第122話 同じ言葉の、その先へ
朝の塔には、昨夜よりも乾いた風が入っていた。
雨を含んでいた雲は夜のうちに東へ流れたらしく、食堂の窓から見える空には薄い雲が筋を引く程度に残っている。中庭の石畳にはまだ色の濃い場所がところどころあったものの、木々の葉から落ちる雫はもうほとんどなく、朝日を受けた庭は昨日より明るく見えた。
アルは食卓へ着く前に、エルへ昨夜の速報以降に緊急連絡がなかったことだけを確認した。
旧保養施設から追加の緊急報告は届いていない。
左寄り表示部の弱い発光は昨夜のうちに消えており、その後は音も受動計測値の変化も確認されなかったという。正式な観測記録は夜勤者の休息と引継ぎを終えてから送られてくる予定なので、アルも速報以上の詳細を求めなかった。
「主様」
声に振り向くと、セリーが朝食の皿を持って立っていた。
「先に座っていてください。パンが冷めます」
「ごめん。もう終わった」
「終わった、ということは?」
「昨夜のあとに緊急連絡がなかったことだけ確認した。詳しい記録はまだ見てないよ」
セリーはアルの顔を数秒見つめ、それから小さく頷いた。
「それでしたら、朝食を召し上がってからでも遅くありません」
「うん」
席へ着いたアルの前に、焼いたパンと野菜を煮込んだスープ、薄く切った燻製肉、それから果物が置かれる。セリーはそのまま向かいへ回るのかと思ったが、今日はアルの右隣へ椅子を引いた。
昨日の朝は向かいだった。
昼過ぎの中庭では斜め前に座り、夜には同じ椅子で手を握った。
今日は隣。
アルがちらりと見ると、セリーも視線に気づいた。
「こちらではいけませんか?」
「全然。むしろ嬉しい」
素直に答えると、セリーはほんの少し目元を和らげた。
「では、今日はここにします」
その言い方が、アルには心地よかった。
今日ここにする。
明日も同じとは限らないし、同じである必要もない。
好きだと伝えたから隣へ座らなければならないわけでもなく、隣へ座ったから恋人になったわけでもない。ただ今朝のセリーがそこを選び、アルが嬉しいと思った。それだけで十分だった。
「昨夜の光が気になっていますか?」
パンをちぎりながらセリーが尋ねた。
アルはスープを一口飲んでから頷く。
「気にはなる。でも、昨日見つかった文書と一緒に考えすぎないようにしたい」
「『西補助保持区画』ですね」
「うん。研究院の索引候補にもあって、旧保養施設の昔の文書にもあった。そこへ同じ日の夜に左側が光ったら、どうしても何か関係があるように感じるだろ?」
「私は、少し感じました」
セリーは隠さずに答えた。
「私も、という言い方はおかしいかもしれません。ですが、二つを並べて考えたくなりました」
「俺もだよ」
アルはパンを皿へ戻し、指先についた小さなパン屑を払った。
「だから、今朝すぐに詳しく聞かなかった。たぶん今の俺が記録を見ると、『西』とか『保持』とか、そっちに合うものを探しながら読んじゃう」
「では、記録を見ないのですか?」
「見る。でも、アンナマリーたちが来てからにしようと思ってる。できれば、最初に昨夜の観測記録だけ読んで、そのあとで昨日の文書と並べたい」
セリーは少し考える。
「最初から並べてしまうと、光の位置を『西補助保持区画』へ近づけて考えてしまうかもしれないからですか?」
「そう。そもそも左寄りって、観測位置から見た表示部の左だし、それが施設の西と同じ方向かも、まだきちんと対応させてない」
「同じ『左』と『西』でも、同じではないのですね」
「うん」
アルはそう答えてから、自分の皿へ視線を落とした。
まだ燻製肉が残っている。
そのことに気づいた瞬間、隣からセリーの視線も落ちてきた。
「食べるよ」
「私はまだ何も申し上げておりません」
「言われる前に分かった」
「では、主様はご自身で気づけるようになられたのですね」
