第124話 見つけたからといって、触れていいわけではない
朝の旧保養施設では、夜勤者が残した一枚の記録を前にして、ガルムが腕を組んでいた。
窓の外には昨夜の雲がまだ薄く残っているものの、東から差し込む朝日は十分に明るく、観測室の古い机や壁際の保管棚まで淡い金色に染めている。夜間には月明かりによって偶然見えたという西側壁面も、朝の光の中ではまったく違う表情を見せていた。
ただし、ガルムはまだ現場へ行っていない。
リディアも、フェリクスも同じだった。
最初に行ったのは、昨夜の観測者二人から記録を受け取ることだけである。
『月光入射時、西側壁面・既知表示部下方よりやや西の補修材境界付近に、周囲と異なる直線状の見え方を一時認識』
続いて、最初に一人が認識し、位置情報を聞いたあとでもう一人も線状の差異らしきものを認識したことが書かれている。
人工照明による追加確認なし。
接近なし。
接触なし。
汚れ除去なし。
何であるかは判定不能。
ガルムは最後まで読んでから、紙を机へ戻した。
「最初に見つけたのはどっちだ?」
夜勤者の一人が手を上げる。
「自分です」
「何を見つけたと思った?」
「最初は……線です。ただ、線と言っていいかも迷いました。周りより少しだけまっすぐに見える場所があるような気がして」
「文字だと思ったか?」
「いいえ」
「溝?」
「分かりません」
「金属?」
「分かりません」
「扉の縁?」
夜勤者は一瞬考え、それから首を横へ振った。
「そこまでは思っていません。今聞かれたので、そういう可能性もあるのかと思ったくらいです」
ガルムは頷いた。
「それでいい」
フェリクスが机の反対側で黙って聞いている。
ガルムはもう一人へ視線を向けた。
「お前は?」
「場所を聞いてから見ました。最初は分かりませんでしたが、月がもう一度出たとき、周りと違って見える場所はありました」
「最初の奴が『線』って言ったあとか?」
「はい」
「じゃあ、お前が線だと思ったのは、その言葉に引っ張られた可能性もあるな」
「あると思います」
「記録に入れとけ」
「はい」
ガルムはそれ以上、形を尋ねなかった。
どのくらいの長さだったか。
縦か横か。
太さはどうだったか。
何色だったか。
今から質問を重ねれば、昨夜には存在しなかった輪郭を記憶の中へ作ってしまうかもしれない。
「よし。二人とも休め」
「追加確認は?」
最初に見つけた夜勤者が尋ねた。
ガルムは西側壁面の方角へ目を向けることなく答える。
「こっちで決める。お前らが今から見に行く必要はない」
二人が退室すると、フェリクスが長く息を吐いた。
「行きたいです」
「知ってる」
ガルムは即答した。
「まだ何も言ってないですよ」
「顔に書いてある」
「そんなに?」
リディアが静かに頷く。
「かなり」
フェリクスは片手で顔を覆った。
「……でも、近づいて見るべきだとは言いません」
「ほう」
「昨日届いた資料を読んだ直後ですから。『応答不能』とか『保護判断』とかを頭に入れた状態であの線を見たら、何でも意味のある構造に見えそうです」
ガルムは僅かに口元を上げた。
「じゃあどうする?」
「まず、既存写真を見ます」
リディアも同意した。
「過去の写真に同じ位置が写っている可能性があります。昨夜の観測者が示したおおまかな範囲だけを使い、既存写真で確認するなら現場条件を変えません」
「画像加工は?」
フェリクスが尋ねる。
「原画像を先に確認します。その後、必要なら明度調整等を検討できますが、加工像だけで構造を確定しないことを前提にします」
「なら、それでいけ」
ガルムは立ち上がった。
「それと、現場を見に行くとしても、いつもの観測位置までだ。それより近づくな」
フェリクスも立ち上がりかけたが、ガルムが睨む。
「お前は先に飯食え」
「今ですか?」
