第11話 元王太子、見られている町で昔の名前を探す
翌朝、古の塔を包む森には、薄い雲の隙間から柔らかな光が差し込んでいた。
昨夜までの緊張が嘘のように、鳥たちは濡れた枝から枝へ飛び移り、そのたびに葉先へ残っていた雫が細かな光を散らしている。塔の外周結界にも新しい異常はなく、最上階の観測室を囲む魔導硝子には、朝靄の残る森がどこまでも穏やかに映し出されていた。
だからこそ、俺は落ち着かない。
森の景色を眺めるふりをしながら、何度も北東側へ視線を戻してしまう。昨日、王国軍のものに似た広域探索術式が接触した方角だ。
『現在まで、新たな探索術式の接触は確認されていません』
右手首の銀色の腕輪から、エルの淡々とした声が響いた。
「そうか」
『同一内容の確認は、本日三度目です』
「数えなくていい」
『検索の腕輪は、検索履歴および会話内容を記録します』
「そういうところだけは、本当に正確だな」
苦笑しながら魔導硝子から離れ、観測室の中央にある卓へ向かった。
今日リュネへ持っていくものは、すでに一通り並べてある。昨日まで町で使っていた地味な茶色の外套。銅貨と銀貨を分けて入れた小袋。外見変更機能によって普通の眼鏡に見えるよう調整した《イリスの片眼鏡》。それから、小さな布を掛けた籠の中には、昨日セリーと一緒に作った焼き菓子が入っていた。
菓子の形は、どう見ても揃っていない。
丸くまとまったものもあれば、片側だけ膨らんだもの、端が妙に尖っているものまである。味に問題がないことは昨日確認したが、王城の菓子職人が作るものと比べるまでもなく、見栄えだけなら失敗作に近い。
「いくら難しい顔で見つめても、形は整いませんよ」
背後から声をかけられ、俺は振り返った。
観測室の扉から、朝食を載せた盆を両手で持つセリーが入ってくる。今日はまだ町へ出る前なので、銀色の髪と澄んだ青い瞳をした、いつもの姿だった。
「分かっている。ただ、ミロたちへ渡すなら、もう少し綺麗に作ればよかったと思ってな」
「味は同じです」
「市場の女性と同じことを言うな」
「正しい言葉は、何度繰り返しても正しいのです」
セリーは楽しそうに笑いながら卓へ盆を置き、俺が気にしていた籠の中を覗いた。
「それに、初めて作ったものなのですから、形が揃っていない方が手作りらしくて良いと思います」
「半分以上はお前が作っただろう」
「材料を用意して、分量を教えて、混ぜ方を説明して、焼き方を教え、失敗しそうな主様を見守っただけです」
「それを世間では、ほとんど全部やったと言うんじゃないのか?」
「卵の殻を器へ落としたのは主様ですよ」
「そこだけ俺の成果のように言うな」
昨日の厨房での失敗を思い出し、俺はため息をついた。
セリーは満足そうに笑ったまま、朝食の皿を並べていく。焼いたパンと、野菜の入った温かなスープ。それから果物が少し。昨日、結界操作で魔力を大きく消耗した彼女のために、今朝は俺が食事を作るつもりだった。
「今朝は俺が作ると言わなかったか?」
「主様は夜明け前から観測室と書斎を何度も往復していましたので、私が作りました」
「無理はしていないのか?」
「していません。疑うなら、エルさんへ確認してください」
『セリーの魔力保有量は、平常時の九十六パーセントです。身体機能および思考処理に異常は確認されません』
「まだ完全には戻っていないな」
「朝食を用意する程度なら問題ありません」
「今日は町でも無理をするな」
「主様もですよ」
「ああ」
俺が素直に頷くと、セリーは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
「今日は即答なのですね」
「約束したからな」
「良い傾向です」
「子供を褒めるように言うな」
椅子へ腰掛け、パンをちぎってスープへ浸す。
温かな味が身体へ広がっていく一方で、頭の中には今日確認する予定のことが次々浮かんでいた。
ヘルムート。
三年前、商業組合で遺族補償関係の書類を扱っていた男だ。ロイドの遺族補償申請にも名前が残り、二年前に突然退職している。
彼が不正に関わった人物なのかは、まだ分からない。
金を抜いていた側かもしれない。不正を知って逃げたのかもしれない。誰かに罪を押しつけられた可能性もあるし、まったく別の事情で町を去っただけかもしれない。
「主様」
「何だ?」
「今、ヘルムートさんが悪人かどうか考えていましたね」
「そんなことまで顔に出るのか?」
「少しだけです」
「お前は、俺の顔を読むのが上手くなったな」
「毎日見ていますから」
あまりにも自然に言われたせいで、返事が一瞬遅れた。
毎日。
たしかに、塔へ来てからは朝も昼も夜も、ほとんどセリーと一緒にいる。別に深い意味のない言葉だと分かっているのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
セリーは俺の反応へ気づいているのかいないのか、スープを一口飲んでから話を続けた。
「今日の目的は、ヘルムートさんを捕まえることではありませんよね?」
「ああ。居場所につながる話がないか探すだけだ」
「でしたら、最初から名前を出して聞き回る必要はありませんね」
「そのつもりだ。まずミロとマリアへ菓子を渡す。その後、市場と肉屋へ寄って、支援制度が変わった頃の話を普通の会話の中で聞く」
「その途中で肉串を食べます」
「それは調査目的に入っていない」
「昨日、決まりました」
「お前の中だけでだろう」
「主様も嫌いではないと認めていました」
『該当発言は記録されています』
「エルまで参加するな」
思わず笑いながらも、俺はすぐに気持ちを切り替えた。
「セリー。今日は町へ入ったあと、不自然な視線を感じてもすぐに振り返るな」
彼女の表情からも笑みが薄れる。
「分かりました」
「俺たちを見張っている者がいるなら、こちらが気づいていないと思わせた方がいい。昨日酒場で俺たちについて話していた者と、塔を探した魔術の送り主が同じかどうかも分からない。そこは今までどおり分けて考える」
「でも、警戒はするのですね」
「別の出来事だから安全だという意味ではないからな」
セリーは真剣に頷いた。
