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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第16話 元王太子、罪を告げる前に選べる道を置く

 古の塔へ朝日が差し込み始めた頃になっても、俺はほとんど眠れていなかった。


 食堂で遅い夜食を取り、セリーに半ば追い立てられるように寝室へ戻ったところまでは覚えている。身体を休ませなければならないことも分かっていたし、寝台へ横になって目も閉じた。それでも、意識だけは夜の焼却場へ置き去りにされたように、いつまで経っても静まってくれなかった。


 トーマスが腹を殴られ、膝を折った瞬間。


 証拠を取るためだと、自分へ言い聞かせながらほんの僅かに動くのをためらった自分。


 白霧の向こうから放たれた炎と、それを真正面から受け止めたセリーの盾。俺の魔力を流し込んだ時に感じた、急激に身体の内側から何かを持っていかれるような感覚。


 そして、記録板へ写し取った何枚もの申請書。


 名前。


 年齢。


 申請理由。


 却下。


 予算不足。


 領主裁量。


 紙の上へ並んでいたのは、数字ではなかった。


 一人ひとりの生活だった。


 さらに、その束の中へ紛れ込んでいた、ヘルムートからグレゴルへ宛てられた手紙。


 ――いつか、お前が自分で選ぶ日が来ることを願う。


 あの短い一文が、どうしても頭から離れなかった。


 目を閉じれば、火に照らされた紙束が浮かぶ。開けば、薄暗い寝室の天井がある。その繰り返しを何度したのか分からなくなった頃、扉の外から控えめな音がした。


「主様」


 セリーの声だった。


「起きていますか?」


「ああ」


「……やはり」


 返事をしただけで、ため息交じりの声が返ってくる。


 扉が開き、朝食を載せた盆を持ったセリーが入ってきた。銀色の髪はいつもどおり綺麗に整えられ、昨日から使い始めた淡い青のエプロンも洗われている。朝食の粉汚れはすっかり消えていたが、裾の端にだけ、ごく小さな黒い焦げ跡が残っていた。


 昨夜、焼却場で炎を受け止めた時についたものだろう。


「そこ」


 俺が指を向けると、セリーは自分の裾を見下ろした。


「焦げてるぞ」


「はい」


「直せないのか?」


「直せます」


「なら、どうして残している」


 古の塔には、布を修復する魔導具もある。これくらいの焦げなら、痕跡すら残さず消すことができるはずだ。


 けれどセリーは、指先でその小さな黒い部分へ触れたあと、静かに笑った。


「昨日のことを、忘れないためです」


「忘れたいこともあるだろう」


「あります」


 彼女は迷わず答えた。


「怖かったですし、主様が煙や炎の中へ入ったことは、できれば思い出したくありません」


「なら――」


「でも、一緒に戻ってこられました」


 俺の言葉を遮るような強さはない。それでも、彼女の声には確かな意思があった。


「途中で作戦を変えて、トーマスさんを助けました。作業員のお二人も連れ出しました。エマさんも治療を受けられました。そして、主様も私も塔へ帰ってこられました」


 セリーは焦げ跡をもう一度見た。


「だから、これは怖かった印だけではありません」


「そういうものか」


「私にとっては、そういうものです」


 大切だから使う。


 汚れたら洗う。


 少しくらい傷が残っても、そこへ思い出を重ねる。


 俺にはまだ、完全には分からない感覚だった。


「朝食です」


 セリーが盆を小卓へ置く。


 温かな茶と、柔らかく煮込まれた麦粥。果物も少しだけ添えられている。胃へ負担をかけないものを選んだのだろう。


「まだ食欲がない」


「眠ってもいませんね?」


「少しは休んだ」


『主様の睡眠時間は、一時間十二分です』


「エル」


『横臥時間ではなく、睡眠状態へ移行していた時間のみを算出しました』


「誰も聞いていない」


「私は聞きたかったです」


 セリーは寝台の横へ椅子を持ってきて、そこへ腰掛けた。


「食べてください」


「あとで食堂へ行く」


「今です」


「セリー」


「今です」


 声を荒らげるわけでもない。


 怒っているようにも見えない。


 それなのに、俺には拒否権がないことだけはよく分かった。


「……分かった」


 身体を起こし、差し出された器を受け取る。


「お前は食べないのか?」


「主様が食べ終わってからでも」


「一緒に食べればいい」


 そう言うと、セリーは一瞬だけ目を細めた。


「では、お言葉に甘えます」


 そして当然のように、盆の下からもう一つの器を取り出した。


「最初から用意していたな」


「主様がそう言ってくださる可能性を考えていました」


「俺が食べないと言い張ったら?」


「匙で口へ運ぶ予定でした」


「俺は子供じゃない」


「眠らず、食べず、それでも仕事をしようとする方には、大人としての説得力がありません」


 反論できなかった。


 二人で静かに麦粥を食べる。


 少し塩味を利かせた優しい味が、空腹を自覚していなかった胃へゆっくり落ちていく。窓の外では、森を覆っていた朝霧が少しずつ薄れ、枝から枝へ小鳥が飛び移っていた。塔の外壁にも朝日が当たり始め、石の冷たい色が徐々に柔らかく変わっていく。


