↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/145

第12話 元王太子、誰かを見守る目ほど置き場所を選ぶ

翌朝、古の塔の収蔵室には、薄い青白さを帯びた光が静かに広がっていた。


 夜の冷気をまだ残している石壁の間で、天井近くに並ぶ魔導灯が俺たちの足音へ反応し、進む先を追うように一つずつ明かりを灯していく。長い年月を閉じ込めた乾いた紙と金属、それから古い魔力の残滓が混ざった独特の匂いは、何度ここへ足を運んでも完全には慣れなかった。


 収蔵室には、これまでにも何度か入っている。


 転移扉や変貌の仮面、《イリスの片眼鏡》など、二千年前の常識では扱われていたらしい魔導具の中から、現代では失われてしまった技術を一つずつ確認してきた。それでも、塔全体から見れば、俺が知っているものなどほんの一部にすぎない。


 今日は観測系魔導具の区画ではなく、そのさらに奥にある「生活補助・警戒補助」と記された棚へ向かっていた。


「《窓辺の目》はこちらです」


 先を歩いていたセリーが、通路の途中で足を止めて振り返る。


 今日は町へ出る前なので、銀色の髪と青い瞳をした本来の姿だった。いつもの白と紺を基調としたメイド服を着ているが、左腕には小さな籠を抱えている。


「その籠は何だ?」


「休憩用です」


「何を休憩するんだ?」


「主様の調査を、です」


 セリーは当然のように答え、籠の中を俺へ見せた。


 昨日、リュネの衣料品店で買った淡い青色の布が、途中まで縫われた状態で入っている。新しいエプロンを作ると言っていたものだ。


「収蔵室まで持ってくる必要があるのか?」


「あります」


「どうしてだ」


「主様は調査へ集中すると、自分から休憩を取らない可能性があります。ですから時間になったら、私が布を広げて裁縫を始めます」


「布を見せれば俺が調査をやめると思っているのか?」


「はい」


 即答だった。


「随分と自信があるな」


「主様は、私が楽しみにしているものを無視できませんから」


「それは信用なのか?」


「信頼です」


「都合のいい時だけ言葉を綺麗にするな」


 俺が呆れると、セリーは楽しそうに笑った。


 だが、彼女がここまで休憩を意識している理由は分かっている。


 昨日、塔の結界を偽装するために魔力を使いすぎたセリーへ、俺は無理をするなと言った。逆に俺自身も、食事や睡眠を後回しにしないこと、自分一人で全てを背負おうとしないことを約束させられた。


