第2話 元王太子、死を待つのをやめる
「限界だと言っているだろうがああああああああっ!」
俺の叫び声が、二千年近い静寂を守ってきたはずの古の塔、その地下深くに隠されていた魔導具保管室いっぱいへ響き渡った。石造りの壁へぶつかった声は何度も反響し、少し遅れて別方向から返ってくる。
限界だ、という自分の声が三度ほど繰り返されて聞こえたせいで、まるで部屋そのものから「本当に限界なのだな」と念を押されているような気分になった。
俺は肩で大きく息をしながら、しばらく何も言えずに天井を見上げた。
本当に、限界だった。
今日だけで――いや、地下へ来てから時間を確認していないので、もしかすると日付はもう変わっているかもしれない。正確には昨日から今日にかけて、と言うべきなのだろうが、今はそんな細かいことまで考える余裕がなかった。
とにかく、俺の人生はあまりにも急激に変わりすぎた。
学園の卒業舞踏会でアンナマリーとの婚約破棄を宣言し、レイチェル・パニア男爵令嬢が行っていた不正と犯罪が暴かれた。同時に、自分が長期間にわたって精神干渉を受けていた可能性を知らされ、それまで歪められていた感情や記憶が一気に戻った。
アンナマリーがどれほど俺を支えてくれていたのか。ブラットが何度も忠告してくれていたのか。それを自分がどれほど無残に踏みにじったのか。
そのすべてを理解した直後、父上から王太子位と王位継承権を剥奪され、詳しい事情聴取も身体の検査もないまま、その日のうちに古の塔へ幽閉された。
それだけでも一生分の出来事を詰め込まれた気分だったというのに、塔へ来れば来たで、二千年前の王族を名乗るセリーヌという女性から俺宛ての手紙が残されていた。
彼女は、俺がここへ来ることを知っていた。
そのうえ、百個もの魔導具を俺へ譲ると書いていた。
外へ自由に出られる転移扉まで用意していた。
そして最後に――。
「じゃんじゃじゃーん!」
俺の思考を読んだかのような最悪のタイミングで、目の前の銀髪の女性が再び両手を腰へ当てた。
黒と白を基調とした見慣れない給仕服の裾が、彼女の動きに合わせてふわりと揺れる。青い瞳を輝かせたセリーは、なぜか片足を斜め前へ突き出し、先ほどとほとんど同じ姿勢を取った。
「完全無欠の美少女メイド、セリーちゃん! 改めまして、よろしくお願いしまーす!」
「やり直さなくていい!」
「ええっ!?」
セリーは大袈裟に目を見開き、両手で口元を覆った。
「では、最初の登場が主様のお気に召さなかったということでしょうか!?」
「そこではない!」
「ポーズですか!?」
「そこでもない!」
「声量!?」
「むしろ下げろ!」
「でしたら次は、もっとしっとりした雰囲気で――」
「もういいと言っている!」
とうとう額へ手を当てた。
頭が痛い。
先ほど塔の荷重術式と魔力吸収術式によって魔力を奪われていた時とは、明らかに別の種類の痛みだった。今なら自信を持って言える。これは精神的な疲労だ。
『主様』
「今度は何だ、エル」
右手首へ嵌めた銀色の腕輪から、抑揚の少ない落ち着いた女性の声が響いた。
『セリーは生活補助型魔導人形として、極めて高い性能を有しております。食事、掃除、洗濯、衣類管理、健康管理、護衛、簡易治療、夜間警戒など、生活に必要となるほぼすべての補助行動が可能です』
「性能が高いことは分かった」
『さらに、長期間単独生活を送る所有者の精神状態を安定させるため、会話による心理的負担の軽減も設計目的へ含まれております』
「今のところ、むしろ精神的負担が増えている気がするのだが」
「主様ぁ!」
セリーが胸元へ両手を当て、ひどく傷ついたような顔をした。
ただし、泣いてはいない。
目に涙は一滴もない。
明らかに作っている表情だった。
「そんなことを言われたら、私、悲しくて夜しか眠れません!」
「十分だろう」
「さらに、ご飯も一日三食しか喉を通らなくなってしまいます!」
「健康そのものではないか!」
「お風呂だって、一日一回しか入れなくなるかも!」
「普通だ!」
「あっ、主様は朝晩二回派でしたか? でしたら私、お背中を――」
「そういう話をしているのではない!」
また声を張り上げてしまった。
いけない。
落ち着こう。
いくら何でも、完全自律型魔導人形を相手に一晩中叫び続けるのはどうかしている。
俺は元王太子だ。
……いや、元王太子だから何だという話でもあるのだが、少なくとも昨日の朝までの俺なら、自分がこんな相手と全力で言い合っている未来など想像もしなかっただろう。
長く息を吐く。
その様子を見たセリーは、ようやく俺が本当に疲れていることへ気づいたらしい。先ほどまでの大袈裟な身振りを止め、青い瞳を少し細めた。
「……主様」
「何だ」
「今日は、本当に大変な一日だったんですね」
声の調子が変わっていた。
妙に明るくもなく、ふざけてもいない。先ほどまでの騒がしさが嘘のように消え、静かで柔らかな声が広い部屋へ落ちる。
思わず俺は彼女を見た。
