第5話 元王太子、初めて誰でもない自分として町を歩く
翌朝、俺は昨日よりも少し早く目を覚ました。
窓の外では、古の塔を囲む森が淡い朝靄に包まれている。夜の名残を引きずった空はまだ青白く、木々の隙間から差し込む光も昼間ほど強くはない。遠くから聞こえてくる鳥の声と、風に揺れた葉が擦れ合う音だけが、静かな寝室まで微かに届いていた。
目を開けた瞬間、胸の中へ最初に浮かんだのは、王城でも、父上でも、アンナマリーでもなかった。
昨日歩いた森だった。
冷たい川の水や、道端に咲いていた小さな青い花。木漏れ日の中で食べた昼食と、どこへ行くのかさえ決めずに歩いた時間。そのどれもが、王太子として生きていた頃の俺なら、何の意味もないものとして気にも留めなかっただろう。
けれど今は、あの何も起こらなかった時間が妙に鮮明に残っている。
「……楽しかったな」
寝台へ横になったまま、誰に聞かせるでもなく呟いた。
何かを成し遂げたわけではない。誰かに褒められたわけでもなければ、国のためになることをしたわけでもない。ただ、自分で外へ出たいと思い、自分の足で歩き、自分の意思で立ち止まった。
それだけだった。
それだけのことが、思っていた以上に心地よかった。
「……また外へ行きたいな」
『その発言を行動予定として記録しますか?』
「うわっ!」
静まり返っていた寝室へ突然声が響き、俺は反射的に身体を起こした。右手首へ視線を落とせば、銀色の腕輪は何事もなかったかのように朝の光を反射している。
「エル、起きていたのか」
『私は睡眠を必要としません』
「そうだったな。昨日も聞いた気がする」
『同一の質問に対しては、原則として同一の回答を行います』
「分かっている。分かっているんだが、もう少し驚かせない方法はないのか?」
朝から心臓に悪い。胸を押さえながら尋ねると、エルは少しの間も置かず答えた。
『主様から呼びかけを受けるまで、こちらからの応答を控えることは可能です』
「それだ。今後はできるだけそうしてくれ」
『承知しました。ただし、主様の生命に危険がある場合、あるいは緊急性の高い情報を検出した場合は例外とします』
「そこは例外でいい。むしろ黙られていたら困る」
『設定を変更しました』
何度目になるか分からない淡々としたやり取りに、俺は小さく息を吐いた。
最初はひどく無機質に感じていたエルの声も、今では少しずつ生活の一部になり始めている。感情の起伏はほとんどなく、言葉に遠慮もないが、尋ねれば必要なことには必ず答えてくれる。
それは、王城で大勢の人間に囲まれながら、誰の言葉を信じればいいのか分からなくなっていた頃よりも、ずっと分かりやすかった。
「エル」
『はい』
「今日は、昨日とは違う場所へ行きたい」
『条件を指定してください』
昨日は人のいない森を歩いた。誰にも会わず、誰からも見られず、ただ静かな自由を味わった。
なら今日は、その少し先へ進んでみたい。
「人のいる場所がいい」
口にした瞬間、自分でも分かるほど胸が高鳴った。不安がないわけではない。それでも昨日までのように、怖いという感情だけで考えることをやめようとは思わなかった。
『町、村、街道沿いの宿場などが候補となります』
「それなら町がいい。ただし、王都は避けてくれ」
『承知しました』
「できれば、俺を知っている者がほとんどいない場所がいい。規模は大きすぎず、治安が悪くないところを頼む」
『条件を設定しました。転移時に適切な地点を探索します』
「頼む」
そう答えた直後だった。
寝室の扉の向こうから、僅かに何かが擦れるような音が聞こえた。
俺は黙って扉を見る。
閉まっている。
いや、よく見るとほんの僅かに隙間が空いていた。その隙間から、見覚えのある銀色の髪が一筋だけ覗いている。
「セリー」
返事はない。
「そこにいるだろう」
やはり返事はない。
「三つ数えるまでに出てこなければ、こちらから扉を開けるぞ。一、二――」
「おはようございます、主様!」
勢いよく扉が開き、銀髪をなびかせたセリーが満面の笑みで飛び込んできた。昨日ほどではないにせよ、朝の静けさを一瞬で吹き飛ばす勢いだった。
「朝から勢いがありすぎる!」
「普通にお部屋へ入ろうと思っていたんです!」
「普通に入る者は、扉の隙間から覗かない」
「昨日、主様にもっと普通に名前を呼べと言われたので、どの入り方が一番自然なのか考えていたんです」
「考えた結果が覗き見なのか?」
「少し考えすぎました!」
「少しではないだろう……」
額を押さえながらも、今日はなぜか本気で腹を立てる気にはなれなかった。
古の塔には、侍従も騎士も文官もいない。決められた時刻に起こしに来る者もいなければ、寝起きの俺へ一日の予定を読み上げる者もいない。
代わりに、扉の隙間からこちらを覗いていた妙に騒がしい魔導人形がいる。
王太子だった頃の朝とは比べものにならないほど締まりがない。それなのに、今の俺には、この騒がしさが不思議と心地よかった。
「それで、主様」
セリーは何事もなかったように寝台へ近づくと、期待を隠そうともせず身を乗り出した。
「町へ行かれるのですよね?」
「やはり聞いていたな」
「起こしに来たら、たまたま会話が聞こえただけです」
「扉に耳をつけた状態でか?」
「そこは偶然です!」
「ずいぶん都合のいい偶然だな」
呆れて返すと、セリーはまるで気にせず両手を胸の前で合わせた。
