第8話 元王太子、失われた支援金の行方を追う
翌朝、古の塔の書斎には、夜の冷たさがまだ薄く残っていた。
分厚い石壁に囲まれたこの部屋まで朝日が届くには、もう少し時間がかかるらしい。窓の外では森の上空が少しずつ白み始めていたが、室内を照らしているのは、壁際へ設置された魔導灯が放つ柔らかな白い光だけだった。
その光の下で、俺は昨夜から机の上へ広げたままにしていた王国貴族年鑑と、王城から持ち込まれた地方行政関係の古い資料へ目を落としていた。
机の中央には、昨日までに確認できた内容を自分なりに整理した紙が置いてある。
公認された護衛任務中に死亡した者の遺族には、一時補償金が支給される。その後三年間は一定範囲で税負担が軽減され、扶養児童がいる家庭には追加の食料支援が行われる。
少なくとも、俺が王太子として学んだ制度ではそうなっていた。
だが、ミロの母親であるマリアが受け取ったのは、夫が亡くなった直後に渡された僅かな補償金だけだった。税の軽減もなければ、食料支援について説明を受けたことさえないという。
さらに、町役場では領主府の判断によって制度そのものが「実質的に停止されている」と説明された。
ところが、その停止命令は一般公開されていない。
支援を受けるための代理申請には銀貨一枚もの手数料が必要とされ、住民たちへ制度変更の理由が十分に説明された様子もなかった。
「……やはり、不自然だな」
紙へ視線を落としたまま呟くと、右手首にはめた銀色の腕輪から、落ち着いた女性の声が返ってきた。
『不自然という評価には同意します。ただし、現時点では不正行為を裏づける直接的証拠は確認されておりません』
「ああ。そこは分かっている」
俺は椅子の背へ身体を預け、ゆっくり息を吐いた。
昨日から何度も、自分自身へ言い聞かせていることだ。
疑わしいからといって、すぐに悪だと決めつけてはいけない。
バルド子爵が支援制度を停止したことにも、何らかの事情があった可能性は残っている。大規模な魔物被害や災害によって領地の財政が急激に悪化し、一時的に予算を別の場所へ回さざるを得なくなったのかもしれない。
王都へ正式な報告を送ったものの、俺が確認していなかっただけという可能性さえある。
しかし、それでも腑に落ちないことは残った。
「エル。地方の支援制度を領主判断で停止できる期間は、俺の記憶ではどの程度だった?」
『主様の記憶情報では、災害、戦乱、大規模魔物災害などの緊急時に限り、一時的な停止または支給額変更が認められています。ただし、その状態が三か月を超える場合、王都財政局または王太子府への報告および承認手続きが必要です』
「三か月か」
『はい』
ミロの父親が亡くなったのは三年前。
役場で話を聞いた住民たちは、数年前から支援がまともに出なくなったと言っていた。
三か月どころの話ではない。
「王都への報告が提出されていた可能性は?」
『否定できません。現在、塔内に存在する資料のみでは確認不能です』
「俺が見落としていた可能性もあるな」
『あります』
エルは一切遠慮しなかった。
それが今の俺にはありがたい。
王太子だった頃、周囲には俺の顔色を窺う者が少なくなかった。明確に間違っていることでも、王太子が決めたのだからと異を唱えない者もいた。
もちろん、全員ではない。
ブラットは違った。
何度も忠告してくれた。
レイチェルの証言だけでアンナマリーを疑うべきではない。
公務の日程を私的な理由で変えるべきではない。
地方視察を後回しにするなら、少なくとも代替の監査体制を整えるべきだ。
そして何より、アンナマリー本人の話を聞くべきだと。
あの頃の俺は、そのたびに苛立った。
自分が信じているものを否定されたように感じ、ブラットまでアンナマリーの味方をするのかと怒りさえした。
「……馬鹿だったな」
『評価を求められていますか?』
「独り言だ」
『失礼しました』
あまりにもエルらしい返答に、僅かに口元が緩んだ。
その時、書斎の扉が控えめに叩かれた。
「主様、入ってもよろしいですか?」
「ああ」
扉がゆっくり開き、朝食を載せた盆を抱えたセリーが入ってきた。
今日は飛び込んでこない。
扉の隙間から覗きもしない。
足取りも妙に丁寧だった。
「今日は随分普通に入ってきたな」
「どういう意味ですか?」
「昨日までのお前を考えれば、そのままの意味だ」
「昨日までの私も完璧だったと思いますけれど」
「扉の隙間からこちらを覗いたり、盆を落としかけながら勢いよく飛び込んだりするのを完璧とは言わない」
「今朝は反省して、淑女のような入室を心がけました」
「お前はメイドなのでは?」
「完全無欠の美少女メイドは、淑女の振る舞いもできます!」
「肩書きがまた増えたな」
セリーは得意げに胸を張りながら、机の空いている場所へ盆を置いた。
焼いたパンと薄切りの肉、葉野菜を挟んだ卵料理。それに湯気の立つ茶が二つ並んでいる。
「茶が二つあるな」
「私もこちらでいただきます」
「見張りか?」
「さすが主様。理解が早いですね」
「誰も食事を抜くとは言っていないぞ」
「昨夜は夕食後から書斎へこもり、夜半を過ぎても資料を読んでいました」
「夕食は食べた」
「そういう方は、朝食も『少し調べてから』と後回しにするものです。そして気づけば昼になっています」
「妙に具体的だな」
「セリーヌ様がそういう方でしたから」
セリーは自然に答えた。
ところが、その直後だった。
彼女の動きが僅かに止まる。
「研究へ集中すると、食事も睡眠も忘れてしまうんです。何度注意しても『あと少しだけ』と言って、その少しが半日くらい続いて……」
「誰が注意していたんだ?」
問いかけた瞬間、セリーの顔から先ほどまでの明るさが少し消えた。
