第10話 元王太子、守るものができたことを認める
第10話 守りたいものは、与えられた役目ではありませんでした
夜明け前の古の塔には、普段とは異なる静けさが満ちていた。
窓の外に広がる森は深い藍色に沈み、東の空にだけ、夜の終わりを告げる淡い白さが滲み始めている。風はほとんどなく、濡れた葉から落ちる雫の音さえ、分厚い石壁を越えて聞こえてきそうなほど静かな朝だった。
俺は寝室で上着だけを急いで羽織ると、セリーとともに塔の最上階へ向かった。
長い螺旋階段を上がった先にあるのは、これまでほとんど使ったことのなかった観測室だ。収蔵室が魔導具を保管するための場所なら、こちらは塔の外側を監視するために造られているらしい。
扉が開くと、壁面の大部分を占める半透明の魔導硝子が、俺たちの到着を感知して淡い光を帯びた。
「……これは」
思わず足を止める。
硝子へ映っていたのは、窓の向こうにある景色ではなかった。
塔を中心とした禁断の森の各方角が、それぞれ別の面へ映し出されている。実際の距離も遮蔽物も関係ないらしく、木々の向こうや離れた森の外縁部まで、まるで高い空から見下ろしているように確認できた。
「塔全体の監視設備です」
隣に立ったセリーが説明する。
今日は普段のメイド服の上から、淡い青色の外套を羽織っていた。その裾や袖口には複雑な術式が銀糸で縫い込まれており、彼女が観測室へ入った途端、細かな線が呼吸するように明滅し始めている。
「こんな場所があるなら、もっと早く教えてほしかったな」
「主様がまだ塔の外へ出るつもりもなく、外部からの脅威も確認されていなかったので」
「また質問されなかったから、ではないのか?」
『その要素もあります』
「エル、お前は本当にぶれないな」
いつもなら笑ってしまうところだった。
だが、今は意識がすぐ北東側の魔導硝子へ戻る。
そこには薄暗い森の外縁部が映し出されていた。木々の間に人影は見当たらず、魔物が動いている様子もない。
それでも、何もないわけではなかった。
硝子の表面に、淡い波紋が断続的に広がっている。
まるで、見えない指先が結界の表面をゆっくりなぞっているようだった。
「探索魔術は、まだ続いているのか?」
『はい』
右手首にはめた検索の腕輪から、エルの落ち着いた声が返ってくる。
『一度目より出力が約一割上昇しています。発信者は、結界側から返される反応を確認しながら、探索術式を調整している可能性があります』
「こちらが返した偽装情報は?」
「正常に反映されています」
セリーが北東側の魔導硝子へ近づいた。
「相手からは、この場所に崩れかけた石造りの廃墟があるように見えているはずです。内部へ残る魔力も、ほとんど枯れているよう偽装しています」
「それを信じていると思うか?」
「今のところ、強引に結界内部へ侵入しようとする反応はありません。ただ……」
「ただ?」
セリーは硝子へ視線を向けたまま、少しだけ眉を寄せる。
「確認の仕方が慎重です。適当に遺跡を探しているだけの探索者なら、もっと大雑把に広い範囲をなぞるはずです」
俺も改めて波紋を見つめた。
確かに、反応は塔の結界と思われる部分へ沿うように、少しずつ位置を変えている。一度触れて離れ、角度を変えてまた触れる。その繰り返しだった。
まるで、目の前にあるものが本当に見えているとおりなのか、慎重に確かめているように。
「諦めてくれるといいが」
口ではそう言いながら、頭の中には複数の可能性が浮かんでいた。
王都から送り込まれた人間。
リュネで補償金について調べ始めた俺を追ってきた者。
二千年前のセリーヌの遺産を探す魔導具師。
あるいは、本当に偶然この辺りを探索している誰か。
どれもあり得る。
そして、どれが正しいか判断できるほどの材料はまだない。
「主様」
「何だ?」
隣から呼ばれ、セリーへ視線を向ける。
彼女は俺ではなく、俺の表情をじっと観察していた。
「怖いですか?」
思っていなかった問いだった。
「怖い顔をしているか?」
「いいえ。だから聞きました」
「どういう意味だ」
「主様は、本当に怖い時ほど顔へ出さない方だと思います」
その言葉に、俺は少し黙った。
王太子だった頃に身についた癖だった。
会議で不利な報告を聞いても、民の前で災害現場へ立っても、外交相手から厳しい条件を突きつけられても、王太子が動揺すれば周囲まで不安になる。
だから、怖くても見せない。
迷っても、すぐには顔へ出さない。
そうすることを当然だと思って生きてきた。
「怖くないと言えば、嘘になる」
今は、正直に答えた。
「相手が何者か分からない。この塔が見つかれば、ここにある魔導具を狙う者も来るだろう。俺が生きていると知られれば、王都から追手が来るかもしれない」
「はい」
「それに……」
そこで言葉が止まった。