「エマのところは?」


 数口食べたところで、俺は右手首へ視線を落とした。


『治療院へ設置した簡易警戒具から、異常報告はありません』


「本人の状態までは?」


『医療情報を取得する機能はありません』


「そうだったな」


 聞いてから、自分でも少し恥ずかしくなる。


 あれは警戒のために置いたものだ。


 患者の身体の中まで勝手に見る道具ではない。


「昨夜、イーダさんが診察してくださいました」


 セリーが匙を置く。


「薬も処方されています。今朝すぐに急変する状態ではないとも話していました」


「ああ」


「そこから先は、イーダさんとトーマスさんへ任せましょう」


 俺は麦粥へ視線を落とした。


 誰かを助けたいと思った瞬間から、その者に関係するものすべてへ手を伸ばしたくなる。


 体調。


 食事。


 薬。


 家族。


 仕事。


 危険。


 だが、それでは見守ることと管理することの境界が消える。


「分かっている」


「本当に?」


「イーダを信用する」


「はい」


「トーマスも」


「はい」


 妹を治療院へ連れていくと決めたのはトーマスだ。


 俺は道を一つ増やしただけ。


 そこから先まで奪ってはいけない。


 セリーは少し安心したように微笑んだが、すぐに表情を引き締めた。


「今日は、町へ行かない方がいいと思います」


「なぜ?」


「昨夜、焼却場で私たちの存在は完全に知られました。治療院ではアルという名前も聞かれています」


「だからこそ、グレゴルへ接触する」


 セリーの匙が止まった。


「今日、すぐにですか?」


「ああ」


「昨夜、塔へ戻ったら休むと」


「休んだ」


『一時間十二分です』


「エルは黙っていろ」


 セリーは何も言わず、ただこちらを見る。


 その視線だけで、俺の言い分に説得力がないと伝わってくる。


「申請書の焼却は失敗した」


 俺は器を卓へ置いた。


「侵入者が入ったことも知られた。何かを記録された、あるいは持ち出された可能性も向こうは考える」


「はい」


「トーマスも逃げた」


「はい」


「なら、責任を押しつける相手が必要になる」


 セリーの顔から、僅かに血の気が引いた。


「グレゴルさん」


「ああ」


 彼は不正へ加担した人間だ。


 だが、領主府側から見れば、同時に末端でもある。


 切り捨てるには都合がいい。


「領主代官ベルナールが、今までどおり役場へ置いておくとは思えない」


「でも、主様」


 セリーは真っ直ぐこちらを見た。


「疲れている状態で会いに行けば、話し合いでも判断を誤る可能性があります」


「戦うつもりはない」


「戦わなければ安全ということではありません」


 静かな言葉だった。


 だからこそ、重かった。


「では、どうすればいい?」


 俺が尋ねると、セリーは少しだけ考えた。


「午前中は休んでください」


「長い」


「昼までです」


「その間にグレゴルが連れ出されたら?」


「役場周辺だけ、危険を知らせる魔導具を置けませんか?」


「勝手に役場を監視するのか?」


「会話も書類も見ません」


 セリーはすぐに答えた。


「グレゴルさんが建物を出たか。危険な魔力が近づいたか。それだけです」


 ミロの家へ置いた《窓辺の目》と同じ考え方。


 中身を覗くのではなく、危険だけを見る。


「設置には町へ行かなければならない」


「私が行きます」


「一人で行かせるわけがないだろう」


「では、遠隔で設置できる方法を探します」


『《運び蜘蛛》が使用可能です』


 間髪入れずにエルが答えた。


「何だ、その嫌な名前は」


『小型運搬魔導具です。指定経路を自律移動し、小型魔導具または物品を設置できます』


「見つからないのか?」


『外見を現代の大型蜘蛛へ偽装できます』


「大型?」


『脚部を含め、成人男性の手のひら程度です』


 俺が想像するより早く、セリーの肩が少し引けた。


「私は蜘蛛が特別苦手というわけではありませんが、それが突然壁を歩いていたら驚くと思います」


『小型鼠形態も選択可能です』


「それも見つかれば騒がれる」


『石片形態があります』


「最初からそれを言え」


『用途によって推奨形態が異なります』


「役場まで転がる石でいい」


『了解しました』


 昨日まで使っていた南側の倉庫跡から役場までは、それほど遠くない。


「距離は?」


『約六百メートル。運用可能範囲です』


 俺は残っていた麦粥を口へ運んだ。


「設置だけ行く」


「はい」


「終わったら戻る」


「はい」


「昼まで寝る」


 セリーの目が少し明るくなる。


「本当ですね?」


「ああ」


「エルさん」


『記録しました』


「毎回、本当に必要か?」


「必要です」


          ◇◇◇


 朝食を終えたあと、俺たちは変貌の仮面を使った。


 今回はアルとセリではない。


 俺は白髪の混じった中年男。


 セリーは頭巾を深く被った年配の女性。


 服装も上等なものは避け、近隣の農村から野菜や保存食を売りに来た夫婦へ見えるものを選んだ。


 転移扉を使って倉庫跡へ移動すると、セリーは自分の変わった手や顔を確かめたあと、なぜか嬉しそうにこちらを見る。


「夫婦ですね」


「農村から来た兄妹でもいい」


「この見た目で兄妹だと、少し不自然です」


「なら仕事仲間」


「夫婦が一番自然です」


「設定へこだわるな」


「呼び方はどうします?」


「普通でいい」


「あなた?」


「やめろ」


「旦那様」


「もっとやめろ。農村の夫婦に見えなくなる」


「お父さん」


「絶対にやめろ」


 小声の応酬が、薄暗い倉庫へ響く。


 俺が緊張していることを分かっていて、わざとやっているのだろう。


 床へ《運び蜘蛛》を置く。


 最初は八本の細い脚を持った黒い魔導具だったが、エルが設定を切り替えると、身体全体が丸まり、ただの灰色の小石のようになった。


「これで移動できるのか?」


『起動します』


 次の瞬間、小石がゆっくり床を転がり始めた。


「不自然では?」


 セリーが首を傾げる。


『風、路面傾斜、周囲の動きに合わせて移動速度を調整します。人の視線を検知した場合は停止します』


「映像は?」


『取得しません。位置、進行可能範囲、障害物のみを判定します』


 周囲を覗かないために、あえて視覚情報を送らせていない。


 今の目的にはそれで十分だ。


『役場到着まで、推定八分です』


「その間は待つだけですね」


「ああ」


 倉庫の外を荷車が通る。


 牛の鳴き声。


 市場へ向かう人々の話し声。


 樽を転がす音。


 町の普通の朝が、薄い板壁の向こうで続いている。


「主様」


「何だ?」


「昨日、帰り道で手を繋ぎましたね」


 突然、まったく関係のない話をされる。


「今その話をするのか?」


「今日は夫婦です」


「変装上だけだ」


「自然な夫婦に見える練習を」


「ここには誰もいない」


「だから練習です」


「何の意味があるんだ」


 セリーは楽しそうに片手を差し出した。


 見た目は年配の女性だが、その仕草だけは普段と変わらない。


「設置が終わるまでだ」


