第3話 元王太子、初めて自分のために一日を使う
人生で初めて、朝から夜まで誰にも急かされず、誰にも命じられず、誰かの期待へ応える必要もなく、自分のやりたいことだけをしていい日が来た。
――そう気づいたのは、俺が地下の魔導具保管室の中央で立ち尽くし、百個あるという遺物を前にして、何から触ればいいのか分からないまま十分近く悩んだあとだった。
「……どうしたものか」
右を向けば、石壁一面に剣や槍、見たこともない形の武器が並んでいる。左側の硝子棚には指輪や腕輪、小箱、用途すら想像できない魔導具が整然と収められ、そのさらに奥には昨日エルから存在を教えられた転移扉が静かに佇んでいた。
どれも、王太子だった頃の俺なら迷わず国家管理を命じただろう。
国宝。
あるいは、それ以上。
一つ所有するだけで一国の軍事力や経済を揺るがしかねない物が、ここには何の警備もなく、まるで誰かの趣味で集めた工芸品のように並べられている。
「……百個か」
『正確には百個です』
「いや、分かっている」
右手首からエルの淡々とした声が返ってくる。
「改めて考えると、やはり多すぎると思っただけだ。国宝級どころか、下手をすれば一つで戦争の形まで変えられる物が百個だぞ」
『セリーヌ様は、数を作ることに関して躊躇のない方でした』
「それで済ませていい量ではないだろう」
『生前、試作品まで含めれば、この数十倍を製作されております』
俺は思わず腕輪を見下ろした。
「……数十倍?」
『はい』
「二千年前には、魔導具がその辺りを普通に歩いていたのか?」
『歩行機能を備えた魔導具も複数存在しました』
「例え話だ!」
思わず声を荒らげる。
すると、少し離れた棚の辺りから元気な声が飛んできた。
「主様ー! その例えでしたら、私が実際に歩いてますよー!」
「お前は少し黙っていてくれ」
「ひどい!」
声の方を見ると、セリーはなぜか床へ腹這いになり、棚の最下段と石床の隙間へ顔を突っ込んでいた。
「……何をしているんだ」
「お掃除です!」
「掃除?」
「はい!」
セリーは頬を床へつけたまま、こちらへ顔だけ向けてにっこり笑った。
「二千年分の埃を見つけようと思いまして!」
「この塔は自動浄化されているのではなかったか?」
『塔内の汚れは一定以上蓄積しません』
「ですよねー!」
「では何を探しているんだ!」
「ロマンです!」
「……ロマン?」
「二千年も閉ざされていた部屋ですよ? 棚の下には、きっと忘れられた秘宝とか、謎の古代遺物とか、何かすごい物が落ちている気がするじゃないですか!」
「この部屋にある物が、ほとんど全部その『忘れられた秘宝』だろう」
「あっ」
床へ伏せたまま、セリーがぴたりと動きを止めた。
数秒の沈黙。
「……それもそうですね」
「今気づいたのか」
「盲点でした!」
「どこがだ!」
朝から騒がしい。
本当に、この塔へ来る前に俺が想像していた幽閉生活とは何一つ一致していない。
本来ならここは、重罪を犯した王族が一人で生涯を終える場所なのだと教えられていた。誰とも会話せず、最低限の食事だけを与えられ、過去の罪を悔いながら孤独に死を待つ。
俺自身、昨日ここへ送られた直後は、そうなるのだと思っていた。
朝、一人で目を覚ます。
粗末な食事を食べる。
何もすることのない時間を、過去の後悔と共に過ごす。
夜になれば眠り、それを死ぬまで繰り返す。
そんな日々を覚悟していた。
「主様!」
「今度はなんだ」
「見つけました!」
セリーが勢いよく立ち上がり、何かを握った右手を高く掲げた。
「何を?」
「ボタンです!」
「……ボタン?」
「はい!」
差し出された掌の上に載っていたのは、小さな白い衣服用の留め具だった。
どう見ても、それ以上でも以下でもない。
「これは、もしかして秘宝では?」
「どう見てもただのボタンだろう」
『検索結果。一般的な衣服用ボタンです。特異な魔力反応はありません』
「エル!」
「即答だったな」
「もう少し夢を見ましょうよ!」
『事実を述べただけです』
セリーが不満そうに頬を膨らませる。
俺はそのやり取りを眺めながら、ふと、自分の口元が自然に緩んでいることへ気づいた。
ほんの少し。
それでも昨日までの俺なら、こんなくだらないことで笑う余裕などなかったかもしれない。
