第7話 元王太子、知らなかったでは済ませられないことを知る
翌朝、古の塔を包む森には、夜のうちに降った雨の名残が色濃く残っていた。
露台の石床には浅い水たまりがいくつもでき、雲の切れ間から差し込んだ朝日を淡く映している。森を渡る風が木々を揺らすたび、葉先に溜まっていた雫がぱらぱらと落ち、静かな朝の中へ小さな音を重ねていた。
俺は露台に置かれた椅子へ腰掛け、両手で温かな茶の器を包みながら、卓上に並べられた朝食を眺めていた。
焼いたパンに卵料理、それから昨日ミロから買った野菜を使ったスープ。そこまでは昨日の夕食から続く自然な献立なのだが、その隣には、どう考えても二人で食べ切れるとは思えない量の果物が山のように積まれている。
「セリー」
「はい、主様」
「一応確認するが、この果物は何人分だ?」
俺が尋ねると、卓の向こうに立っていたセリーは、何を当たり前のことを聞いているのだと言いたげな顔で果物の山を見た。
「主様と私の二人分です」
「その答えに疑問があるから聞いている。昨日より明らかに増えているだろう」
「昨日はたくさん歩きましたし、今日は今日で頭を使うことになるかもしれません。身体にも頭にも十分な栄養が必要ですから」
「正論の形をしているが、量の説明にはなっていないぞ」
「では、愛情を少し多めに盛りつけました」
「果物で愛情を盛るな」
「愛は目に見えませんから、分かりやすい形へ変換したのです」
『果物を愛情の代替物とする合理的根拠は確認できません』
右手首からエルの淡々とした声が響いた。
セリーがゆっくり俺の右手首へ視線を落とす。
「エルさん」
『はい』
「こういう時くらい、私の味方をしてくださってもいいと思うのですが」
『検索結果に基づかない同調は行いません』
「冷たいです」
「設計どおりなのだろう」
「主様まで冷たいです」
「俺は果物の量を指摘しただけだ」
セリーが不満そうに頬を膨らませる。その姿を見ながら、俺は小さく笑って果物の山へ手を伸ばした。
赤い小さな実を一つ摘まむ。
塔へ来た最初の日にも食べた果実だ。二千年前の魔導具師セリーヌも好んでいたらしく、甘酸っぱさの奥に、花を思わせる微かな香りがある。
一つを口へ運んで噛むと、柔らかな果肉から爽やかな果汁が広がった。
「やはり、これは美味いな」
何気なく口にしただけだった。
けれど、その瞬間、セリーの表情がほんの僅かに揺れた。
笑顔になるより先に、別の感情が瞳の奥を横切ったように見えたのだ。悲しみとも懐かしさともつかない、俺にはまだ名前を付けられない感情だった。
「どうした?」
「何でもありませんよ」
「今、何か考えただろう」
「主様が美味しそうに召し上がってくださったので、嬉しくなっただけです」
「本当にそれだけか?」
「はい」
答えは早かった。
ただ、いつものセリーより少しだけ声が柔らかかった。
昨日、セリーヌが子供を亡くしていたことを知った。
もしかすると、その子供もこの果実が好きだったのではないか。
そんな考えが頭をよぎったものの、俺は口にはしなかった。食べ物の好みが似ているというだけで、そこへ意味を求めるのは早すぎる。何より、今のセリー自身にも整理できていないものを、俺が勝手に形へ当てはめるべきではないだろう。
昨日の俺は、セリーが話せる時でいいと言った。
ならば今日も同じだ。
俺はもう一つ果実を摘まみ、今度はゆっくり味わった。
「主様」
「何だ?」
「今日はどうなさいますか?」
その問いにも、少しずつ慣れてきた。
王太子だった頃、一日の予定は朝を迎えるより前から決められていた。会議、訓練、報告、視察、面会。予定表に空白があれば、そこへ新しい仕事が入る。朝起きてから、自分で今日何をするのか考える時間などほとんどなかった。
だからこそ、セリーに毎朝尋ねられるこの短い問いが、今の俺には少し特別なものになり始めていた。
「昨日の町へ行こうと思う」
「リュネですね」
「ああ。ミロの母親の具合を見ておきたい。それと、昨日の布告についても、もう少し町の様子を知りたい」
口にすると、昨日広場で見た文章が蘇った。
旧王太子アルフォンスによる職務上の不正、および財政上の損失について追加調査を開始する。
俺が王太子として完璧だったとは、もう思っていない。
むしろ、レイチェルへ心を奪われてからの自分を振り返れば、どれほど多くの判断を誤ったのか分からなかった。地方視察を延期したことも、公務の日程を変更したこともある。アンナマリーやブラットの言葉に耳を貸さず、自分が正しいと決めつけたこともあった。
だから、何もかも濡れ衣だと叫ぶつもりはない。
「すぐ王都へ戻るつもりはないし、誰かを問い詰めるつもりもない。ただ、自分が何をしたとされているのかくらいは知っておきたい」
「はい」
セリーは珍しく冗談を挟まず、静かに頷いた。
「主様が本当に間違えたことなら、主様自身が向き合わなければならないと思います。でも、していないことまで背負う必要はありません」
「俺もそう思う」
問題は、どこまでが俺自身の過ちで、どこからが誰かによって作られたものなのか、まだ分からないことだった。
「エル。昨日の布告内容は記録しているな?」
『記録済みです』
「今後も俺に関する布告や噂の中で、俺の記憶や王太子府の手続きと明らかに矛盾するものがあれば整理してくれ。ただし、矛盾しているからといって、すぐ虚偽だとは決めるな」
『承知しました。現時点で確認可能な情報には限界があるため、確定情報、推測、未確認情報を分けて記録します』
「それで頼む」
俺が犯した大きな失敗の一つは、確かめる前に答えを決めたことだった。
レイチェルの言葉を信じ、アンナマリーとブラットを疑い、二人の反論を聞く前に罪があると決めつけた。王太子という立場にいた俺がそう判断すれば、周囲の人間も簡単には逆らえない。
あの失敗を、今度は逆の立場になったからといって繰り返すわけにはいかない。
「それにしても」
それまで真面目な顔をしていたセリーが、急に口元を緩めた。
「主様は、ミロ君のことがかなり気になっているのですね」
「病人と子供を放っておく理由がないだけだ」
「はいはい」
「その顔は何だ」
「優しい方だなと思っている顔です」
「俺が優しい人間かどうかは分からない」
口にした途端、アンナマリーの顔が浮かんだ。
卒業舞踏会で俺を見つめていた瞳。
恐怖と悲しみ、それから、長い間積み重なった諦めのようなもの。
俺の言葉は彼女を傷つけた。婚約者としての誇りを踏みにじり、大勢の前で罪人のように扱った。その事実を思えば、自分を優しい人間だと簡単に認める気にはなれなかった。
セリーは、そんな俺の表情をしばらく黙って見ていた。
「誰かを傷つけたことがある人は、二度と誰にも優しくしてはいけないのでしょうか?」
「……そういう意味ではない」
「では、優しくできないのでしょうか?」
すぐには答えられなかった。
セリーも答えを急かさない。
雨上がりの森から吹いてきた風が露台を抜け、湿った土と若い葉の匂いを運んでくる。卓上に置かれた茶からは細い湯気が立ち上り、やがて朝の空気へ溶けていった。
