第64話 違うと言われたものを消してしまえば、何が違ったのかまで分からなくなります
翌朝、俺が目を覚ました時、塔の窓から見える森には薄い霧が残っていた。
雨が続いたあとの湿気を抱えた白い靄が木々の間を漂い、朝日が差し込むたびにゆっくり輪郭を薄くしている。鳥の声は聞こえるものの、遠くの森はまだ霞んでいて、いつもより世界が狭くなったように見えた。
寝台から起き上がり、身体を伸ばす。
頭痛はない。
眠気もそれほど残っていない。
昨日は旧保養施設へ行き、閉ざされた点検口らしき壁を見た。
その場で二回の微弱振動も聞いた。
そして、ほぼ同じ時間帯に名前の分からない子供が口にした。
『こっちじゃない』
何が違うのか。
どっちが違うのか。
誰も聞かなかった。
俺も会いに行かなかった。
その判断を後悔してはいない。
でも、気にならないわけでもない。
「……気になる」
『おはようございます、主様』
「おはよう、エル」
『起床直後から旧保養施設について考えておられますか?』
「何で分かった?」
『「気になる」と発言されましたので』
「それだけ?」
『はい』
「普通だった」
寝台から降りる。
「夜中に何かあった?」
『緊急連絡はありません』
「振動は?」
『夜間記録は届いております』
「今聞く?」
『主様はまだ水分を摂取されていません』
「エルまでセリーみたいになってきたな」
『長期間の共同生活による情報共有の結果です』
「それ、絶対いい意味じゃないだろ」
着替えて食堂へ向かう。
扉を開けると、すでに朝食の匂いが漂っていた。
焼いたパン。
卵。
温かい野菜のスープ。
そして、いつものようにセリーが水の入った杯を用意している。
「おはようございます、主様」
「おはよう。飲む」
「どうぞ」
言われる前に杯を取る。
半分ほど飲んでから、セリーを見る。
「どう?」
「何がでしょう」
「自発的水分摂取」
「日常生活に必要な行動です」
「もう完全に褒めなくなったな」
「継続できているのであれば、毎回賞賛する必要はないかと」
「成長を認められたと思えばいい?」
「主様がお望みでしたら」
「何か違う」
席へ座る。
セリーが朝食を並べ終えるまで待ち、パンを一口食べてからエルへ声をかけた。
「じゃあ夜の報告お願い」
『はい。旧保養施設の無刺激観測について報告します』
「振動は?」
『午後十時から午前六時までに、四回記録されています』
「形は?」
『短い単発一回。長めの単発一回。二連続一回。残る一回は非常に弱い単発です』
「三連はなし?」
『ありません』
「送風路と細い管は?」
『四回すべて、双方で記録されています』
「どっちが先?」
『一回は細い金属管側が約〇・二秒先行。一回は旧送風路側が約〇・二秒先行。残る二回は測定誤差内です』
「やっぱり一定じゃない」
『はい』
「支持金具の接触音は?」
『一回。微弱振動とは異なる時刻です』
昨日までの傾向と大きくは変わらない。
少なくとも、支持金具が鳴る現象だけで微弱振動の全部を説明するのは難しそうだ。
でも、だから誰かが向こうから叩いている、という話にもならない。
「暖房設備との相関は?」
『一回は暖房出力の変化から約二分後。ただし残る三回には一致する変化がありません』
「冷却術式?」
『明確な相関なし』
「風?」
『夜間に風速変化はありましたが、振動時刻との共通相関は確認されていません』
「じゃあ原因不明のまま」
『はい』
「子供は?」
『一度だけ夜間覚醒しています。水を飲み、そのまま再入眠しました』
「振動との時間は?」
『最も近い振動から約一時間十二分後です』
「関係なさそう」
『少なくとも時間的一致はありません』
「何か言った?」
『地下、道、木片に関連すると判断できる発言はありません』
「木片は?」
『布鞄の中です』
俺はスープを飲む。
「朝は?」
『本人はすでに起床しています』
「様子は?」
『安定しています。朝食前、鞄から木片を取り出しました』
スプーンを持つ手が少し止まった。
「自分で?」
『はい』
「何か聞かれた?」
『いいえ』
「それで?」
『卓上へ置き、しばらく見ています』
「発言は?」
『一つあります』
「そのまま」
『「これは、ある」』
昨日の夕方。
『まだ、ある』
『なくなってない』
そして今朝。
『これは、ある』
「木片を見ながら?」
『はい』
「指差した?」
『明確な指差しはありません。ただし視線は木片へ向いています』
「じゃあ昨日よりは木片との関係が強そうに見える」
『はい。ただし、「これは」が木片そのものを指すか、木片に関連する何かを指すかまでは確定できません』
「そうだな」
以前にも似たことがあった。
子供が木片を持ち上げながら「これじゃない」と言った時、俺が木片のことかと確認すると、本人は首を横に振った。
手に持っているものと、口にした「これ」が同じとは限らない。
「そのあと?」
『職員が「朝ご飯にする?」と尋ね、本人は「パン」と回答しています』
「普通だな」
『はい』
「それでいい」
セリーが向かいに座った。
「今日は旧保養施設へ行かれますか?」
「今のところ行かない」
「昨日は現地をご覧になりました」
「うん。今日も俺が行かないとできないことはない」
「白鴉療養所へ?」
「行く」