「……私、でしょうか」
「どうして疑問形なんだ?」
「分からないんです」
セリーは自分の胸元へ手を添えた。
「私はセリーヌ様の人格情報を基礎に作られた魔導人形です。全記憶を引き継いでいるわけでもありません。それなのに今の言葉は、記録を読んだ知識というより、自分が直接セリーヌ様へ注意していたような感覚がありました」
書斎へ静けさが戻った。
壁際の魔導灯が微かな駆動音を立て、窓の外からは森の鳥の声が聞こえてくる。
セリーの中には、彼女自身にも分からない何かがある。
セリーヌの断片的な記憶なのか。
高度疑似人格を作る過程で生じた感覚なのか。
それとも、俺たちがまだ知らない別の理由があるのか。
「無理に思い出そうとしなくていい」
俺が言うと、セリーは少し驚いたようにこちらを見た。
「でも、主様は知りたくありませんか?」
「知りたい」
そこだけは迷わなかった。
「セリーヌが何者だったのか。この塔を何のために残したのか。どうして俺のことを知っていたのか。それに、お前が本当は何者なのかも知りたい」
「では――」
「だからといって、お前を壊してまで急ぐ気はない」
セリーが黙る。
「分からないものを無理に引き出して、お前自身が混乱したら意味がないだろう。話せるようになった時でいい」
「……主様は、やはり優しいですね」
「その話は昨日もした」
「昨日より今日の方が優しくなっている可能性があります」
「人の性格が一晩でそこまで変わるか」
「では、昨日より優しさを隠さなくなったということで」
「勝手に結論を出すな」
セリーはくすりと笑い、自分の椅子を引いた。
「では、主様が調査魔人になる前に朝食をいただきましょう」
「調査魔人とは何だ」
「食事も睡眠も忘れ、ひたすら資料を読み続ける恐ろしい存在です」
「お前が今作っただろう」
「はい」
「堂々と認めるな」
そんなやり取りをしながら、俺たちは朝食を取り始めた。
温かな茶を一口飲む。
夜の冷たさが残っていた身体の内側へ、じわりと熱が広がっていった。
「今日はリュネへ行かれるのですか?」
「ああ。ただし、役場へ正面から行っても、昨日以上のことは教えてもらえないだろう」
「では、領主府へ殴り込みですね!」
「どうしてその結論になる」
「扉を蹴破って悪徳領主へ証拠を突きつける主様も格好いいと思います」
「まず悪徳領主と決まっていない。次に証拠もない。そして最後に、俺は扉を蹴破る趣味もない」
「三重に否定されました」
「当然だ」
「では、今日は何を?」
俺は机の端へ置いていた紙を一枚取り、セリーへ差し出した。
そこには昨夜調べた、リュネ周辺の行政や組合に関する簡単な関係図がある。
「支援制度に実際の金が動いていたなら、領主府だけで全ての記録を完結させることは難しい。町役場、財務担当、それから場合によっては商業組合や冒険者組合にも記録が残る」
「ミロ君のお父様は商業組合の護衛依頼中に亡くなったのですよね」
「ああ。正式な依頼だったのなら、死亡報告や補償申請の控えが残っている可能性が高い」
「今日は商業組合へ?」
「その前にミロの家だ」
「どうしてです?」
「俺たちは、ミロの父親の名前すら知らない」
口にしてから、自分でも少し呆れた。
「母親の名前もだ。俺は今までずっと『ミロの母親』としか呼んでいなかった」
「そういえば」
「調査するなら正式な名前も登録番号も必要になる。まず本人たちへ確認し、それから商業組合へ行く」
「なるほど」
セリーが感心したように頷く。
「王太子らしいですね」
「今はただのアルだ」
「では、普通の役人らしいですね」
「その呼び方はまだ続くのか」
「気に入っています」
俺はため息をつきながら、残ったパンを口へ運んだ。
王太子だった頃なら、調査を始める時は文官を集め、命令書を作り、各部署へ資料提出を求めればよかった。
今の俺には権限がない。
身分も明かせない。
命令して帳簿を持ってこさせることもできない。
だから、自分の足で歩き、自分の耳で聞かなければならない。
不思議なことに、それを面倒だとは思わなかった。
◇◇◇
朝食を終え、俺たちは変貌の仮面でいつもの姿へ変わった。
濃い茶色の髪と緑がかった灰色の瞳を持つ旅人、アル。
隣のセリーも、茶色の髪と琥珀色の瞳を持つ少女、セリになっている。
転移扉が選んだ今日の出口は、リュネ東側に残された古い礼拝堂の裏手だった。
かつては人が集まっていたのだろうが、今は石壁の一部へ蔦が這い、庭にも背の高い草が伸びている。朝露に濡れた草の匂いが強く、人の気配はなかった。
『周囲に主様と直接面識のある人物は確認されません』
「分かった」
転移扉を閉じ、礼拝堂の脇を抜けて町へ入る。
リュネはすでに目を覚ましていた。
パン窯から流れてくる香ばしい匂いと、薪を燃やす煙。荷車の車輪が石畳を鳴らし、店を開け始めた商人たちが互いに挨拶を交わしている。
ところが、通りへ出て間もなく、以前とは少し違うことへ気づいた。
「あの人だよ」
「ミロを助けた旅人」
「昨日、役場にも行ってたんだろ?」
すれ違う者たちから、ちらちらと視線を向けられる。
敵意はない。
むしろ好意的だった。
「……目立っているな」
「人気者ですね」
「正体を隠している人間にとっては、人気も考えものだぞ」
「悪名より良くありません?」
「それは間違いないが」
俺が少し眉を寄せた時、道沿いで野菜を並べていた中年の女性が明るく声を上げた。
「おはよう、変な旅人さん!」
「その呼び名が定着しているんですか?」
「肉屋の旦那が言い始めたからねえ」
「今度きちんと抗議します」
「悪い意味じゃないよ」
女性は笑いながら、形の少し歪んだ赤い果実を一つ持ち上げた。
