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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第123話 応答できないということ



朝の塔には、夜の強い風が残した痕跡がいくつかあった。


中庭の隅には細い枝が落ち、壁際には吹き寄せられた葉が集まっている。空そのものはよく晴れていたが、窓を少し開けるだけで冷たい空気が食堂へ流れ込み、セリーは朝食を並べ終えるより先に開き幅を半分ほど狭めた。


「主様、今日は中庭の掃除をなさいますか?」


席へ着いたアルへ、セリーが尋ねる。


「昼くらいに風が落ち着いたらやろうかな。今やると、集めた葉っぱがまた飛びそうだし」


「では、午前中はそのままにしておきます」


「うん。枝だけ危なそうならあとで端に寄せよう」


昨夜までの資料調査とは何の関係もない相談だった。


けれど、アルにはそれがありがたかった。


昨日は「西補助保持区画」に続いて、塔に保管されていた古い転記資料から「保持区画外部照会」「再確認待機」「状態変更を行わず」という断片が見つかった。旧保養施設側では既存写真との照合まで済ませ、転記範囲に明確な誤りがないことも確認されている。


それでも、朝になれば落ち葉は落ち葉だった。


資料が一枚増えたからといって、庭が勝手に片づくわけではない。


「今日はちゃんと食べてますね」


アルがスープへ手を伸ばしたところで、セリーが言った。


「まだ食べ始めたばっかりだけど」


「昨日は途中で考え込んでおられましたので」


「今日はエルも置いてきたから」


アルは自分の腰元を示した。


普段ならすぐ手が届く場所にある古代魔導具のエルを、今朝は自室の机へ置いてきた。緊急連絡であれば塔側の機能から知らせが来るため、朝食中に通常報告を確認する必要はない。


セリーはそのことを知っていたが、改めてアルの腰元を見た。


「ご自身で置いてこられたのですね」


「なんか子供を褒めてるみたいだな」


「そのような意図はありません」


「ほんとに?」


「少しだけあります」


真顔で言われ、アルは笑った。


セリーの口元にも僅かな笑みが浮かぶ。


そのまま二人で朝食を続けていると、窓の外で葉が一枚、石畳を転がっていった。


「セリー」


「はい」


「昨日の夜、俺が怖いって言っただろ」


セリーはスプーンを置くことなく、視線だけをアルへ向けた。


「はい」


「今も怖くないわけじゃない。でも、昨日より少し落ち着いてる」


「何か変わりましたか?」


「寝たからかも」


「それは、とても重要な変化だと思います」


「そこ?」


「はい」


アルはまた笑い、パンをちぎった。


だが、セリーの言葉は冗談だけではなかった。


夜に考えたことと、眠ったあとに考えることが同じとは限らない。昨夜の自分が急ぎたくなることを恐れていたからといって、今朝も同じ強さで恐れ続けなければならないわけではない。


「昨日見つかった言葉が増えたこと自体は変わってない。でも、今すぐ何かしなきゃって感じは少し薄れた」


「では、今日はどうなさいますか?」


「研究院の返事を待ちながら、昨日までの資料を整理する。旧保養施設には今の観測を続けてもらう。あと、庭の葉っぱを片づける」


セリーは頷いた。


「良い予定だと思います」


「最後のが一番確実に終わりそうだな」


「それでも構わないのではありませんか?」


「うん。俺もそう思う」


食卓の下で、二人の手は触れていない。


けれどセリーは今日もアルの隣に座っていた。


アルはそれを嬉しいと思いながら、今朝は言葉にしなかった。言わなくても大切にできることがあるし、毎回確認しなければ失われるものでもない。


          ◇


旧保養施設では、ガルムが夜間観測の引継ぎを終えていた。


昨夜は表示部の発光なし。


音なし。


受動計測値に通常範囲を外れる変化なし。


落下物や壁面変化も確認されていない。


視覚基準具については、前夜と同じ配置が維持された。番号を意識しすぎたという報告は昨夜の勤務者からはなく、一方で「役に立ったか分からない」という意見も一名から出ている。


