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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第121話 まだ触れないために知る


前夜まで降り続いていた雨は、夜が明ける頃にはすっかり上がっていた。


塔の東側に並ぶ窓からは、雲の切れ間を抜けた朝の光が差し込み、濡れた中庭の石畳を淡く照らしている。軒先からはまだ時折大きな雫が落ちていたものの、空気には雨上がり特有の冷たさと湿った土の匂いが残るだけで、昨日のような薄暗さはなかった。


アルは食堂へ入ると、窓越しに中庭の椅子を確認した。


座面にはまだ細かな水滴が残っている。


昨日は雨で使えなかった椅子だが、このまま晴れれば昼過ぎには乾くかもしれない。そんなことを考えながら席へ着くと、朝食を運んできたセリーがアルの視線を追った。


「中庭が気になりますか?」


「椅子が乾くかなって」


「午前中はまだ湿っていると思います。日が当たり続ければ、午後には確認できるかもしれません」


「確認って、座って?」


「まず手で触れて湿り気を確かめます。主様のお召し物を確認道具にはいたしません」


アルは思わず笑った。


「昨日も似たようなこと言ってたな」


「主様が濡れた椅子へ座ろうとなさらなければ、何度も申し上げる必要はありません」


「一度もやってないだろ」


そう返しながら、アルは用意された朝食へ目を向けた。


焼きたてのパンと卵、温かな野菜のスープ、それから薄く焼いた肉が少量添えられている。昨日の昼食が軽かったわけでも、体調を崩しているわけでもないので、今日は普段通りの量だった。


セリーも向かいへ座る。


以前なら、彼女がどこへ座るかをアルが意識することはほとんどなかった。


今は少し違う。


向かいに座ったから距離を置かれたとは思わないし、隣に座ったから特別な意味があるとも決めない。それでも、今日は向かいなのだな、と自然に目が向く。


セリーがパンを取ろうとして、アルの視線に気づいた。


「主様?」


「いや、今日は向かいなんだなって思っただけ」


「はい。スープをお出しする際、こちらの方が座りやすかったので」


「そっか」


それだけで会話は終わった。


アルも続きを求めない。


昨日は肩を触れ合わせた。


今日は朝から触れていない。


だからといって、昨日の時間が薄くなったわけではなかった。


(こういうのも、少しずつ慣れていくのかな)


好きだと伝えてから、まだ長い時間が経ったわけではない。


それでも、好きだと知られていることへの緊張は、最初よりわずかに柔らかくなっている気がする。セリーが自分の気持ちに今すぐ名前を付けていないことも、以前ほど「待っている」という感覚では捉えなくなっていた。


