第120話 答えにするには、まだ早い
朝の塔には、前夜から降り始めた細い雨の音が残っていた。
強く窓を叩くような雨ではない。中庭の石畳を濡らし、古い塔の壁をゆっくりと色濃く変えていく程度の静かな雨で、窓を閉めた食堂にいても、時折軒先から落ちる雫の音が聞こえてくる。
アルは朝食を終えたあとも、すぐには席を立たなかった。
向かいではセリーが自分の分の茶を飲んでいる。
昨日の夕方、二人は中庭の椅子で肩を触れ合わせて過ごした。
手を握ったときとは違う触れ方だったが、アルの中には今もその感触が残っている。けれど、朝になったからといって昨日のことを確認し直そうとは思わなかった。
嬉しかった。
それだけは、自分の中で変わらない。
(昨日は昨日で、ちゃんと嬉しかった。それでいいんだよな)
アルがそんなことを考えながら窓の外を見ていると、セリーが茶器を置いた。
「主様」
「ん?」
「雨がお好きなのですか?」
「嫌いじゃないよ。外に出たい日に降ってたら困るけど、ここで聞いてる分には結構好きかも」
「そうなのですね」
セリーも窓へ目を向ける。
中庭の補修した椅子はすっかり濡れていた。昨日まで二人が座っていた場所へ細かな雨粒が落ち続け、木の表面に薄い水の膜を作っている。
「今日は座れないな」
「乾くまでお待ちください」
「分かってる」
「確認のために座ることもお控えください」
「濡れてる椅子に座って何を確認するんだよ」
アルが笑うと、セリーも小さく笑った。
そんな朝のやり取りを遮るように、アルの腕にあるエルが淡く光る。
『王立魔導研究院より照会回答が到着しました』
アルの表情がわずかに変わった。
「正式回答?」
『はい。関連資料照合後の回答として送付されています』
昨日までは照合継続中だった。
ならば、研究院側で何らかの確認が終わったのだろう。
アルは反射的に立ち上がりかけ、それから動きを止めた。
セリーがその様子を見る。
「資料室へ移動されますか?」
「うん。でも、急がなくていいか」
アルは残っていた茶を一口飲んだ。
「緊急って書いてある?」
『ありません』
「じゃあ、アンナマリーとブラートにも知らせて。来られるなら一緒に読もう」
『承知しました』
アルは茶を飲み終えてから席を立った。
研究院から答えが来た。
胸の奥には確かに早く読みたいという気持ちがある。
けれど、その気持ちが強いからこそ、一人で先に読んで判断する必要はなかった。
◇
アンナマリーとブラートが資料室へ来たのは、それから一時間ほど後だった。
その間、アルは研究院の回答を開いていない。
封印された紙の束はエルを介して塔側で出力され、机の中央に置かれていた。
セリーが四人分の茶を用意し終えると、アルは椅子へ座った。
「じゃあ、読むか」
「待たせたわね」
アンナマリーが言う。
「別に。先に読む理由もなかったし」
ブラートは回答書の表紙を確認した。
「照会内容は、外部状態確認に関連する用語および設備名称について、既存資料から確認可能な範囲を求めたものです。こちらで見つけた『外部確認札挿入部』という名称は、照会文には含めていません」
「うん」
アルも確認する。
研究院側が以前示した「外部状態確認部」という語と、旧保養施設側で見つかった「外部確認札挿入部」。
似ている。
だからこそ、最初から同じものとして質問しなかった。
研究院が独立して何を見つけるかを知るためだった。
「エル、最初から読んで」
『承知しました』
淡い光とともに、研究院からの回答が読み上げられる。
『照会された外部状態確認関連用語について、旧施設設備管理記録群および移管済み関連記録群を照合した結果、複数の関連候補を確認した。ただし、以下の情報は照会対象施設との同一性を示すものではなく、資料群間の関連可能性を示すものである』
アルは最初の一文を聞いたところで、小さく息を吐いた。
「最初に線を引いてくれてるな」
「ええ」
アンナマリーが頷く。
「この書き方なら、少なくとも研究院側も施設を特定したとは考えていない」
エルが続きを読む。