 約束した以上、俺だけ都合よく破るわけにはいかない。


「分かった。休憩になったら言え」


「素直ですね」


「約束したからな」


「ますます素晴らしいです」


「だから子供扱いするな」


 軽口を交わしながら、俺たちは目的の棚へ近づいた。


 目の高さほどの位置に、小さな硝子箱が埋め込まれている。中には小指の先ほどの透明な球体が十二個並べられ、それぞれの内部で銀色の細い線が渦を巻いていた。


「これが《窓辺の目》か」


『正式名称は、低出力環境観測球第三式《窓辺の目》です』


 右手首からエルの声が響く。


『指定範囲内における人または大型生物の出入り、魔力変化、強い衝撃、火災、毒性物質の発生などを記録します』


「映像や音声は?」


『取得しません』


「本当に、それだけなのか?」


『はい。居住空間への設置を前提としているため、私生活に関する情報取得には制限が設けられています』


 俺は少し驚いた。


「二千年前にも、そういう考え方があったんだな」


『セリーヌ様は生活空間の監視を強く制限していました』


「意外ですね」


 隣でセリーが真顔になった。


「セリーヌ様なら、研究助手が食事をしたか、何時間眠ったか確認するために、部屋中へ観測魔導具を設置しそうです」


『実際に提案した記録があります』


「やはり意外ではありませんでした」


「お前はセリーヌをどういう人間だと思っているんだ?」


「天才で、とても素晴らしくて、少し困った方です」


 迷いのない答えだった。


『研究助手から強い反対を受けた結果、映像および音声取得機能を除外した生活警戒用魔導具が開発されています』


「反対された結果、こっちができたのか」


「人に怒られて技術を改善する天才だったのですね」


「褒めているのか?」


「もちろんです」


 セリーは胸を張る。


 俺は硝子箱へ視線を戻した。


 マリアとミロが住む小さな家の周囲を守りたい。


 昨日、俺たちは青い布を巻いた男から明らかに監視されていた。ミロの家へ出入りしたことまで知られている可能性は高い。


 だからといって、二人を守るという理由だけで、その生活をこちらから覗き続けていいとは思わなかった。


「設置するなら、家の中ではなく外だな」


「窓枠や扉の近くでは?」


「近すぎる」


「接近者を確実に記録できますよ」


「同時に、家の中でマリアやミロが動くたび反応する可能性がある」


『壁一枚程度であれば、内部の人間も検出対象となります』


「なら、やはり外だ」


 俺は目を閉じ、ミロの家の周囲を思い浮かべた。


 扉の前には薪が積まれている。


 右側には小さな窓。


 家の左側は、近所の家との間に細い通路がある。


 裏手には低い木が一本あり、その向こうには子供たちが遊ぶこともある空き地が広がっていた。


「裏の木へ置く」


「家から少し離れますね」


「二十メートルほどだ。それでも、正面から近づく者も裏から回る者も範囲に入るはずだ」


「肉屋さんには?」


「今日は置かない」


 肉屋は日中の人通りが多すぎる。


 客、商人、荷運び人、近所の住民。そこへ《窓辺の目》を置いたところで、誰が不審者なのか判別しづらい。


「まず一つだけ使う」


 俺が言うと、セリーが少し目を丸くした。


「十二個全部持っていかないのですね」


「どうして俺が全部持っていくと思ったんだ?」


「主様ですから」


「説明になっていないぞ」


「守りたい人が増えたとおっしゃっていましたので」


「だからこそだ」


 俺は硝子箱の中へ並ぶ十二個の球体を見た。


「町中に置き始めたら、どこまでが見守りで、どこからが監視なのか分からなくなる。守りたいという気持ちだけで、相手の生活へ踏み込んでいいわけじゃない」


 セリーの表情から冗談めいた色が消える。


「……はい」


「必要な場所に、必要な分だけだ。それに、マリアへ先に説明する。嫌だと言われたら置かない」


「守るためでも?」


「守るためでもだ」


 王太子だった頃、俺は「相手のため」という言葉を都合よく使っていたのかもしれない。


 国のため。


 王家のため。


 アンナマリーのため。


 そう言いながら、相手自身が何を望んでいるのか確かめず、自分の判断を押しつけた。


 同じことをしたくない。


「主様」


「何だ?」


「昔より優しくなったというより、優しさの使い方を覚えてきたのかもしれませんね」


「昔の俺を知らないだろう」


「塔へ来た日の主様は知っています」


 セリーは柔らかく笑った。


「あの頃より、誰かへ手を伸ばす時に、その人がどう感じるのか考えるようになりました」


「それは褒めすぎだ」


「本当に思っています」


 真っ直ぐ言われると、どう返せばいいのか分からなくなる。


「……一つ取り出すぞ」


「照れましたね」


「取り出すぞ」


「はい」


 話を強引に戻すと、セリーの口元がさらに緩んだ。


 硝子箱へ触れる。


 薄い光が表面を走り、所有者認証を終えると、蓋が音もなく開いた。


 俺は《窓辺の目》を一つ取り出した。


 見た目より少し重い。


 冷たい球体を掌へ載せると、内部の銀線が僅かに揺れた。


「起動方法は?」


『設置場所へ接触させ、所有者の魔力を流します。その後、観測範囲と条件を設定してください』


「塔までどうやって情報を送る?」


『地脈を利用した低出力通信です。転移扉の登録範囲内であれば接続できます』


「リュネは?」


『接続可能です』


「誰かに見つかった場合は?」


『所有者以外から強い接触を受けると、魔力反応を停止し、普通の硝子玉へ偽装します。破壊された場合、内部記録は自動消去されます』


「遠隔停止は?」


『可能です』


 十分だ。


「今日設置するのですね?」


「ああ。ただし、昨日と同じ入り方はしない」


「昨日の男へ見つかるからですね」


「青い布の男だけとは限らない。あいつが監視に失敗したと報告すれば、別の人間へ交代する可能性がある」


「では、アルとセリではない姿で?」


「町へ入るまではな」


 俺は《窓辺の目》を専用の小袋へ収める。


「礼拝堂跡へ転移して、まず別人の姿で周辺を回る。そのあと人のいない場所でアルとセリへ戻る」


「完全な別人のままミロ君の家へ行くと、説明が大変ですものね」


「ああ」


「では親子にしましょう」


「何が?」


「最初の変装です」


 嫌な予感がした。


「主様がお父さんで、私が娘です」


「商人の親子なら不自然ではないか」


「そうでしょう?」


「その顔は何だ」


「家族ごっこです」


「ごっこではない。変装だ」


「分かっています」


 口ではそう言いながら、セリーは妙に嬉しそうだった。


          ◇◇◇


 収蔵室を出たあと、俺たちは書斎へ移動した。


 すぐに町へ向かわないのには理由がある。


 昨日、青い布の男へ監視されていることが分かり、さらにグレゴルという役場職員の名まで浮かび上がった。今後動く前に、塔に残っている資料から確認できることは確認しておきたかった。


