第15話 元王太子、燃やされる声を一枚ずつ拾う
観測室へ入ると、壁面を覆う魔導硝子の一部へ淡い赤色の光が浮かんでいた。
昼間までは森の景色を静かに映していた北東側の硝子に、三つの小さな光点が並んでいる。塔の結界へ直接触れているわけではない。それでも三つの反応は少しずつ距離を詰め、森の外縁部から古の塔が存在する方向へ向かっていた。
「現在地は?」
『塔から約二十一・六キロメートル。移動速度は徒歩と一致します。三名とも人型生体反応です』
右手首から響くエルの声を聞きながら、俺は魔導硝子の前へ立った。隣では、先ほどまで昼食の片づけをしていたセリーが、淡い青色のエプロンの上から薄手の外套を羽織っている。
「王国軍の再調査部隊か?」
『判断材料が不足しています。三名から、軍用の大型探索魔導具に該当する魔力反応は確認されません』
「武装は?」
『長物を一名、短剣または小剣に近い金属反応を二名から確認しています。ただし、旅人の一般的な装備範囲を超えるかは判定不能です』
「塔の結界へ何かしているか?」
『現在まで接触なし。広域探索術式も確認されません』
つまり、こちらを探しているとは限らない。
ただ森を通っている旅人かもしれない。狩人や冒険者の可能性もあるし、王都から向かっている何者かもしれない。昨日までの俺なら、王国軍の再調査と結びつけて警戒を最大まで引き上げていたかもしれないが、今はそうしないと決めている。
「進路を記録してくれ。結界へ十キロ以内まで近づいたら再通知。それまでは干渉しない」
『承知しました』
セリーが魔導硝子へ目を向けたまま、僅かに首を傾げた。
「町へ行っても大丈夫でしょうか?」
「そこを考えている」
今夜、リュネでは古い申請書が焼かれる。
トーマスから聞いた話が正しければ、鐘が八つ鳴る頃、町役場の北側裏門から二つの木箱が運び出される。その中にヘルムートが集めた申請書が含まれている可能性がある。
だが同時に、古の塔へ三人が近づいている。
どちらも無視できない。
「主様」
「何だ?」
「全部をご自分で見ようとしないでくださいね」
考えていたことを先回りされた。
「まだ何も言っていないぞ」
「お顔に、塔も町も自分が全部確認しなければ、と書いてあります」
「そんなに分かりやすいか?」
「毎日見ていますから」
昨日と同じ言葉を使われ、俺は小さく息を吐いた。
「塔の観測はエルへ任せる。結界そのものはセリーがいなくても自動で動くんだったな?」
『通常防御、認識阻害、空間誤認誘導は自動運転されています。重大な侵入試行があった場合のみ、管理者権限による追加判断を必要とします』
「俺たちが町へいる間に重大な接触が起きたら?」
『即時通知が可能です。転移扉による帰還経路も確保できます』
「なら、行ける」
セリーが俺を見た。
「本当に、そう判断していますか?」
「ああ。町の証拠は今夜消される可能性がある。塔へ近づいている三人は、まだ何もしていない。今ある事実だけなら、町を優先する」
「分かりました」
「ただし、塔への接近が十キロを切ったら作戦を中止する。証拠が取れていなくても帰る」
「約束ですね」
「ああ」
『記録しました』
「また記録するのか」
『中止条件は安全管理上重要です』
「今回は否定できないな」
俺は魔導硝子に映る三つの光点をもう一度見た。
誰なのかは分からない。
敵かもしれない。
味方かもしれない。
だからこそ、今はまだ決めない。
◇◇◇
鐘が七つ鳴る少し前。
俺たちは古の塔の収蔵室で、今夜使う魔導具を最後に確認していた。
机の上には《遠見の紙蝶》が二枚。《影渡りの外套》が二着。《記憶水晶》が一つ。それから、対象と同じ量の物体を一時的に置き換える《置換布》が三枚並んでいる。
《置換布》は、セリーヌの研究室で文書や壊れやすい素材を持ち出さず複製するために使われたものらしい。
「本当に、原物は戻せるんだな?」
『置換時間は最大十分。対象物は一時的に所有者指定空間へ移され、代わりに同質量の指定物を置きます。時間内に解除すれば原物は元の位置へ戻ります』
「置換先は?」
『古の塔の記録室に設定できます』
「紙束を三つ入れ替えて、十分以内に必要な部分を記録する」
「かなり忙しいですね」
セリーは《影渡りの外套》を手に取りながら言った。
「だから、全部取ろうとしない」
「優先順位は?」
「未成年医療補助。遺族補償。税軽減。この三種類だ」
「エマさんの申請があれば?」
「最優先で記録する」
トーマスが運ぼうとしている箱の中に、彼の妹の申請書があるかもしれない。
もし本当に入っていたなら、それを見せる意味は大きい。
責めるためではない。
自分が運んでいた箱の中に、家族が助けを求めた記録まで入っていた。その事実を知れば、次に何を選ぶかが変わるかもしれない。
「戦闘になった場合は?」
セリーが確認する。
「撤退優先だ」
「証拠は?」
「捨てる」
「トーマスさんが危険なら?」
「先に助ける」
セリーは俺の顔をしばらく見てから、小さく頷いた。
「確認したかっただけです」
「信用がないな」
「昨日までなら、主様は証拠もトーマスさんも全部取ると言ったと思います」
「今日も、できれば全部取りたい」
「はい」
「だが、全部取ろうとして誰かを失うなら意味がない」
自分で口にして、少し胸へ刺さった。
