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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第61話 こちらから何もしない時間にも、向こうでは何かが動いていました



 旧保養施設から届いた報告を聞いたあとも、俺はしばらく席を立たなかった。


 食堂の窓から差し込む朝日は、昨日よりも明るかった。夜の冷えを残していた塔の石壁へ淡い光が広がり、卓の上ではスープから細い湯気が立っている。外から聞こえる鳥の声も、厨房でセリーが食器を片づける音も、いつもと変わらない朝だった。


 変わったのは、頭の中に一つだけ増えた事実だ。


 こちらから何もしていない。


 それなのに、旧保養施設の送風路の奥側から、昨日記録された短い振動と近いものが一度検出された。


 それだけだった。


 誰かがいるとは分からない。古い設備が勝手に動いたのかもしれないし、温度変化で金属が収縮しただけかもしれない。暖房設備が通常状態だったとしても、建物のどこかに把握できていない機構が残っている可能性は十分にある。


 それでも、昨日までの「こちらが刺激したから何かが返った」という考え方だけでは足りなくなった。


「主様」


「食べてるよ」


「存じております」


 向かいから聞こえた声に顔を上げると、セリーは俺の皿ではなく、手元の杯を見ていた。


「そっちか」


「朝食開始から現在まで、水分摂取量は約七十ミリリットルです」


「スープも水分じゃない?」


「含めてよろしいのであれば増えますが、それで水を飲まなくなるおつもりでしたら含めません」


「計算方法が感情で変わってない?」


「主様の行動予測によって変えております」


「もっと悪い気がする」


 それでも杯を持ち上げると、セリーは何も言わず自分の作業へ戻った。


 最近、こういうやり取りが妙に日常になっている。


 王太子だった頃なら、朝食の量や水を飲んだ回数を誰かに気にされることを鬱陶しいと感じていたかもしれない。あるいは、気にされていること自体に気づかなかった可能性もある。


 今は、少し違う。


 気になることがあっても飯を食う。


 すぐに答えが欲しくても、眠る。


 必要なら明日へ回す。


 それができる人間を、以前の俺は怠けていると思っていたのだろうか。


 自分でも分からない。


『主様』


 エルの声が響いた。


「追加?」


『はい。旧保養施設より、ガルム隊長からです。現時点で緊急性はありません』


「なら食べながら聞く」


『常時測定を開始しました。旧送風路廊下側、暖房設備室周辺、用途不明室上部と推定される床面、既存冷却術式の四系統を同時記録しています』


「子供のいる区画は?」


『通常の安全確認のみです。調査用測定器は追加していません』


「よし」


 名前の分からない子供を測定対象にしたくなかった。


 あの子が何かを感じる可能性はある。昨日も、こちらの試験と近い時間に「きた」と言った。


 だからこそ、本人の周囲へ機器を増やして、その反応まで調査資料にしてしまうことには慎重でいたかった。


 体調や安全を見るのは必要だ。


 けれど、地下の何かを探すために子供の表情や呼吸を監視するようになれば、本人がいつの間にか「調査のための道具」へ変わる。


 白鴉療養所で見てきたものと、やっていることの形が近づいてしまう。


「ガルムは現地?」


『はい。リディア、ヨアヒム、フェリクスも旧保養施設です。ミラとウォルターは別任務を継続しています』


「フェリクス、寝た?」


『昨夜は六時間十一分の睡眠を確認しています』


「おお」


「主様」


 セリーがこちらを見る。


「何?」


「ご自分より他者の睡眠時間を気にするようになられた点は評価いたします」


「俺も寝たよ」


「七時間二十二分です」


「十分だろ」


「はい。ですので、本日は何も申し上げません」


「もう言ってるけどな」


 セリーは聞こえなかったように皿を片づけた。


 俺は残ったパンを食べながら、旧保養施設へすぐ向かうべきか考えた。


 だが、常時観測を始めたばかりだ。


 俺が行ったところで、記録器の前に立って線を眺めるくらいしかできない。


「エル。ガルムに、午前中はそっちへ行かないって伝えて」


『承知しました』


「何かあったら?」


『緊急性、または判断人数が必要となった場合に連絡するよう伝えます』


「頼む」


 それでいい。


 朝食を終え、白鴉療養所へ向かった。


 秋へ近づきつつある朝の空気は少し冷たく、森を抜ける道には昨夜の露が残っていた。馬車の窓から見える草の先が光を弾き、遠くでは町へ向かう荷車がゆっくり街道を進んでいる。


