第1話 元王太子、古の塔で美少女メイドを起動する
俺は、いったい何を見せられているのだろうか。
「アンナマリー。君を、生涯愛し続けることを誓う」
「ブラット様……私も、貴方を愛することを誓います。これからは二人で、幸せになりましょう」
互いの名を呼び合ったアンナマリーとブラットは、堪えきれなくなったように歩み寄り、そのまま強く抱き締め合った。まるで長いあいだ引き裂かれていた恋人たちが、幾つもの苦難を越えてようやく互いのもとへ辿り着いたかのようだった。
二人を見守っていた人々の間から、感動を押し殺すような吐息が漏れる。目元を押さえてすすり泣く令嬢もいれば、胸の前で両手を組み、祈るような表情を浮かべる夫人もいた。ブラットと親しかったらしい若い令息たちは、友の勇気を称えるように何度もうなずき、中には人目を憚らず涙を拭っている者までいる。
やがて、会場のどこかから小さな拍手が聞こえた。
最初は遠慮がちだったその音に、すぐ別の誰かが続く。一つ、また一つと重なった拍手は瞬く間に広がり、数百人を収容する学園の大舞踏会場を揺らすほどの喝采へ変わっていった。
高い天井から吊り下げられた幾つもの魔石灯が、色鮮やかな正装に身を包んだ人々を煌びやかに照らしている。楽団はいつの間にか演奏を止めていたが、その必要などなかった。二人へ注がれる惜しみない祝福は、どんな楽曲よりも大きく華やかで、今の俺には残酷なほど鮮明に聞こえていた。
その祝福の中心にいる女性は、つい先ほどまで俺の婚約者だった。
アンナマリー・ランベル公爵令嬢。幼い頃から俺の隣へ立ち、いずれ王妃となる未来を当然のものとして受け入れ、そのために血の滲むような教育を重ねてきた女性だ。
柔らかな金色の髪と、新緑を思わせる澄んだ緑の瞳。どれほど厳しい場面でも背筋を曲げず、幼い頃から公爵令嬢として、そして未来の王太子妃として振る舞い続けてきた。
そんな彼女が今は頬を涙で濡らし、俺ではない男の胸へ顔を埋めている。
彼女を抱き締めているのは、ブラット・スラスター伯爵子息だった。王太子だった俺を長く支えてきた側近であり、幼い頃から共に学び、ときには王族と臣下という立場を越えて私的な相談さえしてきた友人でもある。
卒業後も共に国を支えるのだと、俺は疑ったことさえなかった。
その二人を包む温かな空気から切り離されたように、俺だけが少し離れた場所へ立っていた。
先ほどブラットに殴られた左頬は、まだじんじんと熱を持っている。口の中には微かな鉄の味が残り、裂けた唇の端へ舌が触れるたび、鋭い痛みが走った。
けれど、そんなものはどうでもよかった。
肉体の痛みよりも、周囲から向けられている視線の方が、今の俺にははるかに鋭かったからだ。
卒業生や在校生、その家族。学園関係者だけでなく、王宮から招かれた高官や国内各地の貴族、さらには友好国から訪れていた来賓までいる。数百人もの人々が大きな輪を作るように俺たちを囲み、アンナマリーとブラットへ祝福を送りながら、その外側に立つ俺へは冷たい嫌悪を向けていた。
汚らわしいものを見る目。愚か者を嘲る目。怒りを堪え、今にも何か言いたそうな目。俺と視線が重なった途端、露骨に顔を背けた者さえ一人や二人ではなかった。
当然なのだろう。
彼らから見れば、今の俺は長年支えてくれた婚約者を一方的に捨て、身分の低い男爵令嬢へ溺れた愚かな王太子だ。無実の婚約者へ濡れ衣を着せ、大勢が集まる卒業舞踏会で罪人として断罪しようとした卑劣な男であり、一人の女へ心を奪われた挙げ句、国の利益さえ危うくした無能でもある。
少なくとも、今日この場で俺がしてきたことだけを見れば、その認識を間違いだとは言えなかった。
ほんの少し前まで、俺はレイチェル・パニア男爵令嬢の肩を抱き、人生で最も幸福な瞬間を迎えたのだと本気で思い込んでいた。
華奢な身体を震わせながら俺へ身を寄せ、潤んだ瞳で見上げてくるレイチェル。その姿を見るたび胸が締めつけられ、彼女を苦しめるすべてのものから守らなければならないという激しい衝動に駆られた。
『アルフォンス様。アンナマリー様が怖いのです』
『私が男爵令嬢だから、身の程をわきまえろと……』
『貴方を惑わせる卑しい女だと、皆様の前で笑われました』
『どうか、私を信じてください』
何度も告げられた言葉を、俺は一片の疑いも抱かず信じた。それどころか、彼女を疑う者の方が間違っているのだと決めつけ、忠告してくる相手へ腹を立てるようになっていた。
アンナマリーが何を言っても聞こうとしなかった。
ブラットが彼女を庇えば、自分への裏切りだと思った。
教師や側近たちが集めた報告書にさえ目を通そうとせず、ランベル公爵家が権力を使って作らせた虚偽の証拠に違いないと決めつけた。
そして今日、卒業を祝う舞踏会の最中にアンナマリーを呼び止め、大勢の前で婚約破棄を宣言した。
レイチェルの教本を隠した。階段から突き落とそうとした。制服を汚させた。食事へ毒を盛ろうとした。身分を笠に着て彼女を嘲り、ありもしない噂まで広めた。
俺はそれらを一つずつ、まるで揺るぎない事実であるかのように読み上げた。アンナマリーへ弁明の機会を与えるつもりすらなく、彼女を罪人として裁き、自分こそが正しいのだと会場中へ示そうとしたのだ。
それを聞いていたアンナマリーは、ほとんど何も言わなかった。
ただ、長いあいだ静かに俺を見ていた。
あのときの彼女がどのような顔をしていたのか、今なら分かる。
怒っていたわけではない。
悲しんでいた。深く傷つき、何度も何度も踏みにじられた末に、恐らく俺へ期待することそのものを諦めていた。
それでも俺は気づかなかった。いや、気づこうとさえしなかったのだ。
罪状を読み終えたとき、俺は拍手喝采が起こるものだと思っていた。卑劣な公爵令嬢から可憐で心優しい男爵令嬢を救い出した王子として、人々から称えられるのだと本気で信じていた。
だが、待っていたのは祝福ではなかった。
ブラットの拳だった。
何が起きたのか理解するより早く頬を打ち抜かれ、身体が大きく傾いた。床へ倒れかけた俺の耳へ、怒りと悲痛さの入り混じったブラットの声が叩きつけられた。
『目を覚ませ、アルフォンス!』
目を覚ませ。
その言葉の意味すら、最初の俺には理解できなかった。
ブラットは怒りを押し殺しながら、俺が読み上げた罪状を一つずつ否定していった。アンナマリーがその時刻に別の場所へいたことを示す記録、教師や使用人たちの証言、魔術によって保存された映像、そしてレイチェル自身が侍女へ送っていた指示書まで、既に幾つもの証拠が揃えられていた。
さらに、パニア男爵家が複数の商人を経由して違法な精神干渉薬を入手していた記録や、国庫から不自然に流出した金品まで提示された。俺が愛情の証としてレイチェルへ贈ったつもりだった宝石の幾つかは、とっくに国外へ売却されていたことまで明らかになった。
それほどの証拠を目の前へ並べられても、俺の頭はすぐには事実を受け入れなかった。
レイチェルは泣き叫んだ。自分は何もしていない、すべてアンナマリーに嵌められたのだ、ブラットもランベル公爵家に買収されたに違いない、自分だけがアルフォンスを本当に愛しているのだと何度も繰り返した。
俺も最初は彼女を守ろうとした。
衛兵の前へ立ち塞がり、レイチェルには指一本触れさせないと怒鳴った。目の前へ積み上がっていく証拠よりも、涙を流しながら俺へ縋る彼女の声だけを信じようとしていた。
変化が起きたのは、衛兵によってレイチェルの両手へ魔力封じの手枷が嵌められた瞬間だった。
「ぐっ……!」
頭の奥で何かが砕けた。
硝子が一斉に割れたような鋭い感覚と、固く閉ざされていた扉を内側から蹴破られたような衝撃が同時に走る。見えない鈍器で頭を殴りつけられたかのような痛みに視界が揺れ、俺はその場へ膝をつきかけた。
そして次の瞬間、世界が変わった。
いや、違う。
変わったのではない。ようやく戻ったのだ。