ガルムはその言葉を記録から消さなかった。


役に立ったと分からない。


それも結果だった。


「外すか?」


トーマスが尋ねる。


彼は自分が提案した番号板を見ながらも、以前のように「残した方がいい」と先に主張することはなかった。


ガルムはリディアを見る。


「どう思う?」


「今夜から一部だけ外す方法はあります。ただし、配置を変えるなら変更日を明確に残す必要があります」


「全部外すのは?」


「それでも構いません。ただ、導入前、導入中、撤去後で記録条件が三段階になります」


フェリクスは少し離れた机で資料を読んでいたが、会話を聞いて顔を上げた。


「役に立つか分からないから残す、だと、残すこと自体が目的になりませんか?」


トーマスが彼を見る。


「じゃあ外す?」


「いや、僕が決めることじゃないけど……」


フェリクスは一度言葉を止めた。


「役に立った人がいたのも本当だし、数字へ視線を引っ張られた人がいたのも本当ですよね。だったら、全員に同じ方法を続ける必要があるのかなって」


ガルムは腕を組む。


「勤務者ごとに置いたり外したりするか?」


「それも観測条件が増えすぎますね」


「だろうな」


リディアが観測表を手元へ引き寄せた。


「目的を戻しましょう。この基準具は、光の位置について観測者間の表現差を減らせるか試すために導入しました」


「そうです」


トーマスが頷く。


「その目的については?」


「一定の効果はありました。ただし、数字へ注意が向くという別の影響も出ました」


「なら、試した意味はあったな」


ガルムはそう言ってから、窓の外に設置された低い番号板へ目を向けた。


「今夜から外す。導入前の方法へ戻すんじゃなく、『試験を終えたあとの方法』として記録しろ。必要なら位置表現の書式だけ、使えた部分を残す」


トーマスが少し驚いたように瞬く。


「書式だけですか?」


「板がなくても使える表現はあるんだろ?」


「はい。表示部を大まかな区画に分けて記載する方法なら」


「じゃあ、それを採用するかはリディアと詰めろ。お前が考えた方法だから残すんじゃない。使える部分があるなら使う」


トーマスは番号板を見た。


自分が提案し、自分たちで試したものだ。


外すと決まれば、少しだけ寂しい。


けれど失敗したとも思わなかった。


「分かりました」


返事をした声は、思っていたより自然だった。


フェリクスが笑う。


「ちゃんと役に立ったじゃないですか」


「外すのに?」


「外してもいいって分かったのも含めて」


トーマスは少し考え、それから苦笑した。


「それ、フェリクスさんに言われると変な感じします」


「どういう意味?」


「前なら絶対、『もう少し試しましょう』って言ってた気がします」


リディアが視線を逸らしながら口元を緩めた。


ガルムは笑いを隠さなかった。


フェリクスだけが少し不服そうな顔をしたものの、反論はしなかった。


          ◇


王立魔導研究院では、前夜に作成された追加照会が共同保管部署へ送られていた。


求めたのは三つの旧見出しと、研究院側で以前確認された「代替確認手順は別紙参照」との資料上の対応関係。


内容そのものを全面開示してほしいとは求めていない。


個体医療記録も求めていない。


まずは同じ資料なのか。


同じ手順群なのか。


そこだけを確かめる。


照会を担当している研究員は、返答を待つ間に研究院側の既存資料をもう一度確認していた。


机には、これまでに判明した文言を時系列ではなく出典別に分けて並べてある。


設備管理側の資料。


保護行政へ移管された可能性のある資料。


旧分類表。


移管台帳。


共同保管部署から返された索引見出し。