「危険だと思った時点で、調査を中止して塔へ戻りましょう」
「約束する」
「エルさん、記録をお願いします」
『記録しました』
「何でも記録させるな」
「主様が責任を感じると、自分との約束を後回しにすることがあるからです」
否定しかけたが、結局何も言えなかった。
セリーはそれを見て、少し満足そうに果物を口へ運んだ。
◇◇◇
朝食後、俺たちは変貌の仮面を使い、いつもの旅人姿へ変わった。
俺は濃い茶色の髪と緑がかった灰色の瞳を持つ青年、アル。セリーは肩までの茶髪と琥珀色の瞳を持つ少女、セリとなる。
転移先に選んだのは、リュネ南西側にある使われていない倉庫の裏手だった。朝露に濡れた雑草が足元へ伸び、崩れかけた木箱がいくつか積まれている。表通りからは離れており、人の話し声も遠かった。
『周囲に人影は確認されません』
「行こう」
「はい」
転移扉を閉じ、細い路地を抜けて大通りへ出る。
朝の市場はすでに多くの人で賑わっていた。近隣の村から運び込まれた野菜や果物が荷車の上へ山積みにされ、魚屋の前では桶から取り出された魚が銀色の鱗を光らせている。焼きたてのパンを抱えた少年が人の間を抜け、値段を交渉する声と店主の呼び込みが重なり、町全体が一つの大きな生き物のように動いていた。
俺はその空気へ紛れながら、周囲へ意識を広げる。
最初のうちは、いつもと変わらない。
「あっ、変な旅人さんだ!」
突然、聞き慣れ始めた声が飛んできた。
野菜売りの女性が、店先から大きく手を振っている。
「その呼び方、本当に定着しているんですか?」
「肉屋の旦那が言い始めたんだから、本人へ言いな」
「今日は正式に抗議します」
「喜ぶと思うけどねえ」
女性は笑いながら、隣で商品を選んでいた客へ俺たちを紹介し始めた。
「この人が、ミロの野菜を全部買った旅人さんだよ」
「全部といっても籠一つ分です」
「役場でも難しいこと聞いてたんだって?」
「確認しただけですよ」
「商業組合の昔の帳簿まで見たって聞いたよ」
その言葉を聞いた瞬間、内心で警戒が一段階上がった。
役場でのやり取りが広まるのは分かる。あの日は多くの住民が列に並び、俺と役人の会話を聞いていた。
だが、商業組合で古い帳簿を見たことまで、もう市場へ伝わっている。
俺は表情を変えず、軽く笑った。
「本当に噂が早い町ですね」
「小さい町だからね。組合で働いてる若い子の姉が、うちの隣に住んでるんだよ」
「なるほど」
理由としては不自然ではない。
ただし、町の普通の住民へ伝わる速度がこれほど速いなら、俺たちを警戒している者にも同じ情報が届いていると考えるべきだろう。
「今日は何を買うんだい?」
「知り合いの家へ渡す野菜を少し。それと、昨日焼いた菓子を持ってきたので、そのついでです」
セリーが籠を少し持ち上げると、女性の顔が明るくなる。
「二人で作ったのかい?」
「はい!」
「俺は少し手伝ったくらいです」
「主に失敗を担当しました」
「余計な説明をするな」
周囲の客から笑い声が上がった。
「若い夫婦みたいだねえ」
「違います」
即座に否定すると、隣のセリーがこちらを見た。
「アル」
「何だ?」
「否定が早すぎます」
「事実を訂正しただけだ」
「私は一瞬くらい迷っていただいてもよかったのですが」
「町中で妙なことを言うな」
女性たちはさらに笑い、俺は顔へ熱が集まるのを感じながら、並んだ根菜へ視線を逃がした。
「ほら、夫婦喧嘩する前にこっちを見な。形の悪い根菜が安いよ。味は変わらないからね」
「夫婦ではありません」
「はいはい」
完全に流された。
諦めて根菜と葉野菜を選び、代金を渡す。
女性は袋へ詰めながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういや、支援制度のことを聞いてるんだったね」
「詳しく調べているわけではありません。知り合いが使える制度がないか、少し確認しているだけです」
「昔は、今よりずっとちゃんとしてたんだけどねえ」
声が少し低くなった。
俺はすぐに続きを求めず、袋へ入れられていく野菜を眺めながら自然な調子で尋ねる。
「昔というと、どのくらい前ですか?」
「四年か五年くらい前かな。その頃は、困ってる家があると、役場の方から説明へ来ることもあったよ。あんたはこの制度が使える、この紙を書けばいいって」
「今とは随分違いますね」
「今は聞きに行っただけで面倒そうな顔をされるからね」
近くで商品を選んでいた年配の男性が、会話を聞いて顔を上げた。
「変わったのは、ヘルムートがいなくなった頃じゃないか?」
目的の名前が、こちらから出す前に現れた。
俺は内心の緊張を抑えながら、知らない名を聞いたように首を傾げる。
「ヘルムート?」
「昔、商業組合で支援関係の書類をまとめてた男だよ。組合の人間だったけど、役場とやり取りすることも多かった」
「そうそう」
野菜売りの女性も頷いた。
「でも、あの人がいなくなったから悪くなったのか、悪くなっていくのを見ていられなくなって辞めたのか、その辺は誰にも分からないんだよ」
「急に辞めたのですか?」
セリーが自然に尋ねる。
「ある日から組合へ来なくなった」
年配の男性が答えた。
「家も空になっていてな。町を出たらしいって話だけは聞いた」
「どちらへ?」
「北へ行ったとか、西の鉱山町へ向かったとか。噂ばかりだ」
「家族はいなかったのですか?」
「一人暮らしだったはずだよ」
俺は袋を受け取りながら、あくまで雑談の延長に聞こえるよう問いを続けた。
「評判の悪い人だったのですか?」
今度は二人ともすぐには答えなかった。
「愛想は悪かったよ」
女性が苦笑する。
「でも、悪い人じゃなかったと思う。字が読めない人の代わりに書類を書いてくれたり、役場へ一緒についていってくれたりしたから」
「俺も妻が病気になった時に世話になった」
男性も懐かしそうに続ける。
「申請書の書き方を全部教えてくれた。金も取らなかった」
「それなら、どうして突然辞めたのでしょう」
セリーの問いに、男性は少し声を落とした。
「役場の連中と揉めてたって話がある」
「揉めていた?」