目の前で泣き叫ぶレイチェルを見ても、それまで俺の胸を満たしていた激しい愛情がどこにもなかった。
少し前までなら、彼女が涙を流しただけで心臓を掴まれたように苦しくなった。微笑みかけられれば世界のすべてを得たような幸福を感じ、指先が触れただけで、彼女のためなら命さえ差し出せると本気で思っていた。
それが、何もない。
必死に俺の名を呼び続けるレイチェルを見ても、胸は冷え切っていた。
代わりに込み上げてきたのは、どうしようもない嫌悪と混乱、そして背筋が凍るほどの恐怖だった。
なぜ俺は、この女をあれほど愛していたのだ。
どうして彼女の言葉だけを、一度も疑わなかった。
そして何より、幼い頃から隣で支えてくれていたアンナマリーを、なぜあれほど激しく憎むことができたのか。
「うっ……!」
再び頭へ激痛が走り、大量の記憶が濁流のように押し寄せてきた。
学園へ入学して間もない頃、中庭で偶然を装うようにぶつかってきたレイチェル。何度も謝罪しながら俺の袖へ触れた細い指と、その後に差し出された手巾から漂っていた微かな甘い香り。
二人きりで初めて茶を飲んだ日のことも思い出した。口へ含んだ瞬間だけ感じた、妙な苦み。その頃から少しずつ、まるで別人へ変わるように俺の感情は歪んでいった。
アンナマリーから声をかけられるだけで苛立ち、ブラットが彼女を庇えば裏切られたと感じた。父上からの命令でさえ、レイチェルの望みと食い違うというだけで疎ましく思うようになっていた。
そして、その記憶と同時に、俺自身がアンナマリーへ浴びせた言葉も鮮明に蘇った。
『君の顔を見ると気分が悪くなる』
『王太子妃の座にしがみつくためなら、何でもするのだな』
『レイチェルに近づくな』
『俺は君を愛したことなど一度もない』
呼吸が浅くなり、胸の奥を冷たい手で掻き回されているような吐き気が込み上げた。
違う。
愛していた。
俺は、アンナマリーを愛していた。
幼い頃、王族としての礼儀作法を上手くこなせず教師から厳しく叱られた日のことを覚えている。惨めな気持ちで庭の片隅へ座り込んでいた俺の隣へ、アンナマリーは何も言わず腰を下ろしてくれた。
剣術訓練で腕を痛めたときには、誰よりも早く薬を用意してくれた。王太子としての重圧に耐え切れず、夜の庭園で人知れず泣いていた俺を見つけたときも、理由を問い詰めたり、無理に慰めたりはしなかった。
『今夜は星が綺麗ですわね』
彼女はただそう言って、俺が自分から立ち上がれるまで隣へいてくれた。
愛していた。
間違いなく、俺は彼女を愛していたのだ。
それなのに俺自身が、その記憶も、積み重ねた時間も、彼女が向けてくれていた信頼さえ踏みにじった。
「私は……何ということを……」
声が震え、視界が滲んだ。
それでも、泣く資格などないと思った。
精神へ干渉されていた可能性は高い。それは既にブラットも口にしており、違法な薬が存在していた証拠まで出ている。
だからといって、俺がアンナマリーへ吐いた言葉が消えるわけではない。俺の命令によって傷ついた者たちの苦しみがなかったことになるわけでもなく、責任そのものまで消えてなくなるはずがなかった。
そんな俺の前で、今はアンナマリーとブラットが抱き合っている。
胸の奥が鈍く痛んだ。
だが、それを嫉妬と呼ぶことさえ、今の俺には許されないように思えた。
彼女の隣へ立つ権利を踏みにじったのは俺自身だ。二人が互いを想い、これから共に歩くことを選んだのなら、俺にそれを止める資格などない。
いや、止めてはならない。
会場を満たしていた拍手が、ようやく収まり始める。
アンナマリーがブラットの胸からゆっくり顔を上げた。涙に濡れた緑の瞳がこちらへ向き、ほんの一瞬だけ俺と重なった。
何かを言いたかった。
謝りたかった。
許してほしいとは言わない。ただ、自分が間違っていたことだけでも伝えたかった。君を愛していたことさえ忘れ、取り返しのつかない傷を負わせたのだと認めたかった。
けれど、喉は動かなかった。
今ここで口にする謝罪は、結局のところ俺自身が少しでも楽になるためのものではないのか。その疑念が一度浮かぶと、声にすることができなかった。
アンナマリーも何も言わなかった。
少しだけ俺を見たあと、静かに目を伏せる。
その仕草だけで、俺たちの間にあったものが、もう以前と同じ形へ戻ることはないのだと理解した。
「王太子アルフォンス」
重く低い声が舞踏会場へ響いた。
ざわめいていた人々が一斉に口を閉じ、左右へ道を開けていく。その向こうから、濃紺の礼装へ身を包んだ父上――ガイゼン王国国王、ロベルト・ガイゼンが歩いてきた。
銀糸の刺繍が施された礼装は式典用のものだ。王冠こそ身につけていなかったが、背筋を伸ばして歩く姿には、この国の頂点に立つ者としての揺るぎない威厳があった。
父上の少し後ろには、第二王子レオンハルトがいる。俺より三歳年下で、普段は誰に対しても穏やかに接し、兄である俺を慕っていると周囲から思われている弟だ。
レオンハルトは痛ましげに眉を寄せていた。俺と一瞬目が合うと何か言いたそうに唇が動いたが、父上より先に言葉を発することはせず、そのまま目を伏せた。
「アルフォンス」
父上が俺の前へ立つ。
「此度、お前が起こしたことの重大さは理解しておるか」
俺は未だ疼く頭を片手で押さえながら跪いた。磨き上げられた石床の冷たさが衣服越しに膝へ伝わり、少し遅れて、自分が本当に裁かれる側へ回ったのだという実感が湧いてくる。
「……はい」
どうにか声を絞り出すと、父上は厳しい表情を崩さなかった。
「お前は王太子という立場にありながら精神へ干渉する術の影響を受け、正しい判断力を失った。その結果、将来の王妃となるはずだったランベル公爵令嬢を不当に傷つけ、周囲の忠告を退け、パニア男爵家による国庫への不正にも気づかぬまま、国へ大きな損害を与えかねない状況を招いた」
「申し訳……ございません」
「謝罪だけで済ませられる問題ではない」
「承知しております」
会場は水を打ったように静まり返っていた。誰も声を上げず、僅かな衣擦れの音さえ異様なほど大きく聞こえる。
俺は床へ視線を落としたまま、ゆっくり息を吸った。
「いかなる処分も、受ける所存です」
口にした瞬間、胸の奥へ冷たい恐怖が生まれた。
処刑。
その二文字が、どうしても頭をよぎる。
王太子でありながら国政へ混乱を持ち込み、国庫の不正まで見逃していた。たとえ精神干渉の影響が事実であったとしても、自分に何の責任もないと言い切れるはずがない。
父上はしばらく何も答えなかった。
その沈黙が、ひどく長く感じられた。
息子へ罰を下すことを迷っているのか。怒りを抑えているのか。それとも、既に決めている言葉を告げる時機を測っているのか、俺には分からなかった。
やがて父上は、跪く俺ではなく会場全体へ視線を向けた。
「皆の者、聞け!」
張り上げられた声が大舞踏会場の隅々まで届き、並ぶ貴族たちが一斉に背筋を伸ばす。
「今ここに、王太子アルフォンス・ガイゼンへの処分を言い渡す」
心臓が強く鳴った。
「アルフォンス・ガイゼンから王太子としての地位、王位継承権、ならびに王太子として行使していたすべての権限を剥奪する」
会場の各所から小さなざわめきが起こったものの、驚愕する声はそれほど多くなかった。この事態を引き起こした以上、王太子位を失うのは当然だと考えている者が大半なのだろう。
俺自身も、その処分に異を唱えるつもりはなかった。
しかし、父上の言葉はそこで終わらなかった。
「さらにアルフォンスを、古の塔へ幽閉するものとする」
今度こそ、会場全体が大きく揺れた。
「古の塔だと……」
「まさか、そこまで……」
「あそこへ送られれば、二度と……」
抑えきれない小声が幾重にも重なる。
古の塔。
王都から遠く離れた禁断の森、その最深部に存在すると伝えられている古代の塔だ。
およそ二千年前から残る遺構であり、王家へ連なる者が重大な罪を犯した際、処刑に代わる幽閉場所として利用されてきたという。塔そのものは強固な結界に守られている一方、周辺の森には強大な魔物が棲み、人が徒歩で容易に行き来できるような場所ではない。