あえて一枚へ統合しない。


同じ机に置かれていても、同じ資料ではないからだ。


同僚が横から一枚を見た。


「『対象応答不能時』って、やっぱり気になるな」


「気になるけど、今は見出しだけだ」


「設備でも応答って使う?」


「使う。制御器が応答しない、確認器が応答しない、遠隔端末が応答しない。古い魔導設備記録でも例はある」


「人にも使う?」


「使う」


研究員は別の用語集を開く。


「患者、保護対象、被救助者。意識がない場合や意思表示が難しい場合に『応答不能』と書かれた例はある」


「じゃあ、本当にどっちか分からないんだな」


「だから送れない」


同僚は納得したように頷いた。


「でも、前に見つかった『応答不能は拒否不存在を意味せず』と並ぶと……」


研究員の手が止まる。


その一文は、古い分類表の「保護判断」に付随していた注意書きだ。


『確認不能は不在を意味せず。応答不能は拒否不存在を意味せず』


強い言葉だった。


だからこそ、研究員はまだ塔へ送っていない。


同じページに複数対象へ適用される原則がまとめられている可能性があり、後半だけを抜き出せば「意思を持つ何者かがいた」と誤解させる危険がある。


「並べたくなる」


研究員は正直に言った。


「でも、並べたくなるからこそ、今は並べない」


同僚は机の資料を見る。


「面倒だな」


「面倒だよ」


研究員は笑った。


「でも、昔の記録を読むって、たぶんこういうことなんだろうな」


          ◇


午前の終わり頃、アンナマリーとブラートが塔へ来た。


昨日見つかった転記資料について、写真照合結果を含めて整理するためだった。


アルは資料室ではなく、今日は居間の大きな卓を使うことにした。


窓から光が入り、資料室より明るい。


セリーが茶を用意してから席へ加わる。


「昨日までで、旧保養施設側から独立して確認できた言葉を並べるわね」


アンナマリーが紙へ書く。


『外部確認札挿入部』


『外部照会未了時』


『照会完了まで現状保持』


『保持区画外部照会』


『再確認待機』


『状態変更を行わず』


「ただし、最後の二つを含む資料は欠損が大きい」


ブラートが付け加える。


「『保持区画外部照会』も、一続きの正式用語とは確定していません」


アルは別の紙を見る。


研究院側からすでに正式共有されている語。


『外部状態確認部』


『確認札』


『状態表示窓』


『開口前確認』


『保持状態』


『再確認待機』


そして、すでに受け取っている手順断片。


確認札が認められない場合は開口を保留し、保持状態を変更せず、代替確認手順へ移行する。


確認札不在を対象不在と判断してはならない。


表示状態のみで内部状態を断定してはならない。


代替確認完了前の開口、保持解除、内部器操作を禁ず。


「重なる言葉は増えた」


アルが言う。


「でも、まだ同じ施設だとは言えない」


「そうね」


アンナマリーが頷く。


「ただ、完全に無関係だと考える理由も弱くなってきた」


「そこ、どう記録する?」


アルが尋ねると、ブラートが少し考えた。


「『資料群間に複数の共通・類似用語を確認。ただし施設同一性、設備同一性、手順同一性はいずれも未確認』ではどうでしょう」


「それがいい」


「『関連可能性あり』は?」


アンナマリーが尋ねる。


アルは少し迷った。


「入れてもいいと思う。でも、何の関連かを限定しない方がいい」


「施設かもしれないし、同じ制度圏の別施設かもしれない。同型設備かもしれないし、共通規則だけかもしれないものね」


「うん」


ブラートが書き加える。


『関連可能性あり。関連種別は未確定』


