第14話 元王太子、隠された紙より先に病気の子供を見る
翌朝、古の塔の食堂には、焼きたてのパンと温かなスープの匂いが穏やかに広がっていた。
窓の外では、夜の名残を含んだ白い霧が森の低い場所へ溜まり、木々の幹を半ば隠している。朝日はまだ塔の上層へしか届いておらず、食堂を照らしているのは石壁へ埋め込まれた魔導灯の柔らかな光だった。
俺は椅子へ座ったまま、正面に立っているセリーを見ていた。
いや、正確には、彼女が今朝から身につけている新しいエプロンを見ていた。
昨日完成したばかりの淡い青色の布は、銀色の髪にも澄んだ青い瞳にもよく似合っている。以前使っていた白いものより裾は少し長く、腰の後ろで結ばれた白い紐が動くたびに柔らかく揺れていた。胸元へ縫い付けられた小さな古の塔の刺繍は、よく見れば左右が僅かに歪んでいるが、だからこそ人の手で作られた温かさが感じられる。
「主様」
セリーは卓の向こうへ座ることなく、なぜか胸を張ったまま俺を見つめていた。
「何だ?」
「まだです」
「何がだ?」
「昨日のお約束です」
予想はしていた。
それでも、できれば忘れていてほしかった。
「朝になったら、エプロンを身につけた私をもう一度きちんと褒めてくださると約束しました」
「そこまで具体的には約束していない」
「エルさん」
『該当する会話記録があります。セリーから「明日の朝、エプロン姿をもう一度褒めてください」と求められた際、主様は「分かった」と返答しています』
「俺はまだお前に確認を求めていない」
『事実確認が必要な状況と判断しました』
「最近、判断の範囲が広がっていないか?」
腕輪へ文句を言っても、エルは当然のように沈黙した。
セリーだけが、勝ち誇ったような顔をしている。
「記録が残っていますので、逃げられません」
「別に逃げるつもりはない」
「では、お願いします」
昨夜、ミロの家へ忍び込もうとしたダンとトーマスを止め、煙の中で短い戦闘までしたばかりだ。それなのに朝になれば、セリーはいつもと同じように朝食を作り、自分で縫ったエプロンを身につけ、俺へ褒めろと要求している。
その変わらなさに、俺は思っていた以上に救われていた。
「似合っている」
「昨日も聞きました」
「同じエプロンなんだから、感想も大きく変わらないだろう」
「もう少し詳しくお願いします。今日は実際に着ておりますので」
「注文が多いな」
「ご褒美ですから」
俺は仕方なく、改めて彼女を見た。
淡い青色は予想していた以上にセリーへ合っている。胸元の塔の刺繍も、完璧ではないからこそ目を引いた。王城で見てきた衣装や刺繍は、どれも職人が寸分の狂いなく仕上げたものだったが、この小さな歪みには、それらにはないものがあるように思えた。
「色はやはり似合っている。丈もそのくらいで良かったと思う。塔の刺繍も、悪くない」
「はい」
「これでいいか?」
「もう少しです」
「まだあるのか?」
「可愛いか、美しいかもお願いします」
「なぜ二択なんだ」
「両方でも構いません」
「欲張るな」
俺が呆れると、セリーはまったく悪びれず微笑んだ。
どうやら逃げ切るのは無理らしい。
「……可愛いと思う」
言った瞬間、セリーの表情がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます」
「美しい方まで要求するなよ」
「今日は可愛いで満足しておきます」
「今日は、という言い方が気になる」
ようやく彼女は向かいの椅子へ座り、満足そうにエプロンの裾を整えた。
「最初から、それを言わせたかっただけじゃないのか?」
「はい」
「認めるのか」
「主様は、遠回りをしないと褒めてくださらないことがありますので」
「普通に聞けばいいだろう」
「『私、可愛いですか?』と?」
「それを普通と言っていいのか?」
「私にとっては普通です」
セリーは涼しい顔でスープへ口をつけた。
俺もパンをちぎりながら、窓の外へ一度視線を向ける。
こんな朝を守りたい。
その思いが、以前よりもずっと自然に浮かぶようになっていた。
昨夜、ダンとトーマスを解放した判断が正しかったかどうかは、まだ分からない。二人がグレゴルへ俺たちのことを隠し続ける保証もないし、次にまた危険な仕事を命じられれば従う可能性もある。
それでも、昨夜は誰も大きな怪我をしなかった。
マリアもミロも無事だった。
俺たちも塔へ帰ってきた。
今はまず、その事実を大切にしていいのだと思う。
「エル。《窓辺の目》に異常は?」
『夜明けまでに、昨夜記録した二名を含め、未登録人物の再接近はありません』
「マリアとミロは?」
『すでに起床しています。通常の生活行動と判断される移動のみ確認しています』
「そうか」
肩へ残っていた僅かな緊張が抜けた。
「朝食が終わったら、町へ行く」
「はい」
セリーもすぐに表情を切り替えた。
「まずミロ君のお家ですね」
「ああ。昨夜のことを説明する」
「全部ですか?」
「全部は話さない」
ダンとトーマスを捕らえ、事情を聞いたこと。二人がグレゴルに雇われた日雇いであること。トーマスには病気の妹がいること。
そこまで話せば、マリアは町で二人を見かけるたびに恐れるだろう。
「不審者が家へ侵入しようとしたこと。入られる前に止めたこと。しばらく警戒した方がいいことは伝える。ただ、二人の名前までは出さない」
「次にまた近づいた場合は?」
「その時は隠さない。本人たちにも、次はないと伝えた」
「はい」
「それから、家の中を確認させてもらう」
「ヘルムートさんが何か残していないか、ですね」
「ああ。《イリスの片眼鏡》を使う。ただし、見る範囲はマリアに許可をもらった場所だけにする」
セリーは頷いたあと、すぐに指を一本立てた。
「使用時間は三分半です」
「五分で十分だろう」
「駄目です」
「昨日は五分程度使っても問題なかった」
『補足します。主様の初回使用時および昨日までの疲労記録を考慮すると、本日の推奨連続使用時間は四分以内です』
「エルまでそちら側か」
「では三分半で余裕を持ちましょう」
「なぜ四分からさらに削るんだ?」
「マリアさんのお家で気分が悪くなれば、今度は向こうが主様を心配してしまいます」
言われてみれば、その通りだった。
「分かった。三分半だ」
「エルさん」
『使用時間上限として記録しました』
「何でも記録するなと言っているのに」
「主様が守れば、記録されても困りません」
「それはそうだが」
完全に包囲されていた。
「それから、エマのことも調べる」
俺が話題を変えると、セリーも真剣な顔へ戻った。
「トーマスさんの十二歳の妹。冬になると胸が苦しくなり、薬代が必要」
「ああ。本人が病名を知らない以上、今の情報だけでは何も判断できない。治療院で一般的な支援制度があるか確認する」
「町役場ではなく?」
「今、正面から役場へ行くのは避けたい。グレゴルは俺たちを警戒している」
「昨夜の姿なら別人です」
「別人が突然、子供の医療支援について尋ねれば、それはそれで不自然だ」
「では、治療院から」
「ああ。患者名は出さない。制度が存在するかどうかだけ聞く」