 机の上には、ガイゼン王国南西部の貴族年鑑、地方領主府の構成資料、それから王城を追われる際に荷物へ混ざっていた王太子府の公開資料が並んでいる。


「エル。グレゴルについては?」


『町役場の下級職員個人に関する情報は、塔内資料から確認できませんでした』


「予想どおりだな」


『ただし、バルド子爵領の行政組織について、三年前の報告記録が存在します』


 机の上へ淡い光が浮かび、文字が並ぶ。


『当時の領主代官はベルナール・キース。財務管理官はオズワルド・レーム。町役場支援関連部署については、責任者氏名が空欄となっています』


「空欄?」


 俺は思わず身を乗り出した。


「役職そのものは存在しているのか?」


『はい』


「なのに責任者名だけない?」


『提出書類上では空欄です』


 通常なら差し戻される。


 誰が責任を負うのか分からない行政報告を、そのまま受理していいはずがない。


「理由の記載は?」


『組織再編中につき、責任者確定後に追って報告すると付記されています』


「追って報告された記録は?」


『塔内に残る王太子府資料では確認できません』


「三年間、そのままということか」


『少なくとも、現在確認可能な資料上ではそうなります』


 胸の奥へ重いものが落ちた。


 この報告書を、当時の俺が見ていた可能性もある。


「俺の閲覧記録は?」


『個人単位の閲覧履歴は保存されていません』


「つまり、見たかどうかすら分からない」


『はい』


「見ていて気づかなかった可能性もある」


『あります』


 遠慮のない答えだった。


 それでも、以前のようにすぐ「全部俺のせいだ」と結論づけることはしなかった。


「今は責任の話より、事実を分ける」


「はい」


 セリーもすぐに頷く。


「ベルナールとオズワルドは現在どうしている?」


『ベルナール・キースは、現在も領主代官として在職中です。オズワルド・レームは一年前、病気を理由に財務管理官を退任しています』


「生きているのか?」


『生存記録があります。現在は領都内の私邸に居住しているとされていますが、直近の公的活動は確認できません』


 財務管理官。


 遺族補償として申請された金貨三枚のうち、二枚が消えている。


 帳簿上では支払い済み。


 金を実際に動かすなら、財務部門を完全に通さず処理するのは難しい。


「グレゴル一人ではできないな」


「そうですね」


 セリーが資料を覗き込んだ。


「マリアさんへ一枚だけ渡すことはできても、商業組合へ三枚支払い済みという通知を出すには、別の人も必要です」


「ああ」


 俺は新しい紙を取り出した。


「役割を分けて考える」


 申請を受理する者。


 支払い額を確認する者。


 金庫から金を出す者。


 役場へ金を送る者。


 遺族へ実際に渡す者。


 支払い済みの通知を作る者。


 俺が順番に書き出していくと、セリーの表情も真剣になった。


「全部をグレゴルさん一人で行うのは難しいですね」


「不可能とは言わない。だが、かなり不自然だ」


「では、グレゴルさんも誰かに命じられた可能性があります」


「ああ」


 事情があるかもしれない。


 だが、それでマリアへ金貨一枚しか渡さなかった事実が消えるわけではない。


「被害があることと、やった側にも事情があるかもしれないことは分ける」


「はい」


「どちらかだけを見て、もう一方を消さない」


 セリーは静かに頷いた。


「やはり、確かめるしかありませんね」


「ああ」


          ◇◇◇


 一定時間調べたところで、セリーが何も言わず籠を机へ置いた。


 淡い青の布が広がる。


「何だ?」


「休憩です」


「まだ一時間くらいしか」


「一時間経ちました」


「正確だな」


「エルさんが教えてくださいました」


『六十二分経過しています』


「二人がかりか」


 諦めて椅子の背へ身体を預ける。


 セリーは満足そうに布を広げ、裁縫道具を取り出した。


 針と糸だけかと思ったが、机の上へ置かれたのは小さな銀色の板だった。


「それは?」


「裁縫補助具です」


「自分で縫うと言っていなかったか?」


「自分で縫います。これは線を引く道具です」


 布を銀板の上へ載せると、淡い光が走り、真っ直ぐな細い印が浮かび上がった。


「町で買った布に、二千年前の魔導具を使うのか」


「便利ですから」


「料理の時も同じようなことを言っていたな」


「道具を使うのも技術です」


「それは俺が言った言葉だ」


「良い言葉なので使いました」


 セリーは楽しそうに針を動かし始める。


 俺は茶を飲みながら、その手元を眺めた。


 薄い布へ針が通り、一本ずつ糸が重なっていく。


 町の不正。


 古の塔を探る探索魔術。


 王都で広がる俺に関する噂。


 考えることはいくらでもある。


 それでも今は、エプロンを縫うセリーを眺めている。


 以前なら、こんな時間を無駄だと思っていただろう。


「主様」


「何だ?」


「今、私を見ていましたね」


「お前が見ろと言ったんだろう」


「布ではなく、顔を見ていました」


「気のせいだ」


「エルさん」


『私には主様の視線方向を記録する機能があります』


「確認するな」


「つまり見ていたのですね」


「作業が進んでいるか確認していただけだ」


「私が可愛いからでは?」


「自分で言うな」


「否定は?」


「話を進めるな」


 顔が熱くなるのを誤魔化すため、少し冷めた茶を飲む。


 セリーはくすくす笑い、しばらくすると再び布へ視線を落とした。


「主様」


「今度は何だ?」


「この布、今日町へ持っていきません」


「まだ完成していないだろう」


「完成していてもです」


「なぜ?」


 針を動かす手が少しだけゆっくりになる。


「大切だからです」


「布が?」


「主様が似合うと言って、買ってくださった布です」


「俺は代金を出しただけだぞ」


「それでもです」


 セリーは小さく笑った。


「私にとっては、ただの布ではありません」


 その言葉に、胸の奥が静かに温かくなる。


 魔導人形。


 セリー自身は、自分をそう呼ぶ。


 だが、誰かから贈られたものへ意味を持たせ、思い出を重ね、失いたくないと思う。


 それをただの人工的な反応だとは、俺には思えなかった。


「完成を楽しみにしている」


 気づけば、自然に口へしていた。


 セリーの手が止まる。


「本当ですか?」


「ああ」


「では、今夜までに完成させます」


「急ぐな」


「楽しみにされているなら、急ぎたいです」


「無理をするなと言ったばかりだ」


「裁縫は休息です」


「何でも休息扱いするな」


 それでも、嬉しそうな彼女へ強く言う気にはなれなかった。


          ◇◇◇


 昼前。


 俺たちは変貌の仮面を使い、アルとセリとはまったく異なる姿へ変わった。


 鏡へ映る俺は、四十歳前後に見える商人風の男だ。髪は暗い栗色で、口元には短い髭がある。体格も元の俺より少し太く見え、町で見かけても王族だったアルフォンスへ結びつく者はいないだろう。