「役場の役人相手に怒鳴らないで、自分から頭を下げて話を聞こうとした旅人なんて珍しいからね」
「普通のことをしただけです」
「その普通ができない人も多いのさ」
そう言って、彼女は果実を俺へ差し出した。
「これ、持っていきな」
「金を払います」
「こんなの売り物にならないよ。形が悪いからね」
「食べられないんですか?」
「味は変わらないさ。でも、見た目が悪いと売れ残る」
昨日も似た話を聞いた。
形が悪い野菜。
端の肉。
王城へいた頃の俺は、一度も目にしたことがなかった。
見た目の整ったものだけが俺のところへ運ばれ、その前に除かれたものがどうなるかなど考えたことさえない。
「それなら、代わりに他のものを買わせてください」
「本当に真面目だねえ」
結局、俺は果実をいくつかと、ミロの家へ持っていけそうな根菜を買った。
支払った額より少し多めに袋へ詰められている気もしたが、今度は何も言わなかった。
「またおいで」
「ありがとうございます」
店を離れると、隣を歩くセリーが妙に真剣な顔でこちらを見た。
「アルは値切る技術を覚えた方がいいかもしれません」
「今のどこに値切る要素があった?」
「町で生活するには交渉も大事です」
「お前が買い物を楽しみたいだけでは?」
「半分ほどは」
「残り半分は?」
「愛です」
「本当に便利な言葉だな」
◇◇◇
ミロの家へ着くと、扉の前には綺麗に割られた薪が積まれていた。
その中へ一つだけ、妙に形の悪い薪が混ざっている。
昨日、俺が何度も斧を外しながら割ったものだろう。
「……残してあるのか」
「記念品でしょうか」
「薪だぞ」
「主様初薪割り記念」
「今はアルだ」
扉を叩くと、すぐに足音が近づいてきた。
「はーい!」
勢いよく扉を開けたミロは、俺たちの顔を見るなり満面の笑みになった。
「アル兄ちゃん! 今日も来た!」
「昨日も会っただろう」
「でも今日も来た!」
「毎日来るとは言っていないぞ」
「三日続いてる!」
「偶然だ」
「主様も、偶然が続いたら偶然じゃないって言ってましたよね」
隣からセリーが余計なことを口にした。
「今その話を出すな」
ミロが首を傾げる。
「主様?」
しまった。
俺とセリーが同時に動きを止めた。
「アル兄ちゃんって、偉い人なの?」
子供というものは、こちらが思う以上によく聞いている。
町の中では何度もアルと呼ぶよう注意してきたが、セリーは時々うっかり主様と口にしていた。
今まで誰も深く気にしなかっただけだ。
「旅を始める前に、少し人をまとめる仕事をしていたんだ」
「隊長?」
「……似たようなものだな」
「だから主様?」
「セリがふざけて呼び始めた」
「愛称です!」
「余計に分かりにくくするな」
嘘ではない。
少なくとも、多くの人間をまとめる立場にいたことは事実だ。
ミロはそれで納得したのか、すぐ俺が持っている袋へ興味を移した。
「それ、何?」
「市場で買った野菜だ。母親と食べてくれ」
「また?」
「今日は頼みたいこともある。その礼だ」
「何?」
「父親と母親の名前を教えてほしい」
ミロの表情が少しだけ変わった。
父親の話には、やはりまだ痛みがあるらしい。
「父さんはロイド。母さんはマリア」
「姓は?」
「知らない」
庶民には姓を持たない者も珍しくない。
「父親が商業組合の護衛をしていた頃の登録証や書類は残っているか?」
「登録証?」
「名前や番号が書いてある札だ」
「母さんなら分かると思う」
家の中へ入ると、マリアは寝台ではなく椅子へ座っていた。
顔色はまだ完全には戻っていないものの、三日前に初めて会った時とは比べものにならない。頬にも僅かに色が戻り、咳の回数も明らかに減っていた。
「また来てくださったのですね」
「具合が良くなっているようで安心しました」
「薬が効いているようです。食事も少し取れるようになりました」
「無理はしていませんか?」
「少しくらいなら大丈夫です」
「大人の大丈夫も信用できないことが分かってきました」
ミロが嬉しそうに母親を見る。
「母さんも言われた!」
「あなたは人のことを言えないでしょう?」
マリアも笑った。
家へ入った最初の日にはなかった、穏やかな空気だった。
俺は椅子へ座り、今日訪ねた理由を説明する。
「ご主人が亡くなった時の任務記録を確認したいと思っています」
「任務記録を?」
「正式な商業組合の護衛任務だったのであれば、組合側にも死亡報告や補償申請の控えが残っている可能性があります。役場だけでは十分な説明を受けられなかったので、別の記録と照合したいんです」
マリアは困惑を隠せない様子で俺を見つめた。
「どうして、そこまで?」
当然の疑問だった。
数日前に知り合ったばかりの旅人が、役場へ行き、支援制度を調べ、今度は亡くなった夫の任務記録まで確認しようとしている。
普通なら、警戒して当然だ。
「以前、似たような行政関係の仕事をしていました」
「役人だったのですか?」
「まあ、似たようなものです」
「アル兄ちゃんは普通の役人だったんだよ!」
ミロが得意げに説明した。
横を見ると、セリーが顔を逸らして肩を震わせている。
「笑うな」
「申し訳ありません。何度聞いても『普通の役人』という表現が」
「今後、その呼び方を広めるな」
「善処します」
「信用できない返事だな」
マリアも小さく笑ったあと、棚の一番下にある引き出しへ視線を向けた。
「夫の登録証なら、残っています」
彼女が取り出したのは、古びた小さな木箱だった。
中には薄い鉄札と、丁寧に折り畳まれた紙が数枚入っている。
「夫が亡くなったあと、商業組合の方から返していただきました」
鉄札にはロイドという名と、複数桁の登録番号が刻まれていた。
紙の一枚は死亡確認書だった。
俺は許可を得て、それをゆっくり開く。