「なんでちょっと嬉しそうなの?」
「嬉しいからです」
セリーはそう言って、自分のパンへ手を伸ばした。
アルは笑いながら燻製肉を食べる。
研究院の回答も、古い文書も、昨夜の光も消えてはいない。
それでも朝食は朝食だった。
考えるべきことがあるからといって、暮らしのすべてを調査へ差し出す必要はない。
◇
旧保養施設では、夜勤者二人がそれぞれの記録を提出していた。
ガルムは最初から二枚を重ねなかった。
一枚目を読み、机の右側へ置く。
二枚目を読み、左側へ置く。
記録者同士が勤務終了後に内容をすり合わせていないことも確認済みだった。
一人目の記録には、左寄り表示部に弱い発光を認識した時刻、白色を基本としてわずかに黄色を感じた可能性、発光が消えたと判断した時刻が記載されている。
二人目は、同じ位置の発光を白色として記録し、黄色については判断不能としていた。発光開始については一人目の声を受けて確認したため、自分が独立して開始時刻を認識したとは書いていない。
終了時刻には、わずかな差がある。
「こっちの方が少し長く見えてるな」
ガルムが二枚を見比べる。
リディアは隣に立ち、記録へ目を通した。
「どちらかへ合わせる必要はありません。弱い光ほど、消えたと判断する境界に個人差が出ます」
「計測器は?」
「通常変動幅内です。発光中を含め、特別な変化はありません」
「音もなし」
「はい」
ガルムは紙の端へ指を置いた。
「昨日見つかった文書について、この二人はどこまで知ってた?」
「『現物へ触れない』『観測方法を変えない』という安全上必要な部分だけです。西補助保持区画の記載は伝えていません」
「研究院の回答は?」
「勤務前には詳細を読んでいません」
「なら、その点も残せ」
リディアが記録用紙を一枚取り出す。
「観測者の事前知識状態ですね」
「ああ。これから新しい言葉が増えるほど、何を知った状態で見たのかが重要になる」
ガルムは椅子へ深く腰掛けた。
観測者が何を見たかだけではない。
何を知っていたか。
何を期待していたか。
どんな基準具を使っていたか。
観測方法そのものも少しずつ変わっている。
後から記録を読む者が、すべてを同じ条件で得られた情報だと思えば、存在しない規則性を作ってしまうかもしれない。
「トーマスの番号板は?」
「昨夜は位置も表示も変更していません。『観測中に番号を読む必要はない』との説明だけ追加しました」
「影響は?」
「勤務者からは、前より数字を意識しなかったという感想が一名。もう一名は、以前から特に意識していなかったとのことです」
ガルムは少し笑った。
「人によるか」
「今のところは」
リディアも僅かに口元を緩めた。
「一晩で方法を固定する理由はありません」
「そうだな」
扉が軽く叩かれ、フェリクスが入ってきた。
昨夜資料確認を自分から中断した彼は、一晩休んだためか、昨日より表情が落ち着いている。
「おはようございます」
「昨日の紙ならそこだ」
ガルムが机の端を示す。
フェリクスは「ありがとうございます」と答えたものの、すぐには手を伸ばさなかった。
「先に夜間記録の方を見てもいいですか?」
ガルムの眉がわずかに上がる。
「昨日の文書と比べたいんじゃないのか?」
「比べたいです。でも、先に光の記録だけ読んでおきたい」
リディアが彼を見る。
フェリクスは少し照れたように首の後ろへ手をやった。
「昨日、自分が『西補助保持区画』に引っ張られそうだって分かったので。最初から並べると、左寄りの光を西側と結びたくなりそうです」
ガルムは二枚の記録をフェリクスへ渡した。
「読め」
「はい」
フェリクスは立ったままではなく、机から少し離れた椅子へ座った。
一枚ずつ読む。
二枚を重ねない。
色の差。
終了時刻の差。
開始時刻の認識方法の差。
受動計測値に異常なし。