セリーがその一文を見ていた。


「関連している可能性があることと、同じものであることは別なのですね」


「そう」


アルが答える。


「たとえば同じ王国の施設なら、別の場所でも同じ形式の書類を使ってたかもしれない。設備だけ共通だったかもしれない。規則だけ共通だったかもしれない」


「同じ言葉が使われていた理由も、一つとは限らないのですね」


「うん」


セリーは紙へ視線を落とした。


「では、言葉が同じだから、そこにいるものまで同じだとは言えません」


アルは僅かに息を止めた。


「そうだな」


その言葉は重要だった。


設備が似ている。


手順が似ている。


分類が似ている。


だから対象も同じ。


そんな飛躍はできない。


そもそも、対象が人であることすら分かっていない。


「そこも注意書きに入れよう」


アルが言う。


「資料の類似から対象種別や対象同一性を推定しない」


アンナマリーが頷いた。


「いいと思う」


ブラートがそのまま記録へ加える。


誰かが未来にこの資料を読むとき、今の彼らより多くの情報を持っているかもしれない。


そのとき、過去の自分たちが何を知っていて、何を知らなかったかまで残っている方がいい。


          ◇


昼食を終える頃には、風がかなり弱くなっていた。


アルは予定通り中庭へ出た。


セリーも一緒だった。


箒で葉を集めるアルの横で、セリーは落ちた枝を拾い、折れて尖った部分が通路へ向かないようまとめていく。


「主様、そちらはまだ風が通ります」


「じゃあ壁側に集めるか」


「はい。こちらなら飛びにくいと思います」


二人で場所を変える。


資料の話はしない。


庭の端では、修理した木の椅子がいつもの場所に置かれている。


掃除が一段落すると、アルは箒を壁へ立てかけた。


「座る?」


「はい」


二人は椅子へ腰掛けた。


今日はセリーが先に右手を座面へ置いた。


アルの左手から少し離れた位置。


その距離を見て、アルはすぐには動かない。


しばらく庭を眺めていると、セリーの小指が僅かに動いた。


アルの手へ近づく。


触れる直前で止まる。


「主様」


「うん」


「今日は、少しだけ触れたいです」


「俺も」


アルが手を動かす。


小指同士が触れた。


握らない。


それだけだった。


セリーは庭を見たまま、少しだけ肩の力を抜いた。


「昨日は、触れなくてもよいと思いました」


「うん」


「今日は、触れたいと思いました」


「うん」


「どちらも、変ではありませんか?」


アルは小指に伝わる温度を感じながら答える。


「全然」


セリーは少し黙る。


「主様が私を好きだと聞いてから、自分のしたいことを考えるとき、以前より主様のことを考えるようになりました」


アルの心臓が少し速くなる。


けれど、急いで言葉を返さない。


セリーは続ける。


「触れたいか、触れたくないかだけではありません。お茶を一緒に飲みたいか、庭へ来たいか、主様が出かけるときにどのくらい寂しいか……そういうことです」


「それ、負担になってる?」


「いいえ」


セリーは首を横へ振った。


「ただ、以前より気づくことが増えました」


アルは彼女の横顔を見る。


「俺が好きって言ったせいで、答えを探してるわけじゃない?」


「少しは、探しているのかもしれません」


セリーは正直に答えた。


「ですが、主様へ答えなければならないからではありません。私が、自分のことを知りたいと思うからです」


アルは胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。


(嬉しい。でも、この嬉しさで先を求めたら駄目だ)