待つというより、一緒に暮らしている。


その途中に、答えが出る日もあれば、出ない日もあるのだろう。


「主様」


考え込んでいるうちに、セリーがアルの皿を見ていた。


「肉が残っています」


「食べるよ」


「考え事をなさると、食事の速度が落ちますね」


「見てたの?」


「見ています」


あまりにも迷いのない返事だったので、アルは肉を口へ運びながら笑ってしまった。


「前にも言ってたな。見たいから見てるって」


「はい」


セリーは少しだけ頬を緩める。


あの言葉がきっかけで、アルは自分の気持ちを思わぬ形で口にしてしまった。


思い出せば今でも恥ずかしい。


けれど、取り消したいとは思わない。


「今日は椅子から落ちないよ」


「食堂の椅子から落ちるほど驚かれることを、私はまだ申し上げておりません」


「まだって何?」


「今後については分かりませんので」


セリーが平然とスープを飲む。


アルはしばらく彼女を見たあと、声を立てずに笑った。


そんな朝が過ぎていく。


研究院から重要な回答が届いた翌日であっても、塔の朝食が特別な儀式へ変わるわけではなかった。


          ◇


同じ頃、旧保養施設では夜間観測の交代が終わっていた。


前夜は表示部の発光も、方向を特定できる音も確認されていない。受動計測器にも通常変動幅を超える値はなく、床へ置いた視覚基準具にも位置のずれはなかった。


ガルムは夜勤者二名から記録を受け取ると、机の上へ並べた。


「何もなかった、で終わらせるなよ」


若い兵士が頷く。


「はい。観測時間中、指定項目について認識できる変化なし、です」


「それならいい」


もう一人の兵士も自分の記録を差し出した。


前夜に研究院の回答が届いたことで、観測者たちの意識が変わっている可能性はある。


確認札。


開口。


応答。


そんな言葉を知ったあとでは、同じ壁を見ても以前とは違って見えるかもしれない。


だからこそ、リディアは夜勤開始前に研究院資料を細かく説明しなかった。


共有したのは、安全上必要な部分だけである。


現物へ触れない。


表示部下側の汚れや補修材を除去しない。


挿入口らしき形状を探す目的で接近しない。


何かを発見しても操作しない。


それ以外については、観測終了後に資料を読めるようにしていた。


観測者の目へ新しい仮説を先に入れすぎないためだった。


「昨日の回答を読んだのは、交代してからか?」


ガルムが尋ねる。


「はい」


「何か気になるところは?」


一人が少し考えた。


「『確認不能は不在を意味せず』ってところです」


「どう気になった?」


「俺たちが何も見なかった夜も、何も起きてないって意味じゃないんだなって」


ガルムはすぐに肯定しなかった。


「逆も忘れるな。何か見えたからって、中で何か起きたと決まるわけでもない」


「あ……はい」


「お前が間違ってるって話じゃない。古い規則を今の観測へそのまま当てはめるなってことだ」


兵士は記録紙へ視線を落とした。


「じゃあ、今まで通り、見たものだけですか?」


「見たものと、見なかった範囲だな。ただし、自分がずっと見てなかった場所まで『変化なし』にはするな」


「分かりました」


ガルムは二人を休ませると、観測室へ戻った。


そこではリディアが視覚基準具の配置を確認しており、トーマスが番号板の一つを手にしている。


「動かすのか?」


ガルムの声に、トーマスは振り返った。


「いえ。夜に数字へ意識が引っ張られるって意見があったので、番号表示だけ外せる形にできないか見ています。基準具そのものはまだ動かしてません」


ガルムは床を見る。


低い木製の台座は、前夜と同じ位置にある。


「番号だけ取ると、記録するとき困らないか?」


「そこなんですよね」


トーマスは手にした板を元へ戻した。


「形だけで場所を言えるようにすると、今度は『細い板の右』とか『少し高い方の左』とか、別の曖昧さが増えそうで」


「だったら無理に変えるな」


「はい。ただ、夜に数字を読もうとする人がいる問題は残ります」


少し離れたところで聞いていたリディアが、床から立ち上がった。


「番号の位置を観測対象から視線を外さないと読めない場所へ移す方法はあります。観測中には自然に見えず、記録時だけ確認できる位置です」


トーマスが考え込む。


「台座の裏側ですか?」


「候補の一つです。ただし、今の番号に慣れ始めた段階で変更すると、旧記録との対応を間違える可能性があります」


「だったら、変えるとしても対応表が必要ですね」


「ええ」


ガルムは二人のやり取りを聞きながら腕を組んだ。


小さな番号板一つでも、変えれば記録の意味が変わる。


方法を改善すること自体は悪くない。


しかし、改善した瞬間から過去の記録が同じ基準で読めなくなるなら、その変化も残さなければならない。


「今日中に決める必要はあるか?」


リディアが首を横へ振った。


「ありません。現状でも観測自体はできます」


「なら試案だけ作れ。今夜は変えない」


「了解しました」


トーマスも頷いた。


以前なら、自分が出した案を少しでも良くしたいという気持ちが先に立ったかもしれない。


今は違う。


使う人間が困るなら変える。


変えることで別の問題が出るなら待つ。


自分の案が残ることより、記録が役に立つことの方が大切だと、少しずつ実感できるようになっていた。


          ◇


塔の資料室では、午前のうちにアンナマリーとブラートが前日の研究院回答を再整理していた。


アルも同席しているが、机の中央に座って指示を出しているわけではない。


三人の前には同じ回答書の写しがあり、それぞれが気になった箇所へ印を付けている。


セリーは窓際の小卓で茶の準備をしていた。


「昨日の回答を受けて、こちらから追加で聞くことはある?」


アルが尋ねると、アンナマリーはすぐに答えず、自分の紙を見直した。


「聞けることならいくつもあるわ。でも、今すぐ聞くべきかは別ね」


「例えば?」


「確認札の形式。保護判断手順が使われた施設一覧。『応答』の定義。設備資料から保護行政記録群へ移された別紙の所在。開口条件確認に使われた札の具体例……思いつくだけなら増やせるわ」


ブラートも頷く。


「ただし、全部を一度に照会すると、研究院側がこちらの関心に合わせて資料を選別する可能性があります」


アルは少し考えた。


「質問した側の言葉に引っ張られる?」


「はい。意図的でなくても起こります。こちらが『人が中にいる場合の確認札』と尋ねれば、人に関連する資料を優先して探すでしょう」


「それは避けたいな」


「同感よ」


アンナマリーは一枚の紙をアルの方へ滑らせた。


そこには、回答によって新しく分かったことと、まだ分からないことが分けて書かれている。


分かったことには、確認札という形式が複数用途で存在したこと、外部状態確認部が単一装置名ではない可能性、保護判断手順に開口や解除が含まれることなどが記載されている。


