第4話 元王太子、外へ出る理由を探す
朝、目を覚ました俺は、すぐには起き上がらなかった。
寝台に横になったまま、しばらく天井を見つめる。白というより、わずかに黄味を帯びた石造りの天井には、王城の私室にあったような豪華な彫刻も、金を使った装飾もない。寝台を囲う天蓋もなければ、朝になると音もなく入ってきて窓を開ける侍従の姿もなかった。
ただ、静かな天井がある。
目を閉じ、もう一度開けてみる。
当然ながら何も変わらない。
「……古の塔、か」
小さく呟くと、その声は誰にも拾われることなく寝室の中へ溶けていった。
俺はもう王城にはいない。
王太子でもない。
その事実は昨日までなら、目を覚ますたび胸の上へ重い石を置かれたように感じられた。目覚めた瞬間からアンナマリーの顔が浮かび、ブラットの拳の痛みを思い出し、父上から届いた毒杯と手紙の言葉を思い返してしまう。
今朝も、それらを忘れたわけではない。
アンナマリーを思えば胸は痛む。ブラットのことを考えれば、かつて友人だった男へ自分が何をしてしまったのかという後悔が滲む。父上の手紙にあった『お前を愛していた』という過去形も、レオンハルトが自分の代わりに王太子となるという事実も、考えればやはり心の奥を軋ませた。
それでも今日は、それだけではなかった。
最初に浮かんだのは、もっと小さなことだった。
「今日は、何をしよう」
自分でも少し驚いた。
昨日、地下の保管室で十一個の魔導具を確認した。残りはまだ八十九個もある。セリーヌの生活記録も気になるし、転移扉だって、いつかは使ってみたい。
「……いつか、か」
誰に聞かせるでもなく繰り返す。
昨日までの俺にとって、未来を表す言葉はひどく遠かった。
王太子として生きていた頃は未来など既に決められていたし、古の塔へ送られた直後は、自分にはもう未来など残されていないと思っていた。
今は違う。
まだ先のことを考えられる。
その変化が、少しだけ嬉しかった。
静かな朝だった。
少なくとも、次の瞬間までは。
「主様ぁぁぁぁ!」
ばん、と寝室の扉が勢いよく開いた。
「うわっ!?」
反射的に身体を起こす。
入口には銀色の髪を揺らし、黒と白を基調とした給仕服を着たセリーが立っていた。両手には盆を抱えている。
「朝でございますぅぅぅぅ!」
「なぜ叫ぶ!」
「おはようございます!」
「普通に入ってこい!」
「入ってきました!」
「普通ではない!」
セリーはきょとんと目を瞬いたあと、何か思い出したように手を叩いた。
「ですが昨日、主様から『近づきすぎるな』と言われましたので、今日は離れたところから元気よく起こしてみました!」
「元気の方向性がおかしい!」
「難しいですね、主様の理想の起こし方」
「普通に名前を呼んでくれればいい」
「なるほど!」
妙に真剣な顔で頷く。
「では明日から、耳元で」
「普通に!」
「囁くように」
「普通に!」
「愛を込めて――」
「名前を呼ぶだけでいい!」
「注文が細かいです!」
「どこがだ!」
朝から疲れる。
だが、不思議なことに、昨日ほど嫌ではなかった。
この騒がしさへ、ほんの少しだけ慣れてきたのかもしれない。
「それで、その盆は何だ」
「朝食です!」
「寝室へ持ってきたのか?」
「はい。ただし、ここで食べるわけではありません」
セリーは少し得意げに笑った。
「今日は朝食を外で食べませんか?」
「外?」
『正確には、塔上層に設けられている露台です』
右手首の腕輪からエルの声が響く。
「露台? そんなものがあるのか」
『ございます』
「初めて聞いたぞ」
『主様から質問されませんでしたので』
「……そうか」
正論なのだが、少し腹が立つ。
「セリーはなぜ知っている」
「私は塔の基本構造を把握していますから!」
「なるほど。なら行ってみよう」
「はい!」
セリーの顔が明るくなる。
そのまま踵を返そうとしたため、俺は慌てて呼び止めた。
「待て」
「はい?」
「俺はまだ寝間着だ」
「あっ」
セリーの青い瞳が、急に輝いた。
「では、お着替えをお手伝い――」
「出ていけ」
「えええええ!?」
「今すぐだ」
「主様のけちぃ!」
「何がだ!」
半ば追い出すように扉を閉める。
廊下側から、なおもセリーの声が聞こえた。