「詳しくは知らん。ただ、酒場で怒鳴ってるところを見た奴がいる。『こんなやり方はおかしい』『死人からまで金を取るのか』ってな」
いくつかの情報が、頭の中で近づき始める。
ヘルムートが不正へ加担した人物ではなく、逆に問題へ気づいていた可能性は高まった。
だが、高まっただけだ。
「その酒場は、どこですか?」
尋ねた直後、少し踏み込みすぎたと気づいた。
女性がこちらを見た。
「気になるのかい?」
「支援制度が変わった頃のことを知れば、今でも利用できる方法が見つかるかもしれないと思っただけです」
嘘ではない。
女性は少し考えてから、広場の北側を指した。
「古い鐘楼の裏にある《銀樽亭》だよ。荷運び人が多い店だけど、昼間はまだ開いてないからね」
「ありがとうございます」
それ以上は聞かなかった。
商品を受け取り、人の流れへ戻る。
「ヘルムートさん、不正を止めようとしていたのでしょうか」
人混みへ紛れてから、セリーが小声で言った。
「そう見える情報は増えた」
「でも、まだ決めない」
「ああ。『死人からまで金を取る』という言葉が、補償金を抜くことを意味したとは限らない。高額な申請手数料のことかもしれないし、別件かもしれない」
ヘルムートが辞めた時期。
制度が機能しなくなった時期。
役場との揉め事。
突然空になった家。
つながって見えるからこそ、慎重にならなければならない。
「アル」
セリーの声がさらに低くなった。
「右後ろ。青い布を首へ巻いた男がいます」
俺は振り返らなかった。
「いつからだ?」
「野菜売りの店へ着いた頃から、何度か同じ距離にいます」
「一人か?」
「今見える範囲では」
心臓が少し速くなる。
だが、歩調は変えなかった。
通り沿いの店の硝子窓へ一瞬だけ視線を向ける。
反射した景色の中に、痩せた中年の男がいた。
首へ青い布を巻き、荷運び人のような地味な服を着ている。腰には小さな刃物らしいものがあるが、町の労働者なら護身用に持っていても不自然ではない。
こちらを凝視しているわけではない。
果物屋へ視線を向けたり、壁の掲示を読んだりしながら、一定の距離を保って歩いている。
「エル。後方の青い布の男を記録してくれ」
『対象を記録しました』
「外見から危険物は?」
『腰部に短刀と推定される金属反応があります。ただし、一般的な護身具の範囲です』
敵とは決められない。
「予定どおりミロの家へ行く。ただし、途中で離れるか確認する」
「もし尾行だったら?」
「家へ直接近づけない。ミロたちを巻き込む可能性がある」
住宅地へ入る直前、俺たちは小さなパン屋へ立ち寄った。
丸パンを二つ選び、店員へ代金を渡しながら窓の外を見る。
青い布の男は店の前を通り過ぎ、そのまま角を曲がった。
「行きましたね」
セリーが小さく言う。
「ああ。ただ、偶然同じ方向だった可能性もまだ残る」
「慎重すぎるくらいですね」
「今はそれでいい」
パンを受け取り、俺たちはすぐミロの家へ向かわず、一度住宅地を遠回りした。
同じ男も、別の不審者も見えないことを確認してから、ようやく目的の家へ向かった。
◇◇◇
扉を叩くと、すぐに元気な足音が近づいてきた。
「アル兄ちゃん!」
勢いよく扉を開けたミロは、俺たちの姿を見るなり満面の笑みを浮かべた。
「今日は来た!」
「昨日は来られなかったからな」
「何してたの?」
「家の様子を見ていた」
「家が逃げるの?」
「そういう意味ではない」
「悪い人が来ないか見張っていたのです」
横からセリーが補足すると、ミロの目が一気に輝いた。
「泥棒?」
「違う」
「魔物?」
「それも違う」
「悪い魔導師?」
「子供はすぐ話を大きくするな」
「アル兄ちゃん、戦った?」
「戦っていない」
「勝った?」
「だから戦っていないと言っているだろう」
ミロは露骨に残念そうな顔をした。
「主様は、戦わずに相手を帰らせたのですよ」
「セリ」
「あ」
セリーが口元を押さえる。
ミロはしっかり聞いていた。
「やっぱりアル兄ちゃん、隊長なの?」
「昔の呼び方が残っているだけだ」
「強い隊長?」
「今度、私が訓練を」
「余計な期待を持たせるな」
騒ぎを聞きつけ、奥からマリアが姿を見せた。
数日前に比べれば、随分顔色が良くなっている。まだ長時間働けるほどではないだろうが、今日は髪も整え、寝間着ではなく普段着へ着替えていた。
「いらっしゃい。昨日は来られなかったので、ミロが朝から何度も外を見ていたんですよ」
「母さん!」
「本当でしょう?」
「少しだけ!」
笑うマリアへ、俺は持ってきた袋と籠を差し出した。
「市場で野菜を少し買ってきました。それから、これは昨日作ったものです」
「作った?」
ミロがすぐ籠へ近づく。
「アル兄ちゃんが?」
「セリに教えてもらった」
「主にアルが作りました」
昨日と割合が逆になっている。
「なぜ急に俺が作ったことになっている?」
「ミロ君が喜びそうなので」
「事実を変えるな」
布をめくると、ミロは不揃いな焼き菓子を見て目を輝かせた。
「食べていい?」
「母親へ聞け」
「一つだけならいいわ」
許可が出た瞬間、ミロは一番大きなものを選んで口へ運ぶ。
「甘い!」
「それは菓子だからな」
「美味しい!」
その言葉を聞いた途端、胸の奥が少し軽くなった。
「形は変だけど」
「余計な一言を足すな」
「その一番大きいもの、主様が形を作ったものです」
「どうしてそこまで覚えているんだ?」
「主様の作品ですから」
マリアも一つ受け取り、ゆっくり味わった。
「本当に美味しいですよ」
「無理に褒めなくて大丈夫です」
「無理ではありません」
焼き菓子を見つめながら、マリアが少し寂しそうに笑った。
「夫も、よくミロへ不格好なものを作っていました」
「父さんもお菓子作ったの?」
「お菓子ではなく、木のおもちゃです。犬を作ったと言っていたのですが、どう見ても豚でした」
「俺、犬だと思ってた」
「あなたがそう言うから、お父さんは最後まで犬だと言い張ったのよ」
母子の笑い声が狭い部屋へ広がる。
初めてここへ来た日には、咳と不安ばかりが満ちていた。
今は違う。
補償金の問題も、これからの生活も何一つ解決してはいない。それでも、日常が少しずつ戻ってきていることだけは分かった。