三〇八号室の少年は、白い薬を少し減らしたあと、一日維持している。
今日どうするかは今日決める。
父からの二通目の手紙も、続きを読むかどうかは本人が決める。
昨日描いた二本目の短い線も気になる。
それは調査ではないけれど、会いたいという気持ちはある。
「旧保養施設の点検口候補は?」
『本日は周辺記録の年代確認を継続します。現物には触れません』
「文字も?」
『見えている範囲のみ。壁材は外しません』
「導き路の用例は?」
『追加検索中です』
「じゃあ任せる」
『承知しました』
朝食を続ける。
今日も答えはない。
でも、昨日より焦りは少なかった。
一度現場を見たからかもしれない。
壁の向こうに何があるかは分からない。
それでも、今すぐ壊さなければ誰かが死ぬという状況ではないことを、自分の目でも確認した。
それだけで、待つという判断の重さが少し変わる。
白鴉療養所へ着く頃には、森を覆っていた霧はほとんど消えていた。
中庭の水たまりも、とうとう見えなくなっている。
昨日まで濡れていた石畳には薄い色の違いが残っているだけで、日当たりのいい場所から順に乾いていた。
三〇八号室の少年は窓際にいた。
「おはよう」
「アル」
「水たまりなくなったな」
「うん」
「残念?」
「ちょっと」
少年は窓の外を見る。
「でも昨日は踏まなかった」
「うん」
「一昨日踏んだ」
「うん」
「だからいい」
「そっか」
「また雨降る?」
「いつかは」
「今日?」
「今日は多分降らないと思う」
「じゃあ今日はない」
「そうだな」
少年は窓から離れた。
卓の上には、昨日の絵が置かれている。
途中まで伸びた一本目の道。
休む場所。
六本脚の椅子。
小さな水たまり。
そして、昨日新しく描かれた短い線。
どこにもつながっていない。
「身体は?」
「重さ一」
「頭痛?」
「ない」
「気持ち悪い?」
「ない」
「怖さ?」
「一」
少年が自分から薬の容器を見る。
「今日も同じ」
「減らさない?」
「うん」
「理由は言いたい?」
「今日は……」
少し考える。
「昨日、地下の話いっぱい聞いたから」
「それと薬?」
「関係あるか分かんない」
「うん」
「でも今日は変えたくない」
「分かった」
それで十分だった。
白い薬は昨日と同じ量。
青と紫は使わない。
セリーが用意し、少年が自分で飲む。
蜂蜜水も飲む。
「苦い」
「昨日も言ってたな」
「今日も苦いから」
「毎日言っていいよ」
「記録する?」
「薬が苦いこと?」
「うん」
「必要なら」
「嫌って書く?」
「書いてほしい?」
「……苦いって書いて」
「分かった」
嫌いと苦いは同じではない。
薬を飲みたくないとも言っていない。
ただ苦い。
それなら、そのまま記録すればいい。
少年は卓へ戻った。
「今日は外?」
「水たまりない」
「水たまり以外でも外には行けるけど」
「……行かなくていい」
「分かった」
「談話室はあとで行くかも」
「それもあとで決める?」
「うん」
少年は炭筆を持つ。
二本目の短い線を見ている。
「これ、消そうかな」
「何で?」
「道じゃないかもしれないから」
「消したい?」
「分かんない」
炭筆の反対側を紙の近くへ持っていく。
この炭筆には、きれいに消すためのものはついていない。
擦れば薄くはなる。
けれど紙には跡が残る。
「消したら?」
少年が俺を見る。
「どうなる?」
「薄くなると思う」
「なくなる?」
「完全には消えないかも」
「……じゃあ嫌」
手を止める。
「残す?」
「うん」
「道じゃなくても?」
「うん」
「何で?」
少年は短い線を見ながら考えた。
「昨日、俺が描いたから」
「うん」
「昨日は、あるって思った」
「うん」
「今日違うって思っても、昨日描いたのは本当だから」
俺は少し黙った。
「それ、誰かに教わった?」
「何が?」
「いや」
少年自身の言葉らしい。
「残していい?」
「お前の絵だよ」
「じゃあ残す」
炭筆を置く。
線は消えなかった。
道かもしれない。
道じゃないかもしれない。
昨日描いたもの。
今日は意味が変わったかもしれないもの。
それでも、そこに残っている。
「アル」
「何?」
「記録も消さない?」
「何の?」
「違ったやつ」
胸の奥が少し動いた。
「例えば?」
「俺が前に言ったこと」
「どれ?」
「……分かんない」
「いっぱいあるからな」
「怖いって言ったのに、あとで平気になったやつとか」
「消さないよ」
「何で?」
「その時怖かったのは本当だから」
「今は違っても?」
「うん」
「じゃあ、薬減らしたいって言って、次の日減らしたくなくなっても?」
「両方残す」
「変じゃない?」
「人の気持ちが変わるのは変じゃないだろ」
少年は紙の短い線を見る。
「じゃあこれも変じゃない」
「うん」
「道だと思って描いて、道じゃないかもって思っても」
「うん」
「消さなくていい」
「そうだな」
少年は少しだけ満足そうに頷いた。
その時、廊下から小さな笑い声が聞こえた。
扉の向こうをミナが通ったらしい。
「談話室行く」
「今?」
「うん」
「絵は?」
「置いてく」
「持っていかなくていい?」
「あとで戻るから」
少年は自分で扉へ向かった。
俺は少し遅れてついていく。
談話室ではミナが昨日作っていた布袋を広げていた。
「できた」
「何入れるの?」