銀色の髪に縁取られた顔。
青い瞳。
人間ではないはずなのに、その目には不思議なほど温かなものがあった。
「……知っているのか」
「はい」
セリーは小さく頷いた。
「私の内部には、この塔と、主様についての情報が一部だけ登録されています」
「一部?」
「はい。全部ではありません」
「なぜだ」
「セリーヌ様が、そうお決めになったからです」
その名前を口にした時だけ、セリーの表情がほんの僅かに変わった。
懐かしさ。
あるいは、寂しさ。
そう見えたのは、俺の気のせいかもしれない。
「私は、セリーヌ様の人格を基礎として作られています」
「人格を……?」
『正確には、思考傾向、感情反応、口調、価値観、判断基準などを参照し、構築された高度疑似人格です』
エルが淡々と補足する。
俺は改めてセリーを見る。
「では、お前は……セリーヌ本人なのか?」
その問いへ、セリーはすぐに答えなかった。
ほんの少し視線を落とし、何かを考えるような間を置く。
やがて顔を上げると、彼女は静かに笑った。
「いいえ。私は、セリーヌ様ではありません」
その微笑みを見た瞬間、理由も分からないまま胸の奥が僅かにざわついた。
「私は、あの方の人格を元に作られた魔導人形です。考え方や話し方が似ている部分はあります。でも、セリーヌ様が生きた人生そのものを、私がすべて持っているわけではありません」
「人格を写しているのに?」
「人格と記憶は、同じものではありませんから」
あまりにも自然な言い方だった。
俺は一瞬、目の前にいる相手が魔導人形であることを忘れそうになった。
「ですから、セリーヌ様がどうして主様へこれほど多くの物を残されたのか、その理由を私がすべて説明することはできません。私にも知らされていないことがたくさんあります」
「……そうか」
「はい」
その答えに失望したかと聞かれれば、少しだけした。
二千年前の女性がなぜ俺の未来を知り、なぜこれほどの遺産を残したのか。セリーなら何か知っているのではないかと期待したのだ。
しかし、今すぐ答えが得られないことにも、少しずつ慣れてきていた。
「ただ、一つだけ分かっていることがあります」
「何だ?」
セリーは真っ直ぐ俺を見る。
「セリーヌ様は、主様に生きてほしかった」
今度こそ、部屋へ本当の静寂が戻った。
俺は無意識に上着の内側へ手を入れた。そこには、先ほど何度も読み返した手紙が入っている。
薄い紙の感触。
そこに書かれていた文章。
『どうか、今日だけは死なないでください』
『明日も、できればその次の日も』
顔も知らない。
声も聞いたことがない。
二千年も前に生きていたという、見ず知らずの女性。
そんな相手が、俺へ生きてほしいと書いた。
なぜなのか。
やはり分からない。
「……変な人だな」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
セリーが一度目を瞬く。
「セリーヌ様がですか?」
「ああ」
「ふふっ」
彼女は口元を隠すこともなく、楽しそうに笑った。
「それは否定できませんね」
「否定しないのか」
「だって、変な人でしたもの」
『同意します』
「エルまでか」
『事実でございます』
その返答が妙に可笑しくて、俺はほんの少し笑った。
本当に僅かなものだった。
だが、その程度の笑いでも、胸へずっと重く乗っていた石が少しだけずれたような感覚があった。
「主様」
「何だ」
「今日はもう休みましょう」
「ああ」
「私がお食事をご用意します」
「食材はあるのか?」
「上のお部屋へ送られてきた荷物の中に、保存食と簡単な食材があります。この塔の中にあるものなら、私はある程度把握できますので」
「便利だな」
「でしょう?」
先ほどまでの静かな空気はどこへ行ったのか。
セリーはすぐに得意げな顔へ戻り、胸を張った。
「家事万能、健康管理も完璧、寝床準備もばっちり! ご希望でしたら湯浴みのお背中まで愛情たっぷりに――」
「そこから先は一人でできる」
「えー」
「えー、ではない」
「主様、照れ屋さんですね」
「違う」
「でも私、メイドですよ?」
「魔導人形だろう」
「心は乙女です!」
「知らん!」
また声を上げた。
けれど、先ほどとは違っていた。
この騒がしさを、少しだけ嫌ではないと思っている自分がいた。
◇◇◇
結論から言えば、セリーの仕事ぶりは完璧だった。
本当に、仕事だけを見れば。
「主様ぁ、こちらの衣類は寝室の棚へまとめてよろしいですか? それとも私の部屋へ置いて、毎朝その日の気分に合わせて私が選びます? 今日は情熱の赤、明日は恋する桃色、その次は二人の未来を祝う純白――」
「普通に寝室へ入れてくれ」
「ちぇっ」
この余計な言動を除けば、だ。
俺と共に王城から送られてきた荷物は、驚くほど短い時間ですべて整理された。
衣類は種類と用途ごとに棚へ収められ、本は本棚へ並べ直された。食料は保存期間と使用頻度で分けられ、調理器具も今後使いやすい位置へ配置される。
