第63話 伝えるための道ならば、向こう側に誰かがいるとは限りませんでした
旧保養施設の古い設備保守記録から見つかった「導き路」という言葉について、エルから次の報告が届いたのは、それから一時間ほど経った頃だった。
三〇八号室の少年は、まだ外へ出ていない。
白い薬をほんの少し減らしてから時間を置き、頭痛や吐き気、ふらつきが出ないかを確かめている途中だった。少年自身がそうすると決めた以上、水たまりが少しずつ小さくなっているからといって急がせる理由はない。
窓から差し込む光は先ほどより強くなっていた。
雨上がりの雲がゆっくり流れ、その隙間から現れた陽射しが中庭の石畳を照らしている。残った水たまりの縁では、濡れた石が白く乾き始めていた。
「減ってる」
少年が窓際から言った。
「水たまり?」
「うん」
「そうだな」
「あとどのくらい?」
「全部なくなるまで?」
「うん」
「分からない。日が出てきたから、思ったより早いかも」
「……そっか」
残念そうではある。
けれど、だから今すぐ行くとは言わなかった。
少年は窓から離れると、自分の椅子へ座った。卓の上には途中で止まった道の絵があり、その先は白いままだ。
「身体は?」
「重さ一」
「頭は?」
「平気」
「気持ち悪くない?」
「ない」
「怖さは?」
「一」
自分で指を一本立ててから、少年は俺を見る。
「まだ待つ?」
「俺に決めてほしい?」
「……違う」
「じゃあ、どうしたい?」
「もうちょっと待つ」
「分かった」
それで終わる。
薬を減らしたから何分待たなければならない、という決まりを押しつけているわけではない。セリーが説明したのは、すぐに外へ出れば体調の変化が薬によるものなのか活動によるものなのか分けにくくなるということだけだ。
それを聞いた上で、少年が待つと決めた。
だから待つ。
窓の外の水たまりがなくなりそうだからという理由で、俺が代わりに決め直す必要はない。
『主様』
エルの声が響いた。
「旧保養施設?」
『はい。先ほど確認された古い用語について、追加の使用例が二件見つかりました』
少年がこちらを見る。
「聞く?」
「うん」
即答だった。
「エル、お願い」
『承知しました。まず、先ほどの「導き路」についてですが、現在確認できている原文では、人が通行する設備を指す用法は見つかっていません』
「何を運ぶ?」
『一件目には「導き路を介し、上部調整器へ状態を送る」と読める記述があります。ただし、「状態」に相当する語の一部が欠損しており、何の状態を指すかは不明です』
「魔力?」
『可能性はありますが、確定できません』
「信号?」
『現代語へ置き換えるなら候補になります。しかし、当時の術式用語として何を意味したかは追加確認が必要です』
俺は頷く。
「二件目は?」
『「主路停止時、第二導き路へ切替」と読める記録です』
「主路と第二?」
『はい』
「一本じゃないんだ」
『少なくとも、この設備については複数系統が存在した可能性があります』
少年が卓の絵へ視線を落とした。
「道が二つ?」
「昔の技術者がそう呼んでただけかもしれない」
「人は歩かない?」
「今見つかってる記録だと、歩く道ではなさそうだな」
「じゃあ何が歩くの?」
「歩くとは限らない」
「……流れる?」
「それもまだ分からない」
少年が口元を少し曲げる。
「また分かんない」
「順調だな」
「分かんないの増えるのが?」
「間違って分かったことにするよりは」
「面倒だけど」
「それは同意する」
エルが続けた。
『また、記録に使用されている設備番号について、現地で確認された細い金属管と直接一致する番号はありません』
「じゃあ、あの管が導き路だとは言えない」
『はい』
「旧送風路は?」
『こちらも一致を確認できません』
「用途不明室?」
『位置関係を示す記述が欠損しています』
「何もつながらないな」
『現時点では』
それでいい。
言葉が一つ見つかったからといって、目の前の設備へ名前を貼りつけない。
「ガルムは?」
『保守記録の年代整理を優先しています。同じ「導き路」という語が長期間同じ意味で使われていたかを確認する必要があるとの判断です』
「賛成」
『フェリクスからは、現地の細管に弱い魔力伝導性があるか非接触で測定したいとの提案があります』
「強い走査じゃない?」
『周囲へ新たな魔力を流さず、自然に存在する残留魔力のみを測定する方法です』
「リディアは?」
『実施可能。ただし、測定器そのものの微弱な術式が古い設備へ影響する可能性を完全には排除できないため、現在の無刺激観測を終えてからでも遅くないとの意見です』
「じゃあ今はやらない」
『ガルム隊長も同意しています』
少年が不思議そうな顔をした。
「調べられるのに?」
「うん」
「やらない?」
「今は何もしない状態で何が起きるか見てるからな。途中で測定器を増やしたら、何か変わった時に原因が増える」
「昨日の薬と外みたい」
俺は少し驚いた。
「似てるな」
「二個変えたら、どっちか分かんない」
「そういうこと」
「じゃあ地下も待つ」
「地下はガルムたちが決めてるけど、今はそうするって」
「そっか」
少年は納得すると、また窓の外を見た。
水たまりはまだある。
けれど、一番小さかったものはもう半分ほどになっている。
「……そろそろ行きたい」
「身体は?」
「一。ほかはない」
「セリー」
呼ぶと、扉の近くで記録を確認していたセリーが顔を上げた。
「現時点では、減量後に明確な体調変化は認められません」
「外へ出ても?」
「短時間であれば、医学的に止める理由はありません。ただし、昨日と同様、途中で疲労や頭痛、ふらつき等があれば戻ることをお勧めします」
少年が聞いている。
「どうする?」
「行く」
今度は迷わなかった。
「水たまり?」
「うん」
「踏む?」
「それは行ってから決める」
「分かった」
上着を着る。
昨日は雨の中へ出たから少し厚めだったが、今日は風が弱い。少年は二枚の上着を見比べ、薄い方を自分で選んだ。
「寒かったら戻る」
「もう一枚持っていく?」
「持っていかない」
「了解」
廊下へ出る。
途中、老人とすれ違った。
「外か?」
「うん」
「豆はないぞ」
「知ってる」
「なら安心だ」
「何の話だよ」
俺が言うと、老人は真面目な顔で首を振った。
「外へ行く時まで豆を警戒していたら疲れるだろう」
「誰も警戒してない」
三〇八号室の少年が笑う。
その笑い声を残して、俺たちは中庭へ向かった。
屋根のある石廊下へ出る。
雨上がりの空気は冷たかったが、昨日のように雨粒が身体へ当たることはない。屋根からはまだ時々雫が落ちていて、濡れた土と草の匂いが風に混ざっている。
少年はすぐには中庭へ出なかった。
水たまりを見る。
「ある」
「あるな」
「昨日の?」
「多分、場所は同じだと思う」
「大きさ違う」
「乾いたから」