パンを口へ運びながら、セリーが少し考える。
「主様は、エマさんを助けたらトーマスさんが味方になると思っていますか?」
「可能性としては考えた」
そこは誤魔化さず答えた。
「だが、それを目的にはしない」
「はい」
「妹の治療と、トーマスが俺たちへ協力するかどうかは別だ。支援を渡す代わりに従えと言えば、弱みを使って人を動かしている連中と同じになる」
セリーの瞳が柔らかく細められた。
「主様らしいですね」
「最近、そればかり言っていないか?」
「好きな方がすることは、少し良く見えるものです」
あまりにも自然に言われ、パンを持った手が止まった。
「朝から妙なことを言うな」
「妙ではありません」
「食べろ」
「照れていますね」
「食べろ」
セリーは楽しそうに笑いながら、素直にパンへ手を伸ばした。
◇◇◇
朝食を終えた俺たちは、変貌の仮面でいつもの旅人姿へ変わった。
濃い茶色の髪と緑がかった灰色の瞳を持つアル。
肩までの茶髪と琥珀色の瞳を持つセリ。
転移扉の先には、リュネ南側の倉庫跡が映し出されている。
『周囲に人影はありません』
エルの確認を待ってから扉を越える。
昨夜とは違い、朝の町にはすでに多くの生活音が戻っていた。住宅地の煙突から細い煙が上がり、井戸へ向かう女性たちの声が路地へ響いている。眠そうな顔をした子供が薪を抱え、家の前では老人が壊れた椅子の脚をゆっくり削っていた。
何度も訪れているうちに、少しずつ見慣れた風景になっている。
それでも今朝は、物陰や路地の奥へ無意識に視線を向けてしまった。
「ダンさんは見えませんね」
セリーが周囲へ目を配りながら小さく言う。
「ああ」
『記録済みのダンおよびトーマスと一致する人物は、現在の観測範囲内に確認できません』
「グレゴルへ報告したあと、今日は外されている可能性もある」
「あるいは、もうミロ君の家へ近づかないと決めた」
「そうならいいが、期待だけで判断はしない」
俺たちは直接ミロの家へ向かわず、一度周囲を大きく回った。
昨夜の二人以外に見張りらしい者はいない。《窓辺の目》も正常に機能しており、木の割れ目へ隠した硝子玉は完全に周囲へ馴染んでいた。
家の正面へ回ると、扉の前でミロがしゃがみ込んでいる。
少年は昨夜ダンが解錠具を差し込もうとした窓枠の傷を、指先で触っていた。
「そこを触るな」
声をかけると、ミロが勢いよく振り返った。
「アル兄ちゃん!」
「昨夜、何か気づいたか?」
「母さんが、夜回りの人から紙が来てたって言ってた」
俺が扉へ差し込んだ紙は、すでに家の中へ回収されているらしい。
「変な人が来たんでしょ?」
「ああ」
「悪い魔導師?」
「まだそれを言っているのか」
「だって、護符が反応したんでしょ?」
「近いが、相手が魔導師だったとは限らない」
「泥棒?」
「それもまだ決めていない」
ミロは分かりにくそうに眉を寄せた。
「悪い人じゃないの?」
「悪いことをしようとした人だ」
「同じじゃないの?」
すぐには答えず、少し考えた。
「同じ場合もある。でも、一度悪いことをしたからといって、その人が全部悪いとは限らない」
「分かんない」
「俺もまだ全部は分かっていない」
「大人なのに?」
「大人でも分からないことは多い」
「王子様でも?」
一瞬、心臓が止まりそうになった。
「なぜ王子が出てくる」
「アル兄ちゃん、たまに偉そうだから」
「偉そうではない」
「喋る腕輪持ってるし」
「それは王子と関係ない」
「強そうだし」
「昨夜のことは見ていないだろう」
口にした瞬間、ミロの目が輝いた。
「じゃあ、やっぱり昨日の夜回り、アル兄ちゃんだったんだ!」
「……違う」
「今、言った!」
「言っていない」
「セリ姉ちゃんも?」
「私は何も申し上げておりません」
隣でセリーが満面の笑みを浮かべながら逃げる。
「ずるいぞ」
「何のことでしょう?」
「二人で来たんだ!」
「声が大きい」
その騒ぎを聞きつけたのか、扉が開いた。
「やはり、お二人だったのですね」
マリアが少し困ったように笑っている。
「やはり、とは?」
「紙の字が、以前アルさんが書いてくださったものと似ていました」
変装しても筆跡までは変えていなかった。
「そこまで考えていなかったな」
「家の中へどうぞ」
◇◇◇
室内には、昨夜の騒ぎを感じさせるような乱れはなかった。
机も棚も寝台も、昨日までと変わらない位置にある。唯一、窓枠の外側へ細い傷が残り、昨夜の出来事が夢ではなかったことを示していた。
マリアは俺たちへ椅子を勧め、自分は寝台の端へ腰掛ける。ミロは母親の隣へ行かず、なぜか俺の椅子の近くへ立ったままだった。
「昨夜、何があったのですか?」
俺は必要以上に隠さず、しかし不必要な恐怖を与えないよう慎重に説明した。
「二人の男が、裏手からこの家へ近づきました。一人が窓を開けようとしたので、その前に止めました」
「二人も……」
マリアの指が膝の上で強く組まれる。
「誰だったのですか?」
「町にいる者です。ただ、今は名前を話さない方がいいと思っています」
「知っている人なのですね」
「はい」
不安が強くなったのが分かった。
「再び来る可能性はあります。ただ、二度とこの家へ近づかないよう警告しました。同じ人物が接近すれば、《窓辺の目》からすぐ通知が来ます」
「何を捜していたのです?」
「ヘルムートが残した可能性のある書類です」
マリアが息を呑んだ。
「うちに?」
「向こうはそう考えていました」
「でも、私は本当に何も知りません」
「分かっています」
「以前にも、役場の方が家を調べたことがあります」
「二年前ですね?」
「はい。夫の支援記録を確認すると言われて、棚や机、夫の荷物まで調べられました」
「床下も?」
「一部だけです。夫が工具を入れていた場所があったので、そこも」
かなり念入りだ。
それでも何かが残されているとグレゴルたちは疑っている。
「書類が本当にある可能性は高くないと思っています。ただ、確認だけさせてください」
「家の中を、ですか?」
「あなたが許してくれた場所だけです」
俺は懐から、普通の眼鏡へ外見を変えた《イリスの片眼鏡》を取り出した。
「これは、魔力を使って何かを隠した痕跡や、不自然に手を加えられた場所を見つけるための魔導具です。何でも真実を教えてくれるものではありません」
「私たちのことも見えるのですか?」
「魔力の状態は多少見えます」
マリアの表情が僅かに強張った。
俺はすぐに眼鏡を卓上へ置いた。
「嫌であれば使いません。寝台周辺や衣類を見るつもりもありません。ヘルムートが触れた可能性のある机や棚、窓、扉の周辺だけにします」
「家全体を調べなくてもいいのですか?」
「生活を守るための調査で、生活そのものを覗いたら意味がありません」
マリアは長く眼鏡を見た。
それから静かに頷く。
「お願いします。何かあるなら、私も知りたいです」
「分かりました」
「アル」
セリーがすぐ横から小さく声をかけた。
「三分半です」
「分かっている」
「私が時間を見ます」
「ああ」
眼鏡をかけ、鎖の先にある起動石へ魔力を流した。