そして、俺より先にその変化へ気づいたのはセリーだった。
「……主様」
「何だ?」
「今、笑いました?」
反射的に口元へ手を当てる。
「そうか?」
「笑いました!」
「気のせいではないか?」
「いいえ、絶対に笑いました!」
セリーがずいっと顔を近づけてくる。
「近い」
「笑いましたよね?」
「だから近いと言っている!」
「では、もう一回!」
「何をだ!」
「笑ってください!」
「命令されて笑えるか!」
「でしたら、くすぐります?」
「やめろ!」
嫌な予感を覚えて一歩下がる。
セリーが両手の指をわきわきと動かしながら迫ってくる。
「ほーら、主様ぁ。笑顔は健康の第一歩ですよー」
「その指の動きが怖い!」
「大丈夫です。優しくします!」
「そういう問題ではない!」
『主様』
「エル、お前からも止めてくれ!」
『笑う行為には、精神的緊張を緩和する効果が期待できます』
「肯定するのか!」
「エルさん、分かってますね!」
『ただし、本人の意思に反する身体接触や強制的なくすぐりを推奨しているわけではありません』
「裏切られた!」
「最初からお前の味方ではないだろう!」
思わず言い返した瞬間、今度こそ我慢できなかった。
「……ふっ」
小さく声が漏れる。
それをきっかけに、喉の奥からもう一度笑いが込み上げた。
大声で笑うほどではない。
けれど、自分でもはっきり分かる程度には、確かに笑っていた。
その瞬間、セリーの動きが止まった。
さっきまで大騒ぎしていたのが嘘のように、両手を下ろして俺を見つめている。
「……何だ?」
「いえ」
セリーは少しだけ目を細めた。
「主様が笑っているので」
「笑ったら悪いか」
「いいえ」
返ってきた声は、先ほどまでの騒がしさとは違っていた。
「すごく、いいと思います」
その表情を見た瞬間。
胸の奥へ、説明のつかない感覚が生まれた。
懐かしい。
そんな言葉が頭をよぎる。
けれど、おかしい。
俺がセリーと出会ったのは昨日だ。彼女の人格の元になったというセリーヌにも会ったことはない。
それなのに時折、セリーが俺を見る目に、遠い昔から知っていた誰かのようなものを感じる。
「主様?」
「……いや」
俺は小さく首を振った。
「何でもない」
今考えても分からない。
分からないことなら、この塔へ来てからすでに十分すぎるほど増えている。
「それより、今日は魔導具を見るんだろう」
「はい!」
「全部は無理だとしても、できる範囲で知っておきたい」
『一日で百個すべてを詳細確認することは推奨しません』
「分かっている。昨日だけでも頭が限界だったからな」
「ですねー」
セリーが大きく頷く。
「昨日の主様、途中から目が死んでましたもん」
「誰のせいだと思っている」
「情報量?」
「主にお前だ」
「ええっ!?」
「本気で驚く理由が分からない」
それでも、こんな会話をしているだけで昨日より気分はずっと楽だった。
「エル。今日は生活に役立つものから見たい」
『承知しました』
「すぐ外へ出るつもりはない。この塔でしばらく暮らすなら、まず自分の生活を整えたい」
口にしてから、妙な気分になった。
生活を整える。
王太子だった頃には、一度も真剣に考えたことがなかった。
朝起きれば衣服が用意されていた。
食事も、湯浴みも、寝具も、必要な物は誰かが先に揃えてくれた。
俺は決められた時間に起き、決められた服を着て、決められた場所へ行けばよかった。
それが当たり前だった。
「……だから、何が必要なのか、実はよく分からない」
少し恥ずかしく思いながら言うと、セリーがぱちぱちと瞬いた。
「主様」
「何だ」
「正直で素晴らしいです!」
「褒められることなのか?」
「はい!」
彼女は堂々と胸を張る。
「知らないことを、知らないと言えるのは大事です。知ったふりをして変なことを始めると、大体ろくな結果になりませんから!」
「妙に実感がこもっているな」
「セリーヌ様がよくやってました!」
『頻繁に』
「……またか」
二千年前の天才魔導具師は、本当にかなり問題のある人物だったらしい。
「では、生活系を頼む」
『了解しました』
頭の中へ、保管室内の位置情報が簡単に流れ込んでくる。
『生活補助型魔導具は二十種類です』
「二十もあるのか」