「町といえば、お買い物ですね。食べ歩きもできますし、観光もできますし、主様と私で初めての町へお出かけです!」
「待て。話を勝手に膨らませるな」
「では、デートですね」
「違う」
「即答でした……」
「俺とお前しかいないからといって、すべてをデートに変換するな」
「ですが世間一般では、若い男女が二人で町へ出かければ――」
「最後まで言わなくていい。違うものは違う」
セリーは分かりやすく頬を膨らませた。
「主様のいけず」
「その言葉はどこで覚えた」
「セリーヌ様の生活記録です」
「……やはりあの人か」
会ったこともない二千年前の魔導具師の人物像が、記録を知るたびに妙な方向へ広がっていく。
天才的な魔導具師であり、この塔を作り、百を超える魔導具を残した人物。それだけを聞けば、厳格で近寄り難い学者を想像する。
だが実際には、妙な言葉を魔導人形へ教え、設計図を風に飛ばしてはそのためだけに新しい魔導具を作り、時には大切な誰かを思って一人で泣いていたらしい。
まだ知らないことの方が圧倒的に多い。
それでも少しずつ、セリーヌという人間が、二千年前の偉人ではなく、一人の人間として俺の中に形を持ち始めていた。
◇◇◇
朝食を終えたあと、俺はセリーとともに道具部屋へ向かった。
昨日使った変貌の仮面と隠蔽の外套、それから護身の指輪を一つずつ確認していく。昨日は人のいない森だったが、今日は町へ行く。人目がある以上、昨日より慎重にならなければならない。
「町へ行くとなると、金も必要だな」
「はい。肉串にも焼き菓子にもお金が必要です」
「食べ物から離れろ」
「生活に食事は欠かせません」
「間違ってはいないが、お前の場合は目的が露骨すぎる」
王城から送られた荷物の中には多少の金貨が入っていたが、その多くは王族や高位貴族が使う大型金貨で、王家の刻印まで入っている。地方の町で見知らぬ旅人が突然そんなものを出せば、不審に思われる可能性が高かった。
「エル。この塔に、今の王国で使える貨幣はあるか?」
『セリーヌ様の時代に流通していた貨幣は大量に保管されています。ただし現代では貨幣として流通しておらず、骨董品として扱われる可能性があります。現行貨幣と同規格のものは、主様が王城から持ち込まれたもののみです』
「やはりそうか……」
「それなら、何か売りましょう」
セリーが何でもないことのように言った。
「この魔導具を?」
「それは絶対に駄目です!」
試しに棚を指してみれば、セリーは血相を変えて両手で大きく否定した。
「危険ですし、目立ちますし、何よりセリーヌ様の遺産ですから!」
「俺も売るつもりはない。確認しただけだ」
「でしたら、普通の宝石を売ればいいと思います」
「普通の宝石?」
嫌な予感がした。
この塔で「普通」と呼ばれるものは、現代ではまったく普通ではないことが多い。
「エル。この部屋に換金できそうな宝石はあるか?」
『魔導具の製作素材として保管されている未加工宝石があります』
「価値はどの程度だ?」
『高品質なものについては、現代相場で金貨数十枚から数百枚になると推定されます』
「それは普通の宝石とは言わない」
「宝石としては普通です」
「やはりお前の普通は信用できないな」
町へ着いて早々、見知らぬ旅人が金貨数十枚の宝石を持ち込めば、それだけで騒ぎになりかねない。
「もっと小さくて、価値の低いものはないか?」
『あります。銀貨数枚から金貨一枚程度と推定される低純度水晶を推奨します』
「それくらいなら使えそうだ」
棚の奥から取り出されたのは、小指の先ほどの透明な石だった。
低純度と言われたが、俺の目には十分すぎるほど美しく見える。内部に僅かな濁りがあるものの、王城で装飾品として使われていても違和感がない。
「これで低純度なのか?」
『セリーヌ様の時代には、高純度の人工宝石を製造する技術が存在していました』
「本当に二千年前の方が進んでいたのだな」
『多くの分野において、現代文明より高度であったと判断できます』
「なぜそこまでの技術が失われた?」
何気なく尋ねたつもりだったが、エルは珍しく少し間を置いた。
『回答には、複数の戦争、災害、魔力環境の変化、技術者集団の消滅、知識の独占など、複雑な歴史的要因が関係します』
「……長くなるか?」
『非常に』
「なら、また今度にしよう」
『承知しました』
水晶を小さな布袋へ入れ、外套の内側へしまう。今は歴史の謎を解くより、町へ行く準備の方が先だ。
次に、昨日登録した変貌の仮面を顔へ当てた。
淡い光が視界を包み、髪が茶色へ、瞳が灰色へ変わる。輪郭も変化し、姿見の中から王太子アルフォンスの面影がほとんど消えた。
昨日と同じ変装だった。
安全なのは分かっている。
それでも、俺は鏡の中の青年をしばらく見つめたあと、僅かに眉を寄せた。
「どうしました?」
「昨日より、少しだけ自分に近づけたい」
セリーが隣へ立ち、鏡越しに俺を見る。
「正体が分かるほど近づけるのは危険ですよ」
「そこまではしない。ただ……」
言葉にするのが少し難しかった。
完全な別人の顔は、安全ではある。
けれど鏡を見るたびに、自分という存在までどこかへ消えてしまったような感覚があった。
俺は王太子ではなくなった。
だが、アルフォンスという人間まで捨てたいわけではない。
「これくらいか」
元の黒髪と青い瞳は避け、王族らしい整いすぎた輪郭も崩す。それでも目元や口元には僅かに自分らしさを残した。