視界が一度淡く白み、すぐに室内の輪郭へ無数の色が重なっていく。
机には、長い年月の中で触れた者たちの魔力が薄く重なっている。
現在のマリアとミロ。
それより古く残る、大人の男の痕跡。おそらくロイドだ。
棚にも特別な反応はない。
窓枠には昨夜の解錠魔術による細い歪みが残っているが、それ以外に目立つものはなかった。
「何か見えますか?」
「昨夜、窓へ使われた魔術の痕跡はあります。それ以外は、今のところ普通です」
視線を床へ落とす。
古い補修跡や、何年も積み重なった生活魔力が淡い色となって入り混じっている。情報が多い。何でも見ようとすれば、それだけで時間が過ぎてしまう。
「残り二分です」
セリーの声。
「分かっている」
焦るな。
片眼鏡は答えを出す道具ではない。
ヘルムートがこの家にいたのは短時間だ。グレゴルらしき役人が外から声をかけ、マリアも外へ出た。そのわずかな間に何かを残したのだとすれば、奥へ入って大掛かりな細工をする時間はなかったはずだ。
「マリアさん。ヘルムートが来た時、役場の男と話した場所は家の前ですか?」
「はい」
「あなたも外へ?」
「声をかけられたので、私も出ました」
「ヘルムートは?」
「最初は中にいました。でも、すぐ出てきました」
ほんの短い時間。
机の裏。
椅子。
扉の脇。
手の届く位置を順番に見る。
特別な反応はない。
「あと一分です」
焦りそうになる気持ちを抑える。
ふと、暖炉脇へ置かれた古い木箱へ視線が移った。
他の家具と同じように、長い年月の魔力が重なっている。
だが、その底だけ。
ごく細い黄色の線があった。
不自然に情報を隠した時に出る色だ。
「この箱は?」
「夫の道具箱です」
「中を見ても?」
「はい」
ミロがすぐに箱へ近づこうとした。
「待て」
「何で?」
「俺が先に見る」
そこで眼鏡を外した。
「時間です」
セリーがすぐ俺の腕へ手を添える。
「気分は?」
「目の奥が少し重いだけだ」
『軽度の視覚負荷を確認しました。数分間の休息と水分摂取を推奨します』
「箱を見るだけなら」
「眼鏡はもう使いません」
「分かっている」
問答無用で椅子へ座らされる。
マリアが心配そうにこちらを見た。
「大丈夫なのですか?」
「少し疲れる道具なんです」
セリーが代わりに答え、水を俺へ渡した。
「アルはすぐ無理をしようとしますので」
「町の中では主様と言うなと何度も――」
「今はアルと言いました」
「そこは守るのか」
少しだけ空気が和らぐ。
数分休んでから、木箱を机の上へ移した。
古い箱だった。
角は削れ、蓋にも小さな傷が無数に残っている。鍵はなく、開けば中から槌や錆びた釘、木片、小さな工具、削りかけの木の人形などが現れた。
「あっ、父さんの犬!」
ミロが丸みを帯びた木の塊を持ち上げる。
俺はしばらく眺めた。
「豚に見えるな」
「犬だよ!」
「アルさん」
マリアが口元を押さえて笑う。
「夫と同じことを言わないでください」
「ロイドさんも、自分で豚だと言っていたのですか?」
「いいえ。私が豚だと言ったら、最後まで犬だと言い張っていました」
「父さんが犬って言ったんだから犬!」
「分かった。犬だ」
ミロは満足そうに木の人形を抱えた。
俺は箱の中身を一つずつ机へ出していく。
黄色い反応が見えたのは底だ。
よく見ると、底板は箱の深さに対して僅かに厚い。
指で叩くと、端の一部だけ音が違った。
「二重底かもしれない」
「そんなものが?」
マリアも知らないらしい。
箱に入っていた細い工具を使い、木を傷つけないよう慎重に底板の端へ差し込む。少しずつ持ち上げると、薄い板が外れ、その下へ狭い空間が現れた。
そこにあったのは、紙の束ではなかった。
一枚の薄い木札。
そして指先ほどの金属片。
「これは……」
マリアが息を止める。
木札を取り出す。
表面には日付と名前、それから金額が刻まれていた。
三年前。
ロイド。
金貨三枚。
受領確認前。
端には、商業組合の印が入っている。
「補償金の仮受領札だ」
「何なのですか?」
「商業組合から領主府へ補償申請を出す際、正式な帳簿へ転記する前に一時的に作る確認札です。通常は処理が終わったあと破棄されます」
「なぜ、夫の箱に?」
「ヘルムートが隠した可能性が高い」
金属片も確認する。
こちらには商業組合の古い刻印が半分だけ残っている。
「封印照合片だな」
『形状から、文書封印の真正性を確認するための照合部品である可能性が高いです』
「これだけで、夫のお金が盗まれた証拠になりますか?」
マリアの声には、期待と恐怖が入り混じっていた。
「これだけでは足りません」
俺は慎重に答える。
「この木札は、少なくともロイドさんに対して金貨三枚の補償が予定されていたことを示しています。ただ、実際に領主府へ三枚が渡ったことや、誰が二枚を抜いたのかまでは証明できません」
期待を持たせすぎてはいけない。
「でも、重要な証拠ではあります。商業組合の正式な申請記録と照合すれば、価値は大きくなる」
「ヘルムートさんが、これを残したのでしょうか」
「可能性は高いと思います」
木箱の底へわざわざ隠されていた。
片眼鏡は情報隠蔽の痕跡を示した。
ヘルムートがここへ来た時、ほんの短時間だけ一人になっている。
「持っていきますか?」
すぐには答えなかった。
塔へ持ち帰れば、この町の誰にも奪われにくくなる。
だが、原物の所在を俺だけが知る状態も危険だ。
「正確な写しを作ります」
「写し?」
「木札そのものは、今日中に別の場所へ隠します。ただし場所を決めるのはマリアさんです」
「私が?」
「はい。俺たちも隠し場所を知らない方が安全です」
マリアが戸惑った。
「そこまでしなくても……」
「念のためです。俺たちが捕まる可能性は低いと思っていますが、絶対ではありません。記憶を読む魔術の存在も知っています」
塔への探索魔術。
レイチェルによる精神干渉。
何が起きてもおかしくない。
「写しは三つ作ります。一つは俺たちが持つ。一つはマリアさんへ。もう一つは、いずれ信頼できる第三者へ預けたい」
「肉屋さんですか?」
セリーが尋ねる。
「まだ決めない。主人は信頼できると思うが、証拠を預けるとなれば別だ」
責める意味ではない。
彼は以前、良かれと思ってグレゴルへヘルムートの話をしてしまった。
人が良いからこそ、秘密を抱える役には向かない可能性もある。
「このことは、ミロにも――」
「俺、聞いてるよ」
すぐ横から不満そうな声がした。
「そうだったな」
「誰にも言わないよ」
「肉屋の主人にも?」
「言わない」
「友達にも?」
「言わないって」
「市場の人にも?」
「言わない!」
ミロは胸を張った。
「父さんの大事なものなんでしょ?」
「ああ」
「なら、俺も守る」
子供へ秘密を背負わせるのは本意ではない。
それでも、父親に関わることを何も知らせず遠ざけるのも違うように感じた。
「一人で守ろうとするなよ」
「分かった」
「怖いことがあったら、すぐ母親か俺たちに話せ」
「うん」
少し間があり、ミロが俺を見上げる。
「アル兄ちゃんもね」
返す言葉がなくなった。
隣でセリーが笑いを堪えている。
「何だ」