一度送られれば、ほとんど外へ出ることはできない。
過去に幽閉された者たちも、その多くが二度と王都へ戻ることなく、あの塔で生涯を終えたと聞いている。
処刑ではない。
だが、事実上の終身幽閉だ。
誰にも会えず、ただ一人で生涯を終える可能性すらある。その意味を理解した瞬間、全身から血の気が引いていった。
「アルフォンスよ」
父上の声が頭上から降ってくる。
「異存はないな」
異存があると言えば、どうなるのだろう。
精神干渉を受けていたのだと訴えるのか。自分も被害者なのだから、罰を軽くしてくれと求めるのか。
アンナマリーを大勢の前で傷つけ、国庫の金を軽率に使い、忠告してくれた者たちを遠ざけた俺が、今さら自分の命と自由だけは守ってくれと縋るのか。
できなかった。
「……はい」
震えそうになる唇へ力を込める。
「謹んで、お受けいたします」
「うむ」
父上は短く頷いた。
その声には怒りも、悲しみも、安堵もほとんど感じられない。まるで事前に決められていた手続きを、決められた順番で進めているかのような淡々とした響きだった。
そのことへ小さな違和感を覚えたが、今の俺には考える余裕がなかった。
「衛兵。この者を連行せよ」
「はっ!」
二人の衛兵が進み出て、俺の左右へ立つ。
拘束具を嵌められることはなかった。逃げられるはずがないと判断しているのか、それとも元王太子への最低限の配慮なのかは分からない。
立ち上がった瞬間、足元が僅かにふらついた。
それでも支えを借りることなく歩き始めると、人々が無言のまま左右へ分かれた。
その狭い道を進む俺へ、両側から数え切れないほどの視線が突き刺さる。
「当然の報いだ」
「王太子殿下が、あれほど愚かなことをなさるなんて……」
「もう殿下ではないでしょう」
「あの方が国王にならなくてよかった」
「ランベル公爵令嬢がお気の毒だわ」
決して大きな声ではない。それでも、不思議なくらい一つ一つの言葉が耳へ届いた。
否定することはできなかった。
俺は顔を上げたまま、ただ歩いた。
出口へ向かう途中、アンナマリーとブラットの前を通る。
二人はもう抱き合っていなかった。
ブラットはアンナマリーを庇うように半歩前へ立ち、俺をまっすぐ見ている。その瞳には確かな怒りがあったが、それだけではなかった。
痛みと迷い。それから、何か言いたいことを必死に堪えているような複雑な感情が見えた。
長年側にいたからこそ、それくらいは分かる。
けれど、ブラットは何も言わなかった。
俺も声をかけなかった。
アンナマリーは視線を落としたままで、金色の髪に隠れた表情までは見えない。
足が止まりそうになった。
名前だけでも呼びたいと思った。
アンナマリー、と。
もう一度だけでも。
だが、その衝動を飲み込む。
今の俺が彼女を呼び止めれば、再び自分の感情を押しつけるだけになるかもしれない。
俺は足を止めず、そのまま二人の前を通り過ぎた。
背後で大舞踏会場の扉が閉じる。
重く鈍い音が、長い廊下へ響いた。
まるで、これまでの自分の人生へ蓋をする音のようだった。
◇◇◇
古の塔への移送は、その日のうちに行われた。
舞踏会場から王城へ戻されたあとも、俺には事情聴取らしい事情聴取はなかった。身体の診察も最低限で、精神干渉がどの程度残っているのか詳しく調べられることもなく、処分決定から数時間もしないうちに王城地下の立入禁止区画へ連れてこられていた。
その早さについて疑問が浮かばなかったわけではない。
だが、今の俺は自分こそが罪を犯したのだという思いへ押し潰されており、それを口にすることさえ卑怯な言い訳に思えてしまった。
地下深くにある転移室は、古びた石造りの部屋だった。
床一面へ複雑な術式が刻まれ、その溝を青白い魔力光がゆっくり流れている。長く使われていない場所だと聞いていたわりには、魔術師たちの動きに迷いはなく、既に転移の準備はほとんど整えられていた。
壁際には俺の荷物まで置かれていた。
数着の衣服と日用品、保存食、最低限の調理器具、幾冊かの本。暮らすために必要になるものが、短時間で用意したとは思えないほど整然とまとめられている。
随分と手際がいい。
まるで俺が古の塔へ送られることを、ずっと前から知っていた者がいるかのようだ。
そこまで考えたところで、自分で打ち消した。
ここは王城だ。王族へ重大な事態が起きた際、迅速に対応できるよう備えをしていたとしてもおかしくはない。
「転送を開始いたします」
宮廷魔術師の声に顔を上げる。
衛兵たちは既に転移陣の外へ下がっていた。誰も俺と目を合わせようとせず、必要な仕事だけを淡々と進めている。
父上は来なかった。
母上もいない。
レオンハルトの姿もなかった。
当然なのだと思おうとした。
俺は罪人として幽閉されるのだ。見送られる立場ではない。
それでも胸のどこかでは、父上が最後に一度だけ声をかけてくれるのではないかと期待していた。
愚かな期待だった。
床の術式が強い光を放ち始める。
青白かった輝きは瞬く間に白へ近づき、俺の足元から全身を包み込んでいった。
「アルフォンス様……」
その瞬間、不意に誰かの声が聞こえたような気がした。
反射的に振り返る。
けれど、そこにいるのは宮廷魔術師と衛兵だけだ。誰も俺の名を呼んだ様子はなく、声の主を確かめる間もないまま視界が真っ白に染まった。
◇◇◇
「ここが……古の塔か」
転移による浮遊感が消えたとき、俺は見知らぬ部屋の中央へ立っていた。
最初に抱いた感想は、想像していた場所とは随分違う、というものだった。
罪人が生涯を終えるだけの古い塔だと聞いていたため、湿った石壁に錆びた鎖、粗末な寝台しかない牢獄を覚悟していた。しかし実際に目の前へ広がっているのは、むしろ一人で生活するために整えられた居室だった。
広さは王城にあった俺の私室より少し狭い程度だろうか。大きな窓の近くには頑丈そうな木製の机と二人掛けのソファがあり、部屋の奥には柔らかそうな寝台まで置かれている。
一面を覆う本棚には古い本がぎっしり並び、別室へ続く扉も二つあった。一方を覗けば簡素ながら必要な器具の揃った台所、もう一方には浴室と便所がある。
長く人が暮らしていないはずなのに、埃らしいものさえほとんど見当たらない。空気も淀んでおらず、塔そのものへ施された浄化術式が今も機能しているのだろうと思った。
「思っていたよりは、まともに――」
最後まで言うことはできなかった。
唐突に、凄まじい重圧が全身へ圧しかかったからだ。
「うっ……!」
膝が崩れかけた。
まるで背中へ巨大な岩を括りつけられたように身体が重くなり、同時に体内から魔力が急速に抜け始める。
心臓が早鐘のように鳴り、息を吸っているはずなのに肺へ十分な空気が入らない。
「はっ……はぁ……!」
古の塔には、罪人が魔術を使って脱出できないよう、魔力吸収と荷重の術式が施されている。
知識としては知っていた。
だが、まさかこれほど強いものだとは思わなかった。
ソファまではほんの数歩しかない。それなのに、一歩足を前へ出しただけで太腿が震え、全身が悲鳴を上げた。
壁や机へ手をつきながら何とか進み、最後は身体を投げ出すようにソファへ倒れ込む。
「はぁ……はぁ……」
額から汗が流れ落ちた。
口の中は乾ききっているのに、台所へ水を取りに行くだけの気力さえ湧かない。
この状態で生きろというのか。
食事を作り、水を用意し、身体を洗い、眠り、また目を覚ます。それを何年、何十年と一人で続ける。
王都から送られる物資がいつまで届くのかも分からない。次代の王が俺を完全に見捨てれば、供給そのものが止まる可能性もある。
そうなれば飢えるのか。
それとも歴代の罪人たちのように、いつか毒杯が届けられるのか。
そこまで考えた途端、部屋を満たしていた静けさが急に恐ろしくなった。
舞踏会場では、大勢から向けられる視線が苦しかった。
