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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第13話 元王太子、守るためでも先に殴らない

転移扉の縁へ、青白い光が静かに走った。


 書斎の中央へ浮かび上がった扉の向こうに映っているのは、昼間に利用した礼拝堂跡ではない。リュネ南側の住宅地から少し離れた場所にある古い物置小屋で、人通りが途絶える夜なら突然姿を現しても見つかりにくい場所だった。


『《窓辺の目》による観測を継続しています。未登録の二名は、ミロの家から約十五メートル。現在、裏手の空き地側から接近しています』


 右手首から聞こえてくるエルの声は、普段より僅かに早い。感情のない検索用魔導具であることは分かっているが、それでも緊急時用の応答速度へ切り替わっているだけで、こちらの緊張まで高まるように感じられた。


「家の扉や窓へ触れたか?」


『まだ接触はありません。ただし、一名が立ち止まって周囲を確認し、もう一名が家の裏手へ移動しています』


「マリアとミロは?」


『家の内部に二名を確認。大きな移動はなく、《窓辺の目》が検知可能な範囲では異常もありません』


 まだ二人は、家の外へ何者かが近づいていることに気づいていないらしい。


 俺は一度ゆっくり息を吐き、卓上へ置いた変貌の仮面を手に取った。魔力を流すと、仮面の表面へ薄い波紋が走り、正面に置かれた鏡の中で俺の姿が少しずつ変わっていく。


 髪は茶色から黒に近い灰色へ。目元には年齢を感じさせる細かな皺が刻まれ、頬も僅かに痩せる。体格まで少し変わって見え、完成した姿は、若い頃に兵士として働いていた町の夜警と言われても違和感がないものになった。


 隣では、セリーも同じように変装を進めている。銀色だった髪は暗い赤茶色へ変わり、外見年齢も三十代後半ほどまで上がった。普段の華やかさを抑えた地味な外套と革製の肩当てが現れれば、夜間巡回に参加する町民といった姿に見える。


「夫婦で夜回りをしているように見えますか?」


 緊張した状況のはずなのに、鏡へ映る二人を見比べたセリーが、そんなことを言った。


「見える必要はない。町の自警団員で十分だろう」


「ですが、知らない男女が同じ家へ向かうなら、関係性を決めておいた方が自然です。自警団の先輩と後輩より、夫婦の方が――」


「今は夫婦設定を詰めている場合ではない」


「主様が緊張しているので、少し和らげようと思いまして」


 そう答えたあと、セリーは鏡から俺へ視線を移した。先ほどまでの悪戯っぽさは消え、青ではなくなった瞳の奥に真剣な色が浮かんでいる。


「本当に大丈夫ですか?」


「ああ」


「相手を見つけても、一人で飛び出しませんね?」


「飛び出さない。まず状況を確認する」


「武器を抜かれても?」


「優先するのは、相手を倒すことではなくミロとマリアを守ることだ。必要なら先に二人を逃がす」


 迷わず答えると、セリーの肩から僅かに力が抜けた。


「では、行きましょう」


「ああ。その前に装備を確認する」


 机の端には、収蔵室から持ち出した二種類の魔導具が置かれていた。


 一つは、細い銀色の鎖を内側へ収納した指輪型魔導具《拘束環》。対象へ投げれば指輪が魔力の鎖へ変わり、手足へ絡みついて動きを封じる。殺傷能力はなく、使用者が流す魔力量によって拘束強度も調整できる。


 もう一つは、手のひらへ収まるほどの黒い板状魔導具《静寂壁》だ。一定範囲の音を完全に消すものではなく、大きな声や物音が結界の外へ届きにくくなるよう抑える。町中で揉め事になった時、騒ぎを広げず住民を巻き込まないために選んだ。


 セリーは俺の腰元を見て、少し眉を寄せた。


「剣は持たないのですか?」


「持たない」


「相手の一人には刃物があります」


「だからこそだ。こちらまで最初から剣を下げて現れれば、相手は戦うしかないと思うかもしれない。必要になればエルへ使える魔導具を検索させるし、拘束環もある」


 守るためだからといって、最初から敵だと決めつけて斬りかかるつもりはない。


 王太子だった頃、兵を動かすためには必ず理由が求められた。誰を敵と判断するのか、その者が何をしたのか、どこまでの武力行使が許されるのか。書類の上では当然のように、その順番を守っていた。


 けれど、レイチェルが関わることだけは違った。


 彼女が泣きながら誰かを訴えれば、確かめる前から疑った。アンナマリーも、ブラットも、王宮で働く侍女たちも、いつしか「レイチェルを傷つけるかもしれない者」として見るようになった。


 精神干渉を受けていた可能性があるとしても、同じ過ちを繰り返していい理由にはならない。


「行くぞ」


「はい」


 俺たちは並んで、転移扉の向こうへ足を踏み出した。


          ◇◇◇


 転移先となった物置小屋には、乾いた木材と古い藁の匂いが残っていた。


 板壁の隙間から月明かりが細い線となって差し込み、積み上げられた空箱や使われなくなった農具の影を長く床へ伸ばしている。昼間なら埃が舞っているのがよく見えただろうが、今は互いの姿を確かめるにも目が慣れるまで少し時間が必要だった。


『周辺に人影はありません』


「転移扉を閉じてくれ」


『承知しました』


 背後の青白い光が細くなり、完全に消える。


 俺は黒い板へ魔力を流し、《静寂壁》を起動した。薄い膜のような感覚が身体の周囲へ広がり、衣擦れや足音がほんの少し遠くなったように感じられる。


「二人の動きは?」


『一名が家の裏窓へ接近しました。もう一名は側面に留まり、周囲を確認しています』


「侵入しようとしているのか?」


『目的は判断不能です。ただし、裏窓へ接近した人物が金属製の細い道具を取り出しました』


「形は?」


『一般的な簡易解錠具に類似しています』


 かなり黒に近づいた。


 それでも、何のために入ろうとしているのかはまだ分からない。金を盗むためか、何かを捜すためか、家の者へ危害を加えるためなのか。その違いを確かめず、同じ「侵入者」の一言で片づけたくなかった。


「家の中へ先に入りますか?」


 セリーが尋ねる。


「いや。裏窓へいる男と家の間へ入る。窓には触れさせない」


「相手へ姿を見せますね」


「見つけさせるつもりだ。声をかけて反応を見る」


 俺たちは物置小屋の裏口から外へ出た。


 夜のリュネは、昼間の町とは別の場所のようだった。市場の呼び込みも荷車の音も消え、通りを照らしているのは一定間隔に置かれた魔導灯の弱い光だけだ。遠くで一度犬が吠えたが、その声もすぐに途切れ、代わりに夜風が屋根と木々を撫でる音が聞こえてくる。