浴室には温かな湯が張られた。
夕食も、俺が荷物を確認している間に用意された。
元々送られてきた食材は、大したものではない。
保存肉。
硬いパン。
乾燥させた豆。
幾つかの根菜。
罪人へ送る物資として考えれば、それでも十分なのかもしれない。
しかし、食卓へ並んだ料理を見れば、材料がそれだけだったとは思えなかった。
保存肉と根菜を柔らかく煮込んだ料理。
豆を丁寧に潰した温かなスープ。
硬かったパンも表面を軽く焼き直され、中は少し柔らかくなっている。
「どうですか?」
向かいに立ったセリーが、期待を隠そうともせずこちらを見ている。
俺は匙を手に取り、まずスープを一口飲んだ。
温かい。
ただ、それだけのことだった。
それなのに、不意に喉の奥が詰まった。
「……主様?」
セリーの声が少しだけ低くなる。
俺は返事をせず、もう一口飲んだ。
珍しい料理ではない。
王宮にいた頃なら、わざわざ名前さえ覚えなかったかもしれないような豆のスープだ。
だが、酷く懐かしいような気がした。
王城にいた頃、食事はいつも豪華だった。
銀器。
何種類もの料理。
専属料理人。
季節ごとに選ばれる上質な食材。
他国から来賓が訪れれば、目にも美しい料理が卓上を埋め尽くした。
けれど、家族全員で食卓を囲んだ記憶がどれほどあるかと考えると、すぐには思い出せない。
父上は政務。
母上は社交。
レオンハルトも学業や公務。
そして俺には王太子教育があった。
温かい料理はいつでも用意された。
だが。
あれは、温かい食卓だったのだろうか。
今になって考えても、よく分からなかった。
「……美味い」
そう言うと、セリーの顔が一気に明るくなった。
「本当ですか!?」
「ああ」
「そうでしょう、そうでしょう! このセリーちゃん、料理も超一流ですからね! まずは胃袋から主様を完全掌握し、その次は心を――」
「後半は聞かなかったことにする」
「まだ始まったばかりなのに!?」
「何が始まるんだ」
「二人の愛の共同生活です!」
「始まらない」
「ええっ!?」
「お前は魔導人形だろう」
「種族差別反対です!」
「そういう問題ではない!」
また、声を上げた。
だが、今度は本当に少しだけ、この騒がしさが心地よかった。
食事を終え、湯浴みを済ませる。
身体を洗っている間、何度か扉の外から「お背中流しましょうかー?」という声がしたが、すべて無視した。
寝室へ戻ると、セリーが整え直した寝台が待っていた。
二千年近く誰も使っていないはずなのに、布地は柔らかく、古びた匂いもない。塔へ施された保存と浄化の術式が今も機能しているのだろう。
「それでは主様」
寝室の扉の前で、セリーが綺麗な礼をする。
「何かございましたら、いつでもお呼びください」
「ああ」
「夜這いも可です」
「不可だ」
「即答!?」
「寝る」
「はーい。おやすみなさいませ、主様」
「……おやすみ」
扉が閉じた。
急に静かになる。
寝台へ横になり、暗い天井を見つめた。
これだけ疲れているのだから、目を閉じればすぐに眠れると思っていた。
身体も疲れている。
頭も。
心も。
だが、瞼を閉じた途端、卒業舞踏会の光景が浮かんだ。
アンナマリー。
ブラット。
父上。
レオンハルト。
会場を埋め尽くしていた人々の冷たい視線。
『古の塔へ幽閉するものとする』
すぐに目を開けた。
暗い天井。
今度はレイチェルの顔が浮かぶ。
泣きながら俺へ縋っていた顔。
衛兵に連れていかれまいと俺の名を叫んでいた顔。
そして。
魔力封じの手枷が両手へ嵌められた瞬間。
あの時のレイチェルは、ほんの一瞬だけ。
怯えたのではなく。
驚いたような顔をしていた。
「……なぜだ」
小さく呟く。
なぜ今になって、そんな細かな表情を思い出したのだろう。
答えは出ない。
俺は何度か寝返りを打ち、考えることに疲れた頃、ようやく眠りへ落ちた。
◇◇◇
「主様、主様ぁー」
遠くから声が聞こえる。
「朝ですよぉー」
まだ眠い。
「朝食ですよぉー」
誰だ。
いや。
考えなくても一人しかいない。
「今起きれば、私が優しくあーんしてさしあげますよぉー?」
無視する。
「起きないなら、添い寝しちゃいますよぉー?」
無視だ。
「さらにその先をご希望でしたら――」
「うるさいっ!」
反射的に身体を起こした。
直後。
鼻先へ銀色の髪が触れそうになる。
「おはようございます、主様!」
「近い!」
本当に目の前だった。
セリーの顔が、鼻と鼻が触れそうなほどの距離にある。
「朝の挨拶は、近い方が愛情が伝わります!」
「どこの文化だ!」
「セリーちゃん文化です!」
「今すぐ廃れろ!」
「ひどい!」
セリーが胸元を押さえながら大袈裟に後ろへよろめいた。
朝から疲れる。
寝台を降りる前に窓へ目を向けた。
柔らかな朝日が室内へ差し込んでいる。
その向こうに広がるのは、王都では絶対に見ることのできない深い緑だった。
古の塔は、禁断の森の中心にある。