三〇八号室の少年が聞く。
「まだ決めてない」
「昨日も言ってた」
「今日も決めてない」
「いつ決める?」
「入れたいものができたら」
「先に袋だけあるの?」
「うん」
少年が俺を見る。
「まただ」
「何が?」
「使い方決まってないのにある」
「そうだな」
ミナが首を傾げる。
「駄目?」
「駄目じゃない」
少年がすぐ答えた。
「俺の絵もあるから」
「何が?」
「分かんない線」
「見たい」
「あとで」
「うん」
昨日と同じように、ミナはあっさり受け入れる。
今すぐ見せなくてもいい。
見せると約束したわけでもない。
それでも二人の間に問題は起きない。
談話室の端では老人が新聞のような古い町報を読んでいた。
「今日は豆の話しないの?」
少年が聞く。
「朝から豆の心配をしてどうする」
「昨日してた」
「昨日は昨日だ」
少年が俺を見る。
俺も見る。
「また出た」
「何がだ」
老人が怪訝な顔をする。
「昨日は昨日」
「当たり前だろう」
「大事なやつ」
「何が大事なんだ」
「老人も分かってる」
「俺は昔から分かっとる」
「豆も?」
「豆は別だ」
何が別なのか分からない。
ミナが笑う。
俺も笑った。
この療養所では、少しずつ普通の会話が増えている。
過去の記録を否定するためではない。
怖かった日もある。
扉を開けられなかった日もある。
兵士の足音だけで震えた日もある。
名前を呼ばれることを拒んだ日もある。
それらを消して「今は大丈夫」に書き換える必要はない。
今が少し違うなら、その違いを新しく足せばいい。
午前の半ば、俺は記録室へ移った。
アンナマリーがすでに来ていた。
机には古い帳簿が三冊置かれている。
「今日は先に読んでいい?」
「はい」
「注意書きない?」
「ありません」
「ちょっと寂しい」
「では置きましょうか?」
「いらない」
向かいへ座る。
「帰還管理所?」
「はい。昨日まで確認していた、処置確認者と管理代行の変化についてです」
「何か出た?」
「一件、少し気になる記録があります」
「先に注意点は?」
「これ一件だけで制度全体を判断しないこと」
「了解」
アンナマリーが紙を開く。
「管理代行が使われ始めた比較的初期と思われる時期の記録です」
「本人意思は?」
「最初は空欄です」
「最初?」
「はい」
指先で日付の並びを示す。
「対象者は高熱と意識混濁があり、帰還に関する意思確認ができなかったと記録されています」
「緊急代行の頃?」
「おそらく。ただし、帰還そのものをすぐ実施した記録ではありません」
「何を代行した?」
「身体状態の確認と、内区移送準備の一部です」
「本人意思は?」
「空欄のまま」
「それで内区へ?」
「いいえ」
俺は顔を上げる。
「行ってない?」
「少なくとも、この日の記録では」
アンナマリーが次の欄を指す。
「処置確認者が、『本人意思未確認のため移送保留』と記載しています」
「代行があっても?」
「はい」
「じゃあ、この頃は管理代行が本人意思まで置き換えてない」
「この一件では、そう読めます」
さらに翌日。
「熱が下がり、本人の発語が戻っています」
「何て?」
「『今日は決めない』」
俺は黙った。
「そのまま?」
「そのまま記録されています」
「帰還拒否扱い?」
「いいえ。『意思確認継続保留』です」
「次は?」
「二日後。本人から『説明をもう一度聞く』と申し出ています」
「自分から?」
「記録上は」
「その後?」
「帰還を希望しています」
「じゃあ戻った?」
「内区へ移送されたところまでは確認できます。その先は記録がありません」
俺は椅子へ背を預けた。
「前に見た、管理代行確認済みで本人意思が空白のまま進んだ記録とは違う」
「はい」
「同じ管理代行って言葉でも、使われ方が変わってる」
「可能性があります」
「これ、処置確認者が止めてるんだよな」
「そう読めます」
「本人意思未確認だから」
「はい」
「その役割が後で消えた?」
「そこがまだ分かりません」
アンナマリーが別の帳簿を開く。
「処置確認者という欄自体は、少なくとももうしばらく残っています」
「管理代行が広がったあとも?」
「一部の記録では」
「じゃあ欄が消えたから悪化した、みたいに単純じゃない」
「はい」
「同じ役職名でも仕事が変わった可能性もある」
「あります」
「面倒」
「非常に」
二人で同時に息を吐いた。
「でも大事だな」
「はい」
古い制度が一日で悪くなったわけではない。
ある日突然、全員が本人の意思を無視し始めたわけでもないのだろう。
緊急時に本人へ聞けない。
でも命を守るために一部だけ代わりに決める。
その理由を残す。
本人が話せるようになったら説明する。
本人意思が分からなければ、内区移送を止める。
そこまでは、少なくとも一つの記録では機能していた。
それがいつ、どう変わったのか。
「アンナマリー」
「はい」
「この『今日は決めない』、消されてないんだな」
「はい」
「あとで帰還を希望したからって、最初から帰りたかったことにはされてない」
「その通りです」
「いい記録だな」
「内容が正確なら」
「うん」
そこも忘れてはいけない。
記録に書かれているから真実とは限らない。
でも、少なくとも書き方としては、その日の意思と後日の意思を別々に残している。