 住宅地へ近づくほど、湿った土と積まれた薪の匂いが濃くなった。


「前方の角に一人います」


 セリーが囁く。


 俺にも見えた。


 家の側面に沿うように立つ人影。暗い外套を着込み、頭には布か帽子のようなものを被っている。昨日の青い布を巻いた男かどうかまでは、暗さのせいで判別できない。


 もう一人は家の裏側にいる。


 俺たちは正面から近づかず、反対側の細い路地へ入り、家を挟む形で裏手へ回った。


『裏窓へ接近中の人物が、解錠具と思われる道具を窓枠へ向けました』


「セリー。側面にいる男を見ていてくれ。俺は裏へ回る」


「一人で声をかけるのですか?」


「相手が逃げた場合だけ、そちらから回り込んでくれ。俺は先に攻撃しない」


 セリーはすぐに頷かず、俺の腕へ軽く手を添えた。


「無理はしないでください」


「ああ」


「本当に?」


「約束しただろう」


 その言葉を聞いて、ようやく彼女の手が離れた。


 木陰を利用しながら裏手へ進む。


 低い木の向こうに、一人の男がしゃがみ込んでいた。手には細い金属棒があり、窓枠の隙間へ差し込もうとしている。


「夜の散歩にしては、妙なものを持っているな」


 静かに声をかけた。


 男の肩が大きく跳ねる。


 振り返った顔を見た瞬間、俺は相手が誰なのか分かった。


 昨日、首に青い布を巻き、何度も俺たちの後を追っていた男だった。今日は布を外し、代わりに暗い帽子を被っている。


「誰だ」


「町の夜回りだ」


「そんな顔、見たことがない」


「町中の夜回り全員を覚えているのか?」


 問い返すと、男の視線が細くなる。


 俺の服。


 手。


 腰。


 武器を持っているか確かめているのだろう。


「その窓から離れろ」


「知り合いの家だ」


「知り合いの家なら、扉から入ればいい」


「鍵を落としたと聞いた」


「中に住んでいる者を起こせば済むだろう」


 男の右手が、ゆっくり腰元へ下がった。


 そこには短刀がある。


 俺は《拘束環》へ魔力を流したが、まだ指から外さなかった。


「刃物へ触れれば、こちらも穏やかには対応できない」


「脅しか?」


「警告だ」


 男との間に、冷たい夜気が沈む。


 家の中は静かなままだ。


「この家で何を捜している?」


 俺は声を低くした。


「何の話だ」


「金か。人か。書類か」


 その瞬間だった。


 男の目が、ほんの僅かに動いた。


 書類という言葉へ反応した。


「何も知らないなら帰れ」


「帰るのはお前だ。家の住人へ危害を加えるつもりがないなら、何をするために窓を開けようとしたのか説明しろ」


 男は答えない。


 その時、家の中から小さな物音が聞こえた。


 ミロか。


 マリアか。


 男の視線が、一瞬だけ窓へ向いた。続いて右手が腰の短刀へ伸びる。


 俺はそこで初めて《拘束環》を投げた。


 指輪が空中で銀色の光を放ち、次の瞬間には細い鎖へ変わる。男が短刀を抜き切るより先に、その右手首へ巻きついた。


「何っ!」


 だが、相手もただ見張っていただけの素人ではなかった。


 男は拘束された右手を引きながら、左手で腰の袋へ手を突っ込み、小さな黒い石を地面へ叩きつけた。


 破裂音とともに、黒い煙が一気に広がる。


「目くらましか!」


『煙に軽度の魔力攪乱効果を確認。吸引量に注意してください』


 視界が一瞬で奪われる。


 銀の鎖を通して男の位置は感じるが、身体をどう動かしているのかまでは見えない。無理に距離を詰めれば、煙の中で短刀を振られる危険がある。


「逃げます!」


 家の側面からセリーの声が届いた。


 足音が二つ重なる。


 側面で待っていたもう一人も、この騒ぎに合わせて逃げようとしているらしい。


「セリー、家から離すな! ただし無理に捕まえる必要はない!」


「はい!」


「エル、位置を」


『右前方三メートルに一名。左前方五メートルに一名。右前方の対象が《拘束環》と接続中です』


 俺は銀の鎖へ追加の魔力を送り込んだ。


 煙の中で鎖が強く光り、男の足元へ伸びて絡みつく。


「ぐっ……!」


 重い音を立て、誰かが地面へ倒れた。


 もう一人はそのまま走り続ける。


 煙が薄い側面へ抜けようとした男の前へ、セリーが回り込んでいた。


「止まってください」


「退け!」


 男は足を止めず、手にしていた棒状の武器を振り上げた。


 セリーは避ける代わりに、片手を僅かに前へ出す。


 半透明の魔力盾が瞬時に形成され、振り下ろされた棒を受け止めた。木とも金属とも違う鈍い衝突音が夜の路地へ響いたが、《静寂壁》の範囲内にあるため遠くまでは届かない。


「女性へ、確認もせず殴りかかるのは感心しません」


 セリーの声はいつもと変わらず穏やかだった。


 だが、その目はまったく笑っていない。


「それに、私は見た目より丈夫です」


 盾を前へ押し出す。


 男の身体が数歩後ろへ弾かれた。


 薄くなった煙の中から俺も姿を現し、男へ向かって《拘束環》の予備を構えた。


「武器を捨てろ」


 男は俺とセリーを交互に見る。


 左右は家と木に挟まれ、正面にはセリー、後方には俺がいる。強引に走り抜けられるだけの隙間はない。


「お前たち、夜回りじゃないな」


「お前たちも、ただの泥棒ではないだろう」


 男の顔へ焦りが浮かぶ。


 それでも武器から手を離さない。


「最後に言う。武器を捨てろ」


「黙れ!」


 男が再びセリーへ飛びかかった。


 今度は見てから動く。


 二つ目の拘束環を投げれば、銀輪が男の足首へ絡みつき、踏み込んだ勢いをそのまま奪った。


「うわっ!」


 前のめりに地面へ倒れる。


「抵抗しなければ、それ以上締めつけない」


「ふざけるな!」


 男は身を捩り、力任せに鎖を引きちぎろうとした。


『対象の筋力による破壊は困難です』


「だから暴れるな。怪我をするだけだ」


 ようやく煙が薄れ、家の裏手も見えるようになる。


 最初の男も地面へ倒れた状態で両手と足を拘束されていた。短刀は本人から数歩離れた場所へ落ちている。


 俺は真っ先にセリーへ目を向けた。


「怪我は?」


「ありません。盾で完全に受けました」


「本当に?」


『セリーの身体機能に異常は確認されません』


 エルの答えを聞いて、ようやく肩へ入っていた力が僅かに抜けた。


「主様は?」


「俺も大丈夫だ」


「その言葉は信用できない、と言おうとしました」


「分かっている。塔へ戻ったら調べてもらう」


 セリーが少し目を細めた。


「素直ですね」


「今はそれどころではない」


 拘束された二人が、俺たちの会話を怪訝そうに見ていた。


「主様?」


 棒を持っていた男が、小さく呟く。


「やはり貴族か」


 しまったと思ったが、もう遅い。


 セリーの呼び方は以前から何度も失敗している。今夜の二人に正体までは分からなくても、普通の夜回りではないことはすでに露見していた。


「質問するのはこちらだ」


 俺は落ちた短刀と棒を拾い、二人から離れた場所へ置いた。


 そのまま拘束した二人を家から少し離れた空き地へ移動させ、《静寂壁》の範囲を広げる。これなら、多少声が大きくなってもミロたちを起こす可能性は低い。


「家の者へ危害を加えるつもりはなかった」


 青い布の男が、地面へ座らされた状態で言った。


「なら、なぜ窓を開けようとした?」