音なし。
他の目視変化なし。
読み終えてから、ようやく昨日の文書の写しへ手を伸ばした。
「……やっぱり、これだけじゃ結びつきませんね」
「残念そうだな」
「残念ですよ」
フェリクスは正直に言った。
「でも、残念なのと、証拠があるのは別です」
ガルムは鼻を鳴らす。
「それが分かってるならいい」
フェリクスは昨夜の記録をもう一度見た。
「むしろ今回、観測者が『西補助保持区画』を知らなかったのは大きいかもしれません」
リディアが首を傾げる。
「どういう意味ですか?」
「左寄りって表現が、昨日の文書を知ったあとに作られたわけじゃないと確認できます。もちろん、それで西と同じだとは言えませんけど」
「ええ。観測表現が文書に誘導された可能性は低い、とだけ言えます」
「はい」
フェリクスはそこで止めた。
以前なら、その先に「なら関連性が高い」と続けたくなったかもしれない。
しかし今は、一つの可能性が低くなったことと、別の仮説が正しくなったことを同じにはしない。
◇
塔へアンナマリーとブラートが到着したのは、朝食からしばらく経った頃だった。
四人が資料室へ集まると、アルは予定していた通り、最初に昨夜の観測記録だけを机へ出した。
昨日発見された「西補助保持区画」の文書は、まだ別の棚に置いてある。
「先にこっちだけ?」
アンナマリーが尋ねる。
「うん。昨日の文書を見ながら読むと、俺たちも引っ張られそうだから」
「賛成です」
ブラートが記録を受け取る。
セリーはアルの隣ではなく、今日は資料机の向かい側に座っていた。朝食では隣だったが、資料を四人で読むならこちらの方が見やすいという理由だった。
誰もその移動へ特別な意味を求めない。
観測記録を一通り読み終えるまで、昨日の文書の話はしなかった。
アンナマリーが最初に紙から顔を上げる。
「以前にも左寄りの発光はあったわね」
「ある」
アルは答えた。
「でも、同じ光かは分からない」
「色の認識も完全一致ではないわ。今回も二人で少し違うし、過去の記録でも違いがあった」
ブラートが別の記録一覧を開く。
「位置表現についても、視覚基準具導入前後で精度が異なります。過去の『左寄り』と今回の『左寄り』を、完全に同じ範囲として扱うのは危険でしょう」
「基準具があるから細かくなった?」
「はい。ただし昨夜の記録は番号そのものではなく、従来表現も併記されています」
アルは頷いた。
「じゃあ、昨夜の光について今言えるのは?」
アンナマリーが指を折るようなことはせず、紙の上へ視線を置いたまま答える。
「二人が左寄り表示部に弱い発光を認識した。一人は白にわずかな黄色を感じ、もう一人は白で黄色は判断できなかった。消灯判断時刻には少し差がある。発光中、受動計測値の通常範囲外変化はなく、音も他の目視変化も確認されなかった」
「そこまでだな」
「ええ」
そこで初めて、ブラートが別棚から昨日の複写資料を持ってきた。
『西補助保持区画――外部照会未了時、開口担当へ引継。照会完了まで現状保持』
四人が改めて読む。
アルは昨夜すでに内容を知っているが、観測記録を先に読んだあとでは印象が少し違って感じられた。
「左寄りの光と、これを結びつける材料はないな」
アルが言う。
「現時点ではありません」
ブラートが答える。
「ただし、研究院側が独立して示した索引候補に『西補助保持区画』があり、旧保養施設内部の既存複写資料にも同一表記が確認された。この一致は別に管理すべきです」
「研究院の資料群と、この施設の資料群に何か接点がある可能性は前より上がった?」
「可能性という表現なら、そう考えてよいと思います。ただし研究院側の索引候補がこの施設由来だと確定したわけではありません」
アンナマリーが文書の一行を指した。
「私は『外部照会未了時』の方が気になるわ」
アルもそこを見る。