「今だ」
「写真を一枚だけ――」
「飯だ」
リディアが横から付け加える。
「昨夜も資料を読んでから就寝が遅くなっています」
「十二時前には寝ましたよ」
「十一時五十六分でした」
「四分前なら立派じゃないですか?」
「その四分を誇る人間は、先に朝食を取るべきだと思います」
フェリクスは何か言い返そうとして、諦めた。
「……分かりました」
ガルムは満足そうに頷いた。
「飯のあとに写真だ」
◇
塔では、アルが朝食を終えたところで夜間報告を受け取った。
エルが読み上げる内容を聞きながら、アルは食卓から動かなかった。
昨夜、旧保養施設の西側壁面で直線状の見え方が確認された。
二名の観測者が認識したが、二人目は位置情報を得たあとでの確認。
正体不明。
追加照明なし。
接近なし。
接触なし。
今朝の時点でも現場操作は行われていない。
報告が終わっても、アルはしばらく黙っていた。
セリーは食器を片づける手を止めず、急かさない。
「……また増えたな」
やがてアルが言う。
「はい」
「今度は壁そのものかもしれない」
「『壁に何かがある』と決まったのですか?」
セリーの問いに、アルは一瞬止まり、それから苦笑した。
「いや。決まってない」
「報告では、『周囲と異なる直線状の見え方』でした」
「うん。影かもしれないし、補修跡かもしれない」
「亀裂かもしれない、とも書かれていました」
「そうだった」
アルは椅子の背へ身体を預ける。
自分がどれだけ簡単に「壁に何かがある」と変換しかけたかに気づいた。
昨夜読んだ研究院の資料が残っている。
保護判断。
対象応答不能時。
確認不能は不在を意味しない。
応答不能は拒否不存在を意味しない。
そんな言葉を読んだ直後に、壁へ新しい線が見えた。
意味を持たせたくなるのは当然だった。
だが、当然だから正しいわけではない。
「セリー、ありがと」
「何がでしょうか?」
「今、勝手に一段進めてた」
セリーは食器を盆へ重ねながら、アルを見る。
「主様は気づかれました」
「言われたからだけどね」
「それでも、戻れました」
アルは少し笑った。
「じゃあ、今分かってるのは、昨夜の月明かりで二人が周囲と違う線みたいなものを見た。それだけ」
「二人目の方は、最初の方から場所を聞いたあとです」
「そこも大事だな」
「はい」
「現場は触ってない」
「はい」
「朝の追加確認もまだ」
「はい」
アルはそこで一度息を吐いた。
「ガルムたちはどうすると思う?」
「既存の記録を先に確認されるのではありませんか?」
「俺もそう思う」
「では、主様から指示を出されますか?」
アルは少し考えた。
「出さない」
「はい」
「危ないことを始めてるなら止めるけど、今の報告には『現場操作なし』ってある。ガルムたちなら、まず既存写真を見ると思う」
セリーの表情が柔らかくなる。
「信頼しておられるのですね」
「してる」
以前なら、自分が判断しなければと思ったかもしれない。
現場から新しい情報が届くたびに、次に何をするか決めなければならないと考えていた。
けれど、ガルムにはガルムの役割がある。
リディアにも、フェリクスにも、それぞれの役割がある。
アルが何もしないことと、責任を放棄することは同じではない。
「ただ、研究院の資料と結びつけすぎないようにって注意は……」
言いかけたアルは止まった。
セリーが首を傾げる。
「どうされました?」
「それも、たぶんガルムたちなら分かってる」
「では?」
「報告が来るまで待つ」
「はい」
セリーはそれ以上何も言わなかった。
◇
朝食を終えたフェリクスが記録室へ戻ると、すでにリディアが写真保管箱を机へ出していた。
旧保養施設の西側壁面については、これまで何度も撮影されている。
最初の安全確認時。
補修箇所の記録時。
表示部周辺の既存状態を確認した時。