北部街道を通る薬草商隊の護衛。
任務途中、灰狼の群れによる襲撃。
護衛三名死亡、二名負傷。
「ご主人は……商人たちを逃がすために残ったのですか?」
記録の補足欄を読みながら尋ねると、マリアが静かに頷いた。
「一緒にいた方が、そう教えてくださいました。逃げ遅れた荷車があって、夫は最後まで残ったそうです」
声には悲しみがあった。
けれど同時に、誇りもあった。
「立派な方だったのですね」
「優しい人でした。少し無茶をするところもありましたけれど」
ミロが母親の腕へ寄りかかる。
「父さん、強かった?」
「ええ。少なくとも、怪我をした翌日に薪割りをしようとするあなたよりは慎重でした」
「俺だって慎重だよ」
「昨日のあなたを見た人全員に聞いてみましょうか?」
「……やめる」
母子のやり取りへ僅かに笑いながら、俺は死亡確認書の下部へ目を落とした。
そこには小さな印がある。
「補償申請……受理済み」
「はい。一時金はいただきました」
「この書類を借りることはできますか?」
口にした瞬間、マリアの表情が僅かに強張った。
当然だ。
亡くなった夫の遺品でもある。
「持ち出したままにはしません。今日中に必ず返します。ただ……」
一度言葉を切る。
「不安なら、写しだけ取らせてください」
俺は右手首へ意識を向けた。
「エル。この書類の内容を保存できるか?」
『可能です』
銀色の腕輪が淡く光る。
紙の表面を薄い光がなぞり、すぐに消えた。
『記録を完了しました』
「もう大丈夫です」
俺は紙を元の形へ戻し、木箱へ収めた。
マリアが驚いたように腕輪を見る。
「今ので?」
「記録用の魔導具です」
「珍しい物なのですね」
「少しだけ」
少しどころではないが、それを説明する必要はない。
「ロイドさんの補償手続きが、正しく行われていたのかだけ確認してきます」
「もし、何か間違いがあったとしても……」
マリアは躊躇いながら続けた。
「これ以上、面倒なことにはなりませんか?」
その不安は理解できた。
地方で暮らす者にとって、役場や領主府は生活そのものに関わる存在だ。
正義を求めた結果、税や仕事、商売で不利益を受ければ、家族の暮らしが壊れることさえある。
「あなたの名前は出しません」
「でも」
「今は確認するだけです。もし何か問題が見つかっても、あなたとミロへ相談せず勝手に動くことはしません」
マリアの目を見ながら、ゆっくり言葉を選ぶ。
「あなたたちが望んでいないことを、正しいからという理由だけで押しつけるつもりはありません」
かつて俺は、自分が正しいと信じたことをアンナマリーへ押しつけた。
相手がどう思っているのか。
何を恐れているのか。
聞かなかった。
善意や正義は、相手の意思を無視する免罪符にはならない。
「……分かりました」
長い迷いのあと、マリアは小さく頷いた。
「お願いします」
「ああ」
◇◇◇
商業組合は、市場の南側に建つ大きな煉瓦造りの建物だった。
正面には何台もの荷車が停まり、商人、御者、護衛らしい者たちが絶えず出入りしている。中へ足を踏み入れれば、受付前には依頼書を持った者たちが列を作り、奥では書記たちが分厚い帳簿を抱えて忙しく行き来していた。
「旅人の方ですか?」
受付にいた若い男性が俺たちへ声をかける。
「はい。三年前の護衛任務について、少し確認したいことがあります」
「依頼番号は分かりますか?」
エルが保存した死亡確認書から番号を伝える。
男は紙へ書き写し、少しだけ眉を上げた。
「三年前ですか。かなり古いですね」
「確認できますか?」
「少々お待ちください」
しばらくして戻ってきた男は、両腕で抱えるほど分厚い帳簿を持っていた。
受付脇の小さな卓へ案内され、目的の頁が開かれる。
「こちらですね。北部街道、薬草商隊護衛。灰狼の群れによる襲撃で、護衛三名死亡、二名負傷」
「遺族への補償申請は?」
「あります」
指さされた欄へ目を向ける。
「商業組合から領主府へ、死亡した護衛一名につき金貨三枚を申請しています」
「一人につき、金貨三枚?」
「当時の規定です」
胸の奥へ小さな違和感が落ちた。
マリアが受け取った金額を、まだ正確には聞いていない。
「領主府側からの回答は?」
男は頁をめくり、別の印を確認する。
「支払い済みです」
「誰へ?」
「遺族へ支払ったという通知です。商業組合は申請を出し、領主府から処理完了の報告を受け取る形ですので、その先の受け渡しまでは確認していません」
「支払日は?」
「任務から二か月後です」
死亡確認書の日付と矛盾はない。
「申請額と、実際に遺族が受け取った額が違う可能性はありますか?」
その瞬間、受付の男の指が止まった。
周囲を一度確認してから、少し声を落とす。
「……ないとは言えません」
「以前にも、そのような相談が?」
「私は何も申し上げていません」
男はすぐ表情を固くした。
だが、それだけで十分だった。
「無理に聞くつもりはありません」
「……」
「もう一つだけ。税軽減と扶養児童への食料支援について、遺族へ説明する手続きは?」
「当時は、補償申請の控えと一緒に説明書を渡していたはずです」
「ロイドさんの遺族にも?」
男は帳簿の端へ付けられた記号を確認した。
「交付済みと記録されています」
マリアは知らなかった。
制度があることすら。
「この記録をつけた担当者は?」
「当時の担当は……ヘルムートですね」
「現在もこちらに?」
「二年前に退職しています」
「理由は分かりますか?」
「個人的事情としか記録されていません」
二年前。
住民たちが「数年前から支援がまともに出なくなった」と話していた時期と、大きくはずれていない。
「ありがとうございます」
俺が帳簿から手を離すと、男は少し安堵したようだった。