「間違えたなら、次は同じ間違いをしないようにすればいいんだと思います」
やがて、セリーが静かに続けた。
「傷つけた事実が消えるわけではありません。謝れば全部許してもらえるとも限りません。許してもらえないことだってあるでしょう」
「ああ」
「でも、それと、これから誰かへ優しくすることは別だと思います。過去に誰かを傷つけたからといって、一生誰にも手を伸ばしてはいけない理由にはならないでしょう?」
胸の奥へ、ゆっくりと言葉が沈んでいった。
「簡単に言うな」
「簡単ではありませんよ」
セリーは笑わなかった。
「難しいです。たぶん、とても。でも、難しいことと、できないことは同じではありません」
俺は茶の器へ目を落とした。
「セリーヌも、そういうことを言う人だったのか?」
「たぶん」
「また、たぶんか」
「私には、セリーヌ様の記憶がすべて残っているわけではありませんから」
セリーは自分の胸元へそっと手を添えた。
「でも、こういうことを言うと、とても自然に感じるんです。まるで昔も、同じような言葉を誰かへ何度も言っていたような……そんな感じがします」
「誰に?」
「分かりません」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
ただ、セリーの言葉は朝食を終えても、胸の中へ静かに残り続けていた。
◇◇◇
朝食後、俺たちは前日と同じように変貌の仮面を使った。
鏡へ映った俺は、濃い茶色の髪と緑がかった灰色の瞳を持つ旅人の青年アル。隣のセリーも、肩までの茶髪と琥珀色の瞳を持つ町娘風の少女セリへ変わっている。
昨日リュネで買った茶色の外套を羽織り、銀貨の入った小袋を内側へしまった。
「今日は何を買う予定ですか?」
「まだ何も決めていない」
「市場へ行けば決まります」
「お前は食べ物の話をしているだろう」
「生活必需品の話です」
「肉串や焼き菓子が生活必需品とは思えないが」
「心には必要です」
「便利な理屈だな」
「主様も昨日、美味しそうに召し上がっていたではありませんか」
「今はアルだ。それに、美味かったことと必需品であることは別だ」
「では、今日もう一度食べて検証しましょう」
「何を検証するんだ」
そんなやり取りをしながら、エルに転移地点を探させる。
転移扉の向こうへ映し出されたのは、リュネ南側の倉庫街だった。建物の裏手には人影がなく、朝の荷運びもまだ始まっていないらしい。
『周辺に主様と直接面識のある人物は確認されません』
「分かった。行こう」
「はい」
扉を越えた瞬間、湿った石畳の匂いと朝の町の喧騒が俺たちを迎えた。
夜の雨はリュネにも降ったらしく、建物の屋根からはまだ雫が落ちている。店主たちは軒先へ溜まった水を箒で掃き出し、荷車が浅い水たまりを踏むたび、車輪の両脇へ細かな飛沫が散っていた。
昨日とは違う道から入ったにもかかわらず、不思議と最初に訪れた時ほど緊張しなかった。
人々は俺たちへ一度だけ視線を向けても、すぐ自分たちの仕事へ戻る。誰も頭を下げず、俺のために道を空けず、期待も失望も向けてこない。
ただの旅人。
それが、思っていた以上に心地よかった。
「まずはミロの家へ行こう」
「布告を見るより先に?」
「病人を後回しにする理由はないだろう」
答えると、セリーが隣で妙に嬉しそうな顔をした。
「何だ?」
「何でもありません」
「昨日から、その顔で何でもないと言うことが増えていないか?」
「主様が思っていたより素直な方だったので、嬉しいだけです」
「思っていたより、という部分は聞かなかったことにする」
町の北側へ向かって歩いている途中、市場の近くまで来たところで、大きな声が飛んできた。
「おお、昨日の旅人じゃないか!」
振り向けば、昨日ミロに案内されて訪れた肉屋の主人が、店先から大きな手を振っていた。
「また来たのか。ミロのところへ行くんだろ?」
「はい。そのつもりです」
「やっぱり気になってたんじゃねえか」
「昨日会ったばかりですよ」
「その割には、母親の具合を聞きたくて仕方ねえって顔してるぞ」
店先で肉を選んでいた女性が、俺たちの会話を聞いて顔を上げた。
「あんたが昨日、ミロの野菜を全部買った旅人かい?」
「買っただけです」
「その『買っただけ』が助けになるんだよ」
隣にいた老人も頷いた。
「今朝、ミロは元気に走り回ってたぞ」
「走っていたんですか?」
思わず声が強くなる。
「ああ。母親の咳も少し減ったらしい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に入っていた力が抜けた。
「それなら、よかった」
「ほら、やっぱり気にしてるじゃねえか!」
店主が豪快に笑い、周囲の客たちもつられて笑う。
王太子だった頃、見知らぬ人間からこれほど気安くからかわれることなどなかった。相手が俺の身分を知れば言葉を選び、護衛たちも不用意に近づけさせなかっただろう。
今は、ただのアルとして笑われている。
妙な感覚だったが、嫌ではなかった。
「兄ちゃん、これ持っていけ」
店主が肉を包み、俺へ差し出した。
「昨日よりいいところだ」
「金を払います」
「いらねえよ」
「それでは受け取れません」
「相変わらず真面目だな」
店主は困ったように頭を掻き、少し考えてから包みを二つに分けた。
「じゃあ、こっちはミロの母ちゃんへ持っていってくれ。もう半分は兄ちゃんたちが食え。それならどうだ?」
「それでも、あなたの持ち出しになるでしょう」
「昨日は兄ちゃんが野菜を買った。今日は俺が肉を出す。それだけだ」
店主は何でもないことのように言った。
「助けるってのはな、一人で全部やることじゃねえよ。今日は俺が肉を出す。明日は近所の誰かが薪を持っていくかもしれねえ。みんなが少しずつやれば、それで何とかなることもある」
俺は差し出された肉を見つめた。
王太子だった頃、国を守る、民を救う、生活を保障するという大きな言葉を何度も聞いてきた。
けれど、ここで暮らす人々はもっと小さく、もっと自然なやり方で誰かを支えている。
すべてを背負える人間などいない。
だから、できる者が、できる時に、できる分だけ差し出す。
「ありがとうございます」
肉を受け取り、自然に頭を下げた。
店主が少し驚いたように目を瞬かせる。
「勉強になります」
「大袈裟な兄ちゃんだな」
「いいえ。本当にそう思います」
「やっぱり変な旅人だ」
「主に私が毎日そう思っています!」
「お前だけだ」
「昨日から聞いてると、その姉ちゃんが一番兄ちゃんを変人扱いしてるじゃねえか」
店主の言葉に周囲から笑いが起こり、セリーだけが「愛情表現です」と胸を張った。
俺は否定するのも面倒になり、肉の包みを抱えて市場を後にした。
◇◇◇
ミロの家を訪ねると、扉の向こうから昨日よりずっと元気な声が返ってきた。
「はーい!」
勢いよく扉を開けたミロは、俺たちの顔を見るなり目を大きく輝かせた。
「アル兄ちゃん、本当に来た!」
「昨日も会ったばかりだろう」
「でも来た!」
