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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第62話 道だと呼ばれたものが、どこかへ連れていくものとは限りませんでした

雨は昼を過ぎても止まなかった。


 白鴉療養所の窓を細かな雨粒が絶え間なく流れ、中庭の石畳には大小いくつもの水たまりができている。屋根の端から落ちる雫は朝より太くなり、一定ではない音を立てながら水面を揺らしていた。


 三〇八号室の少年は、その景色を窓越しに眺めていた。


 さっき自分の指で触れた水たまりは、もうどれだったのか分からない。


「増えた」


「雨が続いてるからな」


「俺が触ったやつ、どれ?」


「分からない」


「アルも?」


「俺も」


 少年はしばらく外を見てから、卓の上に置いていた絵へ視線を戻した。


 炭筆で描かれた道は、昨日より少しだけ長くなっている。途中には休む場所があり、その中には俺が描いた六本脚の椅子らしき何かが置かれていた。


 改めて見ると、やっぱり虫にしか見えない。


「これ、本当に置いておくの?」


「置く」


「描き直してもいいけど」


「駄目」


「何で」


「描き直したら違うやつになるから」


 少年は当然のように答え、紙がずれないよう指先で端を押さえた。


 俺はそれ以上何も言わなかった。


 上手く描けなかったものを、上手く描き直す。


 それ自体は悪いことじゃない。


 けれど、少年にとっては、この歪んだ椅子だから意味があるらしい。


 俺が描いたから欲しいと言った。


 それなら、俺が勝手に完成度を上げる必要もない。


「道、続き描かないの?」


 俺が尋ねると、少年は紙を見たまま首を傾けた。


「今日はここまで」


「決まった?」


「うん。何か、いっぱい聞いたから」


 旧保養施設の振動。


 新しく見つかった細い金属管。


 そして、名前の分からない子供が自分から口にした二つの言葉。


『それ、みち』


『もどるみち、ちがう』


 少年は聞きたいと自分で選んだ。


 だから聞いた。


 けれど、聞いたあとまで考え続けなければならないわけではない。


「じゃあ昼飯にする?」


「今日、豆?」


「さあ」


「老人が怒る?」


「見える豆なら許すらしい」


「何それ」


「心構えができるんだって」


 少年が吹き出した。


「じゃあ見えない肉は?」


「それは喜ぶんじゃないか」


「ずるい」


「本人に言ってくれ」


 部屋を出る頃には、地下について聞いた直後の硬さが少し抜けていた。


 食堂にはすでに何人かの患者が集まっている。


 誰も決められた席へ座らされてはいない。


 窓際を選ぶ者。


 壁を背にできる席を好む者。


 出入口に近い場所を選ぶ者。


 まだ人の多い場所が苦手で、少し離れた小さな卓へ座る者もいる。


 以前なら、それぞれに理由をつけて分類したくなったかもしれない。


 出口の近くを好むのは逃走傾向。


 壁際を選ぶのは警戒心。


 一人で食べるのは対人不安。


 そんなふうに、行動の全部を何かの兆候へ変えることは簡単だ。


 でも、単にその席が好きなだけかもしれない。


 今日は誰とも話したくないだけかもしれない。


 朝は一人がよくても、夕方には誰かの隣へ座りたいかもしれない。


 人間は、記録欄へ収まるために生きているわけじゃない。


「アル」


 先に席へ座った少年が俺を呼ぶ。


「何?」


「今日、見える」


 指差した先には豆の入ったスープがあった。


「心構えできるな」


「うん」


「聞こえてるぞ」


 少し離れた席から老人の声が飛んできた。


「何がです?」


「豆の話だ」


「見えるからいいんだろ?」


「今日はな」


 老人は自分の皿を覗き込み、慎重にスプーンで豆を一つすくった。


「だが昨日より多い気がする」


「数えたのか?」


「数えてない」


「じゃあ気のせいじゃない?」


「食べれば分かる」


 近くにいた職員が呆れたように笑う。


「昨日も全部召し上がっていましたよ」


「食えることと文句がないことは別だ」


「それは確かに」


 三〇八号室の少年が妙に真剣な顔で頷いた。


 老人が満足そうにこちらを見る。


「若いのは分かってるな」


「俺も薬飲めるけど、減らしたい時あるから」


 老人の表情が少しだけ変わった。


 冗談から急に真面目になったというより、少年の言葉を雑に流さない顔になった。


「そうか」


「今日は減らさなかった」


「何でだ」


「水たまり見たかったから」


 普通なら意味が分からない答えだろう。


 老人も一度眉を上げた。


 けれど、詳しい事情を尋ねなかった。


「じゃあ今日は水たまりの日だったんだな」


「うん」


「明日は?」


「分かんない」


「俺も明日の豆の数は分からん」


「それは多分、厨房に聞けば分かる」


「聞いたら逃げられんだろう」


「何から?」


「豆からだ」


 少年が笑った。


 周囲でも小さな笑いが起きる。


 俺はそのやり取りを聞きながらパンをちぎった。


 地下のことは、この食堂にはない。