「はい」


 手を重ねる。


 変貌の仮面は見た目を変えるが、触れた温度までは変えないらしい。


 指先から伝わるのは、いつものセリーの温かさだった。


「温かいな」


「主様の手が冷たいんです」


「寝不足のせいか」


「だから休むんですよ」


「ああ」


『《運び蜘蛛》が役場外壁へ到達しました』


 エルの声と同時に、俺たちは自然に手を離した。


「位置は?」


『二階奥の執務室と推定される区画へ通じる外壁付近です。窓から下方約三メートル』


「内部の情報は取るな」


『設定済みです。人物の建物出入り、危険魔力、外壁周辺における異常行動のみを記録します』


「《窓辺の目》を設置」


『完了しました』


 これで、少なくともグレゴルが役場から連れ出された場合は分かる。


「戻るぞ」


「はい」


 転移扉を開く。


 その直前、セリーが残念そうに呟いた。


「夫婦設定、結局使いませんでしたね」


「必要なかったからな」


「残念です」


「何が残念なんだ」


 答えを聞く前に、俺は扉を越えた。


          ◇◇◇


 古の塔へ戻った途端、セリーは変装を解き、そのまま俺を寝室まで連行した。


「昼までです」


「分かっている」


「書斎へ行ってはいけません」


「寝室で考えるくらいなら」


「眠ってください」


「考えながらでも眠れる」


「それは眠れていません」


 寝台へ押し込まれ、掛け布までかけられる。


「子供扱いするな」


「子供の方が、もう少し素直に寝るかもしれません」


「ミロは寝ないと思うぞ」


「ミロ君と張り合わないでください」


 セリーは寝台の横へ椅子を引き寄せた。


「ここにいるのか?」


「主様が眠るまでです」


「逃げない」


「書斎へ?」


「行かないと言っている」


「では、目を閉じてください」


 言われたとおりにする。


 寝室には、朝の穏やかな音だけが残った。


 窓から入る風。


 遠くの鳥の声。


 椅子へ座り直すセリーの衣擦れ。


 昨夜まで頭の中を満たしていた焼却場の音が、少しずつ遠ざかっていく。


「セリー」


「はい?」


「昨日、怖かったと言ったな」


「はい」


「今も怖いか?」


 すぐには答えが返ってこなかった。


「はい」


「何が?」


「主様が、守りたい方を増やすたびに、ご自分を使い切ろうとすることがです」


 目を閉じたまま、少しだけ眉を寄せる。


「使い切るつもりはない」


「以前よりは、そう思ってくださるようになりました」


「以前より?」


「塔へ来たばかりの頃は、何もしたくないとおっしゃっていたのに、誰かが困っていると知れば、すぐご自分で動こうとしていました」


 否定できない。


「今は、休むと約束してくださいます」


「半分は、お前に約束させられている」


「それでも、守っています」


 声が少し柔らかくなる。


「だから、今も怖いです。でも、以前よりは少しだけ安心できます」


「そうか」


「主様は?」


「何が?」


「怖いですか?」


「怖い」


 今度は迷わなかった。


「グレゴルが今日殺されるかもしれないことも。ミロとマリアへまた誰かが近づくことも。エマの病気が悪化することも」


「全部ですか?」


「ああ」


 少し間を置く。


「セリーが傷つくことも」


 言ってから、部屋が静かになった。


「セリー?」


「はい」


「返事が遅い」


「……嬉しくて」


「怖いと言っているんだぞ」


「心配していただけることは、嬉しいです」


「お前は本当に」


 呆れていると、掛け布の上から手へ温かいものが触れた。


 セリーの手だ。


「でも、主様」


「何だ?」


「私も、自分で選んで一緒にいます」


「ああ」


「守られるだけではありません」


「分かっている」


「でしたら、少し眠ってください」


「結局そこへ戻るのか」


「はい」


 手の温かさを感じながら、目を閉じる。


 今度は、焼却場の炎より先に眠気が来た。


 意識が沈む直前まで、セリーの手の感触だけが残っていた。


          ◇◇◇


『主様』


 エルの声で目を覚ました。


 目を開けると、窓から差し込む光の角度が朝とは明らかに違っていた。


「何時だ?」


『正午を二十分過ぎています』


「寝過ぎた」


「予定どおりです」


 横からセリーの声がする。


 椅子には、まだ彼女が座っていた。


「ずっといたのか?」


「途中で昼食を準備するため、少し離れました」


「監視されていた気分だ」


「見守っていました」


「違いは?」


「主様が安心できる言葉かどうかです」


 それは言い換えただけではないのかと思ったが、起き上がってみると頭はかなり軽くなっていた。


 身体の重さは残っている。


 それでも、判断が鈍るほどではない。


「何かあったんだろう」


『役場外壁へ設置した《窓辺の目》が、グレゴルと推定される人物の退出を確認しました』


 眠気が一気に消えた。


「一人か?」


『黒い外套の人物二名が同行しています』


「連行されている?」


『三名の位置関係、歩行速度、グレゴルと推定される人物が中央に配置されていることから、その可能性があります』


「方向は?」


『町北門方面です』


 北門。


 ヘルムートが二年前に町を出た方角でもある。


「処分するつもりかもしれない」


 俺が立ち上がると、セリーもすぐに椅子から離れた。


「行きましょう」


「止めないのか?」


「主様は休みました」


「ああ」


「そして、今は急ぐ理由があります」


 同じ人物とは思えないほど、切り替えが早い。


「装備を確認する」


「昼間なので《影渡りの外套》は使いづらいですね」


「ああ」


「別人へ変装して北門から出ますか?」


「それだと門の記録に残る」


「北側へ新しい転移地点を」


「登録していない」


『一時転移座標の算出は可能です』


 エルが補足する。


「安全か?」


『塔内の古地図を基準に計算します。現在の建造物、樹木、地形変化と重複する可能性があります』


「却下だ」


 石の中へ出る可能性が少しでもあるなら使えない。


「町へ入り、北門から出る」


「記録に残ります」


「今回は構わない」


「アルとセリとして?」


「ああ」


 隠れ続けるだけでは守れない段階へ来ている。


「グレゴルを追っていた《運び蜘蛛》は?」


『対象の退出に合わせ、追跡へ移行しました』


「距離は?」


『現在、約百二十メートル。石片形態で移動中です』


「見失うな」


『承知しました』


          ◇◇◇


 リュネ南西側の倉庫跡へ転移し、いつものアルとセリの姿で町へ出た。


 昼のリュネは、昨夜の焼却場の騒ぎなど知らない者たちで賑わっている。


 市場では肉屋の主人が客と笑い、野菜売りの女性が声を張り上げていた。治療院の前にも人がいる。あの中にはエマもいるはずだ。


 様子を見たい。


 だが、今は止まれない。


「アル!」


 市場を抜けようとした時、肉屋の主人から声が飛んできた。


「すみません、今は急いでいます」


「昨夜、治療院で役場の連中が騒いだって聞いたぞ」