『設備資料中の「外部状態確認部」については、単一形式の設備名称ではなく、複数施設・複数年代において類似目的の設備または設備群を示す分類名称として使用された可能性が高い』
アルの眉が動く。
「一個の決まった装置じゃない?」
『回答書上はその可能性が高いとされています』
ブラートが紙面を確認する。
「これは大きいですね。少なくとも『外部状態確認部』という名称だけから、同じ形状や同じ操作方法を想定するのは危険です」
「旧保養施設の挿入部と同じだとも言えないわね」
アンナマリーが続ける。
「むしろ、同じ名前に近いものが複数種類あると分かったことで、形状の一致を確認しないまま結びつける危険が増えたとも言えるわ」
アルは頷いた。
「続けて」
エルが次の部分を読み上げる。
『関連設備資料の一部は、設備管理資料から保護行政記録群へ移管された形跡がある。受入簿には「設備付属確認資料 一部行政側移管。理由――保護判断手順との重複による」との記載が確認された。ただし、当該記載は複数施設の資料を一括管理した受入簿に存在し、照会対象となる特定設備との直接対応は現時点で確認できない』
アルはすぐに口を開かなかった。
設備の資料が行政側へ移った。
理由は、保護判断手順との重複。
言葉だけを拾えば、いくらでも想像できる。
「保護って……」
言いかけて、アルは止めた。
(誰かを保護するため、と考えたくなる。でも、それはまだ早い)
これまで「保持対象」という言葉が人だけを指していなかったことを思い出す。
薬。
原記録。
温度管理が必要な物品。
移送待ちの生命体。
一時保管された魔導具。
構造保持設備群。
古い分類は、今の言葉の感覚だけで読めば簡単に間違える。
「次を読もう」
アルが言った。
エルの声が続く。
『保護行政記録群に残存する旧分類表において、「保護判断手順」について以下の定義を確認した』
そこで一度区切られ、原文が読み上げられた。
『対象状態を直接確認できない場合における、状態変更・移送・開口・解除等の可否判断手順。対象種別を問わず適用する場合あり』
資料室が静かになった。
窓の外から雨の音が聞こえる。
アルは机の上に置いた指をわずかに動かした。
「開口が入ってる」
「ええ」
アンナマリーの声も少し低くなる。
これまで研究院から届いた別の資料には、「開口前確認」「保持状態確認」「内部状態変化の可能性」という表現があった。
それだけでも、旧保養施設の壁や設備を安易に開くべきではない理由になっていた。
そして今回の資料では、開口が「保護判断手順」の対象となる行為の一つとして明示されている。
しかし、それだけでは何を保護しているのか分からない。
「対象種別を問わず、か」
ブラートが呟く。
「この一文は重要です。保護判断手順が人間専用の規則ではないことを示しています」
「少なくとも、そう読めるわね」
アンナマリーが答える。
「逆に、人間を含まないとも書いていない」
アルが言う。
二人が彼を見る。
「対象種別を問わないなら、人じゃないものだけとも限らない。でも、人がいる証拠にもならない」
「その通りです」
ブラートが頷いた。
エルが回答の次の部分へ進む。
『同分類表には、以下の注意記載が存在する』
続いて読み上げられた言葉に、アルは今度こそ身体をわずかに強張らせた。
『確認不能は不在を意味せず。応答不能は拒否不存在を意味せず』
誰もすぐには話さなかった。
雨音だけが資料室へ落ちてくる。
アルの頭の中に、いくつものものが浮かんだ。
古い施設。
壁。
表示部。
開口前確認。
保持状態。
子供たち。
声をうまく出せなかった者。
自分の意思を伝えることそのものを奪われた人々。
そして、選べない状態にいる誰かを、選ばなかったことにしてはいけないという、これまで何度も向き合ってきた問題。
胸の奥がざわつく。
(これを、人がいるって意味にしたら駄目だ)
そう思っても、言葉の後半が心へ引っかかる。
応答不能は拒否不存在を意味せず。
単なる設備に対して「拒否」という表現を使うのだろうか。