 正確には、旧保養施設の地下で何かが起きていることを知る者はいる。


 けれど、今ここで食事をしている人間たちに、その謎を背負わせる必要はない。


 少なくとも昼食の間くらいは、豆の方が大事でいい。


 食事を終えたあと、三〇八号室の少年は部屋へ戻らず、談話室へ行くことを選んだ。


 俺はそこで別れた。


「アルは?」


「少し仕事」


「地下?」


「今からは違う。町から来た書類を見る」


「また二個やる?」


「今日は旧保養施設の方は聞いただけだから」


「それも一個じゃない?」


「数えるの?」


「数える」


「じゃあ、午後は一個だけにする」


「昼寝は?」


「昨日しただろ」


「昨日は昨日」


 言われて、足が止まった。


 少年も自分で言ったあと、気づいたらしい。


 二人で顔を見合わせる。


「……俺が言ったやつだ」


「そうだな」


「昨日寝たから今日も寝なくちゃいけないわけじゃない」


「うん」


「でもアル、眠かったら寝た方がいい」


「それはそう」


「眠くない?」


「今は平気」


「じゃあいい」


 あっさり終わった。


 昨日の選択は今日の命令じゃない。


 それは、何もしないための言葉でも、何かをするための言葉でもない。


 今日を今日として決め直すための言葉なのだろう。


 談話室へ入っていく少年を見送り、俺は記録室へ向かった。


 アンナマリーはまだ来ていなかった。


 代わりに机の端へ、小さな紙が置かれている。


『食料搬入記録、一部発見。整理後に持参します。先に読まないでください』


「先に読めないだろ」


『紙の下に資料があります』


 エルに言われて紙を持ち上げる。


 本当にあった。


「罠じゃん」


『アンナマリー様は、主様の行動傾向をよく理解されているようです』


「何で資料の上に置くんだよ」


『見つけてしまった場合に、先に注意書きが目へ入るようにされたのでは?』


「……成長したな、アンナマリー」


 俺は資料へ手を伸ばしかけ、止めた。


 先に読まないでください。


 整理後に持参します。


 理由までは書いていない。


 でも、整理前の数字を俺が一人で拾って変な仮説を作るより、発見した本人の説明を待った方がいい。


 手を引く。


「エル」


『はい』


「今、ちょっと褒めてもいいよ」


『何をでしょう』


「読まなかった」


『通常、他者から「先に読まないでください」と明示された資料を読まないことは、賞賛を必要とする行為ではありません』


「セリーより厳しい」


『主様が賞賛を要求されましたので、正確に回答しました』


「もういい」


 仕方なく町から届いた別の書類へ手を伸ばした。


 仮代表会議の三日間試行に関する途中報告だった。


 肉屋のハンスが支援物資の搬入量について口を出し、イーダが治療院側の必要数と照合し、マルタが農家側の負担を確認している。エドは日雇い仕事の募集数と実際に雇われた人数を調べ、ベンノは商人として仕入れ価格の不自然な変動を洗っていた。


 一人なら見落とすものを、別の立場の人間が見る。


 まだ揉め事も多いらしい。


 ハンスとベンノは昨日、保存肉の仕入れ価格を巡ってかなり言い合ったと書かれていた。


 けれど最後には、どちらか一人が決めるのではなく、別の商店の記録も確認することになった。


「ちゃんと揉めてるな」


『問題でしょうか』


「いや。むしろ安心した」


 全員が最初から同じ意見になる方が怖い。


 町を守りたいという目的が同じでも、肉屋と農家と治療院と日雇い労働者と商人では、見えるものが違う。


 違うから集めた。


 それなのに、意見が違うたびに誰か一人の答えへ合わせるなら、五人にした意味がない。


 報告書の最後には、明日夕方に試行三日目の会議を行う予定とある。


 継続するか。


 構成員を変えるか。


 やめるか。


 それも町で決める。


 俺が決めることじゃない。


 書類を閉じたところで、廊下から足音が聞こえた。


「お待たせしました」


 アンナマリーが数冊の古い帳簿を抱えて入ってくる。


「重そうだな」


「実際に重いです」


「持つよ」


「ありがとうございます」


 二冊受け取る。


 思った以上に重かった。


「これ全部、帰還管理所?」


「正確には、旧王家療養網の共同調達記録です。帰還管理所だけの帳簿ではありません」


「だから先に読むなって?」


「はい」


 アンナマリーは残りを机へ置き、少し乱れた髪を耳へかけた。


「数字だけを見ると、帰還管理所の利用人数と誤認する可能性があります」


「危なかった」


「読まれませんでしたか?」


「読んでない」


「本当に?」


「何で疑うんだよ」


「アルフォンス様ですから」


「最近みんな俺の扱い酷くない?」


「信用しているからこそ、行動傾向も把握しております」


「セリーみたいなこと言うようになったな」


 アンナマリーは小さく笑った。


「では、分かった範囲だけ」


「うん」


 彼女が帳簿を開く。


 紙はかなり古く、端が変色していた。


「昨日確認した、本人の申告を待って外区保護を継続していた記録と、その約一年半後に再面談拒否から管理代行検討へ進んだ記録。その間で利用者数が変化していた可能性を調べました」


