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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第6話 元王太子、名も知らない誰かのために立ち止まる

古の塔へ戻った翌朝、俺は窓から差し込む柔らかな光で目を覚ました。


 寝台の上で身体を起こすと、昨夜まで胸の奥に残っていた町の喧騒が、記憶の中で静かに蘇ってくる。石畳を行き交う人々の足音や、露店から漂ってきた肉の焼ける匂い、自分を王太子とも罪人とも知らずに笑いかけてきた商人たちの顔。その一方で、広場へ響いたレオンハルト立太子の布告と、旧王太子である俺へ向けられた厳しい声も、消えることなく心へ残っていた。


 楽しかったという気持ちと、苦しかったという気持ち。その二つが、どちらかを押し退けるでもなく胸の中へ同時に存在している。


 以前の俺なら、きっとどちらか一つへ答えを決めようとしていただろう。楽しかったなら、それ以外の感情は切り捨てる。苦しかったなら、楽しかったことまで否定してしまう。それくらい、物事へ明確な答えを出すことを求められて生きてきた。


 けれど昨日、セリーに言われた。


 今すぐ決めなくてもいいのだと。


 その言葉を思い出しながら寝台から下り、窓辺まで歩いていく。


 古の塔を囲む森には淡い朝靄がかかっていた。木々の葉先には夜露が残り、遠くの山肌から昇り始めた朝日を受けて、小さな光を幾つも散らしている。


「……今日も町へ行ってみるか」


 口にしてから、右手首へ視線を落とした。


 昨日、エルにはこちらから呼びかけるまで応答を控えるよう頼んだ。それを思い出し、自分から声をかける。


「エル」


『はい』


「今日はすぐに返事をしたな」


『主様から明確な呼びかけを受けました』


「そうだった。昨日、そう設定したんだったな」


『記録されています』


 自分で頼んだことを忘れていた気恥ずかしさを誤魔化すように、俺は窓の外へ視線を戻した。


「昨日の町へ、もう一度行きたい」


『商業町リュネへの再訪ですね』


「ああ。ただ、昨日と同じ場所ばかり歩くつもりはない。町の外れや、住民たちが暮らしている場所を見てみたい」


『転移地点は前回と異なる安全地点を探索しますか?』


「頼む。同じ路地へ何度も現れれば、不審に思われるかもしれないからな」


『承知しました』


 昨日の俺は、初めて自由に町を歩くことだけで精一杯だった。見るものも聞くものも新鮮で、露店や店先へ何度も目を奪われていた。


 それはそれで悪くない。


 だが今日は、もう少しだけ町の暮らしを見てみたいと思った。


 王太子だった頃も、地方都市の視察には何度も訪れている。しかし、俺が歩く道は事前に整えられ、立ち寄る場所も役人たちによって選ばれていた。荒れた家屋や、貧しい者たちが暮らす区画は、王族の目へ入らないよう意図的に避けられていた可能性もある。


 民の生活を見ていたつもりで、実際には見せられたものしか見ていなかった。


 昨日、人々の中へ混ざって歩いたことで、初めてそれへ気づいた。


「今日は、普通に暮らしている人たちを見てみたい」


『目的として記録します』


「あまり堅苦しく記録しなくてもいいぞ」


『私は検索の腕輪です』


「……分かっている」


 窓の向こうから聞こえる鳥の声へ耳を傾けていると、寝室の扉の外から何かがぶつかるような小さな音が聞こえた。


 昨日の朝にも似たようなことがあった。


「セリー」


 返事はない。


「そこにいるなら入ってこい」


 やはり返事はない。


「今度は何をしている?」


 俺が扉へ近づこうとした瞬間、扉が勢いよく開いた。


「おはようございます、主様!」


 銀髪を大きく揺らしながら入ってきたセリーは、両腕で朝食用の大きな盆を抱えていた。その盆の上では、焼いたパンや卵料理、果物を載せた皿が危うく揺れている。


「勢いよく開けるな! 落とすところだっただろう!」


「大丈夫です。私は高性能ですから!」


「高性能でも、今の盆は明らかに傾いていたぞ」


「主様に早く朝食をお届けしたいという気持ちが、少しだけ動作へ出てしまいました」


「それは単に急ぎすぎただけだ」


 セリーは悪びれる様子もなく卓へ朝食を並べ始める。


「ところで、今日は昨日の町へ行かれるのですよね?」


「やはり聞いていたな」


「エルさんとの会話が、たまたま扉の外まで聞こえただけです」


「お前は昨日も同じことを言っていなかったか?」


「偶然が二日続いただけです」


「明日も続いたら偶然とは呼ばないからな」


「では、明日はもっと静かに聞きます」


「聞くことをやめろ」


 朝からいつもの調子で言い合っているうちに、胸の中へ残っていた重さが少しだけ薄くなっていった。


 昨夜、王都ではレオンハルトの立太子を祝う宴が行われたのだろう。


 以前の俺なら、その中心にいた。


 貴族たちの祝福を受け、父上の隣へ立ち、王国の未来を語っていたはずだ。


 今は古の塔の寝室で、魔導人形と朝食の盆について言い争っている。


 あまりにも違う日常だった。


 それでも、この朝を嫌だとは思わなかった。


「主様、どうされました?」


 俺が黙ったためか、セリーが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「いや。王城にいた頃とは、随分違う朝だと思っただけだ」