「研究院の『外部状態確認部』と関係ありそうに見える?」
「見える。でも、それが危ないのよ」
アンナマリーは自分でそう続けた。
「『外部』と『確認』に近い言葉が並んだから、同じ制度だと思いたくなる。でも、この文書は『外部照会』。研究院側は『外部状態確認部』。同じものだという資料はまだない」
セリーが静かに尋ねる。
「『照会』は、誰かへ尋ねることだけを意味するのですか?」
三人がセリーを見る。
ブラートが答えた。
「現代の行政用語なら、記録や担当部署へ問い合わせる意味で使うことが多いです。しかし、古い設備用語でも同じとは限りません」
「魔導具へ状態を尋ねることも、『照会』と呼ぶ可能性がありますか?」
「あります。逆に、施設外の別部署へ記録を問い合わせる意味かもしれません」
アルは腕を組んだ。
「確認札を使うことが外部照会だった可能性も、ないとは言えない?」
「現時点では、可能性を否定も肯定もできません」
ブラートの答えは慎重だった。
「札が記録照会のための識別具だった可能性もありますし、設備状態を読み出すための器具だった可能性もある。あるいは両者と無関係かもしれません」
「分からないなあ」
アルが息を吐くと、アンナマリーが少し笑った。
「でも、昨日よりは分からない場所が細かくなったでしょう?」
「最近そればっかりだな」
「調査ってそういうものじゃない?」
「フェリクスが聞いたら喜びそう」
「今の彼なら、『分からないことが増えましたね』って嬉しそうに言いそうね」
資料室に小さな笑いが広がった。
その空気が落ち着いてから、アルは文書をもう一度見た。
「この『照会完了まで現状保持』は、どう扱う?」
ブラートが答える。
「少なくとも、この文書が対象としていたものについては、照会が完了する前に状態を変えない運用だったと読めます」
「開口しない?」
「そこまで限定はできません。文面では『現状保持』です。開口が状態変更に含まれる可能性は高そうですが、対象や設備構造が不明なので断定しない方がよいでしょう」
アンナマリーも続ける。
「それに、この規則が今も有効かどうかも分からない。昔の手順が正しかったとも限らないわ」
アルは頷いた。
古い規則だから従うのではない。
けれど、古い規則がなぜ存在したのかを知らずに無視するのも違う。
「じゃあ、今の方針は変えない」
アルは文書を机へ戻した。
「触らない。開けない。汚れも落とさない。確認札らしいものが見つかっても使わない。そのうえで、資料を調べる」
「賛成よ」
アンナマリーが頷く。
ブラートも異論を挟まなかった。
◇
同じ頃、三〇八号室では朝の薬が終わっていた。
少年はベッドの背へ身体を預け、窓から入る光を見ている。
白い薬は、以前減らした量のまま。
青と紫は使われていない。
ヨアヒムは薬の記録を終えると、すぐに手紙の箱へ手を伸ばさなかった。
少年の方からも何も言わない。
しばらくは、窓の外を通った鳥の影について話した。
「あれ、昨日もいた?」
少年が尋ねる。
「同じ鳥かどうかは分からないな。俺には見分けられない」
「鳥にも名前ある?」
「人が付けた種類の名前はある。あの一羽に誰かが名前を付けてるかは知らない」
少年は窓を見る。
「名前なくても、あれはあれ?」
ヨアヒムは答える前に少し考えた。
「少なくとも、俺が名前を知らないからって、あの鳥がいなくなるわけじゃない」
少年はそれを聞き、しばらく黙っていた。
ヨアヒムは続きを促さない。
鳥の話が名前の話へ移ったからといって、少年自身の名前や手紙へ結びつける必要はない。
やがて少年が自分から箱を見る。
「手紙」
「うん」
「昨日、読まなかった」
「そうだな」
「今日も読まなくてもいい?」
「いいよ」
ヨアヒムは即座に答えた。
少年は少しだけ眉を寄せる。
「ずっと読まないってこと?」