分からないことには、旧保養施設との同一性、現在残る表示部との関係、挿入部の実在、確認札の具体的形状、札を使った際に設備へ何が起きるか、保護判断手順の対象などが並んでいた。


「増えたな、分からないこと」


アルが苦笑する。


「情報が増えれば、分からない範囲がはっきりすることもあるわ」


「昨日も似たこと考えてた」


「なら、少しは研究向きになったんじゃない?」


「フェリクスみたいにはなりたくないな」


資料室の端で、セリーがわずかに笑った。


アンナマリーも口元を緩める。


「本人が聞いたら抗議するわよ」


「でも今のフェリクス、かなり止まれるようになったらしいよ」


「それなら褒めるべきね」


アルは回答書へ目を戻した。


「研究院には、今すぐ追加照会しなくてもいい気がする」


ブラートが彼を見る。


「理由を伺っても?」


「昨日の回答だけでも、現場で確認することが増えた。でも、それは壁を調べるって意味じゃなくて、手元にある記録を整理する方」


アルは旧保養施設から届いた図面の写しを指した。


「研究院側で確認札に複数形式があるなら、こっちの古い図面にある『外部確認札挿入部』も、名前だけじゃ役割が分からない。だったら先に、今ある図面や記録の中で、この言葉が他に使われてないか確認した方がいいんじゃないかな」


アンナマリーが少し目を細める。


「新しく何かを探しに行く前に、既に持っている資料の語彙を見直す?」


「うん。研究院の言葉を知ったあとだから、前に見落としてたものがあるかもしれない。でも、それも『確認札を探す』って決めつけないようにしたい」


「どう検索する?」


ブラートの問いに、アルはすぐには答えなかった。


ここで「札」という文字だけを探せば、それに関係するものばかり目へ入る。


かといって、何も基準を決めなければ膨大な資料を最初から読むことになる。


「設備の操作前に使う確認手順の言葉を広めに見るとか?」


アンナマリーが頷いた。


「『確認』『照会』『開口』『解除』『保持』『外部』あたりを個別に拾って、同じ文書の中でどう使われているかを見る方がいいかもしれないわね。組み合わせを最初から限定しない」