「戻りたいですか?」


「分からない」


 昨日、公園でも同じような答えを口にした。


「ただ、少なくとも今は、この朝も悪くないと思っている」


 セリーの表情が一気に明るくなった。


「でしたら、今日はもっと楽しくしましょう!」


「町へ行く目的は遊ぶことだけではないぞ」


「もちろん分かっています。町の暮らしを観察しながら、美味しいものも食べるのです」


「結局、食べるのだな」


「食事は生活そのものです!」


「妙に正しいことを言うから否定しづらい」


 俺は苦笑しながら椅子へ座り、朝食を取り始めた。


          ◇◇◇


 朝食を終えたあと、俺たちは前日と同じように変貌の仮面を使った。


 俺は濃い茶色の髪と、緑がかった灰色の瞳を持つ旅人の青年アルへ。セリーは肩までの茶髪と琥珀色の瞳を持つ町娘風の少女セリへ姿を変える。


 昨日リュネで買った茶色の外套を羽織れば、鏡の中の俺から王族らしい気配はほとんど消えていた。


「やはりよく似合っていますね」


 セリーは俺の周囲を一周しながら、満足そうに頷いた。


「昨日も聞いた」


「今日は昨日より着こなしていらっしゃいます」


「一度着ただけで、そんなに変わるものか?」


「自信が違います」


「適当に言っていないか?」


「半分くらいは本気です」


「残り半分は何だ」


「愛です」


「その言葉で逃げるな」


 外套の内側には、昨日水晶を売って得た銀貨の残りを入れている。昨日使った分を差し引いても、町で食事や簡単な買い物をするには十分な額が残っていた。


 王太子だった頃なら、銀貨数枚を自分の財布へ入れて持ち歩くことなどなかった。


 金銭の管理は侍従や文官の仕事で、俺が直接硬貨へ触れる機会さえほとんどなかったからだ。


 今は、何かを買えば金が減り、何も買わなければ残る。


 それほど当たり前のことさえ、俺にはまだ新鮮だった。


「エル、リュネ近郊で人目のない場所を探してくれ」


『探索を開始します』


 転移扉の表面が、水面のように静かに揺らいだ。


 やがて映し出されたのは、石造りの倉庫の裏手だった。壁には古い木箱が積まれ、近くに人の姿は見えない。


『商業町リュネ北西部。半径三百メートル以内に、主様と直接面識のある人物は確認されません』


「よし。行こう」


「はい!」


 扉を越えた瞬間、古の塔とは異なる空気が肌へ触れた。


 乾いた石の匂いと、どこかで焼かれているパンの香り。荷車の車輪が石畳を転がる音や、離れた通りから聞こえてくる商人の呼び声が、朝の町がすでに動き始めていることを伝えていた。


 昨日より空には雲が多く、日差しも柔らかい。


 大通りへ出ると、周辺の村から野菜や穀物を運んできた荷車が何台も並んでいた。店先では商人たちが声を張り上げ、通りを走り抜けようとする子供を母親が叱っている。


 俺たちが歩いていても、誰も道を空けない。


 そのことにも、昨日ほどの戸惑いは感じなかった。


 ただのアルとして町を歩くことへ、ほんの少しだけ慣れ始めている。


「今日はどこから見ますか?」


「町の外れへ行ってみよう」


「市場ではなく?」


「市場は昨日見たからな。人が普段どんな場所で暮らしているのか、もう少し見たい」


 大通りから一本脇道へ入り、さらに細い道へ進んでいく。


 少しずつ町の景色が変わった。


 商店が減り、代わりに木造の住宅が増えていく。壁には何度も補修された跡があり、屋根の一部を板で押さえている家もあった。狭い庭で洗濯物を干す女性や、井戸から水を運ぶ子供たちが、それぞれ朝の仕事へ追われている。