「後の時代の記録は?」
「本人が拒否したあと、拒否継続を判断低下として扱う例があります」
「昨日まで見てたやつ」
「はい」
「拒否が消された?」
「文字として消された例は、まだ確認できていません」
「でも意味を変えられた」
「その可能性があります」
拒否。
嫌だ。
今日は決めない。
迷っている。
怖い。
そういう言葉が記録に残っていても、それを「症状」と読み替えれば、本人の意思として扱わなくて済む。
消さなくても消せる。
その方が怖い。
「文字が残ってるだけじゃ駄目なんだな」
「はい」
「どう扱われたかも見ないと」
「そのため、処置確認者の記載内容を年代順に追っています」
「お願い」
「アルフォンス様」
「何?」
「今日はここまでになさいますか?」
「早くない?」
「一件だけ確認する予定でした」
「……そうだった」
「昨日も一つと決めておられました」
「昨日は昨日」
言ってから止まる。
アンナマリーが笑う。
「便利ですね」
「使い方間違えた」
「今日、続きを読みたいのであれば読んでも構わないと思います」
「止めないの?」
「昨日読まなかったから今日も読んではいけない、とはなりませんので」
「それもそうか」
考える。
まだ読みたい。
でも、旧保養施設から午前の報告も来る頃だ。
三〇八号室の少年の昼前の様子も気になる。
「一冊だけ追加」
「はい」
「それで昼」
「承知しました」
次の帳簿では大きな発見はなかった。
処置確認者の署名。
本人意思確認済み。
帰還希望。
身体負荷確認。
内区移送。
そんな通常例が三件続いただけだ。
以前なら「何もなかった」と感じたかもしれない。
でも、普通に本人意思が記録され、普通に確認され、普通に移送されている記録があることも必要だった。
異常な例だけを集めれば、制度全体が最初から異常だったように見える。
「終わり」
「はい」
帳簿を閉じる。
ちょうどその時、エルから連絡が入った。
『主様。旧保養施設の午前報告です』
「緊急?」
『ありません』
「聞く」
『午前中の微弱振動は一回のみです』
「少ないな」
『はい』
「形は?」
『短い単発です』
「両方で?」
『旧送風路側、細い金属管側ともに記録。開始差は誤差範囲です』
「支持金具?」
『接触音なし』
「子供は?」
『関連する自発発言はありません』
「木片?」
『午前中は本人の布鞄内です』
「じゃあ昨日の『こっちじゃない』の続きもなし」
『はい』
「点検口候補は?」
『現物に変化なし。周辺記録から、壁材で覆われた時期の候補が絞られました』
「いつ?」
『旧保養施設の大規模改修が行われた時期と一致する可能性があります』
「最近?」
『いいえ。かなり以前です。少なくとも、現在確認されている最近の再利用より前です』
「じゃあレイハンたちが塞いだとは限らない」
『はい。むしろ、より古い改修時に閉鎖された可能性があります』
「理由は?」
『記録欠損のため不明です』
「導き路が使われなくなったから?」
『候補の一つですが、採用できる根拠はありません』
「了解」
『ただし、同じ改修記録から一文が見つかっています』
「何て?」
『「旧式伝達系統の一部を停止。新式統合盤へ機能移行」と読めます』
俺とアンナマリーが顔を見合わせた。
「伝達系統」
『はい』
「導き路?」
『同一設備を指すかは不明です』
「でも、人が通るものじゃなさそうって方には少し寄った?」
『少なくとも、この改修記録で「伝達系統」と呼ばれているものは、人員通路ではありません』
「新式統合盤は?」
『位置不明です』
「今の振動と関係ある?」
『不明です』
「止めたはずの旧式系統が今も何か伝えてる可能性は?」
『可能性としては否定できません。しかし、停止が物理切断を意味するのか、通常運用停止を意味するのかも不明です』
「また分からない」
『はい』
アンナマリーが小さく笑った。
「順調ですね」
「三〇八号室の子と同じこと言うな」
「良い表現かと思いまして」
俺も少し笑う。
「ガルムは?」
『点検口を開ける理由はさらに低下したとの判断です』
「俺もそう思う」
もし床下の空間が人員進入用ではなく、古い伝達設備の中継場所だったなら、振動があるからといって人がいる証拠にはならない。
もちろん、後から別用途に使われた可能性は残る。
でも、今ある情報だけなら、閉ざされた壁を壊す理由は弱くなった。
「無刺激観測は?」
『本日いっぱい継続。その後、一度整理する案です』
「賛成」
『フェリクスは、明日以降に非接触の残留魔力測定を再提案しています』
「条件整理してから」
『はい』
「あと、今の伝達系統の記録、原文と写しを保存」
『実施済みです』
「ありがとう」
通信を終える。
アンナマリーが帳簿を片づける。
「伝えるための道」
「かもしれない」
「人が通るためではなく」
「かもしれない」
「便利ですね、その言葉」
「確定してないからな」
「はい」
記録室を出る。
昼食前に三〇八号室へ寄ると、少年はミナと一緒にいた。
昨日の布袋へ何を入れるか相談している。
「石」
少年が言う。
「重い」
ミナが答える。
「紙」
「入れてもいい」
「何の紙?」
「分かんない」
「じゃあまだ入れない」
「何か入れたいの?」
「袋だから」
「空でもいいじゃん」
