第60話 同じ合図を返したからといって、その向こうに誰かがいると決めることはできませんでした
朝、目を覚まして最初に聞いたのは、旧保養施設からの報告ではなかった。
寝室の扉を開けると、廊下の先から食器の触れ合う音が聞こえてくる。塔の窓には淡い朝日が差し込み、夜のあいだ冷えていた石壁をゆっくり明るくしていた。食堂からは焼いたパンと温かなスープの匂いが漂っていて、それを嗅いだ途端、昨夜まで頭の中を占めていた旧送風路のことより先に腹が空いていることを自覚する。
食堂へ入ると、卓には温かなスープとパン、それから薄く焼いた卵が並んでいた。
そして俺の席の前には、今日も水がある。
「……毎日置くつもり?」
「毎日必要ですので」
セリーは当然のように答えた。俺が椅子へ腰を下ろしながら杯を見ると、その視線を追うようにセリーも杯を見る。
「俺、昨日ちゃんと飲んだよな」
「昨日飲まれたことは、本日必要な水分を摂取しなくてよい理由にはなりません」
椅子へ座りかけた俺の動きが止まった。
「それ、俺が最近ずっと言ってることを利用してない?」
「昨日の選択を今日の義務にはいたしません。ただし、人間の身体が毎日水分を必要とする事実は別です」
「上手く逃げたな」
「逃げておりません」
セリーの顔は真面目だった。
俺は諦めて杯を持ち上げ、半分ほど飲んで卓へ戻した。
「これで?」
「朝食中に残りもお願いいたします」
「はいはい」
「返事は一度で結構です」
「厳しいなあ」
そんなやり取りをしている間にも、頭の片隅には昨夜のことが残っていた。
旧保養施設の送風路へ、ごく弱い振動を一度だけ与えた。
およそ六秒後、奥側から別の振動が一度。そのさらに十一秒ほど後にも、もっと弱い振動が一度記録された。
単純な反射では説明しにくい。
だが、誰かからの返事だと決められるものでもない。
そして名前の分からない子供は、前日には「まだ、いる」と言い、昨夜は「きょう、こなかった」と言った。
どちらの言葉も、何を指しているのか分からない。
地下に誰かがいるのかもしれない。
古い設備がまだ動いているだけかもしれない。
そもそも、子供の言葉と送風路の振動が同じものを指している保証すらなかった。
「エル」
『はい』
「夜間の変化は?」
『重大な変化はありません』
それだけで、肩から少し力が抜けた。
『旧保養施設では、夜間に人間が認識可能な金属音は記録されていません。旧送風路内の微弱な圧力変動は二度ありましたが、昨日の試験後に検出された振動と同等の波形は確認されていません』
「子供は?」
『夜間覚醒一回。水分摂取後、再入眠しています。木片は枕元に置いたままでした』
「何か言った?」
『地下、暖房設備室、音に関する発言はありません』
「なら、そのままで」
『承知しました』
俺はスープへ匙を入れた。
「主様」
「今食べようとしてた」
「何も申し上げていません」
「絶対言おうとしただろ」
「スープが冷めます、と」
「ほら」
セリーがほんの少し首を傾ける。
「事実ですが?」
「分かったよ」
口へ運ぶと、温かい。根菜の甘みと鶏の出汁がよく出ていて、朝の冷えが残っていた身体へゆっくり染みてくる。
旧保養施設では、朝からガルムたちが昨日の振動記録を検討している。フェリクスも残って解析に加わっているはずだ。
「フェリクス、寝た?」
『睡眠時間は三時間四十二分です』
「短いな」
『リディアにより強制的に休息させられました』
「よかった」
『本人は二時間で十分だと主張していました』
「駄目だろ」
「主様」
セリーが俺を見る。
「何?」
「過去の主様にも同様の発言履歴があります」
「今はしてない」
「改善されました」
「三〇八号室の子には使わないのに、俺には改善って言うんだな」
「はい」
「何で?」
「主様だからです」
「説明になってない」
「パンも召し上がってください」
話を逸らされた。
それでもパンを食べ、残っていた水も飲み切る。
気になることがあるからといって、食べなくてよくなるわけではない。眠らなくてよくなるわけでもない。
その当たり前のことを、最近の俺は少しずつ覚え直している気がした。
朝食を終えて白鴉療養所へ向かうと、三〇八号室の少年はすでに起きていた。
昨日描いた紙は寝台脇の卓に置かれている。
一本の道。
その横に小さな四角。
線は紙の途中で止まったままだ。
「おはよう」
「おはよう」
少年は俺を見ると、顔より先に手元へ視線を落とした。
「何も持ってない?」
「何を期待してる?」
「分かんない」
「だったら持ってこられないな」
「赤いジャムとか」
「朝から?」
「小さいアルフォンスが好きだから」
「お前も好きだろ」
「うん」
そこは素直に認める。
セリーが朝の状態を確認した。
昨日、白い薬をさらに一段階だけ減らした。その後、明確な頭痛や吐き気、胸部違和感、ふらつきは出ておらず、夜間も大きく崩れることなく眠れている。
「身体の重さは一。怖さも一」
少年は自分から告げた。
「薬は?」
セリーが尋ねる。
少年はすぐには答えず、寝台の上で片膝を立て、その膝へ手を置いた。昨日は自分から減らすことを選んだ。だからといって、今日も同じ方向へ進む必要はない。