「食料と寝具から?」


「はい。ただし、先ほど申し上げた通り、共同調達です。ここから人数そのものを出すことはできません」


「増えたか減ったかくらい?」


「それも慎重に見る必要があります」


 アンナマリーが一つの欄を指す。


「食料搬入量は、その一年半で約一・四倍になっています」


「結構増えてる」


「ただし」


「帰還管理所以外も含む」


「はい。それに、保存食の備蓄方針が途中で変わっています」


「じゃあ人数が四割増えたとは言えない」


「言えません」


 次の帳簿。


「寝具洗浄と交換の依頼数も増えています。こちらは約一・二倍です」


「食料ほどじゃない」


「さらに、外区だけではなく隣接療養棟の分が混ざっている月があります」


「面倒だな」


「非常に」


 アンナマリーが真顔で頷く。


 俺は少し笑った。


「最近みんな普通に言うな」


「何をです?」


「面倒って」


「面倒なものは面倒ですから」


「三〇八号室の子と同じこと言ってる」


「それは光栄なのでしょうか」


「多分」


 帳簿へ戻る。


「職員数は?」


「給与台帳の一部が見つかりました。こちらは、むしろ減っています」


「どのくらい?」


「正規職員として給与を受け取っていた人数だけなら、およそ二割です」


 俺は眉を寄せた。


「利用者が増えた可能性があって、職員は減った?」


「可能性です」


「分かってる」


「ただ、臨時雇用者の記録が別帳簿だった可能性があります。ですから実働人数が二割減ったとはまだ言えません」


「でも調べる価値はある」


「はい」


 アンナマリーが別の紙を出した。


「もう一つ。物資の中で、増え方が目立つものがあります」


「薬?」


「違います」


 紙へ目を落とす。


 石鹸。


 寝具。


 保存食。


 灯油。


 紙。


「紙?」


「記録用紙です」


「患者が増えたから記録も増えた?」


「そうかもしれません」


「他には?」


「面談記録用の定型紙が、この時期から大量に発注されています」


 俺の指が止まった。


「再確認?」


「まだ結びつけないでください」


「分かってる」


 定型紙の正式名称は欠けている。


 ただし発注欄には、一部だけ読める文字が残っていた。


『……確認票』


「本人意思確認?」


「そうとは限りません。身体確認かもしれませんし、帰還資格確認かもしれません」


「定型化されたのは確か?」


「少なくとも、同じ規格の紙をまとまった量で発注するようになっています」


 俺は椅子へ深く座った。


 人が増えた。


 職員が減った。


 確認が定型化された。


 そこだけを並べれば、物語ができる。


 忙しくなった現場が、一人ずつ待つ余裕を失った。


 だから確認を定型化し、繰り返し面談し、やがて本人の答えがなくても進められる制度へ変えた。


 綺麗につながる。


 綺麗すぎる。


「まだ駄目だな」


「はい」


「今の並べ方、すごくそれっぽい」


「だからこそ危険です」


「うん」


 アンナマリーが少し安堵したように息を吐いた。


「以前でしたら、そのまま仮説を追われたかもしれません」


「今も追いたいよ」


「では、何が必要でしょう」


「まず実際の利用者数。職員の実働人数。定型紙の用途。あと制度変更の日付」


「はい」


「それと……増えた理由」


「利用者が?」


「うん。もし本当に増えてたなら、何で増えたのか。病気が流行ったのか、対象地域が広がったのか、王宮が送り込む人数を増やしたのか」


「承知しました」


「職員が減った理由も」


「退職、異動、予算削減、組織再編などが考えられますね」


「考えられるだけ。まだ決めない」


「はい」


 俺たちはそこで帳簿を閉じた。


 答えは出なかった。


 けれど、次に見る場所は増えた。


 昔の俺なら、それを「進展」と呼んだかもしれない。


 今は別に名前をつけなくてもいい。


「アルフォンス様」


「何?」


「今日はここまでになさいますか?」


「まだそんなに読んでないけど」


「三〇八号室の方と雨の中庭へ出られました」


「それ仕事に数える?」


「仕事ではありません」


「じゃあいいじゃん」


「仕事でなければ疲れないのでしょうか」


 返事に詰まる。


 アンナマリーの目が少しだけ楽しそうだった。


「セリーに何か教わった?」


「いいえ」


「絶対嘘だ」


「ただ、以前の私は、アルフォンス様がお疲れでも予定を優先してしまうことがありました」


 その言葉で、冗談を続ける気が少し消えた。


 アンナマリーは机の上の帳簿へ目を落としている。


「婚約者として、王太子妃になる者として、あなたが止まらないことを当然だと思っていたのかもしれません」


「アンナマリー」


「責めていただきたいわけではありません」


「分かってる」


「今になって思うのです。私も、あなたが王太子であることを前提にしか見ていなかった時期があったのだと」


 窓を打つ雨音が、少しだけ強く聞こえた。


 彼女と婚約していた頃。


 俺たちは将来、王と王妃になる予定だった。


 その未来を疑う理由なんてなかった。


 だから、王太子として正しいことが、俺自身にとっても正しいと思っていた。


「俺も同じだよ」


「ご自分を?」


「王太子としてしか見てなかった」


 アンナマリーが顔を上げる。


「だから、アンナマリーだけの話じゃない」


「……はい」


「それに今、俺が疲れてるか聞いてくれるだろ」


「聞いております」


「なら、それでいい」


 少しだけ沈黙が落ちる。


 昔の婚約を取り戻したいわけではない。


 あの頃へ戻りたいわけでもない。


 でも、あの頃にできなかった話を、今ならできる。


 それはたぶん、戻ることとは違う。


「じゃあ今日は閉じる」


「ありがとうございます」


「何でアンナマリーがお礼言うんだ」


「閉じてくださったので」


「やっぱりセリーと話してるだろ」


 今度こそ彼女は笑った。


 記録室を出たところで、エルから連絡が入った。


『主様。旧保養施設から定時報告です』


「緊急性は?」


『ありません』


「聞く」


『午後の観測では、旧送風路奥側の微弱振動は二回です。午前中より頻度が低下しています』


「形は?」


『短い単発一回。長めの単発一回です』


「新しい金属管は?」


『両方で弱い振動を記録しています。ただし振幅比が異なります』


「どう違う?」


『一度目は旧送風路側が強く、金属管側が弱い。二度目は金属管側がわずかに強く、旧送風路側が弱い状態でした』