だが、古代の魔導具には高度な判断機能を持つものもある。セリーのような存在さえいる。
「続きがあるわ」
アンナマリーが静かに言った。
アルは頷いた。
「読んで」
『ただし、上記二文が同一対象種別を想定した記載であるかは不明である。また、「応答」の対象定義は現存する当該資料のみでは確定できない。古代資料における応答対象には、人、生命体、意思応答機能を持つ魔導具、設備系統その他が含まれる例が存在するため、本記載のみをもって人的対象の存在を推定することは推奨しない』
アルは背もたれへ身体を預けた。
「そこまで書いてくれたか」
「研究院も同じところで引っかかったのでしょうね」
アンナマリーが言う。
「だからこそ、先に注意を入れた」
ブラートは回答書の該当箇所へ目を落としている。
「良い回答だと思います。分からない部分を削らず、そのまま渡している」
アルもそう思った。
もし研究院が「人的対象の可能性あり」とだけ書いていたなら、旧保養施設の空気は一気に変わっていただろう。
誰かが閉じ込められているかもしれない。
助けなければならないかもしれない。
そんな焦りが生まれる。
反対に、「設備用語であるため人間とは無関係」と断定されていても危険だった。
どちらにも決められないから、どちらにも決めない。
「まだ続く?」
『はい』
エルが読み上げる。
『外部状態確認関連設備について、確認できた範囲では、開口・解除・移送その他の状態変更を実施する前に、対象または内部状態を外部から確認する目的で使用された例が存在する。ただし、確認方法は施設および年代により異なり、確認札、状態表示板、魔力応答器、外部接続式照会具等の複数形式が確認されている』
フェリクスがこの場にいれば、間違いなく身を乗り出しただろう。
アルでさえ、その中の一語へ意識を引かれる。
「確認札」
「出たわね」
アンナマリーも同じ言葉へ反応した。
旧保養施設で見つかった古い図面には、「外部確認札挿入部」と書かれていた。
研究院にはその名称を伝えていない。
にもかかわらず、研究院側の別資料から「確認札」という形式が出てきた。
これは意味がある。
だが、まだ同一性の証明ではない。
アルは自分にそう言い聞かせるように、次の言葉を慎重に選んだ。
「確認札ってものが実在したことは分かった」
「ええ」
「でも、旧保養施設の挿入部で使った札が、研究院の資料にある確認札と同じとはまだ言えない」
ブラートが頷く。
「名称の一致度は上がりました。しかし、確認札自体に複数形式がある可能性もあります」
「続きに何かある?」
『あります』
『確認札を用いる形式については、現存資料から少なくとも複数種類が確認される。一部は設備状態の照会、一部は保管対象の状態照会、一部は開口条件の確認に使用されたとみられる。札そのものが認証鍵または開口鍵として機能したかについては資料ごとに異なり、代替札を使用しないよう求める記載も存在する』
アルは眉を寄せた。
「代替札を使うな……」
旧保養施設で既に見つかっていた断片資料。
『確認札欠損時、代替札を使用せず、記録照会を優先』
言葉がつながった。
しかし、それでも施設そのものがつながったわけではない。
「ここは現場へ送るとき、特に注意書きが必要だな」
アルが言う。
アンナマリーが少し意外そうに彼を見る。
「あなたから送るの?」
「いや」
アルは首を横へ振った。
「研究院の回答そのものは共有する。でも、俺が注意書きを決めるんじゃなくて、アンナマリーとブラート、それから現場側で読んで、必要なら整理してほしい」
「あなたの意見は?」
「あるよ」
アルは回答書を見る。
「今まで以上に触らない方がいいと思ってる」
「理由は?」
「確認札が鍵じゃない可能性があるから」
ブラートが目を細めた。
アルは続ける。
「もし札を入れたら扉が開くってだけなら、入れなければいい。でも、札が状態を確認するためのものなら、どういう仕組みで確認するのか分からない。差し込むだけで何かが動くかもしれないし、内部へ魔力を送るかもしれない」