濃い茶色の髪と、緑がかった灰色の瞳。年齢はそのままだが、どこから見ても身分の高い者には見えない、平凡な青年の姿だった。
「どうだ?」
「とても格好いいです!」
「お前は何でもそう言うだろう」
「主様ですから」
「理由になっていない」
「愛です」
「それも便利に使いすぎだ」
呆れながらも、もう一度鏡を見る。
そこにいる青年は王太子アルフォンスではない。
けれど、まったく知らない誰かでもなかった。
それが妙に安心できた。
「名前も必要だな」
町で誰かに名を尋ねられる可能性は十分にある。
「私が考えます!」
セリーが勢いよく手を挙げた。
「嫌な予感がするが、一応聞こう」
「アルぽん」
「却下」
「まだ一つ目です!」
「次」
「アルちゃん」
「却下」
「アルりん」
「却下だ」
「主様、厳しすぎませんか?」
「真面目に考えてくれ」
俺が睨むと、セリーは口を尖らせながら腕を組み、今度こそ少し真剣に考え込んだ。
「では……アルでどうでしょう」
「そのままだな」
「でも、呼ばれた時に反応しやすいです。それに本名とまったく違う名前を使うより、咄嗟にアルフォンスと言い間違える可能性も低くなります」
意外にも、まともな理由だった。
「それでいい」
「採用ですね!」
嬉しそうに笑うセリーを見ながら、俺はその名前を心の中で繰り返した。
アル。
アルフォンスの一部ではある。
けれど同時に、王太子ではない俺が名乗る、新しい名前でもあった。
「お前も姿を変えた方がいいな」
「私は今のままでも問題ありませんよ?」
「銀髪に青い瞳で、そこまで整った顔立ちの町娘が普通にいると思うか?」
一瞬、セリーが固まった。
そして次の瞬間、頬へ両手を添える。
「主様は私の美しさを認めてくださるのですね!」
「今はそういう話をしていない」
「でも嬉しいです」
機嫌を良くしたセリーは、棚から別の変貌の仮面を取り出した。
「変貌の仮面は複数あるのか?」
『隠蔽分類に三種類存在します。それぞれ使用目的と性能が異なります』
「その説明も、また今度聞こう」
『承知しました』
セリーが仮面を身につけると、淡い光が身体を包んだ。
銀色だった髪は肩までの茶色へ変わり、青い瞳は明るい琥珀色になる。顔立ちは元の面影を残しながら少し幼く、親しみやすい町娘のようになっていた。
「どうですか?」
「普通の町娘に見える」
「もう少し褒めてください」
「変装としては完璧だ」
「褒められているようで、少し複雑です……」
「目的は達成しているのだからいいだろう」
セリーはまだ何か言いたそうだったが、やがて諦めたように息を吐いた。
「では、私の名前はセリにします」
「ほとんど同じだな」
「主様の考え方を真似しました」
「それなら仕方ない」
アルとセリ。
ただ名前を少し短くしただけだ。
それなのに、別の人生へ足を踏み出すような感覚があった。
王太子アルフォンスではなく、ただの旅人アルとして町を歩く。
期待と不安が同時に胸へ広がっていく。
「行こう」
「はい!」
◇◇◇
転移扉の前へ立ち、俺はエルへ改めて条件を伝えた。
「人のいる町で、王都から十分に離れていること。規模は中程度以下で、治安が悪くない場所。それから、転移先は必ず人目のない場所にしてくれ」
『条件を確認しました。安全地点を探索します』
扉の表面が水のように揺らぎ、やがて向こう側の景色が浮かび上がった。
石造りの壁と、積み上げられた幾つもの木箱。どうやら細い路地らしく、見える範囲に人影はない。ただ、少し離れた場所からは荷車の車輪が石畳を叩く音や、大勢の人々が話す声が聞こえてきた。
『転移先候補。王都より南西約二百四十キロ。商業町リュネ。人口約七千人。周辺農村の交易拠点となっており、治安は比較的良好です』
「俺を直接知っている者は?」
『現時点で、半径五百メートル以内に主様と直接面識のある人物は確認されません』
「分かった」
一度だけ深く息を吸い、扉の向こうへ足を踏み出した。
靴の裏へ、固い石の感触が伝わる。
昨日の森とはまったく違う空気だった。
どこかから漂う焼きたてのパンの香り。馬と藁の匂い。鼻を刺激する香辛料。大通りの方から聞こえてくる商人の呼び声や、走り回る子供たちの笑い声。
「町ですね」
セリー――今はセリが、声を抑えながら周囲を見回した。
「ああ。本当に町だ」
自分で言っておきながら、妙な感想だと思う。
王都にも、地方都市にも、俺は何度も行ったことがある。
それでも今は、生まれて初めて町というものを訪れたような感覚だった。
「ここでは主様ではなく、アルですね」
「そうだ」
「では、アルさん」
「少し他人行儀だな」
「それならアルと呼びます」
「ああ。お前はセリだ」
「秘密のお出かけみたいで、少し楽しいですね」
「実際、正体を隠しているのだから秘密ではある」
「やはりデートでは?」
「そこへ戻るな」
セリーの軽口に苦笑しながら、俺たちは細い路地を抜けた。
その瞬間、視界が一気に開ける。
石畳の大通りの両側には、木造や煉瓦造りの店が隙間なく並んでいた。野菜や果物を山のように積んだ露店、色鮮やかな布を軒先へ吊るした店、扉を開け放った鍛冶場からは規則正しい金属音が響いている。
農民、商人、旅人、腰へ剣を下げた冒険者らしい者たち。その間を縫うように、何人もの子供が笑いながら走り抜けていった。
「危ないぞ!」
荷車の御者が声を張る。