 世界は、地下の謎だけで動いているわけではない。


 当たり前なのに、調査へ入り込むと忘れそうになる。


 白鴉療養所へ着くと、入口近くの廊下には朝食を終えた患者が何人かいた。


 以前なら部屋から出ることすら怖がっていた者もいる。今は壁際の椅子へ座って窓の外を見ていたり、職員と短い言葉を交わしたり、それぞれ好きな場所で朝を過ごしている。


「アル」


 声をかけてきたのは、先日から肉の量を気にしている老人だった。


「おはよう」


「今日は豆が入ってた」


「入ってたな」


「隠してなかった」


「よかったじゃないか」


「見える豆なら許せる」


「何が違うんだよ」


「心構えができる」


 真剣な顔で言われると反論しにくい。


 そばにいた職員が笑いを堪えている。


「昨日は肉もちゃんと食べましたよ」


「俺の肉を減らして豆を増やした」


「胃が重いとおっしゃったのはご本人です」


「肉のせいとは言ってない」


「パンを三つ召し上がりましたからね」


「……あれかもしれん」


 老人は少し考えたあと、俺を見る。


「お前も食いすぎるなよ」


「俺?」


「若いからって油断するな」


「主様には必要な助言です」


 後ろからセリーが即座に加わった。


「何で俺まで患者側になるんだ」


「患者とは申し上げておりません」


「でも絶対同じ扱いしてるだろ」


 老人が楽しそうに笑った。


 その声につられるように、近くの患者も少し笑う。


 以前のこの場所にはなかった音だ。


 笑うことが治療の成果だと記録するつもりはない。


 ただ、笑いたい時に笑える場所にはなってきている。


 三〇八号室へ向かうと、扉は半分ほど開いていた。


 ノックすると、中から声が返る。


「入っていい」


「おはよう」


「おはよう、アル」


 少年は寝台ではなく、窓際の椅子へ座っていた。


 昨日の絵が膝の上にある。


 途中まで伸びた道。その横にある小さな四角と、さらに先に描いた休む場所。


 今日はまだ炭筆を持っていない。


「体調どう?」


「もうセリーに言った」


「じゃあ聞かない」


「聞かないの?」


「セリーからあとで必要なところだけ聞く」


 少年が少し意外そうな顔をした。


「いつも聞くのに」


「毎朝同じ質問を二回されるの、面倒じゃない?」


「ちょっと」


「じゃあ一回でいい」


 少年は数秒黙ったあと、ほんの少し口元を緩めた。


「でも怖さは一」


「それは自分から言いたかった?」


「うん」


「なら聞く」


「身体の重さも一。頭痛なし。気持ち悪くない」


「ありがとう」


 セリーから補足されたのは、睡眠と食欲に問題がないことだけだった。


 白い薬は昨日と同じ量を維持する。


 少年自身がそう選んだ。


「減らさないんだな」


 確認というより、俺が口にすると、少年は絵へ視線を落とした。


「昨日減らした次の日は同じにしたでしょ」


「うん」


「今日も……まだ同じでいい」


「理由は?」


「理由いる?」


 そこで俺は口を閉じた。


 少年もこちらを見る。


「必要なら聞くけど、同じ量を続けたいってだけなら、それでもいいな」


「うん」


 少し間を置いて、少年は自分から続けた。


「減らせるかもしれないけど、今困ってないから」


「分かった」


「明日は分かんない」


「明日決めよう」


 それで薬の話は終わった。


 少年は絵を卓へ置き、窓の外を見る。


「地下のやつは?」


「聞きたい?」


「うん」


「今朝、こっちから何もしてない時に一回だけ振動が出た」


 少年の視線が俺へ戻る。


「何もしてない?」


「何も」


「じゃあ、向こうから?」


「そう言いたくなるけど、まだ分からない。設備が勝手に動いた可能性もある」


「昨日のと同じ?」


「短いやつに近い」


「……短い、短い、長いの?」


「その最初の短いやつに近い」


 少年は椅子の背へ少し身体を預けた。


 怖がっているというより、頭の中で並べているように見える。


「今日はまた揺らす?」


「揺らさない」


「ずっと?」


「今日は少なくとも、こっちから何もしないで記録する」


「地下行く?」


「行かない」


「開ける?」


「開けない」


 少年の肩からわずかに力が抜けた。


「子供は?」


「朝の時点では、地下について何も言ってない」


「聞いてない?」


「聞いてない」


「そっか」


 少年はそれ以上追わなかった。


 代わりに絵へ手を伸ばす。


「アル、これ見て」


「昨日から変わった?」


「まだ」


「じゃあ何を見るんだ」


「休むところ」


「昨日聞いたよ」


「椅子描こうと思う」


「描けば?」


「椅子って難しい」


「俺に言われても」


「王子だったのに?」


「王子は椅子を描く仕事じゃない」


「座ってたでしょ」


「座ってたら描けるなら、お前も描けるだろ」


 少年が真顔になる。


「確かに」


 納得するのか。


 結局、二人で椅子を見ながら描くことになった。


 部屋にある木の椅子を少し離れた位置から眺め、少年が炭筆を動かす。俺も別の紙を渡されて描かされたが、脚の角度がおかしくなった。


「アルの変」


「お前のも変だろ」


「俺の方が椅子」


「俺のも椅子だよ」


「虫みたい」


「四本脚だから?」


「六本ある」


 紙を見る。


「……影だ」


「脚に見える」


「影なんだよ」


 少年が笑う。


 扉の近くにいたセリーが、俺たちの紙を交互に見た。


「どちらも椅子であることは認識可能です」


「ほら」


「ただし主様の方は、事前情報がなければ大型昆虫と誤認する可能性があります」


「セリーまで」


 少年が声を上げて笑った。


 俺も自分の絵を見る。


 確かに虫っぽい。


「捨てる」


「だめ」


「何で?」


「俺がもらう」


「これを?」


「うん」


「本当に?」


「アルが描いたから」


 少年は当然のように言った。


 俺の手が少し止まった。


 王太子だった頃、俺が書いたものには価値があった。


 署名。


 許可。


 命令。


 祝辞。


 俺自身が書いたからではなく、王太子が書いたから価値があるものだった。


 今、少年が欲しがっているのは、六本脚に見える椅子だ。


「……じゃあ、あげる」


「うん」


 少年は自分の絵の隣へ俺の紙を置いた。


 それだけなのに、妙に胸の奥が温かくなった。


 その感覚を言葉にする前に、エルが反応した。


『主様。旧保養施設から定時報告です』


 少年が俺を見る。


「聞く?」


「緊急じゃない?」


『緊急性はありません』


「じゃあ後で」


 少年が先に答えた。


「今、椅子描いてるから」


 俺は笑う。


「だってさ」


『承知しました』


 報告を切る。


 少年は炭筆を持ち直した。


「アルの虫椅子、ここに置く」


「絵の中に?」


「うん。休むところ」


「俺の椅子で休んだら倒れそうだけど」


「絵だから大丈夫」


 それは確かにそうだった。


 昼前まで白鴉療養所に残り、少年が昼食へ向かうところで俺は部屋を出た。


 廊下の先では、幼いアルフォンスが今日は歩行練習をしていなかった。談話室の奥で赤いジャムを塗った柔らかいパンを食べている姿だけが見えた。