 中心部ほど華やかではない。


 それでも、家々の周囲はできる限り綺麗に掃除され、窓辺へ小さな花を飾っている家もあった。


「ここも、同じ町なのだな」


「はい」


「昨日歩いた場所とは、まるで違って見える」


 セリーは周囲を見渡しながら、少し考えるように首を傾けた。


「町って、大きな家みたいなものなのかもしれませんね」


「大きな家?」


「はい。客人へ見せる綺麗な部屋もあれば、台所も物置も寝室もあります」


「……なるほど」


 王族の視察で案内されていたのは、客人を迎えるために整えられた部屋だけだったということか。


 その例えは、妙に納得できた。


 一本の細い道へ入ったところで、セリーが突然足を止めた。


「アル」


「どうした?」


 彼女の視線を追う。


 少し先の道端に、小さな男の子が座り込んでいた。


 年齢は六つか七つほどだろう。古びた服を着ており、膝の布が破れて血が滲んでいる。隣には小さな籠がひっくり返り、中に入っていたらしい野菜が道へ散らばっていた。


 男の子は泣いていなかった。


 唇を強く噛み締めながら片手を地面へつき、散らばった野菜を必死に集めようとしている。


「大丈夫か?」


 俺が声をかけると、男の子は驚いたように顔を上げた。


 赤くなった目に、一瞬だけ警戒が浮かぶ。


「大丈夫」


「膝から血が出ているぞ」


「これくらい平気」


 そう言って立ち上がろうとしたものの、足へ力を入れた瞬間に顔を歪めた。身体が傾き、俺は咄嗟に腕を伸ばして支える。


「ほら。大丈夫ではないだろう」


「でも、早く拾わないと」


「野菜を?」


「市場へ持っていかないといけないんだ」


 足を庇いながらも、男の子の視線は散らばった野菜へ向けられていた。


「売るためか?」


「うん」


「一人で?」


 問いかけると、男の子は少し黙ってから小さく頷いた。


「母さんが病気だから、俺が行く」


 その言葉に、胸の奥が僅かに痛んだ。


 王太子として読んできた数え切れないほどの報告書が頭へ浮かぶ。


 病気による就労困難世帯。


 扶養児童数。


 生活支援対象者。


 紙の上では、すべて数字だった。


 けれど今、目の前にいる子供には名前があり、怪我をした膝があり、病気の母親を心配する顔がある。


「家は近いのか?」


「近い」


「母親は動けないほど具合が悪いのか?」


「ずっと咳をしてる。昨日から熱もある」


「薬は?」


「今日、野菜を売ったら買う」


 男の子はそこで俺たちを疑うように見上げた。


「あなたたちは誰?」


「旅人だ。俺はアルで、こっちはセリ」


「恋人です」


「違う」


 俺が即座に訂正すると、男の子の口元がほんの少しだけ緩んだ。


「仲悪いの?」


「仲は悪くない」


「では恋人です」


「セリ、話をややこしくするな」


 男の子は小さく笑った。


 泣くのを我慢していた顔が少しだけ幼くなる。


「まず、野菜を拾おう」


 俺がしゃがみ込むと、男の子も動こうとした。


「お前はそこに座っていろ。膝をもっと悪くするぞ」


「でも、俺の仕事だから」


「今は怪我を治すことも仕事だ」


 男の子が納得できないように眉を寄せる。


「拾うのは俺たちが手伝う。お前は籠を押さえていろ」


 セリーも何も言わず、道の反対側へ転がった野菜を集め始めた。


 泥がついた葉物は軽く払い、傷があるものとないものを分けながら籠へ戻す。俺も丸い根菜や小さな葉野菜を一つずつ拾っていった。


 王太子だった頃、道端へ落ちた野菜を自分の手で拾うことなど一度もなかった。


 それどころか、俺が腰を屈めるより前に、護衛や従者が動いていただろう。


 今は誰も命じていない。


 国のためでもなければ、王家の名誉のためでもない。


 ただ、目の前の子供が困っているから拾っている。


 それだけの行動が、不思議なほど自然だった。


「名前は?」


 野菜を籠へ戻しながら尋ねる。


「ミロ」


「そうか。ミロ、家まで案内できるか?」


「できるけど」


 ミロはまだ警戒を完全には解いていない。


「母さんに何するの?」


「何もしない。病気の状態を見て、必要なら薬師へ行く手伝いをするだけだ」


「お金ないよ」


「今は金の話をしていない」


「でも……知らない人に助けてもらったら、返さないといけないって母さんが言ってた」


 その言葉から、母親が息子へ何を教えているのかが少し伝わってきた。


「なら、返せる範囲で返してもらえばいい」


「何を?」


「まだ決めていない」


 俺が答えると、ミロは不思議そうに眉を寄せた。


「変な人」


「最近よく言われる」


「主に私に言われています」


「お前だけだ」


 再び小さな笑いが生まれた。


          ◇◇◇


 ミロの家は、そこから歩いて数分の場所にあった。


 木造の小さな家で、外壁は古くなっていたが、扉の前や窓辺は綺麗に掃除されている。貧しくても、できる限り丁寧に暮らそうとしていることが伝わってきた。


「母さん、ただいま」


 ミロが扉を開けて声をかける。


 少し間を置いて、部屋の奥から激しい咳が聞こえた。


「ミロ……?」


 弱々しい女性の声が返る。


「早かったね。野菜は――」


 寝台へ横になっていた女性が身体を起こし、ミロの怪我に気づいた瞬間、顔色を変えた。


「ミロ!」


「大丈夫だよ」


「膝から血が出ているでしょう!」


「転んだだけ」


「どうして一人で無理をしたの」


「だって、母さんの薬を買わないと」


 母親は言葉を失った。


