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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第59話 扉を開けなくても、向こうから届いているものまで無かったことにはできませんでした


 翌朝、塔の食堂へ入った俺を待っていたのは、旧保養施設からの緊急連絡ではなく、焼きたてのパンだった。


 窓の外には薄い雲が広がり、夜の冷たさをまだ残した空気が硝子越しに感じられる。厨房から漂ってくる香ばしい匂いに混じって、温められた乳と蜂蜜の甘い香りが食堂へ流れていた。


 卓の上には丸いパンが二つ。


 その横には野菜と鶏肉のスープ。


 さらに俺の席の前だけ、水の入った杯が置かれている。


「……これ、絶対に先に飲めってやつだろ」


「はい」


 セリーが即答した。


「せめて否定してくれない?」


「否定する理由がありません」


「朝食前に水を飲まないと食べさせないとか?」


「そのような脅迫はいたしません。ただし、主様が飲まれるまでこの位置から見ています」


「もっと怖いんだけど」


 俺は椅子へ座り、杯を持ち上げた。


 一口。


 そこで置こうとすると、セリーの視線が杯へ落ちる。


「分かったよ」


 半分ほど飲む。


「これで?」


「残りは朝食中で構いません」


「交渉成立だな」


「交渉ではありません」


 朝からこんなやり取りをしていると、昨夜の「まだ、いる」という言葉が少し遠ざかる。


 忘れたわけではない。


 旧保養施設の名前の分からない子供が、暖房設備室側から聞こえた小さな金属音のあと、木片を持ってそう言った。


 誰がいるのか。


 何がいるのか。


 そもそも今現在の存在を指しているのか。


 何も分からない。


 その言葉だけを理由に地下へ降りないと昨夜決めた。


 代わりに、扉も壁も開けず、冷却術式にも干渉せず、建物側から調べられることを先に調べる。


「旧保養施設は?」


 パンを割りながら尋ねる。


『夜間に新たな金属音は記録されていません』


 エルが答える。


『名前不明の子供も夜間は大きく覚醒せず、現在は睡眠中です。木片は本人の寝台上、右手付近にあります』


「持ったまま寝た?」


『就寝時には握っていましたが、睡眠中に手が開いたものと思われます』


「職員は触ってない?」


『触れていません』


「暖房は?」


『通常運転です。安全区画の室温にも問題ありません』


「じゃあ、起きるまで何もしないでいい」


『承知しました』


 俺はパンをスープへ浸した。


「主様」


「何だ?」


「食事中に調査指示を出すこと自体は止めませんが、手が止まっています」


「今食べる」


「昨日も伺いましたが、主様は私を信用していないのでしょうか」


「逆だよ。信用してるから、見てなくても俺が食べるって信じてくれ」


「それとこれとは別です」


「便利だな、その言葉」


「主様に教わりました」


 どうやら俺の言葉は、少しずつセリーの武器になっているらしい。


 朝食を終えて白鴉療養所へ向かうと、三〇八号室の少年はすでに起きていた。


 扉は内側から開いている。


 寝台の上には、昨日談話室から持ち帰った紙が置かれていた。


 丸と線。


 建物にも扉にも見える四角。


 少年自身が何を描いたか分からないと言っている絵だ。


 今朝は、その紙の横に炭筆が一本置かれている。


「描いた?」


「まだ」


「描く予定?」


「分かんない」


「そっか」


 それ以上は聞かない。


 セリーが朝の体調確認を始める。


 昨夜の睡眠は良好。


 頭痛なし。


 吐き気なし。


 胸部違和感なし。


 身体の重さ一。


 怖さ一。


 歩行時のふらつきなし。


 白い薬を第55話で減らした量のまま維持して四日目になる。


 青と紫は引き続き中止している。


「薬、今日は?」


 セリーが尋ねる。


 少年は少し考えた。


 昨日までは、自分から同じ量を希望していた。


 今日はすぐには答えない。


「減らしたら、どのくらい?」


「現在量から、さらにごく少量です」


「前みたいに急に半分とかじゃない?」


「しません」


「減らして、嫌だったら戻せる?」


「体調変化の内容によりますが、戻すことも選択肢に含まれます」


「絶対に減らしたままじゃない?」


「はい」


 少年は自分の指を見つめた。


「……じゃあ、今日は少し減らしてみたい」


「理由を伺っても?」


「四日同じで平気だったから」


「はい」


「昨日も外行ってないし、手紙も読んでない。今日は薬だけ変えるなら、何かあった時に分かりやすいかなって」


 セリーが俺を見る。


 俺も頷いた。


 少年はただ「減らしたい」と言っているわけではない。


 自分なりに、変えるものを一つに絞ろうとしている。


「承知しました」


 セリーが記録する。


「では本日は、白い薬を現在量から一段階だけ減量します。青と紫は中止を継続します。午前、昼、夕方、就寝前に状態を確認しますが、異常を感じた場合はその時間を待たずに教えてください」