「いつか絶対ですからねー!」
「何が絶対なんだ!」
返してから、額へ手を当てる。
「……朝から何をしているんだ、俺は」
『主様』
「今度は何だ、エル」
『声量が上昇しております』
「分かっている」
『健康状態は良好です』
「それは聞いていない」
『失礼しました。ただ、昨日より声に力があります』
着替えようとしていた手が、僅かに止まった。
「……そうか?」
『はい』
「そうか」
それだけ答え、衣服を手に取る。
王城から持たされた服は質こそ良いが、王太子として着ていた礼装ほど華美ではない。簡素で動きやすく、日常生活にはむしろこちらの方が向いていた。
これが俺のために選ばれた服なのか、罪人へ与える最低限の服なのかは分からない。
けれど今日は、そんなことまで考えなくてもいい気がした。
◇◇◇
露台は、私室の奥にある一見ただの石壁にしか見えない場所の向こうへ隠されていた。
「この塔、隠し扉が多すぎないか」
『設計者の趣味です』
「セリーヌの?」
『はい』
「なぜわざわざ隠す」
『本人曰く、「普通にあるより、見つけた時に楽しいから」とのことです』
返す言葉がなくなった。
セリーは隣で楽しそうに笑っている。
「セリーヌ様らしいですね!」
「そうなのか」
「はい!」
「俺にはまだ理解できない」
「そのうち分かりますよ!」
「分かりたくない気もするな」
そう言いながら扉を開く。
その瞬間、朝の空気が頬へ触れた。
思わず足が止まる。
露台は想像以上に広かった。腰ほどの高さの石柵が周囲を囲み、その向こうには見渡す限り森が広がっている。
木々の間には朝靄が白く漂い、遠くには幾重にも山の稜線が重なっていた。その上には淡い青色の空が広がり、鳥らしき影が幾つも飛んでいる。その中には明らかに普通の鳥ではない、大きな翼を持つ魔物の姿も混じっていた。
それでも怖くはない。
この露台も塔の結界内だと、もう知っているからだ。
少し冷たい風が頬と髪を撫でる。
「朝は綺麗なんですよ」
セリーがいつになく小さな声で言った。
「ああ」
「夜も綺麗です」
「そうなのか」
「星が、すごく近く見えます」
彼女は遠い空へ目を向けた。
「主様。今度、夜にも来ましょう」
すぐには答えられなかった。
今度。
夜。
ごく普通の言葉だ。
だが、そこには次の時間があることを前提とした響きがある。
昨日までの俺なら、そんな未来を自然に約束することすら難しかった。
「……ああ」
小さく頷く。
「そうしよう」
セリーが嬉しそうに笑った。
露台の片隅には、小さな丸机と椅子が用意されていた。セリーが手際よく朝食を並べる。
焼いたパン。
卵。
温かなスープ。
そして見覚えのない、小さな赤い果物。
「これは?」
「無限収納箱の中に入っていました!」
『セリーヌ様が保存されていた食料の一部です』
「ということは、二千年前の果物か」
『内部では時間経過が停止しているため、鮮度に問題はありません』
「食べても大丈夫なんだな」
『安全です』
一つ摘まんで口へ運ぶ。
甘い。
だが、後から少し酸味が来る。
「……美味い」
「ですよね!」
なぜかセリーが自分のことのように嬉しそうに笑う。
「セリーヌ様も好きでした!」
「そうなのか」
「はい!」
そう言ったあと、セリーの動きが一瞬だけ止まった。
「……たぶん」
「たぶん?」
「記録情報です!」
「なるほど」
俺は追及せず、もう一粒食べた。
「俺も好きかもしれないな」
今度は、セリーの手が明確に止まった。
「……」
「セリー?」
「あっ、はい!」
「どうした」
「なんでもありません!」
笑顔へ戻った。
だが一瞬だけ、泣きそうな顔に見えた気がした。
「……そうか」
それ以上は聞かない。
昨日、彼女自身も自分の中に説明できない感情があると言っていた。セリーヌの記憶をすべて持つわけではないのに、知らないはずのことへ胸が痛む時があるとも。
ならば本人にも分からないものを、俺が無理に聞き出す必要はない。
朝食を続ける。
風が木々を揺らし、遠くで魔物の咆哮が聞こえた。
「エル。この森には、どれくらい魔物がいる?」
『正確な個体数は算出困難です。確認済みの種だけで二百七十三種です』
パンを持つ手が止まった。
「二百七十三?」