「今日は同じ」
「昨日減らした量を維持、でよろしいですか?」
「うん。昨日減らしたから、今日も減らすのは嫌」
「承知しました」
「明日は?」
「明日決める」
「はい」
確認はそれだけで終わった。
青と紫の薬は引き続き中止。白い薬は昨日減らした量を維持する。
今日の体調次第では戻すことも含めて考えるが、今ここで明日の量まで決める必要はない。
少年は薬を飲み、蜂蜜水を一口飲んだ。
「昨日より少ないのに、やっぱり苦い」
「それは昨日も聞いた」
「今日も苦い」
「記録する?」
「しなくていい」
「そこはいいんだ」
「苦いのは前から知ってるから」
少年が杯を置く。
そのあと、少し迷ってから俺を見た。
「地下のは?」
「朝の報告を聞く?」
「うん」
「夜は大きな変化なし。昨日みたいな振動も出てない。子供も寝てた」
「『こなかった』?」
「今日はまだ何も言ってない」
「そっか」
少年は少しだけ安心したように息を吐いた。
「二回目、やる?」
「まだ決まってない」
「アルが決める?」
「俺だけでは決めない」
「ガルムも?」
「ガルム、リディア、ヨアヒム、現場の人たち。フェリクスも意見は出す」
「止める人いる?」
「フェリクスを?」
「うん」
「リディアがいる」
「なら大丈夫」
「信用の方向がおかしくない?」
「フェリクスが三回やりたいって言ったんでしょ」
「そうだったな」
少年が少し笑った。
それ以上、地下の話は続けなかった。
午前中、俺は三〇八号室を離れて白鴉療養所の記録室へ入った。
窓の小さな部屋には紙と古い革の匂いがこもり、朝の光が机の上へ斜めに落ちている。アンナマリーはその光の中で、帰還管理所から送られてきた写しを何枚も並べていた。
「おはようございます」
「おはよう。昨日からずっと?」
「いいえ。夜は休みました」
「よかった」
「アルフォンス様に言われると、少し不思議ですね」
「何で?」
アンナマリーが微笑む。
「以前でしたら、ご自分こそ休まず資料を読まれていたでしょうから」
「セリーにも似たようなこと言われた」
「では、同じことを思う人が二人いるということです」
「三人目が増えそうだからやめよう」
「ブラット様もおそらく」
「ほら」
俺は机へ近づいた。
「最終確認者の件?」
「はい」
アンナマリーは一枚の写しをこちらへ向けた。
「昨日までの資料では、最終確認者欄がいつ消えたのか幅がありました。今朝、別の保管箱から、その間を埋める記録が見つかりました」
「どのくらい絞れた?」
「完全ではありませんが、かなり」
紙を見る。
年月。
対象番号。
登録。
資格。
説明。
身体負荷。
本人意思。
最終確認者。
古い形式だ。
次の紙では、最終確認者欄の名称が変わっている。
「処置確認者?」
「はい」
「本人意思の後ろ?」
「配置は同じです」
「意味は?」
「説明文が残っていました」
アンナマリーが別の紙を示した。
端が欠けている。
それでも数行は読める。
『処置確認者は、各確認項目の記載を照合し、未記載項目ある場合は内区移送を保留すること』
俺はそこへ目を止めた。
「……保留?」
「はい」
続きには、
『本人意思欄については、本人発語または所定の意思表示記録を確認し――』
とある。
その先は欠けていた。
「別の写しは?」
「探しています」
俺は最初の一文へ戻る。
「少なくとも、この時期の処置確認者は、空欄があったら進める人じゃなかった」
「残っている文面だけを読むなら、そう考えるのが自然です」
「本人意思も確認対象に入ってる」
「はい。ただし、何をもって所定の意思表示としたのかは不明です」
「発語できない人もいたから?」
「可能性はあります」
「でも、これだけで本人を守る役だったとは決めない」
「ええ」
アンナマリーが頷く。
「もう一つあります」
次の紙。
時代は少し下る。
最終確認者ではなく、処置確認者。
その欄の横に、小さな追記があった。
『緊急代行時、事後説明予定日を併記』
数日前に見つかった緊急事例が頭へ浮かぶ。
「例の高熱の子供がいた頃に近い?」
「近い時期です」
「じゃあ、最初の緊急代行は、本人意思を消したんじゃなくて……」
「本人意思を確認できないまま救命処置を進める例外として扱い、その後の説明を残す仕組みだった可能性があります」
「可能性、だな」
「はい」
アンナマリーは言葉を急がない。
「そして、その少し後です」
次の記録。
今度は処置確認者欄の横に別の印がある。
『管理代行確認済』
俺の指が止まった。
「本人意思は?」
「空欄です」
「緊急?」
「記録上、生命危機を示す記載はありません」
「身体状態は?」
「発熱なし。意識清明。食事摂取可」
胸の奥が重くなる。
「理由は?」
「『再確認拒否継続』です」
俺は紙から目を離した。
窓の外では、朝の雲が少し薄くなっている。
「いつから?」
「この一件だけでは分かりません」
「本人が答えられない時の救命例外が、答えたくない人にも使われ始めた?」
「そう見える記録です。ただし、制度全体がこの一件で変わったとまでは言えません」
「分かってる」
それでも、変化の形が少し見えた。