「いえ。私が言おうと思っていたことを、ミロ君が先に言ってくださったので」
「聞こえていた」
「主様、子供にも心配されていますね」
「町では主様と言うな」
マリアとミロが笑い、重かった空気がほんの少しだけ柔らかくなった。
◇◇◇
木札と金属片を一時的に預かり、俺たちはミロの家を出た。
原物の新しい隠し場所は、午後までにマリア自身が決めることになっている。それまでに塔で正確な複製を作り、今日中に返すつもりだった。
「見つかりましたね」
住宅地を離れながら、セリーが小さく言う。
「ああ」
「《イリスの片眼鏡》が役に立ちました」
「道具だけの力ではない。マリアが昔のことを覚えていたから、ヘルムートが家の中へ一人で残った時間があったと分かった」
「それに、主様が家全部を勝手に調べなかったから、安心して話してくださったのかもしれません」
「そうならいいが」
証拠が見つかった喜びよりも、別の疑問の方が強く残っていた。
「ヘルムートは、なぜ木札をここへ隠した?」
「正式な記録を消されると思ったからでは?」
「それなら、マリアに伝える方法もあったはずだ」
「外にグレゴルさんがいたので、その場では話せなかった」
「ああ。だが、その後もヘルムートは一年近く町に残っている」
「回収にも来ていません」
「監視されていたのかもしれない。あるいは、この家へ再び近づけばマリアたちへ危険が及ぶと考えたか」
紙の束を持ち歩いていたという証言もある。
「木札はロイドさん一件だけ。紙の束は、ほかの被害者分だったのでしょうか」
「可能性は高まったな」
商業組合職員が把握していただけでも、支払い済みなのに金を受け取っていないという相談が五件ある。
「ヘルムートを見つける必要が、さらに高くなった」
「でも、今日はエマさんについて調べる予定です」
セリーが念を押す。
「ああ。そこは変えない」
「安心しました」
「そこまで信用がないのか?」
「大きな手掛かりを見つけると、主様はすぐ全部調べたくなりますから」
「否定できない」
市場へ近づくと、朝の賑わいが強くなる。
「あっ、変な旅人さん!」
聞き慣れ始めた声が飛んできた。
野菜売りの女性が、こちらへ大きく手を振っている。
「完全に定着したな」
「諦めます?」
「諦めない」
店先へ近づくと、女性は俺たちの持つ包みへ目を向けた。
「今日は何を抱えてるんだい?」
「預かり物です」
「またミロの家かい?」
「はい」
女性の顔から笑みが少し薄くなった。
「昨日の夜、変な奴が来たんだってね」
「もう知っているんですか?」
「朝、マリアが隣へ話したんだよ。夜回りが追い払ってくれたって」
この町に秘密という言葉は存在しないのではないかと思えてくる。
「怖い話だからね。みんな心配してるよ。ミロたちは大丈夫なのかい?」
「無事です」
「何を狙われた?」
「そこまでは分かっていません」
木札のことは伏せる。
女性は少し安心したあと、思い出したように声を落とした。
「そういや最近、町の外から変な連中も来てるらしいしね」
「町の外から?」
「領主府の馬車さ」
足が僅かに止まった。
「いつです?」
「昨日の夕方。役場の裏へ黒い馬車が入ったって聞いたよ」
グレゴルのところへ来ていた男かもしれない。
「紋章は?」
「布で隠してたらしい」
公務で来るなら、領主府の紋章を隠す理由は薄い。
「また難しい顔してるよ」
「考え事です」
「お嬢ちゃん、ちゃんと休ませな」
「はい。昨夜も水を飲ませました」
「そこまで話す必要があるか?」
「無理をしたので」
女性は俺の顔を見て笑った。
「若いくせに、働きすぎの役人みたいな顔してるね」
「以前、似た仕事をしていたので」
「やっぱり役人だったのかい?」
「似たようなものです」
「なら、病気の子供の支援も詳しいのかい?」
ちょうど聞こうとしていた話題だった。
「むしろ、それを知りたくて。何かご存じですか?」
「子供が病気なのかい?」
「知り合いから、薬代に困っている家の話を聞きました」
「なら治療院のイーダに聞きな」
「医師ですか?」
「違うよ。受付と薬の管理をしてる婆さんだ。四十年くらいあそこにいるから、町の制度なら役場より詳しい」
「イーダさん」
「ただし、話が長いよ」
「ヘルムートさんより?」
セリーが尋ねる。
「同じくらいだね」
「覚悟が必要ですね」
「お嬢ちゃんは喋るの好きそうだから平気だろ」
「はい」
「俺は?」
「聞く役です」
「勝手に役割を決めるな」
女性に場所を教えてもらい、礼を言って店を離れた。
◇◇◇
リュネ治療院は、市場から二本裏へ入った静かな通りに建っていた。
白い壁と緑色の屋根を持つ二階建てで、入口には薬草を模した木製看板が下がっている。開けられた窓からは乾燥薬草と煮出した薬の苦い匂いが流れ、建物へ近づくだけで鼻の奥へ残った。
待合室には数人の患者がいた。
腕へ包帯を巻いた職人。
咳き込む老人。
眠そうな幼児を抱く若い母親。
奥からは湯を沸かす音と薬瓶の触れ合う小さな音が聞こえ、治療師たちは忙しそうに部屋を行き来している。
「次」
低く、よく通る声が響いた。
受付に座っていたのは、小柄な老女だった。
白髪を後ろでまとめ、年齢は七十を超えているように見える。背は少し曲がっていたが、こちらを見る目だけは驚くほど鋭かった。
「怪我かい?」
「相談です」
「相談料は銅貨二枚」
「払います」
「先に内容を言いな。答えられない話で金は取らないよ」
現実的な人だ。
「十二歳ほどの子供で、冬になると胸が苦しくなる病気があります。薬を継続して使う必要があるようですが、家族の収入だけでは足りません」
イーダの目が細くなる。
「名前は?」
「今は話せません」
「なら、こっちも一般論までだよ」
「それで構いません」
「咳は?」
「分かりません」
「熱は?」
「不明です」
「胸が痛むのか、息が吸えないのか、心臓が速くなるのか」
「そこも確認できていません」
「何も知らないじゃないか」
遠慮のない指摘だった。
「はい」
「それで助けようとしてるのかい?」
「助けられると決めたわけではありません。使える制度があるか確認したいだけです」
老女は俺とセリーを交互に見た。
「町で噂の、変な旅人か」
「ここまで届いているんですか」
「昨日、肉屋の旦那が薬を取りに来た」
「あの人が?」
「腰が痛いくせに重い肉を持つからだよ」
妙なところで噂がつながっている。
「子供の医療支援制度はありますか?」
「紙の上ではある」
「紙の上では?」
「十五歳未満で、保護者の所得が一定以下なら、薬代の半額を領主府が負担する制度がね」
「現在も有効ですか?」
「廃止の通知は来てない」
「実際に利用できた人は?」
「ここ二年は一人もいないよ」
周囲の音が遠くなった気がした。
「理由は?」
「役場が、予算不足だから受けられないと返す」
「正式な停止文書は?」
「見たことないね」
遺族補償と同じだ。
「申請そのものは可能ですか?」
「できる。銀貨一枚の手数料を払えばね」
「医療支援にも銀貨一枚?」
「そうだよ」
「以前から?」
「五年くらい前までは銅貨十枚だった」