少年が昨日触れたものと思われる水たまりは、縁がかなり後退していた。
それでも、中央にはまだ浅い水が残っている。
「行く」
少年が一歩出た。
昨日より自然だった。
だからといって、昨日より進歩したとは言わない。
今日は今日だ。
二歩、三歩。
屋根の外へ出る。
濡れた石の上を慎重に歩く。
「滑る?」
「少し滑りやすいかも」
「走らない」
「それがいい」
水たまりの前まで来た。
少年が止まる。
昨日はここでしゃがみ、指先を水へ入れた。
今日は立ったまま見ている。
「踏む?」
自分に聞いているような声だった。
俺は答えない。
「……踏みたい」
少年が言う。
右足を持ち上げる。
水たまりの上へ。
そこで止まった。
少しだけ身体が揺れる。
俺は手を出さない。
転びそうなら支える。
でも、今はまだ必要ない。
少年の靴底が、水面へ触れた。
ぴちゃり。
小さな音。
水面からいくつもの輪が広がる。
少年は目を見開いた。
すぐに足を戻すかと思った。
戻さない。
「……入った」
「入ったな」
「冷たくない」
「靴履いてるからな」
「昨日、手は冷たかった」
「手には靴ないから」
「知ってる」
少年が少し笑う。
右足を一度上げる。
もう一度。
今度は少し強く踏む。
水が跳ねた。
「うわ」
自分でやったのに驚いている。
ズボンの裾に小さな水滴がついた。
少年はそれを見る。
「濡れた」
「水たまりだからな」
「セリー」
「洗浄可能です」
少し離れた場所から即答が返る。
「まだ何も聞いてない」
「昨日と同じ質問をされる可能性が高いと判断しました」
「……洗える?」
「はい」
「じゃあいい」
少年がもう一度踏む。
今度は左足も。
両足が浅い水の中へ入った。
水たまりは深くない。
靴底が沈むほどでもない。
それでも少年は、自分の足元へ広がる小さな波をじっと見ていた。
「怖さ?」
自分から言う前に聞く必要があるか迷ったが、安全確認として尋ねた。
「二」
「疲れ?」
「一」
「戻りたい?」
「まだ」
「分かった」
少年は水たまりの中で一歩だけ動いた。
ぴちゃり。
また音がする。
「音する」
「するな」
「昨日、手だとしなかった」
「少しはしてたよ」
「こんなじゃない」
「足の方が大きいから」
少年はもう一度。
ぴちゃり。
少し笑う。
もう一度。
「楽しい?」
「……うん」
今度は迷わなかった。
「ちょっとじゃない?」
「昨日より楽しい」
「そっか」
それだけ返した。
褒めない。
よくできたとも言わない。
水たまりを踏めたことが、何かの試験に合格したわけではない。
ただ本人がやってみたくて、やった。
楽しかった。
それでいい。
少年はしばらく水面を見たあと、自分から外へ出た。
「もういい」
「戻る?」
「うん」
「疲れは?」
「二」
「じゃあ戻ろう」
屋根の下へ入る。
セリーが布を差し出した。
「自分で拭く」
「どうぞ」
少年は濡れた裾と靴の表面を拭く。
完全には乾かない。
「靴、替える?」
「部屋戻ったら」
「うん」
歩き始める前に、少年が一度だけ水たまりを振り返った。
「明日なくなっててもいい」
「うん」
「今日踏んだから」
「うん」
「でも、また雨降ったら踏むかも」
「その時決めればいい」
「そうする」
廊下へ戻る。
途中で例の老人がまだいた。
少年の濡れた靴を見る。
「踏んだな」
「うん」
「水たまり?」
「うん」
「豆じゃなくてよかった」
「何で豆踏むんだよ」
少年が笑いながら返した。
老人も笑う。
部屋へ戻って靴を替え、少し休む。
薬を減らしたあとの状態にも、大きな変化はなかった。
疲れは二から、しばらくすると一へ戻った。
頭痛なし。
吐き気なし。
ふらつきなし。
少年自身が「今日はこれで外終わり」と言ったので、その選択を記録する。
薬を減らした。
外へ出た。
水たまりを踏んだ。
今のところ問題はない。
ただし、夜まで変化を見る。
それ以上の意味はつけない。
昼食前、俺は三〇八号室を出た。
「アル」
「何?」
「今日、旧保養施設行く?」
「まだ決めてない」
「行きたい?」
少し考える。
「行きたい」
「でも?」
「行かなくても調査は進んでる」
「じゃあどうする?」
「午前の報告を聞いてから決める」
「そっか」
「お前は?」
「昼ご飯食べる」
「それは決まってるんだな」
「お腹空いた」
「大事だ」
部屋を出る。
食堂へ向かう少年と途中で別れ、俺は小さな休憩室へ入った。
窓を開けると、湿った風が入ってくる。
「エル。旧保養施設の午前報告は?」
『まもなく届く予定です』
「じゃあ待つ」
『現地へ向かわれますか?』
「それを決めるために待つ」
『承知しました』
椅子へ座る。
何もすることがない。
正確には、できることならいくらでもある。
帰還管理所の記録。
町の報告。
白鴉療養所の物資確認。
王都側の動向。
レイハンの追跡状況。
それらを全部、待ち時間へ詰め込む必要はない。
窓の外を見る。
雨上がりの葉が風に揺れている。
しばらくすると、扉が開いた。
「ここにいたのか」
ブラットだった。
「珍しいな」
「何が?」
「何も持ってない」
俺は自分の手を見る。
「本当だ」
「気づいてなかったのか」
「いや、分かってたけど」
ブラットが向かいへ座る。
「アンナマリーから聞いた」
「何を?」
「昨日、資料を途中で閉じたらしいな」
「それ報告されるようなこと?」
「以前のお前なら事件だ」
「みんな同じ扱いするな」
ブラットは笑う。
少し沈黙してから、窓の外へ目を向けた。
「地下の方は?」
「振動は続いてる。古い設備用語で『導き路』っていうのが見つかった」
「通路か?」
「今のところ、人が歩く通路じゃなさそう」
「じゃあ何だ」
「何かの状態を送ったり、別の系統へ切り替えたりする設備に使われてた言葉かもしれない」
「かもしれないばかりだな」
「そうなんだよ」
「嫌そうだな」
「嫌だよ」
素直に言う。
ブラットが少しだけ目を丸くした。
「何?」
「いや。昔なら『調査を続ける』で終わったと思ってな」
「今も続けるよ。でも分からないのは嫌だ」
「そうか」
「怖いし」
口にしてから、自分でも少し驚く。
ブラットは笑わなかった。
「何が怖い?」
「地下に誰かいるかもしれないこと。いないかもしれないこと。いるのに、俺たちが待ってる間に何か起きること」
「だから開けたい?」
「少し」
「でも開けない」
「今は」
ブラットは腕を組む。
「俺が現場にいたら、たぶん開けたくなる」
「お前も?」
「振動がして、子供が『まだ、いる』なんて言ったらな」
「でも、それが同じことを指してるか分からない」
「分かってる。だから俺は現場へ行かない方がいいのかもしれん」
「そこまで?」
「扉を蹴る役なら得意だぞ」
「今はいらない」
「だろうな」
二人で笑う。
それからブラットが、少し真面目な顔になった。
「でもな、アル」
「うん」