 息子を叱りたいのに、その息子が自分のために怪我をしたことを知り、何を言えばいいのか分からなくなったようだった。


 その表情を見て、俺も胸が詰まる。


「道で転んでいたところを見つけました」


 俺が声をかけると、女性は初めて俺たちの存在へ気づいたように顔を向けた。


「あなた方は?」


「通りがかりの旅人です。俺はアル、こちらはセリです」


「息子を家まで送ってくださったのですか?」


「野菜を拾うのも少し手伝いました」


 女性は慌てて寝台から下りようとした。


「ありがとうございます。何とお礼を――」


「そのままでいてください」


「でも」


「熱があるのでしょう。無理に起きれば悪化します」


 俺が止めると、女性は困惑しながらも再び寝台へ身体を預けた。


「エル」


 声に出さず呼びかける。


『はい』


「彼女の状態を確認できるか?」


『検索します』


 右手首の腕輪から、目には見えない魔力が静かに広がっていった。


『高熱と肺部の炎症を確認しました。栄養状態も良好ではありません。直ちに生命の危険はありませんが、適切な薬と休養がなければ悪化する可能性があります』


「普通の薬で治るか?」


『現代の一般的な薬師が調合可能な範囲です。治癒魔法でも対応できます』


 塔には癒しの錫杖がある。


 あれを使えば、一瞬で治療できる可能性が高い。


 けれど、町の中で二千年前の強力な魔導具を使えば大きな騒ぎになる。正体を隠すためにも、安易に持ち出すべきではない。


「薬代はいくら必要なんだ?」


 俺が尋ねると、ミロが答えた。


「銀貨一枚と、銅貨五枚」


「それを払うために、野菜を市場へ?」


「全部売れれば、たぶん足りる」


 俺は籠の中を見た。


 転んだ時に傷ついたものもあるが、ほとんどはまだ食べられる。量も、塔で数日分の料理へ使うにはちょうどよさそうだった。


「この野菜はいくらで売る予定だった?」


「全部で銀貨一枚くらい」


「なら、俺が買う」


 ミロが目を丸くした。


「全部?」


「ああ」


「でも、傷がついたのもある」


「食べられないのか?」


「食べられるけど、綺麗なのより安くなる」


「味が変わらないなら問題ない」


 俺は銀貨一枚と銅貨数枚を取り出し、ミロの前へ置いた。


「これで足りるか?」


「多いよ」


「傷があるものも含めて買うのだから、値段は俺が決める」


「でも」


「これは施しではない。取引だ」


 王太子だった頃、救済や援助を行う時は、常に国の制度や王家の威光が関わっていた。


 けれど今は違う。


 俺が欲しいと思った野菜を、ミロから買う。


 それだけなら、彼の誇りを奪わずに済む。


 ミロは銀貨と俺の顔を何度も見比べた。


「本当に、返さなくていい?」


「野菜を受け取る。だから返す必要はない」


「……ありがとう」


 声は小さかった。


 それでも、真っ直ぐな感謝が胸へ届いた。


「ありがとう、アル兄ちゃん」


 兄ちゃん。


 そう呼ばれたことに、僅かな戸惑いを覚える。


 王太子だった頃は、殿下、王太子殿下、アルフォンス様と呼ばれてきた。


 家族以外の誰かから兄と呼ばれることなどなかった。


「アル兄ちゃんでいい?」


「ああ。好きに呼べ」


「では私は、セリお姉ちゃんですね!」


 セリーが嬉しそうに身を乗り出す。


「お姉ちゃんという年齢なのか?」


「失礼ですよ、主様」


「今はアルだ」


「そうでした。アルも失礼です」


 ミロがくすくす笑った。


「セリ姉ちゃん、変な人だね」


「私は完璧な美少女メイドです!」


「それを町で言うな」


 笑った直後、母親が激しく咳き込んだ。


「母さん!」


 ミロが慌てて駆け寄る。


「大丈夫。少し喉が……」


「その大丈夫は、あまり信用できないな」


 俺が言うと、女性は困ったように笑った。


「すみません」


「謝る必要はありません。薬師の場所は分かりますか?」


「市場の近くにあります」


「ミロ、一人で行けるか?」


「行ける」


 即答したものの、先ほど怪我をしたばかりだ。


「俺たちも一緒に行こう」


「そこまでしていただくわけには」


 母親が止めようとする。


「野菜を買ったついでです」


「ついで?」


「町の薬師がどんな薬を扱っているのか、俺も見てみたい」


 少し苦しい理由だったが、完全な嘘でもない。


「それに、ミロが途中でもう一度転べば、せっかく買った野菜の代金が薬へ変わらない」


「もう転ばないよ!」


「子供の大丈夫と、もう転ばないは信用できない」


「ひどい!」


 ミロの不満そうな声に、母親が小さく笑った。


 その笑顔を見て、部屋の重い空気が少しだけ和らいだ。


「その前に膝を治しましょう」


 セリーがミロの前へしゃがみ込む。


「治せるの?」


「少しだけですよ」


 彼女が手をかざすと、淡い光が擦り傷を包んだ。


 傷は完全に消えたわけではないが、血が止まり、痛みも和らいだようだった。


「すごい!」


「私は高性能ですから」


「魔法使い?」


「美少女メイドです」


「それは隠せと言っただろう」


          ◇◇◇


 薬師の店は、市場の外れにある小さな建物だった。


 扉を開けると、乾燥させた薬草の強い匂いが鼻へ届く。壁には数え切れないほどの瓶や木箱が並び、奥では白髪の老女が薬草をすり潰していた。


「いらっしゃい」


「母さんの薬をください」


 ミロが小さな袋へ入れた硬貨を両手で差し出す。


 薬師はミロの顔を見ると、事情を知っているように表情を曇らせた。


「まだ咳がひどいのかい?」


「昨日から熱もある」


「そうかい」