「今日読まないことと、ずっと読まないことは別だ」
少年の肩からわずかに力が抜けた。
「じゃあ、今日は読まない」
「分かった」
ヨアヒムは記録紙へ書く。
『本日、手紙開封を希望せず。将来の開封意向は未定』
少年はその手元を見ていた。
「また書いた」
「薬とか手紙とか、あとで困らないように残した方がいいことは書いてる」
「全部?」
「全部じゃないよ」
「鳥のことは?」
「書かない」
「なんで?」
ヨアヒムは窓の外を見る。
鳥はもう見えない。
「今朝、鳥を見たことまで治療の記録に残さなくても、お前が鳥を見たことはなくならないからな」
少年はしばらく考え、それから小さく頷いた。
「じゃあ、名前の話も?」
「今のところは書かない」
「そっか」
少年は枕へ背を預け直した。
その顔には、少しだけ安堵があった。
ヨアヒムはそれ以上尋ねなかった。
「名前なくても、あれはあれ」という言葉が何を意味していたのか。
自分自身について考えていたのか。
ただ鳥を見て思っただけなのか。
それは少年が話したくなったときに話せばいい。
今朝の会話を、身元確認の材料へ変える必要はなかった。
◇
王立魔導研究院では、前日に作成された照会文が責任者の確認を終えていた。
照会先は、王立医療局との共同保管記録を管理する部署。
求めるのは資料内容ではない。
古い移管番号と再採番後の番号を対応させるための番号変換表、あるいは同等の索引情報だけだった。
研究員は返送前の文面をもう一度読む。
『旧設備資料の移管経路確認を目的とし、個別医療内容、個体識別情報、保護対象個別記録の開示を求めない』
そこまで明記されている。
それでも、送信前には迷いがあった。
番号対応だけを求めても、その番号が個人記録へつながっている可能性はある。
番号を知ること自体が、次の情報へ近づくことになる。
隣の同僚がその様子に気づいた。
「まだ何か気になる?」
「番号変換表だけでも、保護記録側から見ればアクセス経路を渡すことになるかもしれない」
「なら、照会目的の範囲外へ使わないって条件を付けてもらう?」
「こっちから?」
「うん。相手側が条件を付ける前に、『移管経路確認以外には使用しない』って書いておけばいい」
研究員は少し考え、文面へ一行追加した。
『提供された対応情報は、本照会における資料移管経路の確認以外の目的には使用しない』
さらに、対応表そのものが保護対象である場合は、番号変換結果のみの回答でもよいと付け加える。
「これなら?」
同僚が読み、頷いた。
「いいと思う」
照会はそこで初めて送られた。
回答がいつ来るかは分からない。
共同保管側が拒否する可能性もある。
それでも、今必要なのは資料を奪うように集めることではなく、どこまでなら確認できるのかを確かめることだった。
◇
昼過ぎ、匿名の子供はナディアと庭へ出ていた。
今日は紙の「みち」を持っている。
補修された部分には細い紙が裏から当てられており、表から見ると折れ目が少し残っている。完全に元通りではないが、子供自身がそれでよいとした状態だった。
ナディアは隣へ座り、紙を覗き込まないよう少しだけ身体の向きを外している。
子供は紙を膝へ置き、指先で線をなぞった。
「ここ、前と違う」
「直したところ?」
「うん」
「嫌?」
子供はすぐには答えない。
補修部分を何度か見たあと、首を横へ振った。
「嫌じゃない。でも、前と違う」
「そうだね」
「前のは、もうない?」
ナディアは少し考える。
以前にも似た問いがあった。
変えたら前のものは消えるのか。
あのとき、子供は最終的に直さないことを選んだ。その後、自分で補修したいと言い、今はこうして補修された紙を持っている。
「紙は変わったね。でも、前に曲がってたことを私は覚えてるよ」
「ぼくも覚えてる」