 セリーは二十歳前後に見える若い女性になった。


 髪色は俺と同じ栗色。


 服も、裕福すぎない行商人の娘を思わせるものへ変えている。


「主様」


「町ではその呼び方をするな」


「では、お父様」


「それでは貴族の娘みたいだ」


「お父さん」


「少し幼い」


「父ちゃん」


「極端だ」


 セリーは口元を押さえながら笑う。


「では、父さんで」


「ああ。それでいい」


「父さん」


「何だ?」


「少し照れます」


「お前が言い出したんだろう」


「主様と家族のふりをするのは初めてですから」


「旅商人の設定だ。深い意味はない」


「分かっています」


 そう答えたくせに、なぜか少しだけ残念そうな顔をした。


 転移扉の向こうに選んだのは、リュネ北東側に残された古い礼拝堂跡だった。


 以前使った南側の倉庫とは別の場所で、低い石壁と草木に囲まれており、表からはほとんど見えない。


『周囲に人影はありません』


「出るぞ」


「はい、父さん」


「今だけだぞ」


 扉を越える。


 町の北東側は、市場周辺よりずっと静かだった。


 小さな畑。


 作業小屋。


 乾燥させた薪や穀物を積んだ荷車。


 遠くから聞こえる市場の喧騒も、ここまで来ると薄くなっている。


「まず町の周りを少し回る」


「青い布の男を捜すのですか?」


「俺たちとは違う姿へ反応する者がいるか確認する」


 もし監視者が「アルとセリ」という外見だけを追っているなら、今の俺たちを見ても何も感じないはずだ。


 逆に、転移の魔力や行動そのものを監視されているなら、別の姿でも追われる可能性がある。


 俺たちは北門近くまで回った。


 石造りの門には衛兵が二人立ち、農民や行商人の出入りを確認している。大都市ほど厳密ではなく、顔馴染みの町民なら挨拶だけで通している者も多かった。


「二年前の記録は残っていますかね?」


 セリーが小声で尋ねる。


「旅券を使ったなら残るかもしれない。ただ、ヘルムートは町の住民だ。徒歩で出ただけなら名前まで記録されていない可能性が高い」


「門番が覚えているかもしれません」


「ああ」


「聞きます?」


「今日は聞かない」


 セリーが少しだけ驚いたようにこちらを見る。


「今の姿でヘルムートを尋ねれば、別の商人まで同じ人物を探していたと噂になる。アルとセリの調査と結びつけられる可能性がある」


「なるほど」


「今日は《窓辺の目》を置く。それだけでいい」


「また、止まるのですね」


「止まるべき時に止まるのも必要だろう」


「はい」


 町の東側を回り、人気のない納屋の裏へ入る。


 エルに周囲を確認させてから、変貌の仮面を操作した。


 四十代の商人とその娘の姿が消え、いつものアルとセリへ戻る。


「少し変な感じです」


 セリーが自分の茶髪へ触れた。


「何が?」


「さっきまで主様がお父さんでしたので」


「忘れろ」


「将来の練習になりました」


「何の将来だ」


「家族です」


「町へ入る前から妙なことを言うな」


 思わず声が強くなり、セリーが楽しそうに笑った。


          ◇◇◇


 住宅地へ近づくまで、昨日の青い布の男は現れなかった。


 ほかにも目立ってこちらを見る者はいない。


 ただ、それだけで安心するつもりはなかった。


 昨日、相手はこちらに顔を覚えられたことを理解している。まともな監視者なら、同じ人間を続けて送るとは考えにくい。


 ミロの家へ着いても、俺たちはすぐ正面へ回らなかった。


 裏手の空き地へ入り、低い木を確認する。


「ここですね」


「ああ」


 木の枝葉は思っていたより茂っている。


 幹の根元近くに少し裂けた部分があり、そこへ《窓辺の目》を置けば、注意して探さない限り気づかないだろう。


「先に設置します?」


「マリアへ話してからだ」


「やはり」


「当然だろう」


 正面へ回り、扉を叩いた。


 今日は少し間があってから、マリアが姿を見せた。


「アルさん、セリさん」


「こんにちは。具合はどうですか?」


「昨日より楽です」


 頬にまだ疲れはあるが、三日前と比べれば血色はかなり戻っている。


「ミロは?」


「近所の子供たちと薪を運びに行きました」


「怪我した膝で?」


「今日は運ぶだけと約束させました」


「信用できますか?」


「半分くらいは」


「戻ったら確認した方がよさそうですね」


 俺が真顔で答えると、マリアが笑った。


 家の中へ招かれ、俺は持ってきた小袋から《窓辺の目》を取り出した。


「今日は、相談があります」


「これは?」


「警戒用の魔導具です」


 透明な球体を掌へ載せる。


「家の近くへ人が来た時や、強い魔力が発生した時だけ記録できます。家の中を見ることも、会話を聞くこともできません」


 マリアの表情が強張った。


「誰かに、見張られているのですか?」


 やはり、すぐ気づいた。


「俺たちが、です」


「でも、それならどうしてうちへ?」


「昨日、俺たちがここへ来たことも知られた可能性があります」


 顔色が変わる。


「ミロは?」


「今すぐ危険だと断定できる状況ではありません」


 安心させるために「絶対大丈夫」とは言わない。


「俺たちの正体が分からないうちは、相手も不用意に動きにくいはずです。ただ、可能性がある以上、何も準備しないのも違うと思っています」


「それで、この魔導具を?」


「はい」


 俺は球体を少し持ち上げた。


「ただ、勝手には置きません」


「え?」


「ここはあなたとミロの家です。守るためでも、俺が勝手に見張り道具を置くべきではない」


 マリアは透明な球体と俺の顔を交互に見た。


「本当に、家の中は見えないのですか?」


「はい」


「話も聞こえない?」


「聞こえません」