 こちらに気づくと、小さく手を上げる。


 俺も同じように返す。


 それだけだ。


 三〇八号室少年は別の職員と食堂へ向かっていたため、今日は二人が会うこともない。


 会えるから会わせる必要はない。


 昨日会ったから今日も会う必要もない。


 白鴉療養所を出る前、朝に保留した旧保養施設からの定時報告を聞いた。


「エル、さっきの」


『はい。常時測定開始後、二時間四十一分の時点で追加の自然発生振動はありません』


「最初の一回だけ?」


『現時点では』


「暖房と冷却は?」


『通常範囲です。フェリクスが温度変化との比較を進めています』


「子供は?」


『朝食後、紙片遊び。昼前に短時間休息。地下関連の自発発言なし』


「じゃあ続けて」


『もう一点。ガルム隊長より、現地へ来る必要はないとのことです』


「先回りされた」


『「線を眺める人数を増やしても振動は増えん」との伝言です』


「言いそう」


 俺は少し迷ったが、旧保養施設へ向かうのをやめた。


 代わりに、アンナマリーが待つ記録室へ向かう。


 昨日、読むのを翌日に回した資料がある。


 帰還管理所の「処置確認者」に関する追加記録。


 地下の振動とは別の問題だ。


 同じ日に二つのことを扱うのが悪いわけではない。


 ただ、混ぜなければいい。


 記録室へ入ると、アンナマリーは窓を少し開けていた。紙の匂いがこもりやすい部屋へ冷たい風が入り、机の端に置かれた紙がかすかに揺れている。


「お待ちしていました」


「昨日の追加記録」


「はい。ただ、先に申し上げておきます」


「何?」


「答えではありません」


「最近、それを聞くと安心するようになってきた」


 アンナマリーが少し笑った。


「以前なら、答えではないと申し上げると残念そうになさいました」


「今も残念ではあるよ」


「それでも?」


「答えじゃないものを答えにするよりいい」


「では」


 彼女が一枚の写しを差し出した。


 昨日見た「管理代行確認済」の記録より、少し前の時期。


 対象番号。


 身体状態。


 本人意思。


 処置確認者。


 欄は残っている。


「本人意思は書いてある」


「はい」


 そこには短く、


『本日帰還を希望せず。外区滞在継続を希望』


 とある。


「拒否してる」


「そう読めます」


 次の欄。


『処置確認者:内区移送保留』


 さらに余白へ別の筆跡。


『再確認は本人申告時』


 俺はその一文を見た。


「古い規則と同じだ」


「はい。本人が申し出るまで再確認しないという考え方が、この時点でも残っています」


「次は?」


 アンナマリーが二枚目を出した。


 三日後。


 同じ対象番号。


『本人より再確認希望あり』


 そして、


『帰還説明再実施』


 その下に、


『本人、なお外区滞在を希望』


「また拒否した」


「はい」


「処置確認者は?」


『内区移送保留』


 変わらない。


「じゃあ、この頃までは本人が何度拒否しても、それだけで管理代行にはならなかった?」


「この一件では、そうです」


「一件では」


「はい」


 アンナマリーは慎重だった。


 それがありがたい。


 三枚目。


 さらに十日ほど後。


 同じ対象番号。


『本人申告なし。再確認実施せず』


 その下に、別の欄が増えている。


『長期滞在検討』


 俺は眉を寄せた。


「ここで出るのか」


「はい」


「長期滞在検討」


「ただし、この時点では内区移送とは結びついていません」


 さらに読む。


『本人意思に変更なき場合、外区保護継続』


「……まだ保護なんだ」


「そう見えます」


 次の紙。


 日付がかなり飛んでいる。


 同じ対象番号かと思ったが違う。


 別の人だ。


 欄の形式も少し変わっている。


『再確認対象』


『本人、面談拒否』


『管理者確認』


『翌日再面談』


「この人は?」


「身体状態は安定しています」


「面談拒否は意思確認不能?」


「そのように分類された可能性がありますが、この一枚だけでは分かりません」


 その下。


『再面談拒否』


『処置継続必要』


『管理代行検討』


 胸の奥が少し冷える。


「これ、どのくらい後?」


「先ほどの外区保護継続の記録から、およそ一年半後です」


 一年半。


 長いようで、制度が変わるには短い。


「その間の記録は?」


「欠落が多いです」


「焼かれた?」


「分かりません。単純に別保管の可能性もあります」


 俺は二つの記録を並べた。


 同じ拒否でも扱いが違う。


 片方は、本人が申し出るまで待つ。


 片方は、面談を拒否すると翌日に再面談し、また拒否すると管理代行が検討される。


「誰かが一日で変えたわけじゃない」


「おそらく」


「でも一年半のどこかで、待つことが難しくなった」


「そう見えます」


「何で?」


「まだ分かりません」


 俺は椅子の背へ身体を預けた。


 理由はいくらでも想像できる。


 患者が増えた。


 外区が足りなくなった。


 職員が減った。


 帰還を急がせる命令が出た。


 治療上の必要があった。


 管理者が面倒になった。


 王宮から圧力があった。


 どれも、今は想像でしかない。


「人数の変化、調べられる?」


「外区利用者数ですか?」


「うん。この一年半で急に増えたとか、滞在期間が伸びたとか」


「完全な名簿はありませんが、食料搬入記録と寝具交換記録なら残っている可能性があります」


「それなら人数の目安にはなる」


「探してみます」


「職員数も」


「給与記録があれば」


「お願い」


 アンナマリーが書き留める。


「アルフォンス様」


「何?」


「一つ、よろしいですか」


「うん」


「もし、外区の人数が急増していたと分かった場合、それは制度変更の理由になりますか?」


 俺は少し考えた。


「理由の一つだった可能性は上がる。でも、本人の拒否を無視していい理由にはならない」


「はい」


「ただ……現場が本当に限界だったなら、それを知らずに『悪い制度へ変えた人がいた』だけで終わらせるのも違う」


「そうですね」


「誰かが楽をしたかったのかもしれない。誰かが人を助けようとして失敗したのかもしれない。王宮の命令かもしれないし、施設側の都合かもしれない」


 窓から入った風で、一枚の紙の端が持ち上がる。


 アンナマリーがそっと押さえた。


「調べます」


「ああ」


「でも、今日はここまでにしますか?」


「まだ昼過ぎだよ」


「旧保養施設の報告もあります」


「セリーに言われた?」


「いいえ」


「本当に?」


「今朝、廊下ですれ違った際に『本日のアルフォンス様は旧保養施設と帰還管理所の二件を扱う可能性があります』とは伺いました」


「それ、ほぼ言われてるだろ」


「休ませてくださいとは言われておりません」


「セリー、上手くなってきたな」


 アンナマリーが笑う。


「では、追加資料はここまでにしましょう」


「うん」


 記録室を出た。


 廊下を歩きながら、少しだけ昔を思い出した。


 王太子だった頃、書類を途中で閉じることが苦手だった。