飛び出しかけた子供が慌てて道の端へ逃げると、追いかけてきた母親がその腕をつかんだ。
「走らないの! 何度言えば分かるの!」
「だって!」
「だってじゃありません!」
近くの商人たちは慣れた様子で笑っている。
何でもない日常だった。
けれど俺は、その場で足を止めてしまった。
「アル?」
セリーが小さく呼ぶ。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
町の人々は、誰も俺を見ていなかった。
正確には、見知らぬ旅人が来たと一度だけ視線を向ける者はいる。けれどすぐに興味を失い、それぞれの仕事や会話へ戻っていった。
王太子だった頃、俺が町へ入れば、必ず事前に道が整えられた。
警備兵が人々を下がらせ、役人が先導し、民は俺が通るたびに頭を下げた。歩いているだけで視線を集め、言葉を交わさなくても、誰もが俺を王太子として見ていた。
今は違う。
誰も道を空けない。
誰も頭を下げない。
誰も俺へ何かを期待していない。
ただの青年が一人、町へやって来ただけだった。
「誰も俺を見ないんだな」
思わず漏れた言葉に、セリーがこちらを見る。
「嫌ですか?」
「いや」
ゆっくり首を振った。
そして、自分の胸に問いかけてみる。
「むしろ……少し嬉しい」
誰かに見られていない。
たったそれだけで、こんなにも肩が軽くなるとは思わなかった。
「行こう」
「はい」
俺たちは初めて、人の流れへ混ざるように歩き始めた。
◇◇◇
最初に向かったのは、町の中央から少し離れた場所にある宝飾店だった。
そこへたどり着くまでの間、セリーは露店を見つけるたびに何度も足を止めかけた。
「アル、焼き菓子があります」
「金を作ってからだ」
「あちらには肉串が」
「後だ」
「果物飴もあります」
「だから、まず水晶を売る」
「全部後回しです……」
「今は金がないのだから仕方ないだろう」
「あ、そうでした」
「忘れていたのか?」
「町の雰囲気に浮かれてしまいました」
「分かりやすいな」
俺たちのやり取りを聞いていた露店の女性が、楽しそうに笑った。
「仲がいいね。恋人かい?」
「はい!」
「違います」
ほとんど同時だった。
女性は一瞬目を丸くしたあと、さらに大きく笑った。
「なんだい、男の方が照れてるだけか」
「照れていません」
「アルったら」
「乗るな」
周囲の客までつられて笑い、顔が熱くなってくる。
王太子だった頃、見知らぬ商人からこんな軽口を向けられることなどなかった。側近の誰かが無礼だと咎めていたかもしれないし、そもそも商人の方が恐れて口にしなかっただろう。
だが今は、不快ではなかった。
ただからかわれているだけで、そこに悪意はない。
「行くぞ、セリ」
「はーい」
妙に楽しそうなセリーを連れ、ようやく宝飾店へ入る。
店はそれほど大きくなかったが、棚や硝子箱は丁寧に磨かれ、並べられた品物にも店主の几帳面さが表れていた。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきた中年の店主が、俺たちを一度見た。
「何かお探しですか?」
「いえ。売りたいものがあります」
布袋から水晶を取り出し、卓上へ置く。
その瞬間、店主の表情が僅かに変わった。
「拝見します」
手袋をつけ、光へ透かし、拡大鏡で丹念に確認していく。
「どちらで手に入れられました?」
「旅の途中で、知人から譲り受けました」
完全な真実ではない。
だが、古の塔で二千年前の魔導具師が残したものを持ってきた、などと言えるはずもなかった。
「なるほど……低純度ではありますが、透明度は高いですね」
しばらく調べたあと、店主は水晶を布の上へ戻した。
「銀貨八枚でどうでしょう」
銀貨八枚。
王太子だった頃の俺には、その金額が実際の暮らしの中でどの程度の価値を持つのか、ほとんど実感がなかった。
食事も服も、必要なものは使用人が用意する。支払いは文官が行い、俺が目にするのは予算書や報告書に書かれた数字だけだった。
「相場として妥当か?」
声に出さず、エルへ尋ねる。
『品質と町の規模を考慮すると、妥当な金額です』
「それでお願いします」
「承知しました」
やがて銀貨八枚が俺の掌へ渡された。
硬貨同士が触れ合い、小さな金属音を立てる。
俺はしばらく、その銀貨を見つめた。
自分で物を渡し、その対価として、自分の手で金を受け取った。
「どうされました?」
店主が不思議そうに尋ねる。
「いえ。何でもありません」
店を出たあとも、俺は掌の銀貨から目を離せなかった。
「初収入ですね」
セリーが嬉しそうに言う。
「初収入……そうなるのか」
「王太子の頃にも収入はあったのでしょう?」
「あったはずだ。俸給も私有財産もあった。だが、数字としてしか見ていなかった」
自分で働き、物を渡し、その対価として受け取ったという感覚はない。
「銀貨八枚か」
掌にある硬貨は小さい。
それなのに、妙に重く感じた。
「大切に使おう」
「まずは肉串ですね」
「なぜ最初にそこへ行く」
「お腹が空きました」
「朝食から、それほど時間は経っていないだろう」
「別腹です」
「肉串に別腹はない」
◇◇◇
結局、俺たちは肉串を二本買った。
炭火で焼かれた肉には香辛料がたっぷり振られ、脂が火へ落ちるたびに香ばしい煙が立ち上る。一本を受け取ったセリーは、一口食べた瞬間、琥珀色の瞳を輝かせた。