「十倍か」
「役場は書類管理費が増えたと言ってる」
「却下された場合、手数料は返るのですか?」
「返らない」
セリーの表情が曇る。
「それでは、支援が必要な人ほど申請できません」
「だから誰も来なくなった」
イーダは受付に置いた紙を指で叩いた。
「薬を減らす。借金する。子供に働かせる。限界まで我慢して、最後にここへ担ぎ込まれる。そんな家ばかりだ」
「亡くなった子も?」
イーダの顔が硬くなる。
「いるよ」
待合室にいる母親が、抱いていた子供を無意識に強く抱き寄せた。
腕へ包帯を巻いた職人も、こちらを見ている。
「役場へ抗議は?」
「何度もした」
「領主府へは?」
「手紙を送った。返事はなし」
「王都へも?」
イーダの目が俺へ向いた。
「送ったよ」
「いつ頃です?」
「三年前と二年前。一度目は、監査候補へ入れたと返事が来た」
胸の奥へ重いものが落ちた。
俺が延期した監査だ。
「二度目は?」
「返事なし」
俺は視線を落とした。
「どうしたんだい?」
「以前、王都の行政に関係する仕事をしていました」
「役人か」
「似たような立場です」
「その監査が来なかったことと関係がある?」
逃げることはできた。
知らないふりもできた。
だが、それをしたくなかった。
「あります。監査を延期した判断に、俺も関わっています」
隣でセリーが静かに俺を見る。
イーダはすぐには何も言わなかった。
待合室にいる何人かも、こちらの会話へ耳を向けている。
「どのくらい偉かった?」
「それは話せません」
「言えないくらい偉かったか」
答えずにいると、イーダは鼻からゆっくり息を吐いた。
「今さら頭を下げに来たのかい?」
「違います」
「なら、何をしに来た?」
「目の前の子供が使えるはずの制度を、確認しに来ました」
「過去のことは?」
「消せません」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「だから、今できることをします」
「綺麗なことを言うね」
「そう聞こえると思います」
「逃げないんだね」
「逃げたくはありません」
しばらく沈黙が続いた。
「私は王都の人間が嫌いだよ」
「はい」
「帳簿を見て、困った顔をして、検討すると言って帰る。次に連絡すれば担当が変わったと言う」
「はい」
「でも、あんたは自分が見逃したと言った」
「事実です」
「名前は?」
「今は言えません」
「信用しろと言うのかい?」
「言いません」
イーダの目が少し変わった。
俺は続ける。
「ただ、制度の正式な文書を見せていただけませんか。現在の運用と照合したい」
「役場へ持っていく?」
「いいえ」
「写す?」
「許可していただければ」
イーダは長く考えた。
やがて手を差し出す。
「相談料、銅貨二枚」
セリーが財布を取り出した。
「答えられる相談だったのですね」
「半分はね」
銅貨を受け取ると、イーダは椅子から立ち上がった。
「奥へ来な」
◇◇◇
治療院の奥には、小さな資料室があった。
壁際の棚には、薬草の配合記録や患者台帳、領主府から届いた制度文書が隙間なく並んでいる。紙と薬草と古い木の匂いが混じり、長年使われ続けてきた場所だとすぐに分かった。
イーダは一冊の綴りを抜き取り、机へ置く。
「未成年医療補助制度。これが最後に届いた正式文書だよ」
紙は古いが、領主印も日付もはっきり残っている。
「停止や廃止の追記は?」
「ない」
文面を追う。
「申請手数料……銅貨十枚」
「今は銀貨一枚取ってる」
「差額の根拠になる正式な改定文書は?」
「私は見てない」
《イリスの片眼鏡》を使えば、文書の偽造や後付けを確認できる。
だが、今朝すでに使用した。
「主様」
セリーが小声で呼ぶ。
「分かっている。今日はもう使わない」
イーダが眉を上げた。
「何の話だい?」
「文書の改ざん痕跡を調べる魔導具があります。ただ、連続で使うと身体へ負担があります」
「便利なもの持ってるね」
「便利ですが、答えを教えてくれるわけではありません」
「それが分かってるならいい」
イーダは文書を指先で叩いた。
「この写しを持っていきな」
「いいのですか?」
「三年前、王都へ送ったのと同じものだ。控えならまだある」
何度無視されても、記録を捨てなかった。
「病気の子供について、診察は可能ですか?」
「連れてくればね」
「費用は?」
「初診が銅貨十五枚。薬は症状次第だ」
「払えない場合は?」
「未収帳簿へつける」
「回収できるのですか?」
「できないことの方が多い」
「それでも診る?」
イーダが俺を睨んだ。
「子供が息をできない時に、金勘定して追い返す治療師がいるかい」
「いないと思いたいです」
「領都にはいるよ」
声に深い苛立ちが滲んだ。
「ここでは診る。ただし、薬草も人手も無限じゃない。全部を無料にはできない」
「当然です」
「その子を連れてきな」
「家族が、役場へ知られることを恐れている可能性があります」
「治療記録は役場へ出さないよ」
「補助申請をすれば?」
「その時は名前が必要だ」
「診察だけなら?」
「院内記録だけだ」
それなら、まず診察を受けさせることはできる。
「一般的な話として、その子が使える可能性のある支援制度は、今見せていただいたものですね」
「そうだ」
イーダが俺を見た。
「その子、名前は?」
迷った。
ここまで話を聞き、治療院の運用も分かった。
「エマです」
イーダの目が細くなる。
「十二歳か」
俺とセリーは同時に顔を向けた。
「知っているのですか?」
「三年前に一度診た」
「病名は?」
「家族以外には言えない」
「当然ですね」
「兄が時々薬を買いに来る」
「トーマスが?」
名前を言った瞬間、イーダの眉が動いた。
しまったと思ったが、もう遅い。
「兄の名まで知ってるんだね」
「昨日、本人と話しました」
「何をした?」
「それは言えません。ただ、妹の薬代に困っていることを聞きました」
イーダはしばらくこちらを見たあと、それ以上は追及しなかった。
「次に兄が来たら、アルという旅人が話したがっていると伝えていただけますか?」
「理由は?」
「妹の支援制度についてです」
「罠じゃないね?」
「違います」
「王都へ売るつもりも?」
「ありません」
イーダの目は鋭かったが、やがて小さく頷いた。
「分かった。ただし、あんたが妙なことをしたら、町中へ言いふらすよ」
「すでに変な旅人として十分広まっています」
「もっとひどい名前をつける」
「それは困ります」
「困ってる顔じゃないね」
老女の口元へ、ほんの少し笑みが浮かんだ。
「もう一つ聞いても?」
「何だい」
「ヘルムートという商業組合職員を知っていますか?」
イーダの笑みが消えた。
「知ってるよ」
「ここへ来ていました?」
「何度もね」
「何をしに?」
「申請書の控えを集めてた」
「医療補助の?」
「それだけじゃない。遺族補償、食料支援、薬代、税の軽減。役場で止められた申請を、まとめて領主府へ出し直すつもりだった」
新しい情報だった。
「いつ頃です?」
「二年前。町からいなくなる少し前だ」
「紙の束を持っていましたか?」
