれないってやつ?」


「そう。現場のまとめ方はいいと思う」


アンナマリーは記録を机へ置いた。


「ただ、比較表をこれ以上大きくしすぎない方がいいかもしれないわね」


「なんで?」


「記録が増えるほど、組み合わせも増えるからよ」


アンナマリーは紙の余白へ簡単な線を引いた。


「光があった夜、なかった夜。音があった夜、なかった夜。両方あった夜。方向が違う夜。色が違う夜。さらに今回みたいに、見えた人と見えなかった人がいる場合まで全部細かく分類していけば、いくらでも組み合わせを作れるでしょう?」


「うん」


「その中から都合のいい組み合わせだけ拾えば、存在しない規則まで見つけられる」


アルは少し考えた。


「じゃあ、比較しない方がいい?」


「そういう意味じゃないわ」


アンナマリーは首を横へ振る。


「比較は必要。でも、何を比較するかを新しい出来事のたびに増やさない方がいいと思うの。今ある基本項目を維持して、必要になったら後から元記録へ戻れるようにしておけばいい」


「なるほど」


アルは旧保養施設から届いた比較表を思い出した。


発光の有無。


位置。


色の認識。


持続時間。


音の有無と方向。


受動計測値。


そして変化がなかった夜。


すでに十分な項目がある。


「現場には?」


「まだ何も言っていないわ。あちらでも似たことを考えているかもしれないし」


「じゃあ、今はいいと思う」


「ええ。私もそう思う」


アンナマリーは資料をまとめた。


その動作の途中で、ふとアルを見る。


「ところで」


「何?」


「最近、少し顔つきが柔らかくなったわね」


アルの動きが止まった。


「急に何?」


「感想よ」


アンナマリーはそれ以上説明しない。


アルは少し警戒しながら尋ねた。


「何か聞いた?」


「何を?」


その返し方で、本当に何も知らないらしい。


アルは内心で安堵しつつ、別の意味で困った。


セリーへ好きだと伝えたことは、まだアンナマリーには話していない。


隠しているというより、わざわざ報告することでもないと思っていた。


「別に何もないよ」


「そう」


アンナマリーはそれ以上追及しなかった。


ただ、立ち上がるときに資料室の扉の方へ目を向ける。


ちょうどそこへセリーが茶を運んできた。


「アンナマリー様、お茶はいかがですか?」


「いただくわ」


セリーは三人分の茶器を置く。


アルの前へ置くときだけ特別な動作をしたわけではない。


距離も、声も、いつもと大きく変わらない。


それでもアンナマリーは、セリーがアルの前へ茶器を置いたあと、ほんの短い時間だけ彼の顔を見たことに気づいた。


アルもその視線に気づき、自然に笑っている。


アンナマリーは何も言わなかった。


(何かあったのかもしれないわね)