そう思った直後、自分で少し笑いそうになった。


先を求めること自体が悪いわけでもない。


欲しいと思うことと、相手へ義務として差し出させることは違う。


「俺は、それ聞けて嬉しい」


アルはそう言った。


「もっと知りたいとも思う。でも、セリーが分かったときに、言いたかったら教えて」


セリーはアルを見る。


「言いたくなかったら?」


「そのときは言わなくていい」


「主様は気になりますか?」


「めちゃくちゃ気になる」


アルが即答すると、セリーは目を丸くし、そのあと笑った。


「では、気になったまま待っていてください」


「結構厳しいな」


「主様が、言いたくなければ言わなくてよいとおっしゃいました」


「そうだった」


小指だけが触れている。


庭には、さっき集めた葉が壁際で小さな山になっていた。


完璧に片づいたわけではない。


それでも、今日の掃除はここまでで十分だった。


          ◇


午後、共同保管部署から研究院へ追加回答が届いた。


予想より早かったのは、内容そのものの開示ではなく、索引間の対応確認だけだったかららしい。


研究員は回答を開き、最初から慎重に読んだ。


『照会された旧見出し三件について、研究院提示資料に記載された「代替確認手順は別紙参照」との直接的な文書番号一致は確認できず』


研究員はそこで一度息を吐いた。


同じ資料だとは証明されなかった。


だが、回答は続いている。


『ただし、再採番後の上位分類および受入単位に共通性あり。旧見出し「外部確認不能時対応」「再確認待機中の状態維持」「代替確認手順――対象応答不能時」は、同一の保護判断手順群に属する索引として登録されている』


「保護判断手順群……」


研究員は以前の分類表を引き寄せた。


そこにある定義。


『保護判断――対象状態を直接確認できない場合における、状態変更・移送・開口・解除等の可否判断手順。対象種別を問わず適用する場合あり』


そして注意書き。


『確認不能は不在を意味せず。応答不能は拒否不存在を意味せず』


追加回答には、さらに重要な一文があった。


『当該手順群は複数対象種別への適用記録を含むため、索引見出しのみから個別対象種別を推定しないこと』


研究員は椅子へ深く座った。


「これなら、送れるかもしれない」


隣の同僚が回答を読む。


「前より分からなくなってない?」


「うん」


「それで送れるの?」


「分からない範囲が確認できたから」


研究員は塔向けの回答案を作り始めた。


研究院で確認できたこと。


共同保管側の内部照合で、三つの旧見出しが同じ保護判断手順群へ属すること。


研究院側の「代替確認手順は別紙参照」と直接の文書番号一致は確認できないこと。


上位分類には共通性があること。


「保護判断」の古い定義。


そして、注意書き。


研究員の指が止まる。


『応答不能は拒否不存在を意味せず』


この一文を送るべきか。


今度は、前とは状況が違う。


共同保管側から、同じ保護判断手順群に「対象応答不能時」という見出しがあることが確認された。


ただし、対象種別を推定してはならないとも明記されている。


研究員は注意書きを削らなかった。


代わりに、その直後へ太字相当の注記を付けた。


『上記注意書きは保護判断手順群全体に付された一般原則であり、特定施設、特定設備、人的対象の存在を示すものではない。共同保管側からも、索引見出しのみを根拠とした対象種別の推定を避けるよう明示あり』


「これなら?」


同僚が読み、ゆっくり頷いた。


「怖い文だけど、隠すよりはいいと思う」


「俺もそう思う」


「今送る?」


研究員は窓を見る。


まだ日が高い。


緊急ではない。


だが、現地で開口を保留していることは研究院も知っている。この情報は開けるためのものではなく、むしろ判断を急がないために意味を持つ可能性がある。


「通常優先で送ろう。緊急扱いにはしない」


「了解」


回答は研究院内の確認へ回された。


          ◇


塔へ研究院からの通知が届いたのは、夕食の少し前だった。


アルはエルの表示を見て、すぐには開かなかった。


隣ではセリーが食器を運んでいる。


「研究院から来た」


「緊急ですか?」


「通常優先」


「では、先に夕食になさいますか?」


アルは一瞬迷った。


気になる。


かなり気になる。


だが、緊急ではない。


「食べる」


「はい」


セリーはそれだけ答えた。


夕食の間、研究院の通知について話さなかった。


アルも何度かエルへ視線を向けそうになったが、そのたびに目の前の料理へ戻した。


食べ終わってから、アンナマリーとブラートへ連絡する。


二人が塔へ来るまでに、アルとセリーだけで先に全文を読むことはしなかった。


「待たせてごめんなさい」


アンナマリーが到着すると、アルは首を横へ振った。


「俺たちが待つって決めたんだから大丈夫」


ブラートもすぐに来た。


四人が資料室へ移動する。


エルが研究院からの文面を表示した。


最初に、直接的な文書番号一致は確認できなかったこと。


次に、三つの旧見出しが同一の保護判断手順群へ属する索引であること。


『外部確認不能時対応』


『再確認待機中の状態維持』


『代替確認手順――対象応答不能時』


アルの目が、最後の一行で止まった。


だが、先を読む。


『保護判断――対象状態を直接確認できない場合における、状態変更・移送・開口・解除等の可否判断手順。対象種別を問わず適用する場合あり』


そして、その下。


『確認不能は不在を意味せず。応答不能は拒否不存在を意味せず』


部屋の中で、誰もすぐには話さなかった。


アルは胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。


(応答できないからって、拒否していないことにはならない)