「捜し物だ」


「何を?」


「言えない」


「誰の命令だ?」


「それも言えない」


 男は目を逸らす。


 俺は少し間を置いてから、一つの名前を口にした。


「グレゴルか?」


 男の表情が、僅かに固まった。


 隣にいるセリーも、その反応へ気づいたようだった。


「グレゴルから、何を捜せと言われた?」


「知らない」


「何を捜すか知らないまま、人の家へ忍び込もうとしていたのか?」


「布袋だ」


 もう一人の男が、突然口を開いた。


「おい!」


 青い布の男が睨みつける。


「黙ってても、こいつらはかなり知ってる」


 棒を持っていた男はそう吐き捨ててから、こちらへ顔を向けた。


「古い布袋だ。中に紙が入ってるかもしれないって聞いた」


「誰の紙だ?」


「ヘルムート」


 予想していた名前が、夜の空き地へ落ちた。


 胸の奥で何かが一つ繋がったが、それだけで全てを決めるつもりはない。


「なぜ、この家にあると思った?」


「昔、ヘルムートがここへ来たからだ」


 マリアから聞いた話と一致する。


 ロイドが亡くなったあと、ヘルムートは書類を持って家を訪れた。


「二年前にも家を調べたのか?」


 男は少し迷ったあと、青い布の男が低く答えた。


「役場の人間が、支援記録の確認だと言って入った」


「何も見つからなかった?」


「ああ」


「なら、どうして今になってもう一度探す?」


 二人は黙った。


 俺は答えを急がず、しばらく待った。


「俺たちがヘルムートについて調べ始めたからか」


 青い布の男の目が僅かに揺れる。


「グレゴルは、俺たちが何かを見つけ、この家へ隠したと考えた」


「知らない」


「昨日からこの家を見張っていたな」


「仕事だった」


「誰から受けた仕事だ?」


「言えない」


「グレゴルではない?」


 否定はなかった。


「もし家へ入って何もなかった場合、そのまま帰る予定だったのか?」


「そうだ」


「マリアやミロが目を覚ましたら?」


「脅して黙らせるだけだ」


 その一言で、胸の奥へ冷たいものが落ちた。


「……だけ?」


 自分でも驚くほど低い声が出た。


 男の肩が僅かに引ける。


「怪我はさせない」


「病気から回復したばかりの母親と、幼い子供の家へ夜中に忍び込んで、武器を見せて脅す。それを『だけ』と言うのか」


「仕事なんだ」


「仕事なら、何をしても許されるのか?」


 二人は答えなかった。


 気づけば拳へ力が入っている。


 ミロが怯えている姿を想像してしまった。


 マリアがあの細い身体で、子供を庇おうとする姿も。


 今すぐ目の前の男を殴りたいという衝動が湧く。


「主様」


 セリーの声が聞こえた。


 彼女は俺の腕を掴まなかった。


 ただ指先で軽く触れ、そこにいることを知らせる。


「……分かっている」


 俺は長く息を吐いた。


「殴らない」


「はい」


 怒りが消えたわけではない。


 だが、その怒りへ判断を預けるつもりもなかった。


「グレゴルは、俺たちが何者だと思っている?」


 改めて尋ねる。


 今度は棒を持っていた男が答えた。


「王都の人間かもしれないって」


「それだけか?」


「領主府も動いてる」


「誰が?」


「知らない。本当に上のことは知らない」


 青い布の男も渋々頷いた。


「俺も、グレゴルから渡された仕事をしてるだけだ」


「名前は?」


 二人は再び黙った。


「答えないなら、町の衛兵へ引き渡す」


 すると青い布の男が、鼻で小さく笑った。


「衛兵だって役場の言うことを聞く」


「なら領主府へ渡す」


「もっと悪い」


 やはり。


 町の通常の仕組みへ渡しても、今夜のことそのものが消される可能性がある。


「王都の役人なら信用するのか?」


 二人の表情が同時に強張った。


「やっぱり王都から来たのか」


「質問に答えろ」


「信用するわけないだろ」


 青い布の男が吐き捨てる。


「王都の奴らなんて、地方へ来て帳簿を眺めて帰るだけだ。問題が見つかったって、領主と話して終わりだ。俺たちの暮らしが変わったことなんか一度もねえ」


 胸へ刺さる言葉だった。


 一年前、この地方の監査を延期した俺に反論する資格があるのか、一瞬分からなくなる。


 それでも。


「すべての役人が同じではない」


「同じだよ」


「同じではない」


 思わず言い返し、それから少しだけ間を置いた。


「だが、お前たちにそう思わせた責任が、王都側にないとは言わない」


 男が怪訝そうにこちらを見る。


「今すぐ、お前たちを衛兵へ渡すつもりはない」


 セリーの視線が僅かに動いた。


「解放するのか?」


「条件次第だ。まず名前と、グレゴルとの関係を話せ」


 青い布の男はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように息を吐いた。


「俺はダン」


「そっちは?」


「トーマス」


 棒を使っていた男が答える。


「グレゴルの正式な部下か?」


「違う。日雇いだ」


 ダンが続ける。


「見張り、荷物運び、たまに今夜みたいな仕事を頼まれる」


「金で?」


「ああ」


「どうして、こんな仕事を受けている?」


「食うためだよ」


 短い答えだった。


 だからといって、脅迫や住居侵入が許されるわけではない。


 けれど、簡単に「他の仕事を選べ」と言えるほど、俺は町の暮らしを知らない。


「トーマスも同じか?」


 尋ねると、彼は地面へ目を落とした。


「妹がいる」


「妹?」


「病気なんだ。薬代が要る」


 胸が僅かにざわついた。


「何歳だ?」


「十二」


「グレゴルは、お前の妹が病気だと知っているのか?」


「ああ。だから仕事を回してくる」


 俺とセリーが視線を交わす。


「ほかにも、病人や家族の治療費で困っている者が、グレゴルから仕事を受けているのか?」


 二人は少し考えた。


「いる」


 トーマスが答えた。


「俺以外にも、薬代が必要な奴はいる」


「そういう人間へ、見張りや秘密の仕事を頼む?」


「たぶん」


 偶然なのか。


 それとも、断りづらい者を意図的に選んでいるのか。


 グレゴル自身が病気の妹を理由に領主府から縛られていることを、今の俺たちはまだ知らない。


「今夜は、具体的に何と言われた?」


「旅人がヘルムートの書類を手に入れて、この家へ隠したかもしれないから確かめろって」


「俺たちが何度もここへ来たからか」


「ああ」


 その答えに、胸が沈んだ。


 守ろうとして通ったことが、逆にミロたちへ疑いを向けさせた可能性がある。


「主様」


 セリーが小さな声で呼ぶ。


「今、ご自分のせいだと思いましたね」


「顔に出ていたか」


「はい。でも、今は全部をご自分へ集めないでください」


「俺たちがここへ来なければ、今夜の侵入はなかったかもしれない」


「でも、補償金が奪われた事実も、ヘルムートさんのことも、そのまま埋もれていたかもしれません」


 結果は一つではない。


 善意で動けば、すべて良い方向へ進むわけではない。


 だからこそ、起きたことを見て、そのたびに修正するしかない。


「ダン。トーマス」


 俺は二人へ向き直った。


「今夜のことを、グレゴルへどう報告するつもりだ?」


