第9話 元王太子、真実を見る道具ほど簡単には信じない
翌朝、古の塔の収蔵室には、乾いた金属と古紙、それから長い年月を閉じ込めてきた石壁の匂いが静かに満ちていた。天井近くへ設置された魔導灯は、俺たちが足を踏み入れたのを感知すると、入口側から順番に淡い白光を灯していく。薄暗かった通路が奥へ向かって少しずつ明るくなり、左右に並ぶ棚や硝子箱、その中へ収められた奇妙な形の魔導具たちが、一つずつ眠りから覚めるように輪郭を現した。
古の塔へ来てから何度も訪れている場所ではあるが、収蔵室のすべてを把握できたわけではない。棚には番号が振られ、保管されている魔導具ごとに用途や危険度、使用条件らしき説明が添えられているものの、その多くは二千年前の基準で書かれている。現代で使われている分類や単位とは微妙に異なり、説明を読んだだけでは判断できないものも多かった。
何より困るのは、セリーヌにとっての「安全」が、今の俺にとって本当に安全なのか分からないことだ。
「主様、こちらです」
少し先を歩いていたセリーが、通路の途中で振り返った。今日は町へ出る予定がないため、彼女は変貌の仮面を使っていない。銀色の髪と青い瞳、白と紺を基調としたいつものメイド服姿で、棚の間を迷いなく進んでいる。
「ずいぶん奥にあるんだな」
「真偽判定用の片眼鏡は、観測系魔導具の区画に保管されています」
「観測系ということは、見ることへ特化した道具が集められているのか?」
「はい。遠方を見るもの、魔力を見るもの、感情の揺らぎを見るもの、少し前の景色を現在へ重ねて見るものなどがあります」
「最後のものは便利そうに聞こえるな」
「慣れない方が使うと、現在と過去の景色を混同することがあります」
「やはり簡単には使えないか」
「便利なものほど、使い方を間違えると危険ですから」
セリーはごく普通のことのように言ったが、その言葉は今日使う片眼鏡にも、そのまま当てはまる気がした。
真偽判定用。
名前だけを聞けば、何が本当で何が嘘なのかを簡単に見抜ける夢のような道具に思える。けれど、本当に何でも正解を教えてくれる魔導具が存在するのなら、二千年前の世界には詐欺も陰謀も存在しなかったはずだ。
実際には、セリーヌの時代にも争いや謀略はあり、その果てに多くの技術や制度が失われたという。
「エル」
『はい』
「真偽判定用の片眼鏡について、もう一度詳しく説明してくれ」
『正式名称は、観測補助魔導具第四号《イリスの片眼鏡》です。対象となる人物、物体、文書、魔術式に残された魔力情報を分析し、偽装、改ざん、意図的な情報隠蔽の可能性を色彩反応として表示します』
「真実そのものを教えてくれるわけではない?」
『はい。表示されるのは、対象へ残された魔力の不自然な揺らぎ、後付けされた術式、情報改変時の痕跡などです。内容が事実か否かを絶対的に決定する機能ではありません』
予想どおりだった。
「誰かが普通に紙へ嘘を書いた場合は?」
『筆記者本人が、その内容を真実であると認識していた場合、虚偽として検出されない可能性があります』
「意図的に嘘を書いた場合は?」
『筆記時の精神状態や魔力反応が十分に残留していれば、違和感として検出される可能性があります』
「可能性ばかりだな」
『判断補助用の魔導具です。最終判断を代行するものではありません』
その説明を聞き、俺は少しだけ安心した。
「主様?」
「何だ?」
「なぜ安心したような顔をしているのです?」
「何でも答えを決めてくれる道具ではないと分かったからだ」
「普通なら、少し残念がるところだと思いますけれど」
「簡単に正解を教える道具なら、俺はそれへ頼りすぎるかもしれない」
レイチェルの言葉だけを信じた時のように、一つの情報へすべてを預け、ほかの可能性を見なくなるかもしれない。
「見えるものが増えるだけで、考えるのは俺自身だ。その方がいい」
セリーは少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「主様は、この塔へ来てから随分慎重になりましたね」