『はい』
「危険度は」
『中級以上が大半を占めます。上級および災害級も複数確認されています』
もう一度、森を見る。
朝日に照らされた景色は美しい。
だがその中には、普通の人間なら一瞬で命を失いかねない存在が大量に潜んでいるらしい。
「やはり、歩いて森の外へ出るのは無理か」
『推奨しません』
「主様なら今のままだと、かなり危険ですね!」
セリーがパンを切りながら明るく言った。
「どのくらい危険だ」
「塔から五十歩くらいで危ないかもしれません!」
「昨日より減っているぞ! 百歩と言っていなかったか!」
「朝なので魔物も元気です!」
「そういう問題なのか!?」
『一概に否定はできません』
「エルまで!」
結局、外へ出るなら転移扉を使うしかないらしい。
「……外、か」
自然と口から漏れた。
「主様?」
「いつ外へ出ようかと思ってな」
セリーの手が止まる。
エルも口を挟まない。
「昨日は怖いと言った」
「はい」
「今も怖い」
正直に言う。
王国の人間に出会うかもしれない。
自分が元王太子アルフォンスだと気づかれる可能性もある。
王都の今を知ってしまうかもしれない。
アンナマリーやブラット、レオンハルト、父上、そしてレイチェル。
知りたい。
同時に、まだ知りたくない。
「外へ出たいとは思う」
俺は苦笑した。
「だが、出て何をするのか分からない」
「何をするために?」
「ああ」
王太子だった頃、外出には必ず理由があった。
視察。
外交。
学園。
祭典。
慰問。
どこへ行くにも目的が決まっていた。
「自由になったのに、目的がないと何をしていいのか分からないんだ」
少し自嘲気味に笑う。
「役目がなくなって、将来も決められていない。そうなった途端、何を選べばいいのか分からなくなった」
「主様」
「何だ」
「外へ出るのに、理由って必要ですか?」
「……」
「行ってみたい」
セリーはあっさり言った。
「それだけじゃ駄目です?」
「それだけ?」
「はい」
「そんな理由で?」
「いいじゃないですか」
即答だった。
「主様はもう王太子じゃないんですよ?」
胸へ少し刺さる。
それでも、痛いだけではなかった。
「晴れているから外へ行ってみたい。疲れたら帰る。お腹が空いたら何か食べる。それでいいんじゃないですか?」
「……簡単だな」
「簡単です!」
「俺には難しい」
苦笑すると、セリーは少し考えてから笑った。
「では、練習しましょう」
「練習?」
「自由の練習です!」
思わず吹き出した。
「誰の理論だ、それは」
「今、私が考えました!」
「適当ではないか!」
「でも、間違ってない気がします」
「……そうかもな」
自由に生きる。
それは与えられた瞬間から自然にできるものではないのかもしれない。
少なくとも俺には、練習が必要らしかった。
◇◇◇
朝食を終えても、すぐ転移扉へ向かうことはしなかった。
まだ踏ん切りがつかない。
だから俺は地下の保管室へ行き、今日の目的を一つ決めた。
「外へ出る時に役立つ魔導具を見たい」
『了解しました』
「いよいよお出かけですね!」
「まだ決めていない」
「でも準備はするんですよね?」
「ああ」
「それはもう、かなり行く気がありますね?」
「うるさい」
「わくわくしてます?」
答えなかった。
だが自分でも分かる。
怖さだけではない。
少し、楽しみでもあった。
知らない場所へ行く。
目的もなく。
誰かが決めた道順もなく。
王太子時代に旅をしたことは何度もあるが、すべて公務だった。泊まる宿も、通る街道も、会う相手も、何をするかも事前に決められていた。
本当に知らない場所へ、自分の気持ちだけで向かう。
そんな経験は一度もない。
『主様。外出用として推奨する魔導具を提示します』
頭の中へ簡単な位置情報が流れ込んでくる。
『隠蔽の外套、変貌の仮面、護身の指輪、位置帰還石を推奨します』
「待て。変貌の仮面?」
『こちらです』
示された棚には白い仮面が置かれていた。
手に取る。
触れた瞬間、使い方が頭へ流れ込んでくる。
髪色。
瞳の色。
顔立ち。
声。
体格。
一定範囲なら身長まで調整可能。
完全な種族変更や性別変更こそできないが、それでも十分だった。
「これは使える」