 薬師は俺たちへ一度だけ視線を向けたものの、余計なことは聞かなかった。


「肺の炎症に使う薬を三日分用意するよ。一日三回、食事のあとに飲ませるんだ」


「これで足りる?」


 ミロが硬貨を差し出す。


 薬師は枚数を確認してから頷いた。


「ああ。ただし、薬だけ飲んでも何も食べなければ治らない。母さんにもきちんと食べさせるんだよ」


「うん」


「お前もだ」


「俺は大丈夫」


「子供の大丈夫は信用ならないね」


 その言葉に、俺とセリーは思わず顔を見合わせた。


「同じことを言われた……」


 ミロが不満そうに呟く。


「皆が言うなら、少しは自分を疑った方がいい」


「アル兄ちゃんまで」


 薬を受け取ったあと、俺たちは市場へ向かった。


「何か食べ物も買おう」


 俺が言うと、ミロが慌てて首を振った。


「もういいよ。野菜も買ってもらったし、薬も買えた」


「俺たちが買うんだ」


「何を?」


「町で安く買える食材を教えてくれ」


「俺が?」


「ああ。昨日来たばかりだから、相場が分からない」


 王太子だった俺が、七歳ほどの子供に食材の買い方を教わる。


 以前なら考えられなかったことだ。


「案内してくれたら、その分は礼をする」


「本当に?」


「取引だ」


 ミロは少し考えたあと、元気よく頷いた。


「分かった!」


 それからのミロは驚くほど頼もしかった。


「このパン屋は夕方になると安くなるよ。朝焼いたパンが残るから」


「食べられなくなるのか?」


「次の日でも食べられるけど、固くなる」


「なるほど」


「こっちの八百屋は、形が悪い野菜を安くしてくれる」


「味は?」


「同じ」


 王城の食卓には、形も色も整った食材しか並ばなかった。


 曲がった野菜や、小さな傷のある果物は、俺の目へ入る前に取り除かれていたのだろう。


「アル、勉強になりますね」


「ああ。俺は何も知らなかったらしい」


「王太子ですから、仕方ありません」


「今はアルだ」


「そうでした」


 ミロは市場の一角にある肉屋の前で足を止めた。


「ここは、形が悪い肉を安くしてくれるよ」


「形が悪い肉?」


「端っことか、小さいのとか」


 店の中から、体格のいい中年の男が顔を出した。


「誰の肉が形悪いって?」


「おじさんの肉!」


「俺の肉じゃねえ!」


 店主が大声で返すと、周囲の客たちが一斉に笑った。


「今日は客を連れてきた!」


「お前が?」


 店主は俺とセリーを見た。


「旅人さんかい?」


「はい。ミロに町を案内してもらっています」


「今日知り合った!」


 ミロが得意そうに言う。


「今日!?」


 店主は目を丸くしたあと、豪快に笑った。


「お前は相変わらず妙なところで人と仲良くなるな」


「アル兄ちゃんが野菜を全部買ってくれたんだ。それで母さんの薬も買えた」


 俺が止めるより早く、ミロは全部話してしまった。


 店主の笑顔が少しだけ真剣なものへ変わる。


「兄ちゃん、ありがとうな」


「俺は野菜を買っただけです」


「分かってるよ」


 店主は肉を切りながら、静かに言った。


「ミロの母ちゃんは、旦那が死んでから一人で頑張ってきた。町の連中も助けたいと思ってるが、みんな自分の生活で精一杯だ」


 その言葉に、周囲の客たちも少し表情を曇らせた。


 助けたいと思うことと、実際に助けられることは違う。


 善意があっても、金や食料に余裕がなければ、手を差し出せないこともある。


 それは責められることではない。


「今日は端肉を多めにしておく」


 店主が肉を包み、俺へ差し出した。


「金を払います」


「坊主が客を連れてきた礼だ」


「それでは受け取れません」


「真面目な兄ちゃんだな」


 店主は少し考えてから、包みを半分に分けた。


「なら、半分はミロの母ちゃんへ持っていってくれ。残り半分は兄ちゃんたちが食えばいい。それでどうだ?」


 俺は少し迷い、やがて受け取った。


「ありがとうございます」


 自然に頭を下げる。


 店主が僅かに驚いた顔をした。


 王太子だった頃、俺が頭を下げる相手は限られていた。


 けれど今は、肉を分けてくれた店主へ、普通に礼を言える。


 そのことが少し嬉しかった。


「変な兄ちゃんだな」


「よく言われます」


「私が毎日言っています!」


「お前だけだ」


 また周囲へ笑いが広がった。


          ◇◇◇


 ミロを家まで送り、薬と肉を母親へ渡した頃には、昼を少し過ぎていた。


「何から何まで、本当にありがとうございます」


 母親は何度も頭を下げようとしたが、俺はそのたびに止めた。


「薬をきちんと飲んで、食事をしてください。それから無理に起きないこと」


「はい」


「ミロも、母親が休めるように手伝ってやれ。ただし、危険なことを一人でするな」


「分かった」


「本当に?」


「たぶん」


「正直になったな」


 ミロが笑う。


「また来る?」


 突然尋ねられ、俺は少し言葉に詰まった。


 正体を隠している以上、同じ人間と深く関わるほど危険は増える。


 いつか変貌の仮面が解けるかもしれない。


 俺が旧王太子アルフォンスだと知られれば、ミロや母親まで面倒へ巻き込む可能性もある。


 それでも、期待に満ちた目を向けられると簡単に断ることはできなかった。


「町には、また来ると思う」


「じゃあ、ここにも来て」


「機会があれば」


「約束?」


「約束とまでは……」


「約束!」


 強引に押し切ろうとするミロを見て、セリーが楽しそうに笑った。


「約束ですね、アル」


「お前はどちらの味方だ?」