「分かるのは?」


「家の近くへ人が来たこと。不自然に強い魔力、火事、破壊のような異常があった場合だけです」


「私が出入りすることは?」


「除外できます」


「ミロも?」


「できます」


 マリアはしばらく黙った。


 窓の外では、近所の子供たちの声が遠く響いている。


「……お願いします」


「いいのですか?」


「少し怖いです」


 正直な答えだった。


「でも、自分たちが知らないところで誰かに見られているかもしれない方が、もっと怖いです」


 その言葉を聞き、俺はすぐに頷かなかった。


「分かりました」


 少し間を置いてから答える。


「ただし、異常がなくても数日ごとに、どんな記録が残ったか説明します」


「そこまでしなくても」


「あなたが、俺たちが何を見ているのか確認できた方がいい」


 マリアが目を瞬かせる。


「守る側だけが『必要だから』と言っても、置かれる側は不安でしょう」


「アルさんは、本当に変わった方ですね」


「町でも言われています」


「変な旅人ですね」


 セリーが嬉しそうに補足した。


「お前が広めるな」


 マリアがくすりと笑った。


 緊張していた空気が少しだけ和らぐ。


          ◇◇◇


 家の裏へ回り、低い木の幹へ《窓辺の目》を設置する。


 裂けた部分へ球体を押し当て、少量の魔力を流すと、透明だった内部へ銀色の線が集まり、小さな目のような形を作った。


『観測範囲を指定してください』


「この木を中心に半径二十メートル。人の接近、強い魔力反応、火災、破壊に相当する強い衝撃だけを記録」


『設定しました』


「建物内部の通常移動は除外」


『設定します』


「マリア、ミロ、俺、セリーは除外対象へ」


『登録しました』


「近所の住民については?」


『同一人物が一定回数以上、危険行動なく接近した場合、日常移動として分類できます』


「最初の数日は記録が多くなるか」


『はい』


「それでいい」


 球体の内部から銀色の光が消えた。


 ただの透明な硝子玉へしか見えない。


「これなら、近くで探さないと分かりませんね」


 セリーが覗き込む。


「見つかった場合も偽装するらしい」


「便利です」


「便利だからこそ、使いすぎないようにする」


「はい」


 家の正面へ戻った時、通りの向こうから元気な声が響いた。


「アル兄ちゃん!」


 ミロだった。


 近所の子供二人と一緒に、腕へ薪を抱えて走ってくる。


「走るな!」


 俺が声を張ると、ミロが慌てて速度を落とした。


「膝は?」


「もう痛くないよ!」


「見せろ」


「大丈夫だって」


「その言葉は信用できない」


 薪を家の前へ置かせ、その場へしゃがむ。


 膝の擦り傷はほとんど乾いており、腫れもない。


「……本当に治っているな」


「だから言ったのに」


「治っていることと、薪を持って走っていいことは別だ」


「早く運びたかったんだよ」


「なぜ?」


 ミロが家を見る。


「母さんが寒くならないように」


 叱ろうとしていた言葉が少し弱くなった。


「気持ちは分かる」


「うん」


「でも、お前がまた怪我をしたら、今度は母親がお前を心配して休めなくなる」


「……うん」


「歩いて運べ」


「はい」


 素直に頷いた。


 そのあと、ミロは俺たちがいた裏手へ興味を向けた。


「何してたの?」


「護符を置いた」


「魔物除け?」


「悪い人除けだ」


「悪い魔導師?」


「どうしてそこへ戻るんだ」


「昨日の続き」


 セリーが横で笑う。


「近いかもしれませんね」


「お前が話を大きくするな」


「アル兄ちゃん、戦う?」


「できれば戦わない」


「でも戦う時は見せて」


「見せない」


「遠くから見る」


「駄目だ」


「窓から」


「もっと駄目だ」


 ミロが不満そうに頬を膨らませた。


「主様は、子供に格好いいところを見せたくないのですね」


「当たり前だ。今はアルだ」


「格好いいところを見てほしい気持ちは?」


「ない」


「本当に?」


「ない」


『回答まで一秒未満です』


「エルまで参加するな」


 ミロが俺の腕輪へ食いつくように顔を近づけた。


「今、喋った?」


「気のせいだ」


「絶対喋った!」


「風だ」


「腕輪から風の声がした!」


「珍しい風だ」


「主様、さすがに無理があります」


「お前は味方じゃないのか?」


 セリーが楽しそうに笑い、ミロも「やっぱり喋る!」と騒ぐ。


 近所の家から何事かと顔を出す者まで現れ、俺が必死に腕輪の存在を誤魔化している間に、妙に穏やかな時間が流れていった。


 見張られている可能性がある。


 不正の調査も続いている。


 それでも、この町で笑う時間まで奪わせたくないと思った。


          ◇◇◇


 その日の昼過ぎ。


 リュネの町役場では、窓口の混雑がようやく落ち着き始めていた。


 二階の奥。


 人目につきにくい小さな執務室で、グレゴルは一冊の古びた帳簿を開いていた。


 窓の外から聞こえる市場の喧騒は遠い。


 机の横には小さな火鉢が置かれ、その中では炭が赤く燻っている。


 グレゴルの指は、ある一つの欄の上で止まっていた。


 三年前。


 護衛任務中に死亡した者への遺族補償。


 申請額と、処理済みを示す印。


 その下には、当時の担当者たちが記した複数の署名が残っている。


 グレゴルは長い間それを見つめた。


 何度見ても、過去が書き換わるわけではない。


 自分が関わったことも。


 ヘルムートと何度も言い争ったことも。


 ある夜を境に、彼が姿を消したことも。


「……今さら」


 掠れた声が部屋へ落ちる。


 最近町へ現れた旅人。


 アル。


 支援制度を知りすぎている。