最初は、確認項目に空欄があれば止める役目があった。
本人意思も確認項目の一つだった。
緊急時には例外として代行し、あとで本人へ説明する仕組みがあったらしい。
そして、いつか。
本人が答えられない場合と、本人が答えたくない場合の境界が薄くなった。
「この『再確認拒否継続』の人、どうなった?」
「続きはまだ見つかっていません」
「探して」
「はい」
「でも優先しすぎないで。旧保養施設もある」
「承知しました」
「アンナマリーも休んで」
「それはアルフォンス様もです」
「今日はもう言われた」
「では三人目ですか?」
「数えるなよ」
アンナマリーが小さく笑った。
記録室を出たところで、ブラットと鉢合わせた。
「殿下」
「今その呼び方やめて」
「……アル様」
「それも変な感じするな」
「ではアルフォンス様」
「結局戻った」
ブラットが困った顔をする。
「何か?」
「旧保養施設の方から連絡が来ています。ガルム隊長が、一度現地で話したいと」
「二回目の振動試験?」
「それも含めてです。ただ、今すぐ来いという意味ではありません」
「何時?」
「昼過ぎで構わないと」
「じゃあ行く」
「私も?」
「ブラットは?」
「戻り次第、白鴉の記録整理を手伝う予定です」
「ならそっちお願い」
「承知しました」
「フェリクスが暴走したら?」
「リディア殿がいます」
「みんな同じこと言うな」
昼前に三〇八号室へ戻ると、少年は幼いアルフォンスと会っていた。
予定していた面会ではない。
廊下の角で、歩行練習中の幼いアルフォンスと偶然会ったらしい。
二人の間には十歩ほどの距離がある。幼いアルフォンスは今日も緑色の服を着て、付き添いの職員と一緒に立っていた。
三〇八号室の少年は壁際。
セリーはその中間より少し後ろにいる。
「アル」
二人からほぼ同時に呼ばれた。
俺は足を止める。
「どっち?」
三〇八号室少年が言った。
「今、二人とも俺を呼んだだろ」
幼いアルフォンスが少し笑う。
「呼んだ」
「困るな」
「アルが?」
「俺が」
三〇八号室少年が考える。
「でも、今はいい」
幼いアルフォンスも頷いた。
「僕もいい」
俺だけが少し困っている。
「二人で納得するなよ」
「アルが三人いるから」
幼いアルフォンスが言う。
「前も言った」
「覚えてる」
三〇八号室少年が答えた。
以前なら、同じ名前を持つ相手の言葉を確かめるような硬さがあった。
今日は違う。
「今日、赤いジャムあった?」
「朝あった」
「ずるい」
「そっちは?」
「なかった」
「昼あるかも」
「分かんない」
「うん」
幼いアルフォンスはそれだけ話すと、付き添いの職員を見た。
「戻る」
「疲れましたか?」
「二」
「では戻りましょう」
自分から言えた。
三〇八号室少年は手を振るわけでもなく、ただ見送った。
「またね」
幼いアルフォンスが言う。
「うん。また」
日時は決めない。
約束にも変えない。
それでも「また」が普通に使える。
幼いアルフォンスが角の向こうへ消えたあと、三〇八号室少年が俺を見る。
「今日、外行かない」
「うん」
「薬減らした次の日だから」
「分かった」
「でも昼、食堂行く」
「了解」
「アルは?」
「昼食のあと、旧保養施設へ行く」
少年の顔から笑みが少し消えた。
「地下?」
「地下には行かない」
「二回目?」
「やるかどうか相談する」
「アルも?」
「ああ」
「行かない方がいいって言われてなかった?」
「帰還管理所はな。俺の古い識別が反応するかもしれないから」
「旧保養施設は?」
「今のところ、俺が近づいたことで何かが反応する証拠はない」
「でも地下は?」
「行かない」
「扉も?」
「開けない」
少年は少し考えた。
「気をつけて」
「ああ」
「アル、すぐ自分で行くから」
「最近は行ってないだろ」
「今日は行く」
「……そうだな」
言い返せなかった。
「でも一人じゃない」
「ガルムいる?」
「いる」
「リディアも?」
「いる」
「フェリクスも?」
「いる」
「じゃあ、フェリクスが一番危ない」
「本人に聞かせたい」
少年が笑った。
昼食後、俺はセリーとともに旧保養施設へ向かった。
森へ入る頃には雲の切れ間から陽が差していた。木々の葉に残った水滴が光り、馬車の車輪が湿った土を踏むたび、柔らかな音を立てる。
旧保養施設へ近づくと、古びた石造りの建物が木々の間から見えてきた。
ここへ来るたび、建物の印象が変わる。
最初は、何かを隠している場所に見えた。
今は、実際に何かを隠しているかもしれない場所だと分かっている。
似ているようで違う。
前者は俺の印象でしかなかった。
後者には、少しずつ積み上がった事実がある。
入口ではガルムが待っていた。
「来たか」
「うん」
「寝たか?」
「何で会って最初がそれなの?」
「セリーから聞いた」
「いつ?」
「今朝」
俺は隣を見る。
セリーは平然としている。
「情報共有です」
「俺の睡眠時間まで?」
「重要情報です」
ガルムが鼻で笑った。
「今日は顔色悪くないな」
「そっちは?」
「フェリクスよりは寝た」
「比較対象が悪い」
「同感だ」
中へ入る。
名前の分からない子供がいる安全区画とは別の廊下を使った。