「あとで話します」


「待て」


 主人の顔から笑みが消える。


「今朝、ミロの家も見られてた」


 足が止まった。


「誰に?」


「知らねえ男だ。表でうろつくんじゃなく、通りの向こうからずっと見てた」


「今は?」


「いねえ」


「マリアたちは?」


「俺の女房が一緒にいる。近所の連中にも声をかけた」


 胸の奥が少し緩む。


 俺がいなくても、町の人々は動いている。


「ありがとうございます」


「兄ちゃん」


 主人の目が真剣になる。


「何してるかまでは聞かねえ。でも、一人で全部やろうとするな」


「今日はセリも」


「そういう意味じゃねえよ」


 分かっている。


 セリーだけではない。


 市場の女性。


 肉屋。


 近所の住民。


 治療院のイーダ。


 頼れる者は、すでに町の中にもいる。


「ミロたちをお願いします」


「任せろ」


「何かあれば治療院へ」


「分かった」


 主人はそれ以上引き止めなかった。


 俺たちは北門へ急ぐ。


 門番はすでにアルとセリの顔を覚えていた。


「また外へ行くのか?」


「少し北の方まで」


「馬もなしで?」


「近くだけです」


 門番は怪しむような顔をしたが、ふと思い出したように声を落とした。


「昨日から領主府の連中が出入りしてる。面倒事には近づくなよ」


「誰か出ました?」


「さっき、役場のグレゴルが男二人に連れられて出た」


 セリーと視線を交わす。


「徒歩ですか?」


「いや。古い黒馬車だ」


「行き先は?」


「旧採石場へ行くって話だったが」


 旧採石場。


 町から離れている。


 人目も少ない。


 事故に見せかけるには都合がいい。


「ありがとうございます」


「おい」


 門番が眉を寄せる。


「まさか追う気じゃないだろうな」


「知り合いが向かったので」


「徒歩じゃ追いつかないぞ」


「大丈夫です」


「何が大丈夫なんだ」


 答えず、門を出た。


 街道を少し歩き、門から完全に見えなくなったところで林へ入る。


「エル。ここから視認範囲内への短距離転移は?」


『可能です』


「使う」


 遠くの街道が曲がる場所へ転移扉を開く。


 一度越え、また視認できる範囲へ扉を作る。


 数百メートルずつ。


 短い転移を繰り返す。


「痕跡が残ります」


 セリーが警告する。


「ああ」


「追跡される可能性も」


「帰りは別の経路を使う」


『《運び蜘蛛》が対象馬車を再確認しました』


「距離は?」


『前方約四百メートル。旧採石場へ通じる脇道へ入りました』


「急ぐ」


          ◇◇◇


 旧採石場は、二十年以上前に閉鎖された場所だった。


 斜面を大きく切り崩して作られた採掘跡が、半円形の巨大な傷のように地面へ残っている。底には雨水が溜まり、風が吹くたび濁った水面へ細かな波が走っていた。


 崩れかけた作業小屋。


 錆びた滑車。


 草へ埋もれた古い荷車の車輪。


 昼間だというのに、人の生活する音は何もない。


 俺たちは採石場上部の岩陰へ短距離転移し、身を伏せて下を見た。


 黒い馬車が一台。


 グレゴル。


 黒い外套の男が二人。


 御者が一人。


「四人です」


「グレゴルは拘束されていない」


 手に縄はない。


 だが、両脇には男が立っている。


 自由に来たわけではないことは、遠目でも分かった。


「話が違います」


 グレゴルの声が、切り立った岩壁へ反響する。


「私は帳簿と申請書の処分までだと聞いていました」


「失敗した」


 若い男が冷たく答えた。


 昨夜の髭の男ではない。


 だが腰の剣には、同じ代官府の警護章がある。


「申請書はまだ燃えていません」


「侵入者へ見られた」


「誰だったのです?」


「お前が町へ呼び込んだ旅人だ」


「私は呼んでいません」


「監視も失敗した」


「それはダンたちが」


「言い訳はいらない」


 グレゴルの顔から血の気が引いていく。


「妹は?」


「領都で安全に暮らしている」


「会わせてください」


「必要ない」


「薬は、本当に渡しているのですか?」


「お前が役目を果たせばな」


 やはり。


 グレゴルもまた、病気の家族を使って縛られていた。


「私は、言われたことをしました」


「ヘルムートを逃がした」


「逃がしていない!」


「記録を残した」


「残っているものは処分しました」


「手紙は?」


 グレゴルの口が止まった。


「何のことです」


「二年間、隠していた手紙だ」


 役場の部屋まで調べられたのだろう。


「ありません」


「部屋にないことは確認した」


「捨てました」


「嘘だ」


 男が剣を抜いた。


 金属が鞘を擦る音が、静かな採石場に響く。


「正直に話せば、妹は助ける」


 グレゴルは、それを聞いて笑った。


 乾いた。


 力のない笑いだった。


「その言葉を、私は三年前から聞いています」


「何?」


「薬を渡す。来月には会わせる。あと一度だけ仕事をすれば自由にする」


 声が震えていく。


「一度も、守られませんでした」


 男たちが顔を見合わせる。


「それでも従ったのは、お前だ」


「はい」


 グレゴルは、逃げずに答えた。


「遺族へ渡る金貨を抜きました」


「命令どおりにな」


「帳簿を書き換えました」


「命令どおりだ」


「支援申請を却下しました」


「それも命令だ」


「子供の薬代を止めました」


 声が掠れる。


「夫を亡くした家族へ渡る金を減らしました。食料支援を断りました。申請手数料を上げました」


「だから何だ」


「私は」


 グレゴルは俯いた。


「妹を守っているつもりでした」


 トーマス。


 エマ。


 ミロ。


 マリア。


 その顔が次々頭へ浮かぶ。


「でも、私がしたことは、ほかの誰かの妹や子供を苦しめただけだった」


「今さら気づいたのか」


「気づいていました」


 グレゴルは顔を上げた。


「ずっと前から」


 知らなかったのではない。


 分かっていた。


 それでも選ばなかった。


「ヘルムートの手紙は、昨夜の焼却箱へ入れました」


「何だと?」


「旅人なら、見つけるかもしれないと思った」


「裏切ったな」


「はい」


 剣が振り上げられる。


「今だ」


 俺は岩陰から立ち上がった。


 《拘束環》を投げる。


 銀色の鎖が空中を走り、男の剣腕へ絡みついた。刃がグレゴルへ届くより先に、腕を後方へ引き戻す。


「何者だ!」


「変な旅人だ」


 名乗ってから、自分でも少し慣れてしまっていることに気づいた。


「アル……?」


 グレゴルが目を見開く。


「なぜ、ここへ」


「手紙を読んだからだ」


「本当に……」


「話はあとだ」


 もう一人の男が剣を抜く。


 セリーが俺の横へ踏み出し、半透明の盾を展開した。


「グレゴルさんから離れてください」


「女が邪魔をするな!」


「女性だからといって、弱いと思わない方がいいですよ」


 剣が振り下ろされる。


 盾が正面から受け止めた。


 鈍い衝撃音が岩壁へ響く。


 だが、セリーは一歩も下がらない。