『正体露見の可能性を大幅に低減できます』
「王都でも?」
『はい』
王都という言葉だけで、胸が動いた。
今すぐ行く気はない。
けれど、いつか必要になるかもしれない。
「所有者登録する」
『承知しました』
魔力を流す。
仮面が淡く光った。
『登録完了』
「試してみます?」
セリーが興味津々の顔で覗き込んでくる。
「今か?」
「はい!」
「まあ、使い方は確認しておいた方がいいか」
顔へ当てる。
冷たい感触のあと、頭の中に何へ変わるかを問う感覚が現れた。
『正面右側に姿見があります』
「そんなものまであるのか」
姿見の前へ立つ。
そこに映っているのは、よく知る自分の顔だった。
黒い髪。
青い瞳。
王家の血筋を示す特徴を持つ顔。
これを変える。
少しだけ躊躇した。
自分の顔を捨てるような感覚があったからだ。
「主様」
セリーの声が静かになる。
「無理に変えなくても大丈夫ですよ」
「いや。試すだけだ」
髪は茶色。
瞳は灰色。
顔立ちは少し平凡に。
輪郭や鼻筋も変える。
身長も僅かに低くした。
一瞬、仮面が光る。
次に鏡を見た時、そこには知らない青年が立っていた。
「……誰だ」
「主様です!」
「分かっている」
声まで少し低くなっている。
頬へ触れる感触は確かに自分なのに、鏡には別人が映っていた。
「これなら誰も俺だとは分からないな」
そう呟いてから、言葉が自然に続いた。
「アンナマリーも……」
止まる。
部屋の空気が僅かに変わった。
セリーは何も言わない。
もし、この姿でアンナマリーの前へ現れたら。
彼女は俺だと気づかない。
そのことをどう感じるのか、自分でも分からなかった。
寂しい。
同時に、安心する。
今の俺には、まだ彼女へ会う準備がない。
「解除」
仮面を外す。
鏡へ元の顔が戻る。
「……やはり、まだ王都へ行くのは無理だな」
「行かなくていいですよ」
セリーはすぐに答えた。
俺は彼女を見る。
「今は、な」
「はい。今は」
いつか行けとも、忘れろとも言わない。
そのことがありがたかった。
「ありがとう」
自然に口から出た。
セリーが少し目を丸くする。
やがて、柔らかく笑った。
「どういたしまして」
◇◇◇
隠蔽の外套も試した。
羽織れば完全に姿が消えるわけではないが、周囲の認識そのものを弱める効果があるらしい。視界へ入っても重要な存在として認識されにくくなるため、街中で目立たず行動するには十分だという。
「セリー、俺が見えるか?」
「見えます!」
「意味がないように聞こえるな」
『所有者および登録対象には無効です』
「なるほど」
「ちなみに主様が裸で着ても――」
「着ない」
「まだ最後まで言ってません!」
「言わなくていい」
「察しがいいですね」
「お前が分かりやすすぎるんだ」
護身の指輪は、致命傷へ繋がる攻撃を一日に三度まで自動的に防ぐ。
ただし災害級以上の攻撃を完全に遮断できる保証はないらしい。
「それでも十分だ」
『通常の外出であれば非常に有効です』
「左手につけておこう」
右手首にはエル。
左手には護身の指輪。
セリーが腕を組み、俺を上から下まで眺めた。
「主様、装備が増えてちょっと冒険者っぽくなってきましたね」
「冒険者?」
「はい」
その言葉を頭の中で転がす。
王族ではない。
冒険者。
依頼を受け、旅をし、様々な場所へ行く者。
そんな人生を考えたことは一度もなかった。
「冒険者か」
「興味あります?」
「分からない」
「では、実際に見てから決めましょう」
「……そうだな」
見る。
知る。
それから決める。
王太子だった頃は逆だった。
先に道が決められ、俺はその上を歩くだけだった。
◇◇◇
昼食を終えたあと、俺は昨日見た記録板の前へ戻った。
セリーヌの生活記録。
亡くした子供のことが記されていたものだ。
「エル。昨日の続きは見られるか」
『閲覧しますか』
「少しだけ」
『承知しました』
記録板へ触れる。
淡い光が広がり、新しい文字が浮かぶ。
『生活記録 二』
『今日は晴れ。
久しぶりに工房の窓を全部開けた。
風が強くて、設計図が二十七枚飛んだ。
拾うのに一時間かかった。
途中で面倒になって、紙だけ呼び戻す魔導具を作った。
最初からそうすればよかった。