「同じ場所から伝わってるなら変?」


『必ずしもそうとは限りません。温度、接触状態、固定具、周辺設備の動作などでも伝達率は変化します』


「フェリクスは?」


『固定部の状態を外側から確認中です。解体はしていません』


「子供は?」


『昼食後に短時間休息。その後、職員と布片を折って遊んでいます。地下関連の発言はありません』


「木片は?」


『本人のポケットです』


「触ってない?」


『職員は触れていません』


「よし」


『ガルム隊長から、本日の追加刺激試験は不要との提案です』


「賛成」


『明日も無刺激観測を継続しますか?』


 すぐに答えようとして、少し止まった。


「ガルムたちは?」


『同意見です。ただし、明朝までの記録を確認してから継続期間を再評価したいとのことです』


「じゃあ、それで」


『承知しました』


 通信が終わる。


 廊下の窓から外を見る。


 雨はまだ降っている。


 俺は旧保養施設へ行かない。


 今日もだ。


 行かないと決めることに、以前ほど落ち着かなさを感じなくなっている。


 完全になくなったわけではない。


 現場を見たい。


 新しく見つかった金属管を自分の目で確認したい。


 名前の分からない子供の様子も見たい。


 でも、それを全部「俺が行くべき理由」へ変えなくてもいい。


 白鴉療養所を出る前、談話室へ寄った。


 三〇八号室の少年はミナと一緒に紙を広げていた。


 俺が近づくと、ミナが先に気づく。


「アル」


「何してる?」


「雨」


「雨?」


 紙を見る。


 青ではなく黒い炭筆しかないので、何本もの線が上から下へ引かれている。


 その下には丸い形がいくつもあった。


「水たまり?」


 三〇八号室少年が答える。


「多分」


「多分?」


「ミナが描いた」


「雨の畑」


 ミナが言った。


「畑?」


「うん」


「じゃあ丸いのは?」


「じゃがいも」


「地面の上に出てない?」


「絵だからいいの」


 三〇八号室少年が得意げに俺を見る。


「俺も言われた」


「便利だな、その言葉」


「アルの虫椅子も絵だから大丈夫」


「まだ虫扱いかよ」


 ミナが首を傾ける。


「虫?」


「見せる」


 三〇八号室少年が自分の部屋へ取りに戻ろうとして、途中で止まった。


「……あとででいい」


「いいよ」


 ミナはあっさり答える。


 少年も座り直した。


 取りに行ける。


 見せたい。


 でも、今すぐじゃなくていい。


 そんな小さな変更を、誰も問題にしない。


「アル、仕事終わった?」


「今日の分は」


「地下?」


「それも報告聞いた」


「何か分かった?」


「振動が二回。新しい管にも伝わってた」


「子供は?」


「地下のことは何も言ってない」


 少年は少し考える。


「『みち』は?」


「そのあと追加なし」


「そっか」


 ミナは話の意味を全部理解しているわけではないのだろう。


 それでも、三〇八号室少年の顔を見てから、自分の紙へ炭筆を走らせた。


「道なら描けば?」


「何を?」


「道」


「どこに?」


「ここ」


 雨の畑の端を指す。


 三〇八号室少年が困った顔になる。


「勝手に描いていいの?」


「私の紙だから、私がいいって言った」


「どこへ行く道?」


「知らない」


「知らないのに描くの?」


「描いてから決める」


 少年が黙った。


 俺も口を挟まない。


 やがて少年は炭筆を受け取り、紙の端から畑の近くまで一本の線を引いた。


「これ道?」


「うん」


「どこ行く?」


「まだ知らない」


「じゃあ途中?」


「途中」


 ミナは満足そうに頷いた。


 三〇八号室少年はしばらくその線を見ていた。


「道って、どこかに行かないと道じゃない?」


 俺に聞いたのか、ミナに聞いたのか分からなかった。


 先に答えたのはミナだった。


「道は道でしょ」


「行かなくても?」


「うん」


「何で?」


「あるから」


 すごい答えだった。


 少年も同じことを思ったのか、目を瞬かせる。


「アルは?」


「俺に難しくするなよ」


「王子だったのに?」


「それ便利に使いすぎだろ」


 ミナが笑い、少年も笑った。


 俺は紙の上の線を見る。


「道があっても、絶対そこを通らなきゃいけないわけじゃないとは思う」


「戻る道でも?」


 少年の声が少しだけ小さくなる。


 旧保養施設の子供が言った言葉を考えているのだろう。


「うん」


「帰るための道なのに?」


「帰りたい人が使う道なら使えばいい。でも、道があるから帰らなきゃいけないってことにはならない」


「帰らないって言っても?」


「その人が決められる状況なら」


「決められなかったら?」


「急いで決めなくていい状況なら待つ。危険があるなら、安全にするために必要なことを考える」


 少年は紙の道を指でなぞらず、少し離れたところから見ている。


「道があるだけなら、命令じゃない?」


「俺はそう思う」


「……そっか」


 それ以上は続かなかった。


 ミナがじゃがいもの横へ妙に大きな丸を描き始めたからだ。


「それ何?」


「豆」


「大きすぎる」


「見える豆」


 俺は耐えられず笑った。


「老人の影響受けてるじゃん」


「見えた方が心構えできる」


 三〇八号室少年まで真顔で言う。


「何でそこだけ広まってるんだよ」


 談話室の向こうから当の老人が振り返った。


「大事なことだからだ!」


 何人かの患者が笑った。


 静かな雨の日だった。


 外へ出られない者もいる。


 雨音が怖くて部屋の扉を閉めた者もいる。


 逆に、雨を見るために窓際へ移った者もいる。


 それぞれ違う。


 誰か一人の過ごし方を、全員の正解にする必要はない。


 夕方近く、俺は塔へ戻った。


 玄関で濡れた外套を脱ぐと、セリーが受け取る。


「本日は昨日より濡れておられます」


「白鴉の玄関から馬車までの間だけだよ」


「雨天時には傘をご使用ください」


「持ってた」


「では、なぜ濡れているのでしょう」


「ちょっと面倒で」


「傘を差す動作が?」


「うん」


 セリーの目が細くなる。


「主様」


「分かった。次から使う」


「まだ何も申し上げておりません」


「顔が言ってる」


「私の表情を読めるようになられましたね」


「長く一緒にいるから」