だが、今は誰の声も聞こえない。誰の気配もなく、自分の荒い呼吸だけが妙に大きく反響している。
「……これが、俺への罰か」
口に出してみても、当然ながら返事はなかった。
これから先、何を言っても誰も答えてくれないのだ。
そう思った瞬間、どうにか形を保っていた胸の内側が少しずつ崩れていく。
アンナマリー。
ブラット。
父上。
母上。
レオンハルト。
王城で当たり前のように顔を合わせていた者たち。
二度と会えないかもしれない。
アンナマリーへ謝る機会もない。自分が傷つけた者たちへ、何かを償うことさえできない。
ただここで生きて、ここで死ぬ。
「……仕方がない」
自分自身へ言い聞かせるように呟いた。
「俺が、したことなのだから」
そう考えれば、この苦しさも受け入れられると思った。
ところが、心の奥から別の声が上がった。
本当に、ここまでの罰を受けるほどのことをしたのか。
誰かを殺したわけではない。
国家機密を他国へ売ったわけでも、王位を奪うため反乱を企てたわけでもない。
そして何より、違法な精神干渉を受けていた可能性が極めて高い。それは俺自身の言い逃れではなく、舞踏会場でブラットが証拠と共に示した事実だ。
王太子の地位を失うことは理解できる。
アンナマリーとの婚約が終わることも当然だ。
だが、詳しい調査も弁明もないまま、その日のうちに終身幽閉に近い処分を決められるのは、本当に妥当だったのか。
「……いや」
俺は重たい頭を振った。
今さら自分を正当化するな。
傷つけた者がいるのに、自分だけが被害者のような顔をするな。
そう言い聞かせる。
それでも、一度胸へ生まれた違和感までは消えてくれなかった。
どれほど時間が経ったのか分からない。
ようやく呼吸が落ち着いてきた頃、俺は身体を起こし、改めて部屋の中を見回した。
喉が焼けるように乾いている。
できれば水を飲みたいが、台所まで歩くことを考えるだけで気が遠くなりそうだった。
そんなとき、本棚の近くにある床の一部が淡く光っていることへ気づいた。
「なんだ……?」
魔石灯の反射ではない。
床板の僅かな隙間から、青白い光そのものが漏れ出している。
普段なら不用意に近づくことはしなかっただろう。
しかし、今の俺には他にできることもほとんどない。そして、どうせこの場所で生涯を終えるのなら、僅かな異変でも知っておきたいという気持ちがあった。
ソファの肘掛けへ両手をつき、力を込めて立ち上がる。
再び全身へ重圧がかかり、数歩進むだけで呼吸が乱れた。壁へ手をつき、途中で机へ身体を預け、何度も休みながら、どうにか本棚の前まで辿り着く。
光の漏れる床へ膝をついた。
震える指を伸ばし、その表面へ触れる。
「……え?」
思わず声が漏れた。
身体が、嘘のように軽くなった。
つい先ほどまで全身を押し潰していた重圧が一瞬で消え、抜け続けていた魔力の流出も止まる。それどころか、乾き切った土へ水が染み込むように、失われていた魔力が身体の内側へ戻り始めた。
「これは……どういうことだ?」
両手を開き、何度か握る。
問題なく動く。
先ほどまで苦しかった呼吸も、急速に整っていく。
床へ視線を戻すと、青白い光の中へ短い文字が浮かび上がっていた。
『魔力を流せ』
「魔力を……?」
一瞬、罠ではないかという警戒が生まれる。
だが、この塔へ幽閉された時点で俺は自由も立場もほとんど失った。何もせず部屋へ戻れば、またあの重圧の中で孤独に過ごすだけだ。
俺は床へ手を置いたまま、慎重に魔力を流した。
その直後、ガコン、と重い機械音が部屋へ響いた。
「なっ……!」
目の前にあった本棚が、ゆっくり横へ移動し始める。
床を擦る低い音とは裏腹に、本棚に並んでいた本は一冊も揺れ落ちなかった。
やがて棚が完全に横へ退く。
その背後から現れたのは、下へ続く石造りの螺旋階段だった。
壁には等間隔で小さな魔石灯が埋め込まれ、遥か下まで淡い光が続いている。
「こんなものが……」
古の塔へ隠し階段があるなど、王宮で学んだどの資料にも書かれていなかった。
階段の入口へ立つと、下から少し冷たい空気が吹き上がってくる。不気味さを感じてもおかしくない状況だったが、不思議と嫌な感覚はなかった。
ただ、何かが待っている。
そんな気がした。
「……行ってみるか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
危険なものが待っている可能性はある。
それでも、先ほどまで本気で自分には未来がないと思っていたのだ。
俺は一度だけ深く息を吸い、階段を下り始めた。
足音が石壁へ反響する。
螺旋階段は円を描きながら延々と下へ続いていた。本来なら塔の途中階に当たる高さを何度も通過しているはずなのに、別の階へ繋がる扉は一つも見当たらない。
どれほど下りた頃だろう。
ようやく階段の終わりへ、一枚の白い扉が見えた。
古びた石造りの塔には似つかわしくないほど美しい扉だった。表面には俺の知らない花を模した精緻な彫刻が施され、魔石灯の淡い光を受けて柔らかく浮かび上がっている。
扉の前で足を止める。
取っ手へ手を伸ばしたものの、僅かに迷った。
ここから先へ進めば、何かが変わる。
根拠はない。それでも、そんな予感があった。
「……よし」
息を整え、扉を開ける。
「ここは……」
その先には、想像を遥かに超える広い空間が広がっていた。
ただの倉庫ではない。
左右の壁際には腰ほどの高さの硝子棚が幾つも並び、その中や上へ、多種多様な品々が美術品のように整然と飾られている。
腕輪や指輪、杖、靴、仮面、小さな箱。用途すら想像できない金属製の球体もあれば、壁には剣や盾、槍、弓まで掛けられている。
さらに色鮮やかなマントや、宝石が幾つも埋め込まれた帽子など、一見すると装飾品にしか見えない物まであった。
王宮の宝物庫にも何度か入ったことがある。
それでも、こんな場所は見たことがない。
何より異常なのは、並べられている品々のほぼ全てから濃密な魔力を感じることだった。
一つだけでも国宝として扱われかねない。
いや、中には国宝という言葉ですら足りないものがあるかもしれない。
「いったい、誰がこんなものを……」
呆然と立ち尽くしていると、頭上で紙が擦れるような音がした。
何事かと顔を上げた瞬間、一枚の封書が何もない空間から現れ、ゆっくりこちらへ舞い落ちてくる。
反射的に両手を伸ばし、受け止めた。
封蝋はない。
だが、表面には見間違えようのない俺の名が記されていた。
『アルフォンス・ガイゼン君へ』
「俺に……?」
誰もいない部屋を一度見回してから、慎重に封を開ける。
中へ入っていたのは数枚の便箋だった。
文字は女性らしく柔らかく、どこか丸みがある。
最初の一行へ目を落とす。
『おはよう、こんにちは、こんばんは!』
「……なんだ、これは」
思わず声が出た。
少なくとも、二千年前から残る遺物の奥に隠されていた手紙の書き出しとは思えない。
訝しみながら、その続きを読む。
『初めまして、アルフォンス・ガイゼン君。
私の名前はセリーヌ。
信じられないかもしれないけれど、貴方が生きている時代より、およそ二千年前に生きていた王族です。
恐らく、今の貴方は私のことを知らないでしょう。色々あって、歴史からほとんど名前を消されてしまいましたから。
でも、私は貴方のことを知っています。
貴方がどのように育ち、誰を大切に思い、どのような出来事を経て、この古の塔へ来ることになるのかも。
今は、たくさんのことが一度に起こりすぎて、心も頭も追いついていないと思います。自分がすべて悪かったのだと責めているかもしれませんし、生きている意味なんて残っていないと思っているかもしれません。
けれど、どうか今日だけは死なないでください。
明日も、できればその次の日も。
そうやって、一日ずつ生きてみてください。
貴方がすべてを知る日は、きっと来ます。
そのときに、自分の人生をもう一度、自分で選んでください。
さて、しんみりするのはここまでです!