「美味しいです!」
「そういえば、お前は普通に食事ができるんだな」
「もちろんです」
「魔導人形なのに?」
「味覚もありますし、食べたものを処理する機能もあります」
「食事そのものは必要なのか?」
「生命維持には必要ありません」
「なら、なぜ食べる?」
「楽しいからです」
あまりにも迷いのない答えだった。
俺は一瞬黙ったあと、思わず笑ってしまう。
「お前らしいな」
「アルも食べてください」
セリーから肉串を渡される。
受け取ったものの、すぐには口へ運べなかった。
「どうしました?」
「歩きながら食べるのは、行儀が悪いと思ってな」
「今は王太子ではありませんよ」
その言葉に、周囲を見る。
商人も、旅人も、子供たちも、買ったものを食べながら歩いている。誰もそれを咎めないし、誰も俺の作法を見張ってはいない。
「……そうだったな」
一口噛む。
「熱っ!」
熱い肉汁が口の中へ広がり、思わず顔をしかめた。
横でセリーが吹き出す。
「笑うな」
「すみません。アルが普通に熱がっているのが、少しおかしくて」
「俺だって熱いものは熱い」
「美味しいですか?」
もう一度、今度は慎重に噛む。
王城では、これよりずっと上等な肉を何度も食べてきた。
けれど、自分で手に入れた銀貨で買い、町の中で立ったまま頬張る肉串は、それらとはまったく違う味がした。
「ああ。美味い」
「では次は甘いものですね」
「まだ食べるのか?」
「せっかく町へ来たんですよ!」
セリーは笑いながら次の露店へ向かっていく。
「待て、走るな!」
俺もその後を追った。
行き交う人々を避けながら、市場の中を進んでいく。
「新鮮な林檎だよ!」
「焼きたてのパンはいかがですか!」
「旅人さん、丈夫な革袋があるぞ!」
商人たちの声が重なり合う。
町は、生きていた。
王城から眺めていた数字でもなければ、視察のために綺麗に整えられた風景でもない。
人々が働き、笑い、時には言い争いながら、今日という一日を暮らしている。
俺は初めて、その中を自分の足で歩いていた。
◇◇◇
昼前、俺たちは町の中央広場へたどり着いた。
中央には古い石造りの噴水があり、その周囲に露店や長椅子が並んでいる。片側には冒険者組合の大きな掲示板が設置され、何十枚もの依頼書が貼り出されていた。
「薬草採取、街道に出る魔物の討伐、荷運び……迷子の猫捜索まであるのか」
「かわいい依頼ですね」
「冒険者の仕事は、魔物を倒すだけではないんだな」
『地域社会に必要とされる雑務も、依頼として扱われます。特に小規模な町では――』
エルの説明を聞きながら掲示板を眺めていた、その時だった。
広場の端で、鐘が鳴った。
硬い金属音が三度響き、それまで思い思いに過ごしていた人々の視線が一斉にそちらへ向く。
「何だ?」
『王国からの公示を知らせる鐘です』
役人らしい男が小さな壇上へ上がり、巻物を広げた。
「王都より、正式な布告が届いた!」
周囲の人々が何事かと集まり始める。
俺も、その場から動かなかった。
「ガイゼン王国第二王子レオンハルト殿下が、本日、新たな王太子として正式に立太子された!」
一瞬、広場の空気が止まったように感じた。
胸の奥へ、冷たいものが落ちる。
分かっていたことだった。
父上から送られた手紙にも、レオンハルトが次の王太子となる予定だと書かれていた。
それでも、実際にその時が来たと知らされるのは、まったく違った。
やがて、周囲のあちこちから声が上がり始める。
「やっぱりレオンハルト様か」
「随分早かったな」
「王太子がいないままじゃ困るから、仕方ないだろう」
「前の王太子は古の塔へ送られたんだよな?」
「本当に罪があったのか?」
「公爵令嬢を陥れたんだろう」
「いや、男爵令嬢に操られていたって話もあるぞ」
「操られる方にも問題があるだろ。国を背負う王太子が、女一人に振り回されてどうするんだ」
一つ一つの言葉が、耳へ入ってくる。
俺は動けなかった。
「アル」
セリーが小さく呼ぶ。
「離れますか?」
「……いや」
ゆっくり首を振る。
「もう少し聞いておきたい」
俺がいなくなったあと、民が何を思っているのか。
王太子だった頃には、決してそのままの形では耳へ入ってこなかった声だ。
「前の王太子も被害者じゃないのか?」
若い商人が言うと、隣にいた年配の男が肩をすくめた。
「王太子だぞ。騙されましたでは済まない」
「でも、精神へ干渉されていたなら本人だけの責任じゃないだろ」
「それでも結果として国を乱したのは同じだ。上に立つってのは、そういうことじゃないのか」
胸へ刺さった。
反論はできない。
俺は確かに、レイチェルの言葉を信じ、アンナマリーを傷つけた。
たとえ何らかの魔法や魔導具の影響を受けていたとしても、俺の口から放たれた言葉によって傷ついた者がいる事実は消えない。
「アンナマリー様は可哀想だったよな」
「ああ。側近だったブラット様が助けたらしいぞ」
「二人は結婚するんだろ?」
胸が、僅かに詰まった。
アンナマリーとブラットが結ばれることは、卒業舞踏会で聞いている。
当然だと思う。
俺ではなく、彼女を信じ、彼女を守ったのはブラットだった。
理解している。
祝うべきなのだとも思う。
それでも、見知らぬ誰かの口から二人の未来を語られると、胸の奥に残った傷がまだ消えていないことを思い知らされた。
「大丈夫ですか?」
セリーが俺の外套の袖をそっとつかんだ。