 自分で言ってから、以前セリーに似た言葉を返されたことを思い出した。


 彼女も気づいたらしい。


 ほんのわずかに目元が柔らかくなる。


「それは何よりです」


「何か照れるな」


「なぜでしょう」


「分からない」


「では、分からないままで」


 外套を持ったまま、セリーは廊下の奥へ向かう。


 俺はその背中を少しだけ見てから、食堂へ入った。


 夕食まではまだ時間がある。


 机には何も置かれていない。


 セリーかエルが片づけたのだろう。


「資料は?」


『保管しています』


「俺、読むって言ってないよな」


『はい』


「じゃあ何で隠した?」


『机上にあると、主様が「少しだけ」とおっしゃる可能性が高いためです』


「信用がない」


『行動予測です』


「みんな同じこと言うな」


 椅子へ座る。


 窓の外には、塔の周囲へ降る雨が見える。


 ここにも水たまりができていた。


 白鴉療養所のものとは違う。


 同じ雨でも、場所が違えばできる形も違う。


 少し休んでいると、エルから旧保養施設の夕方報告が入った。


『主様。追加情報があります』


「緊急?」


『緊急ではありません』


「聞く」


『新たに確認された細い金属管について、外部から固定箇所を調べた結果、途中に二か所、古い支持金具が存在することを確認しました』


「緩んでる?」


『一方は安定。もう一方は、ごく小さな遊びがあります』


「それで振動?」


『可能性があります』


 少し身体を起こす。


「再現できる?」


『外から意図的に揺らす試験は行っていません。ただし、暖房設備の通常稼働に伴う建物の微振動が生じた際、支持金具部分で一度だけ接触音を記録しました』


「前の金属音と似てる?」


『音響記録上は近似点があります』


 あの子が「まだ、いる」と言った時の、小さな金属接触音。


「同じ原因?」


『確定できません。過去の音響記録は短く、測定位置も異なります』


「でも普通の設備原因の候補は増えた」


『はい』


 俺は少し息を吐いた。


 安心したい気持ちがある。


 地下に誰かが閉じ込められていて、その人が金属を叩いている。


 そんな可能性より、古い金具が温度や振動で鳴っている方がいい。


 だからこそ、気をつけなければならない。


「フェリクスたちにも、これで『まだ、いる』を説明しないよう伝えて」


『すでにガルム隊長が同様の指示を出しています』


「早いな」


『「音の原因候補と、子供の言葉の意味は別件として扱え」とのことです』


「助かる」


『また、支持金具を固定すれば振動変化を確認できる可能性がありますが、現時点では触れない方針です』


「俺もそれでいいと思う」


 固定するだけなら危険は小さそうに思える。


 けれど、それも刺激にはなる。


 今は無刺激で観測すると決めた。


 なら、結果が気になるからと途中で条件を変えない方がいい。


「今日はそのまま?」


『はい』


「明朝まで記録」


『承知しました』


「子供は?」


『夕食前です。現在、木片は本人の手元にあります。午後の「もどるみち、ちがう」以降、関連発言はありません』


「体調は?」


『安定しています』


「それでいい」


 通信を終えた。


 少しして、セリーが戻ってくる。


 俺の前へ温かい飲み物を置いた。


「旧保養施設ですか?」


「うん。金属音は、古い管の支持金具が鳴った可能性が出てきた」


「それは良いことなのでしょうか」


「良いって思いたい」


「はい」


「でも、あの子の『まだ、いる』とは別」


「はい」


「今日の『みち』とも別」


「はい」


「分けるの、疲れるな」


「まとめた方が楽ですから」


「だよな」


 同じ地下。


 同じ子供。


 同じ木片。


 同じ頃に起きる振動。


 全部を一本の線で結べば、話は簡単になる。


 あの子は地下に誰かいると知っている。


 木片は地下へ続く道を示す鍵。


 振動は中にいる誰かからの合図。


 帰還管理所と地下はつながっている。


 そう決めれば、次にすることも簡単だ。


 開ければいい。


 助けに行けばいい。


 でも、一つでも違えば。


 その簡単な物語を信じて動いた結果を受けるのは、俺だけじゃない。


「主様」


「うん?」


「難しい顔をされています」


「簡単な話にしたくなってた」


「どのような?」


「全部つながってるって」


「実際につながっている可能性もあります」


「ある。でも、まだ分からない」


「はい」


「分からないまま持ってるのって、結構重いな」


 セリーはすぐに励まさなかった。


 少し考えてから、向かいの椅子へ座る。


「では、一人でお持ちにならないでください」


「情報を?」


「分からないという状態を、です」


 俺は彼女を見る。


「ガルム様も分かりません。フェリクス様も、リディア様も、エルも、私も分かりません」


「うん」


「皆で分からないのであれば、主様だけが答えを持つ必要はありません」


「……そうだな」


「それに」


「何?」


「私は今、夕食の献立については答えを持っております」


「急に小さくなったな」


「主様にとって数十分以内に必要となる情報です」


「何?」


「鶏肉と根菜の煮込みです」


「それは大事だ」


「はい」


 思わず笑った。


 地下の答えはない。


 でも、夕食の答えはある。


 そういうものが同じ日に並んでいてもいい。


 夜になっても雨は続いた。


 旧保養施設では無刺激観測が続けられ、白鴉療養所では患者たちがそれぞれの部屋へ戻っていく。


 三〇八号室の少年からは、夕方の状態に問題なしとだけ報告があった。


 雨の中庭へ出た疲れは一。


 頭痛も吐き気もない。


 白い薬は朝のまま。


 明日どうするかは、明日決める。


 幼いアルフォンスは午後の歩行練習を雨音が聞こえる廊下で行い、いつもより短い距離で自分から終えた。


 赤いジャムは昼に出たらしい。


 三〇八号室の少年とは会っていない。


 名前の分からない子供も、夕食を食べた。


 にんじんについて今日は何も言わなかった。


 木片は自分で持っている。


 誰も取り上げていない。


 誰も地下へ連れていっていない。


 誰も「道」が何なのか尋ねていない。


 その夜、寝る前にもう一度だけエルから連絡が入った。


『主様。旧保養施設より、夜間観測移行前の報告です』


「何かあった?」


『微弱振動を一回検出しました』


「形は?」


『長めの単発です』


「金属管?」