フェリクスが以前、三窓表示と古い図面の寸法を比較した時。
ただし、昨夜の線が見えたという場所を主対象にした写真はない。
「この辺りですね」
リディアが、観測記録に添えられた簡単な位置図を指した。
表示部の下方よりやや西。
補修材の境界近く。
「先に一番古い写真から?」
フェリクスが尋ねる。
「そうしましょう。新しい写真を先に見ると、現在の補修状態を基準に過去を探してしまう可能性があります」
二人は撮影時期の古い順に写真を並べた。
最初の一枚。
壁面は今より汚れており、補修材の一部も現在と形が違う。
昨夜の範囲に当たる場所を見る。
「……分からない」
フェリクスが呟く。
「私もです」
次。
少し角度が違う。
光の当たり方も違う。
「ここ、線に見えません?」
「どこですか?」
フェリクスは指を伸ばしかけ、途中で止めた。
「場所を言ったら、同じものを見せちゃいますね」
「では、別々に印を付けましょう」
写真そのものへは書き込まず、透明な写し板を二枚用意する。
二人が別々に、自分が「周囲と違う可能性がある」と思った位置だけを記録した。
重ねる。
一致しない。
フェリクスが眉を寄せる。
「僕はこっちです」
「私はもう少し下です」
「じゃあ、少なくともこの写真では共通認識にならない」
「はい」
次の写真へ進む。
さらに次。
数枚目で、二人の印が近い位置へ来た。
ただし完全には一致しない。
「これ……」
フェリクスが身を乗り出しかけ、すぐに戻る。
リディアも写真を見たまま動かない。
補修材の境界に沿って、短い直線のような陰影がある。
しかし、その写真は斜めから光が当たっている。
「影の可能性があります」
「ありますね」
「補修材の段差でも説明できます」
「できます」
フェリクスは次の写真を取った。
同じ時期、少し違う角度。
そこでは直線がほとんど見えない。
「消えた?」
言った直後、フェリクスは自分で首を振る。
「違う。写ってない、ですね」
「はい。対象が消えたとは限りません」
写真をさらに進める。
ある写真では見えるように感じる。
別の写真では分からない。
新しい写真になるほど補修材の色差が増え、逆に判断が難しくなっている。
リディアが一覧を作った。
『原画像上、昨夜報告位置周辺に直線状陰影と解釈可能な箇所を複数写真で認識。ただし観測者間の指示位置は完全一致せず、撮影角度・光条件・補修材段差による陰影の可能性を排除できない。構造物の存在を示す根拠とはしない』
フェリクスは読み、頷いた。
「これならいいと思います」
「現場確認はどうしますか?」
その問いに、フェリクスはすぐ答えなかった。
以前の自分なら「行きましょう」と言っていた。
今も行きたい。
朝の自然光なら、昨夜とは違う見え方をするかもしれない。
でも、何を確かめるのか。
線があるか。
それとも、線に見える陰影があるか。
もし見えたとして、次にどうするのか。
「いつもの観測位置から見るだけなら、いいと思います」
フェリクスは答えた。
「ただ、見えなくても近づかない。見えても近づかない」
「理由は?」
「今の目的は、昨夜の記録が現在の自然光条件でも再認識できるかを見るだけだからです。構造を確定することじゃない」
リディアは頷いた。
「ガルム隊長へ提案しましょう」
◇
午前の塔には、アンナマリーとブラートがいつもより少し遅れて到着した。
昨夜届いた研究院資料を、王都側でも別に読み直していたためだった。
居間へ入ったアンナマリーは、アルを見るなり尋ねる。
「現場の報告、見た?」
「見た」
「何か指示した?」
「してない」
アンナマリーが少しだけ目を細める。
「我慢したの?」
「その言い方やめてくれない?」
「だって気になるでしょう」
「めちゃくちゃ気になるよ」
アルは否定しなかった。