自分でも、続きへ少し戸惑ったからだ。
だが、誤魔化さずセリーを見る。
「お前やエルがどうなるか、それも怖い」
セリーの青い瞳が僅かに揺れた。
「私たちを心配しているのですか?」
「当然だろう」
答えた瞬間、胸の奥へ不思議な感覚が広がった。
古の塔へ送られた最初の日、俺はすべてを失ったと思っていた。
王太子の地位も、家族も、婚約者も、側近も、これから先の人生も。
何一つ残っていない。
だから、もう失うものもない。
そう考えていたはずだった。
けれど、今は違う。
セリーがいる。
エルがいる。
塔にはセリーヌが遺した無数の魔導具があり、俺が帰る寝室や食事をする卓もある。
外へ目を向ければ、リュネにはミロとマリアがいる。肉屋の主人も、市場で野菜を売っていた女性も、顔を思い出せるようになった。
ほんの数日前まで存在すら知らなかったものばかりなのに、気づけば失いたくないと思うものが増えている。
「主様」
「何だ?」
「少し、嬉しいです」
「何が?」
「主様が、この塔と私たちを、自分に関係するものとして心配してくださっていることがです」
「所有物という意味ではないぞ」
「分かっていますよ」
セリーは少しだけ笑った。
「帰る場所として、心配してくださっているのでしょう?」
その言葉に促されるように、俺は観測室の中を見回した。
石造りの壁。
淡く光る魔導硝子。
この下には、毎朝食事をする場所があり、夜になれば眠る寝台がある。
初日に見た時は、ただ死ぬまで閉じ込められる牢獄にしか思えなかった。
今は、そうではない。
「ああ」
認めてしまうと、不思議なほど胸が静かになった。
「ここを奪われたくない」
国を守れと教えられた時とは、まったく違う感覚だった。
王太子として王国を守ることは、俺へ課された義務だった。
だが、これは違う。
誰かに命じられたわけでも、血筋によって背負わされたわけでもない。
俺自身がそうしたいと思っている。
「守りたいと思う」
「はい」
セリーの笑顔が少し深くなる。
その時、北東側の魔導硝子へ大きな波紋が走った。
先ほどまでの細かな反応とは違う。
一度、強く。
そして、そのあと波紋の形が変わった。
「何だ?」
『探索術式の構造変化を確認しました』
エルの報告がすぐに返る。
『表面探査から、残留魔力の照合へ移行しています』
「偽装を疑われたのか?」
「その可能性があります」
セリーがすぐに魔導硝子へ手を触れた。
淡い青色の外套へ刻まれた術式が一斉に明るくなり、彼女の掌から伸びた光が硝子の向こうへ溶け込む。
「相手は、廃墟に残っている魔力が本当に古いものなのか確認しようとしています」
「誤魔化せるか?」
「できます。ただし……想定していたより、かなり精密な術式です」
「どの程度だ?」
セリーは僅かに息を詰めたあと、慎重に答えた。
「現代の一般的な魔導師が、一人で使える規模ではありません」
複数の魔導師が協力している。
あるいは、それを補えるほど高性能な魔導具を使っている。
「宮廷魔導師なら?」
『上位の宮廷魔導師、または軍所属の専門部隊であれば実行可能と推定します』
王都という可能性が、一段だけ現実味を増した。
だが、それでも確定ではない。
「俺が生きていると疑われたのか?」
『判断材料が不足しています』
「俺が毒杯を飲んでいないことは、王都では確認されていないな?」
『はい。毒杯が塔へ届けられた記録はありますが、主様の死亡を直接確認した記録は塔内資料には存在しません』
古の塔へ連れてきた騎士たちは、俺を塔へ残して帰った。
毒杯は後から送られてきた。
届けた者も、俺が受け取ったところまでしか確認していない。
父上もレオンハルトも、少なくとも自分の目で俺の死を見てはいないはずだ。
だから生存確認をしている可能性はある。
しかし、それなら単純に人を送り込めばいいようにも思えた。
古の塔へ入った者は二度と帰らないという伝承があるから、遠距離から確認しているのか。
あるいは、目的そのものが俺ではないのか。
「セリー。偽装内容を一段階変えたい」
俺が言うと、彼女が振り返った。
「どのようにしますか?」
「完全に価値のない廃墟ではなく、結界が壊れかけた古い研究所へ変えられるか?」
「できます。ただ、どうしてです?」
「相手がここまで精密に調べているなら、魔力が完全に枯れているだけでは不自然に感じるかもしれない。何もないと見せ続けるより、少しだけ本物らしいものを見せた方が信じやすい」
セリーの瞳が僅かに大きくなった。
「使えない魔法陣や、空になった保管庫。少し興味は引くが、危険を冒してまで来るほどではない程度にする」
「すべてを隠すより、少しだけ見せる……」
「ああ。外交でも似たことはあった。何も開示しない相手より、害のない情報だけ見せる相手の方が信用されやすい」