「もし本当に中に人がいて、助けを求めてると分かったら、その時は待たなくていい」
「分かってる」
「選択を大事にするのと、何もしないのは違う」
「うん」
「お前、最近そっちを気にしすぎて逆へ振れそうな時があるから」
俺は返事をしなかった。
少し痛いところだった。
以前は、自分が正しいと思えば動いた。
今は、他人の意思を勝手に決めたくない。
だから待つ。
でも、待つことそのものを正しいものにしてしまえば、それも同じなのかもしれない。
「誰かが倒れてて、意識がなくて、今すぐ治療しないと死ぬなら」
「治療する」
「本人に聞けなくても?」
「最低限は」
「そういうことだ」
「うん」
ブラットが窓の外を見る。
「地下も、危険が分かったら条件が変わる」
「そうだな」
「今は?」
「分かってない」
「じゃあ調べろ」
「単純だな」
「俺はそういう役でいい」
その時、エルが反応した。
『主様。旧保養施設から午前観測報告です』
「来た」
ブラットも黙る。
「お願い」
『無刺激観測を継続した結果、午前中に微弱振動を二回検出しました』
「形は?」
『一回目は短い単発。二回目は長めの単発です』
「また不規則」
『はい』
「細い管は?」
『両方で振動を検出しています』
「送風路とどっちが先?」
『そこについて、フェリクスとリディアから報告があります』
声の調子は変わらない。
けれど俺は姿勢を正した。
「何?」
『測定器の時刻誤差を再調整した結果、二回とも細い金属管側の振動開始が、旧送風路廊下側よりわずかに早い可能性があります』
「どのくらい?」
『一回目が約〇・三秒。二回目が約〇・二秒です』
「誤差は?」
『最大約〇・一五秒』
「微妙だな」
『はい。方向を断定できる差ではありません』
「でも、送風路から管へ伝わったと決めるのも早い」
『その通りです』
ブラットが小さく息を吐く。
「管の向こうは?」
「まだ分からない」
俺が答える。
『追加があります』
「聞く」
『古い設備保守記録で、「第二導き路」の点検位置を示す断片が見つかりました』
「場所は?」
『現在確認されている用途不明室そのものではありません』
少し安心したような、拍子抜けしたような感覚がある。
『記述では、「暖房管理室北側、床下中継部」と読めます』
「暖房管理室?」
『現在の暖房設備室と同一かは未確認です。ただし位置関係は近い可能性があります』
「床下中継部」
『はい』
「地下室じゃなくて、床下?」
『当時の構造が現在まで同じなら、その可能性があります』
俺はブラットを見る。
ブラットも俺を見る。
「また開ける理由が減った?」
彼が言う。
「少なくとも、用途不明室を開ける理由にはならない」
「じゃあ床を剥がす?」
「剥がさない」
「だろうな」
エルが続ける。
『ガルム隊長は、既存の建築図と現在の床高を比較し、床下空間が残っているかを先に確認する方針です』
「壊さずに?」
『はい。外壁側の既存通気口と、過去に確認済みの床下空洞記録を照合します』
「お願い」
『また、名前の分からない子供について報告があります』
胸が少し緊張する。
「何か言った?」
『いいえ』
「じゃあ?」
『本人が昼食前、木片を自分の鞄へ入れたいと希望しました』
「鞄?」
『保護後に本人用として用意した小さな布鞄です。これまでは木片をポケット、枕元、卓上のいずれかへ置いていました』
「理由は聞いた?」
『聞いていません。「入れる?」と本人が尋ねたため、職員が「あなたの物だから、入れていい」と回答しました』
「それで?」
『本人が自分で鞄へ収納しました』
「他には?」
『「なくさない」と発言しています』
俺は黙る。
以前、あの子は言った。
これがあると戻される。
なくすと戻れない。
返して。
これは僕の。
これはいる。
これはしるし。
しるしは僕の。
今朝は、道について「いくところじゃない」「もってるところ」と言った。
そして今、木片を鞄へ入れて「なくさない」と言った。
つなげたくなる。
すごく。
「木片のことを『道』とは呼んだ?」
『いいえ』
「鞄を?」
『いいえ』
「じゃあ別」
『記録上は別です』
「それで」
息を吐く。
「本人が鞄へ入れたなら、そのままにして」
『はい』
「調査のために出してもらわない」
『共有済みです』
「ありがとう」
通信を終える。
ブラットが俺を見ていた。
「何?」
「よく我慢するな」
「何を?」
「聞きたくならないのか。『それが道なのか』って」
「なる」
「だよな」
「すごくなる」
「じゃあ何で聞かない」
「今、本人は聞いてほしいって言ってないから」
「それだけ?」
「それだけで十分だと思う」
ブラットはしばらく黙った。
「難しいな」
「うん」
「でも、もしその木片が危険なものだったら?」
「安全確認はする。今までの範囲で危険な魔力反応は出てない」
「新しい反応が出たら?」
「その時は説明して、必要なら離してもらう。命に関わるなら、本人が嫌がっても最低限の安全確保をするかもしれない」
「その理由は記録する?」
「する」
「あとで本人にも?」
「説明できるなら」
ブラットが頷く。
「ならいい」
「試験?」
「確認だ」
「何の」
「お前が『選ばせる』って言葉だけに逃げてないか」
「厳しいな」
「元側近だからな」
「もう元だろ」
「だから言える」
ブラットは立ち上がった。
「昼飯行くぞ」
「え?」
「俺もまだだ」
「俺、旧保養施設行くか決めてない」
「今の報告で行く必要増えたか?」
考える。
「……減った」
「じゃあ飯だ」
「決めるの早いな」
「お前が行きたいなら午後に行けばいい。腹減ったまま行く必要はない」
反論できなかった。
食堂へ向かうと、三〇八号室の少年はもう食べ始めていた。
俺を見つける。
「アル、地下行った?」
「行ってない」
「何で?」
「昼飯だから」
少年が一瞬黙り、それから笑った。
「それでいいの?」
「ブラットに言われた」
「人のせいにするな」
隣から即座に返される。
「でも、報告聞いたら行く必要は少し減った」
「何か分かった?」
「食べながら聞きたい?」
「……食べてから」
「分かった」
少年はスープへ戻る。
今日の豆は見える。
老人も向こうで食べている。
「今日は少ない」
「何が?」
「豆だ」
「数えた?」
「三つ食べた。あと二つ見える」
「数えてるじゃん」
「見えるからな」
三〇八号室の少年が自分の皿を見る。
「俺、六個」
「負けた」
「勝負なの?」
「違う」
「じゃあ何で負けたって言った」
「気分だ」
少年が笑う。
ブラットが俺の隣で小さく呟いた。
「ここ、本当に療養所か?」
「療養所だよ」
「前に来た時と空気が違う」
「そう?」
「少なくとも豆の数で騒ぐ場所ではなかった」
確かにそうだった。
以前は、食事を食べるかどうかすら自分で決められない人がいた。
薬の色を見ただけで身体を固くする者もいた。
兵士の靴音で扉の奥へ隠れる者もいた。