「旅人の方が、どうしてこんな古い件を?」
「知り合った家族が、本来受け取れるはずの支援を受け取っていない可能性があるからです」
「それだけで?」
「それだけでは、理由として足りませんか?」
男は黙った。
少しして、俺たちの周囲に人がいないことを確認してから、声をさらに落とした。
「……支払い済みになっているのに、金を受け取っていないと訴えた人は、以前にもいました」
俺は表情を変えずに待った。
「ですが、領主府へ問い合わせても『処理済み』。役場へ行けば『本人が受け取ったはず』。証拠がなければ、それ以上はどうしようもありません」
「あなたが知っているだけで、何件ありますか?」
「分かりません」
「正確でなくても構いません」
男は唇を結んだ。
迷い。
恐怖。
その両方が見えた。
「……五件です」
小さな声だった。
「少なくとも、私が直接相談を受けたのは五件」
ロイドの家族を含めれば、六件になる可能性がある。
「教えてくださって、ありがとうございます」
「私は何も」
「分かっています」
これ以上は聞かなかった。
彼にも生活がある。
ここで話したことが領主府へ知られれば、職を失う可能性だってある。
組合を出たあと、俺たちはしばらく黙って歩いた。
市場の賑やかな声だけが、妙に遠く聞こえていた。
「主様」
人気の少ない裏路地へ入ってから、セリーが小声で呼ぶ。
今日は訂正する気にもならなかった。
「これは……かなり」
「まだ決めつけない」
俺は自分へ言い聞かせるように答えた。
だが、自分の声が硬くなっていることは分かっていた。
「商業組合から領主府へ、正式な補償申請が出ている。領主府からは支払い済みの通知が戻っている。それなのに、遺族側では受け取っていないという話が複数ある」
「説明書も、渡したことになっている」
「ああ」
単なる予算不足。
単なる制度停止。
それだけでは説明できなくなり始めている。
「エル。金貨三枚は、リュネ周辺の一般的な家庭にとって、どれくらいの金額になる?」
『地域差と家族構成によりますが、節約した場合、半年から一年程度の生活費へ相当する可能性があります』
「……それだけあれば」
マリアは、病気になった時に無理をして働かなくても済んだかもしれない。
ミロは怪我をした足で市場へ野菜を運ばなくてよかったかもしれない。
冬の薪。
薬。
食料。
服。
金貨二枚の差は、数字だけではない。
「俺が監査を延期した時期と重なるな」
『はい。ただし、現時点では監査延期と不正行為の発生時期に直接の因果関係は確認されておりません』
「分かっている」
それでも、胸が苦しかった。
「知らなかったでは、済まないな」
「主様」
「俺は知らなかった。でも、知る機会はあった」
監査予定は組まれていた。
地方へ向かう準備も始まっていた。
それを延期した。
レイチェルに王都へ残ってほしいと頼まれたから。
彼女と離れたくなかったから。
当時の俺には、それが何よりも重要に思えた。
「精神干渉を受けていたとしても、結果は残る」
「はい」
セリーは否定しなかった。
そのことが、今はありがたい。
「でも、今の主様は知りました」
「だから?」
「知ったあと、どうするかは選べます」
俺はセリーを見る。
「過去に見逃したことを消すことはできません。でも、今の主様まで同じように目を逸らす必要はありません」
「全部取り戻せるとは限らない」
「はい」
「証拠を集めたところで、今の俺には領主を裁く権限もない」
「はい」
「正体を明かせば、ミロたちまで巻き込むかもしれない」
「それでも、確かめることはできます」
セリーの声は静かだった。
「全部を一人で解決しなくてもいいんです。肉屋のおじさんも言っていたでしょう?」
昨日の言葉を思い出す。
助けるというのは、一人で全部やることではない。
「俺にできる分だけ、か」
「はい」
今の俺にできること。
記録を集める。
事実を分ける。
ミロとマリアを危険へ巻き込まない方法を考える。
そして。
「次は、マリアが実際に受け取った金額を確認する」
「それから、退職したヘルムートさんですね」
「ああ。ただし、今日は追わない」
「なぜです?」
「役場へ行き、商業組合でも古い帳簿を調べた。すでに俺たちは町で目立ち始めている。ここで続けて動けば、誰かに警戒される可能性がある」
「では帰りますか?」
「その前に、ミロの家へ行く」
「報告ですね」
「ああ。本人たちから借りた情報だ。俺たちだけで勝手に調べて終わるのは違う」
◇◇◇
マリアの家へ戻ると、彼女は俺たちを見るなり不安そうな顔をした。
何かを察したのかもしれない。
俺はまず、夫の死後に実際いくら受け取ったのか尋ねた。
「金貨一枚です」
胸の奥が冷えた。
「間違いありませんか?」
「はい。金貨一枚と、それから夫が最後に持っていた銀貨を少し返していただきました」
「商業組合の記録では、領主府へ金貨三枚の補償申請が出されています」
マリアの顔から血の気が引いた。
「……三枚?」
「はい」
「でも、私は一枚しか」
「あなたが嘘をついているとは思っていません」
すぐに言葉を重ねた。
「商業組合側には金貨三枚を申請した記録が残っている。そして領主府からは、支払い済みの通知が戻っています。しかし、あなたが受け取ったのは一枚だけだった」
ミロは金貨の価値を完全には理解できていないのだろう。
それでも母親の顔色が変わったことに気づき、そっと手を握った。
「母さん?」
「大丈夫よ」
「大人の大丈夫も信用できないんだよ」
以前俺が言ったことを覚えていたらしい。
マリアは一瞬驚き、泣きそうな顔のまま僅かに笑った。
「そうだったわね」
「もう一つあります」
俺は慎重に続けた。