「……大丈夫だ」
半分は彼女へ、半分は自分へ言い聞かせるための言葉だった。
壇上の役人は布告を続けている。
「新王太子レオンハルト殿下は、先の事件で被害を受けた者たちへの補償と、パニア男爵家に関する調査を自ら指揮される!」
広場から感心したような声が上がった。
「立派だ」
「若いのに頼もしいな」
「兄の失敗まで片づけるのか」
「レオンハルト殿下なら安心できる」
やがて小さな拍手が起こり、それが少しずつ広場全体へ広がっていく。
人々の顔には、新しい王太子への期待が浮かんでいた。
国にとって、それは必要なことなのだろう。
俺が王太子位を失った以上、次の王太子は必要になる。民がいつまでも不安を抱えていれば、国そのものが揺らぐ。
レオンハルトが受け入れられること自体は、何も間違っていない。
それなのに。
「……早すぎる」
言葉が、無意識に漏れた。
「何がですか?」
「すべてだ」
俺の処分が決まってから、まだほとんど日が経っていない。
王太子の立太子は、ただ名前を宣言すれば終わるものではない。
礼装を仕立てる必要がある。
王太子章を用意しなければならない。
儀式の準備も、国内貴族への通知も、国外への連絡も必要だ。
王都からこの町へ布告を届けるだけなら、緊急魔導通信を使えば不可能ではない。
だが。
「エル。王国の伝令速度として、今日ここへ布告が届くこと自体は可能か?」
『緊急魔導通信を使用すれば可能です』
「では、立太子の準備そのものは?」
『通常であれば数週間以上を要します。ただし、事前準備が行われていた場合、大幅な短縮は可能です』
「事前準備……」
胸の奥で、何かが引っかかった。
だが、すぐにその違和感へ答えを与えることはしなかった。
早かった。
ただ、それだけだ。
今の俺が持っているのは証拠ではない。
ここで「誰かが最初から俺を陥れるつもりだった」と決めつければ、それはレイチェルの言葉だけを信じたあの時と何も変わらない。
疑問は持つ。
だが、決めつけない。
「もう行きましょう」
セリーが、今度は少し強く袖を引いた。
「十分聞いたでしょう?」
広場では、新王太子を祝う声が続いている。
「レオンハルト殿下万歳!」
誰かが声を上げると、近くの子供たちが意味も分からず真似をした。
「ばんざーい!」
周囲へ笑いが広がる。
俺は、もう振り返らなかった。
「ああ。行こう」
◇◇◇
広場から離れ、町の端にある小さな公園へ入った。
人通りは少なく、大きな木の下には古びた長椅子が置かれている。少し離れたところでは子供たちが木の実を集め、老人が鳥へ餌を撒いていた。
俺は長椅子へ腰を下ろした。
セリーも隣へ座ったが、いつもより少しだけ間を空けている。
「気を遣っているのか?」
「少しだけ」
「正直だな」
「近い方がいいですか?」
「いや。今はこのままでいい」
「分かりました」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
風が木の葉を揺らし、子供たちの笑い声が遠くから聞こえてくる。
俺は自分の両手を見つめた。
「俺は、もう王太子ではない」
「はい」
「分かっているつもりだった」
「はい」
「それなのに、レオンハルトが王太子になったと聞いたら……思っていたより胸が痛んだ」
セリーは、急いで慰めようとはしなかった。
ただ静かに座り、俺の次の言葉を待っている。
「王位を取り戻したいですか?」
「……分からない」
正直に答えた。
王太子という責務から解放されたことを、俺は嬉しいと思っている。
昨日も今日も、王太子だった頃にはできなかったことをして、確かに楽しいと思えた。
けれど。
もし本当に、俺が嵌められたのだとしたら。
奪われたままでいいのか。
名誉も、立場も、これまで積み重ねてきたものも、すべてを失ったままでいいのか。
「今は分からない」
もう一度、言葉にする。
「それでいいと思います」
「曖昧だぞ」
「今、決める必要がありますか?」
セリーの問いに、俺は黙った。
答えは分かっている。
「……ないな」
「ですよね」
「自由の練習中だから、か?」
「はい!」
「またその言葉か」
「便利ですから」
セリーは少し笑った。
「誰かを倒すとか、王位を取り戻すとか、復讐するとか、今すぐ決めなくてもいいんです。今の主様が何をしたいのか、それだけを少しずつ考えればいいと思います」
「簡単に言うな」
「簡単でいいこともあります」
「本当にそう思うか?」
「はい」
迷いのない答えだった。
セリーは少しだけ声を落とす。
「アルフォンス様は、ずっと難しく考えすぎていたのだと思います」
町では使えない本当の名を、彼女が小さく呼んだ。
責める響きはない。
ただ、王太子でも、罪人でも、旅人アルでもない、俺自身がここにいることを確かめるような声だった。
「セリーヌは」
俺は少し考えてから尋ねた。
「どんな時も、こんなふうに人を安心させる人だったのか?」
セリーはすぐには答えなかった。
風が、茶色へ変えた髪を静かに揺らしていく。
「どうでしょう」
やがて、彼女は穏やかに笑った。
「たぶん、自分が不安な時ほど、誰かを笑わせようとする人だったのだと思います」
「変な人だな」
「それは確実です」
「そこは迷わないのか」
「はい」
思わず笑ってしまう。
ほんの少しだけだったが、胸の奥にあった重さも薄れた気がした。
◇◇◇