 役場で怒鳴らず、冊子と規則を確認した。


 商業組合では三年前の申請番号を使って帳簿を開かせた。


 普通の旅人であるはずがない。


 だが。


 もし王都から来た人間なのだとしたら。


 今になって、何を調べるつもりなのか。


 グレゴルの目が、火鉢へ向いた。


 帳簿一冊を燃やせば。


 少なくとも、ここにある記録は消える。


 だが、本当にそれで終わるのか。


 商業組合にも記録はある。


 役場以外のどこかにも、写しが残っているかもしれない。


 そして何より。


 消せば、二年前と同じことになる。


 扉が叩かれた。


 グレゴルの肩が僅かに跳ねる。


「誰だ」


「領主府からです」


 低い声だった。


 グレゴルは帳簿を閉じ、机の引き出しへ入れた。


「入れ」


 扉が開き、黒い外套を着た男が一人入ってくる。


 胸元にも、腕にも、所属を示す徽章はない。


「旅人の件を聞いた」


「現在、素性を調べています」


「遅い」


 男は部屋の奥へ入ると、椅子にも座らずグレゴルを見下ろした。


「門の記録にも、宿の名簿にもないそうだな」


「はい」


「転移魔術か?」


「可能性があります」


 黒衣の男の顔が僅かに歪む。


「領主府では、王都から送られた人間ではないかと疑っている」


「新王太子殿下の?」


「まだ分からない」


 男の視線が机へ落ちた。


「古い記録は?」


「整理しています」


「処分しろ」


 グレゴルの指が強く握られた。


「すべてですか?」


「支援関係で古いものは、残す必要がない」


「保存期間は」


「お前が気にすることではない」


 冷たい言葉だった。


 グレゴルは何も答えない。


 黒衣の男は、そんな彼の沈黙をしばらく見た。


「何を迷っている?」


「……別に」


「今さら自分だけ綺麗になれると思うな」


 胸の奥を抉るような言葉だった。


「お前も関わった。それは変わらない」


「分かっています」


「なら、余計なことを考えるな」


 黒衣の男は扉へ向かう。


「今夜、領主府側でも古い保管記録を整理する」


 グレゴルが顔を上げる。


「そこまで?」


「旅人が王都の調査員なら、古いものを残す理由はない」


「もし、正式な監査だった場合」


「証拠がなければ、何も証明できない」


 扉へ手をかけた男が、最後に振り返った。


「それと。旅人へ手を出すな」


「分かっています」


「身分が判明するまではだ」


 扉が閉じた。


 静けさが戻る。


 グレゴルはしばらく動かなかった。


 やがて、ゆっくり机の引き出しへ手を伸ばした。


 だが、帳簿を取り出すことはしない。


 燃やすこともできなかった。


 ただ、引き出しの取っ手へ手を置いたまま、長い間うつむいていた。


          ◇◇◇


 古の塔へ戻った俺たちは、遅めの昼食を取っていた。


 《窓辺の目》は正常に動作している。


 設置したばかりのため、近所の住民や子供たちの出入りを「日常」として学習している最中だ。


「異常は?」


『ありません』


「そうか」


 俺はスープを一口飲む。


 少しして、また腕輪へ意識を向けかけたところで、セリーの視線に気づいた。


「何だ?」


「もう確認しようとしていましたね」


「していない」


「顔に出ています」


「気になるのは仕方ないだろう」


「はい。でも、異常があればエルさんが知らせてくださいます」


「ああ」


「ずっと見続けるのは、見守るとは違います」


 朝、自分で言った言葉を返された。


「分かっている」


 少しだけ苦笑する。


「エル。異常が出るまで報告しなくていい」


『設定済みです』


「なら、もう聞かない」


「偉いです」


「褒めるな」


 昼食を続けながら、俺は次の調査について話した。


「北門から先を調べる必要がある」


「ヘルムートさんの足取りですね」


「ああ。ただし、町の門番へ直接聞くのはまだ避けたい」


「なら、北の宿場?」


「そのつもりだ」


 地図では、リュネから鉱山町グランツへ向かう北街道の途中に、三つの村と小さな宿場が一つある。


「怪我をした人間が徒歩で北へ向かったなら、宿場へ立ち寄っている可能性がある」


「二年前でも覚えているでしょうか?」


「分からない。だが、右手へ包帯を巻き、紙の束と革袋を持った男なら、何か印象へ残っているかもしれない」


「明日行きますか?」


「いや」


 すぐに首を振った。


「一日準備する」


 セリーが嬉しそうに微笑む。


「慎重ですね」


「塔の結界も気になる。昨日の探索術式が再び来る可能性がある。遠くへ出る前に、異常が起きた時どう戻るか決めておきたい」


「はい」


「それに、北の宿場へ突然現れれば目立つ。転移地点も探さなければならない」


「では明日は塔ですか?」


「ああ」


「エプロンも完成させます」


「まだ終わっていないのか?」


「主様が町へ行こうとしたので、途中になりました」


「俺のせいなのか?」


「半分ほどは」


「残りは?」


「愛です」


「意味が分からない」


 いつもの答えに、思わず笑った。


          ◇◇◇


 同じ日の午後。


 王都では、ブラット、アンナマリー、そして王宮魔導研究所の魔導師フェリクスが、人目を避けて地下倉庫へ集まっていた。


 床には古い地図、携帯用の結界石、保存食、治療薬、雨具、野営道具が並べられている。


「本当に三人で行くのか?」


 ブラットが何度目か分からない問いを口にした。


「何度聞いても答えは同じだ」


 フェリクスは古い方位盤の針を確認しながら返した。


「魔導師も連れず、古の塔へ向かうつもりだったお前の方が理解できない」


「お前が研究所から姿を消せば怪しまれる」