「以前が慎重でなさすぎたんだ」
「それは少し厳しすぎる自己評価だと思います」
「完全に慎重さがなかったわけじゃない。外交でも税制でも戦争でも、複数の資料を読んで意見を聞いていた。ただ、レイチェルが関わることだけは違った」
彼女が泣けば、何か理由があると思った。不安そうにすれば、自分が守らなければならないと思った。誰かが彼女を疑えば、その相手の方が間違っていると決めつけた。
外部から精神へ干渉されていた可能性はある。それでも、俺が判断を誤った事実まで消えるわけではない。
「こちらです」
セリーが足を止めた。
目の前には、腰ほどの高さの硝子箱が置かれている。その内部には、銀色の細い縁を持つ片眼鏡が、一枚の濃紺の布の上へ静かに置かれていた。鎖の先には、小さな青紫色の石が取りつけられている。
見た目だけなら、高位貴族が観劇で使う上品な片眼鏡と大差ない。
「これが、イリスの片眼鏡か」
『はい』
「危険度は?」
『低。長時間使用した場合、視覚情報の過剰処理による頭痛、吐き気、平衡感覚の乱れ、方向感覚の喪失が発生する可能性があります』
「どの程度までなら安全だ?」
『初回使用は十分以内を推奨します』
「十分か」
「主様」
セリーが硝子箱の前へ一歩出た。
「少しでも気分が悪くなったら、時間が残っていてもすぐ外してください」
「分かっている」
「本当に?」
「十分を超えない」
「約束してください」
「約束する」
俺がはっきり答えると、セリーはようやく頷いた。彼女が硝子箱へ手を触れると、表面へ淡い魔法陣が広がり、蓋が音もなく開いた。
片眼鏡を手に取ると、見た目より僅かに重い。
「どう使う?」
『左右どちらかの目へ装着し、鎖先の起動石へ魔力を流してください。利き目の使用を推奨します』
俺は右目へ片眼鏡を当てた。銀色の縁が肌へ触れ、ひやりとした冷たさが頬へ走る。
「魔力を流すぞ」
「はい。私が時間を測ります」
青紫色の石へ、ごく少量の魔力を流した。
石が淡い金色へ変わる。
次の瞬間、右目の視界へ薄い光が広がった。最初は収蔵室全体が白い霞に包まれたように見えたものの、すぐに輪郭が戻り始める。
そして、今まで見えなかった色が、そこかしこへ浮かび上がった。
棚には淡い青。床と壁には落ち着いた灰色。魔導具の多くは、それぞれ異なる色の膜や光をまとっている。
そしてセリーの身体からは、白と銀を中心とした細い光が、複雑に絡み合いながら全身へ広がっていた。
「何か見えますか?」
「ああ。お前はかなり明るい」
「美しさが可視化されたのですね」
『高密度の魔力構造が表示されています』
「エルさん、少しくらい夢を残してください」
「お前は何でも自分に都合よく解釈するな」
苦笑しながら、セリーへ意識を向ける。
そこで、白と銀の光の奥、胸のあたりに、ごく僅かな青い揺らぎが見えた。
周囲とは違う。ただの魔力ではない。何か別のものが重なっているように感じた。
「セリー」
「はい?」
「お前の中に、青い光がある」
セリーの表情が一瞬だけ止まった。
「青い光、ですか?」
『詳細分析には、対象へ意識を集中させる必要があります』
「見てもいいか?」
俺が尋ねると、セリーはすぐには答えなかった。
その沈黙を急かさずに待つ。
やがて、彼女は小さく頷いた。
「はい」
俺は片眼鏡越しに、彼女の胸元へ意識を集中させた。
白と銀の魔力構造は想像以上に複雑だった。人間の血管や神経のように、無数の細い光が身体中へ伸びている。
その中心に、青い光があった。
大きさは小さな実ほどで、球体にも見えるが、完全な形ではない。煙のようにも、誰かの記憶が固まった欠片のようにも見えた。
そして、その周囲を薄い金色の膜が覆っている。
俺が意識を集中させるほど、金色の膜は強く揺れ、青い光の奥へ踏み込ませまいとするように視界を遮った。
「何かに守られている」
「私の中に?」
「ああ。無理に見ようとすると、金色の光が遮ってくる」
『高度な情報保護術式の可能性があります』
「誰が施した?」