「王太子だった頃の経験ですね」
「今は褒めなくていい。できるか?」
「もちろんです」
セリーが両手を硝子へ当てる。
次の瞬間、観測室の床へ巨大な魔法陣が浮かび上がった。
幾重にも重なる光の線が足元から壁へ、壁から塔全体へと広がっていく。セリーの外套へ刻まれた術式も、それに合わせて強く脈打った。
『偽装情報を更新しました』
「相手は?」
『残留魔力照合が一時停止しました』
観測室へ沈黙が落ちた。
俺もセリーも、北東側の魔導硝子を見つめる。
数秒。
それ以上に長く感じる時間が過ぎたあと、結界へ触れていた波紋がゆっくり弱まり始めた。
『探索術式の出力低下を確認しました』
「信じたのか?」
『その可能性があります』
まだ断定はできない。
偽装を見破ったうえで、あえて引いた可能性だってある。
だが、少なくとも今すぐ侵入を試みる反応はなかった。
「逆探知は?」
『発信地点が移動しています。北東地点から北方向へ進行中です』
「速度は?」
『徒歩より速く、通常の馬より僅かに遅い速度です』
「魔導車か?」
「あるいは、大型の探索魔導具を積んだ荷車かもしれません」
セリーが答えた。
「追跡はできるか?」
『可能です。ただし、逆探知術式を継続した場合、対象側がこちらの干渉へ気づく可能性があります』
俺はすぐには答えなかった。
相手の正体を知りたい。
当然だ。
今すぐ転移扉を使い、移動先へ先回りしたいという気持ちも、ないわけではない。
だが、ここで追えば。
こちら側に高度な逆探知能力があると相手へ知らせることになる。
せっかく古い研究所だと思わせたのに、矛盾が生じる。
「追わない」
俺は決めた。
「術式の特徴だけ保存する。発信元への干渉はしない」
『承知しました』
「主様」
セリーが少し意外そうな顔をした。
「何だ?」
「以前の主様なら、追うと言ったと思いますか?」
「少しは」
「私もです」
「俺もだよ」
思わず苦笑した。
「だが、今は相手の正体を知ることより、塔の存在を隠す方が重要だ。知りたいからといって、こちらの存在を教える必要はない」
王太子だった頃、問題が起きれば早く解決することを求められた。
判断が遅れれば、人も金も時間も失う。
だから迅速さは大切だった。
けれど、急ぐことと、考えずに動くことは違う。
「今回は待つ」
「はい」
「一度引いて、また別の方法で探ってくるかもしれない。今日の術式を記録して、同じものが接触したらすぐ分かるようにしてくれ」
『設定します』
魔導硝子へ浮かんでいた波紋が、完全に消えた。
北東の森には、ようやく朝の淡い光が差し始めている。
「終わりましたか?」
「今回は、な」
俺が答えるのとほぼ同時に、セリーが魔導硝子から手を離した。
外套を走っていた光が急速に弱まり、その身体が僅かにふらつく。
「セリー!」
咄嗟に腕を伸ばし、肩と背中を支えた。
思ったより軽い。
「大丈夫です」
「その言葉は信用できないと、俺たちは何度言った?」
少し強い口調になった。
セリーは苦笑する。
「少しだけ魔力を使いすぎただけです」
「少しで身体が揺れるか」
「通常の結界操作なら問題ありません。今回は偽装内容を短時間で大きく書き換えたので、少し負荷が」
「なぜ先に言わなかった?」
セリーが一瞬黙る。
「言えば、主様が無理をさせなかったと思いましたので」
「当然だ!」
思わず声が観測室へ響いた。
セリーが目を見開く。
「自分を後回しにするなと、いつも俺へ言っているだろう。危険な魔導具を無理して使うな。食事を抜くな。休め。散々言ったのはお前じゃないか」
「はい」
「なら、お前も同じだ」
「でも、私は魔導人形ですから」
「それがどうした?」
間を置かずに言葉が出た。
「疲れるなら休め。苦しいなら言え。壊れてから修復できます、で済ませるな」
「修復機能はありますよ?」
「そういう問題ではない!」
また少し声が強くなる。
俺自身、どうしてここまで腹が立っているのか分かっていた。
怒っているのではない。
怖かったのだ。
「お前が壊れるのが嫌なんだ」
口から出てしまったあとで、自分の感情が思っていたより大きかったことへ気づいた。
セリーは何も言わない。
ただ、青い瞳で俺を見上げている。
「……何だ」
「主様」
「何だ?」
「今の言葉を、もう一度お願いできますか?」
「嫌だ」
「どうしてです?」
「恥ずかしいからだ」
「では、私が代わりに言います」
「やめろ」
「主様は、私が壊れるのが嫌なのですね」
「言うな!」
セリーの顔へ、ようやくいつもの笑みが戻った。
「嬉しいです」
「今は笑って誤魔化すな」
「誤魔化していません。本当に嬉しいんです」
「俺は本気で心配している」
「はい」
「次からは、無理をする前に言え」
「はい」
「約束できるか?」
今度はセリーもふざけなかった。