「ええ」
「それに、研究院の回答だと、確認札の役割は一種類じゃない」
アルはそこで言葉を切り、窓の外へ目を向けた。
雨はまだ降っている。
「だから今は、札が見つかっても入れない。挿入口らしいものが見つかっても触らない。そこは変わらないと思う」
「賛成よ」
アンナマリーが答えた。
ブラートも頷く。
「現場側の現在の安全条件とも一致します」
「ただし」
アルは続けた。
「誰かが中にいる可能性が上がった、とは書かないでほしい」
「分かっているわ」
「俺自身、そう考えそうになったから」
アルは苦笑した。
「『応答不能は拒否不存在を意味せず』なんて読んだら、どうしても人を想像する。でも研究院がわざわざ、人的対象を推定するなって書いてる」
セリーがそれまで黙って聞いていたが、そこで口を開いた。
「主様」
「うん?」
「もし、人ではなかった場合、主様は安心されますか?」
アルは答えに詰まった。
「……どうだろう」
セリーは急かさず待つ。
「人が閉じ込められてないなら、その点では安心する。でも、意思を持つ魔導具とか生命体だったら、結局同じように考えなきゃいけないかもしれない」
「はい」
「設備だけだったとしても、開けたことで危険になるなら、やっぱり確認は必要だし」
セリーは頷いた。
「では、今は対象を決めなくても、慎重に扱う理由は変わらないのですね」
アルは少し考えてから笑った。
「そうだな」
対象が何であるか分からない。
だから何もできないのではない。
分からない状態でも、やらない方がいいことはある。
◇
研究院からの回答が旧保養施設へ共有されたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
ガルム、リディア、フェリクス、トーマスが同じ机を囲んでいる。
フェリクスは「確認札」という文字を見つけた瞬間、明らかに姿勢を変えた。
ガルムはそれを見逃さなかった。
「座ってろ」
「立ってません」
「今にも立ちそうだった」
「……否定はしません」
トーマスが小さく笑ったが、すぐ資料へ視線を戻した。
リディアは研究院の回答と、こちらにある古い図面の写しを並べる。
「研究院側は、こちらの『外部確認札挿入部』という名称を知らない状態で『確認札』形式を挙げています」
「偶然の一致として片づけるには少し強くなりましたね」
フェリクスが言う。
ガルムがすぐ返す。
「同じ物だって意味か?」
「いいえ」
フェリクスは首を横へ振った。
「関連する技術体系だった可能性を検討する理由が増えた、という意味です。同じ施設、同じ年代、同じ札、同じ機能とは言えません」
「ならいい」
フェリクスは資料を指で追う。
「それに、確認札が複数用途だったというのは重要です。状態照会、保管対象照会、開口条件確認……札そのものが鍵とは限らない」
リディアが古い図面の下部を見る。
「現在の表示部の下側は、汚れと補修材で十分に確認できません」
「掃除したいとは言うなよ」
ガルムが先回りする。
フェリクスが口を閉じた。
トーマスが横を向いて笑いをこらえる。
「今、言おうとしただろ」
「掃除ではなく、既存写真の画像条件を変えて――」
「新しい加工で見えるようにするのも、先に原記録を残してからだ」
リディアが言う。
フェリクスは両手を上げた。
「分かりました。まず既存写真の原本保存状態を確認します。加工するなら複製のみ。見えなかったものが加工で見えたように錯覚する可能性も記録する」
ガルムは満足そうに頷いた。
「それならやれ」
フェリクスがすぐ資料へ手を伸ばす。
その横で、トーマスは研究院回答の別の箇所を読んでいた。
「ガルム隊長」
「なんだ」
「これ、ちょっと気になります」
トーマスが示したのは、「確認不能は不在を意味せず」という部分だった。
「何がだ?」
「俺たち、今まで光らなかった夜とか音がなかった夜も記録してますよね」
「ああ」
「でも、これって『見えなかったから何もなかったとは限らない』って意味にも読めます」