「昨日、機会があればと言っただろう」
「だから来た!」
どうやら会話が噛み合っているようで噛み合っていない。
それでも、ただ来ただけのことをここまで喜ばれると、悪い気はしなかった。
「母親の具合は?」
「薬を飲んだら咳が減ったよ。今は寝てる」
「悪くなったわけではないんだな?」
「うん。昨日より元気!」
家の中へ入ると、母親は寝台の上で身体を起こしていた。
まだ顔色は青白いが、昨日より目に力がある。窓も少し開けられており、湿り気の残っていた部屋へ新しい空気が入っていた。
「昨日は、本当にありがとうございました」
「具合はどうですか?」
「熱も少し下がりました。咳も昨日より楽です」
「それならよかった」
自分でも分かるほど、声に安堵が滲んだ。
母親が柔らかく笑う。
「本当に、親切な方なのですね」
「俺は野菜を買っただけです」
「それ、嘘だよ」
ミロがすかさず口を挟んだ。
「今日市場へ行ったら、あの野菜、全部でも銀貨一枚にならないって言われた」
「市場へ行ったのか?」
「うん」
「さっき、走り回っていたとも聞いたぞ」
「……誰から?」
「肉屋の主人だ」
「おじさん、余計なこと言った!」
「怪我が治ったからといって無理をするな」
「大丈夫だよ」
「薬師にも言われただろう。子供の大丈夫は信用できない」
ミロが不満そうに頬を膨らませ、母親が小さく笑った。
「それから、肉屋の主人から預かり物があります」
俺が包みを差し出すと、母親は驚いて目を見開いた。
「こんなに……?」
「半分はあなたたちへと言われました。もう半分は俺たちが受け取っていますから、遠慮する必要はありません」
母親は包みを見つめたまま、しばらく何も言えなかった。
やがて、僅かに潤んだ目を伏せる。
「この町の人たちは、本当に優しいですね」
「そうですね」
俺も昨日まで知らなかった。
誰もが豊かなわけではない。自分たちの暮らしだけで精一杯の者も多い。それでも、少し余裕がある時には誰かへ分ける。
「母さん、今日は肉だ!」
「久しぶりだね」
ミロが喜び、母親も笑った。
だが、その「久しぶり」という言葉が胸へ残った。
薬は買えた。
今夜の食事も少し良くなる。
それでも、彼らの暮らしそのものが解決したわけではない。
俺は少し迷ってから、母親へ尋ねた。
「旦那さんは、どうされたのですか?」
部屋の空気が僅かに変わった。
母親は膝の上へ置いていた手を重ね、少しだけ視線を伏せた。
「三年前に、街道で魔物に襲われました」
「冒険者だったのですか?」
「はい。商業組合から依頼を受けて、荷馬車の護衛をしていました。昔から危険な仕事でしたけれど、あの人は腕が良かったので……まさか、帰ってこないとは思っていませんでした」
正式な護衛依頼の途中で亡くなり、その後は母親が縫い物をしながらミロを育ててきたらしい。
だが、今回の病気で仕事ができなくなり、蓄えもほとんどなくなった。
「公認された護衛任務中に亡くなったのであれば、遺族への補償制度があったはずです」
俺がそう言うと、母親は戸惑ったように首を傾げた。
「補償なら、夫が亡くなった時に少しだけ受け取りました」
「一時金ですね。その後、税の軽減は?」
「ありません」
「扶養する子供がいる世帯への食料支援は?」
「そのようなものがあるのですか?」
俺は言葉を失った。
記憶違いだろうか。
いや、王太子教育で何度も学んだ制度だった。任務中に死亡した者の遺族へ一時補償を行い、その後一定期間は税負担を軽減する。扶養児童がいる場合には追加支援も行われる。
「エル」
声には出さず、心の中で呼びかけた。
『はい』
「俺の記憶を確認してくれ。公認護衛任務で死亡した者への遺族支援制度だ」
『主様の記憶情報では、一時補償金に加え、一定期間の税軽減制度が存在します。扶養児童がいる場合、追加の食料支援対象となる規定も確認できます』
「制度が変わった可能性は?」
『現行王国法の全文を保有していないため、否定できません』
そうだ。
今の情報だけで何かがおかしいと断定してはいけない。
法が変更された可能性もある。対象条件が細かく、ミロの父親が該当しなかった可能性だってある。
「町役場へ申請したことはありますか?」
「夫が亡くなった直後に一度だけです。その時に一時金をいただいて……それ以降は何も」
「税の軽減や食料支援について説明は?」
「ありませんでした」
俺は少し考えた。
「制度が今も残っているのか、役場で確認してみます」
「え?」
「もし廃止されているなら、それで終わりです。ただ、使える制度があるのに知らされていないのであれば、確認する価値はあるでしょう」
「でも、そこまでしていただくわけには……」
「俺が気になるんです」
「ですが」
「施しをするわけではありません。本来受け取れるものがあるのなら、それを受け取るだけです」
母親は困ったように俺を見つめた。
その横で、ミロが目を輝かせる。
「アル兄ちゃん、昔は役人だったの?」
「まあ……似たような仕事をしていた」
「すごい役人?」
「普通だ」
背後から、妙な音が聞こえた。
振り返ると、セリーが口元を両手で押さえている。
「何だ?」
「いえ。主様が普通の役人だったとは知らなかったもので」
「今はアルだ」
「失礼しました。普通の役人のアルさん」
「後で話がある」
「怖いです!」
まったく怖がっていない声だった。
ミロが声を上げて笑い、母親もつられて笑う。
その笑い声を聞きながら、俺は胸の中に生まれた小さな疑問を、今度こそ曖昧なまま放置しないと決めた。
◇◇◇
ミロの家を出たあと、俺たちは町役場へ向かった。
「本当に調べるのですね」
人通りの少ない道へ入ったところで、セリーが小声で尋ねてきた。
「ああ」
「もう王太子ではないのに?」
その言葉に、俺は一瞬だけ足を止めた。
確かにそうだった。
今の俺には、地方行政を監督する責任などない。役人の仕事に不備があろうと、制度が正しく運用されていなかろうと、俺が調べなければならない義務はない。
見なかったことにして町を楽しみ、塔へ帰ることもできる。
それもまた、王太子ではなくなった俺が得た自由なのだろう。
「王太子ではないから、見なかったことにしても誰にも責められない」
「はい」
「でも、知ってしまった」
怪我をした膝で野菜を拾っていたミロ。
薬を買う金がなく、寝台で咳き込んでいた母親。
その顔を知ってしまった。
「知らなければ通り過ぎられたかもしれない。でも、知った以上は気になる。制度が本当にないのか、それともあるのに使えていないのか。それくらいは確かめたい」
セリーはしばらく黙っていた。
やがて、俺の隣を歩きながら、小さく笑う。
「そういうところを、セリーヌ様は好きだったと思います」
「なぜ分かる?」
「分かりません」
「またそれか」
「でも、そう思うんです」
セリーは胸元へ手を添えた。
「理由は上手く説明できませんけど」
「そうか」
それ以上は聞かず、俺たちは役場へ向かった。
◇◇◇
町役場は、広場から少し離れた場所に建つ石造りの二階建てだった。