少しだけ表情を引き締め、ゆっくり頷く。
「約束します」
「ならいい」
「ただし」
「何だ?」
「主様も同じ約束をしてください」
「俺も?」
「はい。危険な魔導具を無理して使わない。食事や睡眠を後回しにしない。一人で責任を背負おうとしない」
「条件が増えていないか?」
「今まとめました」
「少し考えさせろ」
「駄目です」
「なぜ?」
「私が今すぐ約束したので、主様も今すぐです」
「理屈になっていないぞ」
「愛です」
「それで全部を押し切るな」
けれど、俺は少し考えたあと、頷いた。
「分かった。約束する」
「本当ですか?」
「ああ」
「エルさん、記録してください!」
『双方の約束を記録しました』
「そこまでしなくていい!」
「これで破れませんね」
「お前は本当に抜け目がないな」
セリーは満足そうに笑った。
その笑顔を見て、ようやく俺の肩からも力が抜けた。
◇◇◇
探索魔術が完全に消え、結界にも異常がないことを確認したあと、俺たちは観測室を出た。
すでに空は明るくなり、塔の窓から差し込む朝日が石造りの廊下へ長い光を落としている。
「朝食にしましょう」
セリーがいつもの調子で言った。
「その前に、お前は休め」
「もう大丈夫ですよ」
「信用できない」
「では、食堂で座って休みながら朝食を作ります」
「作るのは俺だ」
言った瞬間、セリーが足を止めた。
「主様が?」
「簡単なものならできる」
「昨日のお菓子作りで自信がついたのですか?」
「少しはな」
「卵の殻を器へ落とし、小麦粉を私の顔へ飛ばした主様が?」
「今その話をする必要はないだろう」
「楽しみです」
「不安ではないのか?」
「かなり」
「正直だな」
そのまま厨房へ入ると、俺はセリーを椅子へ座らせた。
「ここにいろ」
「はい、主様」
「手を出すなよ」
「口だけにしておきます」
「一番厄介なやつだな」
棚からパンと卵、それから昨夜の残りの野菜を取り出す。
「何を作るのです?」
「パンを焼いて、卵と野菜を炒める」
「普通ですね」
「朝から珍しい料理を作る必要はない」
「愛情は?」
「食べられるものを作ることが、最大の愛情だ」
言ったあと、セリーの目が輝いた。
「主様が愛を語りました!」
「そこだけ拾うな!」
調理用魔導炉を起動し、鍋を置く。
この塔の厨房は火を使わずに温度を調整できるので、料理初心者の俺でも扱いやすい。
まず卵を割ろうとした。
昨日は力を入れすぎて殻を落としたので、今日は慎重にいく。
慎重に。
慎重に。
殻へ小さな亀裂しか入らなかった。
「主様、卵と話し合っているのですか?」
「黙って見ていろ」
「交渉が長引いています」
「今度こそ割る」
少し強く力を加える。
殻は割れた。
だが、中身が勢いよく器へ落ち、一部が卓の上へ飛び散った。
「交渉決裂ですね」
「笑うな」
「お手伝いしましょうか?」
「座って休め」
「では助言だけ」
「だから、それが厄介なんだ」
野菜は自動切断用の魔導具へ任せた。
材料を上から入れると、少し待っただけで均等な大きさになって下から出てくる。
「便利だな」
「主様、それを自分で料理したと言っていいのでしょうか?」
「道具を使うのも技術だ」
「王族らしい答えですね」
「今は王族ではない」
「では、元王太子らしい答えです」
「違いが分からないな」
切った野菜と卵を炒め、パンも温める。
最後に少しだけ塩を振り、皿へ盛った。
見た目は悪くない。
少なくとも、初めて作った朝食としては十分だと思う。
「できたぞ」
皿をセリーの前へ置くと、彼女は大袈裟なくらい目を輝かせた。
「主様が、私のために朝食を……」
「俺の分もある」
「それでもです」
セリーが一口食べる。
ゆっくり噛む。
なぜか、少し間が長い。
「どうだ?」
「……少し塩が多いです」
「最初に言うのがそれか?」
「ですが、美味しいです」
「どっちなんだ」
「主様が作ってくださったので、かなり美味しいです」
「味への評価が完全に歪んでいるぞ」
「愛です」
「またそれか」
俺も自分の皿から食べてみる。
確かに塩辛い。
だが、食べられないほどではない。
それに、自分で作ったというだけで妙な達成感があった。
「次はもっと上手く作る」
何気なく口にすると、セリーが嬉しそうに笑った。
「次も作ってくださるのですね」
「失敗したままなのが悔しいだけだ」
「理由は何でも構いません」
穏やかな朝だった。
ほんの少し前まで、何者かが塔を探していたとは思えないほどに。
だが、俺たちの間には、探索魔術が来る前とは少し違うものが残っていた。
守りたい。
その言葉を、俺は初めて自分の意思で選んだ。
◇◇◇
朝食を終えると、俺は書斎へ移り、エルが記録した探索術式の解析結果を確認した。