そう思うだけに留める。


本人たちが話していないものへ、外から名前を付ける必要はない。


          ◇


午後、旧保養施設では視覚基準具の試行について最初の見直しが行われていた。


トーマスが数日分の意見をまとめ、ガルムとリディア、フェリクスの前へ置く。


「位置を説明しやすいって意見が五件。数字を見る方に意識が寄るって意見が三件。特に変わらないが二件です」


ガルムが紙を見る。


「人数が少ないな」


「はい。まだこれだけです」


「なら、多数決には使えんな」


「俺もそう思います」


トーマスは別の紙を出した。


「それと、同じ人でも昼と夜で感想が違いました。昼は邪魔じゃないけど、夜は数字を読もうとして目がそっちに行くって人が二人います」


リディアが基準具の図面を見る。


「数字そのものを小さくする方法はあります」


「でも小さくしたら、位置を言うとき見えにくくなりません?」


「そうですね」


フェリクスが腕を組む。


「数字を発光させるのは?」


リディアが即座に首を横へ振った。


「観測対象の光と混同する可能性があります」


「ですよね」


フェリクスはあっさり引いた。


ガルムがトーマスを見る。


「お前はどうしたい?」


「俺ですか?」


「提案した本人だろ」


トーマスはすぐには答えなかった。


数日使ってみて、自分の案が完全ではないことは分かっている。


それでも、全部やめたいわけではない。


「夜だけ数字を隠せるようにするのはどうでしょう」


「隠す?」


「基準具の形と位置は残して、数字のところに暗い布をかぶせるんです。何番か確認したいときだけ、観測が終わってから見る」


リディアが少し考える。


「観測中は形だけを位置基準に使う?」


「はい。『右から二つ目の板の少し左』みたいに。記録を書くときに番号へ直す」


フェリクスが興味深そうに頷いた。


「観測時と記録時を分けるわけですね」


「ただ、布が落ちたり動いたりすると別の変化に見えるかもしれない」


ガルムが指摘する。


トーマスは考え込んだ。


「じゃあ布じゃない方がいいですね」


「今ここで完成させなくていい」


ガルムが言う。


「問題が見えた。それで今日は十分だ」


トーマスは顔を上げた。


「でも、夜の観測は?」


「今夜は現行のまま。数字を見る必要がないことだけ担当者へ伝える。基準具自体を変えるなら、明るい時間に確認してからだ」


「分かりました」


ガルムは記録へ視線を落とした。


「それと、この方法を続ける前提で考えるな。数日後に全部撤去する結論でも構わん」


トーマスは少しだけ笑った。


「はい」


自分の案を残すことが目的ではない。


使えるなら使う。


邪魔なら変える。


それでも駄目ならやめる。


方法に人が従うのではなく、人が目的のために方法を使う。


その順番を失わないことの方が大切だった。


          ◇


同じ日の午後、名を明かしていない子供は庭にいた。


紙で作った「みち」は部屋に置いてきている。


木札も持っていない。


ナディアと少し離れて歩きながら、地面を行き来する蟻を眺めていた。


昨日補修した「みち」について、子供は朝から一度も話していない。


ナディアも尋ねなかった。


しばらく蟻を追っていた子供が、庭の端で立ち止まる。


「ナディア」


「なあに?」


「きのう、みち、なおした」


「うん」


「きょう、もってこなかった」


「そうだね」


子供はナディアを見上げた。


「いい?」


「もちろん」


「だいじじゃない?」


ナディアはその問いを急いで否定しなかった。


「持ってこなかったら、大事じゃなくなると思った?」


子供は少し考えた。


「わかんない」


「私は、持ってこなくても大事なものはあると思うよ」


「どこにある?」


「部屋に置いてあるものもあるし、家に置いてあるものもある。物じゃなくて、覚えてるだけのものもあるよ」


子供はまた蟻を見る。


「もってなくても?」


「うん」


「なくならない?」


「なくなる物もある。でも、持っていないだけで全部なくなるわけじゃないよ」


ナディアはそこまで答え、木札の話へつなげなかった。


子供自身も木札を口にしない。


庭では風が草を揺らし、蟻の列が細い土の道を横切っていく。


しばらくして子供がしゃがみ込んだ。


「こっち、いく」


「蟻?」


「うん」


「どこへ行くんだろうね」


「わかんない」


子供は少し笑った。


「でも、いってる」


「そうだね」


その日は、それ以上の話をしなかった。


          ◇


夕方、アルは一人で塔の廊下を歩いていた。


セリーは倉庫で食材の確認をしている。


以前なら彼女がいない時間を特に意識することはなかったが、最近はふとした瞬間に「今どこにいるのだろう」と思うことが増えた。


だからといって、エルへ居場所を尋ねることはしない。


必要なら呼べる。


でも、必要ではない。


アルは中庭へ出た。


補修した椅子は今日も問題なく使えそうだった。


一人で座る。


二人で座ったときとは少し違って感じるが、不快ではない。


(会いたいな)