調査のために人が増えた気配を、できるだけ本人へ伝えないためだ。
暖房設備室からも少し離れた小部屋へ入る。
リディア。
ヨアヒム。
フェリクス。
施設の構造を調べている近衛二人。
卓には昨日の振動波形が並べられていた。
「アル様」
フェリクスが立ち上がる。
目の下に少し影がある。
「寝た?」
「三時間四十二分です」
「エルから聞いた」
「十分です」
「十分じゃない」
「解析には支障ありません」
リディアが無言でフェリクスを見る。
「……本日の夜は六時間以上休む予定です」
「予定じゃなくて休め」
「はい」
ガルムが卓を指す。
「始めるぞ」
昨日の試験結果。
最初に与えた振動。
およそ六秒後の一度目。
さらに十一秒ほど後の二度目。
フェリクスが三つの波形を並べる。
「まず、単純な反射ではありません」
「昨日も聞いた」
「はい。昨夜から今朝にかけて、建物構造による遅延反射、金属管の共振、温度変化による収縮、暖房設備稼働に伴う振動、風圧変化をそれぞれ比較しました」
「消せたものは?」
「通常の暖房設備音はほぼ除外できます。昨日の入力と同じ程度の振動を別の壁面へ与えた場合にも、六秒や十一秒遅れて同種の反応は出ませんでした」
「送風路の構造だけ特殊?」
「その可能性があります」
フェリクスが別の図を示す。
「旧送風路の内部には、少なくとも一か所、金属製の弁か薄板に近い構造が残っている可能性があります」
「開けずに分かる?」
「振動の伝わり方からの推定です。確定ではありません」
「それが揺れた?」
「可能性はあります。ただし」
フェリクスの指が、一度目と二度目の波形へ移る。
「同じ板が入力振動を受けて遅れて揺れたと考えるには、二つの反応の間隔が不自然です」
「六秒と、そのあと十一秒?」
「はい。しかも二度目は一度目より弱いものの、単純な減衰波形ではありません」
「じゃあ何?」
「分かりません」
フェリクスが言い切った。
以前なら、ここで仮説をいくつも並べてすぐ試したがったかもしれない。
今は違う。
「二回目の試験をしたい?」
「研究者としては」
リディアの視線が動く。
「一度です」
「そこまで聞いてない」
「先に言っておきます」
ガルムがため息をついた。
「こいつは朝、刺激間隔を変えて三種類試そうと言った」
「比較には有効です」
「一回に減らした」
「三回から一回なら大幅な譲歩です」
「自慢するな」
思わず笑いそうになる。
「一回やるなら、昨日と同じ?」
「私は同一条件を推奨します」
「理由は?」
「昨日との差を比較しやすいからです。刺激を変えれば、反応が変わった理由も増えます」
「それは俺もそう思う」
ガルムが腕を組む。
「問題は、やる必要があるかだ」
ヨアヒムが口を開いた。
「子供は今朝から安定しています。昨日の試験中も、本人に明確な変化はありませんでした」
「今日、何か言った?」
「暖房設備室や地下については何も」
「『きょう、こなかった』の意味も?」
「聞いていません」
「聞かないまま試験していいと思う?」
ヨアヒムはすぐには答えなかった。
「本人へ直接行う処置ではありません。建物の安全確認として必要性があるなら、大人側で判断する余地はあると思います」
「でも?」
「本人が以前『あけないで』と明確に言っています。開けるわけではないとしても、その周辺へ働きかける以上、心理的な影響は無視できません」
リディアが続ける。
「一方で、昨夜の音と昨日の試験反応が同じ方向から来ています。もし設備異常なら、放置も安全とは言えません」
「冷却術式?」
「今のところ安定しています。ただし旧送風路の奥が用途不明室周辺へ接続している可能性は残っています」
俺は図を見る。
線は途中で途切れている。
この先に何があるかは分からない。
「一回だけ、昨日と同じ条件」
俺は言った。
「それで反応がなかったら?」
「今日は終わりだ」
ガルムが答える。
「反応があったら?」
「波形を見る。追加はしない」
「昨日と同じ間隔で返ったら?」
部屋が静かになる。
フェリクスの顔だけが少し変わった。
興味だ。
それをリディアが横から見ている。
「それでも開けない」
俺は言った。
「同じ間隔だからって、人が返事してるとは限らない」
「では実施で?」
ガルムが確認する。
「俺一人で決める話じゃない」
「現場側は、条件付きで実施可能と見ている」
「ヨアヒムは?」
「本人を安全区画から移動させる必要はないと考えます。普段通り過ごしてもらいます。調査のために何かをさせることもしません」
「リディア?」
「振動強度が昨日以下なら、建物と既知術式への危険は低いと判断します」
「フェリクス?」
「実施を推奨します」
「ガルム?」
「俺もだ」
俺は頷いた。
「じゃあ一回」
試験はすぐには行わなかった。
名前の分からない子供が昼食後の休息を終え、安全区画の談話スペースで遊び始めるまで待つ。
その間、俺は本人のいる区画へ行かなかった。
会って様子を見たい気持ちはあった。
けれど、調査の直前に俺たちが揃って現れれば、それだけで何かが始まると感じさせるかもしれない。
ヨアヒムだけが通常の診察として様子を確認した。