中へ入ると、税や土地、商売の許可について相談に来た住民たちが列を作っている。壁際には古い長椅子が並び、順番を待つ者たちが疲れた表情で腰掛けていた。
窓口は三つあるものの、開いているのは二つだけだった。
俺たちが列の最後尾へ並ぶと、前にいた老人が振り返った。
「旅人さんかい?」
「はい。少し制度について聞きたいことがありまして」
「何の制度だ?」
「公認護衛任務中に亡くなった方の遺族補償です」
老人の顔が曇った。
「そんなもん、今はほとんど出ないぞ」
「今は?」
「昔はもう少しまともだったらしいがな。数年前から審査が厳しくなった。申請するだけでも金がかかる」
近くの長椅子に座っていた女性も顔を上げた。
「寡婦への補助も似たようなものだよ。書類を出すだけで銀貨一枚なんて、払える人の方が少ないだろうに」
「申請手数料が銀貨一枚?」
「ああ。去年より上がったよ」
支援を必要とする者ほど、金に余裕がない。
その者たちへ申請だけで銀貨一枚を要求する。
不自然だとは思った。
だが、まだ事情は分からない。
俺は何も言わず、順番を待った。
やがて窓口へ進むと、中年の役人が書類へ目を落としたまま尋ねてきた。
「要件は?」
「公認護衛任務中に死亡した者の遺族に対する補償制度について教えていただきたいのですが」
「対象者本人ですか?」
「違います。知人です」
「なら、本人を連れてきてください」
「病気で歩けません」
「代理申請には証明書が必要です」
「今日は申請ではありません。制度が現在も存在するのか知りたいだけです」
そこで役人が初めて顔を上げた。
「古い制度です」
「廃止されたのですか?」
「実質的には」
曖昧な答えだった。
「正式な廃止日と、根拠となる規則を確認できますか?」
役人の眉が寄る。
「あなたは何者です?」
「旅人です」
「旅人が、そこまで知る必要はないでしょう」
周囲が少し静かになった。
列に並んでいた住民たちが、こちらの会話へ耳を傾けているのが分かる。
俺は一度息を吐いた。
ここで相手を責めても意味はない。
「文句を言いに来たわけではありません。対象になりそうな知人がいるので、確認したいだけです」
「本人を連れてきてください」
「先ほど申し上げたとおり、病人です。代理申請の手数料は?」
「銀貨一枚です」
後ろから、小さな声が上がった。
「また上がったのか」
「去年は銀貨半分だったぞ」
「何の説明もないじゃないか」
ざわめきが広がり、役人の顔が険しくなる。
「静かにしてください! 業務の妨害になります!」
強い声が役場へ響き、一瞬で住民たちが黙った。
その光景を見た瞬間、胸の奥へ嫌な感覚が走った。
見覚えがあった。
立場の強い者が声を大きくし、相手を黙らせる。
かつての俺も、同じことをしていたのではないか。
王太子という立場でアンナマリーを責めた時、彼女が何を言っても俺は聞こうとしなかった。周囲の誰かが疑問を持っていたとしても、俺の判断へ正面から逆らうことは難しかったはずだ。
俺は無意識に握っていた拳を開いた。
「騒がせるつもりはありませんでした。申し訳ありません」
先に頭を下げる。
役人が意外そうに目を瞬かせた。
「ただ、制度の説明書だけでも確認させていただけませんか。持ち出しませんし、必要な部分を見るだけで構いません」
役人は俺と周囲の住民を交互に見た。
これ以上拒めば、かえって騒ぎになると判断したのだろう。
「待っていてください」
不機嫌そうにそう言い、奥へ引っ込んだ。
しばらくして戻ってきた役人が卓へ置いたのは、かなり古びた冊子だった。表紙は擦れ、紙も黄色く変色している。
「これが最後です。長居はしないでください」
「ありがとうございます」
俺は冊子を開いた。
エルへ意識を向けながら、該当する項目を探す。
『確認しました』
ほどなくして、エルの声が頭の中へ響いた。
『公認護衛任務中に死亡した者の遺族には一時金を支給し、その後三年間、規定範囲内で税を半減する。扶養児童が存在する場合、追加の食料支援を行うと記載されています』
記憶違いではなかった。
「この制度は残っていますよね?」
俺が役人へ尋ねると、彼は面倒そうに息を吐いた。
「だから言ったでしょう。実質的には停止されています」
「誰の決定で?」
「領主府です」
「領主府?」
「バルド子爵様の判断ですよ」
その名を聞いた瞬間、記憶の奥で何かが引っかかった。
どこかで見た。
王太子だった頃の書類だ。
「停止を命じた文書は、ここにありますか?」
「写しはあるはずです」
「確認できますか?」
「一般公開されていません」
「理由は?」
「私に聞かれても困ります」
役人の苛立ちが強くなっていた。
これ以上押しても意味はない。
俺は冊子を閉じ、丁寧に返した。
「ありがとうございました」
「……どうも」
役人は最後まで訝しそうに俺を見ていた。
その視線を背中へ感じながら、俺たちは役場を出た。
◇◇◇
人通りの少ない裏路地まで移動してから、俺は古い石壁へ背中を預けた。
雨上がりの湿った冷気が外套越しに伝わってくる。
「顔が怖いですよ、主様」
「そうか」
「かなり」
「今はアルだろう」
「そうでした。アルの顔がかなり怖いです」
「直す余裕がない」
制度は存在している。
少なくとも、役場に置かれた規則集には残っていた。
だが、領主府の判断によって実質的に停止されている。申請には銀貨一枚が必要で、停止を命じた文書は一般には公開されていない。
不自然な点はある。
それでも。
「まだ、不正だと決まったわけではない」
自分自身へ言い聞かせるように口にした。
「領地の財政に何か事情があったのかもしれない。別の制度へ切り替えられている可能性もある。役場の人間が正しく説明できていないだけかもしれない」
「はい」
「だから、決めつけない。確認する」
今度は、きちんと。
レイチェルの言葉だけを信じた時とは違う。
「エル。バルド子爵について、俺の記憶を整理してくれ」
『検索します』
少しの間があった。
『三年前、地方税収報告の提出遅延が一度。二年前、災害復旧費の増額申請。一年前には、王太子府による地方監査候補として名前が記録されています』
「監査候補?」
その言葉で、記憶が繋がり始めた。
机に積まれた書類。
視察予定表。
地方へ向かうための準備。
そして――。
「最終的に、監査は?」
『実施されていません』
「理由は?」
エルが答えるまでの僅かな時間が、妙に長く感じられた。
『主様の記憶情報では、レイチェル・パニア男爵令嬢との関係悪化を避けるため、地方視察を伴う複数の監査案件を延期しています』
胸の奥が、重く沈んだ。
「あ……」
思い出した。
レイチェルが寂しいと言った。
俺が長く王都を離れるのは嫌だと。
学園で行われる行事へ一緒に出てほしいと頼まれた。
当時の俺には、それが何より大切なことに思えた。
だから予定を変えた。
地方監査など後でもできると考えた。
王太子である俺が命じれば、予定などいくらでも動かせると思っていた。
「俺が……止めたのか」