『現時点では特定不能です』
セリーヌなのか。それとも、セリーを作った別の誰かなのか。
胸の青い光が、彼女が時々感じている説明不能な記憶や感情と関係しているのかも分からない。
「主様、時間です」
「もう十分か?」
「はい」
俺はすぐ片眼鏡を外した。
右目の奥へ僅かな重さは残っているが、頭痛も吐き気もない。
「約束を守りましたね」
「当然だ」
「以前なら、あと少しだけと言ったかもしれません」
「セリーヌと一緒にするな」
「主様、少し似ていますよ」
「嬉しいような、困るような話だな」
片眼鏡を専用の布へ戻す。
「使えそうだ。ただし、何でも分かると思わない方がいい」
「はい」
「次にリュネへ行った時、補償申請記録や支払い済み通知を見られれば、改ざんの痕跡を探せるかもしれない」
「でも、商業組合で片眼鏡をつけて帳簿をじっと見ていたら、かなり怪しい人です」
「そこが問題だ」
「旅人が古い帳簿へ顔を近づけて、色を確認しているわけですから」
「普通の眼鏡の形にはできないのか?」
『外見変更用の付属機能があります』
「それを先に言え」
『質問されていません』
「お前は本当に必要最低限しか答えないな」
『検索の腕輪です』
「分かっている」
「エルさん、最近ちょっと人間らしくなってきましたね」
『根拠のない評価です』
「そういう返しも含めてです」
俺は苦笑しながら、片眼鏡を収納箱へしまった。
◇◇◇
イリスの片眼鏡を確認したあとは、収蔵室の別区画へ移動した。
今度の目的は、人捜しに役立つ魔導具が存在するか確かめることだ。
もちろん、ヘルムート本人へ繋がる血や髪などは持っていない。それでも、情報を集めるために使える道具がないか確認する価値はある。
「エル。人捜しに使える魔導具はあるか?」
『複数存在します。ただし、精度と条件が異なります』
「聞こう」
『高精度型の場合、対象者の血液、毛髪、魔力を含む所持品、あるいは本人が長期間所有した物が必要です』
「どれも持っていない」
『名称と大まかな特徴のみで探索可能なものも存在します。ただし、範囲は限定されます』
「どれくらい?」
『塔を中心として半径約二十キロメートル』
「リュネは範囲外か」
『はい』
町へ持ち込んで使用することも考えられるが、強力な探索魔導具を街中で動かせば、魔力へ敏感な人間や監視術式へ引っかかる可能性がある。
「目立たず使えそうなものは?」
『《旅人の糸巻き》があります』
「どんな道具だ?」
『対象者の名前と、最後に確認された場所を設定すると、対象が移動したと推測される方向へ糸が伸びます』
「便利そうだな」
『精度は高くありません。同名人物が複数存在する場合、誤反応が起きる可能性があります』
「ヘルムートという名は珍しいか?」
『現在のガイゼン王国内では、比較的一般的です』
「では、そのまま使うのは難しいな」
簡単にはいかない。
だが、以前ほどそれを残念には感じなかった。
調べるなら、人へ聞く。記録を見る。複数の情報を重ねる。それでいい。
「まずは人から聞く方が自然だな」
「町の方なら、昔組合で働いていた人について知っているかもしれませんね」
「ああ。ただし、ヘルムート本人を探していると正面から言うのは避ける」
「では、美少女の旅人が昔の恋人を――」
「昨日却下した」
「まだ説明を最後まで聞いていただいていません」
「最後まで聞いても採用しない」
「残念です」
セリーは本気で残念そうだった。
「支援制度が変わった頃の話を聞く。その中で、当時の担当者や組合の人間について尋ねれば、自然に名前が出る可能性はある」
「肉屋のおじさんや、野菜売りのお姉さんなら知っていそうです」
「そうだな」
「では、明日行きますか?」
「いや。明日も行かない」
セリーが少し目を丸くした。
「まだ間を空けるのですか?」
「ああ。三日連続で同じ町へ出入りした。しかも、役場と商業組合の両方で古い記録を調べている」
「変な旅人としても有名になっています」
「そこは嬉しくない」
「私は気に入っています」
「お前が広めるな」