王太子だった頃の俺は、国全体を守るためという理由で、一人ひとりの事情を後回しにした。
今は逆だ。
大きな不正を暴くためだからといって、目の前の一人を犠牲にしていいわけではない。
「主様」
「何だ?」
「塔へ近づいている三人は?」
『現在、塔から十九・八キロ。進行方向に大きな変化はありません』
「思ったより遅いな」
『一度、休息した可能性があります』
「十キロを切ったら帰る。そこは変えない」
「はい」
セリーは淡い青のエプロンへ一度視線を落とし、それから丁寧に外した。
「それは置いていくのか?」
「もちろんです」
「大切だから?」
「はい。大切なので、燃えるかもしれない場所へは持っていきません」
昨日は、大切だから使うと言っていた。
今日は、大切だから危険な場所には持っていかない。
どちらも矛盾していない。
守ることは、閉じ込めることではない。
だが、無闇に危険へ晒すことでもない。
「行こう」
「はい」
◇◇◇
転移扉を越えた瞬間、湿った夜気が外套の隙間から入り込んだ。
古い水路跡の底には、昼間の熱を失った石と濁った水の匂いが残っている。頭上では細い雲が月を横切り、町の北西側に並ぶ建物の輪郭を、見えたり消えたりさせていた。
皮なめし場の方角からは、薬品と獣脂が混ざった強い臭いが流れてくる。昼なら多くの職人や荷車が行き来する地区なのだろうが、今は人気がなく、遠くに見える焼却場の煙突だけが夜空へ黒い影を伸ばしていた。
『転移地点周辺に人影はありません』
「荷車は?」
『役場裏門を出ました。現在、古い水路沿いを移動しています。到着まで推定七分です』
「紙蝶を出す」
懐から折り畳まれた白い紙を取り出し、掌の上で魔力を流す。
紙はひとりでに広がり、細い羽を持つ蝶の形へ変わった。二千年前の魔導具でありながら、見た目だけなら子供の折り紙に近い。
「これ、本当に見つからないのですか?」
「暗ければ普通の紙片にしか見えないらしい」
『飛行中は虫類に近い不規則軌道を使用します』
「鳥に食われたりしないのか?」
『紙です』
「紙だから、くわえられる可能性を心配しているんだ」
『その場合は遠隔解除します』
「便利なのか不便なのか分からないな」
紙蝶を空へ放すと、小さな羽が音もなく動き、水路沿いを低く飛んでいった。
数秒後、視界の端へ紙蝶が捉えた景色が淡く重なる。
暗い道。
揺れる荷車。
荷台には釘で蓋を留められた大きな木箱が二つ。
荷車を引いているのはトーマスだった。昼間に見た擦り切れた上着の上へ古い外套を重ね、重さに耐えるよう身体を前へ傾けている。
前方に黒い外套の男が一人。
後方に二人。
三人とも剣を持っていた。
「見張りが三人」
セリーの声が僅かに低くなる。
「荷物だけを守る人数には見えませんね」
「ああ」
証拠を燃やす。
その運搬へ関わった者まで、用が済んだら消す。
考えたくはない。
だが、警戒はしておく。
「焼却場を確認する」
俺たちは水路の壁沿いへ身を寄せながら移動した。
焼却場は、町の外れに建つ石造りの施設だった。高い煙突と鉄製の大扉があり、建物の裏には灰を運び出すための狭い出入口がある。周囲には低い柵が巡らされ、正面だけは二つの魔導灯で照らされていた。
『内部に四名を確認』
「四人?」
『焼却炉管理者と思われる二名。武装した二名です』
「外の三人と合わせて七人か」
「トーマスさんを含めれば八人です」
「俺たちは数えなくていい」
「気持ちの準備です」
「十分多い」
こちらは二人。
それでも、戦うために来たわけではない。
「記憶水晶を置く」
焼却場から少し離れた石垣の陰へ、小さな透明の水晶を設置した。
魔力を流すと内部へ淡い光が満ちる。
『記録を開始しました。正面入口、荷車停車位置、外部通路を記録範囲へ設定しています』
「内部中央は?」
『壁面により遮蔽されています』
「箱を開ける場所が中なら、紙蝶を使う」
セリーが建物と水路を見比べた。
「撤退経路も確認しましょう」
「ああ。今いる水路跡が第一。塞がれたら焼却場裏手の廃材置き場へ回る」
「緊急合図は?」
「エル、腕輪を三回光らせてくれ」
『設定しました』
「主様と私の位置共有もお願いします」
『検索の腕輪とセリーの管理核は、管理者安全補助機能として常時位置共有が可能です』
「常時?」
思わず右手首を見る。
「初耳だぞ」
『主様が生活上の位置監視へ抵抗を示す可能性を考慮し、非表示としていました』
「私は、主様がどこにいるか大体分かります」
隣からさらりと言われる。
「お前も初めて言ったな」
「聞かれませんでしたので」
「俺には、お前の場所が分からないのか?」
『表示設定が可能です』
「緊急時だけ表示する」
『設定しました』
「私の居場所を知りたいのですね」
「安全確認だ」
「はい」
「妙な意味をつけるな」
「まだ何も言っていません」
「顔に出ている」
「暗くて見えないはずです」
「分かる」
「毎日見ていますから?」
「お前の言葉を使うな」
いつもの軽口を交わせたことで、張り詰めていた肩の力がほんの少し抜けた。
『荷車到着まで三分』
空気が切り替わる。
セリーもすぐに笑みを消した。
「置換は箱が開いた瞬間ですね」
「ああ」
「対象選択は?」
『一束につき約二秒。現在使用可能な置換布は三枚です』
「三束だけ」
「だから、種類を分ける」
未成年医療補助。