口から漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
もし、あの時。
予定どおり監査をしていたら。
バルド子爵領の制度運用に問題があったなら、もっと早く気づけたかもしれない。
ミロの父親が亡くなったのは三年前。
母親が受けるべき支援が止められた時期と、俺が監査を後回しにした時期がどこまで重なるのかは、まだ分からない。
分からない。
だから、俺が直接ミロたちを苦しめたと決めつけることもできない。
それでも、可能性があるだけで胸が苦しかった。
「俺のせいかもしれない」
「主様」
「全部が俺のせいだと言うつもりはない」
セリーが何か言う前に、俺はゆっくり首を振った。
「制度を停止したのが領主なら、その判断まで俺の責任ではない。役場が不当に金を取っているのなら、それも俺が命じたわけじゃない」
「はい」
「でも、監査する機会があった。それを、俺は自分の都合で後回しにした」
レイチェルに嫌われたくなかった。
彼女と一緒にいたかった。
そのために公務を動かした。
それは精神干渉の影響があったとしても、俺が王太子として行ったことだった。
「もし、その結果として問題を見逃したなら、責任がないとは言えない」
セリーはすぐには慰めなかった。
それがありがたかった。
「今、自分に責任があるなら全部一人で何とかしなければならない、と考えていませんか?」
しばらくして、彼女が静かに尋ねた。
俺は返事をせず、視線を逸らした。
「主様」
「……顔に出ていたか?」
「ものすごく」
「そうか」
「肉屋のおじさんが言っていましたよね。一人で全部助ける必要はないって」
「分かっている」
「本当に?」
「……分かるように努力する」
セリーは少しだけ目を細めた。
「それならよろしいです」
「随分と偉そうだな」
「高性能ですから」
「関係あるか?」
「あります」
そして彼女は、今までの重い空気を意図的に変えるように両手を合わせた。
「では、お昼ご飯にしましょう!」
「この流れで食事の話になるのか?」
「この流れだからです。考えるのは食べながらでもできますし、お腹が空いた状態で悩んでも暗いことしか考えません」
『栄養不足は集中力および判断力低下の一因となります』
「エルまで味方するのか」
『事実を提示しただけです』
「そうだったな」
思わず笑った。
ほんの少しだけ、胸の重さが和らぐ。
「分かった。まず食べよう」
「はい!」
急がない。
決めつけない。
一つずつ確認する。
今の俺には、それができる。
◇◇◇
広場近くの食堂へ入り、豆と細かく刻んだ肉を煮込んだ料理、それから黒パンを頼んだ。
素朴な料理だったが、運ばれてきた器から立ち上る湯気には香草の匂いが混ざり、歩き回って空腹になった身体には十分魅力的だった。
周囲の卓では、商人や職人らしい男たちが食事をしながら話している。
「税がまた上がるらしいぞ」
「今度は何だ?」
「橋の修理費だって話だ」
「去年も聞いたぞ、それ」
「なのに橋はまだ穴だらけだ」
別の卓からも声が聞こえてきた。
「救済金も止まったままだしな」
「王都は何をやってるんだ」
「新しい王太子様が改革してくれるって話じゃないか」
「レオンハルト殿下なら大丈夫だろ。前の王太子とは違う」
俺の手が僅かに止まった。
「前の王太子は、女に夢中になって地方監査まで潰してたらしいぞ」
「それで地方貴族が好き勝手やったって?」
「そんな話だ」
「最低だな」
豆の煮込みから上がる湯気が、視界を僅かに揺らした。
事実はある。
俺は監査を延期した。
女に夢中だったという部分も、否定しきれない。
だが、地方貴族に好き勝手させるために監査を潰したわけではない。
結果として問題を見逃したのなら、その責任は考えなければならない。
けれど、意図まで別のものへ変えられていく。
「エル」
『記録しました』
「頼む」
噂というものは、こうやって形を変えるのかもしれない。
事実が一つある。
そこへ推測が加わる。
誰かがその推測を事実のように語り、さらに別の誰かが理由を付け足す。
そうして、いつの間にか最初とは違う話になる。
以前なら、こんな噂を耳にすれば怒ったかもしれない。
今は違う。
腹が立たないわけではない。
苦しくないわけでもない。
それでも、自分の中で分けて考えようと思えた。
監査を延期した。
これは事実。
地方貴族を守るために意図的に潰した。
これは、少なくとも俺の記憶にはない。
監査延期が現在の問題へどこまで影響した。
これは未確認。
「アル」
セリーが卓の上へ手を置いた。
俺の手へ触れはしない。
ただ、すぐ近くに置いただけだった。
「食べましょう」
「ああ」
一口、煮込みを食べる。
温かかった。
胸の痛みが消えたわけではないのに、きちんと味がした。
「逃げない」
小さく呟いた。
「本当に俺がしたことなら認める。でも、していないことまで認めるつもりはない」
「はい」
セリーが静かに笑った。
「それでいいと思います」
◇◇◇
午後、町を出る前にもう一度ミロの家へ寄ると、家の前から鈍い音が聞こえてきた。
見ると、ミロが身体に対して明らかに大きすぎる斧を両手で持ち上げている。
「何をしている!」
「薪割り!」
「見れば分かる。危ないから貸せ」
「俺にもできるよ」
「昨日怪我をしたばかりだろう」
「もう治ったもん」
「だからといって危険なことをしていい理由にはならない」
半ば強引に斧を受け取ると、ミロが不満そうに頬を膨らませた。
「アル兄ちゃん、薪割りできるの?」
「……やってみれば分かる」
「今、ちょっと間があったよ」
「気のせいだ」
薪を台へ置き、斧を構える。
王城で剣を振った経験ならある。
騎士たちと訓練もしてきた。
薪割りも似たようなものだろう。
そう思って振り下ろした斧は、見事に薪の中心を外し、端へ食い込んだ。
「……」
「……」
ミロが無言で俺を見る。
「何だ」
「下手だね」
「初めてだから仕方ないだろう!」
背後からセリーの笑い声が聞こえた。
「アル、腰が高いです」
「分かっている」
「分かっている人の振り方ではありませんでしたよ」
「では、お前がやってみろ」
「私は完璧なメイドなので薪割りもできます」
「少し腹が立つな、その言い方」
何度か挑戦するうちに、少しずつ斧の重さと振り下ろす位置が分かってきた。
やがて一本の薪が綺麗に二つへ割れる。
「やった!」
ミロが自分のことのように拍手した。
「なぜお前がそんなに嬉しそうなんだ?」
「最初がすごく下手だったから!」
「余計な一言だ」
額へ浮かんだ汗を袖で拭いながら、割れた薪を見る。
王太子だった頃なら、俺が薪を割ることなど一生なかっただろう。
「でも、意外と楽しいな」
「でしょ? 俺、いつもやってるよ」
「だからこそ気をつけろ。斧は遊び道具じゃない」
「大丈夫!」
「その言葉は禁止だと言っただろう」
俺たちが言い合っていると、通りかかった近所の女性たちが足を止めた。
「ミロ、その人たちは誰だい?」
「旅人! 昨日、母さんの薬代を助けてくれたんだ!」
「薬代を出したわけではない。野菜を買っただけだ」