「ミロ君です」


「迷わなかったな」


 母親も小さく笑った。


 最初に入った時は、咳と不安が満ちていた部屋へ、今は穏やかな笑い声が広がっている。


「分かった。機会があれば、また来る」


「絶対だよ」


「ああ」


 その返事をした時、胸の奥へ温かいものが残った。


          ◇◇◇


 家を出たあと、俺たちは人通りの少ない道を歩いた。


「主様」


「今はアルだ」


「あっ。アル」


「何だ?」


「今日は、どうでしたか?」


 曖昧な問いだった。


 けれど、セリーが何を聞きたいのかは分かった。


「楽しかった」


「はい」


「ただ、苦しくもあった」


 道端で怪我をしていたミロ。


 薬を買う金もなく、寝台で咳き込んでいた母親。


 王太子として報告書で読んだ数字が、初めて名前と顔を持った。


「俺は民を守る立場にいた」


 歩きながら、自分へ言い聞かせるように続ける。


「貧しい者や、病気で働けない者がいることも知っていたつもりだった。でも、今日のように直接会ったことはほとんどない」


「はい」


「知識として知っていたことと、実際に見ることは違うんだな」


「そうですね」


「王太子だった頃の俺なら、道端にミロがいても、護衛へ任せて先へ進んだかもしれない」


 視察には予定がある。


 王族が突然立ち止まれば、警備や町全体の動きへ影響が出る。


 理由はあった。


 それでも、その理由の中で目の前の一人を見失っていたことも事実だ。


「王太子ではなくなったから、立ち止まれたのかもしれない」


「それは悪いことですか?」


 セリーの問いに、俺は少し考えた。


「いや」


 ゆっくり首を振る。


「悪くない」


 国全体を守るという大きな責任は失った。


 けれど、その代わりに、目の前の誰かへ自分の意思で手を伸ばすことができるようになった。


「むしろ、こういう自由もあるんだな」


「はい」


 セリーが嬉しそうに笑う。


「自由とは、好きな場所へ行くことだけではありません。誰かのために立ち止まることも、自分で選べるということです」


「セリーヌも、同じことを言っていたのか?」


「分かりません」


「またか」


「でも、自然に思ったんです」


 彼女は自分の胸へ手を添えた。


「きっと、セリーヌ様も誰かのためによく立ち止まる方だったのでしょうね」


「魔導具の研究を途中で放り出して、困っている人のところへ走っていく姿が想像できるな」


「その結果、締め切りを破って怒られるところまで想像できます」


「誰に怒られるんだ?」


「昔の助手でしょうか」


「記録にいるのか?」


「今のは想像です」


「お前は時々、紛らわしいことを真顔で言うな」


          ◇◇◇


 広場の近くまで戻ると、公示板の前へ人だかりができていた。


 昨日、新王太子立太子の布告が読み上げられた場所だ。


「また王都から何か届いたのか?」


「新しい布告らしいぞ」


「昨日来たばかりじゃないか」


 周囲の声を聞きながら、俺たちも少し離れた場所から掲示板を見た。


 新しく貼られた紙には、王家の紋章が入っている。


『王太子レオンハルト殿下は、先の事件により被害を受けた貴族家および学園関係者に対し、追加補償と名誉回復措置を行う』


 そこまでは理解できた。


 事件によって傷ついた者たちへの補償は必要だ。


 だが、その下へ続く文章を読んだ瞬間、胸の奥が冷えた。


『また、旧王太子アルフォンスによる職務上の不正および財政上の損失について、追加調査を開始する』


「職務上の不正……?」


 思わず声が漏れる。


 周囲の人々は自分たちの会話に夢中で、俺の反応など気にも留めていない。


「やっぱり、前の王太子は他にも何かやってたんじゃないか?」


「女に貢いで国の金を使ったって聞いたぞ」


「王族の金なんて、結局は民の税だろう」


「新しい王太子様が全部調べるらしい」


「立派だな。兄の不始末まで片づけるのか」


 俺は外套の下で拳を握った。


 レイチェルへ贈り物をしたことはある。


 高価な宝飾品や衣服を求められ、その願いを叶えた。


 だが、それらは王太子である俺の個人資産から出したものだったはずだ。少なくとも、国庫から無断で金を持ち出した記憶はない。


「エル」


『はい』


「王太子府の支出記録をすべて確認できるか?」


『現時点では不可能です。主様の記憶情報と、塔へ持ち込まれた資料のみが検索対象となります』


「俺が意図的に国庫の金を不正使用した記録は?」


『主様の記憶内には存在しません』


「そうか」


 もちろん、記憶にないだけという可能性もある。


 精神干渉を受けていた時期の俺は、判断を大きく誤っていた。


 文官が不正な処理を行っていたとしても、それを見抜けなかった可能性はある。


 だから、今すぐ自分は無実だと叫ぶこともできない。


 だが、もう一つ気になることがあった。


「やはり、早すぎるな」


 昨日、レオンハルトの立太子が布告された。


 そして今日には、俺の追加調査が地方へまで知らされている。


 新たな王太子が就任した直後から、これほど具体的な動きができるものなのか。


「アル」


 セリーが小さく呼んだ。


「離れますか?」


「いや。もう少しだけ聞く」


 俺たちの近くでは、人々が好き勝手に噂を交わしている。


「古の塔へ送られたんだろう?」


「あそこへ行ったら生きて帰れないらしい」


「もう死んでるんじゃないか?」


「当然の報いだ」


 胸が痛まないわけではない。


 ただ、昨日ほどは動揺しなかった。


 彼らは俺の顔も、事情も知らない。