窓の外には、人の手が入っていない巨大な木々が延々と続いていた。その遥か向こうを、何か大きな鳥のような影が横切る。
翼を広げれば、小さな家ほどありそうだった。
「あれは……」
『グレートワイバーンです』
右手首のエルが答える。
「グレートワイバーン?」
『危険度上級。通常の討伐であれば、熟練冒険者十名以上による編成を推奨します』
「……あれが普通に飛んでいるのか」
『はい』
「やはり、徒歩で塔の外へ出るのは現実的ではないな」
『推奨しません』
「ですよねー」
なぜかセリーが得意げに会話へ入ってきた。
「主様一人なら、たぶん塔から百歩くらいで死にますよ!」
「嬉しそうに言うな」
「でも大丈夫です!」
セリーは胸を張り、親指を立てる。
「私がいますから!」
「お前は戦えるのか?」
「もちろんです!」
『セリーは単独で上級魔物複数体と同時戦闘が可能です』
俺はゆっくりとセリーを見る。
昨日からずっと、騒がしくて、余計なことばかり口にしてくる妙なメイドだと思っていた。
「……強いのか?」
「美少女ですから!」
「答えになっていない」
「強くて可愛くて家事もできる。完璧ですね!」
「自分で言うのか」
「事実です!」
『否定はいたしません』
「エルまで……」
朝から何度目か分からないため息を吐く。
「とりあえず、朝食にしよう」
「はーい!」
寝台から足を下ろす。
その瞬間。
昨日とは明らかに違うことへ気づく。
身体が軽い。
魔力吸収も。
全身を押し潰すような荷重も。
本当に完全に消えている。
何でもないことのように立ち上がり、普通に一歩を踏み出せる。
ただそれだけのことが、妙に嬉しかった。
◇◇◇
朝食は、昨夜の煮込みを少し作り直したものと焼いたパン、それから卵料理だった。
そしてセリー曰く。
「朝から元気もりもり! 主様活力マシマシセットでーす!」
らしい。
「普通の朝食にしか見えないが」
「名前は大事なんですよ!」
「そういうものか」
「そういうものです!」
『セリーが独自に命名しただけです』
「エルさん、余計なこと言わないでください!」
俺は思わず笑った。
今度は昨日より少し自然に。
その時だった。
部屋の中央。
昨日、俺が王城から転移してきた魔法陣が淡く光り始める。
「……何だ?」
反射的に立ち上がった。
同時に、セリーの表情から笑みが消えた。
ほんの一瞬前までふざけていた人物とは思えないほど自然に俺の前へ半歩出る。
『王城側からの転送反応を確認しました』
エルの声にも緊張が混じる。
「人か?」
『現在の術式出力では、物資のみと推定します』
魔法陣の光が少しずつ強くなる。
俺は食卓から距離を取り、何が現れても対応できるよう身構えた。
やがて光が収束する。
そこへ残された物を見た瞬間。
息が止まった。
二つ。
一通の封書。
そして。
小さな銀杯。
「……これは」
見間違えるはずがなかった。
王族として育てられた者なら。
銀の杯。
封書。
その中へ注がれた透明な液体。
それらが同時に送られてきた意味を知っている。
「毒杯……」
声が、自分でも驚くほど小さくなった。
朝食の温かな匂いが残っているはずなのに、室内の空気が一瞬で冷えたように感じられた。
セリーは何も言わない。
俺はゆっくり転移陣へ近づいた。
銀杯の隣。
封書の表には、父上の筆跡で短く書かれている。
『アルフォンスへ』
指先が僅かに震えた。
「主様」
「大丈夫だ」
反射的に答える。
だが、自分の声があまりにも硬かった。
「主様、無理に――」
「大丈夫だ」
もう一度。
今度はセリーではなく、自分自身へ言い聞かせるように答えた。
封書を手に取る。
開く。
中の便箋を広げた。
『アルフォンスへ。
これが最後の手紙となる。
昨日の件を受け、お前に代わり、第二王子レオンハルトを新たな王太子として立てることが正式に決定した。
明日には立太子の儀に関する準備が開始される。
また、王家よりランベル公爵令嬢をはじめとした今回の事件の被害者たちへ、謝罪および慰謝料の支払いを行うこととなった。
その費用の一部には、お前の個人資産を充てる。
これについては異論を認めない。
さらに、ランベル公爵家を筆頭に、多くの貴族家から、お前へのより厳しい処罰を求める声が上がっている。
古の塔への幽閉だけでは生温い。
王族であったとしても、正式に処刑するべきだという意見も少なくない。
レオンハルトが各家との調整にあたっているが、完全に抑えることは困難であろう。
お前も精神干渉を受けた被害者ではある。
だが、王太子という立場にありながら、そのような術にかかり、多くの者を傷つけ、国政へ影響を及ぼした責任を免れることはできない。
私は国王として、お前を庇うことはできない。
古の塔へ送ったことを説明したところ、一部の貴族たちから、今後一切の物資提供を停止し、毒杯を送るべきだとの強い要求が出た。
ゆえに、彼らの前で、この毒杯を転送する。
これはお前に今すぐ死ねと命じるものではない。
どうしても苦しくなったとき。