「家の中を調べたが何もなかった、と」


「それでいい」


 二人が同時に俺を見る。


「本当に解放するのか?」


「今夜はな。ただし、ミロとマリアへ二度と手を出すな」


「断ったら?」


「次は拘束したまま、町役場や領主府とは別の場所へ引き渡す方法を探す」


 ダンが眉を上げた。


「王都に、そんな信用できる奴がいるのか?」


「今はいない」


「いないのかよ」


「だから探す」


 正直に答えると、二人が少し驚いた。


「それでも、俺はこの家を守る。それだけは変えない」


「何のために?」


 トーマスが尋ねた。


「ここの父親は、商隊を守るために死んだ」


「ロイドのことか」


「知っているのか?」


「町の奴なら知ってる」


「その遺族へ渡るはずだった補償金が、途中で消えている」


 二人の顔が少し変わった。


「お前たちが今夜捜していた書類は、その証拠につながるものかもしれない」


「俺たちは、そこまで聞かされてない」


「今は知った」


 俺は二人から目を逸らさず続ける。


「次に同じような仕事を頼まれた時、今夜と同じように受けるのかは、お前たち自身で決めろ」


「簡単に言うなよ」


 トーマスの声が荒くなった。


「断ったら金が入らないんだ。妹の薬が買えなくなる。それでも正しいことを選べって? 正しいことをして、妹が苦しめば満足なのか?」


 すぐには答えられなかった。


 王太子だった頃なら、犯罪へ加担してはいけない、法を守れと答えただろう。


 けれど、その法律や制度が正しく機能せず、支援を受けられないからこそ彼らはここにいる。


「俺には、今すぐお前の妹を治す力はない」


 慎重に言葉を選んだ。


「お前へ仕事を断れと命じる権利もない。明日から食べる金をどうしろと、簡単に答えることもできない」


「なら――」


「ただ、子供を脅す仕事だけは受けるな」


 トーマスが黙った。


「その代わりだとは言わないが、妹が使える支援制度がないかは調べる」


「何?」


「病気の子供へ使える制度が本来存在するなら、届いていないこと自体がおかしい」


「役場は何も出さないぞ」


「それも含めて調べる」


「本当に?」


「約束はしない」


 希望だけを与えるつもりはない。


「制度がない可能性もある。あっても、すぐ使えるとは限らない。ただ、確認はする」


 トーマスは長い間俺を見ていた。


「お前、本当に何者なんだ」


「町では、変な旅人と呼ばれているらしい」


 自分で言ってから、少し嫌な気分になった。


 横を見ると、セリーが目を丸くしている。


「主様が自分から認めました」


「今は黙っていろ」


 ダンの口元へ、初めて小さな笑みが浮かんだ。


「町で聞いた通りだな」


「何を?」


「変な旅人」


「広まりすぎだろう」


「肉屋が言ってた」


「やはりあの主人か」


 こんな場面なのに、僅かに空気が緩んだ。


「拘束を解く」


 俺は二つの《拘束環》へ魔力を送った。


 銀色の鎖が淡い粒子へ変わり、二人の手足から消える。


「ただし、武器は返さない」


「それがないと仕事にならない」


「人の家へ忍び込む仕事なら、なおさら返せない」


 ダンは拘束されていた手首をさすりながら、警戒した目で俺を見た。


「俺たちを逃がして、あとで後悔するぞ」


「そうかもしれない」


「なら、なぜ解放する?」


「お前たちは、今夜まだ誰も傷つけていないからだ」


「トーマスは女に殴りかかった」


「セリーは怪我をしていない」


「運がよかっただけだ」


「ああ。だから次はない」


 俺は声を低くした。


「ミロやマリアへ再び手を出した時は、今夜のように話を聞くだけでは済ませない」


 ダンの喉が僅かに動いた。


 脅しではなく、本気だと理解したのだろう。


「分かった」


「グレゴルへ戻ったあとは?」


「次の命令を待つだけだ」


「逃げないのか?」


「金がない」


 トーマスが苦い顔で答える。


「町を出ても、すぐ仕事が見つかるわけじゃない」


「なら、しばらく普段どおりにしていろ」


「お前が俺たちを雇うのか?」


「まだ何も決めていない」


「『まだ』なのですね」


 セリーが横から口を挟んだ。


「お前はなぜ話を進める」


「人手が必要になるかもしれません」


「信用できるかどうかも分からないだろう」


「ですから、次に何を選ぶかを見るのでは?」


 正論なのが腹立たしい。


 ダンとトーマスは、俺たちが何を話しているのか理解できないような顔をしていた。


「今夜は帰れ」


 俺は改めて告げた。


「グレゴルには、家へ入ったが何もなかったと報告すればいい。俺たちについては、見なかったことにしてくれ」


「夜回りに止められたことは?」


「言う必要はない」


「あとでばれたら?」


「自分たちが怒られるのを避けるため黙っていたと言え。その方が自然だろう」


 ダンは少し考えてから頷いた。


「分かった」


「トーマス」


「何だ」


「妹の名前を教えてくれ」


 警戒した目が向けられる。


「支援制度を調べると言っただろう」


 しばらく迷ったあと、トーマスは小さく息を吐いた。


「エマ。十二歳だ」


「病気は?」


「詳しい名前は知らない。胸が苦しくなって、息ができなくなることがある。冬になると特に酷い」


『記録しました』


 突然聞こえたエルの声に、二人が周囲を見回した。


「今の声は?」


「風だ」


「さすがに無理がありますよ、主様」


「お前はなぜ毎回俺の誤魔化しを潰すんだ」


 ダンがまた小さく笑う。


「やっぱり変だな」


「もう行け」


 二人は武器を置いたまま、暗い路地の向こうへ歩いていった。


 何度か振り返ったが、こちらへ戻ることはなく、やがて完全に姿が見えなくなった。


          ◇◇◇


 二人が去ったあと、俺は《静寂壁》を解除した。


 途端に夜の町の音が戻ってくる。


 虫の声。


 風が屋根や木の葉を撫でる音。


 遠くのどこかで閉められる扉の音。


 ミロの家は静かなままだった。


「起きていないのか?」


『家の内部には二名。先ほどから大きな移動はありません』


「騒ぎは届かなかったようですね」


「静寂壁を持ってきて正解だったな」


 俺は裏窓へ近づいた。


 ダンが金属棒を差し込もうとした場所には、小さな傷が残っている。窓枠そのものは壊されておらず、内部へ侵入された形跡もなかった。


「中へ入り、マリアさんへ説明しますか?」


 セリーが尋ねた。


「今は起こさない方がいい」


「でも、朝になれば窓枠の傷へ気づくかもしれません」


「ああ。だから書き置きを残す」


 俺は懐から紙と筆記具を取り出した。


 夜間、家の周囲へ不審者が接近したこと。


 侵入前に町の巡回者が追い払ったこと。


 家の中へ入られてはいないこと。


 朝になったら念のため周囲を確認すること。


 最初は最後に「アルへ相談してほしい」と書きかけたが、筆を止めた。


「自分へ相談するよう書くと、少し不自然ですね」


「ああ」


「肉屋さんなら?」


「それがいい」


 文章を書き直し、朝になったら肉屋の主人へ知らせるよう付け加える。彼なら俺たちへ連絡する方法は知らなくても、次に訪れた時までマリアたちの様子を気にかけてくれるだろう。