 読めるなら読む。


 判断できるなら判断する。


 今日できることを明日へ残すのは怠慢だと思っていた。


 それが本当に俺自身の性格だったのか。


 王太子として教えられたものだったのか。


 あるいは、もっと昔に何かを取り除かれた結果なのか。


 そこも、まだ分からない。


 白鴉療養所を出る前に三〇八号室へ寄ると、少年は昼寝をしていた。


 俺は扉の外から職員へ状態だけ聞き、そのまま帰ろうとした。


「アル」


 中から声がした。


 起こしたかと思って振り返る。


 少年が寝台から顔だけ出している。


「起きてた?」


「今起きた」


「ごめん」


「何で謝るの?」


「俺が来たから起きたかと思って」


「違う。喉渇いた」


 卓の水差しへ手を伸ばそうとしたので、俺は近くの杯へ水を注いだ。


 渡そうとして、少し手前で止める。


「取れる?」


「取れる」


 少年が自分で受け取る。


 何口か飲んでから、枕へ背を預けた。


「旧保養施設、何かあった?」


「昼までは追加なし」


「帰還管理所は?」


「そっちも少し見た」


「二個やった」


「昨日も言われたな」


「今日は椅子も描いた」


「それを仕事に入れる?」


「入れる」


「じゃあ三個だ」


「休んだ方がいい」


「お前に言われるとは」


 少年は眠そうな目で笑った。


「俺は昼寝した」


「強いな」


「アルもすれば?」


「塔戻ったら考える」


「考えるだけ?」


「……する」


「セリーに言う」


「何でみんな告げ口するんだよ」


「アルが寝ないから」


「最近寝てるって」


 少年は杯を卓へ置く。


 少し沈黙したあと、窓の方を見る。


「今日、外行こうかな」


 俺は答えを急がなかった。


「今?」


「ううん。もうちょっとしたら」


「身体は?」


「重さ一」


「薬減らしたあとだけど」


「だから行かない方がいい?」


「そういう意味じゃない。行くならヨアヒムかセリーにも一応確認しようってだけ」


「危ないから?」


「薬を減らしたあとに身体の変化がないか見てる途中だから。外へ行くこと自体が悪いわけじゃない」


 少年は少し考える。


「じゃあ、聞く」


「うん」


「聞いて、大丈夫って言われたら行かないと駄目?」


「駄目じゃない」


「やっぱり行かないって言っても?」


「もちろん」


「分かった」


 その返事を聞いてから、セリーとヨアヒムへ確認した。


 現在の状態なら、短時間の外出を止める医学的理由はない。


 ただし疲労や頭痛、ふらつきが出たら戻る。


 それだけだ。


 少年は上着を着た。


 廊下を歩き、外へ続く扉の前まで来る。


 ここまでは何度も来た。


 屋根のある石廊下へ出た日もある。


 その先の屋根のない中庭へ出たこともある。


 今日は雲が少なく、陽射しが石床を明るく照らしていた。数日前まで残っていた水たまりはもうなく、代わりに風で飛んできた細い葉が何枚か転がっている。


 少年は扉の前で止まった。


「寒い?」


「ちょっと」


「上着もう一枚いる?」


「いらない」


 外から風が吹き込み、少年の髪がわずかに揺れる。


 一歩。


 屋根のある廊下へ出る。


 そこで止まる。


 俺も後ろからついていくが、横へ並ばない。


 少年は中庭を見る。


「水たまり、ない」


「晴れたからな」


「また雨降る?」


「そのうち」


「いつ?」


「天気予報できるほど詳しくない」


「王子だったのに?」


「王子を何だと思ってるんだ」


 少年が笑う。


 そのまま二歩、三歩。


 屋根のある廊下の端まで来る。


 その先は陽の当たる中庭だ。


 以前はそこへ出た。


 水たまりの三歩手前まで近づいた。


 今日は水たまりがない。


「怖さ?」


「一」


「疲れは?」


「一」


「戻る?」


「まだ」


 少年は足元を見る。


 石廊下と中庭の境目。


 影と陽射しの境界でもある。


 右足を少し前へ出した。


 そこで止める。


 長い沈黙ではなかった。


 けれど、俺は待った。


「……やっぱり今日はここ」


「うん」


 少年は右足を戻した。


「行けそうだった」


「そう見えた」


「でも行かなかった」


「うん」


「昨日は行こうかなって言ってやめた」


「そうだな」


「今日も?」


「同じじゃないだろ。今日はここまで来た」


「じゃあ進んだ?」


 その言葉に、俺は少し迷う。


「どう思う?」


「分かんない」


「俺も、進んだかどうかで考えなくていい気がする」


 少年が振り返る。


「ここまで来た。それで外を見て、今日は中庭へ出ないって決めた。それだけでいいんじゃない?」


「でも前は出た」


「前に出たから今日も出なきゃいけないわけじゃない」


「うん」


「今日ここまで来たから、明日ここまで来なきゃいけないわけでもない」


「うん」


 少年はもう一度中庭を見る。


「でも、来てよかった」


「それは記録する?」


「……していい」


「何て?」


「今日は屋根のところまで行った。中庭には出なかった。来てよかった」


「怖さ一、疲れ一?」


「それも」


「分かった」


 少年は自分から戻り始めた。


 歩幅は来た時より少し軽い。


 部屋へ戻る途中、談話室の前を通った。


 中から幼いアルフォンスの声が聞こえる。


 三〇八号室少年が少しだけ足を止めた。


「いる?」


「いるみたいだな」


「会う?」


「俺に聞く?」


「……違うか」


 少年は自分で考える。


「今日はいい」


「分かった」


「嫌だからじゃない」


「うん」


「外行ったから、ちょっと疲れた」


「それなら戻ろう」


 理由を説明しなくてもよかったのかもしれない。


 それでも本人が言いたかったなら、聞けばいい。


 部屋へ戻り、少年が上着を脱いだところで、エルから連絡が入った。


『主様。旧保養施設より報告です』


 少年が俺を見る。


「緊急?」


『緊急性はありません』


「聞く?」


 俺が尋ねると、少年は寝台へ座りながら頷いた。


「今なら」


「エル、お願い」


『常時観測開始から約五時間。旧送風路奥側で、新たに二回の微弱振動を検出しました』


 少年の表情から、外へ出たあとの柔らかさが少し消える。


「どんな?」


『一度目は単発の短い振動。二度目は、その約二十七分後に発生した二連続の短い振動です』


「短い、短い?」


『はい。ただし、昨日の二連続部分との間隔は異なります』


「長いのは?」


『検出されていません』


 俺は少し息を吐いた。


 昨日の「短い、短い、長い」が、そのまま繰り返されたわけではない。


「設備との相関は?」


『一度目は暖房設備の燃焼出力が低下した約三分後。二度目は暖房出力変化なし。冷却術式はいずれも安定しています』


「温度?」


『一度目は外気温上昇中。二度目はほぼ一定です』


「じゃあ、まだ分からない」


『はい』


 少年が尋ねる。


「子供は?」


 エルが一瞬間を置く。


『一度目の振動時、本人は昼寝中でした。明確な覚醒反応なし』


「二回目は?」