貴方に朗報があります!
この部屋にある魔導具は、すべて私が生前に作ったものです。そして今日から、そのすべての所有権を貴方へ譲ります!
遠慮はいりません。使ってください!
壊しても構いません!
……あ、でも、できれば大切にしてください。作るのに結構苦労した物もありますので!
魔導具の使い方は、直接触れれば理解できるようにしてあります。
それから、部屋の一番奥にある扉は転移扉です。
人目のない場所へ転移することができます。一度訪れた場所を最大四か所まで登録でき、登録した場所は、その地点そのものが完全に消滅しない限り変更できません。
ですから、登録するときだけは慎重に選んでください。
それ以外には、距離、魔力消費、使用回数、待機時間などの制約はありません。好きなときに、必要なだけ使えます。
つまり、貴方は古の塔へ幽閉されましたが、外へ出ようと思えばいつでも出られます!
ただし、すぐ外へ出るかどうかは貴方自身で決めてください。
私は貴方を救いたい。
でも、貴方の人生を代わりに決めたいわけではありません。
この塔で静かに暮らしてもいい。世界を旅してもいい。身分や名前から離れ、新しい人生を始めてもいい。
いつか自分で望んだなら、王都へ戻っても構いません。
全部、貴方が選んでいいのです。
最後に一つだけ。
寝るときは、ちゃんと布団をかけてください。食事は三食。歯磨きも忘れないように。
辛いときは、誰かに辛いと言ってください。
一人で全部を抱え込まないでください。
この手紙を読んでいる貴方へ直接会えないことだけが、本当に残念です。
それでも私は、ずっと貴方の幸せを願っています。
それでは、また手紙を送ります。
元気でね。
セリーヌ』
そこで本文は終わっていたが、便箋の最下部へ少し小さな文字で追伸が書き加えられていた。
『追伸。
貴方がこの部屋へ入った時点で、塔内の魔力吸収および荷重術式は完全に解除されています。これからは、塔の中でも普通に生活できます。
それからもう一つ。
変な女性に捕まらないように気をつけてください。
本当に。本当に、気をつけてくださいね?』
最後まで読み終えても、すぐには顔を上げることができなかった。
何度か瞬きをし、もう一度最初の一行へ視線を戻す。
二千年前の王族を名乗る女性。
俺がこの塔へ来ることを知っていた。
百年以上どころではない時を越えて残されたらしい大量の魔導具。
塔から自由に出られる転移扉。
そして、俺の生活習慣をやけに心配する文章と、最後の「変な女性に気をつけろ」という妙な忠告。
一度に理解できる情報量ではなかった。
俺は手紙を持ったまま、しばらく天井を見上げた。
「……なんだ、これ」
結局、口から出てきたのはそれだけだった。
◇◇◇
手紙を三度読み返した。
当然ながら、読むたびに内容が変わるようなことはない。
夢ではないかと頬をつねってみたところ、舞踏会でブラットに殴られた側を間違えて触ってしまい、涙が出そうなほど痛かった。
少なくとも、この手紙を読んでいること自体は現実らしい。
「……使ってみるか」
俺は便箋を丁寧に折り直して封筒へ戻し、上着の内側へ収めた。
なぜか、この手紙を雑に扱ってはいけないと思った。
再び部屋全体へ目を向ける。
およそ二千年前。
現代より遥かに高度な魔法文明が存在していた時代。その時代に生きたセリーヌという人物が、自ら作ったのだという魔導具が目の前へ並んでいる。
王太子だった頃の俺なら、この品々は王国が管理すべきだと迷わず考えただろう。
価値を調査し、危険性を確認し、王宮の宝物庫か研究機関へ移す。
それが国のために当然の判断だと思ったはずだ。
だが、今の俺はもう王太子ではない。
王位継承権も、王太子として行使していた権限も失った。
王家との関係そのものが今後どう扱われるのかさえ、父上から明確には告げられていない。
そして、少なくともこの部屋にある物は、セリーヌが王国ではなく俺個人へ譲ると明記している。
それなら、まず自分で確かめてもいいのかもしれない。
俺は最も近くの棚へ置かれていた腕輪へ手を伸ばした。
銀色の細い腕輪で、表面には細かな紋様が刻まれている。大きな宝石も派手な装飾もなく、外見だけなら王都の装飾店で売られていても不思議ではないほど地味だった。
ところが、指先が触れた瞬間、頭の中へ女性の声が響く。
『検索の腕輪。装着した状態で「検索」と念じることで、見たいもの、探したいものに関する情報と、その所在地を確認できます』
「うおっ!?」
突然頭の中へ声が流れ込んできたため、危うく腕輪を落としかけた。
どうにか両手で掴み直す。
「本当に、触れただけで……」
驚いたのは声だけではない。
使い方や機能、装着方法まで、まるで以前から知っていた知識のように頭へ定着している。
俺は恐る恐る銀色の腕輪を右手首へ嵌めた。
「検索、と念じればいいのか」
頭の中でそう意識する。
『何を検索しますか?』
すぐに先ほどと同じ声が返ってきた。
少し迷った末、まずは最も単純な疑問を口にする。
「この部屋にある魔導具の数と種類を知りたい」
『検索します』
短い間のあと、答えが返ってきた。
『この部屋には、合計百個の魔導具が存在します。分類は攻撃特化型二十種類、防御特化型二十種類、攻撃防御両立型二十種類、隠蔽型十種類、生活補助型二十種類、空間干渉型十種類です』
「百個……」
見れば大量にあることくらいは分かる。
それでも、具体的な数字へされると改めて異常さが際立った。
「ちなみに、この腕輪はどの分類になる?」
『私は生活補助型魔導具に分類されます』
「そうか」
一度頷きかけてから、ふと気づいて動きを止める。
今、俺は声に出して質問しただけだ。
検索と念じてはいない。
「……なぜ答えた?」
『質問されたためです』
「それは分かる。俺は今、検索機能を発動していないはずだ」
『はい。私は製作者であるセリーヌ様より疑似人格を与えられておりますので、検索機能の発動中でなくても、ある程度の日常会話が可能です』
「疑似人格?」
『簡単に申し上げますと、人工的に構築された意思に近いものです』
「意思を、魔導具に持たせたのか?」
『はい』
即答だった。
現代の魔法技術では考えられない。
決められた命令へ反応したり、予め設定された言葉を再生したりする魔導具なら存在する。
だが、こちらの言葉の意味を理解し、その場で考えて返答する道具など聞いたことがない。
「これ一つだけでも、国宝という言葉では足りない気がするぞ」
『私より高性能な魔導具は、この部屋に多数存在します』
「……本当に?」
『はい』
何でもないことのように答えられる。
俺は手首の腕輪へ視線を落とした。
何気なく最初に手へ取った物だけで、現代では再現不可能な技術が使われている。
残る九十九個は、いったいどんな代物なのか。
「セリーヌ……貴女は何者なんだ」
独り言のつもりだったため、当然答えはない。
そこで、手首の腕輪を見ながら別のことを思いついた。
「そういえば、毎回『検索の腕輪』と呼ぶのは長いな」
『名称の変更をご希望ですか?』
「元々の名前はないのか?」
『ございます』
「あるのか」
『セリーヌ様は、私をエルと呼んでおられました』
ほんの僅かだが、その声が柔らかくなったように聞こえた。
それが疑似人格と呼ばれるものの表れなのか、それとも俺の気のせいなのかは分からない。
「分かった。では、エル」
『はい』
「これからよろしく頼む」
『承知いたしました、主様』
「……主様?」
『現在の正式所有者がアルフォンス様へ変更されておりますので』