「普段通りです」
戻ってきた彼が言う。
「木片は?」
「衣服のポケットに入れています」
「暖房設備室の方を見た?」
「一度も」
「何か言った?」
「昼食のパンが硬い、と」
俺は瞬きをする。
「それだけ?」
「はい。担当者が柔らかいものへ交換するか尋ねたところ、『これでいい』と」
「そっか」
ガルムが少し笑う。
「地下の謎よりパンが硬い方が本人には大事な時間もあるってことだ」
「そうだな」
それを邪魔しないようにしたい。
調査は調査。
子供の生活は生活。
全部を地下の謎に吸い込ませない。
午後。
二度目の試験が始まった。
昨日と同じ測定点。
同じ壁面。
同じ強度。
同じ一回。
フェリクスが記録器を見る。
「入力します」
リディアが周囲の術式状態を確認する。
「冷却系統、変化なし。暖房系統、通常。安全区画側、異常なし」
「実施」
ごく小さな振動。
俺たちのいる場所では、耳で聞き取れるほどの音ではない。
記録器の線だけが動いた。
「入力確認」
フェリクスが言う。
俺は時計を見る。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起きない。
四秒。
五秒。
六秒。
記録器の線が跳ねた。
誰も声を出さなかった。
「奥側振動、検出」
フェリクスの声が少し低くなる。
「時間差?」
「六・二秒」
昨日と近い。
だが、それだけなら構造上の遅延かもしれない。
「追加しない」
ガルムが先に言う。
「分かっています」
フェリクスの手は装置から離れている。
時間が流れる。
部屋の誰もが記録器を見ていた。
そして、一度目の反応から十一秒ほどが経過したところで、線がもう一度動いた。
「二度目」
フェリクスが息を呑む。
「最初の反応から?」
「十一・一秒」
昨日とほとんど同じだ。
部屋の空気が変わった。
誰も「返事」とは言わない。
それでも、昨日と同じ刺激に対して、ほぼ同じ時間差で二つの異なる振動が返った。
偶然と言い切るには、少し気持ちが悪い。
「波形」
ガルムが言う。
「比較します」
フェリクスが昨日の記録を重ねる。
数秒。
「一度目は、昨日の一度目と近似しています」
「同じ?」
「完全一致ではありません。ただし誤差を考慮すれば、同一構造または同一機構による反応の可能性が高い」
「二度目は?」
「こちらも近いです」
リディアが壁を見る。
「機械なら、同じ入力に同じ反応を返すのは不思議ではありません」
「そうだな」
俺は頷いた。
それを忘れてはいけない。
むしろ機械なら、その方が自然だ。
「だから人とは決めない」
「はい」
フェリクスが答える。
「ただし」
「何?」
「昨日と今日で、一点違います」
また嫌な予感がした。
「何が?」
「二度目の振動の直後です」
記録器の一部を拡大する。
細かな揺れ。
「これ、昨日あった?」
「ありません」
「何?」
「非常に弱いので解析が必要ですが……短い振動が三回です」
「三回?」
「はい」
フェリクスが間隔を読む。
「短い。短い。少し長い」
ガルムの顔が険しくなる。
「入力の反射か?」
「私たちが与えた入力は一回です」
「機械の作動音は?」
「十分あり得ます」
フェリクスがすぐに答えた。
「弁の開閉、古い板の連続振動、圧力差による断続的な接触。人為的な合図と解釈する根拠はありません」
「なら、そう記録する」
俺は言った。
「『三回返事が来た』じゃない」
「はい」
「旧送風路奥側から、二度目の主振動後に三つの微弱振動を検出。長さが違う。それだけ」
「そのように」
その時、扉が開いた。
入ってきた近衛がガルムへ紙を渡す。
「安全区画からです」
「何かあった?」
「子供が、試験開始から少し後に遊びを止めました」
胸が強く打つ。
「怖がった?」
「強い恐怖反応はありません。木片をポケットから出して、しばらく見ていたそうです」
「何か言った?」
近衛が紙を見る。
「はい」
部屋が静かになる。
「『きた』と」
誰も動かなかった。
「それだけ?」
「その後、職員が何も尋ねず待ったところ、本人からもう一度発言しています」
「何て?」
「『でも、ちがう』」
背中に冷たいものが走った。
「何が違うか聞いた?」
「聞いていません」
「その後は?」
「木片を持ったまま少し待って、それから紙片遊びへ戻りました」
「怖さは?」
「数値確認はしていません。呼吸の大きな乱れなし。泣いていません。暖房設備室側へ移動しようともしていません」
ガルムが俺を見る。
「追加試験はしない」
「ああ」
即答した。
「今日は終わり」
フェリクスも反対しなかった。
俺は椅子へ腰を下ろす。
きた。
でも、ちがう。
今日こちらから送った振動を感じたのかもしれない。
別の何かを感じたのかもしれない。
試験とは無関係かもしれない。
それでも、時間が重なった。
「子供に説明する?」
リディアが尋ねる。
「今日の試験を?」
「はい」
俺はすぐには答えなかった。
「ヨアヒムは?」
「本人が『きた』と認識したものと、こちらの試験が関係している可能性はあります。こちらが何かをした事実を全く伝えないままにするのも、私は避けたいです」