「でも、現場操作してないって書いてあったから。ガルムたちに任せた」
ブラートが僅かに頷く。
「適切だと思います」
「ブラートまで褒めると、俺が普段どれだけ危なっかしいのか不安になるんだけど」
「危なっかしいというより、以前はご自身で引き受ける範囲が広すぎました」
「それ、遠回しに同じこと言ってない?」
セリーが茶を置きながら口元を緩めた。
重い資料を扱う朝だったが、室内の空気は張り詰めすぎてはいない。
四人は席へ着き、昨夜の研究院資料を改めて確認した。
「私が気になったのはここ」
アンナマリーが指したのは、『対象種別を問わず適用する場合あり』という一文だった。
「これがある以上、『応答不能は拒否不存在を意味せず』だけを人的対象の証拠として扱うのは無理ね」
「うん」
「でも逆に、人的対象ではないとも言えない」
「それもそうだな」
ブラートが別の紙を出す。
「過去の研究院用語集を確認しました。『応答』という語は、少なくとも設備制御、遠隔端末、患者状態、保護対象との意思疎通の四種類で使用例があります」
「広すぎるな」
「はい。文脈なしでは対象種別を絞れません」
セリーが資料を見ながら尋ねる。
「では、『拒否』はどうでしょう。設備も拒否するのですか?」
ブラートは少し考える。
「現代の設備記録では通常使いません。ただし、古い安全制御の記録に『受入拒否』『接続拒否』といった表現はあります」
「意思とは限らない?」
「はい。ただ、『拒否不存在』という表現が人的・生命的対象を念頭に含んでいる可能性は否定できません」
アンナマリーが続ける。
「だから、今は『人だ』にも『設備だ』にも寄せない方がいい」
アルは頷いた。
「昨日の壁の線も同じだな」
「どういう意味?」
「扉っぽい、とか、確認札を入れる場所っぽい、とか、今の俺たちなら何にでも見える」
「そうね」
「だから、現場から写真確認の結果が来るまで待つ」
アンナマリーはアルの顔を少し見た。
「本当に変わったわね」
「何が?」
「昔なら、自分で見に行ってたんじゃない?」
アルは答えに詰まった。
王太子だった頃。
問題が起きれば、自分が確認する。
誰かが困れば、自分が決める。
自分が動いた方が早い。
それが責任だと思っていた。
「……行ってたかも」
「今は?」
「行きたいよ」
アルは笑った。
「でも、行きたいから行く必要はない」
アンナマリーも少し笑う。
「それなら安心した」
セリーは何も言わなかったが、アルを見る目が柔らかかった。
◇
旧保養施設での現場確認は、昼前に行われた。
ガルム、リディア、フェリクスの三人。
立つ場所は、通常の観測位置から変えない。
追加照明は使わない。
壁へ近づかない。
最初に、それぞれ別々に見る。
「始めろ」
ガルムの声を合図に、三人が西側壁面へ視線を向けた。
昼の光は昨夜の月明かりより強い。
その分、壁の凹凸や補修材の色差もはっきり見える。
フェリクスは昨夜の記録位置を知っている。
だからこそ、そこだけを凝視しないよう、表示部から壁面全体へゆっくり視線を動かした。
(探すな。見るだけだ)
言葉にした思考を自分の中で留める。
しばらくして、ガルムが視線を外した。
「俺は分からん」
リディアも続く。
「補修材の境界はいくつか見えますが、特定の一本を異常とは判断できません」
フェリクスはまだ見ている。
やがて息を吐いた。
「僕は……一か所、直線っぽく見えるところがあります。でも、昨日の写真で見た位置を知ってるからだと思います」
「昨夜の報告位置と同じか?」
ガルムが尋ねる。
「たぶん近いです。でも、『同じ』とは言えません」
「ならそれで終わりだ」
ガルムは壁へ背を向けた。
フェリクスも従う。
「追加確認しなくていいんですか?」
尋ねたのはリディアだった。