『紙片遊び中。振動検出時刻の前後十分以内に、地下・音・木片に関する発言なし。木片は寝台脇の卓上に置かれていました』


 少年が目を瞬く。


「持ってなかった?」


『はい』


「何も言わなかった?」


『はい』


 少年は俺を見る。


「じゃあ、分かってない?」


「何が?」


「振動」


「昨日は何かを感じた可能性がある。でも、今日の二回は反応してない」


「昨日のだけ分かった?」


「それも確定じゃない」


「……そっか」


 少年は少し考えたあと、枕へ背を預ける。


「毎回分かるわけじゃないのかも」


「そうかもしれない」


「昨日の『きた』も、振動じゃないのかも」


「それもある」


「面倒」


「面倒だな」


 少年が少し笑う。


「アル、最近それ言う」


「何が?」


「面倒って言っていいみたいな顔する」


「面倒なものは面倒だからな」


「王子って言っちゃ駄目なの?」


「多分言わない方がよかった」


「今は?」


「言える」


「じゃあ、地下のやつ面倒」


「同感」


 少年の表情が少し戻った。


 何かが分からないことを、怖いだけではなく面倒だと言える。


 それも一つの距離の取り方なのかもしれない。


 夕方、俺は塔へ戻った。


 旧保養施設へは結局行かなかった。


 ガルムから届いた記録を見る限り、現場は問題なく回っている。


 俺がいなくても調査は進む。


 それは少し寂しいような、不思議な感覚だった。


 王太子だった頃は、自分がいなければ進まないことが価値だと思っていた。


 今は逆だ。


 俺がいなくても進むなら、その方がいい。


 食堂へ入ると、セリーが夕食の準備をしていた。


「旧保養施設、行かなかった」


「存じております」


「褒める?」


「なぜでしょう」


「前なら行ってたから」


「主様が現地へ行く必要がないと判断されたのであれば、それは適切だったと思います」


「褒めた」


「事実を述べました」


「じゃあ昼寝もした」


 セリーの手が止まった。


「本当ですか?」


「三十分」


「……エル」


『事実です。午後、塔へ戻られる前ではなく、白鴉療養所の空き休憩室で二十八分間の睡眠を確認しています』


「二分足りなかった」


「そこではありません」


 セリーがこちらを見る。


「主様が自発的に昼寝を」


「そんな珍獣みたいな扱いするなよ」


「記録しておきます」


「何の記録?」


「私の記憶に」


「それなら好きにして」


 少し嬉しそうに見えたのは、気のせいかもしれない。


 夕食を食べ始めてしばらくすると、エルから旧保養施設の夕方報告が入った。


 常時観測開始からさらに数時間。


 追加の振動は一度。


 今度は、これまでより少し長い単発振動だった。


 暖房設備の動作変化とは一致しない。


 冷却術式も安定。


 外気温は緩やかに低下中。


 そして、名前の分からない子供は、その時ちょうど夕食を食べていた。


「反応は?」


『明確な反応なし』


「何か言った?」


『振動時刻から約四分後、「にんじん、いらない」と発言しています』


 俺はしばらく黙った。


「……それだけ?」


『はい』


 セリーがわずかに視線を上げる。


「にんじんは?」


『担当職員が「一つだけ残すか、全部食べるか、別の野菜へ替えるか」を尋ね、本人は「ひとつのこす」を選択しました』


「地下より重要だったんだな」


『少なくとも、その時点の本人にとっては、その可能性があります』


 俺は笑った。


「それ、記録は?」


『食事記録には残します。地下調査記録には記載しません』


「それでいい」


 名前の分からない子供が、地下の何かに反応しなかった。


 それを「改善」とは呼ばない。


 振動を感じなかっただけかもしれない。


 そもそも昨日の発言が振動と無関係だったかもしれない。


 ただ、その時間に本人が考えていたのが、地下ではなく皿のにんじんだった。


 それは少しだけ安心する。


「主様」


「何?」


「主様の皿にも人参があります」


「見えてるよ」


「残されますか?」


「食べる」


「結構です」


「子供には選ばせたのに俺には圧がある」


「主様は人参を嫌いではありません」


「そうだけど」


 食べる。


 普通に美味い。


 夕食後、旧保養施設からもう一つだけ報告が来た。


 フェリクスたちが、自然発生振動の波形を設備記録と比較した結果だった。


『現時点で、四回の自然発生振動を記録しています』


「朝一回、昼二回、夕方一回?」


『はい』


「共通点は?」


『完全な共通条件はありません』


「暖房でも温度でもない?」


『少なくとも単独要因では説明できません』


「冷却術式?」


『既知の出力変化とは一致していません』


「時間間隔は?」


『不規則です』


「じゃあ、合図っぽい規則もない」


『現時点では確認できません』


 俺は椅子へ深く座った。


 それは、ある意味で良い報告だった。


 短い、短い、長い。


 昨日の三つの振動だけを見れば、何かの合図に見える。


 だが今日、何もしない状態で出た振動は単発、二連、長い単発。


 規則性は見えない。


 人が叩いているという考えに飛びつく理由は薄くなった。


 同時に、単純な設備の一動作だけで説明することもできていない。


「フェリクスは何て?」


『「非常に面白い」と』


「そこは聞かなくても分かる」


『続けて「だからこそ開けずに観測を続けるべき」と述べています』


「……成長したな」


『リディアも同様の発言をしています』


「どっちが?」


『フェリクスが、です』


「だよな」


 俺は笑った。


「ガルムは?」


『最低でももう一日、無刺激観測を継続する案です』


「俺も賛成」


『では伝えます』


「子供の生活は変えない」


『はい』


「地下へ行かない」


『はい』


「冷却止めない」


『はい』


「送風路も開けない」


『承知しました』


 通信を終える。


 今日は何も解決していない。


 けれど、昨日より分からなくなったとも少し違う。


 こちらから刺激しなくても、振動は起こる。


 その振動は一つの決まった形ではない。


 名前の分からない子供は、そのたびに反応するわけでもない。


 少なくとも、そこまでは分かった。


 翌朝まで待つ。


 それでいい。


 そう思ったところで、セリーが温かい飲み物を持ってきた。


「今日はもう資料なし?」


「帰還管理所の食料搬入記録が見つかれば、少しだけ――」


「主様」


「冗談」


「今、少し本気でしたね」


「三割くらい」


「却下します」


「俺の選択は?」


「資料を読む、読まずに休む、温かい飲み物を飲んでから考える、の三つをご用意します」


「三つ目が罠だろ」


「選択肢です」


「選ばせればいいってもんじゃないって最近ずっと――」


 言いながら、自分で笑ってしまった。


 セリーもわずかに口元を緩める。


「では、四つ目を」


「何?」


「温かい飲み物を飲み、資料を読まず、私と少し話してから休む」


「セリーと?」


「はい」


 その言葉に、ほんの一瞬だけ返事が遅れた。


 セリーはいつも俺のそばにいる。


 食事を作る。


 体調を見る。


 塔を管理する。