今も恐怖が消えたわけではない。
部屋から出られない人もいる。
名前を言いたくない人もいる。
兵士を見たくない人もいる。
それでも、豆の数に文句を言える。
水たまりを踏んだ話ができる。
嫌なら嫌と言える。
そんな普通のことが、この場所ではまだ新しい。
食事を終えたあと、三〇八号室の少年へ午前の報告を伝えた。
聞きたいと言ったからだ。
「管の方が先かもしれない?」
「ほんの少しだけ。測定の誤差もあるから、まだ分からない」
「床の下に何かある?」
「昔の記録だと、床下に中継する場所があった可能性がある」
「地下とは違う?」
「言葉としては違う。でも、今の建物が昔と同じかも分からない」
「子供は?」
「木のやつを自分の鞄に入れた」
「何て?」
「なくさないって」
少年のスプーンが止まる。
「道って言った?」
「言ってない」
「じゃあ分かんない」
「うん」
「聞かない?」
「今は」
「俺なら聞きたい」
「俺も聞きたい」
「でも聞かない」
「うん」
少年は少し考えた。
「俺には聞くのに」
責める声ではなかった。
「何を?」
「薬とか、怖さとか」
「それはお前の身体を安全に見るために必要だから」
「地下の子も、安全なら聞いていい?」
「必要なことなら」
「道は?」
「今すぐ安全に必要?」
少年は黙る。
「分かんない」
「俺も。だから今は聞かない」
「もし木のやつが危なかったら?」
「必要な説明をして、安全のためにどうするか一緒に考える。間に合わないくらい危なければ、先に離してもらうこともある」
「嫌って言っても?」
「命に関わるなら、そうする場合もある」
少年の表情が少し硬くなる。
「それ、選べない」
「うん」
「じゃあ駄目じゃない?」
「駄目なことをする可能性はある」
少年が俺を見る。
「でも、死ぬかもしれないのに『本人が嫌って言ったから何もしませんでした』で終わらせるのも違うと思ってる」
「……後で怒られるかも」
「怒っていい」
「嫌われるかも」
「それも、その人が決めることだな」
「助けたのに?」
「助けたから好きになれって言う方がおかしいだろ」
少年はしばらく黙った。
「難しい」
「難しいな」
「選ばせれば全部いいんじゃないんだ」
「最近それを覚えてるところ」
「アルも?」
「俺も」
少年は少し笑った。
「じゃあ俺と同じ」
「そうかもな」
昼食後、少年は休むと言った。
薬を減らした日のため、午後の状態も見る。
俺は部屋へ戻る少年を見送ってから、ようやく旧保養施設へ行くか考えた。
行きたい気持ちはまだある。
けれど、今行けば何ができる?
床下中継部の古い記録を読む。
現場の管を見る。
記録器の波形を見る。
どれも、ガルムたちができる。
名前の分からない子供に会う?
会いたい。
でも、それは調査のためか。
本人が俺に会いたいと言ったわけでもない。
「エル」
『はい』
「午後も行かない」
『旧保養施設へ伝えます』
「ガルム、何て言うかな」
『予測しますか?』
「いや、いい」
数分後。
『主様。ガルム隊長から返信です』
「早いな」
『「了解。こっちは任せろ」』
「普通だった」
『もう一文あります』
「何?」
『「珍しく賢い」』
「余計だよ」
思わず笑った。
午後は町の報告を一つだけ確認し、その後は白鴉療養所の中を歩いた。
仕事というより、ただ歩いた。
廊下ではミナが職員と布を畳んでいた。
俺を見ると手を上げる。
「アル」
「今日は何作ってる?」
「袋」
「何入れる?」
「まだ決めてない」
「袋作ってから決めるの?」
「うん」
「道と同じだな」
「何が?」
「何でもない」
ミナは気にせず作業へ戻る。
少し先では幼いアルフォンスが歩行練習を終えたところだった。
ヨアヒムに支えられてはいない。
近くにはいる。
でも、本人が歩けるところは自分で歩く。
「アル」
「お疲れ」
「きょう、ちょっとながい」
「歩いた距離?」
「うん」
「疲れは?」
「に」
「じゃあ休む?」
「ジャム」
「休むより先?」
「パンとジャム」
ヨアヒムが苦笑する。
「食欲はあります」
「いいこと?」
「少なくとも現時点では」
幼いアルフォンスが俺を見る。
「アルも?」
「何が?」
「ジャム」
「今日は食べないかな」
「おいしいのに」
「知ってるよ」
「じゃあ食べる?」
「今はいらない」
幼い顔が少し不思議そうになる。
「おいしくても?」
「美味しくても、今食べたくない時はある」
「……そっか」
納得したのかは分からない。
でも、それ以上勧めなかった。
俺もその場を離れる。
同じものが好きでも、同じ時に欲しいとは限らない。
同じ名前でも、同じ人とは限らない。
同じ「道」という言葉でも、同じものを指すとは限らない。
似ているものを一つにしたくなる。
それは楽だからだ。
でも、人間までそれでまとめたら駄目なのだろう。
夕方近く、三〇八号室へ戻る。
少年は起きていた。
体調に大きな変化はない。
「疲れ一」
「頭痛?」
「ない」
「気持ち悪い?」
「ない」
「怖さ?」
「一」
「薬は?」
「今日はもう飲んだだろ」
「明日の話」
「明日は明日」
即答だった。
「分かった」
「外も今日は終わり」
「うん」
「水たまり踏んだし」
「楽しかった?」
「うん」
少年は卓の絵を見せる。
道は伸びていない。
休む場所もそのまま。
六本脚の椅子も残っている。
「今日は描かなかった?」
「ちょっと描いた」
「どこ?」
よく見る。
休む場所の横に、小さな丸が一つ増えていた。
「何これ?」
「水たまり」
「小さくない?」
「紙だから」
「便利だな」
「うん」
少年が笑う。
「道の途中に水たまり?」
「違う」
「じゃあどこ?」
「休むところの近く」
「何で?」
「今日踏んだから」
「記録?」
「絵」
「違うの?」
「記録じゃなくても描いていいでしょ」
「もちろん」
少年は紙を自分の方へ戻した。
「これは俺のだから」
「うん」
「アルの椅子もあるけど」
「俺のじゃないの?」
「もらったから俺の」
「そうだった」
少しだけ悔しい。
でも、嬉しい。
その二つが同時にあることも、最近は珍しくなくなった。
塔へ戻ったのは夕暮れ前だった。
雲はかなり薄くなり、西の空が淡い橙色へ染まっている。雨で濡れた森は普段より色が濃く、塔の窓を開けると冷たい草の匂いが入ってきた。
セリーは夕食の準備をしている。
「今日は濡れてない」
「はい」
「傘も使ってない」
「雨が降っておりませんでしたので」
「それでも評価して」
「何をでしょう」
「濡れなかったこと」
「天候を?」
「俺を」
「主様が意図的に雨を避けられたのであれば」
「もういい」
席へ座る。
今日は少し疲れている。
身体ではなく、頭が。
道。
導き路。
木片。
床下中継部。
振動。
子供の言葉。
どれも頭の中へ残っている。
それでも、旧保養施設へ行かなかったことを後悔してはいない。
『主様』
エルが声をかけた。