ミナが止まった。
袋を見る。
「空でも袋?」
「袋でしょ」
「……そう?」
「多分」
俺に視線が来る。
「俺に聞くなよ」
「アル、知ってる?」
「空の袋も袋だと思う」
「じゃあ空でいい」
ミナが袋を膝へ置いた。
話が終わった。
「すごいな」
「何が?」
「いや」
三〇八号室の少年が俺を見る。
「地下?」
「報告来た」
「聞く」
「昼飯前だけど?」
「短いやつ」
「分かった」
必要なところだけ話す。
微弱振動は午前中に一回。
子供から関連発言なし。
点検口らしい場所は、かなり昔の改修で塞がれた可能性がある。
その頃、古い伝達系統の一部を止め、新しい設備へ機能を移した記録が見つかった。
「伝達って?」
「何かを伝えること」
「声?」
「かもしれないし、魔力かもしれないし、設備の状態かもしれない」
「人じゃない?」
「少なくとも、人が歩く道って意味ではなさそうな記録が増えてる」
「じゃあ地下に誰もいない?」
「それは分からない」
「何で?」
「伝達設備があることと、人がいるかどうかは別だから」
少年は少し考える。
「道が人の道じゃなくても、人はいるかもしれない」
「うん」
「いないかもしれない」
「うん」
「面倒」
「本当に」
ミナが布袋を持ったまま聞いていた。
「誰かいるなら呼べば?」
少年がミナを見る。
「どこに?」
「地下?」
「呼んでも聞こえるか分かんない」
「じゃあ大きい声」
「怖がるかも」
「じゃあ小さい声」
「届かないかも」
「じゃあ……」
ミナが困る。
俺は口を挟まない。
しばらくして、ミナは袋を見た。
「分かんない」
「うん」
三〇八号室の少年が答える。
「俺たちも分かんない」
「じゃあ、ご飯」
「うん」
それで二人は立ち上がった。
あまりにも簡単に切り替わる。
でも、それでいい。
世界の謎を解かなければ昼食を食べられないわけじゃない。
食堂へ行く。
今日のスープにも豆が入っていた。
老人が皿を見た瞬間、眉を寄せる。
「増えた」
「数えた?」
三〇八号室の少年が聞く。
「まだだ」
「じゃあ分かんない」
「見れば分かる」
「昨日も言ってた」
「昨日は昨日だ」
少年が俺を見る。
「また」
「今日は多いな」
「何がだ」
「何でもない」
老人は不満そうに豆を一つ食べる。
結局、昼食が終わる頃には皿は空になっていた。
午後。
俺は旧保養施設へ行かなかった。
代わりに塔へ一度戻り、エルと古い王家療養網の記録整理をした。
調べたのは「導き路」という言葉そのものではない。
その周辺で使われていた、「送る」「受ける」「保持」「中継」「戻す」に相当する古い技術用語だった。
「これ、同じ字でも意味違う?」
『はい。時代と設備分野によって用法が異なります』
「最悪だな」
『言語としては一般的です』
「調査する側には最悪」
『主様の都合で言語は成立しておりません』
「知ってる」
古い記録には、現代語へ直せば「保持」に近い語がいくつもあった。
魔力を一時的に保持する。
信号状態を保持する。
登録情報を保持する。
器具を本人が保持する。
同じ「持つ」でも意味が違う。
俺は朝に聞いた子供の言葉を思い出す。
『みちは、いくところじゃない』
『もってるところ』
もし。
という言葉が頭へ浮かぶ。
すぐに止める。
「エル」
『はい』
「今、俺が考えたこと当てられる?」
『候補はあります』
「言わなくていい」
『承知しました』
「多分、俺も言わない方がいい」
子供の「持ってるところ」が、古い設備用語の「保持」を意味する。
そんな仮説を作りかけた。
でも、あの子が二千年前や古い王家療養網の技術用語を知っている証拠はない。
普通に「持っている場所」という意味かもしれない。
そもそも翻訳された言葉が似ているだけかもしれない。
「似た言葉って怖いな」
『はい』
「つなげたくなる」
『人間の認知傾向として、関連性のある情報を統合して理解しようとすることは自然です』
「自然だから正しいとは限らない」
『はい』
記録を一つずつ分ける。
導き路。
旧式伝達系統。
保持。
木片。
子供の発言。
振動。
点検口。
別々の欄。
つながる証拠が出た時に初めて線を引く。
その作業を続けていると、夕方前にガルムから連絡が入った。
『アル』
「どうした?」
『一つ確認した』
「緊急?」
『違う。だが、今までの見方を少し変える必要があるかもしれん』
「何?」
『古い伝達系統の配置だ』
俺は手元の紙を置く。
「分かった?」
『全部じゃない。断片だ』
「聞く」
『旧保養施設の設備記録を年代別に重ねた。古い導き路と、後の伝達系統。それから現在見つかっている送風路と細管の位置だ』
「うん」
『一本の線にはならん』
「やっぱり?」
『それどころか、古い時代には少なくとも三つの中継点があった可能性がある』
「三つ?」
『暖房管理室北側。旧治療棟床下。それと、建物西端の記録室付近だ』
「用途不明室は?」
『どれにも直接一致しない』
少し息を吐く。
「じゃあ、振動がどこから来てるかは」
『余計分からなくなった』
「嬉しくなさそうだな」
『当たり前だ』
ガルムの向こうでフェリクスの声がする。
『私は興味深いと思いますが』
『お前は黙れ』
「元気だな」
『こいつを止めるのに疲れてる』
『何も触っていませんよ』
『触ろうとする目をしてる』