「じゃあ、前の紙そのものと全く同じではないけど、前にどうだったかまでなくなったわけじゃないと思う」
子供は補修箇所を見つめる。
「今のも、ぼくの?」
「あなたがそう思うなら」
「直したのに?」
「直したら、あなたのじゃなくなるの?」
子供は首を傾げた。
しばらく考えてから、紙を胸元へ寄せる。
「ぼくの」
「うん」
ナディアはそれ以上意味を加えなかった。
木札のことも、名前のことも、帰ることも聞かない。
紙を直しても自分のもの。
それは今、この紙について子供が決めたことだった。
その判断を、そのまま別のものへ広げる必要はない。
「今日は持ってきたね」
ナディアが言うと、子供は少し笑った。
「今日は持ってきたかった」
「そっか」
「明日は分かんない」
「それでいいよ」
子供は紙を膝へ戻し、庭の先を見る。
今日持ってきたから、明日も持ってくるとは限らない。
昨日持ってこなかったから、大事ではなかったわけでもない。
ナディアはその会話を正式な保護記録へ書こうとは思わなかった。
ただ、今日の午後を一緒に過ごした者として覚えていた。
◇
午後の塔では、資料整理が続いていた。
アンナマリーとブラートが手分けして語彙を拾い、アルは別の束を担当している。
セリーも古い転記資料を一枚ずつ確認していた。
検索対象は「確認札」だけではない。
確認。
照会。
開口。
解除。
保持。
外部。
それぞれを拾い、前後の文脈を残す。
大半は無関係だった。
「食材保管庫、在庫確認」
アルが読み上げる。
「除外候補ね」
アンナマリーが答える。
「でも記録には残す?」
「語彙検索の対象外と判断した理由だけ残しましょう。あとで誰かが同じ資料を見て、『確認って書いてあるのに無視した』と思わないように」
「了解」
次の紙へ進む。
「外部搬入口、施錠確認」
ブラートが首を振る。
「今回の設備とは関係が薄そうです」
「これも除外候補」
さらに進む。
時間だけが過ぎていく。
派手な発見はない。
だが、それでいい。
むしろ大半が無関係であることを確認する作業こそ、残った少数の言葉へ意味を持たせすぎないために必要だった。
やがてセリーの手が止まった。
「主様」
アルはすぐに立ち上がらず、席から顔を向ける。
「何かあった?」
「この記載は、どうでしょう」
セリーが読んでいたのは、古い設備保守記録の転記だった。
破損箇所が多く、以前は設備番号の確認に使われただけの資料である。
アルたちが彼女の周囲へ集まる。
読める部分は多くない。
『……保持区画外部照会――再確認待機』
その下には数文字分の欠損があり、続いて、
『……状態変更を行わず、担当……』
までが残っている。
誰もすぐには声を上げなかった。
アルは文字を何度も目で追う。
保持区画。
外部照会。
再確認待機。
状態変更を行わず。
昨日の勤務引継資料と似た語がある。
研究院の索引で確認された「再確認待機」という言葉も含まれている。
「これ、前に読んでた?」
アルが尋ねる。
ブラートが管理記録を確認する。
「転記自体はかなり以前に行われています。設備番号部分を参照した記録がありますが、この行について個別検討した履歴は見当たりません」
アンナマリーが資料へ顔を寄せる。
「でも、欠損が多いわ。『保持区画外部照会』が一続きの用語なのかも分からない」
「『再確認待機』が何の再確認かも分からないですね」
セリーも頷く。
「『状態変更を行わず』の対象も分かりません」
アルは胸の奥が速くなるのを感じた。
昨日より一つ増えた。
しかも、研究院側の索引にあった別の言葉まで旧保養施設の転記資料へ現れた。
偶然ではない、と言いたくなる。
同じ資料体系だ、と決めたくなる。
けれど、その一歩を踏み出すにはまだ早い。
「これも、独立して確認してもらおう」
アルが言う。