「それなら、確認札だけに寄りすぎないですね」


ブラートも賛成した。


アルは二人を見る。


「じゃあ、それでお願いしていい?」


「ええ。ただし、全部を私たちだけでやる必要もないわ。旧保養施設側が持っている現地資料は向こうで、塔にある写しはこっちで分けた方が早い」


「現場に仕事を増やしすぎない?」


「ガルムに判断してもらえばいいでしょう。今の観測を圧迫するなら後回しにすればいい」


アルは頷いた。


「そうしよう」


決めたのは、壁を開ける方法ではない。


開けないまま、既にある情報をどう読み直すかだった。


          ◇


昼を過ぎる頃、王立魔導研究院では別の作業が進んでいた。


前日に回答をまとめた研究員は、保護行政記録群からさらに移管された資料の番号を確認するため、古い受入索引を机いっぱいに広げている。


昨日見つけたのは、王立医療局との共同保管記録へつながる可能性だった。


しかし、「医療」という言葉だけを見て患者記録と判断することはできない。


設備事故に伴う負傷者の記録かもしれず、保護対象となった生命体の管理資料かもしれない。あるいは設備と医療部門が共同使用した薬品・保存装置の資料である可能性もある。


研究員は移管番号を一つずつ照合した。


途中で番号体系が変わっている。


古い番号の末尾二桁が、新しい索引では別の分類記号へ置き換えられており、単純に数字だけを追うと別資料へつながってしまう。


「……これ、途中で再採番されてるな」


向かいの机にいた同僚が顔を上げる。


「どの年代?」


「統合保管の直前。設備資料から行政へ移ったあと、共同保管へ出したところで番号が変わってる」


「対応表は?」


「別冊のはずなんだけど、今見てる索引には付いてない」


研究員は指で番号を追いながら、余白にメモを残す。


ここで似た番号を推測して照会を出せば、違う個人記録や医療資料へアクセスを求めることになりかねない。


資料が存在することと、閲覧してよいことも別である。


「共同保管側に、内容じゃなく対応表だけ照会できるかな」


同僚が少し考える。


「資料番号変換表の照会なら、個別内容へ触れずに済むはず。ただ、古い保護行政資料が絡むなら、目的は書いた方がいい」


「旧設備資料の移管経路確認。個体記録内容の照会は求めない、と明記する」


「それがいい」


研究員は照会文を作り始めた。


その中に、旧保養施設という名称は書かない。


現時点で同じ施設だと確認できていないからである。


確認札という言葉も入れない。


まず必要なのは、資料番号がどこへ移ったのかを知ることだった。


照会文の最後には、個別医療内容・個体識別情報の開示を求めない旨を明記する。


研究員は書き終えた文面を同僚へ回した。


「これでどう?」


「いいと思う。目的も狭い」


「じゃあ、責任者確認に回す」


まだ資料の中身を取り寄せる段階ではない。


その前に、道が本当に続いているのかを確認する。


研究院でもまた、触れる前の確認が続いていた。


          ◇


午後、旧保養施設へ塔側から資料整理の提案が届いた。


ガルムは観測室で内容を読み、リディアとフェリクスを呼んだ。


トーマスはちょうど別室で基準具の試案を作っているため、この場にはいない。


「新しい調査じゃなく、手持ち資料の語彙整理だそうだ」


ガルムが紙を机へ置く。


フェリクスは一読したあと、珍しくすぐには話さなかった。


リディアが先に口を開く。


「現地原本へ新たに触れる必要がない範囲なら可能です。既に撮影・転記済みの資料だけを対象にできます」


「観測に影響は?」


「私一人で全部行うならあります。ただ、塔側と分担するなら大きくはないでしょう」


ガルムがフェリクスを見る。


「お前は?」


「やりたいです」


「それは聞かなくても分かる。どうやる?」


フェリクスは苦笑してから、資料へ目を落とした。


「まず、確認札を探す作業にはしません。塔側の案どおり、『確認』『照会』『開口』『解除』『保持』『外部』を個別に拾います。ただし単語が出たことだけじゃなく、前後の文脈を一緒に残すべきです」


「理由は?」


「例えば『開口』があっても、『開口禁止』なのか『開口後点検』なのかで意味が違います。単語数だけ数えると危険です」


リディアも頷く。


「資料年代も必要です。同じ語でも年代で意味が変わる可能性があります」


「施設名が分かるものと、分からないものも分けます」


フェリクスが続けた。


「あと、破損して読めない部分を推測で補わない。文字が半分だけ見えるものは、その状態で残します」


ガルムは二人の顔を見た。


「それならやれ。ただし今日中に答えを出そうとするな」


「出ませんよ」


フェリクスが即答した。


ガルムの眉が上がる。


「珍しく弱気だな」


「現存資料がどれだけあると思ってるんですか。今日中に終わると言ったら、そっちの方が信用できないでしょう」


「分かってきたじゃないか」


「褒められている気がしません」


そんなやり取りをしているところへ、トーマスが紙を持って入ってきた。


「隊長、基準具の案なんですけど……何か始まります?」


「資料の見直しだ。お前はそっちを終わらせろ」


「了解です」


トーマスは机の上の紙へちらりと目を向けたが、それ以上近づかなかった。


自分が関わっていない仕事まで覗き込む必要はない。


「基準具は?」


ガルムが尋ねる。


「番号を台座の観測対象と反対側へ移す案と、番号をそのままにして夜間担当へ『観測中に読む必要はない』と明示する案を作りました。俺は後者から試した方がいいと思います」