町へ出ない日をどう過ごすか。
以前なら、調べられることがあるなら一日中調べていただろう。塔へ来てからも、自由になったと言いながら、セリーヌの記録や魔導具の確認を続けている。
「午後は、何もしない時間を作ろうと思う」
セリーが目を見開いた。
「主様が?」
「そんなに驚くな」
「いえ。以前なら、午前の調査が終わったら午後の調査を始めるとおっしゃりそうでしたから」
「俺も少しずつ学んでいる」
「素晴らしいです!」
両手を合わせ、ぱっと表情を明るくする。
「では午後は、一緒にお菓子を作りましょう!」
「それは何もしない時間ではないだろう」
「休息です」
「お前にとってはな」
「主様は作ったことがないのでしょう?」
「ああ」
「だから楽しいんです」
「もう決定しているのか?」
「はい」
どうやら、俺の自由時間はセリーによって半分ほど決められてしまったらしい。
だが、拒否したければ拒否できる。
それが王城にいた頃との違いだった。
そして今日は、断りたいとは思わなかった。
「分かった。ただし簡単なものにしろ」
「もちろんです」
「本当に簡単だろうな?」
「材料を混ぜて焼くだけです」
「その説明は信用できるか?」
「半分くらいは」
「残り半分は愛か?」
「さすが主様!」
「分かりたくなかった」
◇◇◇
昼食を終えたあと、俺はセリーに厨房へ連れていかれた。
王城の厨房へ入ったことなら数えるほどはあるが、それは祭事や視察の一環でしかなかった。料理人の邪魔にならない場所へ立ち、説明を受け、作業の様子を見るだけ。自分で料理へ触れたことはほとんどない。
古の塔の厨房は王城ほど広くないものの、一般家庭のものと比べれば十分立派だった。壁際には二千年前の調理魔導具が並んでいる。火を使わず加熱する炉、食材を均等に切る刃、一定温度を維持する保存庫。どれも現代では王宮にすら存在しない。
「今日は小さな焼き菓子を作ります」
セリーが材料を並べる。
小麦粉、卵、乳、砂糖、乾燥した果実。
「本当に混ぜて焼くだけか?」
「基本的には」
「その基本的には、が怖い」
「細かいことを気にしてはいけません」
「料理で細かいことを気にしないのは危険ではないか?」
「主様は慎重になりすぎです」
「今朝は慎重になったと褒めていただろう」
「料理には勢いも必要です」
「基準が都合よく変わるな」
「まず小麦粉を量ります」
卓上に置かれた銀色の器を指す。
「これは?」
「自動計量器です。必要な量を伝えれば分けてくれます」
「二千年前の調理は便利すぎないか?」
「セリーヌ様は細かく量るのが面倒だったそうです」
「本当にあの人の技術は、面倒という理由で発展しているな」
「便利なものは、だいたい面倒から生まれます」
「妙に説得力がある」
言われたとおり材料を用意し、卵を割る。
一つ目は問題ない。
二つ目では少し力を入れすぎて、殻の一部が器へ落ちた。
「入ったぞ」
「取れば大丈夫です」
「どこだ?」
「そこです」
「見えない」
「主様、指で探すと沈みます」
「先に言え」
何とか殻を取り除き、今度は小麦粉と卵を混ぜる。
木製の混ぜ棒を握り、セリーの真似をして動かしてみた。だが、粉は思ったより軽い。少し力を入れた瞬間、ぶわっと白い粉が舞い上がった。
「主様!」
「すまない!」
俺の服だけではない。
向かいにいたセリーの頬にも髪にも、小麦粉がついている。
銀髪なので分かりにくいと思ったが、頬へ一本白い筋が入り、妙におかしかった。
「笑わないでください」
「まだ笑っていない」
「顔が笑っています」
「お前の顔が」
「主様の顔にもついていますよ」
「どこだ?」
「鼻の上です」
セリーが手を伸ばした。
指先が俺の鼻先へ触れる。
その瞬間、思ったより近くにあった青い瞳が視界いっぱいへ入り、俺は僅かに身体を固くした。彼女の指先が頬へ掠れ、小麦粉の乾いた感触だけが妙に鮮明に伝わってくる。
「取れました」
「あ、ああ」
彼女は何でもなかったように手を引いた。
俺の方が一拍遅れて視線を逸らす。
「主様?」