『同時に振動あり。ただし、今回は旧送風路側より金属管側の振幅が明確に大きく記録されています』


「支持金具の音は?」


『ありません』


「暖房?」


『通常運転です』


「冷却?」


『安定しています』


「子供は?」


『自室で就寝準備中でした。明確な反応なし』


「追加発言なし?」


『ありません』


 俺は寝台の端へ座ったまま考える。


「じゃあ、予定通り朝まで」


『はい』


「何か変わったらガルムたちの判断を優先して。命に関わる兆候が出たら待たなくていい」


『共有済みです』


「ありがとう」


『主様』


「何?」


『もう一点、ガルム隊長から伝言があります』


「何て?」


『「朝までこっちは見ている。お前は寝ろ」』


「……俺、そんな信用ない?」


『セリーへ確認しますか?』


「しなくていい。結果分かるから」


 通信を切る。


 横を見ると、いつの間に来たのか、開いた扉のところにセリーが立っていた。


「聞いてた?」


「最後だけ」


「寝るよ」


「まだ何も申し上げておりません」


「今日はみんなそれ言うな」


 セリーが室内へ入り、卓の水差しを確認する。


「水分は?」


「飲んだ」


「確認しております」


「なら何しに来たの?」


「おやすみなさいと申し上げに」


 それだけだった。


 俺は少し目を瞬く。


「……おやすみ、セリー」


「はい。おやすみなさいませ、主様」


 彼女が出ていく。


 扉が静かに閉じる。


 机の上に資料はない。


 エルも新しい報告を出さない。


 外では雨が降っている。


 俺が眠っている間にも、旧保養施設では記録器が動き続ける。


 金属管が震えるかもしれない。


 何も起きないかもしれない。


 名前の分からない子供が眠り、目を覚まし、木片をどこへ置くか自分で決める。


 世界は俺が見ていなくても動く。


 それを少し怖いと思う気持ちは、まだ残っている。


 でも同時に、それでいいとも思えるようになった。


 翌朝。


 雨は上がっていた。


 窓の外には薄い雲が残っているものの、東の空から淡い光が差し始めている。森の葉から落ちる雫が朝日を拾い、昨夜までの雨が嘘のように静かな朝だった。


 俺は着替えて食堂へ下りた。


 セリーが朝食を並べている。


「おはよう」


「おはようございます、主様」


「水、先に飲む」


「どうぞ」


 杯を取る。


 一口。


 セリーは何も言わない。


「……本当に褒めなくなったな」


「褒めてほしいのですか?」


「いや」


「では続けます」


「何か寂しい」


「主様は難しいですね」


「俺もそう思う」


 席へ座り、パンへ手を伸ばす。


 まだエルは何も言わない。


 夜間報告があることは分かっている。


 でも、急かさない。


 スープを半分ほど飲んだところで、俺から声をかけた。


「エル。夜は?」


『はい。旧保養施設の無刺激常時観測について報告します』


「お願い」


『昨夜、就寝時間帯から午前六時までに記録された微弱振動は三回です』


「前の夜より減った」


『はい。ただし、原因は不明です』


「形は?」


『短い単発一回。長い単発一回。残る一回は非常に弱く、分類困難です』


「金属管にも?」


『三回すべてで記録されています』


「支持金具の接触音?」


『一回のみ、別時刻に発生しています。振動三回とは一致しませんでした』


「じゃあ少なくとも、あの金具が鳴ることと全部の振動は同じじゃない」


『現時点では、その可能性が高いです』


 少しだけ整理が進んだ。


 金属音の一部は、緩んだ支持金具で説明できるかもしれない。


 でも、微弱振動そのものは残る。


「子供は?」


『夜間、二度覚醒しています』


「振動と一致?」


『一度目は振動から約四十分後。二度目は振動のない時間帯です。明確な時間的一致はありません』


「何か言った?」


『一度目は水を希望。二度目は毛布を一枚減らしたいと希望しています』


「地下は?」


『関連発言なし』


「木片は?」


『就寝時は枕元。朝の覚醒後、自分で手に取っています』


「体調?」


『安定しています』


 俺は息を吐く。


 そこまでは昨日の延長だ。


『ただし、朝食前に一つ、自発発言がありました』


 手が止まった。


「何て?」


『本人は窓際で外を見ていました。木片は手に持っていましたが、見てはいません』


「誰か何か聞いた?」


『天候について職員が「雨が止んだね」と話したのみです』


「それで?」


『本人は頷いたあと、しばらくしてから――』


 エルが記録をそのまま読む。


『「みちは、いくところじゃない」』


 俺は黙った。


 セリーも手を止めている。


「……それだけ?」


『続けて一言あります』


「何?」


『「もってるところ」』


 食堂の静けさが、急に濃くなった気がした。


「その時、木片は?」


『右手に保持していました』


「木片を指した?」


『いいえ』


「地下を見た?」


『いいえ。窓の外を見ています』


「職員は?」


『意味を尋ねていません。「そう」とだけ返しています』


「そのあと?」


『本人は朝食について「パン」と希望しました』


 俺は目を閉じて、短く息を吐いた。


「記録は言葉のまま」


『はい』


「『道=木片』にしない」


『はい』


「『持ってるところ』が物なのか場所なのかも決めない」


『承知しています』


「帰還管理所とも結びつけない」


『はい』


「今日も地下へ連れていかない」


『その方針です』


 通信を一度止める。


 目の前のスープから、まだ湯気が上がっている。


「主様」


「うん」


「冷めます」


「……食べる」


 スプーンを持つ。


 一口。


 味は分かる。


 昨日までなら、たぶんここで食事を止めていた。


 言葉の意味を考えた。


 ガルムへ連絡した。


 フェリクスに過去資料を全部洗わせた。


 旧保養施設へ向かう準備をした。


 今も、そうしたい気持ちはある。


 でも、名前の分からない子供は、その言葉のあとにパンを食べたいと言った。


 なら俺も、まず朝食を食べていい。


「セリー」


「はい」


「今の、どう思う?」


「分かりません」


「早いな」


「推測でしたら複数できます」


「例えば?」


「『道』が移動経路ではなく、所持する何かを指す。『持ってるところ』が保管場所を指す。あるいは、道を持つ者のいる場所を指す。まったく別の意味である可能性もあります」