耐えられなくなったとき。
これを使いなさい。
一人の父親として、息子をこのような場所へ送らねばならなかったことを悔いている。
お前を守ることができなかった、不出来な父を許してほしい。
お前を愛していた。
ラゼル・ガイゼン』
最後まで読んだ。
それなのに。
何も言葉が出なかった。
便箋を持ったまま、俺は動けなかった。
窓の外では、遠くから何かの鳴き声が聞こえている。
鳥か。
魔物か。
分からない。
風が塔の外壁を撫でる低い音も聞こえた。
室内には朝食の匂いが残っている。
つい先ほどまで、セリーの声を煩いと思いながら食事をしていた。
部屋そのものは温かい。
なのに。
身体の中だけが、ゆっくり冷えていく。
「……そうか」
どうにか出た言葉は、それだけだった。
「レオンハルトが……王太子に」
弟。
俺より三歳年下の第二王子。
昔から優秀だった。
剣も、学問も、社交も。
物事を要領よくこなすことに関しては、俺より上だったかもしれない。
それでもレオンハルトが、王太子である俺を妬むような素振りを見せたことは一度もない。
『兄上は、この国の未来です』
幼い頃。
弟は笑ってそう言った。
『僕は兄上を支えます』
その言葉が嬉しかった。
王になった後も、弟と共にこの国を守れるのだと思っていた。
その弟が。
俺が塔へ送られた翌日には。
次の王太子。
「当然だ」
自分へ言い聞かせるように口にした。
「王太子がいなくなったのだから、次を立てるのは当然だ」
国家には後継者が必要だ。
政治的空白を長く作るべきではない。
王太子として育てられた俺には、その判断が合理的であることくらい理解できる。
なのに。
なぜ、こんなにも早すぎると感じるのだろう。
「主様」
セリーが呼ぶ。
俺は返事をしなかった。
もう一度、手紙へ目を落とす。
被害者への慰謝料。
俺の個人資産。
厳罰を求める貴族。
レオンハルトが各家との調整を行っている。
今後の物資提供停止。
毒杯。
そして。
『お前を愛していた』
そこで視線が止まった。
「……いた」
「え?」
セリーが聞き返す。
「愛して……いた」
過去形。
そんな細かな言葉へ引っ掛かる自分が、酷くひねくれているようにも思えた。
父上は国王だ。
息子より国を優先しなければならない時もある。
そんなことは、誰より理解しているつもりだった。
王太子として育てられてきたのだから。
だが。
「エル」
『はい』
「この毒は何だ」
『検索します』
僅かな間。
『即効性の猛毒です。摂取後、およそ十秒から二十秒で意識を失い、一分以内に心停止へ至ります。使用量から判断して確実な致死量です。苦痛は比較的少ない種類と判定します』
「……そうか」
苦しまない毒。
優しい毒。
父上なりの最後の慈悲。
そう考えればいいのだろう。
なのに。
心が納得しなかった。
「昨日、俺は誰かを殺したか?」
呟いた俺へ、セリーは答えない。
「いや……違うな。そういうことではない」
すぐに自分で首を振った。
レイチェルへ溺れた。
王太子としての責務を疎かにした。
高価な贈り物もした。
国庫へ影響を与えた。
アンナマリーを傷つけた。
ブラットの忠告を退けた。
多くの人間へ迷惑をかけた。
罪がないなどとは思わない。
王太子という立場にあった以上、一般の人間より責任が重いことも理解している。
だが。
「死刑……」
自分の口から出した言葉が、ひどく遠く聞こえた。
俺は誰も殺していない。
反乱も起こしていない。
国家機密を他国へ売ったわけでもない。
国を売り渡そうとしたわけでもない。
何より。
精神干渉を受けていた。
それは俺だけが主張していることではない。
昨日、ブラットが証拠を示した。
その状態だった俺に。
裁判もない。
詳しい調査もない。
弁明を聞かれることもない。
精神状態の検査すら満足に行われていない。
その日のうちに古の塔へ幽閉され。
翌朝。
毒杯。
「……おかしい」
小さな言葉が、無意識に漏れた。
口にしてから、自分自身が一番驚いた。
「主様」
「……おかしくないか?」
俺はセリーを見る。
けれど、彼女はすぐに「おかしい」と同意しなかった。
ただ、真剣な顔で俺を見返す。
「俺がおかしいのか?」
手紙を握る指へ力が入る。
「自分が被害者だから、都合よく考えたくなっているだけなのか?」
「主様」
「俺はアンナマリーを傷つけた。酷い言葉を浴びせた」
「はい」
セリーは否定しなかった。
そのことが、むしろありがたかった。
「王太子の責務も疎かにした」
「はい」
「なら――」
「ですが」
静かな声が俺の言葉を止めた。
セリーは真っ直ぐこちらを見る。
「主様が悪かったことと、適切な手続きを経ず、その罪以上の罰を受けることは別の問題です」
俺は何も言えなかった。
「主様自身が向き合わなければならないことはあります。傷つけた方がいるなら、その事実をなかったことにはできません」
「……ああ」
「でも」
セリーは銀杯へ視線を移す。