あの子がいたら、きっと呆れただろう。
「母様はすぐ作るんだから」
あの子は、よくそう言っていた。
私は、その言葉が好きだった。
怒っているようで、最後には必ず笑ってくれたから。』
「……母様」
小さく呟く。
セリーヌの子供が、彼女をそう呼んでいた。
「次を」
『続行します』
『生活記録 三』
『今日は、あの子の誕生日。
生きていれば十五歳。
背はどれくらい伸びただろう。
剣を持っていただろうか。
魔導具師になりたいと言っただろうか。
それとも、まったく違う道を選んだだろうか。
私はきっと、何を選んでも応援したと思う。
王族だから、こうしなさい。
家のために、こうしなさい。
そんなふうには言いたくなかった。
あの子には、自分で自分の人生を選んでほしかった。』
息が止まりそうになった。
『自分で自分の人生を選んでほしかった』
俺へ残された手紙と、同じ考えだ。
『全部、貴方が選んでいいのです』
「……偶然だ」
自分へ言い聞かせるように呟く。
セリーヌが元々そういう考えの人間だった。
だから俺へも同じ言葉を残した。
それだけかもしれない。
それでも胸が妙にざわつく。
「エル」
『はい』
「セリーヌの子供は、何歳で亡くなった?」
わずかな沈黙。
『現在の主様へ開示可能な情報ではありません』
「開示可能?」
『はい』
「秘密にされているのか」
『閲覧制限が設定されています』
「誰が設定した」
『セリーヌ様です』
「理由は?」
『回答権限がありません』
俺は記録板を見つめた。
「この記録は見せるのに、子供の詳細は隠している」
『はい』
「変だな」
単なる過去の話なら、わざわざ制限する必要があるのだろうか。
「セリー。お前は何か知らないのか?」
「……分かりません」
「本当に?」
少し踏み込みすぎたかもしれない。
そう思った時、セリーは自分の胸へ手を置いた。
「はい。私は、その子のことを考えると……すごく苦しいんです」
言葉を探すように、一度視線を落とす。
「でも顔も、名前も、思い出せません」
「そうか」
それ以上聞くのをやめた。
「悪かった。無理に聞いた」
「え?」
「お前にも分からないことを、答えさせようとした」
「大丈夫です!」
すぐ笑顔へ戻る。
けれど、その笑顔には少し無理があった。
「今日はここまでにしよう」
『承知しました』
記録板の光が消える。
セリーヌ。
亡くした子供。
俺へ残された魔導具。
未来を知っていた理由。
何も分からない。
だが、今すべてを知る必要もない。
俺は自然に部屋の奥へ目を向けた。
転移扉がある。
「セリー」
「はい?」
「外へ」
少し間を置く。
「今日、行ってみようか」
セリーの目が大きく開いた。
「本当に?」
「ああ」
「怖くないですか?」
「怖い」
即答した。
「でも、行ってみたい」
言葉にした瞬間、胸が少し高鳴った。
セリーはにっこり笑った。
「理由は、それだけ?」
「ああ」
「十分ですね!」
「……そうだな」
◇◇◇
準備は思ったより早く終わった。
変貌の仮面。
隠蔽の外套。
護身の指輪。
エル。
そして無限収納箱。
ただし、収納箱を抱えて歩くのは不便だと思っていると、エルからあっさり告げられた。
『収納箱そのものは小型化可能です』
「先に言え!」
箱は手のひらほどの大きさまで縮み、腰袋へ収まった。
「便利すぎるな」
『仕様です』
「その一言で全部済ませるな」
セリーも同行する。
ただし人目を避けるため、彼女は姿を隠すことになった。
「透明化します!」
指を鳴らす。
一瞬光が走り、セリーの姿が消えた。
「本当に見えないな」
「ここですよー」
声だけがすぐ隣から聞こえる。
「触ります?」
「いや」
「遠慮しなくても」
「しない」
「胸とか」
「黙れ」
「はーい」
姿が見えなくなっても、騒がしさは変わらない。
『主様』
「何だ」
『セリーは透明化中でも物理接触可能です』
「補足しなくていい」
「エルさん!」
「お前も乗るな!」
そのやり取りのおかげで、少しだけ緊張が和らいだ。
転移扉の前へ立つ。
黒い枠。
何の変哲もない取っ手。
見た目だけなら普通の扉だ。
けれど向こう側がどこへ繋がるのか分からない。
「エル。本当に条件は安全なんだな」