 公表された情報をもとに語っているだけだ。


 それでも、どのような情報が広がっているのかは知っておく必要がある。


「エル。今後、王都から届く俺に関する布告は記録してくれ」


『承知しました』


「内容に矛盾があれば、それも分かる範囲で整理してほしい」


『実行します』


「復讐を始めるのですか?」


 セリーが少し慎重な声で尋ねる。


「違う」


 俺は首を振った。


「俺自身が何をしたのか、本当は何をしていないのか。それを知りたいだけだ」


 間違えたことは認める。


 アンナマリーを傷つけたことも、職務を疎かにした可能性も、逃げずに向き合う。


 けれど、していない罪まで背負わされることは違う。


「調べるだけだ。今はまだ、何も決めない」


「はい」


 セリーは静かに頷いた。


「それでいいと思います」


          ◇◇◇


 その日の夕方、俺たちは古の塔へ戻った。


 転移扉を越えると、見慣れた道具部屋の空気が迎えてくれる。


「ただいま」


「おかえりなさいませ、主様!」


 隣から一緒に戻ってきたセリーが、嬉しそうに頭を下げた。


「お前も一緒に帰ってきただろう」


「これは決まりです」


「昨日も聞いたな」


「毎日言ってください」


「なぜ?」


 セリーは少しだけ笑い、けれどその声はいつもより穏やかだった。


「主様がここを帰る場所だと思ってくださっていると分かるからです」


 その言葉に、俺は少し黙った。


 古の塔へ送られた日、ここは俺が人生を終える場所だと思っていた。


 父上から毒杯を送られ、王家から切り捨てられ、誰にも会えないまま死ぬ場所。


 今は違う。


 町へ出て、誰かと出会い、戻ってくる。


 ここにはセリーがいて、エルがいて、食事をする卓と眠る寝台がある。


「そうか」


 俺は改めて道具部屋を見回した。


「ただいま」


「おかえりなさい!」


 今度は、その声が少しだけ優しく聞こえた。


          ◇◇◇


 夕食には、ミロから買った野菜と肉屋でもらった肉が使われた。


 大きめに切った根菜と葉野菜が入ったスープには、昨日買った香辛料が少しだけ加えられている。昨夜は入れすぎて舌が痛くなったが、今日はきちんと量を調整したらしい。


「どうですか?」


 セリーが期待に満ちた目を向けてくる。


 俺はスープを一口飲んだ。


「今日は美味い」


「今日は、とはどういう意味ですか?」


「昨日は辛すぎた」


「昨日も美味しかったです」


「舌が痛かった記憶しかない」


「刺激的な思い出ですね」


「良い話のようにまとめるな」


 言い合いながら、もう一口飲む。


 野菜には少し傷がある。


 市場へ持っていけば、値段を下げられていたかもしれない。


 それでも味は悪くない。


「ミロと母親は、今頃あの肉を食べているだろうか」


「食べているといいですね」


「ああ」


 薬も効いてくれるといい。


 また会うと約束したわけではない。


 それでも、少しだけ気になっている。


「主様」


「何だ?」


「今日は、立ち止まってよかったですか?」


 俺はスープの中へ浮かぶ野菜を見つめた。


「よかった」


 迷わず答えた。


「もし俺が立ち止まらなくても、誰かがミロを助けたかもしれない。肉屋の主人や、近所の人が気づいた可能性もある」


「そうですね」


「でも、今日そこにいたのは俺だった」


「はい」


「助けられるのに通り過ぎるか、それとも立ち止まるか。俺が選んだ」


 それだけで世界が変わるわけではない。


 ミロたちの暮らしが、すべて良くなったわけでもない。


 それでも、薬を買うことができ、今夜は肉を食べられる。


「世界全部を救う必要はないのかもしれないな」


 王太子だった頃の俺は、国全体を見なければならなかった。


 誰か一人だけを特別に助ければ、不公平だと批判されることもある。すべての民を等しく守るために、目の前の個人を切り離して考える必要もあった。


 今の俺には、その責任がない。


「目の前の一人へ手を伸ばすだけなら、俺にもできる」


『セリーヌ様も、類似の言葉を記録しています』


 エルが静かに告げた。


「何と書いてある?」


『「世界のすべてを救えなくても、目の前で泣いている一人に手を伸ばすことはできる」』


 手が止まった。


 また、セリーヌという人物が少しだけ近く感じられる。


「本当に、どんな人だったんだろうな」


 天才魔導具師。


 王族。


 未来を見た者。


 子供を亡くし、その後も誰かのために数え切れない遺産を残した人物。


「いつか、全部知りたい」


「はい」


「セリー」


「何でしょう?」


「お前は何か知っているのか?」


 問いかけると、セリーの表情が僅かに揺れた。


「すべてを知っているわけではありません」


「すべてではないということは、何かは知っているのか?」


 彼女はすぐには答えなかった。


 卓の上に置かれた灯りが、銀色の髪を柔らかく照らしている。


「今は、まだ上手く言葉にできません」


 やがて、セリーはそう答えた。


 嘘ではない。


 けれど、すべてを話しているわけでもない。


 不思議と、それ以上追及する気にはなれなかった。


「分かった」


「聞かないのですか?」


「お前自身にも整理できていないのだろう」


「はい」


「なら、話せる時でいい」


 セリーはしばらく俺を見つめたあと、少し寂しそうに、それでも嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます、主様」