 危険があれば守る。


 けれど以前、彼女はそれだけではないと言った。


 役目だから世話をする部分もある。


 それとは別に、自分がそうしたいからする部分もある、と。


「何話す?」


「決めておりません」


「珍しいな」


「会話には事前計画が必要でしょうか」


「王宮では必要なことが多かった」


「ここは王宮ではありません」


「そうだった」


 温かい杯を受け取る。


 セリーは向かいへ座った。


 彼女が仕事でも報告でもなく、ただ座ることは意外と少ない。


「今日、三〇八号室の子と椅子描いた」


「存じております」


「俺の絵、虫みたいって言ったよな」


「事実です」


「まだ言う?」


「改善を望まれるのであれば、明日練習なさいますか?」


「そこまで椅子描きたくない」


「では、あの一枚は貴重ですね」


「……あいつ、欲しいって言った」


「はい」


「俺が描いたからって」


 セリーは少しだけ目を細めた。


「嬉しかったのですか?」


「多分」


「多分?」


「嬉しかった」


 言い直す。


 以前なら、こういう感情まで曖昧にしたかもしれない。


 セリーはそれ以上掘り下げなかった。


「それは、よろしかったですね」


「うん」


 杯から上がる湯気の向こうで、セリーの顔が少し柔らかく見える。


「セリーは?」


「何がでしょう」


「今日、何か嬉しかった?」


 今度は彼女が黙った。


 長い沈黙ではない。


 それでも、セリーが即答しないことは珍しい。


「主様が昼寝をされたことです」


「そこ?」


「はい」


「もっと他にない?」


「朝食時に水分を摂取されたこと」


「俺の健康ばっかりじゃん」


「では」


 セリーは少し考えた。


「主様が、旧保養施設へ行かれなかったことです」


「それも健康?」


「いいえ」


 彼女の声が少しだけ変わる。


「以前の主様でしたら、ご自分が行く必要がなくとも、行かれたと思います」


「うん」


「今は、他者へ任せることができます」


「ガルムたちを信用してるから」


「はい」


「セリーも?」


「もちろんです」


 俺は杯へ視線を落とした。


「俺が何もしない時間が増えても、いいのかな」


「何もしないのですか?」


「今日、旧保養施設に行かなかった」


「三〇八号室の方と椅子を描かれました」


「帰還管理所の資料も途中でやめた」


「アンナマリー様へ次に調べる内容を共有されました」


「昼寝した」


「それは必要です」


「今もこうして座ってる」


「私と話しておられます」


 セリーがまっすぐ俺を見る。


「主様が王太子ではなくなった時、何をしていれば価値があるのか分からなくなられたことを覚えております」


 胸の奥が少し詰まった。


「そんなこと言った?」


「言葉では」


「じゃあ何で分かった」


「私は主様を見ておりましたので」


 静かな声だった。


「何もしていない時間に落ち着かず、必要のない場所まで確認へ行かれ、誰かができることまでご自分でなさろうとしていました」


「……今も少しあるな」


「少しどころではありません」


「そこは優しく言って」


「では、以前よりは改善されました」


「患者じゃないんだけど」


「存じております」


 俺たちは少し笑った。


 そのあと、しばらく何も話さなかった。


 沈黙が気まずくない。


 窓の外では夜風が木々を揺らし、遠くから小さな虫の声が聞こえてくる。塔の中には古い魔導具が眠り、外では町の人々がそれぞれの夜を過ごしている。


 旧保養施設の地下では、今も記録器が動いている。


 それでも、俺はそこへ行かない。


「セリー」


「はい」


「ありがとう」


「何についてでしょう」


「分かんない。いろいろ」


 セリーは少しだけ目を瞬いた。


「では、いろいろについて受け取っておきます」


「便利だな」


「主様も、理由を完全に説明できない感情を持ってよいのでは?」


「最近、俺より俺の言葉使うよな」


「長くおそばにおりますので」


 俺は残っていた飲み物を飲み切った。


 その夜は、本当に追加資料を開かなかった。


 翌朝。


 塔の窓を叩く小さな音で目を覚ました。


 雨だった。


 強くはない。


 細い雨粒が窓を濡らし、外の森を薄い灰色に霞ませている。


 水たまり。


 三〇八号室少年の顔が最初に浮かんだ。


 数日前、水たまりがなくなったことを少し残念がっていた。


 今日なら、またできるだろう。


 だからといって教えに行く必要はない。


 本人が見れば分かる。


 そう思いながら着替えていると、エルが反応した。


『主様。旧保養施設から夜間観測報告があります』


「緊急?」


『いいえ』


「じゃあ朝食で」


『承知しました』


 食堂へ下りる。


 セリーはすでに朝食を並べていた。


「おはよう」


「おはようございます、主様」


「雨だな」


「はい」


「三〇八号室の中庭、水たまりできそう」


「そうですね」


「教えないけど」


「はい」


「何で笑ってる?」


「笑っておりません」


「ちょっと笑ってた」


「気のせいです」


 椅子へ座る。


 今日は言われる前に水を一口飲んだ。


 セリーの手が一瞬止まる。


「何?」


「何も」


「今、絶対褒めようとしただろ」


「日常的な水分摂取に毎回賞賛は必要ありません」


「昨日まで言ってたじゃん」


「主様が意識され始めましたので、今後は頻度を下げます」


「管理方法まで変わるんだな」


「必要に応じて」


 俺は笑いながらパンを取った。


「エル。夜の報告」


『はい。無刺激常時観測を夜間も継続しました。午後九時から午前六時までに、旧送風路奥側で七回の微弱振動を検出しています』


 手が止まる。


「七回?」


『はい』


「多いな」


『日中より頻度は上昇しています』


「形は?」


『単発短振動三回。二連短振動一回。長めの単発二回。残る一回は――』


 エルが一瞬止まった。


「何?」


『三連振動です』


 俺は杯を置いた。


「短い、短い、長い?」


『いいえ』


 少しだけ息を吐く。


『短い、長い、短い。昨日の三連とは異なります』


「規則性は?」


『現時点では確認できません』


「暖房?」


『七回のうち二回は暖房出力変化の前後五分以内。五回は一致しません』


「冷却?」


『明確な出力変化なし』


「雨が始まった時間は?」


『旧保養施設周辺では午前四時十二分頃から降雨を確認しています。七回中六回は降雨開始前です』


「雨水が入ったとかでもないか」


『少なくとも六回については直接要因とは考えにくいです』


「子供は?」


『午後九時以降は睡眠。夜間覚醒一回、水分摂取後再入眠。振動時刻との明確な一致なし』


「何か言った?」


『地下関連発言なし』


 俺はスープへ視線を落とした。


 七回。


 増えている。


 だが形は一定ではない。


 子供も反応していない。


「ガルムは?」


『本日も無刺激観測継続を推奨しています。ただし、振動頻度増加のため、旧送風路周辺の構造安全性を非侵襲的に再確認したいとのことです』


「開けない?」


『開けません』


「強い魔力走査は?」