「主様」


「分かっている」


 拘束した男の剣を蹴り飛ばす。


 御者が馬車へ駆け込もうとした。


「止まれ!」


「俺は何も知らない!」


 御者は即座に両手を上げた。


 声も震えている。


「なら、その場から動くな」


「はい!」


 戦う意思はない。


 残る一人へ視線を戻す。


「退け!」


「嫌です」


 セリーの盾へ剣が何度も打ちつけられる。


「殺すぞ!」


「その言葉を何度も使う方は、だいたい余裕がありません」


「黙れ!」


 男が力任せに剣を振り上げた。


 セリーは盾を僅かに傾ける。


 刃が表面を滑り、男の身体が前へ崩れた。


 そこへ俺が《拘束環》を投げる。


 銀の鎖が両足首へ絡みつき、そのまま男を地面へ倒した。


「拘束を固定」


『完了しました』


 鎖が淡く光り、二人の動きを完全に止める。


 採石場へ残ったのは、男たちの荒い呼吸と、馬が落ち着かないように鼻を鳴らす音だけだった。


「グレゴル」


 俺は彼へ向き直った。


「怪我は?」


「……ありません」


「本当に?」


「はい」


 身体に目立った傷はない。


 顔色だけは酷い。


「どうして」


 グレゴルは俺を見た。


「なぜ、私を助けるのです」


「まだ、お前の話を全部聞いていない」


「罪は認めました」


「ああ」


「金を抜いた」


「ああ」


「申請を止めた」


「ああ」


「ミロの家へ男を送りました」


「それも知っている」


 グレゴルの顔が歪む。


「では、なぜ」


「罪があるからといって、ここで口を封じられて殺されていいことにはならない」


 地面へ倒された男がこちらを睨んだ。


「王都の犬か」


「違う」


「なら何者だ」


「今は旅人だ」


「そんな魔導具を持った旅人がいるか!」


「変な旅人だからな」


 隣で、セリーが小さく笑った。


「主様、少し気に入ってきていますね」


「気に入っていない」


 グレゴルだけが、何の話をしているのか分からないような顔で俺たちを見る。


「手紙を見つけたのですね」


「ああ」


「ヘルムートは?」


「まだ見つけていない」


「……そうですか」


 声に、落胆と安堵が同時に混ざった。


「お前は、どこへ行ったか知っているか?」


「北へ向かったことだけです」


「グランツか?」


「本人は行き先を言いませんでした。ただ」


 グレゴルは記憶を辿るように目を伏せた。


「北街道へ出たあと、最初の宿で一泊すると話していました」


「宿の名は?」


「《山羊の角亭》です」


 初めて、追跡先が具体的な場所になった。


「領主府は追っ手を?」


「三人出しました」


「戻ったのは?」


「二人です」


「一人は?」


「山道で行方不明になったと聞いています」


 ヘルムートと接触した可能性がある。


「戻った二人は、何か持っていたか?」


「紙束の一部を」


「全部ではない?」


「はい」


「内容は?」


「未成年医療支援と遺族補償の申請控えです」


「それをお前が隠した?」


「はい」


 昨夜、焼却箱から写し取った束。


「なぜ処分しなかった」


「いつか、使えると思いました」


「二年間使わなかった」


「はい」


 グレゴルは俯いた。


「怖かったのか?」


「はい」


「妹のため?」


「最初は」


 少し間が空いた。


「途中からは、自分のためでもありました」


 職を失うこと。


 捕まること。


 全部の罪を自分一人へ押しつけられること。


 それらが怖かったのだろう。


「今さらですが」


「今さらでも、事実は必要だ」


 俺はさらに尋ねる。


「領主府側の中心はベルナールか?」


「はい」


「オズワルドは?」


「財務管理官オズワルド・レームが、支援金を臨時復旧費へ移したように見せる仕組みを作りました」


「帳簿を合わせたのは?」


「私です」


「支援課責任者の名前が、王都へ出た人員報告から消えていた」


 グレゴルの顔が動いた。


「知っているか?」


「ローレン・ハイスです」


「今は?」


「二年前に亡くなりました」


「死因は?」


「事故とされています」


「本当に事故か?」


「分かりません」


 また一人。


 不正に関わった人物がすでに死んでいる。


「グレゴル」


「はい」


「妹はどこにいる」


「領都の施療館だと聞いています」


「自分で確認したか?」


「……ありません」


「手紙は?」


「半年前から届いていません」


 胸が冷たくなる。


「それでも、そこにいると?」


「信じるしかありませんでした」


 最悪の可能性もある。


 すでに施療館にいない。


 あるいは。


「名前は?」


「クララ・キースです」


「キース?」


 俺は顔を上げた。


「ベルナール・キースと同じ姓だな」


「遠縁です」


「それで治療を?」


「父が亡くなったあと、ベルナール様が妹の治療費を負担すると言いました」


「代わりに、お前を使った」


「はい」


「妹は何歳だ?」


「十九です」


「病気は?」


「肺が弱く、寒い時期には咳が止まらなくなります。酷い時には血を吐くことも」


 エマと似ている部分もある。


 だが、より重い可能性がある。


「エル。領都の施療館について、塔の資料から分かることは?」


『現代施設についての詳細情報は存在しません』


「町か領都で調べるしかないな」


 グレゴルが顔を上げた。


「助けるつもりなのですか?」


「まだ、生きてそこにいるかも分からない」


 安易な希望だけは渡さない。


「それでも調べる」


「なぜ」


「お前を味方にするためじゃない」


 エマの時と同じだ。


「病気の家族を、人を従わせる道具へ変える仕組みを放置したくない」


「もし、私がまた裏切ったら?」


「止める」


「衛兵へ引き渡しますか?」


「今はしない」


「なぜ?」


「町の衛兵も、領主府の影響から完全に自由ではない」


 セリーが、黙って聞いていたグレゴルへ視線を向けた。


「主様」


「何だ?」


「グレゴルさんへ、選べる道も話してあげてください」


「道?」


「罪を認めろ、償え、と言われても、その先で何をすればいいのか分からないと思います」


 グレゴルの表情が僅かに揺れる。


 確かにそうだ。


 責めることは簡単だ。


 だが、罪を認めたあとに何をするのか。


 そこまで本人へ考えさせなければ、また誰かの命令へすがるだけになるかもしれない。


「三つある」


 俺はグレゴルへ向き直った。


「今、お前が選べる道だ」


 彼は黙ってこちらを見る。


「一つ。領主府へ戻る」


 グレゴルの顔が強張った。


「何もなかったふりをして、これまでどおり働く。その場合、俺はお前を止める。マリアやミロへ近づくことも、支援記録を消すことも許さない」


「はい」


「二つ。逃げる」


「どこへ?」


「塔へ連れていくつもりはない」


 そこまで信用してはいない。


「北の村でも、別の領地でもいい。罪から逃げたことにはなる。それでも、生きる道は残る」


「妹は?」


「俺たちが調べる」


「私が証言しなくても?」