 紙を扉の隙間へ挟み込み、再び裏手へ回る。


「《窓辺の目》の設定を追加する。今夜の二人が近づいた場合は、日常移動として学習させず、必ず通知してくれ」


『設定しました』


「周囲で隠蔽魔術が使われた場合も即時通知」


『承知しました』


 これで、今できることは一通り終わった。


 それでも、すぐに帰る気にはなれなかった。


 俺は家の前へ立ったまま、暗い窓を見つめる。


「主様」


「何だ?」


「帰りましょう」


「……もう少しだけ」


「心配ですか?」


「ああ」


 セリーは急かさず、俺の隣へ並んだ。


 二人で同じ家を見る。


「今夜は守れました」


「今夜はな」


「はい」


「だが、俺たちがヘルムートについて動いた結果、この家へ疑いが向いた」


「それでも、今夜ここへ来られたのは、その動きを知っていたからです」


 善意が悪い結果を生むこともある。


 だから善意を捨てるのではなく、起きた結果まで見て責任を持つ。


 それが今の俺に必要なのだろう。


「ダンとトーマスを解放した判断、間違っていたと思うか?」


「分かりません」


 セリーはすぐに答えた。


「また同じ仕事をするかもしれませんし、グレゴルさんへ主様たちのことを話すかもしれません」


「ああ」


「でも、二人がどうして仕事を受けているのか聞けたことには意味があります。トーマスさんの妹のことも知りました」


「支援を受けられず困った人間が、その困窮を理由に別の人を脅す仕事をする」


「はい」


 被害者と加害者が、きれいに分かれていない。


 苦しんでいる者が、もっと弱い者へ手を伸ばす。


 それを利用する者がいる。


「グレゴル自身も、何かを握られている可能性があるな」


「どうしてそう思うのです?」


「病気の家族を持つ者や、生活に困っている者を選んで仕事を回しているように見える。そういうやり方を知っているなら、本人も同じ方法で縛られている可能性はある」


「でも、まだ推測ですね」


「ああ。だから確かめる」


 セリーの口元が少し緩んだ。


「主様らしい答えです」


「褒めているのか?」


「もちろんです」


 月明かりの下、変装した赤茶色の髪が夜風に揺れる。


「帰ろう」


「はい」


          ◇◇◇


 古の塔へ戻った頃には、夜もかなり深くなっていた。


 転移扉を閉じ、変貌の仮面を外す。


 俺の髪と顔は元へ戻り、セリーも銀髪と青い瞳の姿を取り戻した。


 道具部屋から食堂へ移動した途端、俺は椅子へ座らされた。


「怪我の確認をします」


「何も攻撃は受けていない」


「煙を吸いました」


「僅かだ」


「大人の『僅か』も信用できません」


 すっかり定着した言葉を返され、俺は諦めて右腕を卓へ載せた。


「エル、確認してくれ」


『軽度の魔力攪乱物質を吸引しています。身体機能への大きな影響はありませんが、水分摂取と休息を推奨します』


「ほら、大きな問題はない」


「休息を推奨されています」


「そこだけ拾うな」


 セリーは聞く耳を持たず、水差しから杯へ水を注いで俺の前へ置いた。


「全部飲んでください」


「子供じゃない」


「ミロ君へ無理をする子供は信用できないとおっしゃっていましたよね」


「俺は無理をしていない」


「煙の中へ一人で入りました」


「位置はエルで把握していた」


「それでもです」


 セリーの声が少しだけ強くなる。


「私が盾で攻撃を受けた時、主様はとても怖い顔をしていました」


「当たり前だ」


「私も同じでした」


 そこで言葉が止まった。


 セリーは怒っているわけではない。けれど、その表情はいつもの冗談を交わす時とは違っていた。


「主様が煙の中で見えなくなった時、怖かったです」


「セリー」


「エルさんから位置を教えてもらっていました。それでも嫌でした」


 彼女は俺の向かいへ座らず、隣へ立ったまま続ける。


「一人で抱え込まないと約束したでしょう?」


「一人ではなかった。お前も近くにいた」


「でも、最初の男へ声をかけた時は一人でした」


「二人で近づけば、相手がすぐ逃げると思ったんだ」


「分かっています」


 セリーはそこで一度息を整えた。


「判断が間違っていたと言いたいわけではありません。私は心配した、と伝えたいんです」


 責めているのではなく、自分の気持ちを伝えている。


 それなら、こちらも言葉を返さなければならない。


「悪かった」


「謝ってほしいわけでは――」


「それでも、悪かった」


 俺は自然に彼女の手を取った。


 考えるより先に動いていた。


 セリーの指先が僅かに震える。


「次に似た状況になったら、声をかける前に合図する。離れていても、互いの位置を確認してから動く」


「はい」


「それでいいか?」


「……はい」


 返事を聞き、手を離そうとしたところで、今度はセリーの指が俺の手を掴んだ。


「セリー?」


「まだ少しだけ」


「何が?」


「心配した分です」


「どれくらいだ?」


「かなりです」


「時間で言ってくれ」


「愛が落ち着くまでです」


「その基準では分からない」


「では、もう少しです」


 手のひらから伝わる温かさに、俺はそれ以上抵抗しなかった。


 この体温が魔導人形として再現されたものなのかもしれない。


 だが、今の俺には、そういう分類はどうでもよかった。


「今日、怖かったか?」


「はい」


「俺もだ」