『初回転移先は複数の安全条件を満たした地点から選定されます』
「人目がない」
『はい』
「重大な生命危機がない」
『はい』
「地上で、水中ではない」
『はい』
「帰還できる」
『はい』
取っ手へ手をかける。
冷たい。
「主様」
見えないセリーの声が近くから聞こえた。
「大丈夫です」
「何を根拠に」
「私がいます!」
「それは……多少、心強い」
「多少!?」
「うるさい」
「かなりにしてください!」
「行くぞ」
「誤魔化しましたね!」
扉を開く。
眩しい光はなかった。
代わりに向こう側へ、そのまま別の景色が広がっている。
森。
ただし禁断の森のような巨大な木々ではない。
細い木が多く、光の差し込む明るい林だ。
少し先には川らしきものも見えた。
「ここは……」
『安全判定中』
短い間。
『転移可能です』
「人は?」
『半径五百メートル以内に知的生命体反応なし』
「危険な魔物は」
『低危険度個体のみ確認』
心臓が早い。
「……行く」
一歩を踏み出す。
境界を越えた瞬間、空気の匂いが変わった。
土。
草。
水。
塔の中とはまるで違う。
靴の下へ柔らかな土の感触が伝わる。
少しだけ沈む。
その場で立ち止まった。
「……外だ」
それだけなのに、喉が詰まった。
古の塔へ幽閉された時、もう二度と外へ出られないと思った。
死ぬまで塔の中。
誰にも会わず。
あそこが、自分の世界すべてになる。
そう思っていた。
今は違う。
風が頬へ触れている。
木々の葉擦れが聞こえる。
川の流れる音がある。
鳥が鳴いている。
頭上には石の天井ではなく、空が広がっている。
大きく息を吸った。
森の匂いが胸いっぱいへ入る。
「主様」
セリーの声が近くから聞こえた。
「どうですか?」
すぐには答えられなかった。
空を見上げる。
塔の窓や露台から見たものと同じ空のはずなのに、全く違うように感じた。
「……広い」
「はい」
「本当に広いな」
「はい」
声が少し震える。
「俺、出られたんだな」
セリーはふざけなかった。
「はい。出られました」
胸が熱くなった。
泣くほどではない。
でも目の奥が少し痛い。
俺は歩き始めた。
一歩。
また一歩。
誰も止めない。
どちらへ進めとも言われない。
小道は左右へ分かれていた。
「主様。どちらへ行きます?」
立ち止まる。
右は川沿い。
左は森の中。
「……分からない」
「では、好きな方へ」
「好きな方?」
「はい。どちらへ行きたいか考えてください」
そんな決め方をしたことがない。
右を見る。
木々の隙間から川面が光っている。
「……右」
「了解です!」
歩く。
目的はない。
行き先もない。
それが少し不安で、同時に妙に身体を軽くした。
途中、道端へ小さな青い花が咲いていた。
「綺麗だな」
『一般名称、青鈴花です』
「説明しなくていい」
『失礼しました』
「ふふっ。エルさん、職業病ですね」
『私は検索魔導具です』
「なら仕方ないか」
しゃがみ、花を見る。
王城の庭園には、これよりずっと豪華で珍しい花がいくらでもあった。
でも庭師に配置され、剪定され、誰かに見せるため咲いていた花とは違う。
これは誰にも命じられず、勝手にここへ咲いたのだろう。
「自由に咲いているんだな」
「摘みます?」
「いや」
「なぜです?」
「ここに咲いている方がいい」
「そうですか」
「ああ」
立ち上がり、また歩く。
川へ近づく。
水は驚くほど澄んでいた。小さな魚が何匹も泳いでいる。
「飲めるか?」
『上流に汚染源なし。飲用可能です』
手ですくう。
冷たい。
口へ含む。
ただの水なのに、美味かった。
王太子だった頃なら絶対にできない。
毒物混入の危険があるため、用意された飲み物以外へ勝手に口をつけるなど許されなかった。
今は違う。
エルが安全を確認した。
だから飲んだ。
それだけのことが、妙に楽しかった。
「主様」
「何だ」
「笑ってます」
「……そうか」
「はい」
「なら、いい」
「はい」
◇◇◇
川沿いをしばらく歩いた。
人とは一度も会わなかった。
途中、小さな角を持つ兎のような魔物を見つけた。
『ホーンラビット。低危険度個体です』
「可愛いな」
「食べられますよ!」
「なぜすぐ食料として見る」
「生活担当メイドですので!」