「怖くなっただけでも?」


「教えてください。ただし、それだけで直ちに薬の副作用と決めることはしません」


「分かった」


「今日は外へ出ない方がいい?」


「今の時点で禁止する必要はありません。ただ、薬を変えた日ですので、普段より大きな負荷を一度に増やさない方が状態は見やすいでしょう」


「じゃあ今は行かない」


「はい」


「午後は?」


「午後に決めましょう」


 少年が頷く。


 今日の薬が決まった。


 白い薬は一段階だけ減る。


 以前のように、決められた量を飲み、決められた処置を受け、異変さえ「治療の揺れ」と呼ばれていた頃とは違う。


 今は本人が何を変えるのかを知っている。


 戻す可能性があることも知っている。


 怖さを申告しても、その感情を症状として消されるわけではない。


 それだけで薬の味が変わるわけではないのに、少年が杯を持つ手は落ち着いていた。


「苦い」


 飲み終えた少年が顔をしかめる。


「量減っても苦い」


「味の濃さは大きく変わりません」


「そこは変わってほしかった」


「蜂蜜水を用意しています」


「先に言って」


 セリーから小さな杯を受け取り、少年が一口飲む。


「こっちは甘い」


「当然です」


「アルも飲む?」


「俺の分ある?」


「ありません」


「ないのかよ」


「主様は先ほど朝食時に蜂蜜入りの乳を飲まれました」


「管理されてるなあ」


「しております」


 少年が笑う。


 薬を減らした直後の空気が、それだけで少し柔らかくなった。


 午前中は三〇八号室で過ごした。


 少年は昨日の絵に何かを描き足すでもなく、炭筆を指先で転がしている。


 俺は窓際で帰還管理所から届いた資料の写しを確認していた。


 昨日見つかった「最終確認者」の欄について、追加の照合が進んでいる。


 ただし、決定的な説明文はまだない。


 最も古い時期の記録では、本人意思の確認後に最終確認者の署名がある。


 後の時期になるにつれて欄の記載が簡略化され、やがて消える。


 その一方で、本人意思未確認時の内区移送禁止という古い原則も、時代が下るにつれて例外規定に侵食されていく。


 偶然同じ時期に起きた変化なのか。


 制度変更の一部なのか。


 まだ判断できない。


「アル」


「ん?」


「難しい顔」


「そう?」


「眉間」


 少年が自分の眉間を指差す。


「セリーもよく言う」


「では私の仕事が一つ減りましたね」


「増えてない?」


「主様を注意する人員が増えました」


「それは減ったって言わない」


 少年は笑い、炭筆を卓へ置いた。


「帰還管理所?」


「ああ」


「昨日の続き?」


「最終確認者って欄がいつ頃なくなったか調べてる」


「分かった?」


「まだ」


「じゃあいい」


「聞かない?」


「答えないんでしょ?」


「今はな」


「なら分かってから」


 少年はあっさり本へ戻った。


 俺も資料へ目を落とす。


 同じ確認を何度も繰り返さなくて済むようになったのは、少年が「分からない」という答えを受け取れるようになったからだけではない。


 俺たちの側も、分からないものを無理に説明しなくなった。


 それはたぶん、思っていた以上に大きな変化だった。


 昼前になっても、薬の減量による明確な異常は出なかった。


 身体の重さ一。


 頭痛なし。


 胸部違和感なし。


 眠気も普段の範囲。


 怖さは一から二へ一時的に上がったが、少年自身が「薬が減ったの気にしてるから」と言い、十分ほど本を読んでいるうちに一へ戻った。


 その変化も、そのまま記録された。


 副作用とも、気のせいとも決めない。


 昼食へ向かおうとしたところで、エルが俺へ連絡を入れた。


『主様。旧保養施設側の非侵襲調査に進展があります』


 三〇八号室少年が足を止める。


「昨日の音?」


『関連する可能性があります』


 少年は俺を見る。


「聞いていい?」


「もちろん。途中でやめてもいい」


「うん」


 廊下の長椅子へ座る。


 昼食前なので、長くならないようエルには要点だけを伝えさせる。


『昨夜の金属音について、暖房設備そのものを停止せず、通常利用範囲の振動を記録しました』


「普通に薪入れたりした?」


『はい。ただし名前不明の子供は別室におり、調査への参加は求めていません』


「それで?」


『通常の暖房設備から生じる金属音と、昨夜記録された音は一致しませんでした』


 少年の表情が少し硬くなる。


「じゃあ何?」


『まだ不明です』


「古い送風路?」