「それ、もう町中で聞いたよ」
「なぜだ?」
女性たちが笑った。
「小さい町だからね。肉屋でも役場でも目立ってたらしいじゃないか」
「役場のことまで?」
「あそこは人が多いから、話が広まるのも早いよ」
正体を隠している俺としては、目立つことは本来なら避けるべきだ。
少し警戒しなければならない。
それでも。
「また町へ来なよ」
女性の一人が笑った。
「ミロも喜ぶし、市場の連中も『変な旅人が来た』って楽しんでるから」
「その評判だけは納得できません」
「主に私のせいでしょうか?」
「お前は自覚があるのか」
周囲からまた笑いが起こる。
俺は少しだけ迷ってから、頷いた。
「また来ます」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に出た。
ミロが嬉しそうに笑った。
◇◇◇
古の塔へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
転移扉を越え、見慣れた道具部屋へ足を踏み入れる。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、主様!」
「お前も一緒に帰ってきただろう」
「これは決まりです」
「昨日も言っていたな」
「明日も言います」
俺は少し笑った。
そして、もう一度口にする。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
今度は、その言葉が胸へ自然に落ちてきた。
町へ出て、誰かと会い、知らなかったものを見て、ここへ戻ってくる。
古の塔は、俺を閉じ込めるための牢獄ではなくなりつつあった。
ここは少しずつ、俺が帰る場所になっている。
夕食後、俺は王城から持ち込まれた荷物を調べ、三年前に発行された王国貴族年鑑を取り出した。
頁をめくり、バルド子爵の名を探す。
リュネを含む周辺地域を治める地方貴族。過去に税収報告の遅れがあり、その翌年には災害復旧費の増額申請。
「監査候補に挙がっていたのに、俺が視察を止めた」
呟くと、隣に座っていたセリーが黙って俺を見る。
「理由は、レイチェルに王都へ残ってほしいと言われたからだ」
「それは確かに愚かでしたね」
「そこは少しくらい否定してくれてもいいだろう」
「嘘を言っても仕方ありません」
「そうだな」
思わず苦笑した。
「ただし、その時の主様が正常な判断をできる状態ではなかった可能性もあります」
「それでも、結果は消えない」
「はい。消えません」
また、セリーは安易に慰めなかった。
それでよかった。
「だから、できることをしたい」
「全部ですか?」
すぐに尋ねられ、俺は言葉を止めた。
今日、肉屋で聞いた言葉が蘇る。
一人で全部やることではない。
「……いや」
俺は首を振った。
「まずは、知るところからだ」
「はい」
「ミロの母親が、本当に支援対象だったのか。制度はいつ、どういう理由で止められたのか。申請手数料は正式なものなのか。それから、俺が監査を延期した時期と、領内で問題が起き始めた時期が重なっているのか」
一つずつ口にしながら、紙へ書き出していく。
分からないものは、分からないと記す。
確認できたものだけを事実として残す。
「復讐のためじゃない」
「はい」
「王太子へ戻るためでもない」
「はい」
「ただ、知ってしまったから、確かめたい」
ミロと母親の顔が浮かんだ。
「本来受けられるはずのものを受けられずに苦しんでいる人がいるなら、その理由くらいは知りたい」
セリーは俺の横顔を見つめ、やがて静かに頷いた。
「急がずに、一つずつ確認しましょう」
「ああ」
紙の一番上へ、俺は大きく書いた。
――確定していること。
その下へ、別の項目を作る。
――まだ分からないこと。
以前の俺には、できなかった分け方だった。
◇◇◇
同じ頃、遠く離れた王都では、まったく別の意味で旧王太子アルフォンスに関する情報が整理されていた。
新王太子レオンハルトの執務室には、過去の支出記録や王太子府の予定表、地方監査に関する資料が机いっぱいに積み上げられている。
「旧王太子アルフォンスが在任中、複数の地方監査を延期していた記録が確認されました」
若い官吏が資料を手に、緊張した面持ちで報告していた。
「中でも、バルド子爵領、ガルシア伯爵領、南部穀倉地帯の三件は、予定されていた視察が直前に変更されています」
「理由は?」
「王太子府の正式記録では、日程上の都合とだけ」
レオンハルトは椅子へ深く腰掛けたまま、資料を一枚ずつ確認した。
「その時期、兄上はレイチェル・パニア男爵令嬢が関係する学園行事へ何度も出席していますね」
「……はい」
「その記録は間違いありませんか?」
「記録上は事実です」
「では、公表できますね」
官吏の顔に迷いが浮かんだ。
「そのままでは難しいかと」
「なぜです?」
「監査の延期と、その後に発生した地方行政上の問題との因果関係が証明されていません。また、視察変更の理由が男爵令嬢との関係だけだったとも断定できません」
「私は、不正だったと断定しろとは言っていませんよ」
レオンハルトは柔らかな笑みを浮かべた。
「事実を示せばいいのです。兄上がレイチェル嬢との時間を優先していた時期に複数の地方監査が延期され、その後、それらの地域で行政上の問題が確認された」
「ですが、それでは受け取る側が――」
「あとは民が判断するでしょう」
官吏は口を閉ざした。
レオンハルトは嘘を作れとは言っていない。
監査が延期された。
アルフォンスがレイチェルと過ごしていた。
地方で問題が起きた。
それぞれを切り離せば、確かに記録上の事実だった。
ただ、それらをどの順番で並べ、何を語らずに残すのか。
それだけで、受け取る印象は大きく変わる。
「もう一つ」
官吏が迷いながら口を開いた。
「旧王太子アルフォンスは、精神干渉を受けていた可能性があります。調査記録にも――」
室内の空気が変わった。
レオンハルトの笑みは残っている。
けれど、先ほどまでの柔らかさは消えていた。
「それは、職務を怠った責任を免じる理由になるのですか?」
「いえ。しかし、判断能力への影響を考慮する必要は――」
「今は、兄上が行った職務上の判断を調べているのです」
「……承知いたしました」
「余計な推測を加える必要はありません」
官吏は深く頭を下げた。
資料を抱えて退出すると、重い扉が静かに閉まる。
しばらくして、執務室の奥にある扉が開いた。
「また、アルフォンスの罪を増やすつもりなの?」
アンナマリーが立っていた。
その顔には、以前のような迷いだけではなく、明確な警戒が浮かんでいる。
「罪を増やしてなどいません」
レオンハルトは平然と答えた。
「事実を調べているだけです」
「違うでしょう」
「何がです?」
「事実の見せ方を変えている」
アンナマリーは机の上に積まれた資料へ視線を落とした。
「監査を延期したことだけを出して、精神干渉の影響は隠す。地方で問題が起きたことを並べて、アルフォンスが意図的に見逃したように思わせる」