ガルムはすぐ答えず、リディアを見る。
リディアも少し考えた。
「そう読める可能性はあります。ただし、この文章が私たちの観測方法について書かれたものではありません」
「ですよね」
「だから、今の観測記録へそのまま規則として持ち込むべきではないと思います」
フェリクスが顔を上げる。
「でも考え方としては参考になりますね。無点灯だった夜を『内部変化なし』と書いていないのは正しかった」
「そこは以前の歴史資料にもあっただろ」
ガルムが言う。
「窓の点灯だけから内部稼働を推定するなってやつだ」
「はい」
トーマスは自分の記録用紙を見た。
「じゃあ、今まで通りでいいんですね」
「今まで通りって言葉も気をつけろ」
ガルムが返す。
「資料が増えたからって、何も考えず同じことを続ける意味じゃない。今のところ変える理由がないから維持する。それだけだ」
「はい」
トーマスは頷いた。
その言葉を聞きながら、フェリクスは少し笑った。
「隊長、だいぶ研究者みたいになってきましたね」
「お前が兵士みたいに命令を聞くようになったら考えてやる」
「最近はかなり聞いていると思いますが」
「自分で言うな」
張り詰めかけた空気が少し緩む。
しかし、誰も西側の壁へ向かおうとはしなかった。
新しい資料が来た。
だからこそ、触らない理由が増えた。
◇
同じ頃、塔の別室では、三〇八号室の少年の診察が行われていた。
白い薬は、以前減らした量のまま維持されている。
青と紫の薬は使っていない。
少年は寝台ではなく、窓際の椅子へ座っていた。机の上には水と、簡単な食事、それから小さな箱が置かれている。
箱の中には、以前少しだけ開いた手紙が分けて保管されていた。
赤い布に包まれた残りの手紙には触れていない。
診察を担当するヨアヒムは、少年の脈を確認したあと、手を離した。
「今日はここまででいい」
少年が少し意外そうに見る。
「薬、聞かないの?」
「何を?」
「減らすか」
ヨアヒムは椅子へ座り直した。
「今日は体調の確認が目的だ。減らしたいなら、その話はできる」
少年は机の上の水を見る。
「……聞かないなら、減らせない?」
「違う」
ヨアヒムはゆっくり答える。
「毎回こちらから聞かなければ変えられない、という決まりにはしていない。お前から言ってもいいし、体調に変化があれば俺から提案することもある」
少年は黙った。
「言わなかったら?」
「今の量を続ける。今のところ、急いで変えなければ危険という状態ではない」
「じゃあ、言わない」
「分かった」
ヨアヒムはそれだけ答え、記録へ書き込む。
少年が少し不安そうに彼の手元を見る。
「何て書いた?」
「体調に大きな変化なし。薬量変更なし」
「僕が減らしたくないって?」
「書いていない」
少年が顔を上げる。
「なんで?」
「お前は『減らしたくない』とは言ってないからだ」
「でも、言わないって言った」
「今日は自分から変更を申し出ない、という意味には取れる。でも、それを『減らしたくない』と同じ言葉にする必要はない」
少年はしばらくヨアヒムを見ていた。
やがて、机の端にある小さな箱へ視線を移す。
「手紙も?」
「ん?」
「読まないって言ったら、読みたくないって書く?」
ヨアヒムは箱を見る。
一度だけ開いた手紙。
そこに書かれていたのは、「我が息子アルフォンスへ」という呼びかけだった。
それ以上は読んでいない。
「今日読まないなら、『今日は読まなかった』でいいんじゃないか」
少年の指が膝の上で少し動く。
「あとで読みたくなるかもしれない?」
「なるかもしれないし、ならないかもしれない」
「読んだら、僕が誰か分かる?」
ヨアヒムは即答しなかった。
少年が求めているのは医学的な説明ではない。
そして、手紙を読めば身元が確定するとも言えない。
宛名が「アルフォンス」であったことだけでは、目の前の少年が本当にその名の人物である証拠にはならない。
「分からない」
ヨアヒムは答えた。
少年の表情が少し曇る。
「読んでも?」