『可能性の一つです。今朝、壁や格子を開けず、既存の廊下側測定点のみで振動を確認しました。その結果、旧送風路の奥側から極めて弱い振動が一度伝わっています』


「音した?」


『人間が聞き取れるほどではありませんでした』


「昨日は聞こえたのに?」


『昨日の方が振動が強かった可能性はあります。ただし測定条件が異なるため比較はできません』


「地下から?」


『方向は壁内の奥側です。地下用途不明室から来たとまでは言えません』


 少年は両手を膝へ置いた。


「『まだ、いる』って言った子は?」


『今朝起床後、昨夜の発言について質問はしていません。本人は朝食を取り、現在は安全区画で紙片を並べて遊んでいます』


「木の札は?」


『本人の衣服のポケットです』


「怖がってる?」


『現在、明確な恐怖反応は確認されていません』


 少年の肩が少し下がる。


「ならいい」


 そこで止めるかと思ったが、少年はもう一つだけ尋ねた。


「振動って、向こうから来た?」


『測定上は、旧送風路の廊下側より奥から伝わったと考える方が自然です』


「誰かが叩いた?」


『不明です』


「機械かもしれない?」


『はい』


「建物が動いたとか?」


『それも可能性に含まれます』


「生きてる人?」


『確認できていません』


 少年はしばらく黙った。


「……分かった。ご飯行く」


『承知しました』


 通信が切れる。


「平気?」


「怖さ二」


「昼食、部屋にする?」


「食堂行く」


「途中で変えてもいいぞ」


「うん」


 立ち上がる。


 歩き出した少年の速度はいつもよりわずかに遅かったが、足取りは安定している。


「アル」


「ん?」


「向こうに誰かいたら?」


 来ると思っていた問いだった。


「助けたい」


「うん」


「でも、いるかどうか分からない」


「うん」


「だから、いると決めて地下を開けることは今はしない」


「もし本当にいたら、待たせる」


「そうなるかもしれない」


 少年がこちらを見る。


 俺はごまかさなかった。


「だから難しい。開ける危険と、開けない危険の両方を見ないといけない」


「開けないのも危ないかもしれない?」


「ああ。昨日までは明確な生命反応も助けを求める合図もなかった。でも、もし向こうから何かが繰り返し届いてるなら、それをずっと無視していいとは思わない」


「じゃあ開ける?」


「まだ」


「何を待つ?」


「扉を開けなくても確かめられることが残ってる」


「音?」


「音も。振動の間隔、場所、送風路の構造。あとは、こちらから危険の少ない方法で反応を確かめられるか」


 少年の足が止まった。


「こっちから?」


「ああ」


「叩くの?」


「それもまだ決めてない」


「返ってきたら?」


「その時に考える」


「返ってこなかったら?」


「それも答えの一つにはなる。でも誰もいない証明にはならない」


「難しい」


「うん」


 少年は歩き出した。


「昼ご飯食べながら考えない方がいい?」


「俺はセリーに怒られるからな」


「主様だけではありません」


 後ろからセリーが口を挟む。


「療養中の方も、食事中に無理をして考える必要はありません」


「じゃあ食べる」


「それがよろしいかと」


 食堂では、昨日の年配患者が今日も先に座っていた。


 俺たちを見るなり、自分の皿を指差す。


「見ろ。今日は芋が戻ってきた」


「よかったね」


 三〇八号室少年が素直に答える。


「だろう?」


「でも豆もある」


「言うな」


 老人が皿の端へ寄せた豆を手で隠そうとする。


 担当職員が無言でその手を見る。


「……食うよ」


「まだ何も申し上げていません」


「目が言ってる」


 俺は思わずセリーを見る。


「同じだ」


「何がでしょう」


「いや」


 三〇八号室少年が笑った。


 少し前まで二だった怖さが、その笑いで消えたわけではない。


 けれど怖いことを聞いたあとでも、食事をして、誰かの豆の話で笑える。


 感情は一つずつ順番にしか存在できないものではないらしい。


 昼食後の確認で、怖さは一へ戻った。


 薬の減量による異常もない。


「午後どうする?」


 俺が尋ねると、少年は窓の外を見た。


「外は行かない」


「うん」


「でも談話室行く」


「分かった」


 ミナは今日も談話室にいた。


 今度は木の板を何枚か並べ、簡単な積み木のような遊びをしている。


「来た」


「うん」


「絵持ってきた?」


 三〇八号室少年は自分の部屋へ置いてきた紙を思い出したらしい。


「今日は持ってきてない」


「そっか」