「だからといって、誰かが主様へ何をしても許されるわけではありません」
沈黙のあと、エルの声が続いた。
『同意します』
「エル……」
『法的観点から分析した場合、主様への処分には複数の不自然な点が存在します。ただし、私が保有する法制度情報はセリーヌ様の時代を基準としており、現代王国法との完全な比較はできません』
「それでも?」
『精神干渉を受けていた可能性が公衆の面前で証拠と共に提示されたにもかかわらず、詳細調査を行わず即日処分。王太子位および王位継承権の剥奪後、同日中に外部から隔離された古の塔へ移送されています』
エルはいつもの平坦な声のまま、一つずつ事実を並べる。
『加えて翌朝には、本人が自ら生命を終えることを可能とする毒物が送付されました。理由の妥当性を除外しても、処分決定から実行までの速度は極めて速いと判断します』
「速い……」
その通りだ。
速すぎる。
昨日。
俺が婚約破棄を宣言した。
ブラットが証拠を提示した。
レイチェルたちが拘束された。
父上が会場へ現れた。
その場で。
俺の処分を宣言した。
その日のうちに古の塔へ移送。
荷物まで。
綺麗に用意されていた。
「……荷物」
俺は顔を上げた。
「昨日、俺が古の塔へ送られると決まってから、実際に転送されるまで何時間あった?」
『記録上、約三時間です』
「三時間……」
その間に。
衣類。
本。
日用品。
保存食。
生活に必要となる最低限の品。
それらすべてが、あれほど整然と揃えられていた。
「王宮なら、できるか」
思わず自分で否定材料を探す。
「使用人は多い。命令さえ下れば、三時間でも……できないことはない」
できる。
はずだ。
だが。
一度違和感を覚えてしまうと、昨日まで気にならなかった細かなことまで浮かんできた。
父上は。
昨日。
精神干渉を受けていた俺へ。
一度も「大丈夫か」と聞かなかった。
身体へ異常は残っていないか。
記憶はどうか。
頭痛は。
吐き気は。
恐怖は。
一度も尋ねられなかった。
国王だから。
公の場だったから。
私情を挟めなかったから。
そう考えていた。
しかし、この手紙はどうだ。
最後の手紙。
父親から息子へ送られたという、最後の言葉。
ここにも。
俺の身体を気遣う言葉はない。
代わりにあるのは。
『苦しくなったら、これを使いなさい』
毒杯。
『お前を愛していた』
過去形。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
「主様?」
「いや」
片手で顔を覆う。
「俺は……何を期待していたんだろうな」
父上は。
俺を愛していると思っていた。
厳しい人だった。
王太子として失敗することを許さなかった。
幼い頃から、弟より何倍も厳しい教育を受けた。
それもすべて。
期待されているからだと思っていた。
未来の王だから。
国を背負う者だから。
愛情を表へ出さないだけなのだと。
信じていた。
「なあ」
誰へ聞くでもなく、言葉が漏れる。
「もし……」
声が少し震えた。
「本当に、自分の息子へ生きていてほしいなら」
喉が上手く動かない。
「毒杯を送るのか?」
政治的な理由があったとしても。
貴族の前で送らなければならなかったとしても。
それなら手紙へ書けるのではないか。
『絶対に飲むな』
と。
あるいは。
『生きろ』
と。
たった一言でも。
だが父上は。
そう書かなかった。
『どうしても苦しくなったとき』
『耐えられなくなったとき』
『これを使いなさい』
胸の奥で、何かが静かに冷えていく。
悲しい。
はずだった。
怒る。
べきなのかもしれない。
けれど。
それとも少し違った。
何年も。
いや。
幼い頃からずっと張り続けていた糸が。
ふっと切れたような。
そんな感覚だった。
「……もう」
自分の声が、やけに静かだった。
「いいか」
「主様?」
「もう……いいよな」
俺は父上の手紙を丁寧に畳んだ。
破らない。
燃やさない。
感情のまま壊すこともしない。
ただ、銀杯の横へ置いた。
「俺は、もう王太子ではない」
昨日。
すべて剥奪された。
王太子位。
継承権。
権限。
「国のためだけに生き続ける必要も、もうない」
生まれた時から、そう教えられてきた。
『お前は国のために生きるのだ』
『王族とはそういうものだ』
『民のために己を捧げよ』
自分の人生を。
自分自身のために使う。
そんな発想は、一度も持ったことがない。
持とうとすら思わなかった。
でも。
もう。
俺は王太子ではない。
王家は俺を塔へ送った。
婚約者も。
友人も。
弟も。
王宮も。
昨日まで俺の人生を形作っていたものは、今やすべて遠い。
「なら」
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
「自由にしても……いいのか」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
怖い。
同時に。
ほんの少し胸が高鳴った。