「でも、『地下へ合図を送った』みたいな言い方はしない」
「はい。壁を開けていないこと、地下へ行っていないこと、建物の安全確認のため小さな振動を一度だけ与えたこと。その程度がよいかと」
「誰が言う?」
「普段接している職員からが自然でしょう」
「俺は行かない方がいい?」
「本人が望んでいない以上、今はその方が」
「分かった」
説明は短く行われた。
壁も扉も開けていない。
地下へも行っていない。
建物が安全か調べるため、離れた場所で小さな振動を一度だけ与えた。
今日はもうしない。
それだけだ。
返ってきた振動の話は、本人が尋ねない限り今は加えない。
数分後、報告が戻る。
「本人は説明を聞いたあと、『それ?』と発言」
「それ?」
「職員が『小さく揺らしたこと?』とだけ確認したところ、本人は頷いたそうです」
「それから?」
「『ちがう』と」
俺は眉を寄せる。
「何が違うかは?」
「聞いていません」
「本人から続きは?」
「ありません」
ガルムが腕を組んだ。
「少なくとも、こちらの試験を『きた』と感じた可能性は上がったか」
「でも『違う』んだよな」
「何と違うかが分からん」
フェリクスが記録へ目を落とす。
「昨日の『きょう、こなかった』と比較したくなりますが」
「繋げすぎるなよ」
「分かっています」
「本当に?」
「……努力しています」
リディアがため息をついた。
「そこは自信を持ってください」
「研究者にとっては難しい要求です」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、問題は残っている。
「振動の三つのやつ、解析にどのくらい?」
「今日中に一次結果は出せます」
「無理して夜までやるな」
「六時間寝る約束が」
「先に寝てもいいぞ」
「それは困ります」
「じゃあ夕食食べろ」
「はい」
ガルムが俺を見る。
「お前、セリーみたいになってきたな」
「嫌な言い方するなよ」
「良い傾向です」
セリーが横から言う。
「二人して何なんだ」
旧保養施設を出る前に、俺は名前の分からない子供の様子を遠くから確認する許可だけ取った。
本人に会いに行くのではない。
安全区画へ続く廊下のさらに手前で、担当職員から状態を聞く。
「今は?」
「紙を並べています」
「普段通り?」
「はい。昼より少し眠そうですが、食欲もあります」
「木片は?」
「隣に置いています」
「触らないで」
「もちろんです」
「今日の説明のあと、何か聞いてきた?」
「いいえ」
「『あけないで』は?」
「今日は言っていません」
「分かった」
それだけで帰ろうとした時だった。
安全区画の奥から、小さな足音が聞こえた。
俺は動きを止める。
職員も振り返る。
名前の分からない子供が、廊下の角からこちらを見ていた。
木片を両手で持っている。
俺は近づかなかった。
しゃがみもしない。
手招きもしない。
ただ、その場に立つ。
「アル様が来ています」
職員が穏やかに伝える。
子供は俺を見る。
「こんにちは」
返事はない。
それでも逃げなかった。
しばらくして、木片へ目を落とす。
「今日、壁を開けたり、地下へ行ったりはしてないよ」
それだけ伝えた。
子供の指が木片の端を握る。
「今日はもう、揺らすこともしない」
視線が上がる。
「……ちがう」
小さな声だった。
俺は何が、と聞かなかった。
「そっか」
子供は俺を見る。
「ちがう」
「うん」
「これじゃない」
木片を少し持ち上げた。
俺の呼吸が止まりそうになる。
けれど、勝手に意味を作らない。
「その木のこと?」
確認だけする。
子供は首を横へ振った。
では何が「これ」なのか。
俺には分からない。
子供は暖房設備室のある方向を見なかった。
代わりに、自分の足元を見る。
「きたけど」
そこで言葉が止まる。
職員も俺も待った。
「……あれじゃない」
それ以上は続かなかった。
子供は木片を胸元へ抱え、踵を返した。
数歩進んでから、一度だけこちらを見る。
「今日はもう何もしないよ」
俺が言うと、今度は小さく頷いた。
安全区画へ戻っていく。
姿が見えなくなってから、俺は長く息を吐いた。
「記録は?」
職員が尋ねる。
「言った通りだけ。『ちがう』『これじゃない』『きたけど』『あれじゃない』。木片を持ち上げたけど、木片についての発言だとは決めない」
「はい」
「暖房設備室の方向も見てない」
「記録します」
これで、何かが分かったわけではない。
むしろ分からないものが増えた。
こちらの試験を「きた」と感じた可能性はある。
だが、それは本人が以前から恐れていた「あれ」とは違うらしい。
「あれ」が何なのかは、まだ聞かない。
少なくとも今、本人は話したいところまで話して止めた。
その先を引き出すために追いかける必要はない。
白鴉療養所へ戻った頃には、日が傾き始めていた。
三〇八号室少年は外へ出ていなかった。
談話室にも行かず、自室で絵の続きを描いている。
「ただいま」
「おかえり」
「体調は?」
「セリーに聞いた?」
「まだ」
「じゃあ俺から言う。重さ一。怖さ一。頭痛なし。気持ち悪くない」
「ありがとう」
「薬のせいっぽいのもない」