「税軽減と食料支援についての説明書も、交付済みという記録になっていました」
「受け取っていません」
今度は迷いのない答えだった。
「私は字を読むのがあまり得意ではありません。でも、何か説明されたなら覚えているはずです。そんな制度があることさえ、今日まで知りませんでした」
「金を渡したのは誰でしたか?」
「町役場の方です。名前は……分かりません。背が高くて、痩せた男性でした」
「当時の年齢は?」
「四十歳くらいだったと思います」
ヘルムート本人かもしれない。
だが、まだ断定はできない。
「この件を、誰かへ話したことは?」
「ありません」
「でしたら、しばらくは今までどおりにしてください」
マリアの顔に不安が浮かぶ。
「危険なのですか?」
「まだ分かりません。ただ、もし誰かが意図的に補償金を抜いていたのなら、調べていることを知られない方が安全です」
「あなた方は?」
「俺たちも慎重に動きます」
「どうして……そこまで」
昨日と同じ問い。
けれど、今日は昨日と同じ答えでは足りなかった。
「俺にも、責任があるかもしれないからです」
「あなたに?」
「以前、俺は地方行政を監督する側にいました。この地域も、一年前に調査する予定だった。でも、俺は個人的な理由で後回しにした」
セリーは黙っている。
「俺が金を奪ったわけではありません。制度を止めろと命令したわけでもない。でも、調べる機会があったのに調べなかった。その結果、不正を見逃した可能性がある」
「だから、責任を取るために?」
「それだけではありません」
俺は首を振った。
「責任という言葉だけを理由にすると、今度はあなたたちの意思を無視してしまう。俺は、自分で知りたいと思ったから調べています」
「……」
「恩を売りたいわけでも、感謝してほしいわけでもない。ただ、知ってしまったことを、知らなかったことにして帰るのが嫌なんです」
マリアは長い間、何も言わなかった。
窓の外では、近所の子供たちが笑いながら走り回っている。
「夫も……似たようなことを言う人でした」
やがてマリアが静かに話し始めた。
「困っている人を見つけると、放っておけないんです。自分には関係ないでしょうと言うと、『でも、知ってしまったから仕方がない』って」
「それで最後も、商隊を守るために?」
「たぶん」
マリアの目に涙が浮かんだ。
「馬鹿な人でした」
言葉とは裏腹に、その声音には深い愛情があった。
「でも、私はそんな人を好きになりました」
隣のミロが母親へ身体を寄せる。
「父さん、馬鹿だったの?」
「少しだけね」
「アル兄ちゃんも?」
「なぜ俺に聞くんだ」
「似てるって話だから」
「私はかなり似ていると思います!」
セリーが迷いなく口を挟んだ。
「お前まで同意するな」
「褒め言葉ですよ」
「なら……まあ、そう受け取っておく」
ミロが笑い、マリアも涙を拭いながら笑った。
重かった部屋の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
◇◇◇
古の塔へ戻った頃には、窓の外が夕暮れ色へ染まり始めていた。
転移扉を越えた俺は、そのまま書斎へ向かおうとした。
だが、外套の裾を後ろから掴まれる。
「主様」
「なんだ?」
「夕食です」
「少しだけ待ってくれ」
「どのくらいです?」
「一時間ほど」
「却下します」
即答だった。
「なぜだ」
「セリーヌ様も同じことを言いました」
「今朝の話か」
「はい。『少しだけ確認してから食べる』と言って、三時間後に冷え切った食事を前へ座り、『温め直せば問題ない』とおっしゃったことがあります」
「俺はそこまでしない」
「調査を始めた人間の『そこまでしない』は信用できません」
『先に食事を取ることを推奨します』
「エルまで」
「二対一です」
「お前とエルを同じ一票として数えていいのか?」
「私は高性能なので二票でも構いません」
「それなら三対一になるだろう」
「圧勝ですね!」
「自分で増やすな」
結局、俺は食堂へ連れていかれた。
卓上には、昼間市場で買った根菜と肉を煮込んだ料理が並んでいる。湯気と一緒に香草の匂いが立ち上り、椅子へ腰掛けた途端、自分が思っていた以上に空腹だったことへ気づいた。
「美味い」
一口食べて言うと、セリーは満足そうに胸を張った。
「当然です」
「今日は随分自信があるな」
「過去の失敗をきちんと活かしましたので」
「香辛料を入れすぎた日のことか?」
「過去の失敗をいつまでも責めるのは良くありませんよ、主様」
「都合が悪い時だけ深い話へ逃げるな」
「良い言葉は何度使っても良いのです」
俺は笑いながら、もう一口食べた。
食事を終えてから書斎へ戻り、今日確認した内容を一つずつ紙へ書き出していく。
ロイドの護衛任務は正式なものだった。
商業組合は、遺族補償として金貨三枚を領主府へ申請している。
領主府からは支払い済みの通知が届いている。
しかし、マリアが実際に受け取ったのは金貨一枚だけ。
税軽減と食料支援の説明書は交付済みと記録されているものの、本人は受け取っていない。
同じように「支払い済みなのに金を受け取っていない」という相談が、商業組合の職員が知るだけでも少なくとも五件ある。
当時、補償関連を担当していたヘルムートは二年前に退職済み。
「ここまで重なると、偶然だけでは説明しにくくなってきたな」
『複数の記録不一致が確認されています。不正行為が存在する可能性は、昨日までより高まったと評価できます』
エルの判断も一段階踏み込んでいた。
「ヘルムートの現在地を調べたい」
『町の住民台帳、退職時の申告記録、または知人からの証言が必要です』
「組合へ正面から聞くのは危険だな」
「でしたら、私が聞いてきましょう!」