「うん」


「ですので、今はどれも採用いたしません」


「俺も」


 パンをちぎる。


「昨日、三〇八号室の子と道の話したんだ」


「はい」


「道があっても通らなくていいって」


「はい」


「でも、あの子の言う道は、そもそも通るものじゃないのかもしれない」


「可能性はあります」


「俺たちが『道』って聞いて、勝手に通路を想像してただけかも」


「それも、可能性です」


 旧送風路。


 金属管。


 地下。


 帰還管理所。


 木片。


 俺たちはずっと、どこかからどこかへつながるものを探していた。


 だから「道」と言われれば、物理的な経路を想像する。


 でも、あの子が同じ意味で使っている保証なんて最初からなかった。


「ガルムには?」


『すでに共有されています』


「反応は?」


『「だから掘るなと言った」と』


「それだけ?」


『続けて、「今日は子供ではなく古い用語を調べる」とのことです』


「用語?」


『旧保養施設および帰還関連施設の記録内で、「道」に相当する語が設備名、制度名、認証名、物品名として使用されていないか確認する方針です』


「それいいな」


 本人へ聞かずに、こちら側の資料を調べる。


 あの子に答えさせる必要はない。


「俺も行く?」


『ガルム隊長から伝言があります』


「もう分かった」


『「来るなとは言わんが、来ても古い紙を読むだけだ」』


「微妙に選ばせてくるな」


『はい』


 俺は少し考えた。


 今日は白鴉療養所へ行く。


 三〇八号室少年の薬は、昨日「明日決める」としていた。


 雨上がりの水たまりも残っているかもしれない。


 もちろん、それを見るかどうかは本人が決める。


「午前は行かない」


『伝えます』


「午後は?」


『現時点では未定として伝えますか?』


「うん。午前の結果見て決める」


『承知しました』


 朝食を続ける。


 答えはまだない。


 それでも、一つだけ昨日までとは違う。


 俺たちは「道」という言葉を聞いて、地下へ続く通路を探そうとしていた。


 けれど、その言葉を口にした本人は今朝、


『みちは、いくところじゃない』


 と言った。


 それならまず、自分たちが勝手に置いた意味を外さなければならない。


 白鴉療養所へ着くと、昨夜までの雨が残した匂いが敷地いっぱいに広がっていた。


 湿った土。


 濡れた草。


 石壁に残る冷たさ。


 空はまだ曇っているが、雨は落ちていない。


 玄関へ向かう途中、中庭の方を見る。


 水たまりは残っていた。


 昨日より少し浅い。


 でも、確かにある。


 三〇八号室へ行くと、少年はすでに起きていた。


 窓際に立っている。


「おはよう」


「アル」


「体調は?」


「セリーに言った」


「じゃあ必要な分だけあとで聞く」


「うん」


 少年は窓の外を見る。


「残ってる」


「何が?」


「水たまり」


「そうだな」


「昨日より小さい」


「雨止んだからな」


「今日どうしよう」


「何を?」


「薬」


 俺はそこで初めて、少年の横顔を見る。


 水たまりではなく、薬の方を先に考えていたらしい。


 セリーが簡潔に状態を伝える。


 睡眠は良好。


 頭痛、吐き気、ふらつきなし。


 身体の重さ一。


 怖さ一。


 昨日は白い薬を前日量のまま維持している。


「昨日、減らさなかった」


 少年が言う。


「うん」


「水たまり行ったから」


「うん」


「今日は……」


 言葉が止まる。


 俺は待った。


「少し減らしたい」


 昨日と同じ希望だった。


「水たまりは?」


「見たい」


「両方?」


「うん」


「昨日は、変化があった時に薬と外出のどっちか分かりにくくなるから、一つにしたな」


「うん」


「今日はどうしたい?」


 少年は窓とセリーを交互に見る。


「減らして……すぐ外行かない」


 自分で考えながら話している。


「薬飲んで、しばらく待つ」


「はい」


 セリーが頷く。


「その後の状態を確認して、問題がなければ外へ行くことは可能です。ただし、それでも完全に原因を分けられるわけではありません」


「分かる」


「外へ行かない選択へ変更しても構いません」


「うん」


「減量幅は?」


「前と同じくらい?」


「ごく小さな減量であれば可能です」


「じゃあ、それ」


 決まった。


 白い薬を、またほんの少しだけ減らす。


 それでも一気に一八分の一へ近づけるような量ではない。


 青と紫は使わない。


 少年は薬を受け取り、自分で飲んだ。


「戻したくなったら?」


「戻せます」


「今日?」


「症状によっては今日でも対応します」


「分かった」


 少年は水を飲む。


「じゃあ待つ」


「何する?」


「絵」


「道?」


「まだ決めてない」


 卓へ向かう。


 そこには昨日の道と休む場所、それから六本脚の椅子がある。


 少年は炭筆を持った。


 けれど、すぐには描かない。


「アル」


「何?」


「道って、何?」


 昨日とは少し違う問いだった。


「急に難しいな」


「昨日、道があっても行かなくていいって言った」


「うん」


「行かないなら、何で道なの?」


「誰かが使うかもしれないからじゃない?」


「誰も使わなかったら?」


「……それでも道だったことは残るんじゃないか」


「昔だけ使ったとか?」


「そういうのもあるな」


 少年は炭筆の先を紙へ触れさせず、少し浮かせたまま考える。


「持ってる道ってある?」


 俺の呼吸が一瞬止まりそうになった。


「何で?」


「何となく」


「旧保養施設の子の話?」


「違う。……ちょっとそう」


 少年がこちらを見る。


「何かあった?」


 隠す必要はない。


 でも、聞きたいかは別だ。


「今朝、あの子が道についてもう少し話した」


「聞きたい」


「今?」


「うん」


「怖くなったら止める?」


「止める」