「何か分かる可能性はある。でも、手紙に書いてあることが全部正しいかも分からないし、その手紙が本当にお前へ向けたものかも、まだ確認できていない」
少年は箱を見つめた。
「じゃあ、意味ない?」
「意味がないとも言ってない」
ヨアヒムは少し前へ身体を傾ける。
「読めば分かることはあるかもしれない。でも、『全部分かる』とは約束できない」
少年は長く黙った。
窓の外では雨が降っている。
その音を聞きながら、少年はやがて小さく息を吐いた。
「今日は、読まない」
「分かった」
「明日は分からない」
「それも分かった」
ヨアヒムは記録へ、「本人、本日の手紙開封を希望せず。将来の開封意向は未定」とだけ書いた。
少年はそれを読ませてもらい、しばらく眺めたあと、何も訂正しなかった。
「これならいい」
「そうか」
ヨアヒムが記録を閉じる。
少年は箱へ手を伸ばさなかった。
それでも、箱を遠ざけてほしいとも言わなかった。
◇
夕方、三〇八号室の報告を受け取ったアルは、資料室で一人その記録を読んでいた。
研究院から届いた回答も机の端に置かれている。
『応答不能は拒否不存在を意味せず』
その古い一文を読んだあとだからだろうか。
少年の「今日は読まない」「明日は分からない」という言葉が、いつも以上に心へ残った。
返事がないから、拒んでいないことにはならない。
今日断ったから、明日も断ることにはならない。
今日受け入れたから、明日も受け入れなければならないわけでもない。
似ているようで、それぞれ違う。
アルは手紙の記録を閉じた。
(あの子が自分で言えるなら、その言葉を残せばいい)
言えないときはどうするのか。
そこが難しい。
何も言えない人を放置するわけにはいかない。
だからといって、言えないことを都合よく同意へ変えることもできない。
研究院の古い資料が、二千年前にどこまで同じ問題を考えていたのかは分からない。
現代と同じ思想だったと決めるのも危険だ。
ただ、少なくとも「応答できないこと」と「拒否が存在しないこと」を分けて考えた誰かがいた。
その事実だけは、アルの中に残った。
扉が静かに開く。
セリーが入ってきた。
「主様。夕食の準備ができました」
「もうそんな時間?」
「はい」
アルは窓を見る。
雨雲のせいで外が暗くなるのが早く、時間の感覚が少しずれていた。
「行く」
資料を閉じて立ち上がる。
セリーは机の上の紙を見た。
「研究院の回答について、まだ考えておられましたか?」
「それもある。でも、三〇八号室の報告も来た」
「お加減に変化が?」
「大きな変化はないよ。薬も今の量のまま」
「そうですか」
二人は並んで廊下を歩き始める。
途中、アルが言った。
「手紙、今日は読まないって」
「はい」
「明日は分からないって言ったらしい」
セリーは少しだけ考える。
「明日になれば、またそのときの気持ちがあるのですね」
「うん」
「主様も同じではありませんか?」
「俺?」
「昨日は私と肩をつけて座りたいと思われました。今日は、まだ何も尋ねておられません」
アルは足を止めかけたが、そのまま歩いた。
「そう言われるとそうだな」
「今日は触れたくありませんか?」
セリーの問いは穏やかだった。
昨日を確認するためではない。
今を尋ねている。
アルは自分の気持ちを確かめる。
「触れたい」
「私もです」
セリーが答える。
廊下の途中で手を握る必要はない。
二人はそのまま食堂へ向かった。
触れたいという気持ちが分かっただけで、急いで形にする必要はなかった。
◇
夕食後、雨はまだ続いていた。
中庭には出られない。
アルとセリーは塔の居間で過ごしていた。
暖炉には小さな火が入り、雨で冷えた空気を柔らかく暖めている。
アルは長椅子の端へ座り、セリーは少し離れた場所で茶を飲んでいた。
研究院の資料については、もう話していない。
三〇八号室の少年についても同じだった。
しばらく互いに別のことをしていたが、セリーが茶器を置いた。
「主様」
「ん?」
「先ほど、触れたいとおっしゃいました」
「うん」
「今もですか?」
アルは自分の気持ちを確かめた。