「そっか」
少年が炭筆を置く。
「地下は?」
「結果聞く?」
「うん」
俺は椅子を一つ借りた。
「昨日と同じ強さで、一回だけやった」
「返った?」
「六秒くらいあとに一つ。その十一秒くらいあとにもう一つ。昨日とかなり近かった」
少年の顔が強張る。
「同じ?」
「近い。でも機械でも同じ反応はする」
「そのあと?」
「弱い振動が三つあった」
「三つ?」
「短いのが二つ、そのあと少し長いのが一つ」
「返事?」
「まだ分からない」
少年は黙る。
「子供は?」
「試験の頃に『きた』って言った」
「……分かったの?」
「何かは感じたみたい。でも、そのあと『ちがう』って言った」
「何と?」
「分からない」
「聞かなかった?」
「うん」
「何で?」
「本人がそこまでしか言わなかったから」
少年は少し考える。
「アル、会った?」
「帰る前に向こうから出てきた」
「何て?」
「『ちがう』『これじゃない』『きたけど』『あれじゃない』」
「……あれ?」
「何を指してるかは分からない」
「聞かなかった?」
「聞かなかった」
少年が俺を見る。
「聞きたかった?」
「すごく」
「我慢した?」
「した」
「えらい」
「お前までセリーみたいなこと言うな」
少年が笑った。
その笑いが消えたあとも、表情はそれほど硬くならなかった。
「じゃあ、誰かがいるって分かったわけじゃない?」
「分かってない」
「でも機械だけとも分かってない?」
「うん」
「明日もやる?」
「まだ決めない。まず今日の三つの振動を調べる」
「一回だけって守った?」
「守った」
「そっか」
少年は絵へ目を戻した。
道が少し伸びている。
昨日描いた小さな四角の横を通り過ぎ、その先へ続いている。
「これ、何?」
「道」
「どこまで行く?」
「まだ分かんない」
「四角は?」
「今日も分かんない」
「そっか」
少年は道の先へ小さな点を一つ置いた。
「これは?」
「これは決めた」
「何?」
「休むところ」
「家じゃなくて?」
「休むところ」
「誰が?」
「誰でも」
少年は少し考えた。
「途中で疲れた人」
俺は紙を見る。
道の途中。
小さな四角。
さらに先に、休む場所。
何かの象徴だと解釈したくなる。
けれど、しない。
「いいな」
それだけ言う。
少年もそれ以上説明しなかった。
夕食後、父王名義の赤い包みが視界に入った。
少年はしばらく見ていた。
俺は「読む?」とは尋ねない。
少年の方から口を開いた。
「手紙」
「うん」
「今日は読まない」
「分かった」
「地下の話聞いたから」
「うん」
「一個ずつにする」
「それでいいと思う」
「アルも?」
「何が?」
「一個ずつ」
「努力する」
「できてない?」
「今日は旧保養施設行って、帰還管理所の資料も読んだ」
「二個」
「そうだな」
「セリー」
「はい」
「アル、二個やってる」
「把握しております」
「告げ口するなよ」
「主様。夕食後は新しい資料を読まれないことを推奨します」
「ほら来た」
「二対一」
少年が笑う。
「患者とセリーが組むの反則だろ」
「私は患者ではありません」
「セリーじゃなくて俺」
「分かってるよ」
笑いが少し続いた。
その夜、三〇八号室少年の白い薬は朝と同じ量で終えた。
明日の量は明日の朝に考える。
二通目の手紙は途中のまま。
外出はしなかった。
幼いアルフォンスとは偶然会っただけで、次の面会も決めていない。
今日は薬を維持して、食事をして、少し絵を描き、たまたま同じ名前を持つ子供と話した。
旧保養施設で奇妙なことが起きていても、少年の一日すべてがその謎のためにあるわけではない。
塔へ戻る前、俺は少年へ挨拶する。
「お休み」
「お休み、アル」
「明日な」
「うん」
そこで少年が少し考えた。
「明日、絶対来る?」
俺は足を止める。
「来るつもりではいる」
「来れなかったら?」
「連絡する」
「分かった」
「絶対って言わなくていい?」
「うん。その方がいい」
少年は布団へ入り直した。
「じゃあ、来れたら明日」
「ああ。来れたら明日」
部屋を出る。
それは約束を弱くした言葉ではなかった。
できないことまで保証しない。
それでも、会いたいと思っていることは伝わる。
塔へ戻る馬車の中で、エルから帰還管理所の追加報告が届いた。
『主様。午前中に確認された「処置確認者」関連記録について、追加の一件が見つかりました』
「緊急?」
『いいえ』
「じゃあ明日」
『承知しました』
俺はそこで止めた。
少年に言われたからではない。
たぶん、今聞いても頭の中で旧保養施設の振動と混ざる。
それぞれ別の問題だ。
帰還管理所の制度がどう壊れていったのか。
旧保養施設の地下で何が起きているのか。
三〇八号室少年が誰なのか。
幼いアルフォンスと俺が何なのか。
全部繋がっている可能性はある。
けれど、繋がっている可能性があることと、一つの答えへまとめていいことは違う。
塔へ着く。
夜空には雲が残っていたが、その隙間から星がいくつか見えていた。
食堂へ入ると、セリーが温かい飲み物を用意する。
「今日はちゃんと寝るよ」
「まだ何も申し上げていません」
「先に言った」
「では信じます」
「珍しい」