遺族補償。
税軽減。
一つの制度だけではなく、複数の支援が同時におかしくなっていたことを示す。
「エマさんの申請があった場合は?」
「優先する」
セリーは俺を見た。
「トーマスさんへ見せる時、責めないでくださいね」
「ああ。知らなかったことまで罪にするつもりはない」
ただし、知らなかったから何をしてもいいわけでもない。
その境界は難しい。
『荷車が視認範囲へ入りました』
木製の車輪が石を踏む音が聞こえてきた。
ぎしり、ぎしりと重い音が夜の水路沿いへ響き、やがてトーマスの荒い呼吸まで聞こえてくる。
「止まれ」
焼却場の前で、黒い外套の男が命じた。
トーマスが荷車を止める。
「中へ運べ」
「ここで降ろすって聞いてた」
「命令に従え」
「話が違う」
「お前に説明する必要はない」
後ろから来た男の一人が、剣の鞘でトーマスの背を押した。
トーマスが振り返る。
「触るな」
「荷運び人が偉そうにするな」
「俺は箱を運べと言われただけだ」
「なら運べ」
空気が険しくなる。
「まだですか?」
セリーが小さく尋ねた。
「まだだ」
トーマスは拳を握った。
それでも殴らず、荷車の取っ手を持ち直して焼却場の中へ進む。
俺たちも建物の裏側へ回った。
紙蝶は屋根近くの隙間から内部へ入り、視界へ焼却場の中を映す。
中央には大きな炉があった。鉄の扉の隙間から赤い火が揺れ、熱気が建物全体へ溜まっている。
炉の前には灰で汚れた作業服の男が二人。
その少し離れた位置に、領主府関係者らしい男が二人立っていた。
一人は細身の黒外套。
もう一人は髭を短く整えた中年男だ。服装は地味だが、腰へ下げた剣の柄へ銀色の印が見える。
『剣柄の徽章は、バルド子爵領代官府警護章と一致します』
「ベルナール本人ではなさそうだな」
『顔貌情報が不足しているため断定不能です』
「箱を開けろ」
髭の男が命じた。
トーマスが一つ目の箱を荷車から降ろす。
「釘抜きは?」
「そこだ」
作業台を指され、トーマスは道具を手に取った。
だが、すぐには箱へ触れなかった。
「早くしろ」
「中身は何だ」
男たちの目が鋭くなる。
「お前が知る必要はない」
「紙だろ」
「誰から聞いた?」
「見れば分かる。こんな箱に鉄や木は入ってない」
「余計なことを考えるな」
「燃やすだけなら、何で夜なんだ」
声が僅かに震えている。
恐怖を感じている。
それでも、知らないふりをしたままではいられなくなったのだろう。
「お前は荷車を引くために雇われた」
髭の男が近づく。
「口を動かすためじゃない」
「報酬は銀貨三枚だ」
「仕事が終われば払う」
「本当に?」
室内へ短い沈黙が落ちた。
炉の中で薪が爆ぜる音だけが響く。
「仕事のあと、俺を帰すつもりがあるのか?」
トーマスの問いに、髭の男は笑わなかった。
「誰に何を吹き込まれた?」
「誰にも」
「昨日、旅人と話したな」
トーマスの顔から血の気が引いた。
俺も息を止める。
見られていた。
ダンとは別の監視者がいたということだ。
「何の話だ」
「市場の道具屋前。男と女の二人組」
セリーの気配が僅かに揺れた。
「話してない」
「なら、なぜ立ち止まった?」
トーマスは答えられない。
髭の男の手が剣へ近づく。
「箱を開けろ」
「断ったら?」
「妹が困る」
その一言で、トーマスの顔が固まった。
「エマに何をした」
「まだ何もしていない」
「どこにいる!」
「治療院だろう?」
「なぜ知っている!」
トーマスが男へ掴みかかろうとした。
左右にいた護衛がすぐ腕を取る。
「離せ!」
「妹を治療院へ連れていったのは、お前自身だ」
髭の男は冷たい声で続けた。
「朝、旅人が治療院へ入ったことも、夕方にお前が妹を連れていったことも確認している」
治療院まで見張られていた。
俺たちが思っていた以上に、領主府側はこちらの行動を把握している。
「箱を燃やせば、妹は無事だ」
「信じられるか!」
「信じなくていい。従え」
護衛に押さえられたトーマスが、必死に身体を捩る。
「主様」
セリーの声が耳元で揺れた。
「まだだ」
「でも」
「剣は抜かれていない」
言いながら、胸の奥が痛んだ。
証拠より人を優先すると決めた。
トーマスは今、明らかに脅されている。
それでも俺は、あと少し証拠を見たいと思っている。
「少しだけ待つ」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
髭の男は作業員へ顔を向ける。
「お前たちが開けろ」
「はい」
作業員二人が箱へ近づき、一本ずつ釘を抜き始めた。
木が軋む。
蓋が持ち上がる。
紙束が見えた。
「エル、分類」
『紙面情報を解析。未成年医療補助申請書、食料支援申請書、税減免申請書を確認しています』
「一束目を」
言いかけた瞬間だった。
「待て!」
トーマスが叫ぶ。
「何だ」
「その紙を見せろ」
「黙れ」
「俺が運んだんだ。俺が燃やすんだろ! 何を燃やすかくらい知る権利がある!」
髭の男が苛立ったように片手を上げた。
護衛の拳が、トーマスの腹へ入った。
「ぐっ!」
膝が折れる。
俺の身体も前へ出かけた。
拳一つ。
命には関わらない。
証拠を取ってからでも間に合う。
そう考えた。
その考えへ、自分で寒気がした。
何回までなら殴られていい?
血が出るまでは?
剣を抜くまでは?
倒れるまでは?