「うん。今も」
セリーは少しだけ身体を寄せる。
「私もです」
アルは手を差し出しかけて、ふと止めた。
「今日は、どうする?」
「どうする、とは?」
「手でもいいし、昨日みたいに肩でもいいし。別に違うのでもいい」
セリーは少し考える。
すぐ答えなくても、アルは待った。
やがて彼女は自分の肩を見て、それからアルを見る。
「今日は、こちらがよいです」
「肩?」
「はい」
アルは笑った。
「俺もそれがいいかも」
二人は少しずつ距離を詰めた。
昨日の中庭とは違い、今日は長椅子である。
セリーの肩がアルの肩へ触れる。
昨日より自然だった。
触れた瞬間の緊張はある。
けれど、それを不安だけとは感じない。
アルは暖炉の火を見ながら、肩から伝わる温度を感じた。
「手を握るのと違うな」
「はい」
「どっちが好き?」
問いかけてから、アルは少しだけ後悔した。
比較させる必要はなかったかもしれない。
だが、セリーは困った顔をしなかった。
「まだ決められません」
「そっか」
「決めなくてもよいですか?」
「もちろん」
セリーの肩から、わずかに力が抜ける。
「主様は?」
「俺も分かんない」
アルは笑った。
「手を握るのも好きだし、これも好き」
「では、同じですね」
「そうかも」
それから二人は黙った。
暖炉で薪が小さく爆ぜる。
窓の向こうでは雨が降り続けている。
答えを出すための沈黙ではない。
ただ、一緒にいる時間だった。
◇
夜遅く。
旧保養施設の観測室では、リディアが既存写真の原本を確認していた。
フェリクスは隣にいるが、原本には触れていない。
複製画像の明度を変え、表示部下側の汚れと補修材の境界を確認している。
「ここ」
フェリクスが画面の一部を示した。
「横方向に直線らしいものがあります」
リディアはすぐには同意しなかった。
「補修材の端にも見えます」
「はい」
「挿入口の輪郭にも?」
「見えなくはないです」
「なら、どちらとも書かない方がいいですね」
フェリクスは少しだけ残念そうに笑った。
「最近、私が言う前に止めますね」
「止められる前に止まってください」
「努力しています」
別の複製条件でも確認する。
今度は逆に、先ほど直線に見えた部分が不明瞭になった。
フェリクスの表情が変わる。
「加工条件で見え方が変わりすぎる」
「ええ。これでは形状確認には使えません」
リディアは結果を記録した。
『既存写真複製による視認性調整を試行。下部に直線状境界らしき像が見える条件あり。ただし補修材境界との識別不能。加工条件により像の明瞭度変化大。設備形状判断には使用しない』
フェリクスは記録を読んでから頷いた。
「これでいいです」
「もっと見たいですか?」
「見たいですよ」
フェリクスは正直に答えた。
「研究院から確認札なんて言葉まで出てきたんです。あの汚れを取れば何かあるかもしれないと考えます」
「でも?」
「今はやりません」
フェリクスは画面を閉じた。
「見たいと思っている自分が一番強いときに、触る理由を作り始めるのは危ないので」
リディアは少しだけ笑った。
「成長しましたね」
「その言い方は少し腹が立ちます」
「褒めています」
「なら受け取っておきます」
二人が作業を終えた頃、夜間観測はすでに始まっていた。
表示部に変化はない。
音もない。
受動計測値も通常範囲だった。
研究院から新しい資料が届いた夜だからといって、古い施設が答えを返してくれるわけではない。
◇
さらに離れた王立魔導研究院では、アルたちへ送った回答の控えが正式保管されていた。
照合作業を担当した研究員は、その日の最後に未解決項目を整理している。
外部状態確認部。
確認札。
保護判断手順。
開口前確認。
保持状態確認。
それぞれに関連は見え始めている。
しかし、まだ欠けているものがある。
どの施設で、どの形式が使われたのか。
何を確認していたのか。
確認結果によって、どの操作が許可または禁止されたのか。
そして、「応答不能は拒否不存在を意味せず」という原則が、どの対象を想定して書かれたものなのか。