机の上へ投影された魔法陣は、何重もの円と複雑な文字列で構成されている。俺にはすべての意味を理解できないが、エルが必要な部分だけを順番に説明してくれた。
「王国で使われている術式なのか?」
『基礎構造は、現代ガイゼン王国で使用される広域探索術式と一致します』
「宮廷魔導師のものか?」
『一般的な軍用術式にも類似しています。ただし、三か所に現代標準から外れる古い補助構造が組み込まれています』
「どの程度古い?」
『セリーヌ様の時代よりは新しいですが、少なくとも五百年以上前に確立された形式です』
「現代の魔導師が、古い術式を混ぜている?」
『その可能性があります』
王宮には古代魔法を研究する部署がある。
王国軍にも、遺跡調査や古代魔導兵器の解析を専門にする部隊が存在していた。
「王都から来た可能性は?」
『否定できません。ただし、術式のみを根拠に断定することもできません』
「使用された魔導具は?」
『大型の広域探査盤、または複数の魔導師による共同術式と推定します』
かなり大掛かりだ。
少なくとも、気まぐれな冒険者が一人で使ったとは考えにくい。
「俺を探しているのか、それとも塔そのものを探しているのか」
「両方の可能性もありますね」
声とともに、セリーが書斎へ入ってきた。
盆の上には茶が二つ載っている。
「もう動いていいのか?」
「はい。かなり回復しました」
「かなり?」
「エルさん、お願いします」
『セリーの魔力保有量は通常時の八十七パーセントまで回復しています』
「完全ではないな」
「生活行動に支障はありません」
「今日は塔の管理へ直接接続するな」
「主様は心配性ですね」
「誰のせいだ」
セリーは少し笑って茶を机へ置き、投影されている術式を覗き込んだ。
「この古い補助構造には、場所へ残った時間的な魔力痕跡を探る機能があります」
「時間的な痕跡?」
「今その場所に何があるかだけではなく、長い間どれくらい大きな魔力が存在していたかを地脈から調べるんです。強い結界や大規模な施設が長年存在していた場所には、完全に隠しても痕跡が残りますから」
「つまり、相手は最初から古代遺跡を探していた可能性もある?」
「はい」
それなら、俺個人を追っていたとは限らない。
むしろ、古の塔そのものを探していた可能性も十分ある。
「この塔を探した人間は、過去にもいたのか?」
「いました」
セリーは少し考えるように視線を上げた。
「二千年の間に、何度か探索を試みた者はいます。ただ、結界を越えられた記録はありません」
「今回のような広域探索は?」
「ありました。ただし、最後に確認されたのは百年以上前です」
「なら今回も、俺とは無関係に久しぶりの探索が行われただけという可能性がある」
「はい」
リュネの補償金。
王都から流れてくる俺への追加調査。
今回の探索魔術。
全部が同じ時期に重なっている。
だからといって、一つの陰謀だと決めつけるのは危険だ。
「エル、記録を分けてくれ」
『分類項目を指定してください』
「リュネの補償金調査。王都で広がっている俺の罪に関する情報。それから今回の塔への探索魔術。この三つは、現時点では別の案件として扱う」
『承知しました』
「証拠が出るまで、無理に結びつけない」
最初から一つの敵がすべてを動かしていると思えば、どんな情報でも自分の考えに都合よく解釈できてしまう。
それでは、レイチェルの言葉だけを信じた時と同じだ。
「主様は、本当に変わりましたね」
セリーが静かに言った。
「そう思うか?」
「はい。王太子だった頃の主様を私は直接知りません。でも、この塔へ来た初日の主様とは違います」
「初日は何も考えられなかったからな」
「今は考えすぎるくらいです」
「どちらがいい?」
「今です」
迷いのない返事だった。
「失敗したことも、悩むこともありますけれど、今の主様は自分で選んでいる顔をしています」
王太子だった頃の俺も、自分で選んでいるつもりだった。
国のために。
王家のために。
将来のために。
けれど振り返れば、その多くは「王太子だから選ばなければならないこと」だったのかもしれない。
今は違う。
この塔を守ることも、リュネの問題を調べることも、誰にも命じられていない。
「自分で選ぶというのは、思ったより疲れるな」
「自由ですから」
「その言葉は便利だな」
「でも、嫌ではないでしょう?」
少し考えてから、俺は笑った。
「嫌ではない」
むしろ、今まで知らなかった重さだった。
誰かに決めてもらえない。
だから迷う。
けれど、その迷いごと自分のものだと思えることが、少し心地よかった。
◇◇◇
午後になると、俺は収蔵室からイリスの片眼鏡を持ち出し、観測室へ残った探索魔術の痕跡を確認することにした。
ただし、朝から睡眠時間が短かったこともあり、セリーから使用時間を五分以内に制限された。
「初回は十分までだっただろう?」