「理由は?」


「物を変えなくて済むからです。それで意識が引っ張られなくなるなら、一番変更が少ないです」


リディアが少し笑った。


「良いと思います」


トーマスの表情が明るくなる。


「じゃあ今夜――」


言いかけたところで、自分で止まった。


「……担当者に説明して、やりにくければ戻す、でいいですか?」


ガルムは頷いた。


「それでいい」


提案した本人が、自分の案を固定された規則にしない。


それもまた、この場所で少しずつ身につき始めたものだった。


          ◇


塔の中庭の椅子が乾いたのは、午後もかなり遅くなってからだった。


セリーが座面へ手を当て、木の隙間まで確認してからアルを見る。


「問題ありません」


「やっと許可が出た」


「私は禁止しておりません。濡れている間はお勧めしなかっただけです」


「それを普通は禁止って言うんじゃない?」


「主様がどうしてもお座りになりたいとおっしゃれば、着替えをご用意しました」


「そこまでして座らないよ」


アルは笑いながら椅子へ腰を下ろした。


雨上がりの空は澄み、塔を囲む木々の葉にはまだ水滴が残っている。風が吹くたび、枝から落ちた雫が下の葉へ当たり、小さな音を立てた。


セリーはすぐには座らなかった。


椅子の前に立ち、空を見上げている。


「座らない?」


アルが尋ねる。


セリーは少し考えたあと、彼の隣ではなく、椅子の近くに置かれた別の小さな腰掛けへ目を向けた。


「今日は、こちらへ座ってみたいです」


「うん」


アルは自然に答えた。


セリーが腰掛けを少し動かし、アルと斜めに向き合う位置へ座る。


距離は、肩が触れられるほど近くない。


手を伸ばせば届くかもしれないが、どちらも伸ばさない。


「こっちもいい?」


アルが尋ねる。


「はい。主様のお顔が見やすいです」


思いがけない返事に、アルは一瞬言葉を失った。


セリーは不思議そうに彼を見る。


「どうされました?」


「いや……そういうこと普通に言うようになったなと思って」


「嫌でしたか?」


「逆」


アルは頬が熱くなるのを感じながら視線を少し逸らした。


「すごく嬉しい」


セリーの表情が柔らかくなる。


「では、こちらへ座ってよかったです」


アルは濡れた庭の景色へ目を向けた。


肩をつけるのもよかった。


手を握るのも好きだった。


けれど、こうして少し離れて互いの顔が見える位置に座るのも悪くない。


「俺さ」


「はい」


「好きだって言ったあと、もっと落ち着かなくなると思ってた」


セリーは急かさず続きを待つ。


「返事が気になって、セリーが何してても意味を考えたりするのかなって。でも、思ったより普通に一緒にいられてる」


「私がまだ、お返事をしていないからですか?」


アルは少し考えた。


「『返事をしてない』って言い方も、今はちょっと違う気がする」


「違うのですか?」


「セリーは、嬉しいって言ってくれたし、自分の気持ちはまだ全部言葉にできないって教えてくれた。それも返事の一つだと思う」


セリーは膝の上で両手を重ねる。


「では、主様は待っておられないのですか?」


アルは空を見上げた。


雲の切れ間が広がり、夕方へ向かう光が濡れた木々を照らしている。


「いつかセリーが自分の気持ちをもっと分かって、それを俺に教えてくれたら嬉しいとは思ってる」


そこは誤魔化したくなかった。


「でも、それを待つためだけに今一緒にいるわけじゃない。今日セリーと朝飯食べたのも、今ここにいるのも、それ自体が嬉しいから」


セリーはしばらく何も言わなかった。


視線がアルから自分の手へ落ち、それから庭へ移る。


「私は」


ゆっくりと口を開く。


「主様が私を好きだとおっしゃったあと、自分が何を返すべきなのか考えました」


アルは黙って聞いた。


「同じ言葉を返せるのか。返せないなら、何を言えばよいのか。主様を待たせているのか、とも考えました」


胸の奥が少し痛んだ。


アルはすぐ否定したくなったが、セリーがまだ話しているため口を挟まない。


「ですが、主様と食事をしているときや、歩いているとき、手や肩が触れたときには、そのことを考えていない時間もあります」


セリーはそこでアルを見る。


「ただ嬉しいと思っています」


アルの呼吸が少しだけ浅くなった。


「それでいいよ」


今度は自然に言葉が出た。


「俺は、それが一番嬉しい」


「一番、ですか?」


「セリーが答えを作るために俺と一緒にいるより、普通に一緒にいて嬉しい方がいい」


アルは自分の膝へ手を置いた。


「もちろん、俺だって欲はあるよ。いつか同じように好きって言ってもらえたら、たぶんものすごく嬉しい。でも、それは俺が欲しいって話で、セリーが今すぐ作らなきゃいけない答えじゃない」