止めたいからではなく、判断理由を記録するための問いだ。
ガルムは歩きながら答える。
「今やれる追加確認って何だ?」
「接近観察、追加照明、表面清掃、斜光照射、画像比較用の新規撮影などです」
「どれも条件を変えるな」
「はい」
「そこまでして今知る必要があるか?」
リディアは首を横へ振る。
「緊急性を示す情報はありません」
「ならやらん」
フェリクスが後ろから続く。
「新規撮影だけなら非接触ですけど」
ガルムが振り返る。
フェリクスはすぐに付け加えた。
「提案じゃなくて、候補としてです。ただ、撮影のために照明条件を作るなら観測とは別の介入になります」
「自然光で今の位置から撮るのは?」
リディアが考える。
「現状記録としてなら可能です。ただし、『線を確認するための写真』として撮ると、その箇所だけを特別視した資料になります」
フェリクスが頷く。
「じゃあ、定期記録の次回撮影まで待つ方がいいですね」
ガルムは彼を見る。
「それで我慢できるか?」
「我慢って言わないでください。判断です」
「言うようになったな」
三人は観測室へ戻った。
報告には、昼間の通常観測位置からの目視結果だけが追加された。
ガルムは特定の線を認識せず。
リディアは複数の補修境界を認識するが、特定一本を異常と判断せず。
フェリクスは一か所を直線状に感じたが、既存写真および昨夜報告位置を事前に知っているため認知誘導の可能性を自己申告。
追加操作なし。
緊急性なし。
定期記録条件を変更しない。
それで終えた。
◇
午後、三〇八号室の少年は窓辺の椅子に座っていた。
今日は手紙の箱を見ていない。
ヨアヒムも出していない。
代わりに、少年の膝には一冊の薄い本がある。
絵の多い植物図鑑だった。
「これ、同じ花?」
少年が二つの絵を指す。
色は似ているが、葉の形が違う。
ヨアヒムは横から覗く。
「別の種類らしいな」
「似てるのに?」
「似てても別のものはある」
少年はページを見つめた。
「じゃあ、違ってても同じのもある?」
ヨアヒムは少し考える。
「あると思う。季節で色が変わる葉もあるし、大きくなって形が変わるものもある」
「人も?」
「人も変わるところはあるな」
少年は自分の手を見る。
以前より少し血色がよくなっている。
「ぼくも?」
「変わってるところはある」
「名前も?」
その問いに、ヨアヒムはすぐ答えなかった。
少年は自分をアルフォンスだと思っている。
それが本当かどうかは確認されていない。
赤い布に包まれた手紙の一通には、『我が息子アルフォンスへ』という書き出しがあった。
けれど、その一文だけで少年の身元は確定しない。
「名前について、今何か考えてる?」
ヨアヒムは逆に問い詰めるのではなく、少年が話したい範囲を確かめた。
少年は図鑑へ目を戻す。
「分かんない」
「そっか」
「分かんないままでもいい?」
「今はいい」
「ずっと?」
ヨアヒムは少し笑った。
「今日分からないことを、ずっと分からないって今決めなくていいだろ」
少年は考え、やがて頷いた。
「今日は分かんない」
「うん」
それ以上、名前の話は続かなかった。
ヨアヒムも治療記録へ「身元への疑念」などとは書かなかった。
今日、少年が図鑑を見ながら「分からない」と言った。
それを無理に診断や証言へ変える必要はない。
◇
塔へ現場報告が届いたのは午後遅くだった。
アルはアンナマリーたちと一緒に読んだ。
既存写真で直線状陰影と解釈可能な箇所はある。
ただし撮影条件で見え方が変わる。
観察者間の位置一致も不完全。
昼間の通常観測位置では、三人の認識が一致しなかった。
追加操作なし。
定期記録条件変更なし。
「ガルムらしいな」
アルが言う。
アンナマリーが報告を読みながら笑う。
「何が?」
「最後まで見に行って、結局『分からん』で帰ってくるところ」