 セリーが顔を上げる。


「主様も?」


「お前へ棒が振り下ろされた時だ。盾があると分かっていても、身体が動きそうになった」


「私は丈夫ですよ」


「分かっていてもだ」


 セリーは少し目を伏せ、それから小さく笑った。


「嬉しいです」


「怖かったのに?」


「心配してくださったことが、です」


「お前は、どんな場面でも喜ぶな」


「主様からいただいた愛は、きちんと大切にします」


「愛とは言っていない」


「心配も愛の一種です」


「勝手に分類するな」


 そう言いながらも、もう少しだけ手を繋いだままでいた。


          ◇◇◇


 身体に異常がないことを確認し、しばらく休んでから、俺たちは書斎へ移動した。


 夜は深いが、今夜得た情報は多い。忘れないうちに事実と推測を分けて整理しておく必要があった。


 紙の上へ、まず二人の名前を書く。


 ダン。


 昨日、青い布を巻いて俺たちを監視していた男。グレゴルから日雇いで見張りや荷運びを頼まれ、今夜はミロの家へ侵入する役目を受けた。


 トーマス。


 病気の妹エマがいる。薬代を得るため、同じくグレゴルから仕事を受けている。家族の治療費や生活費に困っている者が、ほかにも同様の仕事へ使われている可能性がある。


 二人が捜していたものは、古い布袋。


 中にはヘルムートの書類が入っている可能性があると聞かされていた。


「ヘルムートさんが、マリアさんの家へ本当に書類を隠した可能性はありますか?」


 セリーが俺の隣から紙を覗き込む。


「高いとは思わない」


「理由は?」


「マリア自身が知らない。それに二年前、役場の者が一度家へ入って探している。それでも見つからなかった」


「だから存在しない?」


「いや。隠し場所が巧妙だった可能性は残る」


 ヘルムートがマリアへ知らせないまま、どこかへ証拠を残した。


 可能性だけならある。


「次に町へ行った時、マリアへ今夜のことを説明して、家を確認させてもらう」


「《イリスの片眼鏡》を?」


「ああ。ただし、家全体を勝手に見るのはやめる。ヘルムートが以前触れた可能性がある場所や、マリアが許可した範囲だけだ」


「守るためでも、生活を覗かない」


「朝決めたばかりだからな」


 次に、グレゴルの名を書く。


「グレゴルは、俺たちがヘルムートの書類を手に入れたと疑っている。領主府も、俺たちを王都の人間ではないかと警戒しているらしい」


「そしてダンさんたちへ、家の中を探すよう命じた」


「ああ。少なくとも今夜の侵入には関与している」


「直接、二人を傷つけろとは言っていない」


「だが、起きたら脅して黙らせる程度は許容していた」


 罪が軽くなるわけではない。


 それでも、グレゴルがどこまで自分の判断で動き、どこから誰かに命令されているのかは分けなければならない。


「領主府が動いているという話も出た」


「ベルナールさんか、オズワルドさんでしょうか?」


「あるいは別の職員かもしれない。オズワルドはすでに退職しているが、完全に無関係とも言い切れない」


「まだ、誰を中心人物と決める段階ではありませんね」


「ああ」


 さらに、トーマスの妹エマについて書く。


「支援制度を調べる」


「トーマスさんへ恩を売るためではありませんね」


「違う」


 俺はすぐに答えた。


「十二歳の子供が病気で苦しみ、家族が薬代を用意できない。その状況で本来使える制度があるのなら、届いていないこと自体が問題だ」


「結果として、トーマスさんが危険な仕事を断れるようになるかもしれない」


「そうなればいい。だが、そこを条件にはしない」


 支援する代わりに協力しろ。


 そんなことをすれば、グレゴルたちと同じだ。


「ダンたちを解放したこと、やはり迷っていますか?」


 セリーが尋ねる。


「ああ」


「私は、今でも正しかったかどうか分かりません」


「俺もだ」


「でも、二人へ次を選ぶ余地は残りました」


「選べる状況ではないと言っていたぞ」


「完全には選べなくても、今夜の前と後では違います。ミロ君の家が、ただの仕事先ではないと知った。補償金が奪われていたことも知った」


 確かにそうだ。


 知らずに従うことと、知ったうえで従うことは同じではない。


 だからといって、正しい選択を強制できるわけでもない。


「難しいな」


「はい」


「悪人を捕まえれば終わり、という話ではなさそうだ」


「はい」


 セリーは少し考え、静かに続けた。


「主様は一人を助けようとすると、その人の周りにいる人まで見えるようになりますね」


「まだ誰も助け切れていない」


「これからです」


 その言葉を、彼女は自然に口にする。


 未来の話をされることが、以前ほど怖くなくなっていた。


          ◇◇◇


 同じ夜。


 リュネの町役場では、グレゴルが一人、二階の執務室へ残っていた。


 領主府の男が古い帳簿を持ち去ってから、部屋の中は不自然なほど静かだった。机の横に置かれた火鉢では、赤く残った炭が時折小さく音を立て、窓の外からは町の夜回りが遠くで鳴らす鐘の音が届いている。


 グレゴルは机の裏側へ手を差し込み、板の隙間に隠していた一枚の古い紙を取り出した。


 ヘルムートから渡された短い手紙。


『グレゴル。お前がすべての元凶ではないことは分かっている。だが、黙っていれば次の遺族も同じ目に遭う。俺は記録を持って北へ行く。いつか、お前が自分で選ぶ日が来ることを願う』