セリーは静かに聞いている。


アルは少し照れながら笑った。


「これ言うと、また真面目すぎるかな」


「いいえ」


セリーの返事は穏やかだった。


「私は今、安心しました」


「そっか」


「はい」


二人の間には、手を伸ばせば埋められる距離が残っている。


けれど、どちらもそれを埋めようとしなかった。


今日は、この距離が心地よかった。


          ◇


夕方になって、旧保養施設では資料語彙の見直しが始まった。


フェリクスとリディアは、すでに撮影済みの図面と転記済み文書だけを対象にしている。原本が置かれている部屋へは行かず、観測室から離れた記録整理室で作業を進めていた。


最初の一時間では、大きな発見はなかった。


「確認」という語は多い。


設備確認。


勤務確認。


数量確認。


引継確認。


その大半は、今回知りたいものとは関係がなさそうだった。


しかし、関係がなさそうだからといって検索結果から消してしまえば、後から文脈を確認できなくなる。


フェリクスは一つずつ分類を付けていく。


「思った以上に普通の『確認』が多いですね」


リディアが別の紙を見ながら答える。


「当然でしょう。だから単語だけでは意味がありません」


「分かってはいましたけど、実際にやるとよく分かります」


しばらくして、フェリクスの手が止まった。


「リディアさん」


「はい?」


「これ、前に見ました?」


彼が示したのは、古い勤務引継資料の写しだった。


端が欠けており、全文は残っていない。


以前は夜間勤務の人員配置を確認するために読んだ資料で、設備操作に関係する部分は重要視されていなかった。


そこに、短い記載がある。


『西補助保持区画――外部照会未了時、開口担当へ引継。照会完了まで現状保持』


二人とも、すぐには話さなかった。


フェリクスが最初に息を吐く。


「……西補助保持区画」


研究院から届いた索引候補にも、同じ言葉があった。


だが、それだけでは同一施設を示さない。


リディアは紙面へ顔を近づけるものの、原本ではないため触れる必要はない。


「資料の出所は?」


フェリクスが管理番号を確認する。


「旧保養施設内部で撮影した文書です。場所は……北側旧勤務室の収納棚。以前、夜間勤務記録の関連資料として複写されています」


「年代は?」


「推定しかありません。用紙形式から後期運用期候補。でも確定していない」


リディアは該当箇所の前後を見る。


前の行は欠損している。


後ろには別の引継事項が続いているが、対象設備の詳細はない。


「『外部照会』が何を指すか不明ですね」


「はい」


「『開口担当』も、何を開口する担当か分からない」


「はい」


「西補助保持区画が、今調べている西側壁の向こうだとも分からない」


フェリクスは少し苦しそうに笑った。


「全部分からないですね」


「ですが、一つは増えました」


「旧保養施設の内部資料に、『西補助保持区画』という語が実際にある」


「ええ」


研究院側の索引候補として出ていた言葉と、現地で過去に複写していた文書の言葉が一致した。


これまでより関連性は高まる。


それでも、何を保持していたのかは分からない。


人なのか、物なのか、設備なのか、生命体なのか。


あるいは「保持」が別の技術的意味を持っている可能性もある。


フェリクスは記録用紙へ書き始めた。


『既存複写資料再確認により「西補助保持区画」の語を確認。研究院回答以前に現地で複写済みの文書に存在。研究院索引候補との語一致あり。ただし同一資料群・同一設備・同一区画を示すか未確認』


さらに続ける。


『同文中「外部照会未了時、開口担当へ引継。照会完了まで現状保持」の記載あり。「外部照会」「開口担当」「現状保持」の対象および具体的手順は不明』


書き終えてから、フェリクスは紙を見直した。


「これ、ガルム隊長にすぐ出します」


「ええ」


「でも現場へ行く理由にはしない」


リディアが彼を見る。


フェリクスは自分から続けた。


「むしろ逆です。外部照会が終わるまで現状保持って書いてあるなら、少なくともこの文書の対象については、分からない状態で開ける方向じゃなかった」


「ただし、それが現在の壁へ適用される規則かは不明です」


「はい。だから『古い規則に従って絶対開けない』とも書かない」


リディアは頷いた。


「それでいいと思います」


フェリクスは椅子へ深く座り直した。


目の前にある一文は、彼の好奇心を強く刺激している。


西。


保持区画。


外部照会。


開口。


これまで別々に現れていた言葉が、同じ文書の一行へ並んでいる。


(見に行きたい)


その気持ちは明確だった。


壁の前へ行き、下側の汚れを落とし、挿入口があるか確かめたい。


もしあれば、その形を測りたい。


確認札の寸法を探し、合うものがないか調べたい。


だが、その一連の欲求を自覚した瞬間、フェリクスは椅子から立たなかった。


「今日はここまでにします」


リディアが少し驚く。


「まだ予定時間は残っていますが」


「だからです」


フェリクスは資料を閉じた。


「今の私は、このあと読むもの全部を『西補助保持区画』へつなげて見そうです。少し離れます」


リディアは数秒彼を見つめたあと、静かに頷いた。


「では、私もここで区切ります。別の人が同じ資料を独立して確認した方がよいでしょう」


「お願いします」


発見した本人たちが、発見の勢いのまま答えまで作らない。


それもまた、調査の一部だった。


          ◇


ガルムから塔へ報告が届いたのは、夕食前だった。


アルはセリーと中庭から戻ったばかりで、資料室ではなく居間で報告を開いた。


アンナマリーとブラートはすでに塔を離れている。


エルが要点を読み上げる。


『既存複写資料再確認により、「西補助保持区画」の記載を確認しました』


アルの表情が変わった。


研究院が以前示した索引候補。


北系統第二線。


西補助保持区画。


外部状態確認部。


そのうち一つが、旧保養施設の内部で以前から複写されていた文書にも存在した。


「続けて」


エルが読み上げる。


『該当文は「西補助保持区画――外部照会未了時、開口担当へ引継。照会完了まで現状保持」。ただし、外部照会・開口対象・保持対象・区画位置・年代はいずれも未確定です。現在調査中の西側壁との同一性も確認されていません』


アルは椅子の背へ身体を預けた。


セリーは隣ではなく、斜め向かいの椅子へ座っている。


「研究院の索引と、言葉が同じなんだな」


『はい。ただし、研究院側の索引候補がこの文書を指しているかは確認されていません』


「分かってる」


アルは答えながら、胸の内側で膨らみかけた期待を自覚した。


(近づいた気がする。でも、何に近づいたんだ?)