昨日と同じだ。
少し笑ってから、俺は本題へ戻る。
「三つの中継点って、全部同時に使われてた?」
『そこが分からん。年代差がある』
「じゃあ古い地図を一枚に重ねたからって、同時に三本あったとは限らない」
『そういうことだ』
「改修で付け替えた可能性もある」
『ある』
「今残ってる細管がどの時代かは?」
『材質だけなら比較的新しい。ただし、古い経路を再利用して通した可能性もある』
「送風路は?」
『さらに古い』
「振動が両方へ伝わるのは、建物全体の構造経由かもしれない」
『リディアもそう見ている』
「じゃあ方向差が一定じゃないのも説明できる?」
『一部はな。だが全部ではない』
「全部じゃない?」
『振幅の変化が大きすぎる例がある』
「接触状態?」
『それも候補だ』
結局、また候補が増える。
「今日は何もしない?」
『そのつもりだ』
「明日の非接触測定は?」
『今夜の記録を見て決める』
「了解」
通信を切ろうとした時、ガルムが呼び止めた。
『アル』
「何?」
『子供のことだ』
「何か言った?」
『少し前に、自分から職員へ聞いた』
「何を?」
『「きのうの、まだある?」』
俺は黙った。
「職員は?」
『何を指しているか分からないから、「何のこと?」と一度だけ聞き返した』
「それで?」
『子供は鞄を触った』
「木片?」
『鞄だ。中から木片は出してない』
「何て?」
『「ちがう」』
胸の奥がざわつく。
昨日の「こっちじゃない」。
今日の「これは、ある」。
そして今。
『きのうの、まだある?』
鞄へ触れる。
でも、違う。
「続きは?」
『職員はそれ以上聞いてない。子供は少し考えてから、窓の方を見た』
「外?」
『そうだ』
「地下じゃない?」
『少なくとも視線は窓だ』
「何て言った?」
ガルムが少し間を置いた。
『「おと」』
俺は目を閉じた。
「音?」
『そう言った』
「昨日の振動?」
『決めるな』
「分かってる」
『そのあと職員が「音?」とだけ確認した』
「本人は?」
『頷いた』
「どの音かは?」
『聞いてない』
「それでいい」
『子供は続けて、「きょう、ない」と言った』
俺は机の上の記録を見る。
今日の午前には微弱振動が一回あった。
でも、子供は「今日ない」と言った。
「今日、振動はあった」
『あった』
「じゃあ、少なくとも俺たちが記録してる振動全部を、あの子が言う『音』と同じにするのは難しくなった」
『俺もそう思う』
「昨日の二連続の時に『こっちじゃない』って言った」
『そうだ』
「でも、その時の振動を音って言ってるかはまだ分からない」
『そうだ』
「昨日、別の音もあった?」
『洗濯、暖房、扉、足音、雨上がりの雫、鳥、風。いくらでもある』
「だよな」
『だから探す』
「何を?」
『昨日、子供の生活区画で聞こえた音を全部だ』
俺は少し驚いた。
「振動だけじゃなく?」
『振動だけ見てるから引っ張られる』
「……それいいな」
『褒めるな。気持ち悪い』
「何でだよ」
『それと、子供には追加で聞かん』
「うん」
『こっちで先に調べる』
「お願い」
通信が終わる。
俺はしばらく机の前に座ったままだった。
昨日の「こっちじゃない」。
俺たちは地下の振動と結びつけそうになった。
でも今日、本人は「音」と言った。
それでも何の音かは分からない。
さらに「今日ない」と言った。
俺たちが今日記録した振動は、本人にとっては「ない」ものだったのかもしれない。
あるいは、まったく別の話かもしれない。
「消さなくてよかったな」
『何をでしょう』
「昨日の『こっちじゃない』」
『はい』
「もし俺たちが『地下振動への反応』って書き換えてたら、今日の言葉と合わなくなった時に、本人の方をおかしいって思ったかもしれない」
『可能性はあります』
「でも実際の記録は、『こっちじゃない』だけ」
『はい』
「だから、俺たちの解釈の方を変えられる」
『その通りです』
記録は、人を固定するためのものじゃない。
少なくとも、そう使いたくない。
その人が言ったことを残す。
あとで違うことを言ったら、それも残す。
矛盾して見えても、すぐどちらかを消さない。
時間が違うかもしれない。
意味が違うかもしれない。
俺たちが勝手に同じ質問への答えだと思っているだけかもしれない。
夕方、白鴉療養所へ戻ると、三〇八号室の少年は自室にいた。
絵の前。
二本目の短い線は残っている。
「アル」
「ただいま」
「仕事?」
「少し」
「地下?」
「報告聞いた」
「何かあった?」
「聞きたい?」
「うん」
俺は椅子へ座る。
「旧保養施設の子が、自分から昨日のことを聞いた」
「何て?」
「『きのうの、まだある?』って」
「何が?」
「職員も聞いた。でも、鞄を触ったあと『違う』って」
「木のやつじゃない?」
「少なくとも、その時は違うって」
「そのあと?」
「『音』って言った」
少年の表情が変わる。
「振動?」
「分からない」
「でも音?」
「本人はそう言った」
「今日も振動あった?」
「一回」
「じゃあ今日も音ある?」
「本人は『きょう、ない』って言った」
少年が黙った。
「……違う?」
「かもしれない」
「俺たちが聞いてる振動と?」
「うん。あるいは同じ現象でも、本人が気にしてるものだけ別なのかもしれない。そもそも昨日のどの音を言ってるかも分からない」