人の意思について書かれているように見える。


あまりにも、そう見える。


けれど文面には、その直後に研究院の注意が続いていた。


『上記注意書きは保護判断手順群全体に付された一般原則であり、特定施設、特定設備、人的対象の存在を示すものではない。共同保管側からも、索引見出しのみを根拠とした対象種別の推定を避けるよう明示あり』


アルは最後まで読んでから、息を吐いた。


「……危ないな、これ」


アンナマリーがアルを見る。


「何が?」


「人がいるって思いたくなる」


「私も思ったわ」


彼女は隠さなかった。


「『拒否不存在』なんて言葉を見たら、意思のある誰かを想像する。でも、研究院はそれをするなって一緒に送ってきた」


ブラートは定義部分を見ている。


「『対象種別を問わず適用する場合あり』という記載も重要です。複数対象種別に共通する手順群である可能性があります」


セリーがゆっくり口を開いた。


「それでも、『応答できないこと』と『拒否していないこと』を同じにしてはいけない、という考え方は残るのですね」


アルは彼女を見る。


「うん」


「人がいると決まったわけではなくても」


「うん」


「では、今の私たちに必要なのは、中に人がいると考えることではなく……もし何かの状態を変えるなら、確認できないことを都合よく許可へ変えないこと、でしょうか」


アルはすぐに答えなかった。


その言葉を自分の中で確かめる。


「たぶん、そうだと思う」


アンナマリーも頷く。


「少なくとも、安全側の原則としては使える。でも、それが旧保養施設へそのまま適用される正式手順だとは、まだ言えない」


「研究院側の別紙と直接一致してないから?」


「それもあるし、旧保養施設との施設同一性もまだ未確認だから」


ブラートが記録用紙を用意する。


「現時点での整理を作りましょう」


アルは頷いた。


「まず、研究院から来た原文をそのまま保存。解釈とは分ける」


「はい」


「確認できたことは、三つの旧見出しが同じ保護判断手順群に属すること。保護判断の定義。一般原則として二つの注意書きがあること」


ブラートが書く。


「未確認事項は?」


アンナマリーが答える。


「研究院側の既存別紙との直接同一性。旧保養施設との施設同一性。現地設備との設備同一性。『対象応答不能時』の対象種別。この原則が現地の壁や表示部へ直接適用されるかどうか」


「それから」


アルは少し考える。


「『応答不能』が現地で何を指すかも分からない」


「そうですね」


ブラートが加える。


セリーが尋ねる。


「旧保養施設へは送りますか?」


アルはエルを見る。


ガルムたちがこの情報を知れば、観測の見方が変わる可能性がある。


「送る。でも、今夜の観測前に全員へ読ませる必要はないと思う」


アンナマリーが頷く。


「安全上の方針は変わらないものね」


「触れない、開けない、状態を変えない。そこは変わらない」


「なら、まずガルムたちの管理側へ原文と注意書きを送って、観測者へどこまで共有するかは現場で決めてもらう?」


「それがいい」


アルは自分で決めたあと、少しだけ笑った。


「俺が全部決めなくても、ガルムなら考えるしな」


ブラートの表情が僅かに和らぐ。


「ええ。おそらく、もう十分に」


          ◇


旧保養施設へ届いた研究院資料を読んだガルムは、しばらく何も言わなかった。


隣にはリディアとフェリクスがいる。


トーマスたち今夜の観測者には、まだ見せていない。


フェリクスは最後まで読み、紙を机へ置いた。


以前の彼なら、「中に誰かいる可能性が」と口にしていたかもしれない。


今も、その考えは浮かんだ。


(もし人なら)