「アルさん」
マリアが俺へ向き直る。
「補償金のことは、何か分かりましたか?」
「少しだけです」
ミロも近くにいる。
必要以上に不安を与えないよう、言葉を選んだ。
「当時、支援関係の手続きをしていたヘルムートという人について、町で話を聞きました」
「ヘルムートさん」
マリアの表情が動いた。
「知っているのですか?」
「夫が亡くなったあと、一度だけ家へ来た方です」
予想していなかった答えに、俺とセリーは視線を交わした。
「家へ?」
「はい。商業組合の方だと名乗り、夫の登録証や任務について確認していました」
「補償金を渡した人物とは別ですか?」
「違います」
マリアははっきり首を振った。
「お金は役場の方から受け取りました。ヘルムートさんは、その前に来ただけです」
「何を話しましたか?」
「詳しくは覚えていません。ただ、『補償金は必ず受け取ってください』と言われたのは覚えています」
「税の軽減や食料支援については?」
「そこまでは聞いていません」
「説明用の紙は持っていましたか?」
マリアは少し考える。
「何枚か紙を持っていたと思います。でも、途中で役場の方が家の外へ来て、二人で話をして……ヘルムートさんは怒ったような顔で帰ってしまいました」
新しい情報だった。
「その役場の方を覚えていますか?」
「背の高い、痩せた方です」
「後日、金貨を持ってきた人と同じですか?」
マリアは目を閉じるようにして記憶を探ったあと、ゆっくり頷いた。
「たぶん、同じ方です」
ヘルムートはマリアへ説明しようとしていた。
そこへ役場の男が現れ、会話が中断した。
その後、マリアへ渡された補償金は本来の金貨三枚ではなく、一枚だけ。
かなり重要な情報だ。
だが、まだ結論にはしない。
「ヘルムートさんは、その後もう一度来ましたか?」
「いいえ」
「手紙や書類を残したことは?」
「ありません」
「町を出たと知ったのは?」
「夫が亡くなって一年くらい経った頃です。急に組合を辞めて、町からいなくなったと聞きました」
時期は一致する。
ロイドが亡くなったのは三年前。
ヘルムートが辞めたのは二年前。
少なくとも、その一年ほどの間、彼は何かを見ていたことになる。
「アルさん」
マリアの顔へ不安が滲んだ。
「ヘルムートさんが、夫のお金を取ったのでしょうか?」
「まだ分かりません」
俺はすぐに答えた。
「今聞いた話だけなら、むしろ制度を説明しようとしていたように見えます。ただ、それだけで無実だと決めることもできません」
「そうですか」
「彼が何を知っていたのか。なぜ町を出たのか。そこを確かめたいと思っています」
「危険なことではありませんか?」
「可能性はあります」
安心させるためだけに嘘をつくつもりはなかった。
「だからこそ、あなたやミロの名前はできるだけ出しません。それに、俺たち自身も危険だと判断したら調査を止めます」
マリアはしばらく俺を見つめた。
「アルさんは、本当に止められるのですか?」
思いがけない問いだった。
「どういう意味です?」
「以前、自分にも責任があるかもしれないと言っていましたよね。昔、この地域を調べる仕事を後回しにしたからだと」
「はい」
「責任を果たすためなら、ご自分が危険でも進んでしまうのではないかと思って」
胸の奥を見透かされたようで、俺はすぐには答えられなかった。
少し前までなら、たぶんそうしていた。
「以前の俺なら、そうだったと思います」
正直に答える。
「でも今は、無理をしないと約束した相手がいます」
隣のセリーが、少しだけ目を細める。
「それに、俺が倒れれば、調べられるものも調べられなくなる。誰かを守るためにも、自分を守る必要があると教えられました」
「そうですか」
マリアの表情が少し緩んだ。
「でしたら、もう一つ約束してください」
「何を?」
「必ず帰ってくると」
彼女は、俺たちが古の塔へ帰っていることなど知らない。
それでも、その言葉は妙に胸へ残った。
「約束します」
隣から、セリーの小さな声が飛ぶ。
「エルさん、記録を」
『記録しました』
「町の中で話すな」
反射的に返すと、マリアが不思議そうに首を傾げた。
「今、誰かいましたか?」
「独り言です」
「アル兄ちゃん、時々その腕輪に話しかけてるよね」
ミロが鋭い。
「気のせいだ」
「腕輪が喋るの?」
「喋らない」
『私は検索の腕輪です』
「今は黙っていろと言っただろう!」
思わず声を上げると、セリーが堪えきれず笑い出した。
事情の分からないマリアもつられて笑い、ミロは「やっぱり喋るじゃん!」と嬉しそうに俺の腕輪を覗き込んでいた。
◇◇◇
ミロの家を出たあと、俺たちは大通りへ直接戻らず、住宅地の細い道を選んだ。
「かなり重要な情報が増えましたね」
セリーが声を落として言う。
「ああ。少なくとも、ヘルムートはマリアへ補償を受け取るよう話していた。役場の男が来たあと、説明を途中で止めて帰った可能性もある」
「そして、その役場の男が金貨一枚を渡した」
「背が高く、痩せた男。ただし名前はまだ分からない」
セリーが少し考えるように眉を寄せる。
「銀樽亭へ行けば、ヘルムートさんと役場の人が揉めた時の話が聞けるかもしれません」
「今すぐは行かない」
「昼は開いていないからですか?」
「それもあるが、ヘルムートの話を聞いた直後に酒場へ向かえば、俺たちが積極的に調べていると分かりやすい」
「では、普通に買い物をします?」
「ああ」
「肉串ですね」
「なぜその話になると嬉しそうなんだ」
「普通の旅人として自然に過ごすためです」
「便利な理由を見つけたな」
角を曲がったところで、セリーの歩みがほんの僅かに遅くなった。
「アル」
今度の声には、さっきとは違う緊張があった。
「先ほどの青い布の男がいます」
俺は振り返らず、視線だけを前へ置いた。
「どこだ?」
「前方左。木箱を運んでいる人たちの近くです」
視界の端で確認する。
確かにいた。
パン屋の前を通り過ぎていったはずの男だ。
今は荷運び人たちの近くに立ち、何か話をしているように見える。こちらを直接見てはいない。
偶然にしては、不自然だった。
「ミロの家へ入るところを見られたと思うか?」