午後は、もう少し町を歩くことにした。
市場で香辛料や布を眺め、食器を並べた店へ入る。
「アル、これを買いましょう」
セリーが、細い棒を二本持ち上げた。
「何だ、それは」
「東方で使われる『箸』という食器です」
「どう使う?」
「こうやって挟むんです」
セリーは指先で器用に二本の棒を動かしてみせる。
「難しそうだな」
「練習すれば使えます」
「必要か?」
「欲しいです」
「お前が使いたいだけだろう」
「はい」
あまりにも堂々と認められ、俺は苦笑した。
「なら、自分で選べ」
「買ってもいいのですか?」
「銀貨八枚を大切に使うとは言ったが、何も使わないという意味ではない。欲しいものを考えて買うのも、たぶん練習の一つだろう」
「自由の練習ですか?」
「……お前に影響されてきた気がする」
「いいことです!」
嬉しそうに箸を選び始めるセリーを横目に、俺は近くに掛けられていた地味な茶色の外套へ目を留めた。
王城から持ち出した服は質が良すぎる。
変貌の仮面で顔を変えても、衣服だけで裕福な家の出身だと悟られる可能性があった。
「旅用ですか?」
若い女性店員が声をかけてくる。
「はい。あまり目立たないものを探しています」
「それなら、こちらが丈夫でおすすめですよ」
店員は俺の背丈を見ながら、何着か外套を取り出した。
「お兄さんと妹さんですか?」
「恋人です」
「違います」
またセリーと同時に答えてしまった。
店員が目を丸くし、それから笑う。
「息がぴったりですね」
「ほら、やはり恋人に見えるんです」
「息が合うことと恋人であることは別だ」
近くにいた客まで小さく笑っている。
こうして何度もからかわれていると、少しずつ慣れてくる自分がいた。
俺は地味な茶色の外套を羽織り、店内の鏡の前へ立った。
そこには王太子らしさなど欠片もない、平凡な旅人が映っている。
「よく似合っていますよ」
店員が笑顔で言った。
「ありがとうございます。これにします」
自分で服を選び、自分で金を払う。
たったそれだけのことが、やはり新鮮だった。
◇◇◇
夕方になると、町の空気は少しずつ変わっていった。
市場の店は片づけを始め、代わりに酒場から賑やかな声が聞こえてくる。夕日が屋根や石壁を赤く染め、昼間の熱を失った風が通りを抜けていった。
「帰るか」
「はい」
セリーは返事をしたものの、少し名残惜しそうに町を振り返った。
「また来たいか?」
「もちろんです」
「そうか」
一度、町並みを見渡す。
広場では苦しい話も聞いた。
レオンハルトが新しい王太子になったという現実を突きつけられ、アンナマリーとブラットの未来を他人の口から聞いた。
それでも。
「俺も、また来たい」
言ったあと、自分でも少し驚いた。
苦しいことがあった場所なのに、それだけでは終わらなかった。
肉串を食べた。
知らない人にからかわれた。
自分で服を選んだ。
セリーとくだらないことで笑った。
それら全部を含めて、また来たいと思えた。
「転移先として登録しますか?」
転移扉へ登録できる場所は四つしかない。
その一つを、この町に使うか。
少し考えたが、俺は首を振った。
「まだ登録はしない」
「分かりました」
「ただ、覚えておこう」
「はい」
人目のない路地へ入り、エルに周囲を確認させる。
『視認者はいません』
転移扉を呼び出すと空間が揺らぎ、向こう側に古の塔の道具部屋が現れた。
「帰ろう」
「はい」
扉を越え、見慣れた塔の中へ戻る。
外の町とは違う、静かな空気。
けれど、その静けさを寂しいとは思わなかった。
「ただいま」
自然に言葉が出た。
「おかえりなさいませ、主様!」
隣で一緒に帰ってきたセリーが、満面の笑みで返す。
「お前も一緒だっただろう」
「言いたかったんです」
「そうか」
「はい」
俺は少し笑った。
そして、もう一度だけ言う。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
セリーの声が道具部屋へ響く。
古の塔は、もう牢獄には見えなかった。
ここは少しずつ、俺が帰ってくる場所になり始めている。
◇◇◇
夕食には、町で買った香辛料が早速使われた。
一口食べた瞬間、舌へ強烈な刺激が走る。
「辛っ!」
慌てて水へ手を伸ばす俺を見て、セリーが申し訳なさそうに、それでも少し笑いながら言った。
「少し入れすぎました」
「これは少しではない!」
「でも、美味しくありませんか?」
「舌が痛くて判断できない」
「慣れれば大丈夫です」
「何に慣れろというんだ」
『水分摂取を推奨します』
「今している!」
エルまで加わったせいで、結局は二人で笑いながら何とか夕食を終えた。
その後、俺は一人で露台へ出た。
夜の森の上には、無数の星が広がっている。
昨日と同じ空のはずなのに、今日は少し違って見えた。
町の喧騒。
新王太子の布告。
人々の反応。
レオンハルトを褒める言葉。
俺を責める言葉。
アンナマリーとブラットについて語られた言葉。
どれも胸の中に残っている。
「エル」
『はい』
「今日の立太子について、やはり不自然だと思うか?」
『通常の手続きと比較すれば、極めて迅速です』
「証拠にはならないな」
『はい。事前準備が存在したことを示す可能性はありますが、それのみを根拠として何者かの意図を断定することはできません』
「……そうだな」
俺は石の柵へ両手を置き、暗い森を見下ろした。