セリーが嬉しそうに手を挙げた。
「どうやって?」
「美少女の旅人が、昔お世話になった男性を捜していると言えば、皆さん親切に教えてくれると思います」
「嘘が雑だ」
「では、昔の恋人を捜していることに」
「余計に怪しい」
「主様が現在の恋人役をしてくだされば、嫉妬を交えた複雑な人間模様に」
「なぜ調査へ恋愛劇を混ぜるんだ」
「印象に残ります」
「残ってはいけないんだ!」
呆れながらも笑ってしまった。
そのまま俺は地図へ目を落とす。
「明日はリュネへ行かない」
セリーが少し意外そうに瞬いた。
「調査を続けないのですか?」
「続ける。ただし塔でだ」
俺たちは三日続けてリュネへ通っている。
しかも、すでに町では「変な旅人」として知られ始めた。
「少し間を空ける。役場と商業組合の両方で古い制度を調べた旅人が、今度は元担当者の行方を探し始めたら、さすがに警戒する者が出るかもしれない」
「では明日は魔導具調査ですね」
「ああ。まだ確認していない物の中に、記録改ざんを見抜くために使えそうなものがあるかもしれない」
俺はエルへ意識を向ける。
「帳簿や文書に残った痕跡から、書き換えや改ざんを見つけられる魔導具はあるか?」
『該当候補を三点確認しました』
「本当にあるのか」
『一つ目、真偽判定用片眼鏡。二つ目、記録再現用羽根筆。三つ目、残響紙です』
「機能は?」
『真偽判定用片眼鏡は、文書へ施された魔術的改ざん、後付けされた印章、一部の偽造を検出できます』
「使えそうだな」
『記録再現用羽根筆は、対象となる筆記具や文書へ残された思念・記憶情報を読み取り、過去に記された内容を再現します。ただし使用者自身の記憶を誤って混入させる危険があります』
「それは今はやめよう」
『残響紙は、文書表面に過去存在した筆跡を可能な範囲で再現できます。ただし、書き換え回数が多い場合、膨大な情報が使用者へ流入します』
「それも危険だな」
『精神負荷が大きいため、現在の主様への長時間使用は推奨しません』
「分かった。まず片眼鏡だけ試す」
「主様、成長しましたね」
セリーが妙に感心した顔をする。
「どういう意味だ?」
「以前なら、三つ全部すぐ使うと言い出しそうでした」
「俺を何だと思っている」
「責任感が強く、自分が傷つくことを後回しにしがちな方です」
反射的に否定しようとして、言葉が止まった。
「否定できませんね?」
「……以前よりは慎重になった」
「はい。よくできました」
「子供扱いするな」
セリーが楽しそうに笑う。
俺も少し笑った。
けれど、机へ置いた紙を見れば、胸の奥に残る重さまでは消えない。
金貨二枚。
王太子だった頃の俺なら、帳簿の一項目として流していたかもしれない。
だが、今は違う。
マリアとミロにとっては、半年以上暮らせるかもしれない金だった。
病気になった時に休めた。
薬を買えた。
冬の薪を買えた。
ミロが野菜を売るために、怪我をした足で町へ向かわなくても済んだかもしれない。
誰かが奪ったのだとすれば。
奪われたのは金貨二枚だけではない。
安心して眠れる夜。
病気の時に休める時間。
子供が子供として過ごせる日々。
「必ず確かめる」
紙を見つめながら口にする。
「誰が、どこで、何をしたのか」
「はい」
「それから、俺が何を見逃したのかも」
セリーは今度は冗談を言わず、静かに頷いた。
◇◇◇
同じ頃、王都の王城では、ブラット・スラスターが自室の扉を内側から固く閉ざしていた。
机の上には、アルフォンスが古の塔へ送られるまでの記録と、レイチェル・パニア男爵令嬢に関する調査資料が広げられている。
卒業舞踏会。
婚約破棄。
レイチェルの拘束。
王太子位の剥奪。
古の塔への即日幽閉。
振り返れば、何もかもが異様なほど早かった。
あの夜のブラットは、アンナマリーを守ることしか考えていなかった。
アルフォンスが彼女を傷つけたことは事実だ。
どれほど説得しても耳を貸さず、レイチェルだけを信じ、大勢が集まる舞踏会でアンナマリーを断罪しようとした。
怒りがあった。
失望もあった。
幼い頃から共に過ごしてきた友人が、まるで別人のように変わっていくことへの苛立ちも、恐怖もあった。
だからこそ、あの場で拳を振るった。
王太子位を失った時も、当然の結果だと自分へ言い聞かせた。
だが。
『兄上が被害者として同情されれば困る』
『兄上が生きている限り、真実を調べる者が現れる可能性がある』
『兄上には戻ってきてもらっては困る』
レオンハルトの言葉が、何度も耳の奥で繰り返されていた。
「……最初から、どこまで決まっていた?」
ブラットは机へ両手をついた。
アルフォンスがレイチェルへ異常なほど執着し始めた時期。
以前なら絶対にしなかった判断を繰り返すようになった時期。
何を言っても届かなくなった時期。
精神干渉の可能性が正式に浮上したのは、卒業舞踏会でレイチェルへ魔力封じの手枷が嵌められ、アルフォンスの状態が急変したあとだった。
だが、その調査は驚くほど早く終わった。
使用された可能性のある違法薬物については証拠品が一部押収された。
それなのに、アルフォンス本人へ対する詳細な魔力検査は行われていない。
「なぜだ」
ブラットは資料を一枚ずつめくった。
王宮魔導研究所から提出された初期報告。
その中に、気になる一文を見つけた。
『対象者アルフォンス・ガイゼンの魔力経路に、長期的外部干渉を受けた可能性を示す異常残留を確認』
ブラットの指が止まる。
「外部干渉……」
ところが。
その後に作成された正式報告書を開くと、同じ一文が存在しない。
代わりに記されているのは。
『対象者の判断能力低下と違法薬物の因果関係については確認不能』
「確認不能?」