「何でもない」
「顔が赤いですよ」
「厨房が暑いだけだ」
『室温は二十一度です』
「エル。今は黙っていろ」
『明確な呼びかけを受けました』
「揚げ足を取るな」
セリーが口元を押さえ、肩を震わせている。
「主様、私を意識しました?」
「していない」
「即答が早すぎます」
「お前が変なことを言うからだ」
「では、もう一度近づいて確認を――」
「必要ない!」
声が厨房へ響き、セリーの笑い声がさらに大きくなった。
こんなことで動揺する自分は少し情けない。
それでも、不快ではなかった。
アンナマリーへの思いが完全に消えたわけではない。彼女を傷つけた罪悪感も、失った関係への痛みも、まだ残っている。
だが、セリーと過ごす時間の中で、それとは別の感情が少しずつ生まれ始めているのかもしれない。
今すぐ名前をつける必要はない。
そう考えられるようになったこと自体が、以前の俺との違いだった。
「次は乾燥果実を入れます」
「話を戻すのが早いな」
「お菓子が焦げますから」
「まだ焼いていないだろう」
「気持ちの問題です」
乾燥果実を生地へ混ぜ、小さく分けていく。最初のいくつかは大きさがまるで揃わず、セリーから何度も直された。
「これは大きすぎます」
「少しくらい違ってもいいだろう」
「焼け方が変わります」
「さっき細かいことを気にするなと言わなかったか?」
「それは卵の殻です」
「都合がいいな」
それでも何とか形を整え、加熱炉へ入れる。
待っている間、厨房へ甘い匂いが広がってきた。
「良い匂いだな」
「成功の予感がします」
「まだ分からないぞ」
「主様は慎重ですね」
「お前がそうさせたんだ」
少しして取り出した焼き菓子は、形こそ不揃いだったが、表面は綺麗な薄茶色へ焼けていた。
一つ手に取り、少し冷ましてから口へ入れる。
外側は軽く、中は柔らかい。乾燥果実の甘酸っぱさも広がり、思っていたよりずっと美味かった。
「どうです?」
「美味い」
「本当ですか!?」
「ああ。少なくとも、香辛料を入れすぎた日の料理よりは」
「まだ覚えているんですか?」
「忘れるには刺激が強すぎた」
「過去の失敗をいつまでも責めるのはよくありません」
「今日だけで何回使うんだ、その言葉」
「便利なので」
セリーも一つ食べ、満足そうに頬を緩める。
「ミロ君たちにも持っていきます?」
「ああ。次に行く時、少し持っていこう」
「主様が作ったって伝えますね」
「それは言わなくていい」
「なぜです?」
「形が不揃いだ」
「味は同じです」
今朝、市場の女性からも似た言葉を聞いた。
形が悪くても、味は変わらない。
俺は焼き菓子を見下ろし、少し笑った。
「そうだな。俺が作ったと言ってもいい」
「はい!」
何かを作り、誰かへ渡す。
ただそれだけのことだが、王太子だった頃の俺には、ほとんどなかった経験だった。
◇◇◇
その日の夜、書斎へ戻った俺は、イリスの片眼鏡を机の上へ置き、昼間の使用結果についてエルから聞いていた。
「セリーの中に見えた青い光。何か分かったか?」
『片眼鏡が取得した情報を分析しました。青色反応は、保存された記憶情報、または高密度の魂魄情報に近い特徴を示しています』
「魂魄情報?」
『魂に関連する情報です』
セリーヌ。
魂の巡礼。
未来を見る力。
自分の死後へ何かを残そうとした痕跡。
それらを考えれば、セリーの中にある青い光が単なる記録ではない可能性も出てくる。
「セリーヌの魂か?」
『断定できません』
「セリー自身の魂という可能性は?」
『魔導人形に魂が自然発生した事例は、セリーヌ様の時代にも記録されています』
「自然発生するのか?」
『高度な自律思考と長期間の経験蓄積により、疑似人格が魂に近い性質を獲得した事例があります』
俺は椅子の背へ身体を預けた。
セリーは魔導人形だ。本人もそう認識している。
だが、笑い、怒り、拗ね、泣き、俺を心配する彼女を見ていると、それをすべて作られた反応だと割り切ることはできない。
「本人へ話すべきか?」
『判断は主様へ委ねます』
「便利な答えだな」