「体調によって短くします」
「厳しいな」
「約束しましたよね?」
「した」
それを言われれば従うしかない。
右目へ片眼鏡を装着し、鎖の先にある起動石へ魔力を流す。
視界が一度白く霞み、それから普段は見えない色が一気に浮かび上がった。
塔を包む結界は、巨大な金と青の膜として森全体へ広がっている。その北東側にだけ、細く引き伸ばされた紫色の線が残っていた。
「これが探索術式の残留痕跡か?」
『はい』
紫の線は結界表面を何度もなぞり、場所によって濃さを変えていた。
さらに意識を集中させると、一部へ黒い濁りが混ざっているのが見える。
「黒い反応がある」
『解析します』
数秒後、エルが答えた。
『術式の一部に、発信者情報を隠蔽する加工が施されています』
「普通の探索術式ではない?」
『少なくとも、逆探知される可能性を想定した構造です』
古代遺跡を探すだけなら、そこまで発信者情報を隠す必要があるのだろうか。
もちろん、ほかの探索者へ場所や技術を知られたくないだけかもしれない。
それでも、警戒材料にはなる。
「隠蔽術式に特徴は?」
『現代王国軍が使用する隠蔽術式と一部類似しています。ただし、完全一致ではありません』
「王国軍……」
再び王都の可能性が頭へ浮かぶ。
だが。
「まだ王国軍だとは決めない」
『はい』
「類似しているだけだ」
「主様、時間です」
背後からセリーの声が聞こえた。
「まだ五分くらいでは?」
「五分です」
「正確だな」
「外してください」
俺はすぐに片眼鏡を外した。
セリーが受け取りながら、少し驚いたように瞬く。
「素直ですね」
「約束したからな」
「では、ご褒美を」
「いらない」
「まだ内容を言っていません」
「お前のご褒美は嫌な予感がする」
「抱きしめて差し上げようかと」
「いらない」
「即答が早すぎます」
「朝からこれ以上動揺させるな」
「では夕方に」
「時間の問題ではない」
いつもの調子へ戻ったセリーを見て、俺も自然に笑った。
◇◇◇
その日の夕方。
王都の王城では、新王太子レオンハルトが私室へ一人の男を呼び出していた。
黒い外套を纏った男の胸元には、銀色の杖を模した徽章がついている。王国軍魔導調査部隊を率いる隊長であり、古代遺跡や大規模魔術反応の探索を専門とする人物だった。
「報告を」
レオンハルトが静かに促す。
「はっ」
男は深く頭を下げた。
「古の塔が存在するとされる禁断の森について、広域探索術式による遠隔調査を実施しました」
「結果は?」
「塔と思われる建造物は確認できませんでした」
レオンハルトの眉が僅かに動く。
「何もなかったのですか?」
「古い研究施設と思われる廃墟を一か所確認しています。ただし結界は大きく劣化し、内部の魔力もほぼ枯渇していました。残存設備にも価値はないと思われます」
「古の塔ではない?」
「伝承にある規模や魔力特性とは一致しません」
レオンハルトは指先で机を一度だけ叩いた。
「兄上の生存反応は?」
「確認できませんでした」
「死体は?」
「広域探索術式では、そこまで詳細な確認は困難です」
「つまり」
レオンハルトの声は穏やかだった。
「何も分からなかったということですね」
男の肩が僅かに強張る。
「申し訳ございません」
「もう一度調べてください」
「殿下?」
「今度は、さらに近い場所から」
隊長が顔を上げた。
「禁断の森は、古くから魔力災害と高危険度魔物の発生地として指定されています。直接調査には、相応の人員と装備が必要です」
「必要な人員と予算を申請してください」
「国境警備の魔導部隊から人員を回す可能性があります」
「構いません」
「国王陛下の承認が必要です」
レオンハルトの目が僅かに冷たくなる。
「父上には、私から話します」
「承知いたしました」
「それと」
退出しようとした男を、レオンハルトが呼び止めた。
「今回の調査について、外部へ漏らさないでください」
「隊員にもですか?」
「必要最低限の者だけで共有してください。旧王太子の生死を確認していると知られれば、不要な噂を生みます」
「承知しました」
男が部屋を出る。
扉が閉まり、静けさが戻ったあと、奥の扉が開いた。
姿を現したのは国王ラゼルだった。
「随分と急いでいるな」
「父上」
「本当にアルフォンスが生きていると思うのか?」
「可能性がある以上、消しておくべきです」
「古の塔へ送られた者は二度と戻らない」
「伝承では、でしょう?」
レオンハルトは父を真っ直ぐ見た。
「誰も塔の内部を確認したことがない。兄上が毒を飲んだ証拠もありません」
「だからといって、軍を動かすのか」
「兄上が戻れば、困るのは父上も同じでしょう」
国王の表情が僅かに歪んだ。
「何が言いたい」
「精神干渉の検査を止めたのは、父上です」
室内の空気が一気に冷えた。
「どこでそれを知った」