「直接は分かりません。ただ、先回りしていた可能性はあります」
「このまま市場へ戻る」
「追わないのですね」
「ああ。相手の仲間がいるなら、こちらが追うことまで想定しているかもしれない」
俺たちは歩調を変えず市場へ戻った。
男も少しの間同じ方向へ進んだが、やがて別の路地へ曲がり、今度こそ姿が見えなくなる。
「エル。さっき記録した男と同一人物か?」
『顔貌、体格、服装が一致しています。同一人物である可能性は九十四パーセントです』
「ほぼ同じだな」
「それでも追わない」
「今はな」
セリーは俺の横顔を見たあと、少し笑った。
「以前の主様なら、追ったと思います」
「俺もそう思う」
「でも、今の判断も格好いいです」
「何でも褒めるな」
「本当にそう思っただけです」
その言葉に、張り詰めていた気持ちが少しだけ軽くなった。
◇◇◇
肉屋へ着くと、主人は大きな包丁を振り下ろし、厚い肉の塊を切り分けているところだった。
「おお、変な旅人!」
「正式に抗議します。今日からその呼び方は禁止です」
「町の人気者なんだからいいじゃねえか」
「本人が嫌がっています」
セリーが横から口を挟む。
「じゃあ、お嬢ちゃんは何て呼べばいい?」
「美少女旅人です」
「今初めて聞いたぞ」
「今決めました」
「どうしてお前だけ都合のいい呼び名なんだ」
主人が豪快に笑う。
「今日はミロのところへ行ったのか?」
「はい。昨日作った焼き菓子を持っていきました」
「兄ちゃんが作ったのか?」
「少しだけです」
「主にアルが作りました」
「どっちなんだよ」
主人は笑いながら包丁を置いた。
「形が変だっただろ?」
「なぜ知っているんです?」
「さっきミロが一つ持って走ってたぞ。『アル兄ちゃんが作った! すごい形!』って自慢してた」
「自慢する場所が違う!」
「美味かったとも言ってたぞ」
「なら、まあいいか」
少し安心すると、主人は意味ありげな顔で笑った。
「本当に弟みたいに可愛がってるな」
「弟ではありません」
「なら子供か?」
「何の話です?」
「お嬢ちゃんと夫婦になって、ミロを養子にしたらどうだ?」
「話を飛ばしすぎです!」
思わず声が大きくなり、近くにいた客たちまで笑い出した。
セリーはなぜか否定せず、むしろ嬉しそうにこちらを見ている。
「私は構いませんよ?」
「お前は少し黙っていろ」
「残念です」
「本当に残念そうな顔をするな」
主人はしばらく笑ったあと、焼きたての肉串を二本差し出した。
「ほら。今日はちゃんと金を取るからな」
「当然です」
「二本で銅貨六枚だ」
代金を払い、店先の邪魔にならない場所へ移動する。
肉からは香辛料と脂の香りが立ち、セリーは待ちきれないように一口齧った。
「美味しいです」
「目的を達成した顔だな」
「聞き込みのためです」
「まだ何も聞いていないだろう」
「自然な会話には食事が必要なのです」
「理屈だけは上手くなったな」
俺も一口食べる。
表面は香ばしく、中には肉汁が残っている。少し濃い味付けが、朝から歩き回った身体には心地よかった。
「ところで」
主人が肉を並べ直しながら、何気ない調子で口を開いた。
「役場の昔のことを聞いてるらしいな」
「もう聞いたのですか?」
「さっき客が話してた」
「この町、本当に噂が早いですね」
「秘密にしたいなら誰にも聞くな」
「何も言っていなくても、聞いたこと自体が広がるんですか」
「そういう町だ」
主人は笑ったあと、声を少し落とした。
「ヘルムートのことだろ?」
「知っていますか?」
「少しはな」
濡れた布で手を拭いながら、主人は遠くを見るような顔をした。
「あいつは愛想が悪くて、酒も弱くて、話も長かった」
「褒めていませんね」
「でも、困ってる奴を見捨てるような男じゃなかった」
市場で聞いた話と一致する。
「最後に会ったのはいつです?」
「二年前だ」
「辞める前ですか?」
「いや。辞めたあとだ」
俺とセリーはほぼ同時に主人を見た。
「町を出たのでは?」
「出る直前に、ここへ来たんだ」
「何をしに?」
主人は周囲を見た。
近くの客が商品選びへ気を取られていることを確認し、さらに声を落とす。
「あいつ、俺に金を預けようとした」
「金?」
「金貨二枚だ」
肉串を持っていた手が止まった。
マリアへ届かなかった額と同じ。
だが、同じだからといって同じ金とは限らない。
「受け取ったのですか?」
「いや」
「なぜ?」
「説明もしないで『少し預かってくれ』としか言わなかったからだ。盗んだ金じゃないのかって聞いたら、違うと怒鳴った」
「金貨はどうなりました?」
「そのまま持って帰った」
「ほかに何か?」
「古い革袋と、紙の束を抱えてたな」
「内容は?」
「見てない」
セリーが静かに尋ねる。
「怪我はしていませんでしたか?」
主人は少し驚いた。
「右手に包帯を巻いてた」
「理由は?」
「聞いても答えなかった」
不正へ関わって傷ついたのか。
ただ転んだだけかもしれない。
ここでも決めつけない。
「町を出る時、どちらへ?」
「北門だ」
「その先には?」
「村がいくつかある。山道を越えれば、鉱山町グランツだ」
市場で聞いた噂の一つと一致した。
「グランツへ行くと言っていましたか?」
「行き先は言わなかった。ただ、俺の店へ来た翌朝に北門から出たのは、知り合いの御者が見てる」
ヘルムートは金貨二枚と紙の束を持ち、右手を負傷した状態で町を去った。
横領した金を持ち逃げしたようにも見える。
だが、不正の証拠と、誰かから取り戻した金を逃がそうとしていた可能性もある。
「この話を、ほかの誰かへしましたか?」
俺の問いに、主人の顔が曇った。
「一度だけ役場へ話した」
「誰に?」
「背の高い、痩せた男だ。グレゴルって名前の役人」
初めて名前が出た。
マリアへ金貨を渡した人物と同じ特徴だ。
「なぜ話したのです?」
「ヘルムートが金を持って消えたなら、役場へ言えば追うと思った。あの時は、あいつが金を盗んで逃げたんじゃないかと思ってたからな」
「今は?」
「分からん」
主人は重く息を吐いた。
「ただ、役場へ話した翌日、知らねえ男が何人か家へ来た。ヘルムートが何を話したか、紙を預けなかったか、しつこく聞かれた」