『はい』
「昨日見つけた検索の腕輪と、セリーも含めて?」
『含めます』
「なら残り十八か。全部見よう」
そう言った直後、エルが一瞬だけ沈黙した。
『主様』
「何だ」
『昨日、一日のうちに過剰な情報を取得したことで、精神的疲労が見られました。本日は一つずつ確認し、定期的に休憩を取ることを推奨します』
少し意外だった。
「心配してくれているのか?」
『私は所有者の健康状態を考慮した提案を行っております』
「それを心配と言うのでは?」
『定義上は近似します』
どこか言い訳のように聞こえた。
「ふっ」
『何か?』
「いや。分かった。ゆっくり見よう」
『ありがとうございます』
「そうしましょう!」
横でセリーも大きく頷く。
「時間はたっぷりありますから!」
その言葉は、昨日俺自身が口にしたものだった。
時間はある。
急がなくていい。
王太子だった頃は、毎日が何かに追われていた。
起床。
朝食。
朝議。
王太子教育。
学園。
執務。
社交。
報告。
夕食。
そしてまた執務。
一日の中に、自分のためだけに使える時間などほとんどなかった。
今は。
「……そうだな」
小さく息を吐く。
「時間はある」
考え込んでもいい。
途中で止めてもいい。
疲れたら休んでもいい。
何もしない時間さえ、自分で選べる。
それは思っていた以上に奇妙で、そして少し嬉しいことだった。
◇◇◇
最初にエルが案内したのは、一見すると何の変哲もない小箱だった。
両腕で容易に抱えられるほどの木箱で、表面にも派手な装飾はない。蓋の中央に小さな銀色の紋様が刻まれている以外、王都の雑貨店で売られていてもおかしくない見た目だった。
「これは?」
『無限収納箱です』
「……名前からして嫌な予感しかしないな」
『内部容量は事実上無制限です』
「やはりか」
『生物以外であれば、内部空間へ収納可能です』
「生物は駄目なのか」
『はい』
「それは少し安心した」
「主様」
横を見ると、セリーがにやにやしていた。
「何だ」
「今、人を入れられるか考えました?」
「思っていない!」
「本当ですかー?」
「本当だ!」
『主様の脈拍および魔力流に顕著な変化はありません。虚偽発言である可能性は低いと判定します』
「エル!」
「何を判定しているんだ!」
額を押さえながら、強引に話を戻す。
「それで、無限収納と言ったな」
『はい。また内部では時間経過がほぼ停止します』
「……何?」
『食品を保存した場合、腐敗は進行しません』
俺は改めて小箱を見た。
「それは、とんでもないぞ」
『はい』
「戦争で使えば」
『兵站上の問題の大部分を解決可能です』
「だろうな」
食料。
水。
武器。
薬。
補修材。
必要な物を大量に運べ、しかも食品は腐らない。
それだけで軍隊の行動可能範囲が大きく変わる。
「これも現代では?」
『同等品の存在は確認できません。再現困難と推定します』
そんな物が、本当にただ棚へ置かれている。
「セリーヌは、何を考えてこんなものを作ったんだ」
思わず呟く。
『保存食を作りすぎたためです』
「……は?」
『セリーヌ様は、一度に大量の料理を作る癖がありました』
「待て」
『余った食品を捨てることを嫌い、長期保存方法を検討した結果、こちらを開発されました』
「待て待て」
俺は小箱と腕輪を交互に見る。
「国家の兵站を根本から変えられるような魔導具を」
『はい』
「余った料理を保存するために?」
『はい』
しばし沈黙する。
「……天才というのは、理解できないものなのだな」
「主様」
「何だ」
セリーはどこか懐かしそうに微笑んでいた。
「セリーヌ様はですね、『困った』と思ったら、とりあえず何か作る人だったんです」
「困ったら?」
「はい。料理が余ったら作る。寒かったら作る。歩くのが面倒なら作る。朝起きたくなかったら、起こしてくれる魔導具を作る」
「……最後のものも残っているのか?」
『現在も保管されています』
「あるのか!」
「ちなみに起こし方、ものすごく激しいですよ!」
「見なくていい」
『私も使用を推奨しません』
「そこは推奨しないのか」
本当に油断ならない。
◇◇◇
二つ目は、自動調理鍋だった。
大きさは一般家庭で使う鍋と大差ない。指定された材料を入れ、料理名を口にすると、登録済みの調理工程を自動で行うらしい。