『行わない方針です』


「ならお願い」


『承知しました』


 朝食を続ける。


 地下で何かが動いている。


 その言い方なら、たぶん間違っていない。


 ただし「何か」は人とは限らない。


 金属かもしれない。


 空気かもしれない。


 古い魔導具かもしれない。


 今まで知らなかった設備かもしれない。


 七回という数字に意味を持たせるのも早い。


 白鴉療養所へ着いた頃には、雨が少し強くなっていた。


 玄関の庇から細い水滴が落ち、石畳にはいくつもの水たまりができている。


 中へ入ると、三〇八号室少年が廊下の窓際に立っていた。


 俺を見つけるより先に、外を見ている。


「おはよう」


「アル」


「雨だな」


「うん」


 少年の視線が中庭へ戻る。


「水たまり、できた」


「できたな」


「大きい」


「結構降ってるからな」


 少年は窓へ少し近づく。


「今日、外行ける?」


「雨でも?」


「屋根あるところなら」


「行けると思うけど、体調確認してからな」


「うん」


 セリーから朝の状態を聞く。


 大きな変化はない。


 睡眠良好。


 頭痛、吐き気、ふらつきなし。


 身体の重さ一。


 怖さ一。


 白い薬について尋ねられると、少年は少し長く考えた。


「今日……」


 窓の外を見る。


「少し減らしてみたい」


 俺は口を挟まない。


 セリーも待つ。


「昨日も同じだったし、その前も大丈夫だった」


「どの程度を希望されますか?」


「分かんない」


「では、私から選択肢を説明します」


 セリーは現在量を維持する場合、ごく小さく減らす場合、体調に不安が出た時には戻せることを簡潔に伝えた。


 少年は聞いたあと、すぐには答えない。


「減らして、外行ったら、何かあった時どっちか分からない?」


 自分から気づいた。


「そうなる可能性はある」


 俺が答える。


「薬を減らしたせいか、外で疲れたせいか」


「うん」


「じゃあ外行くなら減らさない方がいい?」


「そう決める方法もある。でも、薬を減らしたら絶対外へ行けないわけじゃない」


「……水たまり見たい」


「うん」


「薬も減らしてみたい」


 二つの望みがある。


 どちらかを諦めなければならないとは限らない。


 けれど、同時にやれば分かりにくくなることもある。


 少年は窓の外を見たまま考えている。


「今日は薬、同じにする」


 やがて言った。


「水たまり見る」


「分かった」


「明日減らす?」


「それは明日決めよう」


「うん」


 少年は納得したように頷いた。


 薬を減らせなかった日ではない。


 水たまりを見ることを選んだ日でもない。


 二つある望みの中から、今日は一つを先にしただけだ。


 朝食と薬を終え、少し休んでから外へ向かった。


 雨はまだ降っている。


 屋根のある石廊下へ出ると、湿った土と石の匂いが濃くなった。庇の先から落ちる水滴が一定ではない音を立て、中庭の水たまりには小さな輪が次々と生まれている。


 三〇八号室少年は、その光景を黙って見ていた。


「前より大きい」


「雨降ってるからな」


「踏んだら?」


「濡れる」


「知ってる」


「じゃあ何を聞いたんだ」


「どのくらい」


「踏み方によるだろ」


 少年は少し笑った。


 屋根の端まで進む。


 雨が届く境界。


 前に中庭へ出た時と同じ場所だ。


「行く?」


 俺は尋ねない。


 少年も何も言わない。


 ただ、水たまりを見る。


 数十秒。


 右足が少し前へ出る。


 雨の届く場所へ靴先が出た。


 一滴。


 二滴。


 黒い靴の表面に雨粒が落ちる。


 少年はそれを見た。


 足を戻さない。


 もう半歩。


 身体ごと屋根の外へ出る。


 雨が髪と肩へ落ちた。


 少年の呼吸が少し速くなる。


 俺は後ろにいる。


 セリーも離れている。


 誰も「できた」と言わない。


「冷たい」


 少年が言った。


「戻る?」


「まだ」


 一歩。


 中庭へ出た。


 水たまりまでは五歩ほど。


 少年は歩く。


 一歩。


 二歩。


 途中で止まる。


 水たまりまで三歩。


 以前と同じくらいの距離だ。


 ただ、今日は屋根がない。


 雨が降っている。


「怖さ二」


 自分から言う。


「疲れ一」


 少し息を整える。


「戻る?」


 今度は安全確認として聞いた。


「まだ」


 少年は水たまりを見る。


「踏みたい」


 小さな声だった。


 それから、俺を振り返る。


「踏んでいい?」


「お前の靴だぞ」


「洗える?」


「洗える」


 セリーを見る。


「洗浄可能です」


「怒らない?」


「怒りません」


 少年は前へ向き直る。


 一歩。


 水たまりまで二歩。


 もう一歩。


 縁まで来た。


 雨粒で揺れる水面。


 少年はそこへ右足を出しかける。


 止まる。


 俺は待つ。


 セリーも何も言わない。


 少年は長く水面を見つめたあと、右足を戻した。


「……今日は触るだけ」


「どうやって?」


 少年はしゃがんだ。


 右手を伸ばす。


 指先が水面へ触れる。


 小さな輪が広がった。


「冷たい」


 笑った。


 ほんの少し。


 でも、はっきりと。


「手、濡れた」


「水だからな」


「分かってる」


 少年はもう一度指を入れた。


 今度は少しだけ水を弾く。


 飛んだ雫が袖へついた。


「セリー」


「はい」


「これも洗える?」


「洗えます」


「よかった」


 少年は立ち上がった。


「今日は踏まない」


「うん」


「触った」


「うん」


「記録していい」


「何て?」


 少年は少し考える。


「雨の日に中庭へ出た。水たまりを手で触った。踏まなかった。冷たかった」


「楽しかった?」


 尋ねてから、少しだけ迷う。


 誘導になったかもしれない。


 けれど少年は首を傾けた。


「……ちょっと」


「それも書く?」


「書いていい」


 戻る途中、少年は一度だけ水たまりを振り返った。


 後悔している顔ではなかった。


 次は踏むと決めた顔でもない。


 ただ、そこに水たまりがあることを確認するように見た。


 屋根の下へ戻る。


 セリーが布を差し出す。


「拭きますか?」


「自分で」


「どうぞ」


 少年は髪と手を拭いた。


 部屋へ戻る途中で言う。


「明日、雨止んだら?」


「水たまり残るかもな」


「なくなるかも?」


「それもある」


「そっか」


「残っててほしい?」


「分かんない」


 少し考える。


「今日触ったから、なくなっても前よりは残念じゃないかも」


「そっか」


「でも残ってたら、また見る」


「うん」


「踏むかは分かんない」


「それでいい」


 部屋へ戻ったところで、エルが反応した。


『主様』


「緊急?」


『いいえ。ただし、旧保養施設から新しい観測結果があります』


 三〇八号室少年が濡れた髪を拭きながらこちらを見る。


「聞く?」


「うん」


「お願い」