「ただし、飲み物を飲んでからです」
「やっぱり管理されるんだな」
「はい」
杯を受け取る。
温かい。
半分ほど飲んだところで、エルが小さく反応した。
『旧保養施設より、一次解析結果です』
セリーが俺を見る。
俺も杯を見る。
「……これは今日聞いていいやつ?」
『緊急性はありません』
「じゃあ明日」
『承知しました』
俺は残りを飲む。
「主様」
「何?」
「今の判断はよろしかったと思います」
「褒めるの?」
「はい」
「怖いな」
「では撤回します」
「それはそれで寂しい」
セリーの口元がほんの少し動いた。
俺は椅子から立ち上がる。
明日になれば、三つの振動について何か分かるかもしれない。
分からないかもしれない。
名前の分からない子供が「あれ」と呼んだものへ、一歩近づくかもしれない。
逆に、今日の反応がただの古い設備の癖だと分かる可能性もある。
どちらでもいい。
都合のいい答えを選ばなければいい。
地下に誰かがいてほしいわけではない。
誰もいないでほしいと願うだけでもいけない。
俺たちが送った一つの振動に、ほとんど同じ時間を置いて反応が返った。
そのあとに、短い、短い、少し長い振動があった。
それは事実だ。
名前の分からない子供が同じ頃に「きた」と言い、その後「ちがう」と言った。
それも事実だ。
同じ合図を返したように見えるからといって、その向こうに誰かがいると決めることはできない。
けれど、機械だと決めて安心することも、もうできなかった。
翌朝。
白鴉療養所へ向かう前に、俺は昨夜保留した解析結果を開いた。
食堂の窓から差し込む朝日が、腕輪の上に浮かぶ文字を薄く照らしている。昨夜きちんと眠ったからか、頭は思っていたよりもすっきりしていた。
「エル」
『はい』
「昨日の三つの振動。結果を」
『一次解析では、既知の自然振動および単純な弁作動との完全一致は確認されませんでした』
「完全一致はない」
『はい。ただし、機械的要因を除外できる段階ではありません』
「続けて」
『三つの振動は、それぞれ独立した接触として記録されています』
「短い、短い、長い?」
『正確には、第一と第二がほぼ同長。第三のみ約二・四倍の継続時間です』
俺の手が止まる。
『また、三つの振動の間隔は完全な等間隔ではありません』
「人が叩いたみたい?」
『その表現は現時点では避けるべきです』
「分かってる」
セリーが静かに俺の前へ朝食を置く。
エルは続けた。
『もう一点。昨夜、過去の施設設備記録と照合した結果、旧送風路に使われていた弁には、通常動作で三回連続接触する機構は確認できませんでした』
「別の設備は?」
『未確認部分があるため除外できません』
「分かった」
『そして、ガルム隊長から一件、提案があります』
「何?」
『本日は刺激試験を行わず、旧送風路の廊下側測定点を常時記録状態に置くこと』
「こっちから何もしないで待つ?」
『はい』
俺は少し考えた。
「それがいい」
こちらから叩けば、返ってきたものが反応なのか、ただの機械動作なのかを考え続けることになる。
何もしない時間に、同じ振動が出るか。
まずはそれを見る。
「子供の生活もそのまま?」
『はい』
「暖房も通常通り」
『はい』
「地下へ行かない。扉も開けない」
『はい』
「じゃあ今日は待つ」
セリーがスープを俺の前へ少し近づける。
「そして主様は朝食を召し上がります」
「分かってるよ」
匙を取った。
待つ。
何もしない。
それは調査を止めることではない。
こちらから合図を送らないことでしか分からないこともある。
そう思いながら一口食べたところで、エルが再び反応した。
『主様』
「今度は?」
『旧保養施設からです』
さっき決めたばかりなのに。
「何?」
『測定開始前の機器確認中、旧送風路奥側から自然発生した振動を一度検出しました』
匙が止まる。
「こちらから何もしてない?」
『はい』
「暖房設備?」
『通常状態です』
「波形は?」
わずかな間があった。
『昨日の三つの振動のうち、第一の短い振動と近似しています』
食堂が静かになる。
俺はすぐには立ち上がらなかった。
旧保養施設へ行くとも言わない。
ただ、目の前のスープから細い湯気が上がっていくのを見た。
「記録を続けて」
『承知しました』
「追加刺激なし」
『はい』
「子供に何かさせない」
『はい』
「何か言ったら、そのまま記録する。意味を決めるために質問を重ねない」
『承知しました』
通信を切る。
「主様」
「食べるよ」
「はい」
匙を口へ運ぶ。
味は分かる。
温かさも分かる。
それでも頭の片隅には、こちらから何も送っていないのに生じた一つの振動が残っていた。
向こうから届いた。
そう言いたくなる。
だが、まだ言わない。
設備が勝手に動いたのかもしれない。
温度差で金属が縮んだのかもしれない。
知らない機構が残っているのかもしれない。
それとも、本当に別の何かなのかもしれない。
どれかを選ぶには、まだ早い。
だから今日は、こちらから何もしない。
何もしないまま、どれだけ届くのかを見る。
閉じた扉を開けずに待つという選択が、初めて昨日までとは少し違う意味を持ち始めていた。