「私はそのようなことを一言も言っていません」
「言わなくても、そう思わせるようにしているのでしょう?」
レオンハルトの目が僅かに細くなった。
「アンナマリー。兄上を庇うつもりですか?」
「庇うとか、そういう話ではないわ」
彼女の声が震えた。
「私はアルフォンスとの婚約を解消したかった。ブラットと生きる自由が欲しかった。そのために、あなたへ協力した」
「ええ」
「でも、アルフォンスを完全な悪人として歴史に残すことまで望んでいない」
「兄上はあなたを傷つけた」
「だからといって、していないことまで罪にしていいわけではないでしょう!」
声が室内へ響いた。
アンナマリー自身、その言葉に驚いたように息を止めた。
レオンハルトの表情から、ゆっくり笑みが消える。
「実際、兄上は被害者だったとでも?」
「精神干渉については、そうでしょう」
「その言葉を軽々しく口にしないでください」
低い声だった。
アンナマリーが僅かに身を強張らせる。
「兄上が被害者だったと公になれば、何が起こると思います?」
「……何が?」
「同情する者が現れる。古の塔への追放は重すぎたと言う者も出る。王家の処分そのものを疑う者も現れるでしょう」
「だから何なの?」
「私は王になる必要があります」
迷いのない答えだった。
アンナマリーの顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「兄上が王位へ戻る可能性は、完全に消しておかなければならない」
「そこまで約束していない」
「約束?」
「私は、アルフォンスとの婚約を解消したかっただけ。あなたは、アルフォンスを殺さないと言った」
「殺していません」
「毒杯を送ったでしょう」
「送ったのは父上です」
「あなたが勧めたのではないの?」
レオンハルトは答えなかった。
長い沈黙ではなかった。
ほんの数秒。
だが、アンナマリーには十分だった。
「あなた……最初から、アルフォンスが古の塔で死ぬと思っていたの?」
「古の塔へ送られた者は生きて戻らない。そう聞かされていました」
「それは、殺すのと同じでしょう」
「ですが、兄上はまだ生きている」
その言葉に、アンナマリーの肩が震えた。
「だから、死んでほしいの?」
再び沈黙が落ちた。
今度もレオンハルトは答えなかった。
けれど、その沈黙は先ほどよりも明確だった。
「あなたは……本当にアルフォンスの弟なの?」
信じられないものを見るようにアンナマリーが問いかける。
すると、レオンハルトの口元へ薄い笑みが戻った。
「弟だからですよ」
「……どういう意味?」
「私はずっと兄上の影だった」
静かな声だった。
だが、その奥には、それまで隠されていた感情が滲んでいた。
「何をしても兄上が先だった。兄上が王太子で、私は第二王子。学問で良い成績を取っても、剣で勝っても、政治を学んでも、最後には『さすがアルフォンス殿下の弟君』と言われる」
「レオンハルト……」
「ようやく私の番が来たのです」
レオンハルトは声を荒らげなかった。
むしろ、その口調は不自然なほど穏やかだった。だからこそ、アンナマリーには、その奥へ長い年月をかけて沈殿してきたものが、初めて形を持って現れたように感じられた。
「兄上が失敗しても、周囲はいつか立ち直ると言った。兄上が何かを成し遂げれば、当然のように称えられた。私は何をしても、兄上と比べられた。そのたびに笑ってきましたよ。兄上を尊敬しています、支えたいと思っています、と」
「それは……」
「嘘だったのか、と聞きたいのですか?」
アンナマリーは答えられなかった。
レオンハルトは机へ片手を置き、その上に積まれた資料へ視線を落とした。
「全部が嘘だったわけではありません。幼い頃は、本当に兄上が好きでした。兄上のあとを追いかけ、一緒に剣を習い、同じ本を読み、いつか兄上の隣で国を支えられたらいいと思っていた」
その言葉だけを聞けば、かつての兄弟の姿を懐かしんでいるようにも思える。
けれど、その先に続いた声音は冷たかった。
「ですが、成長するにつれて分かったのです。兄上がいる限り、私には自分の人生などないのだと」
「だから、アルフォンスを陥れたの?」
「私は機会を利用しただけです」
「同じことでしょう!」
アンナマリーの声が強くなる。
「精神干渉を受けていた彼を助けるどころか、その状況を利用して王太子の座から引きずり下ろした。しかも今度は、していない罪まで重ねようとしている」
「していないと、なぜあなたが断言できるのです?」
「少なくとも、確認もせず悪いように見せるのは違うと言っているのよ」
アンナマリーは一歩も引かなかった。
卒業舞踏会では、アルフォンスに傷つけられ、ブラットへ救われた自分こそ被害者だと思っていた。
それは今も変わらない。
アルフォンスがしたことを許せるわけではない。浴びせられた言葉も、大勢の前で向けられた侮辱も、簡単に忘れられるものではなかった。
それでも。
だからといって、別の罪まで着せていい理由にはならない。
「私は、アルフォンスを許したわけではないわ」
アンナマリーは噛み締めるように言った。
「今でも思い出せば苦しい。どうして私を信じてくれなかったのかと、何度も考える。でも、彼が精神干渉を受けていたことまでなかったことにするのは違うでしょう」
「あなたは随分と兄上に優しいのですね」
「そういう言い方をしないで」
「ブラットが聞けば、どう思うでしょうか」
アンナマリーの顔が強張った。
その反応を見て、レオンハルトの目が僅かに細くなる。
「あなたは兄上との婚約から解放され、ブラットと生きることを選んだ。それなのに今さら兄上へ同情する。随分と都合がいい」
「私は――」
「それとも」
レオンハルトがゆっくりと近づいてくる。
「まだ兄上へ未練があるのですか?」
「違う!」
反射的な声だった。
あまりに強く否定したため、自分自身が一瞬言葉を失う。
「私はブラットを愛しているわ」
「ならば問題ないでしょう」
「何が問題ないの」
「兄上はもうあなたの人生には必要のない人間だ」
その言葉に、アンナマリーの胸へ冷たいものが落ちた。
「必要がない人間なら、何をしてもいいというの?」
「そうは言っていません」
「同じよ」
レオンハルトは答えなかった。
その時、執務室の外に続く廊下で、微かな衣擦れの音がした。
二人は気づかなかった。
扉の向こうには、先ほどから足を止めていたブラットがいる。
最初から全てを聞いていたわけではない。
だが、十分だった。
アルフォンスが精神干渉を受けていたことを、レオンハルトが意図的に軽く扱おうとしていること。
アンナマリーが、その方針へ疑問を持ち始めていること。
そして何より。
新王太子が、兄の帰還を本気で恐れていること。
ブラットは拳を握り締めた。
卒業舞踏会でアルフォンスを殴った時、自分は正しいと思っていた。
あの時のアルフォンスは、確かにアンナマリーを傷つけた。
何度説得しても聞く耳を持たず、レイチェルだけを信じ、最後には大勢の前で婚約破棄と断罪まで行おうとした。