「そういうものなのか」
『そういうものでございます』
妙に人間臭い返し方だった。
思わず、小さく笑ってしまった。
口元が緩んだあとで、自分自身が一番驚いた。
舞踏会で婚約破棄を宣言した。
ブラットに殴られ、自分がしてきたことを思い出した。
愛していたアンナマリーを失い、王太子の地位も失った。
そのまま古の塔へ幽閉され、少し前までは一人で死んでいくだけなのだと思っていた。
もう二度と笑うことなどないかもしれないとさえ考えた。
それでも今、ほんの少しではあるが、俺は笑った。
「エル、一つ聞きたい」
『何なりとお申し付けください』
「お前のように意思を持つ魔導具は、ほかにもあるのか?」
『疑似人格を搭載した魔導具は、私を含め十種類ございます』
「十種類もあるのか……」
『それとは別に、魔物、天使、悪魔など、元々意思を持つ存在を宿した魔導具が十種類ございます』
「待て」
『はい』
「今、魔物だけでなく、天使と悪魔と言ったか?」
『申し上げました』
「魔物は分かる。いや、魔導具へ魔物を宿している時点で十分おかしいが、少なくとも存在は知られている。しかし、天使と悪魔は神話の中だけの存在ではないのか?」
『実在します』
間髪入れずに答えられた。
「……実在するのか」
『はい。大魔法である天使降臨および悪魔召喚を用いることで、この世界へ顕現させることが可能です』
「そんな魔法は聞いたことがないぞ」
『二千年前の時点でも使用可能な術者は極めて限定されておりました。現代では、術式そのものが失伝している可能性が高いと推測します』
「なるほど……」
口ではそう答えたものの、理解はほとんど追いついていない。
それでも興味を抑えきれず、俺は周囲の魔導具へ視線を巡らせた。
「では、魔物を宿した魔導具というのは、どういうものなんだ?」
『主様から見て、右側の壁へ飾られている赤い刀をご覧ください』
「刀?」
言われた方向へ顔を向ける。
そこには見慣れない形状の武器が掛けられていた。
黒い柄から伸びる刀身は細く、僅かに反っている。片側だけが刃になっているようで、その表面には炎を思わせる赤い紋様が走っていた。
『あちらは東大陸最果ての諸島で用いられていた、「刀」と呼ばれる武器です。内部には最上位の魔物である不死鳥フェニックスが宿っております』
「不死鳥……」
『使用者は強大な炎を自在に操ることが可能です。完全解放時の炎に焼かれた者は、灰すら残りません』
「恐ろしいものを平然と説明するな」
『なお、宿っているフェニックスは比較的温厚な性格です。意思ある魔物を宿した魔導具を初めて使用する場合、候補として推奨できます』
「灰すら残らない炎を出す武器を、初心者向けとして勧めるのか?」
『魔導具そのものの扱いやすさと、内在する存在の性格は別問題です』
「……そういうものなのか」
『そういうものでございます』
また同じ言い方をされた。
やはり、単なる機械的な受け答えとは少し違う気がする。
「では、天使を宿した道具は?」
『右側の硝子棚に置かれている白い錫杖をご覧ください』
そこには白銀色の細い錫杖があり、先端へ翼を広げた女性らしき像が彫られていた。
『天使シリーズ、「癒しの錫杖」です。致命傷を含むあらゆる外傷を短時間で治癒し、失われた肉体の一部さえ再生することが可能です』
「欠損した身体まで再生できるのか?」
『はい』
「そんな物を世へ出せば、戦争そのものの常識が変わるぞ」
『同様の危険をセリーヌ様も認識しておられました。そのため、一般公開はされておりません』
「それが正しいだろうな」
救える命は増える。
だが、同時にそれを奪い合う者も必ず現れる。
王太子として権力と利益を巡る争いを何度も見てきた俺には、容易に想像できた。
「悪魔を宿したものは?」
『左側の棚へ置かれている、七つの宝石を嵌め込んだ黒い指輪です』
示された先には、赤、青、緑、黄、紫、白、黒の七色の宝石が並ぶ指輪があった。
『悪魔シリーズ、「七魔の指輪」です。一つの指輪へ七体の上位悪魔が宿っており、それぞれ異なる能力を使用できます』
「そこだけ聞けば、非常に便利そうだが」
『使用には代償が必要です』
「やはりそうなるか」
『代償は悪魔ごとに異なります。また、同じ悪魔であっても、その時の気分や使用者への好感度によって要求内容が変化します』
「危険すぎるだろう」
『極めて危険です』
「では、なぜそんな物を作った?」
『セリーヌ様は、興味を持たれたものを実際に形へするまで気が済まない性格でした』
「天才というより、問題児ではないか?」
『否定はいたしません』
迷いのない即答に、俺はまた僅かに笑った。
しかし、今度はその直後に強い疲労感が押し寄せてきた。
身体そのものは、塔の負荷が消えたことでかなり楽になっている。
疲れているのは頭の方だった。
舞踏会から今までに起きた出来事だけでも、人生数年分に感じられる。
精神干渉。
婚約破棄。
王太子位剥奪。
古の塔への幽閉。
そして二千年前から残る手紙と、現代では理解できない魔導具の数々。
さらにフェニックス、天使、悪魔まで出てきた。
さすがに、これ以上は頭へ入りそうにない。
「今日は、このあたりにしておこう」
『承知しました』
「部屋へ戻って、少し休みたい」
『主様』
「なんだ?」
『一つ、提案がございます』
なぜだろう。
その言葉を聞いた瞬間、少し嫌な予感がした。
エル自身を疑っているわけではない。
むしろ、ここまでのやり取りで多少は信頼し始めている。
ただ、セリーヌという人物が残したものに関しては、常識を基準に考えるのをやめた方がいいような気がしてきた。
「……聞くだけ聞こう」
『ありがとうございます。主様から見て右側の棚、左から三番目の硝子扉をお開けください』
言われた場所へ向かい、扉を開く。
内部には比較的小型の魔導具が並べられていた。
小さな箒に裁縫箱、銀色の調理器具、鳥の形をした置物。そしてその奥へ、人間の女性を模した小さな人形が置かれている。
『中段、右から二番目の人形をお取りください』
「これか?」
『はい』
言われたとおりに手を伸ばし、人形を棚から取り出した。手のひらへ載るほどの小ささだが、近くで見ると驚くほど精巧に作られている。
黒と白を基調とした見慣れない衣装を身につけた女性を模しており、銀色の髪は一本一本まで彫り込まれ、衣服の皺や小さな飾りに至るまで雑な部分が見当たらない。単なる玩具として考えても、かなりの職人技だ。
『そちらへ、主様の魔力をお流しください』
「何が起きる?」
『起動します』
「何が起動するんだ」
『起動後にご確認いただく方が分かりやすいかと』
「答えになっていないぞ」
思わず眉を寄せると、エルは数秒の沈黙を挟んでから補足した。
『少なくとも、主様へ危害を加えるものではありません』
「その言い方だと、別の意味で何か起きるように聞こえる」
『否定はいたしません』
「やはり嫌な予感がするな……」
とはいえ、ここまでエルが意図的に俺を危険へ誘導した様子はない。何よりセリーヌの手紙には、この部屋の魔導具は俺が自由に使って構わないと書かれていた。
少し迷ったものの、結局は試してみることにした。
小さな人形を両手で包むように持ち、慎重に魔力を流し始める。
「うっ……」
思っていたよりも吸い上げられる魔力量が多かった。
塔へ入った直後に奪われた魔力は既に戻っているとはいえ、身体の中からまとまった量が一気に引き抜かれる感覚は気持ちのいいものではない。途中で止めるべきか迷い始めた頃には、自分の魔力のおよそ半分ほどが人形へ流れ込んでいた。