証拠を取るためなら、どこまで他人の痛みを待てるのか。
そんな線を引き始めれば、王太子だった頃と何も変わらない。
「セリー」
『通信接続済みです』
「作戦を変える」
一瞬の沈黙。
すぐに答えが返る。
『はい』
「トーマスを先に助ける」
『はい』
迷いのない返事だった。
「記憶水晶の記録は続ける」
『継続中です』
「白霧玉を使う」
俺は小さな球体を取り出し、裏口の隙間から床へ転がした。
ころりと箱の近くまで進む。
「何だ?」
髭の男が気づいた次の瞬間、白い霧が一気に広がった。
「煙だ!」
「炉を閉めろ!」
「火事じゃない!」
叫び声が重なる。
《白霧玉》は視界だけを奪う。呼吸へ害はなく、魔力感知も妨害しない。
「エル、全員の位置を表示」
『表示します』
俺の視界へ光点が浮かぶ。
トーマス。
護衛二人。
髭の男。
作業員二人。
外から入ろうとしている見張り。
「行くぞ」
裏口を開けて中へ滑り込む。
《影渡りの外套》が、炉の赤い光と灰袋の影へ輪郭を溶かした。
セリーも続く。
「一分待つ約束だったのでは?」
「作戦が変わったので、私も変えました」
「あとで話す」
「はい」
トーマスの左右へ護衛がいる。
一人は剣を抜こうとしていた。
俺は《拘束環》を投げる。
銀の輪が空中で鎖へ変わり、剣を握る腕へ絡みついた。
「うわっ!」
床へ剣が落ちる。
もう一人の前へ、セリーが魔力盾を展開しながら入った。
「下がってください」
「誰だ!」
「夜回りです」
「またそれを使うのか」
「便利ですので」
トーマスが声だけで俺たちへ気づいた。
「アル?」
「話はあとだ」
腕を掴み、護衛から引き離す。
「立てるか?」
「腹が痛いだけだ」
「裏口へ行け」
「箱は?」
「置いていけ」
「でも」
「妹のところへ帰れ」
トーマスの顔が歪む。
「俺はまた逃げるのか」
「今は生きて帰るんだ」
「同じだろ!」
「違う」
強く言い返した。
「証拠を守るために、お前が死ぬ必要はない」
トーマスは動かなかった。
「エマが帰ってこいと言ったんじゃないのか」
「聞いてたのか?」
「顔に書いてある」
「そんなわけ」
「右の眉が動いている」
適当に言った。
だが、トーマスが息を呑む。
「妹にも同じこと言われた」
「なら行け」
セリーが背を押す。
「裏口から水路へ。そこまで走ってください」
「お前らは?」
「少しだけ紙を確認して、すぐ戻ります」
「残るのか?」
「すぐだ」
その時、霧の奥から髭の男の怒声が飛ぶ。
「入口を塞げ! 誰も逃がすな!」
『正面入口から二名侵入。裏手へ一名移動しています』
「セリー、トーマスを連れて出ろ」
「主様は?」
「一束だけ置換する」
「約束と違います」
「今なら取れる」
「一緒に戻ります」
「時間がない」
「だから一緒にです」
譲る気はない。
「分かった。三十秒」
「はい」
トーマスを裏口へ押し出し、セリーが出口付近へ残る。
俺は箱へ向かった。
霧の中で作業員たちは床へ伏せている。
戦う意思はない。
「動かないでくれ。傷つけるつもりはない」
箱へ近づき、置換布を広げる。
一束目。
未成年医療補助。
『対象指定』
布が淡く光り、紙束が消える。
代わりに、同じ重さへ調整した白紙が箱へ収まった。
二束目。
遺族補償。
三束目。
税軽減。
「終わった!」
「戻ります!」
セリーの声が飛ぶ。
その時だった。
白い霧の向こうで、大きな魔力が膨らむ。
『攻撃術式を確認』
「全員伏せろ!」
髭の男の声。
床へ青い魔法陣が走る。
炎。
俺は目を疑った。
ここは焼却場だ。
炉がある。
紙の箱がある。
灰袋も積まれている。
「馬鹿か!」
『高熱火炎術式。発動まで一秒未満』
「間に合わない!」
セリーが俺の前へ飛び込んだ。
半透明の盾が大きく広がる。
「主様、下がって!」
炎が噴き上がった。
轟音。
熱。
白い霧が赤く染まる。
「セリー!」
「大丈夫です!」
だが、声は苦しそうだった。
盾へ細かな亀裂が走る。
「エル、俺の魔力をセリーへ回せ!」
『管理者間魔力接続を開始』
右手首から青白い光が伸び、セリーの背へつながる。
魔力が一気に抜けた。
頭の奥が僅かに揺れる。
それでも、盾の亀裂が止まった。
「主様、無理を」
「お前だけに受けさせるな!」
炎が弱まる。
「今だ、出るぞ!」
セリーの手を取ろうとした時、灰袋の陰で誰かが咳き込んだ。
作業員だ。
一人が立てずにいる。
もう一人も床へ倒れている。
足が止まった。
「主様」
「分かっている」
置いていけない。
俺は一人の腕を肩へ回した。
「立てるか?」
「何で……俺まで……」
「話は外だ」
もう一人はセリーが抱え上げる。
「二人とも連れていきます」
「重くないか?」
「私は丈夫です」
「今だけは助かる」
「褒め言葉として受け取ります」
裏口を出る。
そこで一人の見張りが剣を抜いて待っていた。
「止まれ!」
その横から誰かが飛び込んだ。
トーマスだった。
「うおっ!」
二人が地面へ倒れる。
「トーマス!」
「早く行け!」
「なぜ戻った!」
「お前らが出てこなかったからだ!」
「妹のところへ帰れと言っただろう!」
「お前も一人で守るなって言ってたじゃねえか!」
言葉へ詰まる。
ミロ。
セリー。
そして今度はトーマスまで。
「主様、反論はあとです!」
「分かっている!」
《拘束環》で見張りの足を止める。
トーマスが立ち上がり、俺が支えていた作業員の肩を受け取った。
「水路まで走るぞ!」
背後では、焼却場の中から怒号が飛び交っている。
「火を消せ!」
「紙を炉から離せ!」
「侵入者を追え!」
自分たちで火を放ったせいで、今度は自分たちが証拠を守らなければならなくなっていた。
皮肉だが、笑う余裕はない。
『置換解除まで残り七分』
「水路へ着いたら転移する」
四人で水路跡へ駆け込む。