素直にそう思った。


その気持ちを理由に、すぐセリーを呼ぶ必要はない。


会いたいと思いながら一人でいることもできる。


アルは背もたれへ身体を預け、夕方の空を見上げた。


しばらくすると、中庭へ続く扉が開いた。


振り返ると、セリーが立っている。


「主様」


「お疲れさま」


「こちらにおられたのですね」


「うん。セリーは倉庫?」


「はい。確認が終わりました」


セリーは椅子のところまで来た。


「隣、座る?」


「座りたいです」


アルが少し横へ寄る。


十分な場所があるのだから本当は動く必要はなかったが、セリーは何も言わず隣へ座った。


「俺、さっきセリーに会いたいなって思ってた」


アルは前を向いたまま言った。


隣でセリーの動きが少し止まる。


「そうなのですか」


「うん」


「呼んでくだされば、来ました」


「倉庫の仕事してただろ」


「途中でなければ来られました」


「でも急ぎじゃなかったから」


アルは笑った。


「会いたいって思ったからって、すぐ会わなきゃいけないわけじゃないし」


セリーはしばらく黙っていた。


「私は、主様がどこにおられるのか考えることがあります」


アルが隣を見る。


「最近?」


「以前からです」


「それは世話するためじゃなくて?」


「以前は、その意味が多かったと思います」


セリーは自分の手を膝の上で重ねた。


「今は、主様が何をしておられるのか知りたいと思うことがあります。ですが、知らなくてもよいとも思います」


「そっか」


「はい」


アルは胸の奥が温かくなるのを感じた。


好きという答えではない。


けれど、セリー自身の言葉だった。


「嬉しい」


「はい」


「俺が勝手に嬉しいだけだから、何か言い足さなくていいよ」


「分かっています」


セリーはそう答えたあと、少し笑った。


「ですが、私も今、主様に会えて嬉しいです」


アルは数秒黙った。


「それは反則じゃない?」


「何がでしょう?」


「俺ばっかり照れてる」


「私も少し恥ずかしいです」


よく見ると、セリーの頬にも淡い赤みがある。


アルはそれを見て、さらに照れた。


「じゃあお互い様か」


「はい」


今日は触れないままかもしれない。


アルはそう思った。


それでも十分だった。


しばらく二人で座っていると、セリーの肩がわずかにアルの方へ傾いた。


完全にもたれかかるほどではない。


服同士が触れるか触れないかという距離で一度止まり、それからセリーが尋ねた。


「主様」


「うん」


「少しだけ、肩をつけてもよいですか?」


アルの胸が大きく鳴った。


「もちろん」


セリーがゆっくり距離を詰める。


肩と肩が触れた。


手はつながない。


指も絡めない。


ただ、二人の肩が同じ椅子の上で触れている。


「これ、いいな」


アルが小さく言う。


「はい」


「セリーは?」


「私も、今はこれがいいです」


アルはそれ以上近づかなかった。


セリーも同じだった。


触れている場所は肩だけなのに、手を握ったときとはまた違う温かさを感じる。


空が橙色から薄紫へ変わっていく間、二人はそのまま座っていた。


          ◇


夜。


王立魔導研究院では、旧資料保管部の研究員がようやく一つの照合結果へたどり着いていた。


設備資料から行政記録側へ移された別紙。


保護判断手順との重複を理由とした移管記録。


そして、保護行政記録群に残されていた古い分類表。


三つの資料が直接同一の施設を示しているわけではない。


しかし、移管時期の候補と資料群の再分類番号を重ねると、一部については接続可能性が高いところまで絞れていた。


研究員は回答案を書き始める。


ただし、最初に書いたのは結論ではない。


『以下は資料群間の関連可能性を示すものであり、照会対象施設との同一性を示すものではない』


その注意書きのあとに、確認できた「保護判断手順」の定義を記載する。


『対象状態を直接確認できない場合における、状態変更・移送・開口・解除等の可否判断手順。対象種別を問わず適用する場合あり』


そこまで書いたあと、研究員の手が止まった。


問題は、その下の一文である。


『確認不能は不在を意味せず。応答不能は拒否不存在を意味せず』


前半だけなら設備資料との関係も理解しやすい。


後半には意思や応答を想定した概念が含まれる。


しかし、それが人間だけを指すとは書かれていない。


魔導具の応答かもしれない。


意思を持つ魔導具や人工生命体のような対象も、古代には存在していた。


あるいは複数種別へ向けた共通原則が一つの分類表へまとめられている可能性もある。


研究員は迷った末、その一文を削除しなかった。


代わりに注記を付ける。


『上記二文が同一対象種別を想定した記載かは不明。「応答」の対象定義も現資料のみでは確定不能』


分からないから隠すのではない。


分からない部分ごと渡す。


そのうえで、受け取った側が意味を強く読みすぎないよう境界を示す。


研究員は回答案を保存した。


送信はまだしない。


もう一人の担当者による照合確認を受けてから出すことになっている。


塔ではアルとセリーが肩を触れ合わせたまま夕暮れを過ごし、旧保養施設では夜の観測準備が進んでいる。


その誰も、研究院で新しい回答案が作られたことを知らない。


それぞれが知っている範囲で、それぞれの一日を過ごしている。


違うものを無理に同じへ揃えないこと。


聞こえた人と聞こえなかった人。


見えた人と見えなかった人。


触れたい日と、触れなくてもいい日。


大切だから持っていたいものと、大切でも部屋へ置いていけるもの。


同じ答えへまとめなくても、それぞれが嘘になるわけではない。


そして古い塔にも、旧保養施設にも、王立魔導研究院にも、まだ一つへまとめるべきではない答えがいくつも残されていた。

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