『非侵襲的構造確認中、旧送風路周辺の壁内部で、これまで記録されていなかった細い金属管を一本確認しました』


「また管?」


『はい。ただし、以前確認された床下の細管とは別系統です』


「どこへ?」


『壁内を下方へ約一・七メートル。その後、施設中央側へ曲がっています。以降は壁材と遮蔽構造のため追跡不能です』


「用途不明室方向?」


『概ね近い方向ですが、一致は確認できません』


「開けた?」


『開けていません』


「中身?」


『外部測定では空洞反応。ただし内部にごく薄い付着物がある可能性があります』


「振動は伝わる?」


『その点が新情報です』


 エルの声が少し間を置く。


『午前中に発生した自然振動の一つと同程度の弱い振動を、当該金属管でも同時刻に記録していたことが、記録照合で判明しました』


「同じ振動?」


『近似しています。ただし送風路から管へ伝わったのか、管から送風路へ伝わったのか、第三の場所から両方へ伝わったのかは不明です』


 俺は黙った。


 少年も聞いている。


「その管、何か流れてる?」


『現在、明確な流体移動は検出されていません』


「魔力?」


『既知の術式反応なし』


「じゃあ触らない」


『ガルム隊長も同意見です』


 少年が布を膝へ置く。


「管が鳴ってた?」


「可能性はある」


「じゃあ人じゃない?」


「それもまだ分からない」


「管が勝手に動いてるかもしれない?」


「うん」


「誰かが管を動かしてるかもしれない?」


「それも、今は消せない」


 少年が少し眉を寄せる。


「面倒」


「本当に面倒だな」


 そこで通信は終わるかと思った。


 だが、エルが続ける。


『もう一点あります』


「何?」


『名前の分からない子供についてです』


 俺の身体が少し硬くなる。


「何か言った?」


『はい』


「いつ?」


『金属管の確認作業が行われていた時間帯です。ただし、作業場所と本人の安全区画は離れており、作業音が直接届いた記録はありません』


「発言は?」


 エルが、そのまま読み上げる。


『本人は木片を卓上へ置いた状態で、紙片遊びをしていました。その途中で手を止め、廊下ではなく、自分の木片を見ています』


「それで?」


『「それ、みち」と発言しました』


 俺は息を止める。


「木片を見て?」


『視線は木片方向でした。ただし、木片そのものを指差してはいません』


「誰か質問した?」


『していません』


「続きは?」


『約十秒後、本人が木片を手に取りました』


 エルの声が静かに続く。


『そして、「もどるみち、ちがう」と発言しています』


 部屋の空気が変わった。


 三〇八号室少年も動かない。


「……それだけ?」


『はい。その後、本人は木片を衣服のポケットへ入れ、紙片遊びを再開しています。職員は意味を尋ねていません』


「怖がった?」


『呼吸の大きな乱れなし。泣いていません。地下方向への移動なし。「あけないで」「した、いかない」等の発言もありません』


 俺は窓の外を見る。


 雨が降っている。


 中庭の水たまりへ、さっき少年が触れた時より多くの輪が広がっている。


「金属管と発言を繋げないで」


『承知しています』


「時間が近かったことだけ記録」


『はい』


「『それ、みち』の『それ』も木片とは決めない」


『はい』


「『もどるみち、ちがう』も、帰還管理所のこととは決めない」


『承知しました』


 通信を切る。


 三〇八号室少年がゆっくり息を吐いた。


「帰る道?」


「そう言った」


「帰還管理所?」


「分からない」


「木のやつ?」


「それも分からない」


「管?」


「分からない」


 少年が俺を見る。


「全部分かんない」


「うん」


「アル、嫌?」


「何が?」


「分かんないの」


 少し考える。


「嫌だよ」


「嫌なんだ」


「早く知りたい」


「でも開けない?」


「開けない」


「何で?」


 俺は雨の音を聞きながら答えた。


「知りたいのは俺だから」


 少年が瞬きをする。


「地下を開けた時に何か起きるなら、その危険を受けるのは俺だけじゃない。あの子も、現場にいる人も、もし中に誰かいるならその人も」


「うん」


「俺が知りたいからって、みんなの分まで勝手に決めるのは違う」


 少年はしばらく黙っていた。


「でも、誰かいたら?」


「それが一番怖い」


「助けるの遅くなる?」


「可能性はある」


「じゃあどうする?」


「今できる安全確認を続ける。危険の兆候が出たら、その時は判断を変える」


「今はいない?」


「命に関わるって分かる兆候は、今のところない」


「分からないだけかも」


「そうだな」


 少年は膝の上の布を握った。


「面倒より、怖い」


「うん」


「怖さ……二」


「言ってくれてありがとう」


 俺はそれ以上説明しなかった。


 地下に誰かがいるかもしれない。


 いないかもしれない。


 どちらを言っても、今は安心させるための嘘になる。


 少年はしばらく雨を見ていた。


 やがて、濡れた手を見下ろす。


「水たまり、触ってよかった」


 突然話が変わったように聞こえた。


 でも、たぶん違う。


「うん」


「地下怖いけど」


「うん」


「水、冷たかった」


「うん」


「両方ある」


 俺は少し笑った。


「あるな」


 少年は自分の絵へ手を伸ばした。


 道。


 小さな四角。


 休む場所。


 その中に、俺が描いた六本脚の椅子が置かれている。


「これも道」


「絵の?」


「うん」


「どこへ行く?」


「分かんない」


「そっか」


「でも、休むところある」


「あるな」


 少年は炭筆を持った。


 道の先を、ほんの少しだけ伸ばす。


 そこで止めた。


 地下の「もどるみち」が何なのかは、まだ分からない。


 木片が何を示しているのかも分からない。


 旧送風路と新しく見つかった細い金属管がどこへ続くのかも分からない。


 それでも、分からないからといって、今日という一日まで全部止まるわけではない。


 雨の中庭には水たまりがある。


 三〇八号室の少年は、今日はそこへ足を入れなかった。


 代わりに、自分の指で水へ触れた。


 名前の分からない子供は、自分の木片を自分で持っている。


 幼いアルフォンスは、今日も自分の身体で歩く練習をしている。


 アンナマリーは古い食料搬入記録を探している。


 ガルムたちは地下を開けずに、壁の向こうから届く微かな振動を記録している。


 俺は、その全部を一人でやっていない。


 だからこそ、待てる。


 そう思った時、窓の向こうで雨脚が少しだけ強くなった。


 石畳の水たまりに無数の輪が重なり、どの一滴が最初に作った輪なのか、もう見分けることはできない。


 けれど、見分けられないものを一つの原因へまとめる必要もない。


 今はまだ、それぞれをそれぞれのまま残しておけばいい。


 旧送風路の振動も。


 細い金属管も。


 木片も。


 子供の言った「みち」も。


 そして、まだ誰にも見えていない、その先にあるものも。


 開けるのは、まだ先でいい。

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