「それができるのは大事でしょう?」
「うん。すごく」
フェリクスの自己申告にも目が止まる。
既存写真と報告位置を知っているため、自分の視覚判断が誘導されている可能性を除外できない。
アルはそこを二度読んだ。
「フェリクス、変わったな」
ブラートが頷く。
「以前より、自分の観測条件を記録へ含めるようになりました」
「信用されたいから抑えてるだけじゃないといいけど」
アンナマリーの言葉に、アルは少し考えた。
「それでも最初はいいんじゃない?」
「どういうこと?」
「誰かに止められるから止まる時期があって、自分で理由が分かって止まるようになるなら。それに、今のフェリクスは『触るなって言われたから触らない』だけじゃない気がする」
ブラートが報告へ目を落とす。
「少なくとも、今回の記述は理由まで本人の言葉で残っています」
「なら、それで見よう」
アルは報告を閉じた。
線らしいものは見つかった。
けれど、何かを開く鍵にはならなかった。
むしろ、見つけたものを見つけたまま置いておくことができた。
それは停滞ではない。
◇
夕方、匿名の子供は紙の「みち」を机の上へ置いていた。
ナディアは少し離れた場所で洗濯物を畳んでいる。
子供は紙を折ったり広げたりせず、ただ眺めていた。
やがて、補修した部分の近くへ鉛筆を置く。
ナディアは気づいたが、声をかけない。
子供は一本の線を引いた。
元から描かれていた道の途中から枝分かれするように、短い線が伸びる。
そこで手が止まる。
「ナディア」
「なあに?」
「これ、書いてもいい?」
ナディアは洗濯物を膝へ置いた。
「その紙に?」
「うん」
「あなたの紙だよ」
子供は少し考える。
「でも、前の道、変わる」
「変えたくない?」
「分かんない」
ナディアはすぐに「書いていい」とも「やめた方がいい」とも言わなかった。
「鉛筆なら、少し消せるね。でも、完全に前と同じには戻らないかもしれない」
子供が鉛筆を見る。
「消しても跡ある?」
「あるかもしれない」
「じゃあ、書いたら戻らない?」
「全部が戻らないわけじゃないけど、書く前とまったく同じにはならないかもしれないね」
子供は黙った。
以前なら、「好きにしていい」と言うだけで終えたかもしれない。
けれど、選べることと、何を選ぶか知るための情報を渡さないことは同じではない。
消せる。
でも完全には戻らないかもしれない。
それを知ったうえで、子供が決める。
「今日は書かない」
しばらくして子供が言った。
ナディアは頷く。
「分かった」
「明日は書くかも」
「うん」
「明日になったら、また考える」
「そうしよう」
子供は鉛筆を紙の横へ置いた。
ナディアは再び洗濯物を畳み始める。
紙の「みち」には、短く引きかけた線が少しだけ残っている。
それを消すかどうかも、今日は決めなかった。
◇
夜、アルとセリーは中庭の修理した椅子に座っていた。
昼間より気温は下がっているが、風はほとんどない。
庭の葉は朝より減り、壁際に集めた山も片づけてある。
「結局、線は分からなかったな」
アルが言う。
「はい」
「でも、ちょっと安心した」
「何にでしょう?」
「見つけたからって、すぐ確かめに行かなかったことに」
セリーは庭の暗がりを見ながら頷く。
「主様は、見つけたものは確かめたいですか?」
「かなり」
「フェリクス様と似ていますね」
「それはちょっと否定したい」
「なぜですか?」
「いや、否定するほどでもないけど……」
セリーが小さく笑う。
アルもつられて笑った。
「でもさ、知りたいって気持ちは悪くないと思うんだ」
「はい」
「触りたいって思うのも、開けたいって思うのも、たぶん思うだけなら悪くない」
「行動する前に、考えればよいのでしょうか」
「うん。何が変わるか。戻せるか。誰かに影響するか。今やる必要があるか」