そう思った。


だが、その先を声にしなかった。


リディアが先に言う。


「観測方法は変えません」


「俺もそう思う」


ガルムが答える。


「今夜から番号板は外す予定だった。それは予定通り。新しい資料が来たから外すわけじゃないって記録に残せ」


「はい」


「壁へ近づく理由にもならん。呼びかける理由にもならん。音を出して反応を見る理由にもならん」


フェリクスが頷く。


「むしろ、『応答不能』って言葉を見た直後に呼びかけたら、観測そのものを変えます」


ガルムは彼を見る。


「分かってるじゃねえか」


「最近ちょっと扱いがひどくないですか?」


「信用が増えたから言ってる」


フェリクスが黙る。


その言葉は予想していなかったらしい。


ガルムは研究院の文面へ戻る。


「ただし、安全判断としては覚えとく」


「何をですか?」


「確認できねえから何もない、とはしない。返事がねえから好きにしていい、ともしない」


リディアが静かに頷いた。


「対象が何であっても、今の私たちの方針とは矛盾しません」


「そういうことだ」


ガルムは文書を閉じた。


「今夜の連中には、予定通りの観測条件だけ伝える。この文書は勤務後に必要なら共有する。先入観を増やしてまで見せる理由はねえ」


「了解しました」


フェリクスも異論を言わなかった。


          ◇


夜の観測が始まる前、番号板は撤去された。


ただし、何もなかったことにはされない。


設置した日。


位置。


使った者の感想。


有用だった点。


注意を引きつけた可能性。


撤去した日。


撤去理由。


すべてが方法履歴として残された。


トーマスは最後の一枚を片づけながら、リディアへ尋ねた。


「また必要になったら使うんですか?」


「必要だと判断すれば」


「じゃあ、失敗した道具じゃないんですね」


「試した道具です」


リディアはそう答えた。


「役に立つ場面と、邪魔になる場面があると分かった。それなら、最初より情報は増えています」


トーマスは番号板を保管箱へ入れた。


捨てない。


だからといって、残したまま使い続けるわけでもない。


蓋を閉める。


そのあと、夜勤者たちは従来の観測位置へ就いた。


壁へ近づかない。


表示部へ触れない。


呼びかけない。


音を誘発しない。


強い探査を行わない。


受動計測器の位置も変えない。


研究院で見つかった新しい言葉は、今夜の視界へ持ち込まれなかった。


          ◇


塔では、アルとセリーが寝る前の茶を飲んでいた。


研究院から届いた一文は、まだアルの頭に残っている。


『応答不能は拒否不存在を意味せず』


「セリー」


「はい」


「もし、返事ができない相手がいたとしてさ」


セリーは黙って続きを待った。


「その相手が何を望んでるか分からないとき、何もしないのが絶対正しいとも限らないよな」


「はい」


「危ない状態なら、助けるために動かなきゃいけないこともある」


「あると思います」


「でも、返事がないから何してもいい、にもならない」


「はい」


アルはカップの縁を指でなぞりかけ、途中でやめた。


「難しいな」


セリーは少し考える。


「主様は以前から、同じことをなさっているように思います」


「俺が?」


「はい。選べない方を、選べないから放っておくのではなく、必要な保護をしながら、その方が選べる部分を残そうとしておられます」


アルは彼女を見る。


「いつも上手くできてるわけじゃないよ」


「はい」


「そこは否定してくれてもよくない?」


「主様は、上手くできなかったことも忘れたくないのではありませんか?」


アルは返事に詰まった。


やがて苦笑する。


「そうだな」


セリーはカップを置いた。


「それに、今の壁の向こうに誰かがいると決まったわけではありません」


「うん」


「ですから、今夜は誰かを助ける方法を決めなくてもよいと思います」


「そうだな」