「ああ」


 グレゴルは戸惑う。


「三つ目は?」


「証言する」


 彼の呼吸が止まる。


「ベルナールとオズワルドが何をしたか。お前が何を命じられ、何を実行したか。帳簿をどう書き換えたか。誰へ金が流れたか。知っていることを全部話す」


「誰にです?」


「今は、信頼できる公的な相手がいない」


「では」


「だから、まず証拠を集める」


 俺は続けた。


「一か所で消せない形にする。町にも、王都にも残す。領主府だけが握り潰せないようにする」


「そんなことをすれば」


「お前自身も裁かれる」


 グレゴルから目を逸らさない。


「証言したからといって、お前の罪が消えるとは言わない」


「妹を助けても?」


「ああ」


「全部話しても?」


「ああ」


「私は牢へ入るかもしれない?」


「その可能性は高い」


 グレゴルは俯いた。


「なら、逃げた方が」


「それも、お前が選べる」


「止めないのですか?」


「止めない」


 隣でセリーが僅かに俺を見る。


 だが、何も口を挟まなかった。


「ただし、逃げるなら持っている記録は渡してもらう」


「それだけで自由に?」


「自由になれる保証はない。罪を知る者は残るし、後になって追われる可能性もある」


 グレゴルが乾いた笑いを漏らした。


「道というより、どれも地獄ですね」


「そうだな」


 優しい結末を作ることはできない。


 これまでの行いがある。


「今すぐ決める必要はない」


「時間は?」


「長くはない」


 採石場へ増援が来る可能性もある。


「今日中だ」


「今日……」


「安全な場所へ移す」


「どこへ?」


「町の外にある古い礼拝堂跡だ」


 以前、転移地点に使った場所。


 塔ではない。


 それでも、一時的に隠れるには使える。


「逃げたら?」


「それも、お前が選んだことになる」


 グレゴルは長い間、何も言わなかった。


 やがて、掠れた声で尋ねた。


「ヘルムートは……私を許すでしょうか」


「知らない」


 即答した俺に、セリーが少し困った顔をする。


「分からないものを、分かるとは言えない」


 ヘルムートがグレゴルを許す保証などない。


 むしろ、恨んでいる可能性すらある。


「だが」


 俺は続けた。


「許されるために選ぶんじゃない」


 グレゴルが顔を上げる。


「今まで傷つけた人を、これ以上増やさないために選べ」


 一筋だけ。


 グレゴルの頬を涙が伝った。


「私は」


 声が震えている。


「ずっと、命令されたから仕方がなかったと考えていました」


「そうだな」


「妹のためだったと」


「ああ」


「でも、帳簿へ署名したのは私です」


「ああ」


「マリアさんへ金貨一枚しか渡さなかったのも」


「ああ」


「ミロの家へダンたちを送ったのも」


「ああ」


 俺は否定しない。


 一つずつ、自分で口にさせる。


「私は……何を選べばいいのでしょう」


「それを俺へ聞くな」


 グレゴルが驚いたように目を上げる。


「選ぶのはお前だ」


「でも」


「俺が答えを命じたら、今までと同じになる」


 ベルナールに命じられた。


 オズワルドに命じられた。


 妹のためだと言われた。


 次は俺に言われたから証言した。


 それでは、何も変わらない。


「安全な場所と、考える時間は渡す」


 俺が渡せるのは、そこまでだ。


「行くぞ」


 拘束された男たちへ視線を向ける。


「この二人は?」


 セリーが尋ねた。


「御者に町へ連れて帰らせる」


「領主府へ報告されます」


「ああ」


「私たちがグレゴルさんを連れ去ったことも」


「構わない」


 隠れ続ける段階は、もう終わり始めている。


「主様」


「何だ?」


「少し、前へ出ましたね」


「何が?」


 セリーは、何気なく言った。


「アルフォンス様として」


 その名が採石場へ落ちた瞬間。


 胸が揺れた。


 同時に。


 地面へ拘束されていた男が息を呑む。


「アルフォンス……?」


 しまった。


 セリーもすぐに気づき、口元へ手を当てた。


「申し訳ありません」


「お前は、本当に重要な時に」


「元王太子だと?」


 男の顔から血の気が引く。


「違う」


「今、その女が言った!」


「主様という名前だ」


「無理がありますよ、主様」


「お前が言うな!」


 グレゴルは、俺を見つめたまま動かなかった。


「アルフォンス殿下」


 久しぶりに。


 町の誰かから、その名で呼ばれた。


 空気が変わる。


「違う」


「王都の行政に似た仕事をしていた」


「偶然だ」


「地方監査を延期した責任があると言った」


「それも」


「王族級の転移魔術を使う」


「古代魔導具だ」


 自分で話した断片が、今になってすべてつながっていく。


「あなたなのですね」


 もう、否定を続けても意味はない。


 俺は小さく息を吐いた。


「今はアルだ」


 グレゴルの顔へ、驚きと困惑が広がる。


「生きていた」


「そのことは町で言うな」


「なぜです?」


「王国軍が、古の塔を探している」


「陛下が?」


「分からない」


 探索術式の送り主も、軍がどこまで知っているかも、まだ分かっていない。


「では、私が今知ったことも」


「お前が選ぶための材料へ加えろ」


 王都へ戻り、俺の生存を売る。


 領主府へ渡す。


 それで妹の安全や自分の減刑を引き出そうとする。


 そんな選択もあり得る。


「それでも、私を逃がすのですか?」


「ああ」


「私を信用していないのに?」


「ああ」


「なぜ」


 少しだけ考えた。


 そして、自分の中に浮かんだ答えをそのまま口にする。


「信じられる者にしか自由を渡さないなら、それは自由じゃない」


 甘い。


 危険だ。


 そう言われれば、その通りだと思う。


 けれど俺は、すべてを奪われたあと、古の塔で初めて「自分で決めていい」と言われた。


 その自由を、自分に都合が悪いからという理由で他人から取り上げたくなかった。


「礼拝堂へ移動する」


          ◇◇◇


 拘束した二人は御者へ預けた。


 《拘束環》は、町へ戻る頃には自然に解除されるよう設定する。


「妙な真似をすれば、領主府の不正記録を町中へ配る」


 俺が告げると、男たちは青い顔のまま何も答えなかった。


 脅しだ。


 だが、実行できる。


 グレゴルを連れて採石場の奥へ移動し、人目がないことを確認する。


 転移扉を開いた。


 扉の向こうに現れたのは、森の外れへ取り残された古い礼拝堂跡だった。


 グレゴルが息を呑む。


「転移……」


「驚くのはあとだ」


 三人で扉を越える。


 礼拝堂内部には、壊れた長椅子と、顔の欠けた女神像が残っていた。屋根の一部は崩れているが、壁はまだ生きていて、短時間身を隠すくらいなら問題ない。


「水と食料を置く」


 持ってきた袋を長椅子の上へ載せる。


「夜までに決めろ」


「逃げるか、証言するか」


「戻る道もある」


「戻れば、あなたが止める」


「ああ」


「本当に、逃げても追わないのですか?」