「領主府の者だと名乗りました?」
「何も名乗らなかった」
「脅されたのですか?」
「直接はな。ただ、それからしばらく家の周りをうろつく奴が増えた」
主人の顔へ、二年前の不安が戻ったように見えた。
「しばらくして何もなくなったが、俺は余計なことをしたと思ったよ」
「ヘルムートを危険に晒したと?」
「ああ」
もしグレゴル側が、ヘルムートの持っていた紙や金を探していたのなら。
その可能性はある。
だが、まだ誰が何のために動いていたのかは分からない。
「今、同じ話を俺たちへして大丈夫ですか?」
「もう二年も前だ」
「時間が経ったから安全とは限りません」
主人はじっと俺を見る。
「兄ちゃん、何者なんだ?」
いつか聞かれると思っていた。
「ただの旅人です」
「ただの旅人は、そんな心配までしねえ」
「以前、役所に似た仕事をしていました」
「役人か?」
「似たようなものです」
「町の不正を暴きに来たのか?」
「違います」
俺はゆっくり首を振った。
「知り合った家族が、本来受け取れるはずの支援を受け取っていなかった。その理由を確かめているだけです」
「それだけで、ここまで?」
「知ってしまいましたから」
主人の目が僅かに細くなる。
「ヘルムートも似たことを言ってたな」
「何を?」
「知らなければ、黙って働いていられた。知ってしまった以上、何も見なかったふりはできねえって」
胸の奥へ重く残る言葉だった。
「兄ちゃん」
「はい」
「危ないと思ったら手を引け」
主人の声は、先ほどまでよりずっと低かった。
「ヘルムートみたいに突然消えるな。ミロも、町の連中も心配する」
マリアにも同じことを言われた。
必ず帰ってこいと。
「約束します」
「本当だな?」
「はい」
「お嬢ちゃん、見張ってろよ」
「もちろんです」
セリーが胸を張った。
「主様が無理をしたら、私が塔へ連れて帰ります」
「セリ」
「あ」
主人の眉が上がる。
「塔?」
「旅の途中で使っている宿の名前です」
反射的に答えた。
「古い塔を改装した宿で」
「変な宿だな」
「変な旅人が泊まるには、ちょうど良いのです」
セリーが笑顔で乗る。
「自分で認めるのか?」
「今は誤魔化すためです」
主人は少し怪訝そうだったが、幸いそれ以上追及しなかった。
◇◇◇
肉屋を離れたあと、俺たちは人通りの多い広場へ向かった。
「グレゴル」
歩きながら小さく名前を口にする。
「役場の背が高くて痩せた男ですね」
「ああ。マリアへ金貨一枚を渡した人物と同じ可能性が高い。ヘルムートが金貨二枚と紙を持っていたことを知ったあと、正体不明の男たちを肉屋へ向かわせた可能性もある」
「でも、その金貨二枚がマリアさんのものとは限りません」
「その通りだ。紙の束も支援記録とは限らない」
今すぐグレゴルへ接触するのは危険だ。
こちらがどこまで知っているのか教えることになる。
「銀樽亭へ行けば、ヘルムートさんと役場の人が揉めた時の話を聞けるかもしれません」
「今日は行かない」
「夜まで時間がありますから?」
「それもあるが、今日は情報が増えすぎた。欲張ると判断を誤る」
広場中央の時計塔を見る。
まだ昼前だ。
夜まで町へ残れば、監視される時間も増える。
「今日は帰る」
セリーはすぐに頷いた。
「はい」
「塔へ戻って、グレゴルについて分かる範囲を整理する。バルド子爵の側近や領主府の役職一覧に名前があるかもしれない。それと、ヘルムートが持っていた金貨二枚と紙の束について、可能性を分けておく」
『塔内資料に現代の下級地方役人名簿が存在する可能性は低いです』
「分かっている。確認できる範囲だけでいい」
その時だった。
「アル」
セリーの声がわずかに硬くなる。
「また青い布の男です」
「どこだ?」
「時計塔の反対側」
今度は、店の硝子へ映す必要がなかった。
人混みの向こうで、青い布を巻いた男がこちらを見ている。
視線が一瞬だけ合った。
男はすぐに顔を逸らし、歩き始めた。
「追いますか?」
「追わない」
「今は完全にこちらを見ていました」
「ああ」
「それでも?」
「相手も、こちらに気づかれたと分かっている。ここで追えば、誘導される可能性がある」
「でも、逃がします」
「構わない。今は顔と行動を記録できればいい」
「エル」
『対象の顔貌、体格、歩行特徴、周囲の魔力反応を記録済みです』
「それで十分だ」
男は人混みへ消えた。
「俺たちがミロの家と肉屋へ行ったことは、知られたと考えた方がいいな」
「ミロ君たちが危険です」
「ああ。ただ、すぐ危害を加えるとは限らない。相手はまだ俺たちが何者か分かっていないはずだ」
「だからこそ様子を見る」
「その可能性が高い」
安心はできない。
だから、町へ来ることと、ミロたちを守ることの両方を考える必要がある。
「今日は塔へ戻る。そのあと、ミロの家と肉屋の周囲へ不自然な人間が近づいた時だけ分かる魔導具を探す」
「生活を覗くものではなく?」
「ああ。必要以上に監視したくない」
セリーは少し安心したように笑った。
「主様らしいです」
「全部を同時に完璧にはできない」
「はい」
「だから、できる範囲でやる」
俺たちは転移地点へ向かうため、あえて複雑な経路を選んだ。
◇◇◇
衣料品店へ入り、セリーが何枚もの布を見比べる。
次に道具屋へ寄り、塔で使えそうな蝋燭と筆記具を買った。
ただ帰るだけなら遠回りだ。
だが、尾行されているか確かめるにはちょうどいい。
「アル、この布はどうですか?」
衣料品店で、セリーが淡い青色の布を胸元へ当てた。
「何に使う?」
「新しいエプロンです」
「今のものがあるだろう」
「町用です」
「町では外套を着ているから見えないぞ」
「外套の下までお洒落であるべきです」
「誰にも見えない」
「アルが見ます」
近くに店員がいる。
強く言い返せず、俺は布を見た。
茶髪へ変装していても、淡い青は不思議と彼女によく似合っている。元の青い瞳を思い出させる色だった。
「似合う」
何気なく答えた。
セリーが一瞬、黙る。
「どうした?」
「主様が、普通に褒めてくださったので」
「事実を言っただけだ」
「もう一度お願いします」