「どういたしまして」


「今、普通に言いましたね」


「何が?」


「どういたしまして、と」


「言ってはいけないのか?」


「いいえ。少し嬉しかっただけです」


「お前は時々、妙なところで喜ぶな」


「愛です」


「またそれか」


 古の塔の食堂へ、小さな笑い声が広がった。


          ◇◇◇


 同じ頃、王都では、新王太子レオンハルトの名のもとに、旧王太子アルフォンスに関する調査が急速に進められていた。


 王城の一室には、王太子府から運び込まれた帳簿や文書が机いっぱいに積まれている。


「こちらが、アルフォンス殿下の在任中に記録された支出一覧です」


 若い官吏が資料を差し出すと、レオンハルトは穏やかな表情のまま、僅かに眉を上げた。


「殿下ではありません」


「……失礼いたしました」


「兄上は、もう王太子ではない。公的な場では『旧王太子アルフォンス』と呼称を統一してください」


「承知いたしました」


 官吏が頭を下げる。


 レオンハルトは帳簿を一枚ずつめくりながら、淡々と問いかけた。


「問題になりそうな支出はありますか?」


「パニア男爵令嬢への贈答品の一部に、出所が不明瞭なものがあります」


「不明瞭?」


「はい。ただし、王太子府の正式支出ではなく、旧王太子アルフォンスの個人資産から支払われた可能性もあります」


「可能性ということは、確定していないのですね」


「はい」


「では、徹底的に調べてください」


「承知いたしました」


 官吏は答えたものの、僅かに迷いを見せた。


「何か?」


「いえ……ただ、すでに古の塔へ送られた方について、ここまで詳しく調査する必要があるのかと」


 レオンハルトは薄く笑った。


「兄上が犯した罪によって、多くの方が傷ついています。王家が責任を持って事実を明らかにするのは当然でしょう」


「失礼いたしました」


「他には?」


「地方監査を延期した記録や、学園行事のために公務日程を変更した記録があります。ただ、これらを不正と呼べるかは……」


「判断するのは後です」


 レオンハルトは資料を閉じた。


「まずは、調査に使える事実をすべて集めてください」


「使える事実……ですか?」


 官吏の表情が僅かに曇る。


 レオンハルトは一拍置いてから、穏やかな笑みを崩さず言い直した。


「調査に必要な事実、という意味です」


「……承知いたしました」


 官吏はそれ以上何も尋ねず、深く頭を下げて部屋を出た。


 扉が閉じる。


 静かになった部屋で、レオンハルトは机の上の帳簿を見下ろした。


「兄上……」


 小さな声が落ちる。


「どうして、もっと綺麗に消えてくださらなかったのですか」


 その時、執務室の奥にある扉が開いた。


「レオンハルト」


 淡い色のドレスを身にまとったアンナマリーが、険しい表情で立っていた。


「聞いていたのですか?」


「旧王太子の追加調査とは、どういうこと?」


「言葉どおりです」


「アルフォンスは、すでに古の塔へ送られた。王太子位も失い、王家からも切り離された。それで十分だったはずでしょう」


「十分?」


 レオンハルトの笑みが僅かに深くなる。


「アンナマリー嬢。兄上が被害者として見られ始めたら、どうなると思います?」


「被害者だったでしょう」


 アンナマリーは即座に返した。


 その言葉に、レオンハルトの目から一瞬だけ笑みが消える。


「その言葉を、軽々しく口にしないでください」


 室内の空気が僅かに冷えた。


「精神干渉を受けていたことが公になれば、兄上へ同情する者が出る。古の塔への追放は重すぎたと言う者も現れるでしょう」


「それの何が問題なの?」


「私は王になる必要があります」


 レオンハルトは椅子から立ち上がり、ゆっくりとアンナマリーへ近づいた。


「兄上が王位へ戻る可能性は、完全に消しておかなければなりません」


「そこまで約束していない」


 アンナマリーの声が僅かに震える。


「私は、アルフォンスとの婚約を解消したかった。ブラットと生きる自由が欲しかった。それだけよ」


「そのために私へ協力した」


「あなたは、アルフォンスを殺さないと言った」


「殺していません」


「毒杯を送ったでしょう」


「送ったのは父上です」


「あなたが勧めたのではないの?」


 レオンハルトは答えなかった。


 その沈黙に、アンナマリーの顔から血の気が引いていく。


「あなたは……最初からアルフォンスを生かしておくつもりがなかったの?」


「古の塔へ送れば、誰も生きて戻らない。そう伝えられていました」


「それは、殺すのと同じよ」


「ですが、兄上は自分で毒を飲まなかった」


 レオンハルトの口元へ、冷たい笑みが浮かんだ。


「意外と往生際が悪かったようですね」


 アンナマリーは一歩後ろへ下がる。


 目の前にいる男が、自分の知っていた第二王子と同じ人物なのか分からなくなったような顔だった。


「あなた、本当にアルフォンスの弟なの?」


「弟だからですよ」


「……何を言っているの?」


「私はずっと兄上の影でした」


 レオンハルトの声から、少しずつ穏やかさが消えていく。


「兄上が王太子である限り、どれだけ努力しても私は第二王子にすぎなかった。剣で勝っても、学問で勝っても、誰より多く働いても、最後には必ず『ですが王太子は兄君です』と言われる」


 拳が僅かに握られる。


「幼い頃から、ずっとです」


 そこには、昨日まで周囲へ見せていた穏やかな弟の顔はなかった。


「ようやく私の番が来たのです」


 レオンハルトはアンナマリーを真っ直ぐ見た。


「兄上には、二度と戻ってきてもらっては困る」


 アンナマリーは何も言えなかった。


 自分が望んだ自由のために手を組んだ相手が、本当は何を望んでいたのか。


 今になって、ようやく見え始めていた。


「もう戻れませんよ」


 レオンハルトは再び穏やかな声へ戻った。


 それがかえって、先ほどまでの感情よりも不気味だった。


「私も、あなたも、父上も。ここまで進めた以上、誰も以前の場所へは戻れない」


「私は……」


「ですから」


 レオンハルトはゆっくり手を差し出した。


「最後まで協力してください」


 アンナマリーは、その手を取らなかった。


 ただ青ざめた顔で見つめることしかできない。


 その頃、遠く離れた古の塔で、アルフォンスはそんな会話が交わされていることを知らなかった。


 ミロから買った野菜で作られた温かなスープを飲み、病気の母親が少しでも良くなることを願っている。


 王位を取り戻すか。


 自分を陥れた者たちへ復讐するか。


 まだ何も決めていない。


 ただ今日、初めて知ったことがある。


 自由とは、好きな場所へ行き、好きなものを選ぶことだけではない。


 誰かのために立ち止まり、その手を取ることさえ、自分の意思で選べるということだ。


 そんな小さな選択を重ねながら、アルフォンスの人生は少しずつ王太子だった頃とは違う方向へ進み始めている。


 そして同じ頃、王都では。


 彼を過去へ押し込めようとする者たちの間にも、静かな亀裂が入り始めていた。

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