自由。
王太子だった頃は、憧れることさえ許されないと思っていた言葉。
「主様」
セリーが、静かに笑った。
今度の笑顔には、ふざけた色がなかった。
「いいんですよ」
たった一言だった。
それなのに、胸の奥が熱くなる。
「……いいのか」
「はい」
「俺は罪人だぞ」
「主様が悪かったことまで、私が勝手になかったことにはできません」
セリーはそこだけは曖昧にしなかった。
「でも、これからどう生きるかまで、誰かへ決めてもらわなくてもいいでしょう?」
「父上は……罪人だと決めた」
「では」
セリーは僅かに首を傾げる。
「主様自身は、自分の人生をこれから先もずっと、誰かの言葉だけで決めるんですか?」
息を呑んだ。
セリーヌの手紙。
『貴方の人生を代わりに決めたいわけではありません』
『全部、貴方が選んでいいのです』
「俺が……決める」
「はい」
「自分で」
「はい」
セリーが柔らかく頷いた。
俺は銀杯を見る。
朝日を反射する銀色。
透明な毒。
死。
あれを飲めば、全部終わる。
責任も。
後悔も。
孤独も。
父上への疑問も。
アンナマリーを傷つけた記憶も。
全部。
だが。
毒杯の隣には。
二千年前の女性から届いた手紙がある。
『どうか、今日だけは死なないでください』
俺は銀杯を手に取った。
「主様!」
セリーが反射的に一歩踏み出す。
「大丈夫だ」
俺は杯を持ったまま、台所へ向かった。
流し台の前に立つ。
銀杯を傾ける。
透明な液体が細い筋となり、器から流れ落ちていく。
最後の一滴まで。
俺は目を逸らさなかった。
「飲まない」
誰に聞かせるでもなく。
自分自身へ言う。
「俺は……死なない」
胸の奥が震えた。
まだ「絶対に」とまでは言えない。
この先、何が起こるかも分からない。
「少なくとも、自分で納得できるまでは」
それでも。
今の俺には十分だった。
「生きる」
その言葉を。
人生で初めて。
自分自身のために口にした。
セリーは何も言わなかった。
ただ静かに俺を見ていた。
その青い瞳が、少し潤んでいるように見える。
「……お前」
「はい?」
「泣いているのか」
「まさか!」
途端に、セリーが慌てていつもの調子へ戻った。
「完全無欠の美少女メイドたるもの、主様の前で涙など――」
言いながら、袖で目元をごしごし擦っている。
「泣いているではないか」
「これは結露です!」
「人形が結露するのか」
「高性能なので!」
「意味が分からん」
『セリーの感情反応に伴う涙腺機構の作動です』
「エル!」
セリーが右手首の腕輪へ向かって叫ぶ。
「エルさん、今は空気を読んでください!」
『事実確認へ回答したのみです』
「もう!」
そのやり取りを見て。
俺は笑った。
今度は。
昨日よりはっきりと。
自分でも分かるくらいに。
◇◇◇
朝食を食べ終えた後。
俺は再び地下の魔導具保管室へ来ていた。
昨日とは、気持ちが少し違っていた。
百個の魔導具。
二千年前の遺産。
最初に見つけた時は、驚きと困惑しかなかった。
王太子としての癖も残っていて、これほど強大な物を個人が所有していてよいのかという考えまで浮かんだ。
だが今は。
純粋に。
使ってみたい。
知りたい。
そう思っている。
「エル」
『はい』
「昨日、部屋の奥に転移扉があると言っていたな」
『ございます』
俺は魔導具が並ぶ棚の間から、部屋の最奥へ視線を向ける。
昨日は他の品々に気を取られ、詳しく見る余裕がなかった。
そこには、黒い枠に囲われた一枚の扉があった。
壁へ直接嵌め込まれているように見える。
「開ければ、外へ行けるのか」
『現在は転移先が一か所も登録されておりません。そのため初回使用時のみ、設定された安全条件を満たす場所へランダム転移します』
「ランダム?」
『はい。ただし完全な無作為ではありません』
「条件を聞こう」
『第一に、人間、亜人、および一定以上の知性を有する生命体から視認されていない場所』
「うむ」
『第二に、転移直後、主様へ重大な生命危機が発生しない場所』
「それは助かる」
『第三に、地上であること』
「地中へ飛ばされては困るからな」
『第四に、水中ではないこと』
「当然だ」
『そして最後に、主様がその時点で比較的安全に帰還可能な場所であることです』
「帰還?」
『転移扉は双方向です。移動先にも一時的に扉が形成され、主様および許可された者は塔へ帰還できます。第三者からは原則として認識されません』
「つまり、外へ出ても好きな時に戻れる」
『はい』
「その場所を登録するかどうかは?」
『初回転移直後、主様が選択できます。登録しなければ、その場所は転移先枠を消費しません』
「なるほど」
登録できる場所は四つ。
一度登録すれば、その場所自体が完全に消滅しない限り変更できない。
「慎重に選ぶ必要があるな」
『推奨します』
「主様!」
横からセリーが元気よく手を上げた。
「何だ」
「初めての外出なら、私も同行します!」
「お前は塔の外へ出られるのか?」