「持っている記録を渡すならな」


「妹のことは?」


「調べる」


「私が何を選んでも?」


「ああ」


 グレゴルは唇を噛んだ。


「なぜ、そこまで」


「妹を助けることを、お前を従わせるための道具にしたくない」


 エマを助ける時にも決めた。


 支援を餌に協力を求めれば、やっていることはベルナールたちと変わらない。


「夜に戻る」


「分かりました」


「危険があれば、これを割れ」


 小さな通信石を渡す。


「一度だけ、塔へ声を送れる」


「私に、こんなものを?」


「位置までは送らない。声だけだ」


「逃げるためには使えないと」


「そういうことだ」


 グレゴルは通信石を両手で受け取った。


「殿下」


「アルだ」


「……今だけ、そう呼ばせてください」


 そして、深く頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」


「俺に謝ることじゃない」


「いいえ」


 グレゴルは頭を上げなかった。


「あなたが監査を延期した時、王都へ提出された報告書があります」


 胸が僅かにざわつく。


「町は平穏。支援制度は領主裁量により一時調整中。緊急監査の必要なし」


 覚えている。


 俺が見た文面。


 監査延期の判断材料にした報告。


「それを書いたのは、私です」


 胸の奥へ、鈍い衝撃が落ちた。


「お前が?」


「はい」


「領主府から送られてきた文書だぞ」


「私が草案を書き、ベルナール様の承認を受けました」


 俺は、あれを信じた。


 優先順位を下げても大丈夫だと。


 もっと緊急性の高い地域を先に調べるべきだと。


「そうか」


 それしか出てこなかった。


「怒らないのですか?」


「怒っている」


「なら」


「ここで殴っても、報告書は正しい内容へ戻らない」


 グレゴルは俯く。


 俺の責任が消えるわけではない。


 確認を延期したのは俺だ。


 だが、ようやく。


 何が起きていたのか、その形が見え始めた。


「夜まで考えろ」


「はい」


 俺たちは礼拝堂を出た。


          ◇◇◇


 森の中を歩く。


 転移扉を出しても人目につかない場所まで、少し距離があった。


 木々の間から午後の光が差し込み、湿った土の上へ不規則な模様を作っている。


「主様」


「何だ?」


「大丈夫ですか?」


「何が?」


「監査報告書のことです」


「ああ」


 少しだけ歩みを緩める。


「俺は、あの報告を信じた」


「はい」


「結果として、監査を延期した」


「はい」


「その間に、被害が続いた」


「はい」


 セリーは、無理に俺を慰めなかった。


「責任が、全部戻ってきたような気がする」


「戻ってきたのではありません」


「では?」


 セリーは足元の木の根を避け、俺の隣へ並び直した。


「形が分かったんです」


「形?」


「今まで主様は、自分がこの町を一人で見捨てたように感じていたでしょう?」


「ああ」


「でも実際には、偽った報告があった。領主府の隠蔽があった。グレゴルさんが書類を偽った」


「だから俺は悪くないと?」


「違います」


 迷いなく否定された。


「主様が決めた部分と、ほかの人がした部分を、分けられるようになったということです」


 責任を分ける。


 それは逃げではない。


「俺は監査を延期した」


「はい」


「グレゴルは嘘の報告を書いた」


「はい」


「ベルナールやオズワルドは、不正を作り、隠した」


「はい」


「それぞれが、自分の分を背負う」


「そうです」


 俺一人ですべてを背負えば。


 その方が一見、責任を取っているように見える。


 だが実際には、他の者がしたことまで曖昧にしてしまう。


「セリー」


「はい?」


「ありがとう」


 彼女の足が止まった。


 俺も数歩先で止まる。


「どうした?」


「もう一度お願いします」


「嫌だ」


「今、とても自然に感謝してくださいました」


「普通に言っただけだ」


「だからです」


「毎回特別扱いするな」


『発言記録を保存しました』


「エル!」


 森の中へ、セリーの笑い声が広がった。


 重く詰まっていた胸が、ほんの少しだけ軽くなる。


          ◇◇◇


 古の塔へ戻るため転移扉を出そうとした、その直前だった。


 右手首のエルが、普段とは違う強い光を放った。


『緊急報告』


 セリーの笑みが消える。


「何だ?」


『塔外周結界へ、複数の人間が接近しています』


「王国軍か?」


『接近中の三名について、一名から王宮魔導研究所系統の魔力反応を検知。残る二名は、王族近衛または上位貴族が使用する装備反応と類似しています』


 三人。


 王宮魔導研究所。


 上位貴族。


 その言葉から浮かぶ人物がいないわけではない。


 だが、まだ決めつけられない。


「距離は?」


『外周結界まで約二キロメートル』


「軍の再調査部隊は?」


『別方向から十六名が接近中です』


「同時か」


 胸の中の緊張が一気に戻る。


 町ではグレゴルが、自分の今後を選ぼうとしている。


 領主府は、俺たちの存在をほぼ確実に意識した。


 そして今。


 古の塔へ、二つの集団が近づいている。


「主様」


 セリーが隣へ立つ。


「先に塔へ戻りましょう」


「ああ」


「グレゴルさんのところへは、夜に戻れます」


「ああ」


「今は、私たちの家を守ります」


 家。


 その言葉が、以前よりずっと自然に胸へ落ちた。


「エル、転移扉を」


『開きます』


 森の中へ、青白い光が広がる。


 俺たちは扉へ向かって歩き出した。


 グレゴルへ、罪を告げるだけなら簡単だった。


 お前が悪い。


 償え。


 逃げるな。


 そう言ってしまえば、俺は正しい側へ立った気分になれたかもしれない。


 だが、人は命令されたからといって変われるわけではない。


 少なくとも、誰かの命令へ従い続けた結果、罪を重ねた男へ、次もまた「俺の言うとおりにしろ」と命じたくはなかった。


 罪は消えない。


 傷つけられた者が、許す義務もない。


 償いは必要だ。


 それでも。


 その前に、自分で選べる道を残す。


 逃げる道。


 元の場所へ戻る道。


 痛みを引き受けて、真実を話す道。


 どれを選んでも、簡単ではない。


 どれを選んでも、それまでの罪がなかったことにはならない。


 だが、自分で選んだ一歩だけが、その者自身の人生になる。


 俺も、王太子という役割を失ってから、ようやくそれを知った。


 王太子だから国を守る。


 王太子だから民を救う。


 王太子だから正しくあらねばならない。


 そう考えていた頃の俺は、自分で選んでいるつもりだった。けれど実際には、生まれた時から与えられた役割の中で、正しいと思われる答えを探し続けていただけだったのかもしれない。


 もちろん、それがすべて間違っていたとは思わない。


 王太子として果たすべき責任はあったし、その立場だから救えた者もいたはずだ。俺がもっと注意深く報告を読み、現地の声を確かめていれば、リュネで起きていたことへもっと早く気づけた可能性もある。