「王城の記録は、父上が思っているほど綺麗には消えません」
「レオンハルト」
「安心してください。責めるつもりはありません」
息子の穏やかな笑顔を見ても、ラゼルの警戒は消えなかった。
「父上は、兄上を王太子から降ろしたかった。私は王太子になりたかった。結果として、目的は一致しました」
「アルフォンスは王として不適格になっていた」
ラゼルは低い声で答えた。
「レイチェルの言葉だけを信じ、公務を疎かにした。アンナマリー嬢を傷つけ、王家の信用まで失わせた」
「すべて事実です」
「なら、処分は間違っていない」
その言葉は、レオンハルトへ向けたものというより、自分自身へ言い聞かせているようだった。
「精神干渉を受けていたとしても、王太子としての責任が消えるわけではない」
「そうですね」
レオンハルトは穏やかに頷いた。
「だからこそ、兄上には死んだままでいていただかなければ困ります」
国王は答えなかった。
だが、レオンハルトはその沈黙を拒絶とは受け取らなかった。
「次の調査には、父上の承認が必要です」
「危険な森だ」
「必要な犠牲です」
「兵を何だと思っている」
「王国を守る者です」
「アルフォンス一人のために、兵を危険へ晒すつもりか?」
「兄上が戻れば、王国が割れる可能性があります」
レオンハルトは机の上へ地図を広げる。
「兄上を支持していた貴族は今も残っています。精神干渉の事実が広まれば、古の塔への追放が不当だったと主張する者も現れるでしょう」
「その情報は処分した」
「本当に?」
国王の表情が固まる。
「王宮魔導師の覚え書きが、資料室から消えました」
「何だと?」
「誰かが調べ始めています」
ブラットか。
アンナマリーか。
あるいは別の誰かなのか。
「だから、時間はありません」
レオンハルトは静かに告げた。
「兄上が生きているなら、今度こそ確実に消します」
◇◇◇
同じ頃、王城の別棟にある小さな部屋では、ブラットが王宮魔導師の覚え書きを机の上へ広げていた。
原本は別の場所へ隠し、ここにあるのは自分で作成した写しだ。
アンナマリーは窓辺に立ち、外を行き交う兵たちを見下ろしている。
「魔導調査部隊が動いたわ」
「ああ」
「古の塔がある森の方向へ向かった部隊が、今朝戻ったそうよ」
ブラットの手が止まった。
「レオンハルトが、アルフォンスの生死を調べている」
「おそらくな」
「もし見つかったら……」
「殺すつもりだろう」
アンナマリーが両手で口元を覆った。
顔色が青ざめる。
「私たちは、どうすればいいの?」
「古の塔へ先に知らせる」
「どうやって?」
「王都から正式な伝令を使えば、レオンハルトへ筒抜けになる」
「では?」
「一人、頼れる可能性のある人物がいる」
ブラットは机の引き出しを開け、小さな金属製の徽章を取り出した。
「王宮魔導研究所のフェリクスだ。アルフォンスを最初に診た魔導師の弟子で、この覚え書きを書いた人物とも親しかった」
「信用できるの?」
「完全には分からない」
「それでも頼るの?」
「何もしない方が危険だ」
ブラットは徽章を握りしめた。
「もしアルフォンスが生きているなら、王都から調査部隊が向かっていると伝えなければならない」
「でも、古の塔へ近づけば……」
「俺が行く」
アンナマリーが勢いよく振り返った。
「駄目よ」
「なぜだ」
「危険だからに決まっているでしょう」
「それは分かっている」
「古の塔へ入った者は戻れないと言われているのよ」
「それでも、俺が行くべきだ」
ブラットの声は静かだった。
「俺はアルフォンスの側近だった。あいつの判断がおかしくなった時、止められなかった。追放される時も、俺は何も疑わなかった」
「あなたのせいではない」
「俺だけのせいではない」
ブラットは否定しなかった。
「だが、俺に責任がないとも思えない」
「それでは、アルフォンスと同じじゃない」
「何が?」
「全部、自分一人で背負おうとしているところよ」
ブラットが黙る。
アンナマリーは彼から目を逸らさなかった。
「私も関わった」
「お前は行くな」
「どうして?」
「危険だからだ」
「私だけ安全な場所へ残れというの?」
「そうだ」
「嫌よ」
迷いのない返事だった。
「私も、自分が何をしたのか確かめなければならない」
「アンナマリー」
「アルフォンスに傷つけられたことは事実。でも、それと、嵌められていた人を死なせてもいいということは別でしょう」
ブラットは長い間、答えられなかった。
「二人で行けば、危険が倍になる」
「一人より、できることも増えるでしょう?」
アンナマリーは少しだけ笑った。
「誰か一人ですべてを背負う必要はないわ」
その言葉が、遠く離れたリュネの肉屋が口にしたものと、ほとんど同じ意味を持っていることを二人は知らない。