「地方遺跡の予備調査申請を出してある。三日程度なら誤魔化せる」


「申請上の行き先は?」


「王都西方の小遺跡だ」


「完全に嘘じゃないか」


「古い遺跡を調べるという部分は合っている」


「場所が逆方向だ」


「細かいことを気にするな」


「お前は研究者だろう」


 二人のやり取りを聞きながら、アンナマリーは黙って荷物を確認していた。


 手つきは落ち着いて見える。


 だが、結界石を袋へしまう指先は僅かに震えていた。


「アンナマリー」


 ブラットが気づく。


「無理なら残ってもいい」


「行くわ」


「古の塔へ入れば、戻れる保証はない」


「分かっている」


「アルフォンスに会うのも」


「怖いわ」


 アンナマリーは静かに答えた。


 誤魔化さなかった。


「どんな顔をすればいいのか分からない。謝れば何もかも終わるとも思っていないし、私が傷つけられたことまで消すつもりもない」


 ブラットは何も言わず、続きを待った。


「でも、会わないまま、また誰かに殺されるのを待つ方が嫌」


 その声には、恐怖だけではなく、自分への怒りも混ざっていた。


「私も聞きたいことがあるの」


「何を?」


「あの時、本当に何も見えていなかったのか。レイチェルの言葉だけを信じていた時、私の言葉が一度でも届いていたのか」


 卒業舞踏会。


 大勢の前で投げつけられた言葉。


 恐怖。


 屈辱。


 そして、以前のアルフォンスとはまるで違う目。


「それから、私も言わなければならない」


「何を?」


「あなたを選んだことは後悔していない」


 ブラットの表情が僅かに揺れる。


「でも、その自由を手に入れるためにレオンハルトへ協力した。私が望んだ以上のことが起きる可能性を、考えようとしなかった」


「お前だけの責任ではない」


「ええ」


 アンナマリーは小さく頷いた。


「でも、責任がないわけでもないでしょう?」


 フェリクスが方位盤から顔を上げた。


「お前たちは、よく似ているな」


「誰と誰が?」


「アンナマリー嬢とアルフォンス殿下だ」


 二人が同時に顔を向けた。


「会ったら互いに、自分の責任ばかり話しそうだ」


「冗談を言っている場合か」


 ブラットが低く返す。


「冗談ではない」


 フェリクスは肩をすくめた。


「だから、塔へ着いたら最初に過去の話をするな」


「何だと?」


「まず生きていることを確認しろ。次に、王都から再調査部隊が向かう可能性を伝える。それから今後どうするか考える」


 アンナマリーが黙る。


「謝罪も説明も、そのあとだ」


 フェリクスは荷物へ結界石を収めた。


「三人とも、古の塔まで辿り着けると決まったわけではない」


「迷う可能性は?」


 ブラットが尋ねる。


「高い」


「もう少し希望のある言い方はできないのか?」


「結界を舐める方が危険だ」


 フェリクスは真顔だった。


「出発は明日の夜だ」


          ◇◇◇


 夜。


 古の塔の食堂には、夕食を終えたあとの穏やかな空気が流れていた。


 セリーは卓の上へ淡い青の布を広げ、最後の縫い合わせを進めている。


 俺は向かい側で北部街道の地図を見ながら、時折彼女の手元へ視線を向けていた。


「主様」


「何だ?」


「また見ていますね」


「進み具合を確認している」


「では、もう少しで完成します」


「そうか」


「楽しみですか?」


「ああ」


 今日は逃げずに答えた。


 セリーの針が止まる。


「今日は素直ですね」


「楽しみにしているものを楽しみにしていると言っただけだ」


「前の主様なら、『別に』と言ったと思います」


「お前は昔の俺を知らないだろう」


「塔へ来たばかりの主様は知っています」


 彼女の声が少し柔らかくなる。


「あの頃は、明日のことを何も楽しみにしていませんでした」


 胸へ、静かに言葉が落ちた。


 確かにそうだった。


 この塔へ送られた最初の日。


 俺は全てを失ったと思っていた。


 明日が来ても何も変わらない。


 何かが増えることも、良くなることもない。


 ただ生き延びるだけ。


 そんな風に思っていた。


「今は違います」


 セリーが布へ針を通しながら続けた。


「ミロ君の膝が治るか気にしています。マリアさんの具合を心配しています。ヘルムートさんを探す準備をしています。塔の結界を守ろうとしています」


「ああ」


「それから、私のエプロンが完成するのを待っています」


「最後だけ随分小さくないか?」


「大切です」


 セリーは笑った。


「以前の主様は、失うことばかり考えていました。でも今は、完成するものを待てるようになりました」


 エプロン一枚。


 それだけの話なのに。


 妙に胸へ残った。


「主様」


「何だ?」


「できました」


 セリーが立ち上がる。


 淡い青色のエプロンを広げた。


 以前使っていたものより少し長く、腰へ回す白い紐がついている。胸元には、小さな塔を模した刺繍が入っていた。


「塔か?」


「はい」


「どうして塔なんだ?」


「私たちの家ですから」


 迷いなく返された。


 古の塔。


 王家から捨てられた俺が送られた場所。


 死ぬための場所だったはずなのに。


 今では、セリーが家と呼ぶ。


 俺自身も、帰る場所だと思い始めている。


「着てみます」


 セリーはいつものメイド服の上から、新しいエプロンを身につけた。


 一度、その場でゆっくり回る。


 淡い青の裾が柔らかく広がった。


「どうですか?」


「似合っている」


 今度も迷わなかった。


 セリーは少しだけ目を見開き、それから本当に嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます、主様」