『検索結果ではなく、対人関係上の判断です』
「そこは俺が考えろ、か」
『はい』
セリーへ話せば、不安にさせるかもしれない。
けれど、本人に関わることを、俺の判断だけで隠すのも違う。
「明日、話す」
『承知しました』
「ただし、セリーヌの魂だとは言わない。分かっていることだけだ」
事実と推測を分ける。
補償金についても、セリーについても、今の俺が一番大切にしようとしていることだった。
「真実を見るための道具があっても、結局は自分で考えないといけないんだな」
『はい』
「少し面倒だ」
『主様は、その方がよいと発言しています』
「そうだったな」
面倒でもいい。
答えを誰かへ預けない。
それが今の俺には必要だった。
◇◇◇
同じ頃、商業町リュネの北側にある小さな酒場では、数人の男たちが夜遅くまで卓を囲んでいた。
荷運び人や商人が多く集まる店らしく、低い天井の下には酒と汗、焼いた肉の匂いが濃くこもっている。客たちの笑い声や杯のぶつかる音が絶えない中、奥の卓だけは周囲より少し声を抑えていた。
「最近、町を嗅ぎ回っている旅人がいるらしいな」
痩せた男が、杯を指先で回しながら低く言った。
「ミロの家へ出入りしてる奴か?」
「ああ。役場で制度のことを聞き、そのあと商業組合で三年前の帳簿まで見た」
「ただのお人好しじゃないのか?」
「ただのお人好しが、三年前の補償申請番号を知っていると思うか?」
男たちの間へ短い沈黙が落ちた。
「誰から聞いた?」
「組合の受付だ。あいつ、旅人へ古い帳簿を見せたあと、随分顔色が悪かったらしい」
「余計なことまで話していないだろうな」
「そこまでは分からん」
痩せた男が杯を机へ置く。
「領主府へ知らせるか?」
「まだいい」
「だが、金貨のことへ気づかれたら」
「気づいたとしても証拠はない」
男の口元へ薄い笑みが浮かんだ。
「病人と子供が何を言っても、記録上は支払い済みだ。役場も領主府もそれで押し通せる」
「では、放っておく?」
「いや。旅人が何者なのか調べろ」
「名前はアル。連れの女はセリ」
「偽名だろう」
「見た目は普通の若い旅人だ」
「普通の旅人が、地方支援制度の規定や申請の仕組みまで知っているわけがない」
別の男が眉をひそめた。
「元役人か?」
「貴族の使いかもしれん」
「王都から?」
「新王太子が地方の不正を調べ始めているという噂もある」
男たちの顔が僅かに強張った。
「俺たちを調べに来たと?」
「だから確かめる。ただし、手は出すな」
「なぜ?」
「今ここで消せば、かえって誰かが探しに来る。どこに泊まっているのか、誰と会っているのか、どこから町へ入り、どこへ帰っているのか。それだけ調べろ」
「分かった」
男たちはまだ知らない。
アルと名乗る旅人が宿へ泊まっていないことを。
毎回違う場所から町へ現れ、夕方には誰にも見られず消えていることを。
◇◇◇
王都の王城では、深夜に近い時刻、ブラットとアンナマリーが人目を避けるように古い資料室へ入っていた。
廊下を歩く者はほとんどいない。壁へ並んだ燭台の炎が微かに揺れ、二人の影を石床へ長く伸ばしている。
「この部屋に、精神干渉に関する初期記録が残っているはずだ」
ブラットは小声で告げながら、棚の番号を一つずつ確認していく。
「正式報告ではなく?」
「ああ。正式報告は内容が変わっていた。だが、最初にアルフォンスを診た魔導師が個人的な覚え書きを残していれば、そこまでは書き換えられていない可能性がある」
「そんなものまで保管するの?」
「王宮の調査では、正式報告とは別に担当者の初期記録を一定期間保存する決まりがある」
アンナマリーは周囲を気にしながら、別の棚を確認する。
「私たちがこれを見ていると知られたら?」
「レオンハルトは警戒するだろう」
「それだけで済むかしら」
「済まないかもしれない」
ブラットは淡々と答えた。
「怖くないの?」
「怖い」
迷いのない返答に、アンナマリーが振り返った。