作業員たちは何が起きているのか理解できず、何度も振り返っていた。
「俺たちをどこへ連れていくんだ」
「安全な場所だ」
「お前たちは何者だ」
「変な旅人だ」
「主様、自分から言うのが自然になりましたね」
「今はそこではない」
塔へ連れていくわけにはいかない。
古の塔の存在を知られる。
だが、ここへ置き去りにすれば、領主府の者に捕まる可能性がある。
「市場近くの倉庫跡へ出す。そこから治療院へ向かってもらう」
「追っ手に見つかります」
「簡易偽装布は?」
『二枚使用可能です』
薄い布を作業員二人へ掛ける。
顔立ちは変えられないが、服の色と体格の輪郭が少し曖昧になる。
「トーマス、二人をイーダのところへ連れていけ」
「お前らは?」
「紙を記録する」
「まだ紙のことを」
「もう手元にある」
三束の紙は、置換によって塔の記録室へ移されている。
「十分以内に記録して戻す」
「戻す?」
「置換したことが知られないようにする」
「もう侵入したのはばれてるだろ」
「何を取ったかまでは、ばれていない」
トーマスは納得していない顔だった。
「今は妹のところへ行け」
「でも」
「エマが待っている」
その一言で、表情が変わった。
「絶対戻れよ」
「お前に言われるとは思わなかった」
「約束しろ」
今日だけで、何度帰る約束をしているのか分からない。
「約束する」
『記録しました』
作業員の一人が右手首を見る。
「今、腕輪が喋ったぞ」
「風だ」
「無理がありますよ、主様」
「今くらい誤魔化せ」
転移扉を開く。
向こうに市場近くの倉庫跡が現れた。
「トーマス。治療院へ着いたら、焼却場で火傷をしたとだけ言え。俺たちのことは話さなくていい」
「分かった」
「エマの診察代と薬代は、あとで払う」
「逃げたら町中へ言いふらす」
「イーダと同じことを言うな」
三人が扉を越える。
転移扉が閉じると同時に、俺たちは塔へ戻った。
◇◇◇
記録室へ飛び込む。
『置換解除まで残り五分十二秒』
「急ぐぞ」
転移していた三束の紙を机へ広げる。
すべてを記録する時間はない。
「一束につき、通常で三分以上必要です」
「高速記録は?」
『精度が八十二パーセント程度まで低下し、一部の薄い筆跡が欠落する可能性があります』
「全部を曖昧に取るより、必要なページを正確に取る」
「エマさんを探します」
セリーと二人で医療補助申請をめくる。
名前。
年齢。
病名。
申請日。
却下理由。
何十人もの子供がいた。
こんなにも。
全員が、紙の中で助けを求めていた。
「エマ・ローデン」
セリーが一枚を抜き出した。
「これです」
「記録」
形状記録板へ載せる。
青い光が紙面を走る。
病名。
慢性心肺機能障害。
継続治療が必要。
寒冷期に症状悪化。
薬代補助を申請。
却下理由。
予算不足。
役場受領印。
グレゴルの署名。
そして承認欄へ、財務管理官オズワルド・レームの印。
「グレゴル一人ではない」
「はい」
『記録完了』
「次、遺族補償」
紙束を開く。
ロイドの名前は見つからない。
だが、別の遺族の申請が並んでいた。
申請額金貨二枚。
受領欄空白。
処理済み印だけがある。
「異なる年を三件取る」
「制度停止が続いていたことを示せます」
一年前。
二年前。
三年前。
それぞれ一件ずつ記録する。
『残り二分四十秒』
「税軽減は一件」
病気の家族を抱える鍛冶職人の申請があった。
却下理由は「領主府裁量」。
正式な停止文書番号はない。
「これも記録」
青い光が走る。
その時、一枚の折り畳まれた紙が束の間から滑り落ちた。
「これは?」
セリーが拾う。
申請書ではない。
宛名だけが書かれている。
グレゴル。
開く。
『グレゴル。お前がすべての元凶ではないことは分かっている。だが、黙っていれば次の遺族も同じ目に遭う。俺は記録を持って北へ行く。いつか、お前が自分で選ぶ日が来ることを願う』
「ヘルムートの手紙……」
グレゴルの部屋に原本があることを、俺たちは知らない。
この紙が原本なのか、写しなのかも分からない。
誰が箱へ入れたのかも。
「グレゴルが入れた?」
「決めつけない。ヘルムートが申請束へ紛れ込ませた可能性もある。別の誰かが後から写した可能性もある」
「でも、重要です」
「ああ。記録する」
『残り一分三十秒』
「急げ」
手紙を記録板へ置く。
青い光が走る。
『記録完了』
「戻るぞ」
紙束を置換布の指定状態へ戻し、転移扉を開いた。
「セリー」
「はい」
「今度は二人で行く」
彼女は少しだけ笑った。
「はい」
◇◇◇
焼却場へ戻ると、白い霧はほとんど消えていた。
火もすでに消し止められている。
床には黒い焦げ跡が残り、灰袋の一部が炭化していた。
箱は炉から離れた場所へ移され、領主府の男たちが中身を確認している。
「紙が減っていないか数えろ!」
「一束ずつですか?」
「盗られているかもしれない!」
置換解除まで、残り二十秒。
「ここからでいい」
俺たちは裏口の外へ身を隠した。
『置換を解除します』
手元の置換布が淡く光る。
塔で記録した三束が消え、箱の中へ原物が戻った。
代わりに入れていた白紙がこちらへ現れる。
「終わった」
「帰りましょう」
「ああ」
その時だった。
焼却場の中から、髭の男の声が聞こえた。
「トーマスを捜せ」
「町へ戻った可能性があります」
「妹を押さえろ」
足が止まった。
セリーも同時に振り返る。
「主様」
「治療院へ行く」
「はい」
迷う理由はなかった。
証拠の記録は終わった。
今度は、人だ。
◇◇◇
治療院近くの倉庫跡へ転移した時には、遠くから馬の蹄の音が聞こえていた。
「早すぎる」
「別の者が先に連絡したのでしょうか」
『治療院前へ武装した二名が接近しています』
「トーマスは?」
『倉庫跡周辺には確認できません』
すでに治療院へ着いているはずだ。
俺たちは変装を戻す時間も惜しみ、《影渡りの外套》を着たまま路地を走った。