「聞かない?」
「今は、昨日その子の周りで鳴った音をこっちで調べる」
「いっぱいある?」
「いっぱい」
「扉とか?」
「うん。暖房、足音、外の音、食器、いろいろ」
「豆?」
「豆は鳴らないだろ」
「皿に落としたら鳴る」
「そこまで調べるの?」
少年が笑う。
「分かんない」
「お前までそれ使うなよ」
「でも本当」
「まあな」
少年は笑ったあと、絵を見る。
「アル」
「何?」
「これ、やっぱり消さない」
二本目の線を指す。
「うん」
「違うかもしれないけど」
「うん」
「違うって分かった時、ないと分かんなくなるから」
俺はその言葉を少し考えた。
「何が?」
「何と違ったか」
少年は一本目の道と、二本目の短い線を交互に見る。
「これがなかったら、こっちと違うって言えない」
「……そうだな」
「だから残す」
「うん」
少年は炭筆を取った。
二本目の線を伸ばすのかと思った。
けれど、その横へ小さな印を一つ描いただけだった。
「何?」
「違うって思った印」
「そんなのつけるの?」
「うん」
「じゃあもう道じゃない?」
「分かんない」
「また?」
「分かんないから残す」
少年は紙を眺める。
「アルも?」
「何が?」
「違うやつ残す?」
旧保養施設の記録。
帰還管理所の記録。
俺自身の記憶。
七歳のアルフォンス。
三〇八号室の少年。
同じ名前。
似た顔。
違う記憶。
違う感情。
違う選択。
「残すよ」
「消さない?」
「消さない」
「間違ってても?」
「俺たちの解釈が間違ってたなら、解釈を直す。でも、実際に言ったことや起きたことまでは消さない」
「何で?」
「あとで、何が違ったのか分からなくなるから」
少年は少し笑った。
「同じ」
「お前が先に言ったんだろ」
「アルが真似した」
「そうだよ」
「王子だったのに?」
「それ関係ないだろ」
笑い声が部屋へ広がる。
その夜、塔へ戻る頃には空がよく晴れていた。
星が見える。
雨雲がなくなったぶん夜は少し冷え、塔の石壁も昼間より冷たく感じる。
夕食後、セリーが温かい飲み物を置いた。
「今日は資料読まない」
「まだ何も申し上げておりません」
「先に言った」
「成長でしょうか」
「褒めた?」
「疑問形です」
「厳しい」
椅子へ座る。
エルから旧保養施設の夕方報告が届いた。
『午後の微弱振動は二回です』
「形は?」
『短い単発一回。二連続一回』
「子供の『きょう、ない』のあと?」
『はい』
「本人の反応は?」
『ありません』
「じゃあ、ますます振動全部と本人の言う音を一緒にはできない」
『はい』
「昨日の生活区画の音は?」
『ガルム隊長らが整理中です』
「何か候補?」
『複数あります。昨日、二連続振動の前後十分以内に、生活区画で確認された音は十一種類です』
「多いな」
『扉の開閉、食器、布鞄の留め具、廊下の足音、暖房管の収縮音、屋根からの落水、外壁付近の鳥、遠方の荷車、木製窓枠の軋みなどです』
「残り二つは?」
『一つは発生源不明の小さな打音。もう一つは、記録器には残っているものの、人間の耳で聞こえたか不明な低い共鳴です』
「地下の振動と時間は?」
『発生源不明の打音は二連続振動の約二分四十秒前。低い共鳴は約七分後です』
「近いけど一致じゃない」
『はい』
「今日、その二つは?」
『発生源不明の打音は記録なし。低い共鳴も記録なし』
俺は少し姿勢を正した。
「だから『きょう、ない』と一致する?」
『一致する現象の候補にはなります』
「候補だけ」
『はい』
「発生源不明の打音はどこで記録?」
『生活区画廊下の記録器です。旧送風路側の測定器では明確に記録されていません』
「低い共鳴は?」
『双方で極めて弱く記録されていますが、位相比較ができる精度ではありません』
「じゃあ別々かもしれない」
『はい』
「明日どうする?」
『ガルム隊長は、刺激試験ではなく、生活区画と設備区画の時刻同期精度を上げて無刺激観測を継続したいとの提案です』
「賛成」
『子供への追加質問は行いません』
「うん」
『また、床下点検口候補は明日も開けません』
「了解」
通信を終える。
セリーが向かいで飲み物を口にしている。
「一個減ったと思ったら二個増えた」
「何がでしょう」
「分からない音」
「はい」
「振動だけ追ってたら見落としてた」
「はい」
「子供が『音』って言わなかったら、たぶん調べなかった」
「そうでしょうね」
「でも、本人に何の音か聞かなかったから、こっちで十一個も探すことになった」
「面倒ですか?」
「面倒」
「では聞けばよかったと思われますか?」
少し考える。
「今は思わない」
「なぜでしょう」
「こっちで調べられることがこんなにあったから」
「はい」
「全部調べても分からなかったら、その時に聞く必要が出るかもしれない」
「はい」
「その時は、何のために聞くのか説明する」
「よろしいと思います」
「でも、本人が嫌って言ったら?」
「緊急性がなければ、そこで止めることもできます」
「うん」
飲み物を一口。
温かい。
窓の外の星を見る。
違うものを違うまま残す。
それは整理が下手なようにも見える。
でも、無理に同じにしてしまうよりいい。
昨日の「こっちじゃない」。
今日の「きょう、ない」。
昨日の振動。