研究員は未解決欄へ一つずつ記入していく。
最後に、別棟資料への照会候補が表示された。
保護行政記録群からさらに移管された資料の一部。
現在の索引では、王立医療局との共同保管記録へ接続している可能性がある。
研究員はすぐ照会を送らなかった。
医療記録が関係するからといって、人間の患者がいた証拠にはならない。
設備事故に伴う医療対応記録かもしれない。
生命体保護に関する記録かもしれない。
あるいは、まったく別の施設の資料かもしれない。
まず移管番号を確認する。
それから照会範囲を決める。
研究員は候補欄へ印だけを付け、その日の作業を終えた。
◇
塔では、暖炉の火が少し小さくなっていた。
アルとセリーはまだ肩を触れ合わせている。
長く同じ姿勢でいたせいか、アルの肩が少し痺れてきた。
それを我慢し続ける理由はない。
「セリー」
「はい」
「ちょっと肩、痺れてきた」
セリーがすぐ身体を離した。
「申し訳ありません」
「謝らなくていいって」
アルも肩を回す。
「長くくっついてたからだよ」
「痛みはありますか?」
「ないない。ちょっと痺れただけ」
セリーは心配そうに見ていたが、アルが腕を動かせていることを確認すると表情を緩めた。
「今日はここまでにしますか?」
アルは考える。
「肩はね」
「はい」
「でも、もうちょっと一緒にいたい」
セリーの目が少し柔らかくなる。
「私もです」
二人は少し離れて座り直した。
触れてはいない。
それでも、さっきまでより寂しいとは感じなかった。
アルは暖炉へ薪を一本足しながら、今日届いた研究院の言葉を思い出す。
確認できないことは、不在を意味しない。
応答できないことは、拒否が存在しないことを意味しない。
古い言葉だった。
誰が、何のために残したのかはまだ分からない。
今の自分たちと同じ考えだったのかも分からない。
だから、都合よく自分たちの思想の証明に使うべきではない。
ただ、その言葉が残っている。
それだけだった。
そして、それだけでも次に調べる理由にはなる。
「主様」
「ん?」
「今日は、たくさん分かりましたか?」
セリーの問いに、アルは少し考えた。
「分かったことは増えた」
「はい」
「でも、答えが増えた感じはしないな」
「そうなのですか?」
「確認札ってものが本当にあったことは分かった。保護判断手順に開口が含まれることも分かった。応答できないものを勝手に拒否してないことにするな、みたいな考えが古い記録にあることも分かった」
アルは暖炉の火を見つめる。
「でも、それが旧保養施設で何を意味するかは、まだ分からない」
セリーは頷いた。
「では、今日は答えが出なかったのですね」
「うん」
アルは少し笑った。
「でも、前より何が分からないかは分かった」
「それは、進んだことになりますか?」
「俺はそう思う」
窓の外では、朝から続いていた雨がようやく弱くなり始めていた。
明日になれば中庭の椅子も乾き始めるかもしれない。
研究院では、さらに別の記録へ続く道が見つかるかもしれない。
旧保養施設では、また光や音が記録されるかもしれないし、何も起きないかもしれない。
三〇八号室の少年が手紙を読みたいと言うかもしれないし、まだ読まないと言うかもしれない。
どれも、今夜のうちに決めることではなかった。
アルは長椅子の隣にいるセリーを見た。
「そろそろ寝る?」
「はい。主様もお休みください」
「分かった」
二人で立ち上がる。
触れてはいない。
けれど、同じ扉へ向かって並んで歩く。
資料室には、答えになりきらない記録が残されている。
旧保養施設にも、研究院にも、三〇八号室にも、それぞれまだ決めてはいけないものがある。
それらを急いで一つの答えへ押し込めるのではなく、違うものは違うまま、分からないものは分からないまま残しながら、それでも昨日より少しだけ先まで確かめていく。
二千年前の記録がようやく示したのは、壁の向こうに何があるのかという答えではなかった。
そこへ手を伸ばす前に、まだ知るべきことがあるという事実だった。