セリーは自分の手を膝の上で重ねる。
「触れることも同じでしょうか」
アルは彼女を見る。
セリーの視線は庭へ向いたままだ。
「私が主様へ触れたいと思うことは、悪くない」
「もちろん」
「ですが、触れたいから触れるのではなく、主様も触れたいか確かめる」
「うん」
「昨日はそうしました」
「したね」
セリーはそこでアルへ顔を向けた。
「今日は、まだ決めていません」
「分かった」
アルは手を動かさなかった。
そのまま二人で庭を見る。
触れない時間が流れる。
アルは不安にならない。
昨日手を握ったことは消えていないし、今日触れないことが昨日を否定するわけでもない。
やがてセリーが言った。
「主様」
「ん?」
「肩をお借りしてもよいですか?」
予想していなかった問いに、アルは瞬いた。
「俺の?」
「はい」
「もちろん」
セリーは少し身体を寄せた。
頭を預けるほどではない。
肩と肩が触れる。
上腕が軽く重なる。
それだけなのに、アルの胸が大きく鳴った。
(手を握るのと全然違う……)
思ったことが顔に出たのか、セリーが横目で見る。
「嫌でしたか?」
「逆。すごく嬉しい」
「そうですか」
セリーは離れなかった。
二人の肩が触れたままになる。
「セリーは?」
アルが尋ねる。
「私は……」
セリーは少し考えた。
「安心します」
その言葉に、アルは息をゆっくり吐いた。
好き。
嬉しい。
安心する。
同じ言葉ではない。
同じである必要もない。
セリーが今、自分の肩へ触れていたいと思っている。
アルにはそれで十分だった。
◇
その夜、王立魔導研究院では別の資料確認が進んでいた。
共同保管部署から届いた索引情報を受け、研究員たちは「保護判断手順群」の研究院内残存資料を再確認していた。
個体医療記録へは入らない。
許可されている設備・行政分類の範囲だけ。
古い目録の中から、一つの関連見出しが見つかる。
『応答不能時代替確認――外部徴候・既存記録・保持状態の三項照合』
研究員はその見出しを読み、すぐに本文が残っているか確認した。
完全な本文ではない。
一部だけ。
欠損した写し。
それでも数行が読めた。
『……外部徴候を応答そのものとみなさないこと』
その下は欠けている。
さらに数行後。
『……既存記録との不一致がある場合、状態変更を延期……』
研究員の視線が止まる。
もう一行。
『……保持状態の継続が直ちに危険を生じる場合を除き……』
そこで文章は途切れていた。
「例外がある」
同僚が呟く。
研究員も頷いた。
現状保持。
状態変更を行わない。
開口保留。
これまで見つかった言葉だけなら、何もしないことが最も安全だと見える。
だが、この断片には違う方向がある。
保持状態を続けること自体が直ちに危険を生む場合。
そのときは、ただ待つことが安全とは限らない。
「まだ送れないな」
同僚が言う。
「うん」
研究員は欠損箇所を見る。
「例外条件の続きがない」
「『直ちに危険』を誰がどう判断するのかもない」
「何をしてよいのかもない」
「それに、この資料が例の旧保養施設のものかも分からない」
「分からない」
研究員は資料番号を控えた。
それでも、この断片は無視できない。
確認できないから何もしない。
応答がないから触れない。
それだけでは足りない場合がある。
保護とは、何もしないことの別名ではない。
研究員は追加資料の所在照会を作り始めた。
塔には、まだ送らない。
旧保養施設にも届かない。
アルたちは、今夜も「状態を変えない」という判断を維持している。
それが現時点で間違っているという情報はない。
ただ、古い手順を残した者たちは、何もしないことにさえ危険が生じる場合を考えていた。
そして、そのとき何を基準に動いたのか。
答えはまだ、欠けた文章の先に残されていた。