「もちろんです!」
『可能です。また、セリーは必要に応じて姿および魔力反応を隠蔽できます』
「姿を消せる?」
「透明セリーちゃんです!」
「その名称はどうにかならないのか」
「でしたら、ステルス美少女メイド?」
「さらに嫌だ」
「えー」
「普通に隠蔽でいい」
「主様は夢がありませんねぇ」
セリーの不満を聞き流しながら、俺は再び黒い扉を見た。
外。
昨日の俺は。
一生、二度と外へ出られないと思っていた。
古の塔への終身幽閉。
死ぬまでここで暮らす。
そう覚悟した。
なのに今。
目の前には。
外へ続く扉がある。
自由へ繋がる扉が。
俺はゆっくり手を伸ばした。
取っ手へ触れる寸前。
指が止まる。
「……今日は、やめておこう」
「え?」
セリーが意外そうな顔をした。
「外へ行かないんですか?」
「ああ」
「どうしてです?」
「怖いからだ」
自分でも驚くほど素直に、その言葉が出た。
セリーの目が少し大きくなる。
「昨日までの俺なら、怖いということ自体を認めなかったかもしれないな」
王太子だから。
弱音を吐いてはいけない。
怖がってはいけない。
迷ってはいけない。
常に正しく。
強く。
堂々としていなければならない。
そう思って生きてきた。
「でも、今は違う」
黒い扉を見つめる。
「今日はまだ、外へ出るのが怖い」
外へ出れば、王国の人間へ遭遇するかもしれない。
昨日まで王太子だった自分を知る者へ会うかもしれない。
顔を見られれば。
名前を知られれば。
過去を思い出すかもしれない。
それ以前に。
俺自身の心が、まだ昨日へ追いついていない。
「だから今日は、ここを調べる」
俺は百個の魔導具が並ぶ部屋を見回した。
「はい」
「明日も」
「はい」
「もしかしたら、その次の日も」
セリーヌの手紙の言葉が浮かぶ。
今日だけは。
明日も。
できれば。
その次の日も。
「少しずつでいい」
自分へ言い聞かせる。
もう急ぐ必要はない。
王太子として埋め尽くされた予定表もない。
朝から夜まで続く政務も。
謁見も。
学習も。
山のような報告書も。
ない。
「時間はあるんだから」
言ってみて。
その言葉が、こんなにも嬉しいものなのだと初めて知った。
セリーがにこりと笑う。
「では!」
その声を聞いた瞬間。
また嫌な予感がした。
「今日は主様と一日中、二人きりですね!」
「エルもいる」
「エルさんは腕輪です!」
『聞こえております』
「じゃあ三人で!」
「なぜそんなに楽しそうなんだ」
「主様との新婚生活二日目ですから!」
「いつ結婚した!」
「心の中で!」
「無効だ!」
「そんなぁ!」
また賑やかな声が古の塔へ響く。
二千年間。
誰もいなかった場所。
重罪人が一人で死を待つための場所だと、そう伝えられてきた塔。
でも。
俺はもう。
死を待つつもりはない。
誰かが決めた「罪人としての人生」を、ただ何も考えず受け入れるつもりもなくなった。
まだ真実は分からない。
俺がしたことも。
償わなければならないことも。
きっとたくさんある。
父上のことも。
レオンハルトのことも。
アンナマリーのことも。
ブラットのことも。
少し思い出すだけで胸が痛む。
それでも。
俺は生きる。
今日。
そう自分で決めた。
人生で初めて。
国のためでも。
王家のためでも。
誰かから期待された役割を果たすためでもない。
自分自身のために。
「エル」
『はい』
「この部屋にある魔導具を、順番に全部教えてくれ」
『百種類ございます』
「ああ」
『詳細説明まで含めた場合、数日を要する可能性があります』
「構わない」
俺は魔導具の並ぶ棚を眺めながら、小さく笑った。
「もう、誰にも急かされないからな」
一瞬だけ、エルが黙った。
『……承知しました』
その声が、いつもよりほんの少しだけ柔らかく聞こえた。
「では!」
セリーが勢いよく右手を上げる。
「まずは、このセリーちゃんに搭載された隠された百八の機能からご説明を!」
「お前は後だ」
「ええええっ!?」
「いや、待て。百八もあるのか?」
「ありますよ!」
「増やすな!」
「私が増やしたわけじゃありません!」
「聞いてしまった俺が悪かった!」
「主様ひどーい!」
俺の声。
セリーの抗議。
エルの冷静な補足。
昨日までなら想像もできなかった音が、朝の古の塔へ響いていく。
俺はまだ知らなかった。
この同じ頃。
遠く離れた王都では。
第二王子レオンハルトを新たな王太子へ据えるための準備が、驚くほどの速さで進められていたことを。
式典用の礼装。
王太子宮の使用人配置。
公文書の書式変更。
王位継承に関する各貴族家への通知。
そして。
俺が昨日まで使っていた執務室を、新しい主へ引き渡すための整理。
俺がまだ古の塔で、自分が生きるか死ぬかをようやく自分の意思で選び直したばかりだというのに。
王都では。
まるで俺という存在が最初から消える日を知っていたかのように。
あまりにも多くの準備が。
既に整えられていた。