「俺たち四人が今見つけたから、俺たちだけで意味を決めない。原本に触れなくて済むなら、既存写真で転記が正しいか確認できる?」
ブラートが管理情報を見る。
「該当資料の写真は保存されています。原本へ再接触する必要はありません」
「じゃあ、それをお願いする。できれば、今この資料を見てない人に」
アンナマリーがアルを見る。
「ガルム側にも共有する?」
「うん。ただし、昨日の文書と似てるっていう解釈じゃなくて、読める文字だけ送る」
「分かったわ」
セリーは資料へもう一度目を向けた。
「主様」
「ん?」
「少し、近づいたように感じます」
アルは彼女を見る。
「俺も」
「ですが、何に近づいたのかは、まだ分かりません」
アルは笑った。
「それも俺と同じだ」
◇
夕方、旧保養施設へ塔から新しい転記資料の情報が届いた。
フェリクスは内容を読んだあと、椅子から立ち上がりかけた。
その動きを自覚し、途中で座り直す。
ガルムが見ていた。
「どこ行く気だった?」
「保存写真を……」
「あるのはどこだ?」
「記録室の保管箱です」
「壁じゃないな?」
「壁じゃないです」
ガルムはしばらくフェリクスを見たあと、顎で扉を示した。
「なら行け。ただし一人で結論出すな」
「分かってます」
「昨日も聞いた気がするな」
「今日は写真を見るだけです」
リディアも同行した。
保管箱から該当番号の写真を取り出し、転記と照らし合わせる。
写真は古く、文字の一部は擦れている。
それでも、転記された範囲に大きな誤りは見つからなかった。
『……保持区画外部照会――再確認待機』
『……状態変更を行わず、担当……』
そのままだった。
フェリクスは写真を斜めにしたり、光へ透かしたりしなかった。
撮影済みの条件で見える範囲だけを見る。
「『保持区画』の前、何かありそうですけど読めませんね」
「読めないなら読めないままです」
リディアが答える。
「画像加工も?」
「加工自体は禁止ではありません。ただ、以前の表示部下側と同じです。加工条件によって見え方が変わるなら、原文字の確定には使えません」
フェリクスは頷いた。
「まず原画像で確認できた範囲だけ報告します」
二人が観測室へ戻る途中、フェリクスは廊下の先を見た。
西側へ続く通路がある。
あの先へ行けば、問題の壁がある。
昨日よりも今日の方が、見に行きたい気持ちは強かった。
古い資料の言葉が少しずつ重なり始めている。
外部照会。
再確認待機。
現状保持。
状態変更を行わず。
確認札。
開口前確認。
それらが一つの仕組みを指しているように見える。
(でも、見えることと、そうだと分かったことは違う)
フェリクスは西へ曲がらなかった。
観測室へ戻る。
その姿を後ろから見ていたリディアは、何も言わなかった。
褒めれば、止まること自体を新しい役割にしてしまうかもしれない。
彼が自分で止まれたなら、それで十分だった。
◇
夜、塔へ旧保養施設から写真照合結果が届いた。
転記範囲に明確な誤りなし。
欠損部は依然として読めない。
追加解釈なし。
現場操作なし。
アルは報告を読み終え、エルを机へ置いた。
今日は中庭へ出ていない。
夜になって風が強くなったため、セリーと居間で過ごしている。
二人の間には、小さな茶卓がある。
「また一つ増えたな」
アルが言う。
「はい」
セリーはカップを両手で包んでいる。
「『再確認待機』」
「研究院の索引にもあった」
「旧保養施設の資料にもありました」
「でも、それで研究院の資料がこの施設のものだとは決まらない」
「はい」
セリーは少し考えてから続ける。
「同じ言葉が増えていくと、同じものだと思いたくなりますね」
「うん」
アルは背もたれへ身体を預けた。
「昨日より強く思ってる」
「怖いですか?」
アルはすぐには答えなかった。
以前なら、怖いという言葉を避けたかもしれない。