ホーンラビットはしばらくこちらを見たあと、草むらへ逃げていった。
「狩らないんですか?」
「今日はいい」
「はい!」
さらに歩くと川幅が広くなり、大きな岩が幾つも並ぶ場所へ出た。
「少し休もう」
「はい!」
セリーが姿を戻す。
光と共に銀髪の姿が現れ、そのまま腰袋から包みを取り出した。
「弁当?」
「当然です!」
「いつ作ったんだ」
「主様が変貌の仮面を試している時です!」
「早いな」
「完璧メイドですから!」
「自分で言うのか」
「言います!」
包みを開く。
サンドイッチ。
果物。
小さく焼いた肉。
大した料理ではない。
だが、川の音を聞きながら食べると不思議なほど美味かった。
「外で食べるのも悪くないな」
「美味しいです?」
「ああ」
風が気持ちいい。
川の音も、食べ物も、何も特別ではない。
なのに今日は、その普通のものが全部特別に感じられた。
「主様」
「ん?」
「来てよかったですか?」
俺は一度手を止めた。
でも答えはすぐ出た。
「ああ」
自分でも驚くほど迷わない。
「来てよかった」
セリーが笑う。
「よかった」
その顔を見て、また胸の奥に懐かしい感覚が生まれた。
けれど今は聞かない。
「次は」
俺はサンドイッチを置き、川の先を見る。
「もう少し、人がいる場所も見てみたい」
口にしてから自分でも驚いた。
セリーも少し目を開く。
「でも、まだ王都は無理だ」
「はい」
「誰も俺を知らない町なら、行ってみたい」
「いいですね!」
セリーの顔が一気に明るくなる。
「市場とか!」
「ああ」
「屋台!」
「ああ」
「甘い物!」
「お前が食べたいだけではないか?」
「ばれました?」
「分かりやすすぎる」
笑った。
次の外出を考えている。
少し前まで、自分の未来には死しかないと思っていた。
今は、知らない町へ行くことを考えている。
「……不思議だな」
「何がです?」
「生きるというのは」
川面を眺めながら言う。
「一日ずつ積み重ねていくものなのかもしれない」
昨日、生きると決めた。
今日、外へ出た。
明日何をするかはまだ分からない。
それでいい。
◇◇◇
夕方、俺たちは塔へ戻ることにした。
転移扉を開く前、エルが確認する。
『この地点を登録しますか?』
俺は川辺を振り返った。
綺麗だった。
静かで、人もいない。
また来たい。
だが登録できる地点は四か所だけだ。
「……登録しない」
『承知しました』
「いいんですか?」
「ああ。また来たい場所ではある」
川を見る。
「でも、もっと色々見てから決めたい」
「はい!」
扉を潜る。
空気が変わる。
古の塔へ戻る。
不思議だった。
昨日までここは牢獄だった。
自分が死ぬまで閉じ込められる場所だった。
なのに外から戻ってくると、ほんの少しだけ違う感覚があった。
「ただいま」
自然と口から出た。
セリーの動きが止まる。
「……」
「どうした」
「いえ」
柔らかく笑う。
「おかえりなさいませ、主様」
胸が少し温かくなった。
「……ああ」
俺はもう一度言う。
「ただいま」
◇◇◇
その夜、夕食を終えたあと、俺は一人で露台へ出た。
セリーの言っていた通りだった。
夜の空は、信じられないほど星に満ちている。
王都にも星は見えた。
だが魔石灯の光が多く、これほど鮮明に見えることはなかった。
「……すごいな」
『はい』
エルの声も、いつもより静かに感じる。
「エル」
『はい』
「今日、楽しかった」
『それは何よりです』
「でも、少し罪悪感もある」
『何に対してですか』
「俺が、ここで楽しいと思っていることに」
星を見上げる。
「アンナマリーの傷は、まだ癒えていないはずだ。ブラットだって、俺に怒っているだろう。俺がしたことは何一つ消えていない。それなのに俺だけが自由を楽しんでいていいのかと思う」
エルはすぐには答えなかった。
『主様』
「何だ」
『罪を償うことと、苦しみ続けることは同義ではありません』
「……」
『少なくとも、セリーヌ様はそう考えておられました』
「セリーヌが?」
『はい』
「記録にあるのか?」
『思想記録の一部です』
「何と」
『「後悔は未来を変えるために使うもの。自分を壊すために使ってはいけない」』
息が止まる。
「……変な人なのに」