「いつも抱えてた」
「右手に怪我は?」
「あったよ。布を巻いてた」
「理由は?」
「転んだと言ってた」
肉屋でも同じ説明だった。
「最後に会った時、何か言っていましたか?」
イーダはしばらく遠くを見るように目を細めた。
「自分がいなくなっても、申請書の控えは捨てるな、と」
「まだ残っていますか?」
「一部はね」
「見せていただくことは?」
「今日は駄目だ」
迷いのない返答だった。
「理由を聞いても?」
「まだ、あんたをそこまで信用してない」
「分かりました」
「怒らないのかい?」
「当然の判断です」
イーダは俺の顔をじっと見てから、制度文書の写しを差し出した。
「まずエマを連れてきな。話はそれからだよ」
「ありがとうございます」
◇◇◇
治療院を出ると、昼前の光が通りへ差し込んでいた。
服には薬草の匂いがしっかり染みついている。
「エマさんは、すでに治療院へ来たことがあるのですね」
セリーが隣を歩きながら言う。
「ああ。薬も継続して必要な可能性が高い」
「トーマスさんが危険な仕事を受ける理由も、よりはっきりしました」
「だからといって、やったことが消えるわけではないがな」
「はい。でも、どうしてそこまで追い詰められたかは分かります」
「すぐトーマスを捜したいところだが」
「正面から探せばグレゴルさんへ伝わります」
「ああ」
イーダへ任せるのが一番自然だ。
「制度の準備だけ進める。正式文書の写しも得た。現在の手数料と違うことも確認できた」
「木札もあります」
「ああ。今日は十分に進んだ」
口にした自分が少し意外だった。
「主様が、自分から十分と言いました」
「そんなに珍しいか?」
「かなり」
「俺も学んでいる」
「では、一度塔へ戻りますか?」
「ああ。木札の写しを作って、昼食を取る」
「休憩もです」
「ああ」
「素直ですね」
「約束が増えすぎて、反論する方が疲れる」
「守るものが増えた証拠です」
セリーが嬉しそうに言った。
◇◇◇
市場を抜け、転移地点へ向かう途中だった。
道具屋の前に、見覚えのある若い男が立っていた。
トーマス。
昨夜は暗闇の中だったため年齢が分かりにくかったが、昼間に見ると二十代半ばほどに見える。服は古く、袖口は擦り切れていた。片手には、小さな薬包を握っている。
「主様」
「見えている」
こちらから声をかけるのは避けた。
通りには人がいる。
トーマスも俺たちへ気づき、顔を強張らせた。
一度はそのまま歩き去ろうとした。
だが、数歩進んだところで足を止める。
こちらへ振り返らないまま、低い声だけが届いた。
「妹のこと」
俺も距離を詰めず答える。
「調べた」
トーマスの肩が僅かに動いた。
「治療院で話を聞いた。イーダさんはエマを覚えていた」
「何を言われた?」
「本人のことは家族以外へ話せないと」
「……そうか」
落胆というより、どこか安心したような声だった。
「ただ、連れてくれば診察すると言っていた」
「金がない」
「最初の診察代と、その時に必要な薬代は俺が払う」
トーマスが振り返った。
「なぜだ」
「制度を調べるためでもある」
「妹を実験台にするのか?」
「違う」
「なら何でだよ」
俺は一度言葉を選んだ。
「十二歳の子供が、家族の金が足りないという理由だけで息を苦しむのを放っておきたくない」
トーマスの表情が歪んだ。
「簡単に言うな」
「簡単だとは思っていない」
「お前に何が分かる」
「分からない」
逃げずに答える。
「妹を生かすために、他人の家へ忍び込んで子供を脅す仕事を受ける気持ちは、俺には分からない」
トーマスの目が鋭くなる。
「ただ、選べる道を一つ増やすことはできるかもしれない」
「見返りは?」
「ない」
「嘘だ」
「なら、昨夜のことをグレゴルへ話してもいい」
セリーが僅かに息を呑んだ。
トーマスも驚いた顔になる。
「何?」
「俺たちに捕まったことも、武器を奪われたことも、エマの話をしたことも全部言って構わない。その上で、エマの診察代は払う」
「何でだよ」
「妹の治療と、お前が俺たちへ何をするかは別だからだ」
トーマスは何も言えなくなったようだった。
「ただし、ミロやマリアへ再び近づけば止める。それは変わらない」
「分かってる」
「診察を受けるかどうかは、お前とエマが決めろ」
「お前ら、どこにいる」
「それは言えない」
「宿にも泊まってないくせに」
「そこまで調べたのか」
「ダンが探した」
トーマスは一度周囲へ目を向けた。
「グレゴルは、お前らを王都の人間だと思ってる」
「そうか」
「領主府も動いてる」
「それも聞いた」
「なら逃げろ」
意外な言葉だった。
「なぜ教える?」
「妹のことを調べたからじゃない」
トーマスは強く否定する。
「昨夜、俺たちを衛兵へ渡さなかったからだ」
「それだけか?」
「それだけだ」
顔は、そうではないと言っていた。
トーマスはさらに声を落とす。
「グレゴルは今夜、古い申請書を燃やす」
胸の奥が冷える。
「どこで?」
「町役場の裏から運び出す。日が落ちてから、町の北西にある焼却場へ持っていく」
「中身は何だ?」
「知らない。でも、古い申請書だと言ってた。ヘルムートが集めてたものも混じってるかもしれない」
「なぜお前が知っている?」
「運ぶ仕事を頼まれた」
「受けたのか?」
「ああ」
責める言葉が喉まで出て、止めた。
「報酬は?」
「銀貨三枚」
危険な仕事としては大きい。
妹の薬代を考えれば、断りにくい金額なのだろう。
「同じ額を俺が払う」
「やめろ」
トーマスの声が低くなる。
「何でも金で解決しようとするな」
その言葉は、思っていた以上に深く刺さった。
王族として生きてきた俺へ、最も向けられて当然の言葉かもしれない。
「……そうだな」
素直に認める。
「俺は、金をもらえば何でもする奴に見えるか?」
「昨夜、お前自身が食うためだと言ったから」
「だからって」
「悪かった」
トーマスが黙る。
「金を渡す代わりに仕事を断れとは言わない」
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
「証拠を燃やす仕事だと知った上で、運ぶかどうかはお前が決めろ」
「断ったら疑われる」
「ああ」
「妹もいる」
「ああ」
「簡単に言うな」
「簡単に選べるとは思っていない」
俺は彼を見つめた。
「だから、別の方法を考える」
「別の方法?」
「予定どおり箱を運べ」
隣でセリーが驚いた。
「主様」
「ただし、燃やさせない」
トーマスの表情が強張る。
「どうするつもりだ?」
「まず、中身が本当に証拠か確認する。証拠なら、原物を守るか、少なくとも複製する」
「焼却場にはグレゴルの人間がいる」
「人数は?」
「二人。領主府からも来るかもしれない」
「戦うつもりはない」
「無理だ」
「見つからなければいい」
転移扉。
影へ溶ける魔導具。
遠隔観測。
塔には方法がある。
「箱はどう運ぶ?」
「荷車だ」
「何個?」
「大きい木箱が二つ」
「蓋は?」
「役場で釘を打つ」
「途中で止まれる場所は?」
「ない。役場から焼却場まで見張りがつく」
「経路は?」