「俺は、家族を疑いたくない」
父上。
レオンハルト。
そして、長い間王家に仕えてきた者たち。
疑いたくはない。
自分の弟が最初から俺の地位を狙っていたなどと、簡単に思いたくもない。
だが、違和感をなかったことにもできない。
「それでも、気になる」
『それでよいのではないでしょうか』
「今すぐ結論を出す必要はない、か」
『はい』
「セリーと同じことを言うんだな」
『私はセリーヌ様の設計思想を基礎としています』
「そうだったな」
夜風が吹き、外套の裾が静かに揺れる。
「今日は楽しかった」
『はい』
「苦しいこともあった」
『はい』
「それでも、また町へ行きたい」
『はい』
自由とは、楽しいことだけを選べるという意味ではないのかもしれない。
自分で選んだからこそ、傷つくこともある。
知らなくてもよかったことを知る日もある。
失ったものを、改めて思い知らされることもある。
それでも、自分で選び、自分の足で進む。
「悪くないな」
俺は星を見上げた。
「自由というのも」
その時だった。
背後の扉が勢いよく開いた。
「主様、大変です!」
「今度は何だ!?」
「今日買った箸が一本ありません!」
「知らん!」
「一緒に探してください!」
「二本で一組なのだろう。なぜなくす?」
「分かりません!」
「使ってもいないのに?」
「大切な思い出の品です!」
「銅貨一枚で買ったばかりだろう」
「金額の問題ではありません!」
「分かったから叫ぶな!」
「主様も叫んでいます!」
「お前のせいだ!」
結局、その後三十分かけて塔の中を探し回ることになった。
道具部屋にもない。
食堂にもない。
廊下にも、セリーの部屋にもない。
「本当にどこへやったんだ……」
「私にも分かりません……」
「最後に見たのは?」
「買った時です」
「範囲が広すぎる」
疲れ果ててセリーを見る。
そこで俺は、何となく違和感を覚えた。
「……セリー」
「はい?」
「動くな」
「え?」
彼女の茶色から銀色へ戻った髪、その後ろ側から細い棒が一本だけ突き出している。
俺は無言で手を伸ばし、それを引き抜いた。
「……あったぞ」
「え?」
セリーが振り返る。
「どこにありました?」
「お前の髪だ」
「……」
「……」
二人で箸を見る。
「どうして髪にあるんだ?」
「おしゃれでしょうか?」
「俺に聞くな」
「でも、少し似合いません?」
「知らん」
「もう一本も刺せば――」
「食器で髪を飾るな」
古の塔へ、また笑い声が響いた。
◇◇◇
同じ頃。
王都の王城では、新王太子レオンハルトの立太子を祝う宴が開かれていた。
大広間には無数の燭台が灯され、磨き上げられた床へ黄金色の光を落としている。楽団の奏でる華やかな曲に合わせ、貴族たちの笑い声と杯の触れ合う音が絶え間なく重なっていた。
「レオンハルト殿下、新たな王太子へのご就任、心よりお祝い申し上げます!」
「王国の未来に祝福を!」
次々と杯が掲げられ、歓声が上がる。
その中心で、レオンハルトは完璧な微笑みを浮かべていた。
姿勢。
声。
視線。
誰に話しかけられても失礼のない言葉を返し、年長の貴族には敬意を、若い貴族には親しみを示す。
まるで、ずっと以前からこの場所に立つ準備をしていたかのように。
隣には国王ラゼルが立ち、満足そうに息子の姿を眺めていた。
そして少し離れた場所には、淡い青のドレスを身にまとったアンナマリーと、正装したブラットがいた。
二人は並んでいる。
けれど。
卒業舞踏会で互いを求め合っていた時とは違い、今夜の二人の間には、ほんの僅かな距離があった。
「アンナマリー」
ブラットが、周囲に聞こえないほどの声で呼ぶ。
「大丈夫か?」
「はい」
返事は早すぎた。
「私は大丈夫です」
アンナマリーは微笑んだ。
貴族令嬢として見れば、完璧な微笑みだった。
だが、扇を握る指には強く力が入り、白くなっている。
「そうか」
ブラットは、それ以上問いかけなかった。
問い詰めれば、彼女がさらに苦しむと分かっているからだった。
その時。
大広間の反対側にいたレオンハルトの視線が、一瞬だけアンナマリーへ向けられた。
ほんの僅かな時間。
すぐに逸らされた視線だった。
アンナマリー自身は気づいていない。
だが。
ブラットだけが、それを見ていた。
「……」
僅かに眉を寄せる。
しかし、何も言わない。
今はまだ、何も分からない。
やがて国王ラゼルが一歩前へ出て、杯を掲げた。
「新たな王太子に祝福を!」
「祝福を!」
大広間を満たす歓声。
新しい王太子。
新しい未来。
新しい王国の象徴。
その華やかな祝宴の中で、アルフォンスという名は、驚くほどの速さで過去へ追いやられようとしていた。
けれど。
その本人は、古の塔で罪人として死を待ってはいない。
誰にも知られず。
誰にも頭を下げられず。
初めて、ただの青年として町を歩いた。
肉串を食べた。
自分で服を選んだ。
見知らぬ人々にからかわれた。
欲しいものを買った。
傷つく話も聞いた。
そして、それでもまた外へ出たいと思った。
今夜のアルフォンスは、明日は何をしようかと考えながら眠りにつく。
王太子だった頃には、一度として許されなかった悩み。
国のためでも。
王家のためでも。
誰かの期待に応えるためでもない。
ただ、自分が明日をどう生きたいのか。
それを自分で選べるという、小さくて、まだ不慣れで、それでも確かな自由を抱きながら。