怒らずにはいられなかった。
それでも。
手枷が嵌められた瞬間、レイチェルへの執着が消え、苦しそうに頭を抱えたアルフォンスの顔を、ブラットは覚えている。
あの時。
本当に。
何かが解けたように見えた。
「……」
ブラットは扉から静かに離れた。
今ここで踏み込めば、アンナマリーをさらに追い詰める。
それに。
もう一度、自分で確かめなければならない。
アルフォンスへ向けられている罪のうち、どこまでが事実で、どこからが誰かの都合によって形を変えられたものなのか。
かつて友人だった男を。
自分は本当に、正しく見ていたのか。
足音を抑えながら、ブラットは廊下の奥へ消えていった。
◇◇◇
一方その頃、古の塔では。
「……ここだな」
俺は卓上へ広げた紙を見つめながら、羽根ペンの先を止めていた。
夕食を終えてから、すでにかなりの時間が経っている。
窓の外は完全に暗くなり、森の奥から時折、低い魔物の咆哮が響いていた。以前なら恐ろしく感じたかもしれない音も、塔の結界があると分かっている今は、遠い雷鳴と大差ない。
俺の前には、今日分かったことが書き並べられている。
公認護衛任務中に死亡した者への支援制度は、少なくとも役場の規則集には残っている。
ミロの母親は、一時金だけを受け取った。
税軽減と扶養児童への支援については説明を受けていない。
制度は、領主府の判断によって「実質的に停止」されている。
代理申請手数料は銀貨一枚。
停止命令の文書は一般公開されていない。
そして。
一年前。
バルド子爵領は王太子府による監査候補だった。
俺自身の判断で延期された。
「……」
その最後の一行だけは、何度見ても胸へ重く沈んだ。
「主様」
隣からセリーの声がする。
「今日はもうお休みになった方がいいのでは?」
「もう少しだけ」
「さっきもそう言いました」
「そうだったか?」
「はい。その前にも言いました」
『三度目でございます』
「エルまで数えていたのか」
『記録しております』
「こういうことだけ妙に正確だな」
「検索の腕輪ですから」
「お前が言うのか」
セリーは俺の向かいへ座り、頬杖をついた。
「何をそんなに見ているんです?」
「俺が監査を延期したことだ」
「またですか」
「また、とは何だ」
「そこだけ何度も見ています」
指摘されて、返す言葉に詰まった。
確かにそうだった。
分からないことは他にもあるのに、気づけば自分の失敗へばかり視線が戻っている。
「主様」
「なんだ」
「反省と自罰は違いますよ」
「……」
「今日、主様自身が言ったでしょう。確認できたものだけを事実として残すと」
「ああ」
「では、今確認できている事実は?」
俺は紙を見る。
「俺が監査を延期した」
「はい」
「その理由の一つに、レイチェルとの関係があった」
「はい」
「当時、俺が精神干渉を受けていた可能性が高い」
「はい」
「バルド子爵領で支援制度が停止されている」
「はい」
「その停止と、俺の監査延期に直接の因果関係があるかは……分からない」
最後の言葉を口にしたところで、セリーが満足そうに頷いた。
「では、そこまでです」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません。でも、今分かるのはそこまでです」
分かっている。
それでも、自分が見逃したせいかもしれないという考えは消えない。
「もし、俺が監査へ行っていれば」
「もし、を考え始めたら終わりませんよ」
「だが」
「もし主様が監査へ行っても、何も見つからなかったかもしれません。もし見つけても、領主がもっと上手く隠したかもしれません。もしレイチェル様と出会っていなければ、別の問題が起きていたかもしれません」
「……」
「過去の『もし』は、いくらでも増やせます」
セリーは頬杖を解き、少しだけ身を乗り出した。
「主様が今できるのは、次に同じようなことがあった時、確かめることではありませんか?」
「今度は、決めつけずに」
「はい」
「確認する」
「はい」
俺は紙へ目を戻す。
確定していること。
まだ分からないこと。
その二つの間へ、羽根ペンで一本の線を引いた。
「……そうだな」
過去を消すことはできない。
だが、今日知ったことを明日どう扱うかは、自分で選べる。
「明日」
「はい?」
「もう一度リュネへ行こう」
セリーが目を瞬いた。
「三日連続ですね」
「嫌か?」
「まさか!」
勢いよく首を振る。
「むしろ嬉しいです!」
「なら」
「肉串ですね!」
「違う」
「焼き菓子?」
「違う」
「ではデート」
「さらに違う」
「主様は難しいです」
「制度について、もう少し調べたい」
「あ、そちらですか」
「最初からそれしかないだろう」
セリーは少し考えたあと、いたずらっぽく笑った。
「では制度を調べながら、肉串を食べましょう」
「結局食べるのか」
「考えるには栄養が必要です!」
「便利な理屈を気に入ったな」
『栄養摂取そのものは推奨されます』
「エルまで付き合うな」
思わず笑う。
その笑いが消えるまで、セリーは何も言わなかった。
「主様」
「なんだ?」
「今日も、生きていてよかったですか?」
不意の問いだった。
少し前なら、答えに詰まったかもしれない。
毒杯を前にした朝。
生きると決めた。
それでも、あの時は「自分で納得するまで」という条件をつけなければ、生きると言い切ることすらできなかった。
今は。
ミロの顔が浮かぶ。
肉屋の主人。
役場で声を上げた住民たち。
薪割りで笑った時間。
自分を変な旅人と呼ぶ人たち。
明日、また町へ行こうと思っている自分。
「ああ」
俺はゆっくり頷いた。
「今日は、生きていてよかった」
セリーは、ほんの少しだけ目を細めた。
「それなら、十分です」
「ああ」
分からないことは多い。
俺が犯したこと。
犯していないこと。
父上の真意。
レオンハルトが何を考えているのか。
アンナマリーとブラットが今どうしているのか。
セリーヌがなぜ俺を知り、なぜこれほど多くのものを残したのか。
すぐに答えを出す必要はない。
今の俺にできるのは、今日見たものを見なかったことにしないこと。
知らなかったことを、知らないまま通り過ぎないこと。
それだけだ。
俺は羽根ペンを置き、紙を丁寧に畳んだ。
「今日は終わりだ」
「やっとですね!」
「そんなに待っていたのか?」
「かなり!」
「なら先に寝ていればよかっただろう」
「主様が起きているのに、私だけ寝るなんてできません」
「お前、睡眠は必要ないのでは?」
「雰囲気の話です!」
「都合がいいな」
「高性能なので!」
いつもの答えに、また笑ってしまった。
その夜。
俺は古の塔へ来てから初めて、自分から明日の予定を決めた。
王太子として与えられた予定ではない。
誰かの命令でもない。
義務でもない。
ただ、自分が知りたいと思ったから。
自分がもう一度、あの町へ行きたいと思ったから。
そして何より。
今日知ったことを、知らなかった頃の自分へ戻してしまいたくなかったから。
それだけで、十分だった。