治療院にはまだ明かりが点いている。
入口前に黒い服の男が二人。
扉を強く叩いていた。
「夜分に何だい!」
中からイーダの怒鳴り声がする。
「役場の命令だ。患者を確認する」
「こんな時間に?」
「エマ・ローデンという少女がいるはずだ」
「患者の情報は話せないよ」
「役場命令だと言っている!」
一人が扉へ手をかける。
「止める」
俺は影から出た。
男たちが振り返る。
「何者だ」
「夜回りだ」
「主様、今日二度目です」
「今は黙っていろ」
「役場の仕事だ。邪魔をするな」
「患者を連れ出すのが仕事か?」
「事情聴取だ」
「十二歳の病人を夜中に?」
「関係者の家族だ」
「誰の?」
「言う必要はない」
「なら通せない」
扉の内側で物音がした。
トーマスが出ようとしている。
「来るな!」
俺は扉へ向けて声を上げた。
中の動きが止まる。
「アル?」
「妹の側にいろ」
男たちが顔を見合わせた。
「アル」
「こいつが例の旅人か」
剣が抜かれる。
今度は明確だ。
相手が先に武器を出した。
「セリー」
「はい」
魔力盾が広がる。
「剣を収めろ」
「捕らえろ!」
二人が踏み込む。
一人へ《拘束環》を投げ、剣腕を止める。
もう一人はセリーへ斬りかかった。
盾へ刃がぶつかる。
「病人がいる場所で騒がないでください」
穏やかな声だが、盾を押し返す力は強い。
男の身体が壁際へ弾かれた。
「貴様ら」
「これ以上続けるなら、町の人間を呼ぶ」
「脅しか?」
「事実だ」
すでに周囲の家から、窓を開ける音が聞こえている。
小さな町だ。
夜中に剣を抜いて騒げば、隠し通せない。
「役場の人間が病気の子供を連れ去ろうとしたと、明日の市場で広まる」
二人の表情が変わった。
「お前たちが責任を取るのか?」
「命令だ」
「命令書を見せろ」
「持っていない」
「なら帰れ」
沈黙。
拘束された男が歯を食いしばる。
「後悔するぞ」
「その言葉は聞き飽きた」
鎖を少し緩める。
「剣を収めて帰るなら解放する」
周囲の視線が増えている。
やがて、壁際の男が剣を鞘へ戻した。
「覚えていろ」
「顔は記録した」
『記録済みです』
「今、何か喋ったぞ」
「風だ」
「もう無理がありますよ、主様」
「こういう時くらい味方をしろ」
拘束を解く。
二人は何度もこちらを振り返りながら、通りの向こうへ消えていった。
◇◇◇
治療院へ入ると、待合室の中央にトーマスが立っていた。
腹を殴られたせいか、まだ少し身体を丸めている。
「本当に戻ってきた」
「約束したからな」
その隣にはエマが座っていた。
十二歳と聞いていたが、実際に見ると想像より小柄だった。肩へ毛布を掛け、両手で温かな薬湯の杯を抱えている。
「この人が変な旅人さん?」
「誰から聞いた?」
「イーダ先生」
「町の大人全員がその呼び方を使うのか」
「間違ってないだろう」
奥からイーダが現れる。
「外の騒ぎは何だい」
「役場関係者が、エマを連れ出そうとしました」
「患者を?」
老女の目が鋭くなる。
「次に来たら薬草煮込みを頭からかける」
「熱いものは危険です」
「冷ましてからにする」
「そういう問題ではない」
エマがくすりと笑った。
すぐに軽い咳へ変わり、トーマスが慌てて背をさする。
「笑うなって」
「お兄ちゃんが変な顔してるから」
「元からだ」
「さっきも言ってた」
兄妹の会話に、張り詰めていた胸が少し緩んだ。
「診察結果は?」
トーマスが俺を見る。
「俺に聞くな」
「イーダが、お前が金を払うって」
「それは払う」
「先に結果を聞きな」
イーダが二人の前へ立つ。
「家族がいるから話すよ。薬を続ければ、今すぐ命に関わる状態ではない」
トーマスの肩が落ちる。
安堵だ。
「ただし、冬を越すなら継続治療が必要だ。今までのように薬を減らして飲ませるのは駄目」
「金が」
「支援制度を使う」
「役場は通さない」
「通させる」
俺は昼間にもらった制度文書の写しを取り出した。
「正式な停止命令はない。申請手数料の値上げにも、俺たちが確認した範囲では正式な根拠がない」
「でも、役場が受け取らなきゃ」
「一人分だけで終わらせない」
記録した申請書。
ロイドの木札。
ヘルムートの手紙。
まだ足りない。
だが、何もなかった頃とは違う。
「時間はかかる」
俺はトーマスを真っ直ぐ見た。
「すぐ制度が戻るとは言えない。それまでの薬代は俺が出す」
「見返りはないって言ったな」
「ああ」
「今日、箱のことを教えたからじゃないのか?」
「教えなくても払った」
「信じられない」
「信じなくていい」
「またそれかよ」
「薬は俺を信用しなくても飲める」
トーマスは黙った。
エマが兄の袖を引く。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「ありがとうって言わないの?」
「まだ信用できない」
「でも助けてくれた」
「……分かってる」
長い沈黙のあと、トーマスが俺を見た。
「ありがとう」
小さな声だった。
「妹へ言え」
「何でだよ」
「治療院へ連れてくると決めたのはお前だ」
彼はエマを見る。
「連れてきただけだ」
「それが大事なんだよ」
イーダが言う。
「来なきゃ何も始まらない」
エマが兄の手を握る。
「ありがとう、お兄ちゃん」
トーマスは顔を逸らした。
目元が少し赤くなったように見えたが、何も言わなかった。
◇◇◇
診察代と当面の薬代を支払い、治療院の奥にある小さな部屋を借りた。
焼却場から逃がした作業員二人も、軽い火傷の治療を受けている。
「俺たちは、紙の中身なんか知らなかった」
一人が椅子へ座ったまま言った。
「夜に焼くのは妙だとは思った。でも、役場の仕事なら口を出せない」
「今後、同じ仕事を頼まれたら?」
尋ねると、二人は顔を見合わせた。
「断る」
「本当に?」