「嫌だ」
「エルさん、今の発言は記録されていますか?」
『発言記録は保持されています』
「消せ」
『削除指示に対応する設定はありません』
「お前たちは本当に……」
結局、その布まで買うことになった。
セリーは紙袋を大切そうに抱え、嬉しそうに笑っている。
誰かに見張られているかもしれない。
それでも、その事実だけで町にいる時間すべてを恐怖へ変えたくはなかった。
◇◇◇
複雑な経路を通り、南西側の倉庫裏へ戻った。
エルに周囲を確認させても、不審な人影はない。
「帰ろう」
「はい」
転移扉を開き、古の塔へ戻る。
町の喧騒が一瞬で途切れ、静かな石壁と魔導灯の光が俺たちを迎えた。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、主様」
「今日も一緒に帰ってきただろう」
「決まりです」
「そうだったな」
扉が閉じる。
その瞬間、身体から少しだけ力が抜けた。
自分が思っていた以上に、町でずっと緊張していたらしい。
「主様」
「何だ?」
「休みましょう」
「その前に、今日の情報を整理したい」
「約束があります」
「倒れるほど疲れてはいない」
「倒れる前に休む約束です」
返す言葉がなかった。
「茶を飲む時間だけだ」
「十分です」
「そのあと書斎へ行く」
「はい」
セリーは満足そうに頷いた。
◇◇◇
温かな茶を飲み、少しだけ身体を休めたあと、俺たちは書斎へ移動した。
机へ新しい紙を広げ、今日得た情報を書き出す。
ヘルムートは、支援対象者へ自ら制度を説明していた。
ロイドが亡くなったあと、マリアの家へも訪れている。
説明の途中で、背の高い痩せた役場職員が現れ、ヘルムートは怒った様子で帰った。
その役場職員は、後にマリアへ金貨一枚を渡した人物と同じ可能性が高い。
名はグレゴル。
ヘルムートは町を出る直前、肉屋の主人へ金貨二枚と紙の束を預けようとしている。右手には包帯。
肉屋がグレゴルへその件を話した翌日、身元不明の男たちがヘルムートの発言や紙の所在を確認しに来た。
今日、俺たちは青い布を巻いた男から複数回監視された。
「エル。青い布の男と、昨日銀樽亭で俺たちについて話していた者を比較できるか?」
『昨日の銀樽亭内部を塔側で観測していないため、比較できません』
「そうか」
「でも、今日の監視者が存在したことは確定ですね」
セリーが机の横から紙を覗き込む。
「ああ。ただし、グレゴルの手下と決めない。領主府、役場、別の誰か。候補はいくつか残す」
「次はどうしますか?」
北門。
グランツ。
銀樽亭。
グレゴル。
金貨二枚。
紙の束。
選択肢は増えた。
「まず、ミロの家と肉屋周辺へ不自然な者が近づいた時だけ分かる方法を探す」
「見張り用の魔導具ですね」
「ただし、生活を覗きたくはない。映像や会話まで取るものは避けたい」
『候補を検索します』
腕輪が淡く光った。
『小型観測魔導具を二点確認しました。一つ目は《見守り鳥》。小鳥型で指定場所の映像・音声を塔へ送信可能。二つ目は《窓辺の目》。小型硝子球で、周囲の人の出入りと魔力変化のみを記録します』
「目立ちにくいのは?」
『《窓辺の目》です』
「それを使う」
「マリアさんへ説明しますか?」
「ああ。勝手には置かない。危険な者が近づいた時に知らせる護符だと説明する」
「詳しい性能は?」
「必要以上には話さない。でも、嘘はつかない」
セリーが頷いた。
「それからグレゴルですね」
「正面からは行かない。役場へもう一度入れば、警戒される」
「イリスの片眼鏡を使える機会があれば?」
「使う。ただし無理には作らない」
俺は北部の地図を広げた。
「ヘルムートが北門から出たなら、途中の村や宿で目撃されている可能性がある。二年前だから記憶が残っている保証はないが、右手を負傷した男が紙の束を抱えて一人で移動していれば、覚えている者もいるかもしれない」
「グランツまで行きますか?」
「すぐには行かない」
古の塔への再探索も気になる。
リュネだけに集中すれば塔を危険へ晒す。
塔だけ守れば、町の人々へ手を伸ばせない。
「準備してからだ」
「はい」
俺は最後に、青い布の男について新しい項目を作った。
「末端の見張りなら、今捕まえても上が隠れるだけだ」
「では、見られていることを利用する?」
「ああ」
セリーが興味深そうに目を輝かせる。
「俺たちは、支援制度に首を突っ込んでいるだけの少し変わった旅人だと思わせる。ヘルムートを本格的に追っていることは見せない」
「では次に町へ行く時は、普通の買い物を増やしますか?」
「そうだな」
「肉串も」
「お前は結局そこへ戻るんだな」
「普通の旅人らしさは大切です」
セリーは満面の笑みで、今日買った淡い青の布を抱き上げた。
「次は新しいエプロンを作ってから行きます」
「町で着るのか?」
「アルへ見せるためです」
「普通の旅人から遠ざかっているぞ」
「では塔で見せます」
「好きにしろ」
俺が答えると、セリーは満足そうに笑った。
◇◇◇
同じ日の夕方。
リュネの町役場では、窓口業務を終えた役人たちが、積み上がった書類を棚へ戻し始めていた。
一階に残っていた住民たちの声も少しずつ消え、二階の奥にある小さな執務室だけには、まだ灯りが残っている。
その部屋で、一人の男が椅子へ深く腰掛けていた。
背が高く、頬は痩せ、細い指が机の縁を一定の間隔で叩いている。
グレゴル。
現在、町役場で支援関係の実務を取りまとめる責任者の一人であり、三年前にはマリアへ補償金を直接渡した男だった。
机の前には、首へ青い布を巻いた男が立っている。
「間違いないのか?」
グレゴルの声は低かった。
「はい。旅人たちは野菜売りの女と肉屋へ接触しています。ヘルムートの名前も出ていました」
「向こうから名前を出したのか?」
「最初は、住民側から話題へ出たようです。ただ、肉屋ではかなり詳しく聞いていたと思われます」
グレゴルの指先が止まった。
「肉屋は何を話した?」
「店の近くに客が多く、十分には聞き取れませんでした」
「役に立たんな」
「申し訳ありません」
青い布の男は感情を見せず頭を下げた。
「ただ、旅人の男はこちらの尾行へ気づきました」