初期報告では、可能性があると書かれている。
それが正式版では削除されている。
「誰が削った」
扉が小さく叩かれた。
ブラットは反射的に資料を閉じ、上から別の書類を重ねた。
「誰だ」
「私です」
アンナマリーの声だった。
扉を開ける。
そこに立っていた彼女は、いつものように美しく身支度を整えていた。
だが、顔色は悪い。
「少し、話がしたいの」
「入ってくれ」
扉を閉めると、アンナマリーはすぐには椅子へ座らなかった。
「レオンハルトが、アルフォンスの過去を調べているわ」
「知っている」
「事実を明らかにするためではない」
「ああ」
アンナマリーが顔を上げた。
「どうして知っているの?」
「昨日、執務室の前で話を聞いた」
「……聞いていたの?」
「全部ではない」
ブラットは机の端へ手を置いた。
「だが、十分だった」
アンナマリーは目を伏せた。
しばらく何も言わない。
やがて、掠れた声が落ちた。
「ブラット」
「何だ」
「私たちは……間違えたのかもしれない」
その言葉を口にするまでに、どれほど迷ったのか。
声だけで分かった。
「アルフォンスとの婚約から逃れたかったことを間違いだとは思っていないわ」
「ああ」
「あの人は私の話を聞かなかった。何度も傷つけられた。大勢の前で罪人のように扱われた。あなたと一緒に生きたいと思ったことも、今でも後悔していない」
ブラットは何も挟まなかった。
「でも」
アンナマリーが胸元で指を強く握る。
「そのためにレオンハルトへ協力したことは、間違いだったのかもしれない」
「……」
「私たちは、自分たちが望むものしか見ていなかったのではないかしら」
ブラットにも、簡単には答えられなかった。
アンナマリーは被害を受けた。
それは変わらない。
自分もまた、友人の変化に苦しみ、何度も忠告を無視され、最後には怒りに任せて殴った。
自分たちが傷ついていたからといって、他に何も見えなくなっていたのではないか。
「アルフォンスは……生きていると思う?」
「分からない」
古の塔。
生きて帰れない場所。
毒杯まで送られた。
常識的に考えれば、生存を期待する方がおかしい。
それなのに。
「レオンハルトは、生きている可能性を恐れていた」
「私も、それが気になっているの」
「確認する必要がある」
アンナマリーが顔を上げた。
「どうやって?」
「まず、精神干渉に関する調査がなぜ止まったのかを調べる」
ブラットは机の上にある二冊の報告書へ視線を向けた。
「初期報告と正式報告で、内容が変わっている」
「どういうこと?」
「最初の報告では、アルフォンスの魔力に長期的な外部干渉の痕跡があると書かれている」
「では、本当に」
「待て」
ブラットはすぐに制した。
「まだ確定ではない。だが、正式報告ではその部分が削除されている」
「誰が?」
「分からない。だから調べる」
「レオンハルトに知られたら?」
「危険だろうな」
「それでも?」
ブラットはしばらく黙った。
思い浮かぶのは、卒業舞踏会から連行されていくアルフォンスの背中だった。
あの時。
何か言いたそうにしながら。
それでも、アンナマリーへ声をかけず。
ただ歩いていった。
「もしアルフォンスが本当に嵌められたのなら」
ブラットはゆっくり拳を握った。
「俺は、確かめなければならない」
「……」
「アルフォンスが何をしたのかだけではない」
かつて親友と呼んだ相手。
側近として支えようと決めた相手。
それを最後には、自分も疑うことなく切り捨てた。
「俺たちが、何をしたのかも含めてだ」
アンナマリーは唇を噛んだ。
そして、ゆっくり頷いた。
「私も調べるわ」
「無理はするな」
「私だけ何もしないでいることはできない」
「レオンハルトに警戒されている可能性がある」
「分かっている」
それでも、アンナマリーは目を逸らさなかった。
「今度は、ちゃんと確かめたいの」
その言葉に、ブラットは僅かに目を見開いた。
確かめる。
偶然にも。
遠く離れた古の塔でアルフォンスが選び始めたものと、同じだった。
◇◇◇
王都の夜は、表面上は穏やかだった。
新たな王太子レオンハルトの就任を祝う旗が大通りへ掲げられ、酒場では新しい王国の未来を語る声が飛び交っている。
多くの民は、王家の内側で何が起きているのか知らない。
新王太子が立った。
旧王太子は罪を犯して追放された。
それだけが、分かりやすい事実として広まりつつあった。
その裏側で。
アンナマリーとブラットは、自分たちが信じていたものへ初めて疑問を向け始めている。
そして遠く離れた古の塔では、王位も身分も失った俺が、机の上へ一枚の紙を広げていた。
追っているのは、王冠ではない。
自分を嵌めた者でもない。
たった一人の遺族へ届くはずだった、金貨二枚の行方だ。
王太子だった頃の俺なら、金貨二枚など巨大な国家予算の中へ埋もれる数字でしかなかったかもしれない。
だが今は違う。
その金が届かなかったせいで、薬を買えなかったかもしれない人がいる。
食事を減らした日があったかもしれない。
幼い子供が、大人の代わりに野菜を売りに出なければならなかったかもしれない。
だから。
知らなかったでは、もう通り過ぎられない。
俺はまだ王国を変えようとは思っていない。
王都へ戻るつもりもない。
レオンハルトから王太子位を取り戻そうとも考えていない。
ただ。
知ってしまった以上、目を逸らしたくなかった。
誰が金を抜いたのか。
なぜ支援制度が止められたのか。
俺自身は、どこで何を見逃したのか。
一つずつ。
決めつけず。
確かめる。
それだけだった。
けれど、その小さな調査の先に、地方の帳簿だけでは終わらない大きな嘘が繋がっていることを。
この時の俺は、まだ知らなかった。