今日の振動。
発生源不明の打音。
低い共鳴。
導き路。
伝達系統。
木片。
どれも、まだ一つの話にはならない。
そして、ならないままでも記録はできる。
「主様」
「何?」
「そろそろ休まれますか?」
「うん」
「即答ですね」
「今日は頭使った」
「自覚がおありで何よりです」
「それ褒めてる?」
「はい」
「今日初めてじゃない?」
「数えておりません」
「俺は一回だと思う」
「では一回で」
立ち上がる。
自室へ戻る前、もう一度だけエルへ確認した。
「旧保養施設、緊急なし?」
『ありません』
「白鴉は?」
『安定しています』
「三〇八号室の子は?」
『夕食後、自室で過ごしています。白い薬による目立った変化なし。明日の量は明日決めるとのことです』
「幼いアルフォンスは?」
『本日の歩行練習を短めに終了。疲労二から一へ低下。夕食摂取済みです』
「名前の分からない子は?」
『就寝準備中です。木片は布鞄の中です』
「了解」
部屋へ入る。
今日は眠れそうだった。
答えが出たからではない。
むしろ分からないことは増えている。
それでも、それぞれを別々に持てている。
だから、一つの大きな恐怖にしなくて済む。
翌朝。
まだ日が昇り切る前に、エルの声で目を覚ました。
『主様』
目を開ける。
「緊急?」
『生命に関わる緊急事態ではありません』
その言い方で、完全に目が覚めた。
「何があった?」
『旧保養施設から連絡です』
身体を起こす。
「振動?」
『いいえ』
「子供?」
『本人は安全です』
「じゃあ何?」
『昨夜から時刻同期を強化していた生活区画の記録器が、先ほど一つの音を記録しました』
「どんな?」
『小さな打音です』
昨日はなかった。
その前の日にはあった。
「発生源不明のやつと似てる?」
『波形は近似しています』
「子供は?」
『音の約十二秒後に覚醒しました』
胸が少し強く鳴る。
「起きた理由は?」
『不明です』
「何か言った?」
『はい』
「そのまま」
短い沈黙。
『「きた」』
以前にも聞いた言葉だった。
けれど、あの時は制御した振動の頃だった。
そして、そのあと本人は言った。
『でも、ちがう』
俺は息を整える。
「続きは?」
『本人は布鞄へ手を伸ばしました。しかし木片は取り出していません』
「何か見た?」
『扉の方です』
「地下じゃない?」
『少なくとも視線は室内扉です』
「それで?」
『約十五秒後、もう一度発言しています』
「何て?」
エルが、記録された言葉だけを読む。
『「こんどは、こっち」』
俺はすぐには動かなかった。
旧送風路でもない。
点検口でもない。
細い金属管でもない。
少なくとも、本人が見たのは自分の部屋の扉だった。
「誰か廊下にいた?」
『確認中です』
「扉は開いた?」
『いいえ』
「誰かノックした?」
『記録上ありません』
「音の発生位置は?」
『生活区画廊下側と推定されています。ただし、正確な位置はまだ特定できません』
「旧設備側では?」
『同時刻に、旧送風路と細い金属管の微弱振動は記録されていません』
俺はそこで、完全に動きを止めた。
今まで追っていた振動とは、少なくとも今回は重なっていない。
「……分ける」
『はい』
「今の音を地下振動と結びつけない」
『はい』
「『きた』も前の『きた』と同じ意味だと決めない」
『はい』
「『こっち』が扉だとも決めない。見てただけ」
『はい』
「本人は怖がってる?」
『現在、呼吸はやや速いものの会話可能です。職員が「ここにいていい?」と尋ねたところ、本人は頷いています』
「誰がいる?」
『普段から接している職員一名です』
「増やさないで」
『はい』
「俺も今すぐ行かない」
言葉にすると、胸の奥が強く抵抗した。
行きたい。
でも、今あの子が必要としているのは調査する元王太子ではない。
いつもの職員がそばにいていいと本人が選んだ。
「ガルムは?」
『生活区画外で確認中です。本人の部屋へは入っていません』
「それでいい」
『主様』
「何?」
『子供から、もう一つ発言がありました』
俺は待つ。
『職員が何も尋ねずそばに座っていたところ、本人が扉を見たまま言いました』
「うん」
『「あけなくていい」』
胸の奥にあった、今すぐ確かめたいという気持ちが止まった。
「……分かった」
『はい』
「開けない」
『本人の室内扉についてですか?』
「そこも決めない」
自分で言い直す。
「何を開けなくていいって言ったかは、まだ分からない」
『はい』
「でも少なくとも、本人の安全に問題がないなら、今すぐ何かを開ける理由にはしない」
『承知しました』
窓の外を見る。
朝の薄い光。
森。
塔。
離れた場所にある旧保養施設。
その一室で、小さな子供が扉を見ている。
『きた』
『こんどは、こっち』
『あけなくていい』
意味は分からない。
でも、分からないからこそ。
今は、その言葉を勝手に完成させない。
昨日、三〇八号室の少年が消さずに残した短い線を思い出した。
道ではないかもしれない線。
違うと思った印。
それでも消さなかった。
違うと言われたものを消してしまえば、あとから何が違ったのか確かめることもできない。
なら、この言葉もそのまま残す。
今はまだ、線を引かない。
その向こうに何があるのかを決めるのは、もっとあとでいい。