グレゴルが顔を上げる。
「いつだ?」
「二度目です。広場で視線が合いました」
「追ってきたか?」
「いいえ。何もせず、そのまま買い物を続けています」
グレゴルの眉間へ皺が寄った。
「普通の旅人なら、見張られていると分かった時点で役場へ駆け込むか、町から逃げる」
「はい」
「王都の調査員なら、見張りを捕まえて吐かせる可能性が高い。それをしない」
「はい」
「何者だ」
「まだ分かりません」
「宿は?」
「特定できていません」
「三日以上町へ出入りしているのに?」
「宿屋はすべて確認しましたが、アルとセリに一致する二人組は泊まっていません」
グレゴルの表情から苛立ちが薄れ、代わりに警戒が強くなる。
「門の記録は?」
「ありません。彼らに似た旅人が出入りした記録は、東西南北どの門にも残っていません」
「馬車は?」
「使っていません」
「では、どこから来ている」
青い布の男は答えなかった。
答えられないのだ。
グレゴルは椅子へ背を預け、天井を睨むように息を吐いた。
「転移魔術か」
「可能性があります」
「一般人が使えるものではない」
「貴族が所有する高級魔導具、あるいは王都の魔導師であれば」
「新王太子の調査員か?」
「否定はできません」
その言葉が出た瞬間、グレゴルの顔から僅かに血の気が引いた。
「レオンハルト殿下は、地方行政の見直しを進めると布告している」
「はい」
「もし、あの旅人が王都から送られた者なら」
グレゴルは最後まで言わなかった。
机の引き出しを開き、封蝋された小さな書簡を取り出す。
「領主府へ報告する」
「旅人を捕らえますか?」
「まだだ」
即答だった。
「下手に手を出せば、本当に王都の人間だった場合に終わる。身分を確認するまで、絶対に傷つけるな」
「では、監視を続けます」
「同じ顔で追うな。今日でもう向こうへ覚えられた」
「承知しました」
「それから、ミロの家と肉屋も見る」
青い布の男の目が僅かに動いた。
「圧力を?」
「違う」
グレゴルは険しい顔で男を睨んだ。
「今、あの家に何かあれば、旅人は真っ先に俺たちを疑う。何もするな。ただ、誰が出入りするかだけ確認しろ」
「分かりました」
「銀樽亭にも話を回せ。ヘルムートについて余計なことを喋る奴がいないか見ておけ」
「店主は?」
「金を握らせれば黙る」
「断った場合は?」
短い沈黙が落ちた。
グレゴルは指先で封蝋をなぞりながら、低く答える。
「その時は、領主府の判断を仰ぐ」
男が頭を下げ、部屋を出ていった。
一人になったグレゴルは、しばらく動かなかった。
机の引き出しには、古い帳簿が一冊入っている。
二年前、処分するよう命じられたはずの帳簿だった。
グレゴルはゆっくり引き出しを開き、その黒ずんだ表紙を見つめる。
「今さら、何を掘り返しに来た……」
声は、誰にも届かなかった。
帳簿の端には、かすれた文字で一つの名前が残っている。
ヘルムート。
その下には、六件分の補償金額と、実際に支払われた額らしい数字が並んでいた。
グレゴルはしばらくその頁から目を離せなかった。
やがて、何かを恐れるように帳簿を閉じると、再び引き出しの奥へ押し込んだ。
◇◇◇
同じ頃、古の塔の書斎で、俺は《窓辺の目》を手に取っていた。
親指の先ほどしかない透明な硝子玉で、内部には細い銀色の線が何重にも刻まれている。
「本当に、これだけで人の出入りが分かるのか?」
『設置地点周囲の魔力変化と、生体反応の出入りのみを記録します。映像、音声、会話内容は取得しません』
「それならいい」
必要な警戒はする。
だが、守りたいという理由で相手の生活すべてを覗くようなことはしたくない。
「次にリュネへ行った時、マリアへ説明して設置する」
「肉屋のおじさんにもですね」
「ああ」
机の上には、今日新しく増えた情報が並んでいる。
グレゴル。
ヘルムートが持っていた金貨二枚。
紙の束。
北門。
グランツ。
そして、俺たちを監視する男。
知れば知るほど、次に知りたいことが増えていく。
以前の俺なら、全部を一度に追ったかもしれない。
だが、今は違う。
「今日はここまでだ」
自分から紙を閉じると、隣のセリーが驚いた顔をした。
「本当に?」
「何だ、その反応は」
「主様が、自分から調査を止めました」
「約束しただろう」
「成長しています」
「だから子供扱いするな」
セリーは楽しそうに笑い、今日買った淡い青の布を広げた。
「では、エプロンを作る時間にしましょう」
「俺は休むと言っただけで、裁縫をするとは言っていない」
「見ているだけで構いません」
「それならいい」
「時々、布を押さえてください」
「結局手伝うのか」
「共同作業です」
呆れながら椅子を離れる。
その時、エルが静かに告げた。
『主様』
「何だ?」
『塔外周結界に異常はありません』
一瞬だけ胸へ入った力が抜けた。
「そうか」
『ただし、昨日記録した探索術式と同系統の魔力反応を、北方遠距離で一度だけ確認しました』
足が止まった。
セリーも布を持つ手を止める。
「塔へ接触したのか?」
『いいえ。距離が遠く、方向のみ確認可能です。塔を再探索しているとは断定できません』
また一つ、分からないものが増えた。
けれど、俺はすぐに王都やリュネと結びつけなかった。
「記録だけしておいてくれ」
『承知しました』
「今日はもう追わない」
セリーが、穏やかな顔で俺を見る。
「はい」
外では夕暮れが近づき、森の木々が少しずつ長い影を落とし始めていた。
リュネでは、俺たちを監視する者が動き始めている。
古の塔を探す者も、まだ完全に諦めたとは限らない。
ヘルムートがどこへ消えたのかも、グレゴルが何を知っているのかも分からない。
分からないことは、以前なら不安だった。
だから、早く答えを欲しがった。
今は少し違う。
分からないなら、分からないまま置いておけばいい。
必要なものだけ、一つずつ確かめていく。
見られているなら、こちらが何を見せるかも選べる。
追われているなら、追われているからこそ急がない。
王太子だった頃には持てなかった時間を使いながら、俺は少しずつ、自分のやり方で真実へ近づこうとしていた。