「今日みたいに焼き殺されかけるくらいなら、銀貨もいらねえ」
正義を理解したからではない。
自分が危険に晒されると知ったからだ。
だが、それでも選択が変わる理由にはなる。
「今夜のことは、しばらく誰にも話さないでください」
「領主府の奴らが来たら?」
「知らないと言って構いません」
「また嘘をつくのか」
横からトーマスが言う。
「自分を守るための沈黙まで否定するつもりはない」
「都合いいな」
「ああ」
真実を話すことは大切だ。
だが、何の力も持たない者へ、真実のために命を賭けろとは言えない。
「証言が必要になる時が来たら、改めて頼みます。断っても責めません」
「そんな証言で役に立つのか?」
「役に立たなくても、死なれるよりいい」
作業員たちは戸惑いながらも頷いた。
◇◇◇
治療院を出る頃には、東の空が僅かに白み始めていた。
長い夜だった。
トーマスとエマは、役場側が再び来る可能性を考え、しばらく治療院へ泊まることになった。裏口には、イーダの許可を得て簡易警戒魔導具を置いてある。
「主様」
人気のない路地を歩きながら、セリーが声をかけた。
「疲れましたか?」
「ああ」
「正直ですね」
「隠す意味がない」
身体も重い。
それ以上に、判断を何度も繰り返したことが疲れていた。
「俺は、約束を破りかけた」
「破っていません」
「トーマスが殴られるまで待った」
「証拠を確認するために必要な時間だったとも言えます」
「二発目も待てたかもしれない」
セリーは歩調を少し落とした。
「でも、待ちませんでした」
「一発ならいいと思った自分がいた」
「はい」
否定されなかった。
「嫌な気分だ」
「私も同じです」
「お前も?」
「トーマスさんが殴られた時、すぐ飛び出したかったです。でも、主様が待つと言ったので止まりました」
「すまない」
「謝ってほしいわけではありません」
セリーは首を振った。
「二人で迷いました。最初の作戦が間違っていたと気づいて、二人で変えました」
「作戦を変えるのは、失敗ではないか?」
「状況が変わったのに、最初に決めたことへ固執する方が危険だと思います」
その通りだ。
王太子として会議に出ていた頃、決定した方針を変えることを「弱さ」と見る者は多かった。
だが、情報が増えれば判断も変わる。
変えない方が間違いになることもある。
「結果として、証拠も取れた」
「トーマスさんも助けました」
「作業員も」
「エマさんも診察を受けました」
「全部できたように言うな。かなり危なかった」
「はい。とても危なかったです」
セリーは素直に認めた。
「だから塔へ戻ったら休みます」
「ああ」
「記録整理もしません」
「いや、確認くらいは」
「休みます」
「手紙だけ」
「休みます」
「分かった」
戦闘中より強い。
「主様」
「今度は何だ?」
「手を繋いでもいいですか?」
人気のない路地。
夜明け前。
誰もこちらを見ていない。
「心配した分か?」
「今日は、とても多いです」
「どれくらいだ?」
「塔へ帰るまで」
「長いな」
「嫌ですか?」
「嫌ではない」
手を差し出す。
セリーの指が重なる。
「主様の手、少し冷たいです」
「夜だからな」
「私が温めます」
「お前の体温は魔導人形として作られたものだろう」
「温かければ同じです」
その言葉に、反論する気は起きなかった。
作られた温かさだとしても、俺が今感じているものまで偽物になるわけではない。
『主様』
エルの声がした。
「何だ?」
『塔へ接近中の三名について更新があります』
身体が僅かに強張る。
「距離は?」
『塔から十六・二キロ。先ほどまで進行速度が低下していましたが、現在は完全に停止しています』
「結界へ何かしたか?」
『接触なし。探索魔術もありません』
「停止地点は?」
『森の外縁部にある旧街道付近です』
セリーがこちらを見る。
「帰りましょう」
「ああ」
今度は迷わなかった。
◇◇◇
古の塔へ戻る。
転移扉が閉じると、町の冷たい空気が途切れ、静かな石壁と魔導灯の光が俺たちを迎えた。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、主様」
「お前も一緒に帰ってきただろう」
「決まりです」
「そうだったな」
手は、まだ繋がれたままだった。
「観測室へ先に行く」
「休む前に?」
「三人だけ確認する」
「本当に確認だけですか?」
「約束する」
『記録しました』
「エル、お前まで」
「今回は必要です」
セリーにまで言われ、反論を諦めた。
◇◇◇
観測室の魔導硝子には、三つの光点が止まっていた。
森へ入ったわけではない。
古い街道の脇。
そこから少し離れた場所に、弱い火の反応もある。
「野営している?」
『その可能性が高いです』
「こちらを調べている様子は?」
『ありません』
「魔力反応は?」
『一名から、王宮魔導研究所系統の携帯結界石に類似する反応を確認しました』
王宮魔導研究所。
胸の奥が僅かにざわつく。
「軍ではないのか?」
『現時点では軍用装備との一致率は低下しました』
「三人組。研究所系統の魔導具。王都から来た可能性がある」
「誰でしょう」
「分からない」
ブラット。
アンナマリー。
フェリクス。
もちろん俺は、彼らが向かっていることを知らない。
だから今は、名前も浮かばない。
「明日も近づくなら、結界の外から観測する」
「接触しますか?」
「しない」
「味方かもしれません」
「ああ」
「敵かもしれません」
「ああ」
「だから、まず見る」
「そうだ」
今夜だけで、何度その結論へ戻ったのだろう。
それでも、それでいい。
「では、休みましょう」
セリーが強引に観測室の中央から俺を押す。
「記録室へ一度だけ」
「駄目です」
「ヘルムートの手紙だけ」
「駄目です」
「グレゴルが」
「主様」
振り返ると、セリーが少し真剣な目でこちらを見ていた。