「ただ、いつか何かを変えなければならなくなったとき、確認できないことを理由に、都合のよい答えを作らない」


アルはゆっくり頷いた。


「それは覚えておきたい」


セリーの右手が、茶卓の上へ置かれる。


アルはその手を見る。


昨日は小指だけだった。


今日はどうしたいのか、アルには分からない。


だから、勝手に握らない。


セリーの指が少し動く。


「主様」


「うん」


「今日は、手を握ってもよいですか?」


アルの顔が自然に緩んだ。


「うん。俺も握りたい」


セリーが手を差し出し、アルが重ねる。


指を強く絡めるのではなく、互いの掌を合わせてゆっくり握る。


セリーはその手を見つめていた。


「返事ができるときは、返事を聞けばよいのですね」


アルは少し笑った。


「少なくとも、今は」


「では、聞いてよかったです」


「俺も聞いてもらえてよかった」


二人はそのまま、しばらく手を握っていた。


          ◇


深夜。


旧保養施設の観測室では、二人の観測者がそれぞれ決められた位置にいた。


番号板がなくなったことで、窓外の景色は数日前に近い状態へ戻っている。


ただし、記録方法は完全には戻っていない。


表示部の位置は、導入試験で得られた区画表現を補助的に使えるようになっていた。


時間が過ぎる。


受動計測値に変化はない。


音もない。


表示部も暗い。


一人の観測者が記録へ時刻を書き込む。


もう一人は外を見たまま、姿勢を僅かに変えた。


しばらくして、最初の観測者が気づく。


「どうした?」


声は小さい。


相手はすぐには答えなかった。


西側の古い壁面を見ている。


正確には、壁そのものではない。


表示部より下。


これまで汚れと補修材に覆われ、細部を確認できないとされていた範囲のさらに外側。


月明かりが雲の切れ間から差し込み、壁面を斜めに照らしている。


「何か見えたか?」


「……分からない」


その答えを聞いた一人目は、自分の位置を変えなかった。


近づかない。


同じ方向を見る。


「どこだ?」


相手は指を差さなかった。


視線を誘導しすぎれば、見えていないものまで見せてしまうかもしれない。


「表示部の下じゃない。そこから少し西。補修材の端のあたり」


一人目も見る。


月明かりが薄れる。


何も分からない。


再び雲が動き、淡い光が壁を撫でる。


そのとき、一人目にも何かが見えた。


文字ではない。


光でもない。


壁の汚れの中に、周囲とは僅かに違う直線があるように感じる。


だが、古い補修跡かもしれない。


ひび割れかもしれない。


ただの影かもしれない。


「見える?」


「線みたいなのは……あるように見える。でも、何かは分からない」


二人はそれ以上近づかなかった。


照明を向けなかった。


汚れを落とさなかった。


触れなかった。


観測者の一人が記録紙へ書く。


『月光入射時、西側壁面・既知表示部下方よりやや西の補修材境界付近に、周囲と異なる直線状の見え方を一時認識。二名とも線状差異の可能性を認識するも、構造物・文字・亀裂・影のいずれか判定不能。人工照明による追加確認、接近、接触は実施せず』


書き終えてから、もう一人へ見せる。


「これでいい?」


相手は読み、少し考えた。


「『二名とも』の前に、最初は俺だけが気づいたって入れてほしい。お前は俺が場所を言ったあとに見てるから」


「分かった」


記録が修正される。


最初の認識者と、その後に位置情報を得て確認した者。


同じ「見えた」でも、条件は同じではない。


月は再び雲へ隠れた。


壁は元の暗さへ戻る。


二人はそのまま観測を続けた。


壁の向こうに何があるのかは分からない。


そもそも、その線が何かにつながるものなのかすら分からない。


それでも、今夜新しく残ったのは、答えではなかった。


近づかなければ確かめられないものを、近づかずに見えた範囲のまま残した記録だった。

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