 もう何度読んだか分からない。


 二年前。


 最初に読んだ時は腹が立った。


 勝手なことを言うなと思った。


 自分には妹がいる。


 薬代がいる。


 職を失えば、自分だけでなく妹まで生きられなくなる。


 領主府へ逆らえば、この町へ居続けることさえ難しくなる。


 選べないのだ。


 そう何度も自分へ言い聞かせた。


「……だが」


 今夜、自分はダンとトーマスへ命じた。


 ミロの家を調べろと。


 旅人が証拠を隠したかもしれないという、確証もない疑いだけで、病気から回復途中の母親と子供が住む家へ二人の男を送り込んだ。


「何をしているんだ、私は」


 額へ手を当てる。


 扉が二度、短く叩かれた。


 事前に決めていた合図だった。


「入れ」


 扉が開き、ダンとトーマスが部屋へ入ってくる。


 二人の服には土がつき、手には頼んだ時に持たせた武器がない。


 グレゴルはすぐに異変へ気づいた。


「どうした?」


「家は調べた」


 ダンが答える。


「何もなかった」


「武器は?」


「逃げる時に落とした」


「誰から逃げた?」


 二人が一瞬、顔を見合わせる。


「犬だ」


 トーマスが答えた。


「近所の犬に吠えられて、慌てた」


 あまりにも下手な嘘だった。


 グレゴルは長年、困窮する住民から申請内容を聞き、嘘や隠し事を見抜く仕事もしてきた。二人が何かを隠していることくらい、すぐに分かる。


「犬に追われて、二人揃って武器をなくしたのか?」


「暗かったんだ」


「旅人は?」


「見てない」


 ダンの声だけは平静だった。


「家へは入ったのか?」


「ああ」


「母親と子供は?」


「寝てた」


「本当に何もなかった?」


「古い布袋も紙もない」


 グレゴルは黙ったまま二人を見る。


 何かがあった。


 誰かに止められたのか。


 旅人たちへ会ったのか。


 もし会ったのなら、どうして二人とも無事に戻ってきたのか。


「……分かった」


 グレゴルは机の引き出しから銀貨を取り出した。


「報酬だ」


 ダンはすぐ受け取った。


 だが、トーマスは差し出された銀貨を見つめ、少しの間動かなかった。


「いらないのか?」


「……もらう」


 遅れて手を伸ばす。


「次の仕事は?」


 ダンが尋ねる。


「まだない」


「旅人の見張りは?」


「続けろ」


 二人の表情が、ごく僅かに硬くなる。


「どうした?」


「何でもない」


「次に町へ来たら、誰と会い、どこへ行ったか報告しろ」


「分かった」


 二人は部屋を出ていく。


 扉が閉じたあとも、グレゴルはしばらくそこを見ていた。


「嘘をついている」


 誰へ聞かせるでもなく呟く。


 けれど、その嘘を責める気にはなれなかった。


 自分も、二年間ずっと嘘をつき続けている。


 帳簿へ。


 住民へ。


 妹へ。


 そして、自分自身へ。


「アル……」


 旅人の偽名を小さく口にする。


 何者なのか分からない。


 王都から来た調査員かもしれない。


 貴族の密偵かもしれない。


 あるいは、本当に困っている家族を放っておけないだけの、変わった旅人なのかもしれない。


 分からないことが、日に日に恐ろしくなっていた。


          ◇◇◇


 さらに離れた王都近郊では、一台の馬車が夜の街道を西へ進んでいた。


 乗っているのは、ブラット、アンナマリー、フェリクスの三人。


 予定では翌日の夜に王都を出るはずだったが、王国軍魔導調査部隊の一部がすでに移動を始めたという情報をフェリクスが掴み、出発を一日早めたのだ。


 馬車の車輪が小さな石を踏むたび、規則的な振動が座席へ伝わる。窓の外には月明かりに照らされた草原と森が流れ、王都の灯りはとうに見えなくなっていた。


「本当に、軍より先へ着けるのか?」


 ブラットが窓の外から視線を戻す。


「軍は人数も装備も多い。普通に進めば、こちらの方が速い」


 フェリクスは膝の上へ地図を広げたまま答えた。


「ただし、向こうは前回の探索で結界外周までの大まかな位置を絞っている。俺たちより迷わない可能性はある」


「古の塔の正確な位置まで知られているのか?」


「そこまではないはずだ。塔の結界は、位置そのものを認識しづらくする」


 アンナマリーは二人の会話へ入らず、膝の上で両手を重ねていた。


 指先が冷えている。


 自分でも分かるほど、力が入っていた。


「大丈夫か?」


 ブラットが気づく。


「ええ」


「顔色が悪い」


「眠れていないだけよ」


「戻るなら今のうちだ」


「戻らない」


 即答だった。


 ブラットが何か言いかける前に、フェリクスが地図から顔を上げた。


「アルフォンス殿下が生きていたら、最初に何を言う?」


 突然の問いだった。


 アンナマリーは口を開きかけたが、言葉が出てこない。


「危険が迫っていることを伝える」


 代わりにブラットが答える。


「それが先だ」


「そのあとだ」


 フェリクスはアンナマリーを見る。


「謝るのか?」


「……謝りたいと思っているわ」


「何に?」


 問い返され、アンナマリーは視線を窓の外へ向けた。


「分からないの」


「分からない?」


「謝りたいことはたくさんある。でも、あの人にされたことまで全部、精神干渉だったから仕方なかったと言われるのも怖い」


 アンナマリーの声が僅かに震える。


「私が傷ついたことは、本当にあったの。怖かった。何度説明しても話を聞いてもらえなくて、大勢の前で罪人のように扱われたことも消えない」


「ああ」


 ブラットが静かに頷く。


「でも、そのあと私がレオンハルトへ協力したことも消えない。アルフォンスが死ぬ可能性を、私は深く考えようとしなかった」


「だから謝る?」


「分からないのよ」


 アンナマリーは自分の手を見つめた。


「謝るだけでいいのかも、許してほしいのかも、許されなくても伝えたいだけなのかも」


 馬車の中へ短い沈黙が落ちる。


「会って確かめるしかない」


 やがてアンナマリーが続けた。


「今のあの人が何を思っているのか、私は知らないもの」


 ブラットも目を伏せた。


「俺もだ」


「だから」


「まず生きていることを確認しろ」


 フェリクスが二人を遮った。


「その次に、軍が近づいていることを伝える。過去の話は、それからにしろ」


「分かっている」


「分かっている顔ではない」


「お前は本当に遠慮がないな」


「三人揃って感情だけで動き始めたら、俺まで巻き込まれるからな」


 ブラットが僅かに苦笑する。


 アンナマリーも、ほんの少しだけ肩から力を抜いた。


 馬車は暗い街道を進み続ける。


 古の塔を囲む森は、まだ遠い。


          ◇◇◇


 古の塔の書斎では、俺が今夜最後の記録を書き終えていた。


 窓の外はすっかり暗く、森の中には淡い月明かりだけが落ちている。塔の結界に異常はなく、《窓辺の目》からもダンたちが去ったあと新しい警告は届いていない。


 向かいの椅子では、セリーが完成した淡い青のエプロンを膝の上へ置いていた。


「明日の朝から、それを使うのか?」


「はい」


「汚すなよ」


「大切だから使うんです」


「そうだったな」


 昨日までの俺なら、大事なものは壊れないよう保管する方を選んだかもしれない。


 セリーは違う。


 大事だからこそ、日々の中で使う。


 俺は羽根筆を置いた。


「明日はまず、マリアへ今夜のことを話す。それから、許可をもらえればヘルムートが何か残していないか確認する」


「はい」


「そのあと、トーマスの妹エマについて調べる。治療院と、病気の子供が使える支援制度だ」


「ヘルムートさんの足取りは?」


「一日止める」


 セリーが少し驚いたように目を瞬かせた。


「いいのですか?」


「今、町の中で新しい問題が動いている。北へ急ぐより先に、目の前へ出たものを整理したい」


「でも、ヘルムートさんの手掛かりも大事です」


「分かっている。止めるのは一日だけだ。それに、今夜ダンたちが動いたことで、こちらから追わなくても向こう側に変化が出る可能性がある」


「グレゴルさんが動くかもしれない?」


「ああ。ダンたちの報告を信じるかどうかも分からない。もし疑えば、自分で確かめようとするかもしれないし、領主府へ何かを伝えるかもしれない」


「《窓辺の目》でグレゴルさんを監視しますか?」


 俺はすぐには答えなかった。


 今日、監視について考えたばかりだ。


 危険かもしれない。


 何かを隠しているかもしれない。


 だから常に見張る。


 その考え方を簡単に受け入れれば、王宮にいた頃の俺と何が違うのか分からなくなる。


「常時監視はしない」


「はい」


「役場周辺とミロの家へ近づいた場合だけ確認する。グレゴル本人の生活まで追う必要はない」


「では、危険へ繋がる動きだけですね」