今は、自分の中にあるものを確かめる。
「少し怖い」
「何がですか?」
「正解に近づいてる気がして、急ぎたくなるのが」
セリーは黙って聞く。
「もし本当に、あの壁の向こうに何かがあって、昔の人たちが確認しないと状態を変えないようにしてたなら、早く確認した方がいいって思う。でも、その『もし』を何個も重ねたまま開けたら、結局俺たちが勝手に決めることになる」
「中に何があるか分からないまま」
「うん」
「何もない可能性もあります」
「ある」
「人ではない可能性もあります」
「ある」
「設備そのものかもしれません」
「ある」
セリーはカップを置いた。
「では、まだ決めなくてよいのですね」
アルも頷く。
「少なくとも今夜は」
それから、少し笑う。
「明日の俺が絶対同じこと言うって決める必要もないけど」
セリーの目元が柔らかくなった。
「主様らしいです」
「褒めてる?」
「はい」
「最近それ多いな」
「主様が毎回確認されるからです」
アルは思わず笑った。
セリーも小さく笑う。
そのあと、二人はしばらく別々に茶を飲んだ。
触れてはいない。
けれど、距離が遠いとも感じない。
◇
夜が深くなった頃、王立魔導研究院へ共同保管部署から短い返答が届いた。
照会を送った研究員は、帰宅前にそれを確認した。
内容は、資料そのものの開示ではない。
番号変換表そのものも提供されていない。
代わりに、研究院が提示した旧移管番号について、共同保管側が内部照合した結果だけが記されていた。
研究員は最初の数行を読み、姿勢を正した。
『照会番号に対応する再採番記録を確認。該当資料群は、共同保管開始時に単一資料として受入されたものではなく、複数の添付記録へ分割されている』
その下に、さらに注意書きがある。
『うち一部は設備・保護判断関連記録として照会可能。一部は個体医療記録を含む可能性があるため、内容照会には別途権限確認を要する』
研究員は先を読む。
『設備・保護判断関連記録の索引上確認可能な旧見出しとして、以下を認める』
そこに三つの見出しが並んでいた。
『外部確認不能時対応』
『再確認待機中の状態維持』
そして、最後の一つ。
『代替確認手順――対象応答不能時』
研究員の指が紙の上で止まった。
「対象応答不能時……」
隣に残っていた同僚が顔を上げる。
「どうした?」
「共同保管から返ってきた」
研究員は紙を渡した。
同僚も読み、最後の見出しで表情を変える。
「これ、塔側に送る?」
「まだ」
研究員は即答した。
「見出しだけじゃ意味が広すぎる」
「でも、前の資料に『代替確認手順は別紙参照』があったよね」
「あった。だから関連する可能性は高い。でも、『対象応答不能時』の対象が何か分からない」
人かもしれない。
生命体かもしれない。
応答機能を備えた魔導具かもしれない。
設備系統かもしれない。
以前の研究院資料でも、「応答」という語が人的対象だけを意味しないことは確認されている。
「設備・保護判断関連記録の方だけ、内容照会できるか確認しよう」
「医療記録は?」
「今は求めない」
研究員は紙へ視線を戻した。
「まず、この三つの見出しが前に見つかった別紙と同じ資料なのかを確認する。それが違うなら、話が変わる」
「同じだったら?」
研究員は少し考えた。
「そのときも、読める範囲を確認してからだ。見出しだけで『応答できない誰かがいた』なんて送れない」
同僚が頷く。
研究員は新しい照会文を作り始めた。
塔ではまだ知らない。
旧保養施設でも知らない。
アルも、セリーも、アンナマリーも、ブラートも、ガルムも、リディアも、フェリクスも知らない。
古い資料の道筋の先に、「代替確認手順――対象応答不能時」という見出しが残っていたことを。
そして、それが何を意味するのかは、見つけた研究員自身にもまだ分からなかった。