「これがあれば、料理人はいらなくなるのでは?」
「そこは違います!」
セリーが即座に食いついた。
「料理は愛情です!」
「魔導人形が言うのか」
「心があります!」
「そうだったな」
「それに、この鍋で作れるのは登録済みの料理だけなんです!」
『正確には、保存された調理工程および味覚情報を再現します』
「なるほど」
「ですから!」
セリーが得意げに胸を張った。
「私の料理の方が美味しいです!」
「そこが言いたかったのか」
「はい!」
「正直だな」
「長所です!」
ここまで堂々と言われると、逆に感心する。
三つ目は洗浄布。
触れた物の汚れを分解し、布そのものも汚れない。
四つ目は温度調整の指輪。
装着者の周囲だけ、一定範囲を快適な気温へ保つ。
五つ目は水生成瓶。
周囲の空気から水分を集め、飲用可能な水へ浄化する。
「魔力を使わないのか?」
『はい。周囲の湿度を利用しています』
「では乾燥地帯では?」
『生成量が大幅に低下します』
「万能ではないのだな」
『はい』
少し安心した。
何でも無制限というわけではない。
それでも十分すぎる性能だが。
六つ目は清潔の首飾り。
身につけている者の汗や臭い、身体表面の汚れを自動的に除去するという。
「これがあれば、湯浴みをしなくても衛生上は問題ないのか?」
『可能です』
「なら――」
「却下です!」
セリーが突然叫んだ。
「何がだ」
「お風呂は入ってください!」
「なぜ」
「気持ちいいからです!」
「それだけか」
「ものすごく大事です!」
本人は至って真剣だった。
「主様、いいですか!」
両肩をがしっと掴まれる。
「近い」
「お風呂は身体を清潔にするだけのものではありません!」
「だから近い」
「心と身体をほぐす時間なんです!」
「分かったから離れろ!」
「本当に分かりました?」
「入る! 毎日入る!」
「本当に!?」
「分かったと言っている!」
ようやく解放された。
『セリーは入浴習慣へ強いこだわりを持っています』
「見れば分かる」
「エルさん、余計です!」
その後も、自動修繕針、眠りの枕、健康診断鏡、音声記録石と順番に説明を受けた。
ただし、エルとの約束どおり一気には進めない。
幾つか確認するたびに休憩を挟み、椅子へ座って水を飲む。
昼前にはセリーが勝手に茶と小さな菓子まで用意していた。
「どこから持ってきた?」
「昨日の荷物の中に入ってました!」
「菓子などあったか?」
「主様の荷物の一番奥にありましたよ」
「……誰が入れたんだ」
「王宮のどなたかでは?」
そこで言葉が止まった。
皿の上にある焼き菓子。
甘さは控えめ。
少し硬い。
紅茶によく合う。
王城で、俺が時々好んで食べていたものだった。
誰が入れたのだろう。
母上か。
侍従か。
近くに仕えていた使用人か。
分からない。
昨日の処分の速さを考えれば、誰かが俺の好みを思い出してわざわざ用意したのだと考えるのは都合がよすぎるかもしれない。
それでも。
少なくとも一人くらいは。
俺が塔へ送られると知った時、何か好きなものを持たせようと思ってくれたのではないか。
そう考えたかった。
「主様」
「……ん?」
「食べないんですか?」
「ああ。いや、食べる」
菓子を一つ取る。
口へ運ぶ。
懐かしい味がした。
「美味しいですか?」
「……ああ」
セリーはそれ以上何も聞かなかった。
ただ黙って、俺の手が届きやすい位置へ紅茶のカップを少し近づけた。
その仕草が、妙に優しかった。
◇◇◇
午後になり、俺は一度地下の保管室から上の居室へ戻った。
魔導具を見続けるのも楽しかったが、少しだけ違うものを見たくなったのだ。
「外を眺めたい」
「窓、開けます?」
「危険はないのか?」
『塔の防護結界内部です。外部魔物の侵入は困難です』
「なら開けよう」
大きな窓をゆっくり押し開く。
すぐに、王城では嗅いだことのない濃い空気が室内へ流れ込んできた。
湿った土の匂い。
草。
苔。
木々。
遠くで鳥が鳴き、そのさらに奥から低い魔物の咆哮が響く。
本来なら恐怖を感じてもおかしくない場所だ。
けれど、今は塔の結界に守られていることが分かっている。そのせいか、危険な森の音さえ不思議と心地よかった。