その直後だった。
手の中から、眩い光が溢れ出した。
「なんだ!?」
『起動を確認しました』
「先に言え!」
『起動すれば分かると申し上げました』
「こういう意味ではない!」
光はさらに強くなり、目を細めても輪郭すら見えなくなる。
驚いた俺は反射的に手を離した。
しかし、人形は床へ落ちなかった。
空中へ浮かんだまま淡い銀色の光に包まれ、その内部で少しずつ形を変え始める。
小さかった手足が伸び、身体全体が人間と変わらない大きさまで膨らんでいく。それに合わせて黒と白の衣装も形を変え、銀色の髪は肩を越え、やがて腰へ届くほど長く伸びた。
「……人間に?」
『正確には違います』
「では何だ?」
『もう間もなく判明します』
「お前は本当に、こういう時だけ妙に勿体ぶるな」
『演出はセリーヌ様の指定です』
「やはりあの人のせいか!」
返事をした直後、さらに光量が増した。
とうとう目を開けていられなくなり、俺は片腕で顔を庇う。
数秒。
あるいは、もう少し短かったのかもしれない。
やがて強い光が急速に弱まり、閉じていた瞼越しにも部屋の明るさが元へ戻ったことが分かった。
恐る恐る腕を下ろす。
そこには、一人の女性が立っていた。
「…………」
年齢だけなら、俺と同じくらいか、少し下に見える。
腰まで流れる柔らかな銀色の髪。魔石灯の光を映した青い瞳は硝子玉のような硬さがなく、こちらの姿をきちんと捉えながら自然に瞬きをしている。
身につけているのは、先ほど人形が着ていたものと同じ黒と白を基調にした衣装だった。
王宮の侍女服とは大きく異なる。黒い衣装の上へ白い前掛けのような布を重ね、頭には小さな白い布飾りが載せられている。実用的なのか装飾目的なのか判別しにくい服装ではあるが、不思議と本人にはよく似合っていた。
何より驚いたのは、その動きだった。
胸元が呼吸をするように僅かに上下し、銀色の髪も姿勢を変えるたび自然に揺れている。肌にも不自然な光沢はなく、こうして黙って立っているだけなら、本物の人間との違いを見抜くことは難しい。
「これが……魔導人形?」
『はい』
エルが答えた直後。
女性の青い瞳が大きく開いた。
次いで、腰へ両手を当てる。
右足を元気よく一歩前へ踏み出し、満面の笑顔を浮かべた。
「じゃんじゃじゃーん!」
「…………」
二千年近く誰も入っていなかったであろう静かな部屋へ、場違いなほど明るい声が響き渡る。
俺が反応できないままでいると、女性は気にした様子もなく、さらに胸を張った。
「家事万能! 戦闘可能! 添い寝も相談次第! 完全無欠の美少女メイド、セリーちゃん! ただいま華麗に爆誕でーす!」
「…………」
「主様! これから末永くよろしくお願いしますね!」
俺はまだ何も言えなかった。
そんな俺を、セリーと名乗った女性は首を少し傾げながら見つめる。
「あれ? 反応がありませんね」
「…………」
「感動しすぎて言葉を失っているのでしょうか」
「違う」
「おお! お声が!」
「まず説明をさせろ」
「もちろんです! 説明なら得意ですよ!」
「いや、お前ではなく――」
言い終える前に、セリーは両手を胸の前へ合わせた。
「では主様、記念すべき最初のご命令は何にいたします? お食事ですか? お風呂ですか? それとも――」
一度言葉を切った彼女は、両手を頬へ添える。
そして腰を軽く捻り、妙に艶めかしい仕草で身体をくねらせた。
「わ・た・し?」
沈黙した。
今度は驚いたからではない。
どう返事をするのが正解なのか、まったく分からなかったからだ。
「エル」
考えることを諦め、右手首の腕輪へ呼びかける。
『はい』
「これは、なんだ」
「これは、とは失礼ですね!」
『完全自律型生活補助魔導人形、正式名称「完璧メイド・セリー」でございます』
「完璧……?」
「はい!」
セリーが元気よく手を上げる。
「どの辺りが?」
「全部です!」
「今のところ不安しかないのだが」
「最初は皆様そうおっしゃいます!」
「皆様?」
「……あれ?」
セリーが一瞬だけ目を瞬かせた。
ほんの僅かな間だった。
「誰に言われたんだ?」
「細かいことは気にしてはいけません、主様!」
「誤魔化したな」
「メイドには秘密の一つや二つ必要なのです!」
「自律型というのは、勝手に話を逸らす機能まで含まれているのか?」
『含まれております』
「エル!」
「エルちゃん、ひどいです!」
『事実です』
「私にも秘密を守る権利があるんですよ!」
俺の目の前で、二千年前の魔導具同士が口論を始めた。
もう何が何だか分からない。
とりあえず、今すぐ静かな環境へ戻る方法だけは確認したかった。
「返品はできるか?」
「えっ?」
セリーの表情が固まる。
『所有権が既に主様へ譲渡されておりますので、不可能です』
「待ってください、エルちゃん!」
「では停止は?」
「主様!?」
『完全自律型であるため、長期停止には本人の同意が必要となります』
「本人?」
「はいはーい! 私が本人でーす!」
先ほどまで焦った顔をしていたセリーが、今度は嬉しそうに右手を上げる。
「同意するか?」
「嫌です!」
「即答か」
「せっかく二千年ぶりに起動したんですよ! まだ主様のお世話を一度もしていません!」
「二千年ぶり?」
「正確には、およそ千九百――」
『セリー』
「わー! 今のなしです!」
また妙な反応をした。
どうやらエルもセリーも、俺へまだ伝えるつもりのない情報を幾つか持っているらしい。
本来なら、王太子としての癖で細部まで問い詰めていたかもしれない。
だが、今日はもう無理だった。
俺はゆっくり天井を見上げる。
今日だけで、いったいどれだけのことが起きただろう。
卒業舞踏会でアンナマリーとの婚約破棄を宣言し、長年友人だったブラットに殴られた。
直後に精神干渉が解け、自分がどれほどアンナマリーを傷つけたのか思い出した。
王太子位も王位継承権も失い、その日のうちに古の塔への幽閉を命じられた。
ろくな調査もされないまま転移させられ、最初は塔の術式で立つことさえ難しいほど魔力と体力を奪われた。
ようやく隠し部屋を見つけたと思えば、二千年前の王族を名乗るセリーヌから俺宛ての手紙が残されていた。
彼女は、俺がここへ来ることを知っていた。
大量の魔導具を譲られた。
外へ出られる転移扉まで与えられた。
さらに疑似人格を持つ腕輪と会話をし、フェニックスや天使や悪魔が実在することまで知らされた。
そして今、目の前には妙に元気な銀髪の美少女メイドが立っている。
自分でもよく、ここまで正気を保っていられたと思う。
「主様?」
セリーが一歩近づき、下から俺の顔を覗き込んできた。
「どうされました?」
「少し考えている」
「もしかして、私の美しさにようやく気づきました?」
「違う」
「では、起動した私の性能に感動を?」
「まだ何も見せてもらっていない」
「運命の出会いを感じて?」
「違う」
「照れなくてもいいんですよ?」
「違うと言っている!」
「きゃっ! 主様ったら情熱的です!」
「お前は人の話を聞け!」
俺が声を荒らげるほど、なぜかセリーは嬉しそうになっていく。
王宮にいた頃、ここまで遠慮なく言葉を返してくる者はほとんどいなかった。ブラットでさえ、私的な場では多少砕けても、ここまで好き勝手に振る舞ったことはない。
それだけに調子が狂う。
「セリー」
「はい!」
「俺は今日、色々あった」
「存じております」
「知っているのか?」
一瞬だけ声が低くなる。
セリーは先ほどまでとは少し違う、穏やかな顔で頷いた。