トーマスは周囲へ視線を走らせてから、小声で答える。
「北側の裏門から出て、古い水路沿いを通る。皮なめし場を越えた先が焼却場だ」
「時間は?」
「鐘が八つ鳴る頃」
頭の中へ道を刻む。
「この話をしたことは?」
「言わない」
「なぜ?」
「分からない」
トーマス自身が、一番困ったような顔をしていた。
「本当に、自分でも分からない」
昨夜までの彼なら、迷わずグレゴルの命令へ従ったのだろう。
今は迷っている。
それだけでも、昨夜の選択には意味があったのかもしれない。
「エマを治療院へ連れていけ」
「今夜の仕事が終わったら」
「先に行け」
「金が」
「診察代は払うと言った」
トーマスは唇を噛んだ。
「妹には何て説明する」
「変な旅人が、支援制度を調べているとでも言え」
「本当に変だな」
「町中で言われている」
ほんの一瞬だけ、トーマスの口元へ笑みが浮かんだ。
「夕方、連れていく」
「分かった」
「今夜、来るんだな?」
「ああ」
「見つかったら、俺も終わる」
「だから見つからないよう準備する」
トーマスはしばらく俺を見たあと、薬包を握り直した。
「じゃあな」
「ああ」
細い路地へ入り、姿が消える。
◇◇◇
トーマスが完全に見えなくなってから、セリーが俺へ向き直った。
「今日は町へ戻らない予定でしたね」
「予定が変わった」
「また、全部動こうとしています」
「今夜、証拠が燃やされる」
「分かっています」
セリーの声に責める響きはなかった。
ただ、俺が勢いだけで動き始めていないか確かめているのだ。
「だからこそ、まず塔へ戻りましょう」
「ああ」
「昼食を取ります」
「ああ」
「木札の複製を作ります」
「ああ」
「休憩もします」
「ああ」
「今夜は私も行きます」
「当然だ」
セリーが少し目を丸くした。
「止めないのですね」
「昨夜、約束したからな。一人で行かない」
彼女の表情が柔らかくなる。
「はい。では帰りましょう」
◇◇◇
古の塔へ戻ると、まず収蔵室から《形状記録板》を持ち出した。
薄い金属板の上へ木札と封印照合片を置く。
魔力を流すと、青白い光が表面を何度も往復し、刻まれた数字や文字、商業組合の印、木目や傷まで正確に読み取っていった。
『形状情報の記録を完了しました。複製可能です』
「木札で一つ。耐水紙で二つ作ってくれ」
『承知しました』
複製には少し時間がかかる。
その間に、セリーから強制される前に自分から食堂へ向かった。
「主様が、ご自分から昼食を」
「そこまで驚くな」
「成長を感じます」
「子供を見る目をやめろ」
新しいエプロンには、すでに小さな小麦粉の跡がついていた。
「汚れたな」
「使っていますから」
「大切だったんじゃないのか?」
「大切だから使うんです」
セリーは粉の跡を払おうともせず、嬉しそうに笑う。
「この汚れを見たら、今日のことを思い出せます」
「木札を見つけた日を?」
「それもあります」
「ほかは?」
「主様に可愛いと言っていただいた日です」
「そちらが本命か」
「はい」
迷いのない返事に、思わず笑ってしまった。
食事を終え、短い休憩を取ってから書斎へ移る。
机には、リュネ北側から焼却場周辺までを描いた簡易地図を広げた。
「今夜の目的を整理しよう」
セリーが隣へ座る。
「申請書が本当に運び出されるのかを確認します」
「ああ。そのうえで、箱の中身を確認する。証拠なら可能な限り記録し、原物も救えるなら救う」
「誰が処分へ関わっているかも確認したいですね」
「できればな。ただし、トーマスが危険になった場合はそちらを優先する」
セリーが俺の顔を見る。
「証拠より?」
「人が先だ」
「よかったです」
「俺が証拠のためにトーマスを置いていくと思ったのか?」
「昔の主様なら、大きな目的を優先していた可能性があります」
否定しようとして、やめた。
「今は置いていかない」
「はい」
俺はエルへ意識を向ける。
「使えそうな魔導具は?」
『候補を三点提示します』
机の上へ淡い文字が浮かび上がった。
『第一候補、《遠見の紙蝶》。小型の紙製観測魔導具。対象付近へ接近し、視覚情報のみを使用者へ送信します。夜間であれば発見される可能性は低いですが、火気への耐性はありません』
「焼却場では近づけすぎない方がいいな」
『第二候補、《影渡りの外套》。装着者の姿および魔力反応を周辺の影へ同化させます。収蔵数は二着です』
「俺とセリーで使える」
『はい。ただし、強い光を正面から受けた場合、偽装精度が低下します』
「焼却場の火が問題になるか」
『距離を確保すれば軽減できます』
「三つ目は?」
『《記憶水晶》。設置地点を中心に、一定範囲の光景と音声を保存します』
「範囲は?」
『標準設定で半径十五メートル。画質と音声精度を下げれば、最大三十メートルまで拡張可能です』
「設置した水晶から、塔へ直接送れるか?」
『リアルタイム通信には対応していません。回収後に内容を再生します』
「設置場所へ近づく必要があるな」
「《遠見の紙蝶》で先に状況を確認し、《影渡りの外套》で近づき、《記憶水晶》を設置するのはどうでしょう」
セリーが地図へ身を乗り出した。
「記録を残してから、箱の中身を確認します」
「悪くない。ただ、箱が焼却場へ入ったあとでは遅い可能性がある」
「役場から出るところを観察しますか?」
「ああ。トーマスが教えてくれた経路なら、水路沿いに一度道が狭くなる場所がある」
旧王太子府にあった町の地図を思い出しながら、指で位置を示す。
「ここなら建物の影が多い。《影渡りの外套》も使いやすい」
「箱を直接開けますか?」
「見張りがついているなら難しい」
「では、役場で積み込む時に紙蝶を近づける?」
「中身まで見える保証はないな」
俺は少し考えた。
「エル。箱の内部を、外から確認できる魔導具は?」
『内容物の魔力反応のみを確認する《透査針》があります。ただし、紙そのものを判別する精度は低いです』
「文字の量やインクは?」
『大量の記録媒体が存在することは推定可能です』
「それでいい。まず本当に大量の紙が入っているか確認する」
何も知らずに箱を奪えば、中身がただの廃棄物だった場合、こちらの存在だけを露見させることになる。
「原物を救う方法は?」
「転移できますか?」
セリーが尋ねる。
「荷車ごと?」
「いえ、箱だけを塔へ」
『転移扉の通常機能では、接触していない遠隔対象のみを選択転移させることはできません』
「では、俺たちが箱へ触れる必要がある」
「人前では難しいですね」
「ああ」
正面から奪うつもりはない。
戦えば証拠より騒ぎの方が大きくなる。
「焼却直前、箱を開ける瞬間が一番近づきやすいかもしれない」
「でも、火があります」
「《影渡りの外套》が弱くなる」
「別の隠蔽方法を使います?」
「エル」
『低出力認識阻害魔導具《通り雨の帽子》があります。装着者を不可視にするのではなく、周囲から「気に留める必要のない存在」と認識されやすくします』
「人数は?」
『二名まで同時使用可能です』
「効果はどの程度?」
『警戒している人物や、明確に対象を探している人物には効果が弱くなります』