「今夜、何回『帰る』と約束しましたか?」
「覚えていない」
「たくさんです」
「そうだな」
「帰るというのは、塔へ戻るだけではありません」
「何?」
「帰って、休んで、明日も動けるようにするところまでです」
言葉が胸へ残った。
確かに。
戻った直後に倒れたら、それは帰ったことにはならない。
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「では夜食です」
「もう朝だぞ」
「寝る前なので夜食です」
「生活時間基準か」
「はい」
セリーに手を引かれ、観測室を出た。
◇◇◇
食堂で簡単な夜食を取ったあと、俺は本当に記録室へ行かず、寝室へ戻った。
それでも、頭の中では今夜見たものが何度も浮かぶ。
燃やされるはずだった申請書。
エマの名前。
継続治療が必要だと書かれた紙。
予算不足という短い言葉で却下された記録。
夫を失った遺族。
病気の家族を抱えた職人。
そして、グレゴルへ向けられたヘルムートの言葉。
自分で選ぶ日。
グレゴルがあの手紙を焼却箱へ入れたのかは分からない。
そもそも原本なのか写しなのかも分からない。
彼は今も証拠を消す側にいる。
ミロの家へ人を送った。
マリアとミロを脅す可能性まで許していた。
それは事実だ。
だが同時に、上から何かを命じられている可能性もある。
妹のことを握られているとは、まだ知らない。
だから、罪がないとは思わない。
悪人だとも、まだ決めない。
確かめる。
次に町へ行く時、グレゴルへ接触する必要があるだろう。
ただし、裁くためではない。
彼自身が、まだ選べるのかを見るためだ。
証拠を燃やす側に残るのか。
それとも、何かを残そうとするのか。
選ぶ余地があるなら、その選択まで奪いたくない。
同時に、選ばなかった結果まで無かったことにするつもりもない。
難しい。
以前の俺なら、もっと簡単だった。
敵か味方か。
有罪か無罪か。
正しいか間違いか。
二つに分けてしまえば、決断は早い。
だが、人はそんなに簡単ではない。
トーマスは、妹の薬代のために犯罪へ加担した。
それでも今夜、俺たちへ証拠焼却を教えた。
作業員たちは命令へ従って紙を燃やそうとした。
だが、自分たちが殺されかけるまで不正の中身を知らなかった。
グレゴルは申請を潰し、ヘルムートを追わせた。
それでも、箱の中には彼宛ての手紙が残っていた。
そして俺自身も。
精神干渉を受けていた。
だからといって、アンナマリーやブラットを傷つけたことが消えるわけではない。
人は、被害を受けた側でありながら、誰かを傷つける側にもなる。
助けられる側でありながら、次に誰かを助ける側へ変わることもある。
今夜のトーマスのように。
水路の外で俺たちを待たず、戻ってきた。
一人で守るな、と。
あれは俺が彼へ教えた言葉ではない。
ミロから俺へ返された言葉であり、セリーが何度も言ってきた言葉だった。
それが、別の誰かへ渡った。
そう考えると、少しだけ胸が温かくなる。
届くはずの支援を取り戻したい。
金貨だけではない。
薬。
食料。
税の軽減。
困っていると言った時に、誰かが「分かった」と答えてくれる仕組みそのものを。
今夜、すべてを救えたわけではない。
原物の申請書は、箱へ戻した。
領主府の者たちは、また燃やそうとするだろう。
俺たちが記録できたのは、その一部だけだ。
だが、その一部には名前があった。
エマ。
遺族。
職人。
一枚の紙の向こうに、暮らしている人間がいる。
王太子だった頃の俺は、それを数字として見ていた。
申請件数。
支給金額。
処理日数。
監査優先順位。
紙の束が増えれば、仕事が増えたと思った。
その一枚一枚が、誰かの「助けてほしい」だったことを、十分に見ていなかった。
今度は忘れない。
燃やされる紙を守ることが目的なのではない。
その向こうの声を消させないために、証拠を残す。
そして証拠を守るために、声を上げた本人を置き去りにしない。
今夜、俺は一度その順番を間違えかけた。
トーマスが殴られるのを待った。
それでも、途中で選び直した。
次も迷うかもしれない。
間違えるかもしれない。
その時は、また選び直せばいい。
誰かに与えられた役割ではなく。
王太子だからでもなく。
罪を償うためだけでもなく。
俺自身が、そうしたいと思うから。
届くはずだったものを、届くべき人へ戻す。
消されようとしている声を、できるだけ拾い上げる。
そして、その声を利用して誰かを従わせるのではなく、選べる道を増やすために使う。
それが、今の俺にできることなのだと思う。
寝台の脇では、セリーが椅子へ座り、俺が本当に眠るまで見届けるつもりらしい。
「主様」
「何だ?」
「まだ考えていますね」
「少しだけだ」
「少しだけ、という言葉は信用しません」
「便利な言葉になったな」
「主様が便利に使わせてくださっていますので」
薄く笑う声が聞こえる。
「もう寝ます」
「はい」
「本当にだ」
「はい」
「記録するなよ」
『承知しました』
「そこは素直なんだな」
目を閉じる。
焼却場の炎も、紙の束も、グレゴルへ宛てた手紙も、完全には消えてくれない。
それでも今夜は、昨日とは違った。
自分一人で抱えなくていいと知っている。
塔のことはエルが見ている。
町ではイーダや肉屋の主人たちが、それぞれの場所で人を守っている。
エマの隣にはトーマスがいる。
そして俺の隣には、セリーがいる。
守ることは、一人で全部を背負うことではない。
誰かへ任せることも。
途中で判断を変えることも。
帰って休むことも。
明日また動けるようにすることも。
きっと、その中に含まれている。
意識が少しずつ遠のいていく。
最後に聞こえたのは、セリーが椅子へ座り直す小さな衣擦れだった。
今度は、炎ではなく。
その音を聞きながら、俺は眠りへ落ちていった。