西側壁の向こうに何かあるという答えではない。


人がいるという答えでもない。


確認札を使えば何か分かるという答えでもない。


ただ、旧保養施設の内部資料に、研究院側が独立して示したものと同じ「西補助保持区画」という語があった。


それだけだ。


しかし、その「それだけ」は小さくない。


「現場は?」


『追加操作を行っていません。フェリクス・ハルトマン氏は、発見後の自身の解釈が偏る可能性を理由に資料確認を中断しました。リディア氏も同時に区切り、別担当者による独立確認を提案しています』


アルは少し目を見開いた。


「フェリクスが自分から止まった?」


『はい』


「……すごいな」


セリーが微笑む。


「主様は嬉しそうですね」


「うん」


アルは素直に頷いた。


「発見そのものも気になるけど、そっちも嬉しい」


以前のフェリクスなら、新しい一文を見つけた勢いで次の資料へ進み、そのまま現物を確かめたがったかもしれない。


今も好奇心が消えたわけではない。


むしろ強いままだ。


それでも、自分の好奇心が判断へ影響すると分かったときに止まった。


「ガルムたちに追加指示は?」


『求められていません』


アルは少し考える。


「じゃあ出さない」


『承知しました』


「明日、アンナマリーとブラートにもそのまま共有して」


『はい』


報告を閉じる。


セリーはしばらくアルを見ていた。


「主様は、見に行きたいと思われますか?」


アルは正直に自分の中を探った。


「思う」


「西側の壁を?」


「うん。今すぐじゃないけど、自分の目で見たいって気持ちはある」


「では、行かれますか?」


「今日は行かない」


アルは少し笑った。


「行ったら、俺も余計な意味を見つけそうだから」


セリーは頷いた。


「フェリクス様と同じですね」


「それ、褒められてる?」


「先ほど主様は、フェリクス様が止まれたことを褒めておられました」


「じゃあ褒められてるのか」


「はい」


アルは笑った。


自分の好奇心を否定する必要はない。


見たい。


知りたい。


壁の向こうが何なのか確かめたい。


その気持ちがあるから調べている。


ただ、知りたいという気持ちと、今触れていいという判断は別だった。


          ◇


夕食後、アルとセリーは再び中庭へ出た。


昼間に乾いた椅子は、夜露が降りるにはまだ早く、問題なく座れる。


今度は二人とも同じ椅子へ座った。


けれど肩は触れていない。


少しだけ間がある。


空には雨雲の名残が薄く残り、その隙間から星がいくつか見えていた。


「今日はいっぱい分かったな」


アルが言う。


「朝は、分からないことが増えたとおっしゃっていました」


「増えたよ」


「今もですか?」


「今も」


アルは笑う。


「でも、分からないことが増えるのと、何も分かってないのは違うんだと思う」


セリーは空を見上げた。


「西補助保持区画、という場所が本当にあったことは分かりました」


「少なくとも、旧保養施設の文書にそういう言葉があったことはね」


「その場所がどこかは分からない」


「うん」


「何を保持していたのかも分からない」


「うん」


「外部照会が何かも、開口担当が何を開けるのかも分からない」


アルは思わず笑った。


「並べると分からないことだらけだな」


セリーも少し笑う。


それから、二人の間に静かな時間が流れた。


塔の外では、雨を吸った森から虫の声が聞こえている。湿った夜気は少し冷たく、昼間より風も弱かった。


セリーの手は、自分の膝の上にある。


アルの手も同じだった。


昨日なら肩を触れ合わせていた。


別の日には手を握った。


今日は、まだ触れていない。


アルはそれを不足とは感じなかった。


「主様」


「ん?」


「今日は、手を握りたいです」


アルは彼女を見る。


セリーはまっすぐこちらを見ていた。


「俺も握りたい」


そう答えると、セリーが自分から手を差し出した。


アルも手を動かし、二人の指が触れる。


すぐ強く握るのではなく、互いの位置を確かめるように指先が重なり、それから掌がゆっくり合わさった。


昨日は肩だった。


昼間は少し離れて顔を見ていた。


今は手を握っている。


どれか一つが正しいわけではない。


「温かいですね」


セリーが小さく言う。


「セリーの手も」


「私は魔導人形です」


「知ってる」


アルは握った手へ少しだけ力を込めた。


「でも温かいよ」


セリーも同じくらいの力で握り返す。


アルの胸の奥へ、穏やかな喜びが広がった。


好きだと伝えている。


セリーもそれを知っている。


それでも、手を握るたびに答えを求める必要はない。