「だが、何も知らないままアルフォンスを切り捨てたことの方が、今は怖い。俺はあいつの側近だった。何度忠告しても聞かないことに腹を立て、最後には見限った」
「それは、あなたが悪いわけでは」
「そう言い切れるか?」
ブラットは一冊の古い記録簿を棚から抜き取った。
「あいつの様子が明らかにおかしくなっていた時、俺はレイチェルへ夢中になっているだけだと思った。精神へ干渉されているなんて、考えもしなかった」
「そんなこと、誰だって」
「それでも、今度は確かめる」
卓へ記録簿を置き、日付を追う。
卒業舞踏会の三日前。
そこで、ブラットの指が止まった。
「これだ」
薄い紙が、一枚挟まれていた。
担当魔導師による手書きの覚え書き。
ブラットは燭台の光へ近づけて読んだ。
『王太子殿下の魔力循環に、外部術式由来と思われる異常を確認。特に感情判断に関係する精神領域へ、反復的干渉痕跡あり。早急な隔離および詳細検査を推奨する』
アンナマリーの指先が震えた。
「やはり……精神干渉を受けていた」
「ああ」
「でも、詳細検査は?」
「行われていない」
ブラットは別の記録へ目を移した。
診察中止命令。
日付は、その翌日。
「誰の命令?」
ブラットは紙の下部へ視線を落とした。
そこには、王家の印が押されている。
「国王陛下だ」
空気が重く沈んだ。
「陛下は知っていたの?」
「少なくとも、異常の報告が出たあとで詳細検査を止めている」
「どうして?」
「分からない」
さらに記録を確認する。
「中止理由は、王太子殿下の体調が回復し、本人が診察を拒否したため、と書かれている」
「アルフォンスが拒否したの?」
「本人の署名がない」
「では――」
アンナマリーの言葉が途中で止まった。
廊下の向こうから足音が聞こえた。
二人が同時に顔を上げる。
「誰か来る」
ブラットは覚え書きを素早く衣服の内側へ入れ、記録簿を棚へ戻した。
資料室の奥にある小さな物置へ二人で滑り込む。
狭い空間の中で、互いの呼吸が近く聞こえる。
扉の隙間から、資料室へ入ってきた人影が見えた。
新王太子レオンハルトの側近である若い文官だった。
彼は周囲を見回したあと、迷うことなく先ほどの棚へ向かった。
アルフォンスの診察記録を手に取り、中身を確認する。
その瞬間、文官の顔色が変わった。
「……誰かが見たのか」
小さな呟きが、静かな資料室へ落ちた。
文官はすぐ記録簿を抱え、足早に部屋を出ていった。
扉が閉じても、ブラットとアンナマリーはしばらく動かなかった。
「気づかれる」
アンナマリーが小さく言う。
「ああ」
「どうするの?」
「今夜のうちに、この紙の写しを取る。それから原本は別の場所へ隠す」
「陛下が検査を止めた理由も調べるの?」
「調べる」
「レオンハルトだけじゃなく、陛下まで関わっているかもしれないのよ」
「だからこそだ」
ブラットの声は低かった。
「アルフォンスがどこまで嵌められていたのか、もう確かめずにはいられない」
◇◇◇
翌日の夜明け前。
眠っていた俺は、右手首から響いた声で目を覚ました。
『主様』
「……何だ?」
まだ眠気は残っていた。
だが、すぐに気づく。
エルは俺が呼ぶまで応答を控えるよう設定してある。
それでも自分から声をかけてきたということは、緊急性の高い何かが起きている。
「何かあったのか?」
『塔の外周結界へ、微弱な探索魔術が接触しました』
一瞬で眠気が消えた。
俺は寝台から身体を起こし、すぐ近くへ置いていた上着へ手を伸ばした。
「どの方向だ?」
『北東です。現在、結界表面をなぞるように移動しています』
「侵入しようとしているのか?」
『現時点では、塔の位置または構造を探知する目的と推定されます』
上着を羽織りながら、頭の中で可能性を並べる。
王都で俺が生きている可能性を疑っている者。
リュネで動き始めた旅人アルを追っている者。
俺とは無関係に、セリーヌの遺産を探している何者か。
まだ何も分からない。
「セリーを呼べ」
『すでに向かっています』
答えが返った直後、寝室の扉が開いた。
いつものメイド服の上へ薄い外套を羽織ったセリーが入ってくる。普段のふざけた明るさは消え、表情には明確な緊張があった。