「夕方報告?」
『はい』
「聞く」
『午後の無刺激観測では、微弱振動を三回検出しました』
「形は?」
『短い単発二回。残る一回は二連続です』
「細い管は?」
『すべてで記録しています』
「開始時刻の差は?」
『一回は細管側が約〇・二秒先行。一回はほぼ同時。二連続振動では、一つ目が旧送風路側先行、二つ目が細管側先行です』
「……方向が一定じゃない」
『はい』
「一本の端からずっと来てる感じじゃない?」
『少なくとも、現在の測定結果だけから単純な一方向伝達を仮定するのは難しいとの見解です』
「フェリクス?」
『リディアと共同見解です』
「ガルムは?」
『「管一本を道だと思うな」と』
「俺もそう思う」
エルが続ける。
『床下構造についても進展があります』
「聞く」
『外壁側の既存通気口と古い建築寸法を照合した結果、暖房設備室北側の床下に、高さ約四十から六十センチ程度の空間が残っている可能性があります』
「人が入れる?」
『成人が通常姿勢で移動できる高さではありません』
「子供なら?」
言ってから、自分で少し嫌になる。
エルは淡々と答えた。
『体格によっては身体を低くすれば進入可能な寸法ですが、実際の内部状況、障害物、狭窄、崩落の有無は不明です』
「……今のは、子供と結びつけないで」
『承知しています』
「俺が聞いたけど」
『質問したことと、仮説として採用することは別です』
「ありがとう」
セリーが料理を並べながら、こちらを一度だけ見た。
責める目ではない。
気にしているだけだ。
「他には?」
『古い保守記録に、床下中継部についての追加記述があります』
「何て?」
『「人員進入を前提とせず」と読めます』
俺は少し肩の力を抜いた。
「じゃあ本来は人が入る場所じゃない」
『少なくとも、その記録が作成された時点では』
「点検は?」
『「外部点検口より確認」とあります』
「点検口がある?」
『存在した可能性があります。現在位置は未確認です』
「探す?」
『ガルム隊長は、壁や床を開けず、まず図面と外観から位置を特定する方針です』
「それでお願い」
『また、「導き路」の用例がさらに三件見つかりました』
「全部設備?」
『現時点では、はい』
「人の帰還に使う道って意味は?」
『確認されていません』
「でも、あの子が同じ言葉を使ってるとは限らない」
『はい』
「そこは変わらない」
食事が揃う。
セリーが俺の前へ皿を置いた。
「報告は以上?」
『旧保養施設については、もう一点あります』
「何?」
『名前の分からない子供が、夕食前に鞄から木片を一度取り出しました』
手が止まる。
「自分で?」
『はい』
「何か起きた?」
『その約二分前に、微弱振動が一回記録されています』
胸の奥が少し冷える。
「本人の様子は?」
『遊んでいた布片を置き、自分の鞄を開け、木片を取り出しました。職員は声をかけていません』
「そのあと?」
『木片を両手で持ち、しばらく見ていました』
「何か言った?」
『はい』
「そのまま読んで」
『「まだ、ある」』
以前の「まだ、いる」と似ている。
似ているだけだ。
「何があるか聞いてない?」
『聞いていません』
「地下を見た?」
『いいえ』
「送風路の方?」
『いいえ。木片を見ていました』
「木片を指した?」
『明確な指差しはありません』
「続きは?」
『約十秒後、「なくなってない」と発言しました』
俺は黙った。
「それから?」
『木片を鞄へ戻しました』
「体調?」
『呼吸、表情、姿勢に大きな変化なし。本人はその後、夕食を希望しています』
「振動との関係は?」
『時間的には近接しています。ただし、本人が振動を感知したことを示す発言はありません』
「今日の午前や昨日は反応してない」
『はい』
「だから今回だけ結びつけない」
『はい』
セリーが向かいへ座る。
「主様」
「うん」
「夕食を」
「分かってる」
フォークを持つ。
鶏肉を一口食べる。
味はする。
考えることもやめない。
食べることもやめない。
「エル。木片は?」
『本人の鞄へ戻されています』
「そのままで」
『はい』
「明日、本人が出したいなら出す。持ちたいなら持つ。安全上の変化がない限り触らない」
『共有済みです』
「振動観測は?」
『ガルム隊長は、今夜も無刺激で継続する案です』
「賛成」
『床下点検口の探索は明朝から、外観と記録照合のみで行う予定です』
「それも」
通信を終える。
食事を続ける。
しばらくセリーも何も言わなかった。
「……聞きたい」
俺が呟く。
「お子様に、ですか?」
「うん」
「何を?」
「『まだ、ある』って何があるのか。『なくなってない』って何がなくなってないのか。木片なのか、道なのか、何か別のものなのか」
「はい」
「聞けば答えてくれるかもしれない」
「そうかもしれません」
「でも、答えたくないかもしれない」
「はい」
「聞かれることで、またあの子が調査の中心に戻るかもしれない」
セリーは静かに聞いている。
「だから今は聞かない」
「はい」
「でも、それで本当にいいかは分からない」
「分からなくてよいと思います」
「またそれ?」
「主様が迷っておられることと、判断を放棄しておられることは同じではありません」
俺はフォークを置いた。
「もし今夜、もっと強い振動が出たら?」
「状況を確認し直します」
「生命反応が出たら?」
「必要な救助を検討します」
「子供が『助けて』って言ったら?」
「誰を、何から、どのように、まで確認できる範囲で確認しつつ、緊急性を判断します」
「聞くことも必要になる」
「はい」
セリーはそこで少し間を置いた。
「聞かないことが常に優しいわけではありません」
「うん」
「聞くことが常に暴力になるわけでもありません」
「うん」
「今は、本人の安全に必要な質問ではない。だから保留している。それだけでよいのではありませんか」
「……そうだな」
食事を再開する。
答えを出さないことにも、理由は必要だ。
ただ怖いから聞かない。
嫌われたくないから聞かない。
責任を負いたくないから聞かない。
それでは、選択を尊重しているようで、俺自身が逃げているだけになる。
今は違う。
少なくとも、そうでありたい。
夜。
塔の自室へ戻る前、エルから白鴉療養所の報告を聞いた。
三〇八号室の少年は安定している。
白い薬を少し減らしたあとの大きな変化なし。
疲れ一。
怖さ一。
頭痛なし。
吐き気なし。
夕食も食べた。
今日はもう外へ出ていない。
水たまりを踏んだことについて、自分から職員へ「楽しかった」と話したらしい。
父からの二通目の手紙は読んでいない。
赤い布にも触れていない。
幼いアルフォンスとも会っていない。
それでいい。
「明日の薬は?」
『本人は「明日決める」と回答しています』
「了解」
そのまま寝ようと思った。
けれど、扉の前でセリーに止められる。
「主様」
「何?」
「水分を」