今、握りたいから握っている。


それだけで十分な夜もある。


          ◇


その夜、旧保養施設では観測が続いていた。


視覚基準具の番号については位置を変えず、担当者へ「観測中に番号を読む必要はない」とだけ伝えてある。


夜勤者の一人は、表示部全体を一定の順序で確認していた。


右。


中央。


左。


周辺の壁。


受動計測器。


また表示部へ戻る。


新しい資料について詳しい説明は受けていない。


だから、「西補助保持区画」という言葉も知らない。


確認札という言葉も、勤務前には聞かされていない。


ただ、自分が見るべき範囲を見る。


夜半を過ぎた頃、左寄りの表示部を見ていた兵士が、視界の端に小さな変化を感じた。


すぐにそこへ視線を戻す。


淡い光が見える。


以前の記録を知らないわけではないが、色を合わせようとはしない。


白く見える。


けれど、わずかに黄色があるようにも感じる。


隣の観測者へ声をかける前に、決められた手順どおり時刻を確認した。


「左寄り。弱い光に見える」


もう一人が同じ方向を見る。


「確認。俺は白に見える。黄色は分からない」


「了解」


二人はそれぞれ別の記録紙へ書く。


一人目は「白、わずかに黄を感じる可能性」。


二人目は「白。黄は判断できず」。


発光は続いている。


受動計測器を見るが、通常変動幅を超える値はない。


壁へ近づかない。


表示部へ触れない。


光の強さを確かめるために照明条件を変えない。


ただ観測する。


数分後、光は弱くなった。


完全に消えたと一人目が感じた時刻と、二人目が消えたと判断した時刻には少し差があった。


それも別々に残す。


音は聞こえない。


床にも壁にも、目で分かる変化はない。


観測者たちは互いの記録を見せ合わないまま、それぞれ書き終えた。


新しい資料が見つかった夜に、古い表示部が光った。


後から並べれば、意味があるように見えるかもしれない。


しかし、表示部が研究院の回答を知るはずもない。


資料を見つけたから光ったわけではない。


少なくとも、そう結びつける証拠は何もなかった。


          ◇


塔の中庭では、アルとセリーがまだ手を握っていた。


夜が深くなり、湿った空気の冷たさが少しずつ増している。


「そろそろ戻ろうか」


アルが尋ねると、セリーは頷いた。


「はい」


手を離す。


名残惜しさはある。


けれど、離したことで今夜の時間が消えるわけではない。


二人で立ち上がり、塔の中へ戻る。


その途中で、エルが淡く光った。


『旧保養施設より、夜間観測の速報共有があります』


アルは足を止めた。


セリーも隣で立ち止まる。


「緊急?」


『いいえ。通常共有です』


アルは少しだけ肩の力を抜いた。


「内容は?」


『左寄り表示部に弱い発光を確認。二名が独立記録。一名は白色にわずかな黄色を感じる可能性、もう一名は白色で黄色は判断不能と記録しています。受動計測値に通常範囲外の変化なし。音およびその他の目視変化は確認されていません』


アルは黙って聞いた。


今日見つかった「西補助保持区画」という言葉が頭に浮かぶ。


そしてすぐ、それを今夜の光から切り離した。


「現場から判断を求められてる?」


『いいえ』


「じゃあ、明日の正式記録を待つ」


『承知しました』


アルは歩き出す。


セリーも並ぶ。


「気になりますか?」


「すごく」


「見に行きたいですか?」


アルは少し考え、正直に答えた。


「さっきよりは」


セリーが彼を見る。


アルは苦笑した。


「でも、今行ったって光が残ってるとは限らないし、行っても触らない。だったら夜中に俺が飛び込む理由はない」


「はい」


「明日、記録を見る」


二人は廊下を進む。


今日、旧保養施設の文書から一つの言葉が見つかった。


夜には、表示部がまた弱く光った。


二つの出来事は同じ日に起きた。


それ以上の関係は、まだない。


アルはそれを忘れないようにしながら、自室へ続く廊下を歩いた。


知りたいからこそ、すぐに触れない。


新しい情報が出たからこそ、今までより慎重に境界を確かめる。


壁の向こうに何があるのかは、まだ分からない。


けれど、その答えへ近づくために必要なのは、答えらしく見えるものへ飛びつくことではなかった。


今夜の弱い光も、古い文書の一行も、それぞれをまずそれぞれのまま残す。


二つを結ぶ線が本当に存在するのなら、その線は願望で描くのではなく、確かめられる情報の中から見つけなければならなかった。

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