「ああ。それで十分だ」


 エルへ条件を伝え、記録へ追加する。


 グレゴルが悪人なのか。


 脅されて従っているだけなのか。


 その両方なのか。


 まだ分からない。


 今日までの行動だけを見れば、許されないことをしている。補償金の支給を止め、記録を改ざんし、今夜はマリアとミロの家へ男たちを送り込んだ。


 けれど、それだけで彼という人間のすべてを決めたくはなかった。


 ダンも同じだ。


 トーマスも同じだ。


 やったことと、その人間そのものを、同じものとして扱わない。


 止めなければならない時は止める。


 だが、止めたあとで何をするかは別の話だ。


「難しい顔をしています」


 セリーの声で、考えから戻った。


「簡単じゃないからな」


「何がです?」


「人を裁かないことだ」


 口にしてから、少し違うと思った。


「いや、それも違うな。必要なら罪は裁かれなければならない。俺が勝手に許すことでもない」


「はい」


「今夜の二人がやろうとしたことは犯罪だ。窓を開けようとした。見つかったら住人を脅すつもりだった。トーマスはお前へ武器を振った」


「私は無傷です」


「結果の話じゃない。振った事実は残る」


 セリーは少しだけ驚いたように俺を見た。


「それでも解放しましたね」


「ああ」


「矛盾していますか?」


「しているようにも思える」


 俺は椅子へ深く座り直した。


「王太子だった頃なら、拘束した時点で衛兵へ引き渡した。それが正しい手順だからな」


「今は?」


「引き渡した先が信用できない」


 役場も。


 領主府も。


 少なくとも現段階では、何がどこまで繋がっているのか分からない。


「それに、俺は今、王太子ではない」


 その言葉は、以前ほど胸を刺さなくなっていた。


「裁判官でもない。町の衛兵でもない。二人を捕まえたからといって、俺がその場で罪の重さまで決めていいわけじゃない」


「だから、止めるところまで?」


「ああ」


 窓を開けさせない。


 ミロたちを脅させない。


 セリーへ武器を振るわせない。


 今夜、俺がするべきだったのはそこまでだった。


「守るために相手を止めることと、その人間を裁くことは同じじゃないんだと思う」


 言葉にしてみると、ようやく今夜ずっと胸の中へ引っかかっていたものへ形が与えられた気がした。


「もちろん、だから何をしても逃がしていいという意味じゃない。次に誰かを傷つければ、もっと強く止める必要がある。証拠が揃って、信用できる相手へ引き渡せるようになれば、それもする」


「でも、怒った主様がその場で罰を決めるわけではない」


「ああ」


「成長しましたね」


「急に上からだな」


「以前なら、私を殴ろうとした時点でトーマスさんを塔の地下へ永久収監していたかもしれません」


「そこまではしない」


「本当に?」


「……たぶん」


 セリーが笑った。


「少し怪しいです」


「お前が煽るからだろう」


「私は主様を止める役です」


「なら煽るな」


 小さな笑い声が書斎へ落ちた。


 今夜は何度も身体へ力が入った。


 誰かを疑い、怒り、守ろうとして、間違えるのが怖かった。


 それでも、こうして戻ってきて話しているうちに、少しずつ頭の中が整理されていく。


 一人だったなら、俺はどうしていただろう。


 ダンが短刀へ手を伸ばした瞬間、もっと強い魔導具を使っていたかもしれない。


 トーマスがセリーへ棒を振り下ろした時、その場で怒りに任せて傷つけていたかもしれない。


 自分は変わった。


 そう思いたい。


 けれど、変わったから二度と間違えないわけではない。


 だから、一人で決めない。


「主様?」


「何だ」


「また難しい顔になっています」


「考えていただけだ」


「では、今日はもう考えるのを終わりにしませんか?」


「まだ明日の予定が――」


「書きました」


 セリーが卓上の紙を指差した。


 確かに、明日の予定はすでに並んでいる。


 マリアへ今夜の件を説明する。


 許可を得て、ヘルムートが残した可能性のある物を限定的に確認する。


 エマの病状と利用可能な支援制度を調べる。


 グレゴルの動向は必要範囲だけ確認する。


 北へ向かったヘルムートの追跡は、一日保留。


「十分ですね」


「……そうだな」


「では寝ましょう」


「お前は寝ないだろう」


「主様が眠っている間は静かにしています」


「エプロンを眺めながら?」


「明日の朝に備えて最終確認します」


「それは結局、何かするんじゃないか」


「趣味です」


 堂々と言われれば、もう止める気にもならなかった。


 俺は立ち上がり、書斎の灯りを一つずつ落としていく。


 最後の魔導灯だけを残したところで、セリーが椅子から立った。


「主様」


「今度は何だ?」


「忘れていませんね?」


「何を?」


 セリーは両手で淡い青のエプロンを持ち上げた。


「明日の朝です」


 一瞬、何のことか分からなかった。


 だが、すぐに思い出す。


「褒めろという話か」


「はい」


「覚えている」


「どのように褒めるかも考えておいてください」


「そこまで指定されるのか?」


「『似合っている』だけでは、昨日と同じです」


「面倒だな」


「愛には努力が必要です」


「誰が愛の話をしている」


「先ほど手を握っていただきました」


「心配させたからだ」


「心配も愛です」


「またその分類か」


 セリーは満足そうに笑い、エプロンを胸元へ抱いた。


 その姿を見ていると、明日の朝に何を言えばいいか、本気で考えてしまう自分がいる。


 それが少しおかしくて、俺も笑った。


「おやすみ、セリー」


「おやすみなさい、主様」


 書斎を出る。


 静かな回廊を歩きながら、俺は今日一日のことを思い返していた。


 朝には、魔導具で人の生活をどこまで見ていいのか考えた。


 夜には、その魔導具が知らせた危険を止めるため、町へ戻った。


 そこで見つけたのは、分かりやすい悪人ではなかった。


 金のために人の家へ忍び込もうとした男。


 病気の妹を守るために、他人の子供を脅す仕事を受けた男。


 そして、その二人を使うグレゴル。


 さらに、そのグレゴルを動かしているかもしれない誰か。


 正しい者と悪い者を線で分けられれば、きっと楽だった。


 だが、人はそんなに単純ではない。


 傷つけられた者が、誰かを傷つけることもある。


 守りたいものがあるから、間違った道を選ぶこともある。


 だからといって、その行為が正しくなるわけではない。


 止めなければならないものは、止める。


 けれど、その瞬間の怒りだけで、その人間のすべてを決めない。


 守るために止めることと、裁くことは同じではない。


 今夜、俺はようやくその違いを少しだけ理解した気がする。


 それが本当に正しかったのかは、まだ分からない。


 解放したダンとトーマスが、次に何を選ぶのか。


 グレゴルが、彼らの嘘へ気づいたあと何をするのか。


 領主府がどこまで関わっているのか。


 そして、ヘルムートが二年前に何を見つけ、何を残したのか。


 答えはまだ、一つも出ていない。


 それでもいい。


 分からないなら調べる。


 迷ったなら誰かと話す。


 怒ったなら、拳を振るう前に一度止まる。


 守るべき者へ手が伸びたなら、その間へ立つ。


 王太子だった頃の俺は、正しい答えを持っていなければならないと思っていた。


 今は違う。


 答えが分からなくても、考えることはできる。


 間違えたなら、次の選択を変えることもできる。


 俺だけでは気づけないなら、隣にいる誰かへ聞けばいい。


 回廊の途中で、俺は一度だけ振り返った。


 閉じた書斎の扉の向こうには、まだ僅かな灯りが漏れている。


 おそらくセリーは、本当にエプロンの最終確認をしているのだろう。


 明日の朝。


 俺はまた、あの町へ行く。


 今度は敵を探すためではない。


 守った家へ事情を伝え、病気の少女が使えるはずの助けを探し、誰かが残したかもしれない真実を確かめるために。


 その先で何が見つかるかは、まだ分からない。


 ただ一つだけ。


 次に誰かを止めなければならない時も、俺は忘れないようにしよう。


 その相手にも、そこへ立つまでの理由があるかもしれないことを。


 理由があれば罪が消えるわけではない。


 事情があれば被害を受けた者の痛みがなくなるわけでもない。


 だからこそ、理由を知ることと許すことも、また同じではないのだ。


 俺は自室の扉を開き、静かな闇の中へ入った。


 長い一日が、ようやく終わる。


 そして明日もまた、答えの決まっていない一日が始まる。


 それを以前ほど怖いとは思わなかった。

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