「買ったのは布だけだ。作ったのはお前だろう」


「でも、選んでくださったのは主様です」


「似合うと言っただけだ」


「それで十分です」


 彼女はエプロンの裾を両手で整える。


「明日の朝から使います」


「汚れるぞ」


「エプロンは汚れるものです」


「大切だと言っていたじゃないか」


「大切だから使うんです」


 その言葉に、俺は少しだけ黙った。


 大切だから、しまう。


 壊れないように隠す。


 俺なら、そう考えたかもしれない。


 だがセリーは違う。


 大切だからこそ、日々の中で使う。


 ここも、同じなのだろうか。


 古の塔を守るからといって、閉じこもり続ける必要はない。


 ここで暮らす。


 笑う。


 町へ出る。


 誰かと出会う。


 そして帰ってくる。


『主様』


 エルの声が響いた。


 いつもの淡々とした調子とは、ほんの僅かに違っていた。


 緊急報告だ。


「何だ?」


『《窓辺の目》が、登録されていない人物の接近を確認しました』


 食堂の空気が変わった。


 セリーの笑みも、一瞬で消える。


「人数は?」


『二名です』


「場所は?」


『ミロの家の裏手へ接近中。現在、観測球から約十五メートル』


 俺は椅子から立ち上がった。


「武器は?」


『一名に金属製の武器反応があります』


「もう一人は?」


『弱い隠蔽魔術を使用しています』


「住民の可能性は?」


『日常移動として登録されていません。二名とも通りではなく、建物と木陰を利用しながら移動しています』


 胸の奥が一気に冷える。


「家の中は?」


『マリアとミロは内部にいます。異常は確認されていません』


「まだ二人に気づいていない?」


『はい』


 俺は反射的に書斎へ向かおうとした。


 転移扉。


 変貌の仮面。


 武器。


 必要なものを頭へ並べる。


「主様」


 セリーの声で足が止まった。


 彼女は俺を見ていた。


「分かっている」


 先に答える。


「すぐ飛び込まない」


「はい」


「まず状況を確認する」


 セリーが静かに頷いた。


「窓辺の目は映像を取れない。相手の姿を確認するには、別の観測手段が必要だ」


『塔からの広域観測では、リュネ市街地内部の詳細描写は困難です』


「転移扉で近くへ行くしかないか」


「主様」


「町の中で戦うつもりはない」


 彼女が言おうとしたことを先に告げた。


「相手が何者か確認する。ミロたちへ危害を加える気配があれば、その時は先に二人を逃がす」


「はい」


「俺たちの正体を見せる必要もない」


「変貌の仮面ですね」


「ああ」


 アルとセリの姿で現れれば、監視していた側へこちらの行動能力を教える。


 ならば、別人として近づく。


「町の夜回りに見える男女へ変える」


「夫婦ですか?」


「今その話をするのか?」


「緊張を和らげようと思いまして」


 セリーは僅かに笑った。


 俺も、ほんの少しだけ息を吐くことができた。


「お前も来るのか?」


「当然です」


「止めても来るだろうな」


「はい」


「なら、一緒に行く」


 セリーが少し目を見開いた。


「止めないのですか?」


「一人で行く方が危険だ」


 昨日までなら、自分だけで行こうとしたかもしれない。


 セリーを守るため。


 そう言いながら。


「約束しただろう。一人で全部背負わないと」


「はい」


「お前も無理をするな」


「分かっています」


 セリーは完成したばかりのエプロンへ手をかけた。


 ゆっくり外し、皺にならないよう丁寧に椅子の背へ掛ける。


 大切だから使う。


 だが、危険な場所へ持っていく必要はない。


 守ることと閉じ込めることは違う。


 それを彼女自身が選んでいる。


「エル。二人の位置を追い続けろ」


『承知しました』


「窓辺の目の警戒範囲へ入った時点で、魔力の変化があれば即座に知らせろ」


『設定します』


「それから、周辺に別の人間が増えた場合も」


『了解しました』


 俺は書斎へ向かいながら、自分の呼吸を整えた。


 守りたい。


 その感情だけなら、今すぐ転移して相手を捕まえたい。


 だが、武器を持っているから悪人とは限らない。


 隠蔽魔術を使っているから、ミロたちを殺しに来たとも限らない。


 見えた一部だけを答えへ変えるな。


 何度も自分へ言い聞かせてきたことだ。


「まず、見る」


 足を止めずに呟く。


 隣を歩くセリーが、静かに俺を見る。


「それから、守る」


「はい」


 外では、夜の森が静かに広がっている。


 その遥か向こう。


 リュネの小さな家へ、正体の分からない二人が近づいていた。


 町役場では古い記録を消そうとする動きが始まり、王都ではブラットたちが古の塔へ向かう準備を進めている。


 誰も全体を知らないまま、別々の場所で幾つもの動きが重なり始めていた。


 そして俺は、自分で設置を選び、本人の許可を得て置いた小さな《窓辺の目》によって、守りたい人々へ何かが近づいていることを知った。


 見守ることは、何もせず眺めることではない。


 覗き込むこととも違う。


 必要な時に気づき、必要な時だけ手を伸ばす。


 俺はまだ、その加減を学び始めたばかりだった。


 だからこそ、今度は焦らない。


 誰かを守りたいという思いまで、決めつけるための理由にはしない。


 何者が来たのか。


 何のために来たのか。


 そして、本当にミロたちへ危害を加えようとしているのか。


 確かめてから動く。


 それでも、もし二人へ手を伸ばすつもりなら。


 その時だけは、迷わない。


 俺は変貌の仮面を手に取り、セリーとともに転移扉の前へ立った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。