「飲んだよ」
「夕食後は?」
「……飲んでない」
杯を渡される。
「これだけ?」
「はい」
「飲んだら寝ていい?」
「主様がお決めください」
「それ、絶対寝ろって意味だろ」
「私は選択肢を奪っておりません」
「圧はある」
「気のせいです」
水を飲む。
杯を返す。
「おやすみ」
「おやすみなさいませ、主様」
部屋へ入る。
今夜も旧保養施設では観測が続く。
誰かが交代で記録器を見る。
暖房が動く。
冷却術式が一定の出力を保つ。
名前の分からない子供は、自分の鞄へ木片を入れて眠る。
俺はそれを見に行かない。
それでも、何かあれば連絡は来る。
そう思って寝台へ入った。
夜中に起こされることはなかった。
翌朝。
窓の外は晴れていた。
昨日までの雨雲はほとんど消え、薄い青空が広がっている。森から聞こえる鳥の声も多く、石造りの塔の中へ差し込む光は昨日よりずっと明るい。
食堂へ下りる。
セリーが朝食を準備している。
「おはよう」
「おはようございます」
言われる前に水を飲む。
セリーは見ている。
「今日は何も言わない?」
「はい」
「完全に日常になった?」
「継続されれば」
「まだ試用期間みたいに言うなよ」
パンを取る。
半分ほど食べたところで、エルへ声をかけた。
「夜の旧保養施設は?」
『報告します』
「お願い」
『夜間の微弱振動は五回です』
「形は?」
『短い単発二回。長めの単発一回。二連続一回。残る一回は非常に弱い三連続です』
手が止まる。
「三連?」
『はい』
「短い、短い、長い?」
『違います』
「短い、長い、短い?」
『違います』
「じゃあ?」
『三つとも、ほぼ同程度の短い振動です』
「間隔は?」
『一つ目から二つ目まで約三・一秒。二つ目から三つ目まで約七・八秒です』
「規則的じゃない」
『少なくとも等間隔ではありません』
「細い管は?」
『五回すべてで振動を記録しています』
「方向?」
『一定しません』
「暖房や冷却?」
『明確な共通相関なし』
「支持金具?」
『接触音は夜間に二回。振動時刻とは一致していません』
少しずつ、金具の音と微弱振動が分かれていく。
同じ設備群の中で起きている可能性はある。
でも、全部同じ原因ではないかもしれない。
「子供は?」
『睡眠中です。夜間覚醒なし』
「木片は?」
『鞄の中です』
「関連発言は?」
『ありません』
「朝はまだ起きてない?」
『先ほど覚醒しました。現在は洗面中です』
「じゃあ、それで」
『もう一点あります』
「床下?」
『はい。外観調査により、旧保守記録にある点検口と思われる位置を特定しました』
俺はパンを置いた。
「開けた?」
『いいえ』
「状態は?」
『現在は壁材で覆われています』
「後から?」
『周囲との材質差から、建設当初の状態ではない可能性があります』
「いつ塞がれた?」
『不明です』
「印とか文字は?」
『外側から見える範囲ではありません』
「魔力反応?」
『弱い古い術式反応があります。ただし、封印なのか設備残留なのかは未判定です』
「強い走査はしない」
『はい』
「壊さない」
『はい』
「ガルムは?」
『現状保存。周辺記録から、いつ点検口が塞がれたかを先に調べる方針です』
「俺もそれでいい」
ここまでなら、昨日の延長だ。
『さらに、点検口と思われる位置の近くで、古い文字列の一部が確認されています』
「何て?」
『表面の壁材と床の隙間から、ごく一部だけです』
「読める?」
『二文字相当のみ』
「そのまま」
『現代語へ置き換える場合、「路」と「持」に近い文字です』
俺は動かなかった。
セリーもこちらを見る。
「……並んでる?」
『間に欠損があります。連続した一語かどうかも不明です』
「『道を持つ』って意味にはしない」
『はい』
「子供の『もってるところ』とも結びつけない」
『はい』
「木片とも」
『はい』
それでも、胸の奥がざわつく。
似た言葉が増える。
道。
持つ。
導き路。
持ってるところ。
木片を鞄へ入れて、なくさない。
並べれば、いくらでも意味が作れる。
「他の文字は見えない?」
『壁材を外さなければ確認できません』
「じゃあ今は見ない」
『承知しました』
「写真じゃなくて、現状の写しは?」
『外側から確認できる範囲のみ、複数人立会いで記録済みです』
「それでいい」
スープを一口飲む。
少し冷めている。
「今日、俺は行った方がいい?」
エルへ聞いた。
『判断材料を提示します』
「お願い」
『現地は安定しています。生命反応は確認されていません。構造上の急迫した危険も現時点では検出されていません。点検口候補は開けていません。ガルム隊長、リディア、フェリクスが現地にいます』
「つまり俺が行かなくても回る」
『はい』
「でも見たい」
『それは判断材料ではなく、主様の希望です』
「分かってる」
少し考える。
「今日は午後に行く」
セリーが顔を上げる。
「理由は?」
「見たいから」
言ってから続ける。
「それと、開ける判断をするためじゃない。今後、もし開ける必要が出た時に、現場を知らないまま話したくないから。一度、自分の目で外側だけ確認したい」
「午前は?」
「白鴉へ行く。三〇八号室の薬もあるし」
「旧保養施設へ行かれる時間は限定されますか?」
「昼食後から夕方まで。何も変わらなければ帰る」
「承知しました」
セリーはそれ以上止めなかった。
行かないことが成長なら、行くことが後退になるわけでもない。
必要と希望を分けた上で、自分で決める。
それでいい。
白鴉療養所へ着くと、中庭の水たまりはほとんど消えていた。
小さなものが二つだけ残っている。
三〇八号室の少年は窓からそれを見ていた。
「おはよう」
「アル」
「残ってるな」
「小さい」
「踏む?」
「今日はいい」
即答だった。
「なくなる?」
「多分」
「そっか」
少しだけ眺めてから、少年は窓を離れる。
「昨日踏んだからいい」
「うん」
セリーから体調を聞く。
安定。
白い薬を減らした翌朝として、目立った変化はない。
「今日どうする?」
俺が聞く前に、少年が薬の容器を見る。
「同じ」
「昨日減らした量?」
「うん。今日は減らさない」
「分かった」
「理由聞く?」
「言いたい?」
「……今日は言わなくていい」
「じゃあ聞かない」
少年は薬を飲む。
水を飲み、少し顔をしかめる。
「苦い」
「そこは変わらないな」
「減っても苦い」
「味を減らしてるわけじゃないから」
「蜂蜜水」
「用意しております」
セリーが渡す。
少年は一口飲んで、満足そうに息を吐いた。
「アル、今日地下行く?」
「午後に旧保養施設へ行く」
少年の表情が少し変わる。
「開ける?」
「開けない」
「床?」
「点検口らしい場所を外から見るだけ」
「何かあった?」
「聞きたい?」
「うん」
今朝の報告を説明する。
壁材で塞がれた点検口らしき場所。
隙間から見える古い文字。
「路」と「持」に近い二文字。