 だが今の俺には、王太子という役割はない。


 命令してくれる者もいない。


 何を守るべきかを決めた法令も、今日一日の予定を埋める会議もない。


 だからこそ、毎回自分で決めなければならない。


 町へ行くのか。


 塔へ残るのか。


 証拠を取るのか。


 目の前の人を助けるのか。


 誰かを信じるのか。


 まだ信じられない相手へ、それでも選択肢を渡すのか。


 面倒だった。


 王太子だった頃より、ずっと面倒だ。


 正解を教えてくれる者がいないから、間違えた時には自分で気づき、自分で選び直さなければならない。


 それでも、不思議と嫌ではなかった。


 少なくとも今は、自分がどこへ向かうのかを、自分で決めている。


「主様」


 転移扉の前で、セリーが振り返った。


「どうしました?」


「いや」


 いつの間にか、俺だけが数歩遅れていたらしい。


「考え事ですか?」


「ああ」


「歩きながら考えると、木の根に引っかかりますよ」


「子供じゃない」


「先ほど一度引っかかりかけました」


「見ていたのか」


「毎日見ていますから」


 また、その言葉だった。


 けれど今回は、不思議と反論する気にならなかった。


「行こう」


「はい」


 俺たちは青白い光の中へ足を踏み入れた。


          ◇◇◇


 転移の感覚が消えるより早く、古の塔の空気が肌へ触れた。


 石造りの転移室。


 一定の明るさを保つ魔導灯。


 微かに聞こえる、塔内部を循環する魔力の低い駆動音。


 昨日までなら、それだけで安心できた。


 だが今は違う。


『外周結界まで、三名は約一・七キロメートル。十六名の集団は約三・八キロメートルです』


「三人の方が先に着く」


『現在の速度を維持した場合、その可能性は極めて高いです』


「十六人の進路は?」


『古の塔そのものを直接目指しているというより、前回の探索術式で反応が途切れた範囲を扇状に調査しています』


「なら、まだ塔の正確な位置までは知られていない」


『その認識で問題ありません』


 俺は歩きながら《変貌の仮面》を外した。


 髪の色も、顔立ちも、アルとして使っていた姿から本来のものへ戻っていく。


 セリーも隣で変装を解いた。


「三人は?」


『進路に迷いがありません』


 足が止まった。


「迷いがない?」


『はい。街道を外れた後も、ほぼ直線的に外周結界へ接近しています』


「探索魔術を使わずに?」


『確認されていません』


 それはおかしい。


 塔の認識阻害が正常なら、外から見た者は無意識に進路を逸らされる。森を歩いているうちに別の道を選び、塔へ近づいていることすら認識できなくなる。


「結界を突破しているのか?」


『いいえ。まだ外周へ接触していません』


「では、なぜ迷わない」


『不明です』


 エルが不明と言う。


 それだけで、警戒を一段引き上げる理由になった。


「観測室へ」


「はい」


 俺たちは足を速めた。


          ◇◇◇


 観測室へ入ると、魔導硝子の北側一面へ森の景色が映し出されていた。


 三つの赤い光。


 少し離れた位置に、十六の黄色い光。


「三人を拡大できるか?」


『生体情報を侵害しない範囲で、外見観測へ切り替えます』


「頼む」


 硝子の景色が揺れる。


 木々。


 古い街道。


 崩れた石標。


 そして、人影。


 一人目は背の高い男だった。


 旅用の外套を着ているが、腰へ下げた剣は一般の旅人が持つものではない。装飾を抑えているにもかかわらず、柄と鞘の作りだけで相当な品だと分かる。


 二人目は女性。


 こちらも外套姿で、杖に近い細長い道具を背負っている。


 三人目。


 小柄な人物が、先頭を歩いていた。


 頭から深く外套を被っている。


「顔は?」


『現在の角度では取得できません』


「王宮魔導研究所系統の反応は?」


『先頭の人物です』


 その人物が時折立ち止まり、掌に何かを載せている。


「何だ?」


『拡大します』


 映像が寄る。


 小さな円盤。


 青白い光。


 見覚えがあるような気がした。


「方位盤?」


『構造の一部が類似しています。ただし、一般的な方位魔導具ではありません』


「結界を探している?」


『探索術式は発生していません』


 先頭の人物は円盤を確認したあと、再び歩き出した。


 その瞬間。


 外套の隙間から髪が見えた。


 淡い金色。


 胸の奥が大きく鳴った。


「待て」


 俺は硝子へ近づいた。


「もう少し」


『画像補正を行います』


 風が吹く。


 外套の頭巾が僅かにずれた。


 横顔。


 ほんの一瞬。


 それだけで十分だった。


「……アンナマリー?」


 声が、自分でも驚くほど小さくなった。


 セリーが俺を見る。


「お知り合いですか?」


「王宮魔導研究所の研究員だ」


 違う。


 それだけではない。


 俺が王太子だった頃、何度も無理な要求をした相手。


 新しい通信魔導具を三日で作れ。


 地方監査用の記録器を軽量化しろ。


 王都防壁の観測範囲を広げろ。


 そのたびに怒鳴られた。


『殿下は魔導具を何だと思っているんですか!』


 そう言いながら、結局は期限までに何とかしてしまう女性だった。


「生きていたのですね」


 セリーが静かに言った。


「ああ」


 アンナマリーが。


 俺を傷つけたあの日、近くにいた者の一人が。


 ここへ来ている。


「残る二人は?」


『顔貌照合を試行します。塔内に保存されている王国関係者記録は二年前以前のものが中心となります』


「構わない」


 映像が切り替わる。


 背の高い男が、先頭のアンナマリーへ何かを言った。


 彼女が振り返る。


 その時、男の顔が見えた。


 息が止まる。


「ブラット」


 今度は間違えなかった。


 幼い頃から俺の側にいた。


 剣の訓練では何度も俺を地面へ転がし、王太子になってからは護衛として誰より近くに立っていた。


 そして。


 最後には、俺へ剣を向けた。


 右手が無意識に震えた。


 あの日。


 塔へ逃げ込む直前。


 ブラットの剣。


 俺を見る目。


 自分でも理解できていないような苦痛の表情。


「主様」


 温かな手が、震えていた右手へ触れた。


「大丈夫です」


「……ああ」


 大丈夫ではない。


 だが、逃げ出すほどでもない。


「三人目は?」


 俺は硝子から目を逸らさず尋ねた。


『照合中です』


 最後の一人。


 少し後ろを歩いていた男が、森の奥を警戒するように顔を上げる。


 黒に近い濃紺の髪。


 整った顔立ち。


「フェリクス」


 王都警備隊の副隊長だった男。


 王宮内部の警備にも関わり、ブラットとも何度か合同訓練をしていた。


「全員、知っている人ですね」


「ああ」


「味方ですか?」


 答えようとして。


 言葉が止まった。


 以前なら、迷わなかった。


 ブラットは俺の護衛。


 アンナマリーは研究員。


 フェリクスは王国騎士。


 味方だ。


 だが。


「分からない」


 それが今の答えだった。


「少なくとも、二年前までは信頼していた」


「はい」


「そして二年前、俺を殺そうとした側にいた」


 ブラットだけではない。


 あの日、アンナマリーが作った魔導具も使われていた。


 フェリクスも王宮封鎖へ関わっていた可能性がある。


 精神干渉があったことは分かっている。


 彼ら自身の意思ではなかった可能性も高い。


 それでも、俺の身体は覚えている。


 剣を向けられたことを。


 逃げたことを。


 死ぬと思ったことを。


「会いますか?」


 セリーは急かさなかった。


「……まだ会わない」


「はい」


「まず、何をしに来たのか見る」


「はい」


「結界へ触れた時の反応も」


『承知しました』


 その時。


『三名が外周結界へ到達します』


 アンナマリーが足を止めた。


 目の前には、彼女たちから見れば何もない森が続いているはずだ。


 だが彼女は円盤を見下ろし。


 次に、顔を上げた。


 そして。


 こちらを見た。


 正確には、塔が存在する方向を。


「まさか」


 アンナマリーの唇が動く。


 音声までは拾っていない。


 それでも。


 何と言ったのか。


 なぜか分かった気がした。


 ――殿下。


 胸の奥が痛んだ。


『外周結界へ接触』


 青白い波紋が、森の中へ静かに広がった。


 アンナマリーは弾かれなかった。


 ブラットも。


 フェリクスも。


 三人は、ただ立ち止まっていた。


『侵入試行はありません』


「何もしない?」


『はい』


 アンナマリーは円盤をしまった。


 そして、その場へ座った。


 ブラットが何かを言う。


 彼女が首を振る。


 フェリクスも周囲を確認したあと、剣から手を離した。


「何をしている?」


『不明です』


 しばらくして。


 アンナマリーが鞄から紙を取り出した。


 何かを書く。


 石へ挟む。


 そして、結界の手前へ置いた。


「手紙?」


『その可能性があります』


「結界を越えようとはしないのか」


『現在まで、その兆候はありません』


 俺は硝子の前で立ち尽くした。


 会いたい。


 怖い。


 聞きたい。


 逃げたい。


 どうして俺を傷つけたのか。


 本当に操られていたのか。


 今、何を考えているのか。


 なぜここへ来たのか。


 全部知りたい。


 それでも。


「まだ、会わない」


 もう一度、自分で決めた。


「手紙だけ回収できるか?」


『《運び蜘蛛》を使用できます』


「結界の内側から出すな。外側だけを移動させろ」


『設定可能です』


「罠なら?」


『魔力反応を事前確認します』


「頼む」


 セリーは何も言わなかった。


 ただ、俺の隣に立っている。


 しばらくして、観測硝子の中で小さな石が転がり始めた。


 アンナマリーが目を見開く。


 ブラットが剣へ手を伸ばしかけ。


 すぐに止めた。


 フェリクスも動かない。


 石は手紙へ近づき。


 紙を挟み込む。


 そして、ゆっくりと森の奥へ戻っていった。


 誰も追わなかった。


「回収したら、まず危険確認」


『はい』


「すぐ読まない」


 セリーがこちらを見る。


「読まないのですか?」


「読みたい」


「はい」


「だからこそ、一度落ち着く」


 今の俺は。


 きっと、何が書かれていても揺れる。


 謝罪でも。


 言い訳でも。


 助けを求める言葉でも。


 罠でも。


 だから。


「俺が読むかどうかも、俺が決める」


 セリーは少しだけ笑った。


「はい」


 外では、かつて俺の側にいた三人が待っている。


 別方向からは、十六人の王国軍調査隊が森へ近づいている。


 町では、グレゴルが自分の道を選ぼうとしている。


 すべてを今すぐ決める必要はない。


 だが。


 一つずつ。


 誰かに決められるのではなく。


 自分で選ぶ。


 罪を認めさせることと。


 自分で選ばせることは。


 同じではない。


 そして、それはきっと。


 俺自身についても、同じなのだ。


 観測硝子の向こうで、アンナマリーは結界の前から動かなかった。


 ブラットも。


 フェリクスも。


 三人とも、ただ待っていた。


 こちらから答えが返ってくるかどうかも分からないまま。


 それでも、結界を越えようとはせずに。


 俺はその姿を、しばらく黙って見つめ続けた。

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