「……広いな」
見渡す限り、森だった。
王都のように家もない。
整えられた街路もない。
城壁もない。
ただ木々が好き勝手な方向へ枝を伸ばし、巨木の隙間を鳥が飛び、時折遠くで大きな魔物の影が動いている。
「王城では、窓から見えるものまで決まっていた」
何となく、言葉が口から出た。
庭園。
貴族街。
王都の建物。
城壁。
すべてが整えられていた。
「綺麗ではあったんだ」
それは本当だ。
王城から見る王都は美しかった。
けれど、目の前の森は美しいという言葉だけでは足りない。
乱れている。
勝手だ。
木の高さもばらばらで、枝も誰かに剪定されることなく好きな方向へ伸びている。
生きているものが、それぞれ自分の形で存在している。
「……自由だな」
「森がですか?」
セリーが俺の横へ並んだ。
「ああ」
「そうですね」
「危険だが」
「はい」
「それでも……少し羨ましい」
口にした途端、少し恥ずかしくなった。
森を羨むなど、おかしな話だ。
だがセリーは笑わなかった。
「主様も」
「ん?」
「これからですよ」
「何がだ」
「伸びるの」
俺は横目で彼女を見る。
「木ではないぞ」
「分かってます!」
セリーは笑いながら森へ視線を戻す。
窓から入った風が、銀色の髪を柔らかく揺らした。
「好きな方向へ、好きなように伸びてもいいんじゃないですか?」
その言葉を聞いた瞬間。
また。
どこかで昔、同じようなことを言われた気がした。
誰に。
いつ。
分からない。
記憶を探ろうとして、途中でやめた。
「そうだな」
今は、それでいい。
◇◇◇
夕方。
窓の外が少しずつ赤く染まり始めた頃、俺たちは再び地下の魔導具保管室へ戻った。
「あと一つだけ見たい」
『本日は十種類を確認済みです』
「なら十一個目まで」
「区切りが悪くないですか?」
セリーが首を傾げる。
「十で終わる方が綺麗ですよ!」
「気になる物がある」
「どれです?」
俺は棚の奥にある、小さな銀色の板を指さした。
「あれ」
『記録板です』
「記録?」
『文字、映像、音声などを長期間保存する魔導具です』
「どのくらい保存できる?」
『保管環境が適切であれば、数千年単位での保存が可能です』
俺は銀板へ近づいた。
「何か残っているのか」
『現在の所有者権限で閲覧可能な記録が存在します』
「俺が見てもいい?」
『可能です』
少し迷ったあと、板へ触れる。
淡い光が銀色の表面へ広がった。
やがて、そこへ文字が浮かび上がる。
『生活記録 一』
「生活記録?」
『はい』
「誰の?」
『セリーヌ様です』
胸が、僅かに動いた。
セリーヌ。
二千年前にこの魔導具を作った人物。
俺がここへ来ることを知り、百個もの魔導具と手紙を残した女性。
「……見たい」
『再生します』
淡い光が揺れる。
映像ではなかった。
手書きに近い文字が、ゆっくり銀板へ浮かび上がる。
『今日は朝から雨。
パンを焼こうと思ったけれど、焦がした。
味は悪くなかったと思う。
たぶん。
あの子なら笑って食べただろうか。
……また、あの子のことを書いてしまった。
もう、何年経ったのだろう。
忘れたいわけではない。
でも、思い出すと、まだ胸が痛い。』
読み終えたあと、しばらく動けなかった。
「あの子……」
隣のセリーは黙っている。
「子供が、いたのか?」
返事がない。
エルも、すぐには答えなかった。
「エル」
『はい』
「セリーヌには子供がいた?」
僅かな間があった。
『いました』
「……そうか」
次の質問を口にする前に、一瞬迷う。
二千年前の人間だ。
今生きているかどうかを尋ねる意味はない。
だから言葉を選び直した。
「セリーヌより先に、その子は……?」
『はい』
短い答えだった。
「亡くなったのか」
『はい』
室内へ静けさが広がった。
遠くで風が森を揺らしている。
ここからは見えないが、夕暮れの鳥の声も僅かに聞こえた。
「そうか」
俺は記録板を見る。
『あの子なら笑って食べただろうか』
ただそれだけの一文。
顔も知らない。
名前も知らない。
二千年前に生き、二千年前に死んだ子供。
俺とは何の関係もないはずなのに。
胸の奥が、妙にざわついた。
「……なぜだ」
小さく漏れた。
「どうして、こんなに気になる」
理由は分からない。
俺はセリーを見る。