 俺は必要なところだけ話した。


『みちは、いくところじゃない』


『もってるところ』


 それだけ。


 少年は長い間黙った。


「木のやつ?」


「分からない」


「地下?」


「分からない」


「帰還管理所?」


「分からない」


「全部分かんない」


「今日もな」


 少年は少し笑った。


「でも、昨日より分かんないの違う」


「どう違う?」


「昨日は道だから、どっか行くと思ってた」


「俺も」


「違うかもしれない」


「うん」


 少年は自分の絵を見る。


「じゃあ、この道も行かなくていい」


「昨日からそうだっただろ」


「うん。でも、もっといい」


「何が?」


「途中で終わっててもいい」


 炭筆を置いた。


 今日は道を伸ばさないらしい。


「休むところまであるから」


「そこで終わり?」


「分かんない」


「また描く?」


「それも分かんない」


「そっか」


 少年は満足そうだった。


 答えがないことに慣れたわけじゃない。


 分からないと言うたびに、不安になることもある。


 それでも、「分からない」をすぐ誰かへ渡して決めてもらわなくてもいい場面があることを、少しずつ身体で覚えている。


 俺自身も同じなのかもしれない。


 窓の外では、雲の隙間から淡い光が落ち始めていた。


 水たまりの表面がわずかに光る。


 少年はそれを見た。


「なくなる前に行きたい」


「今?」


「まだ薬飲んだばっかり」


「そうだな」


「だから待つ」


 少し残念そうに言う。


「待つの嫌?」


「ちょっと」


「それも言っていい」


「うん」


 少年は椅子へ座り直した。


「でも待つ」


 待つことを、誰かに命じられたからではなく、自分が二つの望みを両方扱うために選んだ。


 窓の外では、水たまりが少しずつ乾いていく。


 それでも俺は、急げとは言わなかった。


 なくなったら、なくなった時だ。


 また雨が降るかもしれない。


 降らないかもしれない。


 道があっても、今すぐ通らなくていい。


 水たまりがあっても、今すぐ踏まなくていい。


 そして地下に何かがあるかもしれなくても、今すぐ開けなければならないとは限らない。


 ただし、本当に誰かの命が危ないと分かったなら、その時は別だ。


 待つことも、進むことも、それ自体が正しいわけではない。


 その時、その人、その危険、その選択。


 面倒なくらい、一つずつ違う。


 それでいいのだと思えるようになった頃、エルから短い連絡が届いた。


『主様。旧保養施設より報告です』


「緊急?」


『いいえ』


「何か見つかった?」


『はい。ただし、意味は不明です』


 三〇八号室少年がこちらを見る。


「聞く?」


「……うん」


 俺は頷いた。


「お願い」


『古い用語記録の中に、「道」と翻訳可能な語を一件確認しました』


「どこ?」


『帰還管理所ではありません』


 エルが続ける。


『旧保養施設の、さらに古い設備保守記録です』


 少年の指が、卓の上でわずかに動く。


『ただし、その語は通路を意味していません』


「何を指してる?」


『現時点で読める範囲では――』


 わずかな間。


『魔力や信号を運ぶ系統を、当時の技術者が「導き路」と呼んでいた可能性があります』


 俺はすぐには答えなかった。


 少年も黙っている。


「新しい金属管?」


『結びつけられません』


「木片?」


『不明です』


「帰還?」


『不明です』


「地下の用途不明室?」


『不明です』


 結局、分からない。


 それでも、昨日までとは違う種類の可能性が一つ増えた。


 道は、人が歩くものとは限らない。


 何かを運ぶもの。


 何かを伝えるもの。


 あるいは、それさえ違うかもしれない。


「原文を保存して。訳語も一つに固定しないで」


『承知しました』


「ガルムたちは?」


『同じ方針です。該当語の使用例を追加で探しています』


「設備は触らない」


『はい』


 通信を終える。


 三〇八号室少年は、自分の描いた道を見ていた。


「また増えた」


「何が?」


「分かんないの」


「増えたな」


「でも」


 少年は窓の外を見る。


 雨上がりの中庭。


 少しずつ小さくなっている水たまり。


「俺のは、歩く道でいい」


「うん」


「あの子のは、違うかもしれない」


「うん」


「同じ言葉でも?」


「同じじゃなくていい」


 少年は小さく頷いた。


 そして、炭筆を紙の横へ置いた。


「じゃあ今は待つ」


「薬?」


「うん」


「水たまりも?」


「うん」


 少しだけ悔しそうに笑う。


「なくなるかもしれないけど」


「そうだな」


「それでも待つ」


 その言葉を聞きながら、俺も窓の外を見た。


 旧保養施設の地下は、今日も閉じたままだ。


 細い金属管にも触れていない。


 冷却術式も止めていない。


 名前の分からない子供にも、何も答えさせていない。


 それでも調査は止まっていない。


 古い紙の中から、別の意味を持つ「道」が一つ見つかった。


 答えではない。


 入口ですらないかもしれない。


 ただ、俺たちが勝手に決めていた意味を、一つ外すには十分だった。


 道がある。


 だから進む。


 鍵がある。


 だから開ける。


 帰還と書いてある。


 だから戻す。


 そんなふうに、物の名前が人間の行動まで決めてしまう必要はない。


 窓の向こうで、雲の切れ間から日が差した。


 水たまりの一つが光る。


 少年はそれを見つめたまま、まだ席を立たない。


 行きたい。


 でも、今は待つ。


 二つの気持ちを両方持ったまま。


 そして俺たちもまた、地下にあるかもしれない何かへ向かう道を探しながら、その道を見つけたという理由だけでは進まない。


 少なくとも今は、それでよかった。

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