ただし間が欠けていて、文章も意味も分からない。
「子供は?」
「夜は何も言ってない。木のやつは鞄の中」
「アル、聞く?」
「何を?」
「道のこと」
「聞かない」
「今日も?」
「今のところ」
「そっか」
少年は卓の絵を見る。
「俺なら気になる」
「俺も気になる」
「同じ?」
「同じ」
「でも我慢してる?」
「我慢っていうより、今は俺が知りたいだけだから」
「知りたいだけじゃ聞いちゃ駄目?」
「駄目じゃない。ただ、相手が怖がってることなら、こっちの知りたい気持ちだけで何度も聞くのは嫌だなって」
「俺には?」
「お前にも同じ」
「でも薬は聞く」
「安全に必要だから」
「外行くかも聞く」
「お前が決めることだから」
少年は少し考えた。
「父の手紙は?」
「俺から今日は読むかって聞いてないだろ」
「……そうだ」
「お前が読みたいって言ったら、その時一緒に考える」
「今日は読まない」
「分かった」
少年は少し笑った。
「何も進まない日」
「薬は維持って決めた」
「うん」
「水たまりは今日は行かないって決めた」
「うん」
「手紙は読まない」
「うん」
「結構決めてるじゃん」
「でも何も新しくない」
「新しくなくてもいいだろ」
「……そっか」
少年は椅子へ座る。
絵の道は今日も伸ばさなかった。
代わりに、水たまりの丸の横へ、小さな点を二つ描いた。
「何?」
「雨」
「二粒?」
「昨日の残り」
「雨はもう降ってないぞ」
「絵だから」
「またそれ」
笑う。
午前を白鴉療養所で過ごし、昼食を食べてから旧保養施設へ向かった。
馬車が森の古い道へ入ると、空気が少し変わる。
雨のあとで地面は柔らかく、車輪が浅い泥を踏む音が続いた。木々の間にはまだ雫が残り、ときどき枝からまとまった水が落ちてくる。
旧保養施設が見えてくる。
古びた建物。
閉ざされた窓。
使われなくなったはずなのに、最近まで誰かがいた痕跡を残す場所。
入口でガルムが待っていた。
「来たか」
「珍しく賢いって言った?」
「事実だ」
「褒めてないだろ」
「今日は来たな」
「来ちゃ駄目だった?」
「いや。自分で見ておくのも悪くない」
ガルムはそこで少し目を細めた。
「ただし、開けんぞ」
「分かってる」
「触らん」
「分かってる」
「フェリクスが『外から少しだけ測るなら』と言い出しても乗るな」
「本人に言えよ」
「もう三回言った」
建物の中から声が飛んできた。
「私は一回しか提案していませんよ!」
「残り二回は顔だ!」
「顔で提案扱いされるのは不当です!」
思わず笑う。
「元気そうだな」
「寝てるからな」
ガルムが先に歩き始める。
建物の中は冷えていた。
冷却術式の影響だけではない。雨で外壁そのものが冷え、石と湿った木材の匂いが濃くなっている。
名前の分からない子供のいる区画へは向かわない。
本人に会うために来たわけではない。
俺たちは暖房設備室側の廊下へ進んだ。
リディアが床際の記録器を確認している。
「アル様」
「お疲れ」
「現在まで変化ありません」
「振動は?」
「昼前に一回だけ。短い単発です」
「管にも?」
「はい。ただし方向差は誤差範囲でした」
フェリクスが壁際から顔を上げる。
「こちらです」
示されたのは、暖房設備室の北側。
一見すると普通の壁だった。
古い石壁の下部へ、少し新しい時代の板状壁材が重ねられている。
「これが点検口?」
「候補です」
リディアが答える。
「古い寸法記録では、この位置に外部点検口があった可能性があります。ただし、現物を開けていないため確定ではありません」
「文字は?」
しゃがまず、少し距離を取ったまま見る。
床との隙間。
ほんのわずかに、古い表面が覗いている。
そこに傷のような線がある。
「肉眼だとほとんど分からないな」
「拡大記録はこちらです」
フェリクスが紙を出す。
直接壁へ何かを当てたものではなく、離れた位置から光学的に記録した写しだ。
二つの文字らしき形。
確かに「路」と「持」に近い。
でも、間が欠けている。
上下も完全には分からない。
「これだけで何か読むのは無理だな」
「その通りです」
フェリクスが珍しく即答する。
「剥がせば読めますが」
「剥がさない」
「はい」
「本当に成長したな」
「皆さんが毎回そこを褒めるので、最近は少し複雑です」
リディアが横から言う。
「以前の行動に問題があったからです」
「容赦がありませんね」
俺は壁を見る。
向こうにあるのは、高さ四十から六十センチほどかもしれない床下空間。
人が入るためではなく、設備を中継するために作られた可能性がある場所。
そこへ何かの「導き路」が通っていたかもしれない。
そして今、微弱な振動が発生している。
「音、今は?」
「ありません」
リディアが答える。
「近くに立つと何か感じる?」
「体感できるほどの振動はありません」
「子供が感じてるかは?」
「分かりません。今日も本人へは聞いていません」
「うん」
ガルムが腕を組む。
「見てどうだ」
「開けたくなる」
「正直だな」
「でも開けない」
「理由は?」
「今開ける理由がないから」
「人がいる可能性は?」
「ゼロじゃない」
「なら?」
「生命反応は出てない。緊急性もない。そもそもこの空間が用途不明室や、あの子の言う何かとつながってる証拠もない」
ガルムが頷く。
「なら今日は見るだけだ」
「うん」
その時だった。
床際に置かれた記録器の針が、ごく小さく揺れた。
誰も動かなかった。
リディアが手を上げる。
「静かに」
建物の中には暖房の低い作動音がある。
外から風の音。
遠くで誰かが歩く音。
それとは別に。
かすかに。
こん。
音というより、石の向こうから伝わった感触に近かった。
数秒。
また。
こん。
俺は息を止めないよう意識する。
さらに待つ。
三回目はない。
「記録」
ガルムが低く言う。
リディアが時刻を確認する。
「二連続。間隔四・六秒」
「管側は?」
フェリクスが別の記録器を見る。
「記録あり。今回は……ほぼ同時です」
「暖房?」
「変化なし」
「冷却?」
「変化なし」
ガルムが俺を見る。
「どうする」
試されているわけではない。
現場にいる者の一人として聞かれている。
「何もしない」
「同意だ」
誰も壁へ近づかない。
誰も叩き返さない。
数分待つ。
追加はない。
俺は少しだけ息を吐いた。
「現場にいると、やっぱり違うな」
「開けたくなったか?」
「さっきより」
「それでも?」
「開けない」
ガルムが小さく笑う。
「なら来た意味はあったな」
「開けない確認のため?」
「自分がどう感じるか知るためだ」
それは、少し納得できた。
紙で見る振動と、足元から伝わる小さな音は違う。
怖い。
本当に向こうに誰かいるのではないかと思う。
今すぐ確かめたい。
その気持ちを持った上で、それでも条件が足りないと判断する。
現場を知らずに待つのとは、少し違った。