「完全に頼るのは危険だな」
「それでも、影渡りと組み合わせれば?」
『複数の認識阻害術式を重ねると、相互干渉により性能が低下します』
「一つずつか」
便利だからといって、何でも重ねればいいわけではないらしい。
「主様」
「何だ?」
「今、少し楽しんでいます?」
「何を?」
「どうやって見つからず証拠を守るか、考えることを」
言われてみれば、確かに以前とは違う感覚があった。
問題が起きている。
危険もある。
それでも、ただ怖いだけではない。
「少しだけな」
「王太子時代の経験が役に立っていますね」
「外交や軍の配置より、今は泥棒に近いことを考えている気もするが」
「正義の証拠泥棒です」
「言い方が悪い」
「では、証拠救出作戦」
「それならまだいい」
セリーが笑う。
そのおかげで、張り詰めすぎていた思考が少しほぐれた。
「方針を決める」
俺は地図の水路沿いを指した。
「まず俺たちは別の姿で町へ入る。アルとセリは今夜、町にいないことにする」
「昨日の夜回りとも別人?」
「ああ。毎回同じ夜回りが現れれば、結びつけられる」
「今夜は?」
「水路の管理人か、皮なめし場の作業員に見える姿がいい」
「夫婦設定は?」
「要らない」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてあった」
「主様も私の顔を読めるようになりましたね」
俺は無視して続けた。
「最初に紙蝶を飛ばし、役場裏から荷車が出るのを確認する。トーマスがいることも見る」
「トーマスさんが途中で消えた場合は?」
「作戦中止も考える。あいつが囮にされている可能性もある」
「はい」
「荷車を遠くから追う。《透査針》で箱の中に大量の文書があるか確認する」
「確認できたら?」
「《記憶水晶》を焼却場近くへ設置して、誰が処分を命じ、何を話すか記録する。そのうえで、箱が開かれた瞬間に内容を確認する」
「原物をどう救います?」
そこが一番難しい。
燃やされる前に箱そのものを奪えば、必ず騒ぎになる。
全部を救えない可能性もある。
「全量を救うことへ固執しない」
自分で言葉にすると、セリーが少し驚いた。
「いいのですか?」
「目的は、証拠を残すことだ。原物を一枚でも確保し、《記憶水晶》へ処分の様子を記録し、焼却前の文書を複製できれば、全部を奪う必要はない」
「《形状記録板》は持ち運べません」
「携帯型は?」
『《写取板》があります。接触した紙面一枚を約二秒で複製可能です』
「使える」
全部を助けようとして失敗するより、確実に残す。
それも、今の俺が覚え始めた考え方だった。
「ただし、燃やされる書類が本当に被害者たちの申請書だと分かった場合は、できるだけ多く守りたい」
「はい」
「でも、無理に箱を奪ってトーマスや周囲の人間を危険へ晒さない」
「はい」
「俺たち自身も戻れる範囲で動く」
セリーの表情が満足そうに柔らかくなった。
「すべて記録しておきますか?」
「いや」
「なぜです?」
「今は俺自身が覚えている」
『作戦内容はすでに会話記録へ保存されています』
「結局記録されているじゃないか」
「エルさんは優秀ですね」
『検索の腕輪です』
「その返し、最近少し得意になっていないか?」
『根拠のない評価です』
セリーが笑い、俺もつられて笑った。
その時。
『主様』
エルの声が僅かに変わった。
「どうした?」
『《窓辺の目》ではありません。塔の外周結界へ、新たな反応を確認しました』
空気が一瞬で変わる。
「探索魔術か?」
『いいえ』
「では?」
『人間と思われる三つの魔力反応が、結界外縁へ接近しています』
セリーの顔から笑みが消えた。
「王国軍ですか?」
『現時点では判別できません。ただし、三名のうち一名が、前回の王国軍系探索術式とは異なる魔力特性を持つ観測魔導具を使用しています』
俺は椅子から立ち上がった。
「距離は?」
『塔から約十三キロメートル。徒歩または馬車で森の外縁へ接近中です』
「三人だけ?」
『現在確認できる範囲では三名です』
王国軍の再調査なら、もっと人数が多いはずだ。
では誰だ。
「主様」
セリーが俺を見る。
「今夜はリュネがあります」
「ああ」
「でも、塔へも誰かが来ています」
二つの問題が、同時に動き始めた。
以前の俺なら、どちらも自分で今すぐ確認しようとしたかもしれない。
今は一度、目を閉じる。
十三キロ先。
三人。
まだ結界へ到達していない。
リュネの証拠焼却は夜。
時間はある。
「まず、接近している三人を観測する」
「迎えに行きますか?」
「行かない。結界外から見るだけだ」
「はい」
「軍の再調査と同じように、こちらの存在は知らせない。敵とも味方とも決めない」
ブラットたちがこちらへ向かっていることなど、今の俺は知らない。
アンナマリーが何を思い、フェリクスが何を持ってきているのかも知らない。
俺に分かるのは、古の塔へ三人の人間が近づいているという事実だけだ。
「リュネの作戦は中止しますか?」
セリーが尋ねた。
少し考える。
「まだ決めない」
「はい」
「塔へ近づく三人の動きを見てからだ。時間に余裕があるなら、夜は予定どおり町へ行く」
「両方やるのですね」
「両方を一人で抱えるわけではない」
俺はセリーを見る。
「お前がいる。エルもいる。塔そのものの結界もある」
『はい』
「必要なら、どちらかを諦める」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
以前なら、その言葉を敗北のように感じただろう。
今は違う。
「守りたいものが増えたからこそ、全部へ同時に飛びつくわけにはいかない」
「はい」
セリーが静かに頷く。
「今できることを、一つずつですね」
「ああ」
机の上には、ロイドの補償金が金貨三枚だったことを示す木札の複製が作られ始めている。
その隣には、未成年医療補助制度の正式文書。
地図には、今夜燃やされるかもしれない申請書を運ぶ経路。
そして塔の外では、正体の分からない三人がこちらへ近づいている。
証拠が消されようとしている。
届くはずだった支援は、今も届いていない。
ヘルムートの行方も分からない。
それでも、昨日までより見えるものは増えていた。
金貨三枚と刻まれた木札。
制度を残し続けたイーダ。
妹を守るために罪へ近づきながら、それでも俺たちへ情報を渡したトーマス。
それぞれが小さな一片にすぎなくても、積み重ねれば、誰かが消そうとしているものを残せるかもしれない。
俺は地図から顔を上げた。
「観測室へ行く」
「はい」
セリーが立ち上がる。
新しい淡い青のエプロンには、小さな粉の跡がまだ残ったままだった。
大切だからこそ使う。
汚れることを恐れてしまい込むのではなく、今日という一日の中で使い、その跡まで残していく。
証拠も同じだ。
残さなければならない。
誰かが燃やそうとしているなら、消える前に拾い上げる。
ただし、そのために人まで燃やしてしまわないように。
守ることと、取り返すこと。
その二つを両立させる方法を、俺は今夜までに選ばなければならなかった。