「全部ではありません。ただ、主様が今日ここへ来る予定だったことと、心も身体も疲れている可能性が高いことは、セリーヌ様から事前情報として与えられています」
「どこまで知っている?」
「それは……」
彼女の青い瞳が揺れた。
数秒ほど迷ったあと、セリーは小さく首を振る。
「今、私の判断だけでお話しできる範囲ではありません」
「なぜだ」
「主様自身が確認しなければならない情報と、誰かから先に聞くことで意味が変わってしまう情報があるからです」
先ほどまでのふざけた口調とは違う。
真面目だった。
その違いに、俺は追及する言葉を飲み込んだ。
「セリーヌが、そう決めた?」
「はい。でも、主様を苦しめるためではありません」
「それも信じろと?」
「いいえ」
セリーは即答した。
意外な返事だった。
「信じなくて構いません。私も、エルちゃんも、セリーヌ様の手紙も、ここにある魔導具も。主様が自分で見て、自分で考えて、信用してよいと思ったものだけ信じてください」
「……お前、本当にさっきのセリーか?」
「酷いです!」
途端に頬を膨らませる。
「私は最初から最後まで、とっても優秀で可愛いセリーちゃんですよ!」
「今の数秒だけ別人格だったのかと思った」
「違います!」
『セリーは状況に応じて人格表現を切り替えることが可能です』
「エルちゃん! 余計な説明をしないでください!」
『正確な情報提供です』
「主様が私を変な子だと思ったらどうするんですか!」
「もう思っている」
「主様!?」
思わず口元が緩んだ。
そこで、また気づく。
俺は今日、二度も笑った。
一度目はエルとの会話で。
今度はセリーの反応を見て。
僅かな笑いだった。
それでも、ほんの数時間前まで自分にはもう何も残っていないと思っていた俺が、二千年前の魔導具を相手に笑っている。
妙な感覚だった。
笑っていいのか、とも思った。
アンナマリーを傷つけた日の夜だ。
俺のせいで泣いた人間がいる。
自分だけがこんな場所で笑っていていいのか。
その考えが胸へ浮かんだ瞬間、先ほどまで少し緩んでいた呼吸が重くなる。
セリーが、それに気づいた。
「主様」
今度の声は静かだった。
「……何だ」
「今日は、もう休みましょう」
「さっきもそうしようとしていた」
「はい。ですから私が、お食事とお風呂と寝床を整えます」
「食欲はない」
「少しでも食べてください」
「必要ない」
「必要です」
柔らかな口調のまま、はっきりと返された。
「主様は今日、まともにお食事をされましたか?」
「昼は……」
そこで思い出そうとする。
卒業舞踏会の準備。
レイチェル。
アンナマリーへの断罪。
その後の混乱。
「覚えていない」
「でしょう?」
「だからといって今すぐ食べる気には」
「豪華な料理は作りません。胃に優しいものを少しだけ用意します」
「勝手に決めるのか?」
「いいえ」
セリーは少し考えたあと、指を一本立てた。
「食べるかどうかを最後に決めるのは主様です。でも、選べるように準備だけはさせてください」
その言い方に。
セリーヌの手紙を思い出した。
『貴方の人生を代わりに決めたいわけではありません』
『全部、貴方が選んでいいのです』
「……分かった」
「やった!」
「ただし少量だ」
「はい!」
「風呂も、今日は身体を流すだけでいい」
「承知しました!」
「寝る場所は上の居室だ」
「もちろんです。寝台も確認しておきます」
「勝手に全部変えるなよ」
「枕の高さくらいは変えても?」
「聞いてからにしろ」
「主様の好みを伺ってからですね!」
「ああ」
返事をすると、セリーは心底嬉しそうに笑った。
なぜそれほど世話をすることが嬉しいのかは分からない。
「では、参りましょう!」
セリーが勢いよく階段の方向へ歩き出す。
二歩ほど進んだところで急に止まり、こちらへ振り返った。
「あ」
「何だ」
「主様」
「今度は何だ」
「手を繋ぎます?」
「なぜだ」
「疲れていらっしゃるので」
「歩ける」
「では腕を組みます?」
「必要ない」
「おんぶ?」
「もっと必要ない」
「抱っこでも」
「絶対にやめろ!」
「残念です」
心の底から残念そうな顔をする。
「お前は、本当に生活補助のために作られたのか?」
「はい!」
「別の目的が混ざっていないか?」
「主様の心身を健康に保つことも、立派な生活補助です!」
「今の提案のどこが健康維持なんだ」
「スキンシップです!」
「却下だ」
「では、今日は諦めます」
「今日は?」
「明日は分かりません!」
「諦めろ!」
また、部屋へ俺の声が響いた。
セリーは笑っている。
エルからは何の反応もない。
この腕輪は、わざと黙っているのではないかと疑いたくなった。
「エル」
『はい』
「お前も何か言え」
『セリーは通常運転です』
「これが通常なのか……」
『はい』
「一番聞きたくない答えだった」
「安心してください、主様!」
「何をだ」
「慣れます!」
「慣れたくない」
「三日もあれば!」
「嫌だ」
「一週間?」
「期間の問題ではない!」
騒がしい。
本当に、騒がしい。
ほんの少し前まで、この塔で何十年も一人きりで生きるのだと思っていた。
誰の声も聞けず、自分の独り言へ返事をしてくれる者すらいない。
そんな未来を想像していた。
それなのに、今は静かにしてほしいと思うほど話しかけてくる相手がいる。
少しだけ不思議だった。
それと同時に。
僅かな安堵を覚えている自分にも気づいた。
その感情を認めることには、まだ抵抗があった。
今日の俺には、楽しむ資格などないのではないか。
救われることを望んではいけないのではないか。
けれど、セリーヌの手紙に書かれていた言葉が、頭の奥へ残っている。
今日だけは死なないでください。
明日も。
できれば、その次の日も。
何かを許されたわけではない。
俺がしたことが消えたわけでもない。
ただ。
明日まで生きることくらいは、してもいいのかもしれない。
「主様?」
少し先へ進んでいたセリーが振り返る。
「来ないんですか?」
「ああ。今行く」
「疲れたなら、本当に抱っこしますよ?」
「歩く!」
「お姫様抱っこも得意です!」
「俺は男だ!」
「主様抱っこ?」
「名前の問題ではない!」
俺の声に、セリーが声を上げて笑った。
二千年近く、誰も訪れなかった古の塔。
重罪人が一人で生涯を終えるための場所として語られてきた塔。
そこへ今、似つかわしくないほど賑やかな声が響いている。
罪人として一人で死を待つはずだった俺の暮らしは、古の塔へ来た初日から、既に想像していたものとは大きく違い始めていた。
このときの俺は、まだ知らない。
二千年前の魔導具師セリーヌが、なぜ俺のことを知っていたのか。
彼女が歴史から名前を消された本当の理由も、古の塔へ百もの魔導具を残した目的も、俺がこの場所へ送られる未来をどこまで知っていたのかも。
そして、舞踏会で俺へ施されていた精神干渉が解けたことも、その日のうちに古の塔への処分が決まり、あまりにも早く移送準備まで整えられていたことも、今はまだ一つの答えへ繋げることができない。
分からないことばかりだった。
だから今は、無理に答えを出さなくてもいい。
今日という長すぎる一日を終え、食べられるだけ食べて、身体を洗い、布団へ入る。
そして、明日の朝に目を覚ます。
セリーヌが手紙へ書いていたように、一日ずつ生きてみる。
王太子ではなくなった俺にとって、それはあまりにも小さな目標だった。
けれど。
すべてを失った夜の俺には、それくらいの目標でちょうどよかった。