『はい』
「時々まともなことを言うな」
『本人が聞けば怒ると思われます』
もう本人はいない。
その事実だけが、少し胸を痛ませた。
一度も会ったことはない。
それでも少し寂しい。
「ありがとう」
俺は星を見上げたまま呟いた。
「セリーヌ」
返事はない。
当然だ。
代わりに夜風が吹き、頬を優しく撫でていった。
◇◇◇
同じ頃。
遠く離れた王都では、古の塔とは正反対の慌ただしさが王城を満たしていた。
大広間には数十名の貴族と高官が集められ、翌日に予定された新王太子の立太子に向け、最終確認が続けられている。
「こちらでございます」
官吏が書類を差し出す。
「レオンハルト殿下の立太子に関する各家への通知は、ほぼ完了しております」
「ほぼ?」
玉座へ座る国王ラゼル・ガイゼンが問い返した。
「辺境の一部を除きます。正式な使者の到着には数日を要しますが、魔導通信による速報は既に送付しております」
「うむ」
国王の少し横にはレオンハルトが立っていた。
黒に近い濃紺の礼装。
かつてアルフォンスが好んでいた色に似ているが、全く同じではない。
「父上」
レオンハルトが静かに口を開く。
「兄上の処分から、まだ日が浅すぎるのではありませんか」
広間が僅かに静まる。
何人かの貴族が互いの顔を見た。
「殿下」
宰相が慎重に答える。
「王太子位を長期間空席にすることは、国内だけでなく国外へも不安を与えます」
「分かっています」
レオンハルトは目を伏せた。
「ですが、兄上は……まだ生きています」
空気が少し動く。
誰かが小さく咳払いをした。
「古の塔へ送られたとはいえ、兄上はまだ――」
「レオンハルト」
国王の低い声がそれを止めた。
「王太子として必要なのは情ではない」
「……承知しております」
「ならば明日の儀、滞りなく務めよ」
「はい」
レオンハルトは深く頭を下げた。
そのため、誰にも表情は見えなかった。
ほんの一瞬。
その唇が僅かに動いたようにも見えた。
だが再び顔を上げた時には、そこにあるのは兄を思う弟としての痛ましげな表情だけだった。
「ランベル公爵家は?」
国王が尋ねる。
「出席予定です」
宰相が答える。
「アンナマリー嬢もか」
「はい」
一瞬だけ。
レオンハルトの目が動いた。
本当に僅かな変化だったため、気づいた者はいない。
「スラスター伯爵家は」
「ブラット殿も出席予定となっております」
「そうか」
国王は短く頷く。
準備は進んでいく。
あまりにも早く。
あまりにも滞りなく。
それでも誰も異議を唱えない。
王太子が必要だから。
国を安定させるため。
そう説明されれば、正しいことに聞こえる。
だから誰も聞かない。
なぜ、立太子の儀で使われる新しい王太子章が既に完成しているのか。
なぜ、レオンハルトの体格へ寸分違わず合わせられた新礼装が、仕立て直しすら必要とせず用意されているのか。
なぜ、一部の友好国から来た使者が、まるで立太子の日程を事前に知っていたかのように王都へ滞在しているのか。
偶然。
王宮の準備が早かっただけ。
必要だから急いだ。
そう思えば説明できる。
少なくとも表面上は。
大広間から少し離れた廊下では、若い使用人二人が小声で話していた。
「……早いよね」
「何が?」
「新しい殿下の準備」
「しっ」
一人が慌てて周囲を見る。
「そういうこと、言わない方がいいよ」
「でも……」
廊下の向こうから騎士の足音が近づく。
二人はすぐに口を閉じ、頭を下げた。
騎士が通り過ぎる。
再び静けさが戻っても、二人が会話を再開することはなかった。
王城には今、そんな沈黙が増えていた。
早すぎるのではないか。
準備が整いすぎているのではないか。
そう感じている者はいる。
けれど、誰もはっきりとは口にしない。
一方、その頃のアルフォンスは王都で何が起きているのか何も知らなかった。
古の塔の露台で星を見上げながら、明日は何をしようかと考えていた。
知らない町へ行くか。
もう少し魔導具を調べるか。
セリーヌの記録を読むか。
それとも、何もしないで過ごすか。
王太子だった頃には、一度も持つことのできなかった悩み。
誰かに与えられた予定ではなく、自分自身で選ぶための、ささやかで自由な悩みを。