それでも、離れた場所で同じ考えが生まれ始めていた。
◇◇◇
夕食を終えたあと、俺は露台へ出ていた。
森の向こうでは赤い夕日が沈みかけ、昼間まで明るかった空が少しずつ紫色へ変わっている。
朝の探索魔術以降、結界へ異常はない。
だからといって、相手が諦めたとは限らない。
「主様」
背後からセリーの声がした。
「寒くありませんか?」
「大丈夫だ」
「大人の大丈夫も信用できません」
「その言葉、本当に便利になったな」
セリーは俺の隣へ並び、同じ夕日を見た。
「今日は町へ行けませんでしたね」
「ああ」
「残念でした?」
「少しはな」
ミロとマリアの様子も気になる。
ヘルムートについても調べたい。
だが今日は、塔を守ることを優先した。
「以前の俺なら、町の調査を続けようとしたかもしれない」
「今は違いますか?」
「どちらも大事だと思っている」
「はい」
「だから、一つずつやる」
セリーは満足そうに頷いた。
「明日は町へ行きますか?」
「結界に異常がなければな」
「では、昨日作った焼き菓子をミロ君へ持っていきましょう」
「ああ」
「肉串も食べましょう」
「それはお前が食べたいだけだろう」
「主様も好きでしょう?」
「嫌いではない」
「では決定ですね」
夕風が吹き、セリーの銀髪が柔らかく揺れた。
「セリー」
「はい?」
「今朝のことだが」
「私が無理をしたことですか?」
「ああ」
「申し訳ありませんでした」
「怒っているわけじゃない」
「かなり怒っていましたよ」
「心配しただけだ」
改めて言うと、少しだけ恥ずかしい。
「俺は、この塔を守りたい」
「はい」
「お前も、エルも」
『私は腕輪です』
「今は黙っていろ」
『呼びかけを受けました』
セリーが小さく笑った。
「エルさんも嬉しいのだと思います」
『感情評価は検索対象外です』
「否定はしないのですね」
『否定に必要な根拠もありません』
「やはり嬉しいのです」
「勝手に決めるな」
三人の声が、夕暮れの露台へ重なった。
俺は少し笑い、それから再び森を見る。
「町の人たちも、できれば守りたい」
言葉を続けた。
「ミロやマリアだけではない。肉屋の主人も、市場の人たちも、それぞれ自分たちの生活を守ろうとしている」
「はい」
「王太子だった頃は、国を守るという言葉が大きすぎて、その中にいる一人ひとりを見失っていたのかもしれない」
国民。
人口。
税収。
支援対象世帯。
報告書へ書かれれば、すべて数字と分類になる。
だが実際には、一人ひとりに名前がある。
暮らしがある。
大切な相手がいる。
「今の俺には、見える範囲しか守れない」
「それでいいと思います」
「狭すぎないか?」
「最初から全部を抱えたら、また主様が潰れてしまいます」
「そうだな」
「まず塔を守る。ミロ君たちを守る。そして、主様自身も守る。手の届く範囲を少しずつ増やしていけばいいんです」
自分自身を守る。
その言葉には、まだ慣れない。
誰かを守るためなら、自分が無理をするのは仕方がない。
長い間、そう思ってきた。
けれど、俺が倒れれば、その先で守れるものまで減る。
「俺自身も、守る対象に入るのか」
「当然です」
セリーは迷わなかった。
「主様がいなくなったら、私は嫌です」
真っ直ぐな言葉だった。
「エルもか?」
『主様が死亡した場合、所有者不在状態へ移行します』
「もう少し言い方はないのか」
『事実です』
「私は嫌です」
セリーがもう一度言った。
「だから、主様もご自分を守ってください」
「ああ」
俺は小さく頷いた。
「約束したからな」
「はい」
夕日が森の向こうへ完全に沈んでいく。
空に残った赤い光が薄れ、代わりに塔の魔導灯が一つずつ灯り始めた。
誰かが、この塔を探している。
王都では、俺を確実に消そうとする動きが始まっている。
リュネでは、アルという旅人を警戒する者まで現れ始めている。
今の俺は、そのすべてをまだ知らない。
それでも、一つだけ以前と違うことがある。
何も持っていないと思っていた俺には、いつの間にか帰る場所ができていた。
待っている者がいる。
心配したいと思える相手がいる。
明日また会いたいと思える人がいる。
守りたいものがある。
それは、時に弱点になるのかもしれない。
失うことが怖くなり、その恐怖によって迷うこともあるだろう。
けれど同時に、それは生きようと思える理由にもなる。
王太子ではなくなった俺は、もう国全体を背負う必要はない。
だから今は、手の届くものからでいい。
塔を。
セリーを。
エルを。
リュネで知り合った人々を。
そして、自分自身を。
一つずつ、自分の意思で守る。
誰かから与えられた役目ではなく、俺自身が失いたくないと思ったものを守る。
それが、古の塔へ幽閉された元王太子アルフォンスが、ようやく自分で選び始めた新しい生き方だった。