「アル」
ガルムが低く呼ぶ。
「何?」
「今日はもうここから離れろ」
「何で?」
「お前がもう一回鳴るのを待つ顔になってる」
返事に詰まった。
フェリクスが頷く。
「分かります」
「あなたに言われたくない」
「なぜです?」
「同じ顔してるから」
リディアが冷静に言った。
「フェリクスも離れます」
「私は測定担当ですが」
「交代します」
「……はい」
俺は笑ってしまった。
「じゃあ離れる」
「素直でよろしい」
「ガルムまでセリーみたいになってきた」
「誰があんな完璧な管理人形だ」
建物の別区画へ戻る。
名前の分からない子供の部屋からは離れた廊下だ。
そこでエルが小さく反応した。
『主様』
「何?」
『先ほどの振動時刻について、子供の区画から通常記録が届きました』
「反応した?」
『明確な身体反応は記録されていません』
「何してた?」
『布鞄の紐を結び直していました』
「木片は?」
『鞄の中です』
「発言は?」
『一言のみ』
「そのまま」
エルが読む。
『「こっちじゃない」』
誰もすぐには話さなかった。
ガルムが先に息を吐く。
「何を見てた」
『鞄です』
「振動のことを聞いたか?」
『いいえ』
「何が違うか?」
『聞いていません』
俺は壁の向こうを振り返らない。
「時間は?」
『二連続振動の二回目から約十八秒後です』
「近いな」
フェリクスが呟く。
「近いだけだ」
ガルムがすぐ返す。
「はい」
フェリクスも否定しない。
俺はエルへ尋ねる。
「そのあと?」
『鞄の紐を結び直し、「できた」と発言。現在は職員と昼の残りの菓子を食べています』
「じゃあ、そのまま」
『はい』
「会いに行かない」
『承知しました』
ガルムが俺を見る。
「いいのか」
「会いたいよ」
「聞きたいか」
「すごく」
「でも?」
「今行ったら、俺は『こっちじゃない』の意味を聞きに行くことになる」
「そうだな」
「今日はそれをしに来たんじゃない」
俺は一度だけ深く息を吐いた。
「帰る」
「早いな」
「夕方までって言ったけど、見るもの見た」
「賢い」
「今度は本当に褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「このまま残すと、お前とフェリクスが壁の前で朝まで座りそうだから追い出す」
「俺はそこまでしない」
「私は少し興味があります」
「フェリクス」
リディアの声だけで、フェリクスが黙った。
旧保養施設を出る。
外は晴れていた。
午後の光が濡れた地面を照らし、屋根から落ちる最後の雫が小さく光っている。
馬車へ向かう途中、一度だけ建物を振り返った。
閉じたままの壁。
その下にあるかもしれない床下中継部。
そこを通っていたかもしれない導き路。
微弱な振動。
そして、「こっちじゃない」と言った子供。
何が違うのか。
どっちが違うのか。
そもそも何と何を比べたのか。
分からない。
馬車へ乗る。
「エル」
『はい』
「今日の『こっちじゃない』は、今までの言葉と一緒に並べるだけ」
『はい』
「解釈欄は空白」
『承知しました』
「あと、振動と十八秒差っていうのは時刻情報として残す。でも因果は書かない」
『はい』
「……面倒だな」
『主様』
「何?」
『面倒であることと、必要であることは両立します』
「誰に教わった?」
『主様方の会話から学習しました』
「変なところ覚えるなあ」
馬車が動き出す。
森の道を戻る。
旧保養施設が木々の向こうへ消えていく。
俺は窓へ背を預けた。
道が見つかったからといって、そこを進む必要はない。
伝えるための道があるからといって、その向こうに誰かがいるとも限らない。
そして、何かが伝わってきたように感じても、それがこちらへ向けられたものだとは限らない。
それでも。
何もなかったことにはできない。
だから記録する。
待つ。
必要なら進む。
必要でなければ、進まない。
それを決めるために、明日もまた同じ事実を見直すのだろう。
塔へ戻る前、白鴉療養所へ短く立ち寄った。
三〇八号室の少年は、窓際で絵を見ていた。
「おかえり」
「ただいま」
「地下、見た?」
「外からだけ」
「開けなかった?」
「開けなかった」
「振動あった?」
「二回」
少年の目が少し大きくなる。
「アル、いた?」
「いた」
「怖かった?」
「ちょっと」
「どのくらい?」
「三くらい」
「俺より高い」
「そうだな」
「開けたくなった?」
「なった」
「でも開けなかった」
「うん」
少年は少し考える。
「何で?」
「開ける理由が足りなかったから」
「怖かったのに?」
「怖いから開ける、も違うと思った」
「……そっか」
少年は絵へ視線を落とした。
「子供は?」
「会ってない」
「何か言った?」
俺は少し迷う。
「聞きたい?」
「うん」
「振動の少しあとに、『こっちじゃない』って」
少年が黙る。
「何が?」
「分からない」
「聞かなかった?」
「うん」
「アル、会えるところにいたのに?」
「いた」
「それでも?」
「今日は聞かないって決めたから」
少年は長く考えた。
それから、紙の上の道を指す。
「これも」
「何?」
「こっちじゃないって言える?」
「自分の絵だろ」
「うん」
「言えるんじゃない?」
「描いたのに?」
「描いたあとで違うと思うこともあるだろ」
「消す?」
「消してもいいし、残してもいい」
「残して、違うって言っても?」
「いいと思う」
少年は道を見つめる。
しばらくして、炭筆を取った。
道の続きを描くのかと思った。
違った。
途中の休む場所から少し離れたところへ、新しい短い線を一本だけ引いた。
「何?」
「分かんない」
「道?」
「まだ分かんない」
「そっか」
少年は炭筆を置く。
「でも、こっちもある」
「うん」
「どっち行くかは?」
「決めた?」
「決めてない」
「じゃあ決めなくていい」
窓の外には、もう水たまりがほとんど残っていなかった。
少年はそれを見ても、残念そうにはしなかった。
今日の水たまりは踏まなかった。
昨日は踏んだ。
次の雨の日は分からない。
紙の道も、二つになったように見える。
けれど、どちらかを選ばなければならないわけではない。
そもそも、どちらも道ではないかもしれない。
俺はその絵を見ながら、旧保養施設の閉ざされた壁を思い出した。
あそこにも、いくつもの線があるのかもしれない。
送風路。
細い金属管。
古い導き路。
床下中継部。
そして、俺たちがまだ見つけていない何か。
そのどれが「こっち」で、どれが「違う」のか。
答えはない。
少年が描いた二本目の短い線も、まだどこにもつながっていない。
それでも少年は消さなかった。
俺たちも、今はそれでいい。
見つけたものを、勝手に一本へつなげない。
違うかもしれないものを、違うまま残しておく。
その面倒な作業を続けることが、今は一番、誰かの選ぶ余地を奪わずに前へ進む方法なのだと思った。