彼女も銀板を見つめていた。
いつもの笑顔はない。
「セリー」
「はい」
「覚えているのか?」
「何をです?」
「その子供のことだ」
セリーは、ゆっくり首を振った。
「私はセリーヌ様の全記憶を持っているわけではありません」
「……そうだったな」
「はい」
それで終わるかと思った。
だがセリーは、自分の胸元へそっと手を置いた。
「でも、時々あるんです」
「何が」
少し困ったような笑みを浮かべる。
「知らないはずのことなのに、胸が痛くなる時が」
俺は何も言えなかった。
「変ですよね。私は魔導人形なのに」
「……いや」
「え?」
「感情があるなら」
俺は再び記録板へ視線を戻した。
「何かを見て胸が痛むことだって、あるんじゃないか」
セリーがこちらを見る。
少し長い沈黙だった。
「主様」
「何だ」
「優しいですね」
「……俺が?」
「はい」
「そんなことはない」
ほとんど反射的に否定した。
頭に浮かぶのは、アンナマリーの顔だった。
「俺は人を傷つけた」
「はい」
「……そこは否定しないんだな」
「否定するところではありませんから」
「そうだな」
苦笑する。
でも、とセリーは続けた。
「人を傷つけたことがある人間は、その先ずっと優しくなれないんですか?」
すぐには答えられなかった。
「私は、そうは思いません」
彼女は穏やかに言った。
室内に沈黙が落ちる。
俺はもう一度銀板へ目を向けた。
「今日は……ここまでにしよう」
『了解しました』
「この記録はまた見られる?」
『いつでも閲覧可能です』
「そうか」
「主様」
「何だ」
「夕食にしましょう」
「もうそんな時間か」
地下には窓がない。
言われて初めて、上へ戻ればもう夕方なのだと気づく。
「今日は何だ?」
「秘密です!」
「嫌な予感しかしない」
「大丈夫です!」
「昨日も聞いた気がするぞ」
「今日は特別ですから!」
セリーは胸を張った。
「主様の自由記念日特別メニューです!」
「自由記念日?」
「はい!」
「勝手に記念日を作るな」
「だって」
そこで彼女の声が少しだけ柔らかくなる。
「今日は、主様が初めて一日を自分のためだけに使った日でしょう?」
俺は立ち止まった。
朝。
何をするか。
自分で決めた。
魔導具を見たい。
疲れたから休みたい。
外を眺めたい。
記録を読みたい。
全部、自分で決めた。
誰かの命令ではない。
国のためでもない。
王太子として当然だからでもない。
「……そうだな」
「だから記念日です!」
「毎年やるつもりか?」
「もちろんです!」
「俺は忘れそうだぞ」
「私が覚えてます!」
『記録しました』
「エルまで……」
「これでもう忘れませんね!」
俺は少しだけ笑った。
「……好きにしろ」
「やったー!」
セリーの歓声が、古い石造りの部屋へ響き渡った。
二千年前。
一人の女性が何を思い、何を失い、何を願いながら、これほど多くの魔導具を残したのか。
俺はまだ何も知らない。
なぜ彼女が、会ったこともない俺へこれほど優しいのか。
なぜ俺が、彼女の残した言葉や記録にこれほど心を揺らされるのか。
それも、まだ分からない。
ただ。
今日。
俺は生まれて初めて、自分のためだけに一日を使った。
朝起きてから夕方まで、誰にも急かされず、自分が知りたいものを知り、疲れれば休み、外を見たくなれば窓を開けた。
それだけのことだった。
けれど、昨日まですべて終わったと思っていた人生が、ほんの少しだけ先へ続いているように感じられた。
だから今は、それでいい。
焦らなくてもいい。
明日も生きる。
その次の日も。
できれば、そのまた次の日も。
そうやって一日ずつ、自分の人生を取り戻していけばいい。
その先で何が待っているのかは、まだ分からない。
けれど、この時。
遠く離れた王都では、新たな王太子となるレオンハルトの立太子の儀へ向け、招待状がすでに各貴族家へ配られ始めていた。
王太子交代が正式に決まってから、まだほとんど時間は経っていない。
それにもかかわらず、宛名も、文面も、王家の印も、必要な書類も、驚くほど滞りなく整えられていた。
まるで。
ずっと前から。
レオンハルト・ガイゼンという名が。
次の王太子として書かれる日を。
誰かが待っていたかのように。