「主様」
「聞いたか?」
「はい。外から塔を探っている者がいます」
「王都からか?」
「まだ分かりません」
「結界は破られる?」
「この程度では破られません。ただし、同じ方向から何度も探られれば、この森のどこかに異常な結界が存在すると気づかれる可能性はあります」
「古の塔は外から見えないんじゃなかったか?」
「視覚、通常の魔力探知、簡易探索からは隠されています。でも、存在そのものを完全に消しているわけではありません」
俺は窓の向こうへ視線を向けた。
夜明け前の森は暗く、木々の輪郭しか見えない。
「逆探知できるか?」
『探索術式の発信源を解析します』
銀色の腕輪が淡く光った。
数秒後、エルの声が返る。
『発信地点は、塔より約十八キロメートル北東。禁断の森外縁部です』
「人間か?」
『術式のみでは判定不能です』
「転移扉で近くへ――」
「主様」
セリーが強い声で遮った。
「相手が待ち伏せしている可能性があります」
「分かっている」
「今すぐ行こうとしていた顔です」
「……顔に出ているか?」
「かなり」
俺は口を閉ざした。
以前なら、相手の正体を確認するため、そのまま動いたかもしれない。
敵かもしれない。
ならば先に確かめに行く。
そう考えていただろう。
だが、今は違う。
「行かない」
セリーが少しだけ目を見開いた。
「本当に?」
「ああ。まず情報を取る」
探索術式そのもの。
侵入経路。
接触した時間。
魔力の特徴。
使える情報はある。
「エル。今の探索魔術は保存できる?」
『可能です』
「術式の構造を記録してくれ。王国で一般的に使われるものか、軍用か、古代系統か。分かる範囲で分類してほしい」
『承知しました』
「セリー。結界を強くできる?」
「できます。ただし、急に強度を上げれば、相手へ何かが存在すると教えることになります」
「なら今は維持だ」
「はい」
俺は少し考える。
「探索側へ、偽の情報を返すことはできるか?」
セリーが僅かに目を見開いた。
「できます」
「何を見せられる?」
「結界内部に、古い廃墟や魔力の枯れた洞窟が存在するような反応を作れます」
「では、廃墟だ」
何もないと隠し続ければ、逆に違和感を持つ者もいる。
何かはある。
だが、価値のない場所。
そう思わせる方が自然かもしれない。
「主様」
「何だ?」
「少し怖い顔です」
「そうか」
「でも、前とは違います」
「何が?」
「怒って、すぐ動こうとしている顔ではありません」
セリーはほんの僅かに笑った。
「考えている顔です」
俺はもう一度、窓の向こうへ目を向けた。
十八キロ先。
誰かがこの塔へ触れようとしている。
今までの俺なら、敵だと決めつけたかもしれない。
あるいは逆に、自分を助けようとしている者ではないかと期待したかもしれない。
けれど、今はまだ何も分からない。
「だから、決めない」
「はい」
「探索魔術の目的も、送り主も、俺の存在を知っているかどうかも、全部まだ未確認だ」
結界表面へ、再び微かな波が触れた。
誰かが確かに、古の塔を探している。
補償金の不正へ踏み込み始めた直後に起きたことが偶然なのかどうかも分からない。
王都でブラットたちが、隠された精神干渉の記録へ辿り着いたことも、今の俺は知らない。
ただ、止まっていたはずのものが、俺の周囲で少しずつ動き始めている。
リュネで消えた金貨。
王都で削られた精神干渉の記録。
セリーの中で眠る青い光。
そして、夜明け前の森から古の塔を探る何者かの魔術。
別々に見えるものが、どこかで繋がっているのかもしれない。
あるいは、まったく関係がないのかもしれない。
まだ分からない。
だからこそ、俺は最初に見えた答えへ飛びつかない。
真実を見抜く魔導具があっても、最後に考えるのは自分だ。
自分の目で見て、自分の耳で聞き、記録を残し、事実と推測を分けていく。そのうえで、一つずつ確かめる。
それが、二度と同じ過ちを繰り返さないために、今の俺が選んだやり方だった。