「また描くかも」


「じゃあ紙あるよ」


 ミナは棚を指差すだけで、取りに行かなかった。


 少年が自分で棚へ向かう。


 紙を一枚取る。


 炭筆も一本。


 今日は卓へ座ると、迷わず線を引いた。


 昨日より長い線だった。


「何?」


「道」


「決めたんだ」


「これは道」


「どこ行く?」


「決めてない」


「じゃあ途中?」


「うん」


 ミナは積み木へ戻る。


 少年は道を伸ばした。


 紙の端まで行く前に線を止める。


 その横へ、小さな四角を描いた。


「家?」


「まだ分かんない」


「道は分かるのに?」


「道だけ分かる」


「変なの」


「いいだろ」


「いいよ」


 二人はそれぞれ別のことをしながら、時々話す。


 窓の外を鳥が横切った。


 廊下から職員の足音が聞こえる。


 遠くで誰かがくしゃみをして、別の誰かが笑った。


 そんな普通の音の中にいると、昨夜旧保養施設で聞こえたという一度だけの金属音が、別世界の話のようにも思える。


 けれど消えたわけではない。


 夕方前、ガルムから連絡が入った。


 俺は談話室の入口へ移動する。


「何か出た?」


『出たというより、試す前の相談だ』


「聞く」


『旧送風路へ直接触れず、廊下側の壁面からごく弱い振動を一度だけ与える案が出ている』


「叩く?」


『物理的には近い。ただし人が壁を殴るわけじゃない。一定の強さで一度だけ振動させ、既存の測定点で反応を見る』


「冷却術式への影響は?」


『現場の見立てでは、通常の扉開閉や薪運搬で生じる振動以下に抑えられる』


「魔力は使う?」


『振動を作る補助にごく微量。ただし送風路内部へ流し込まない』


「子供は?」


『参加させない。事前に実験の説明をして反応を見ようという案も出たが、俺が止めた』


「理由は?」


『本人に「何か返ってくるかもしれない」と待たせることになる』


「同感」


『安全区画から離れた場所で、本人が別のことをしている時間に一度だけ行う。結果が何もなければ、そこで今日は終わりだ』


「何か返ったら?」


『その時点で追加刺激はしない。まず記録を確認する』


「繰り返さない?」


『ああ』


「フェリクスは?」


『三回やりたいと言った』


「だろうな」


『一回にした』


「よく止めた」


『褒めるな。あいつを止めるのは疲れる』


 思わず笑う。


 談話室の中から三〇八号室少年がこちらを見た。


「旧保養施設?」


「ああ。壁を開けずに一回だけ調べる案」


「俺、聞いていい?」


 ガルムへ確認する必要もない。


「もちろん」


 少年が近づいてくる。


 俺は簡単に説明した。


 こちらから一度だけ、ごく弱い振動を送る。


 普段の扉の開閉より弱い。


 子供は参加させない。


 返事のような反応があっても、すぐ二度目は行わない。


「音でびっくりしない?」


『本人がいる区画では聞こえない強さを予定している』


 ガルムが答える。


「でも感じるかもしれない?」


『その可能性を完全には消せない』


「じゃあ、その子が怖くなったら?」


『実験を続けない』


「一回したあと?」


『一回目自体をするかどうかも含めて、今相談している』


 少年は黙った。


 少し前なら、大人たちが決めた計画を聞く側だった。


 今は意見を求められているわけではない。


 それでも、自分が考えたいなら考えられる。


「その子に聞くのは駄目?」


「何を?」


「壁を一回だけ揺らしていいか」


「本人がその意味を理解できるか分からない」


「怖いところに何かするって言ったら、嫌って言うかもしれない」


「うん」


「でも何するか分かんなかったら、いいとも言えない」


「そうだな」


 少年は眉を寄せる。


「じゃあ、大人が決める?」


「今回はそうなる可能性が高い」


「本人のことなのに?」


「本人の安全に関係する建物調査だからな。ただし、本人へ直接何かするわけじゃない。危険をできるだけ小さくして、やる必要があるかを複数人で決める」


「本人が嫌って言ったら?」


「例えば『音を出さないで』『あそこに何もしないで』って今はっきり言っているなら、かなり重く考える」


「前に『あけないで』って言った」


「ああ。だから開けない」


「揺らすのは開けるのと違う?」


「違う。でも、本人にとって同じくらい怖い可能性はある」


 少年は考え込んだ。


「分かんない」


「俺も迷ってる」


 通信の向こうでガルムが言う。


『だから今すぐ始めてない』


 少年が腕輪を見る。


「ガルムも?」


『迷う』


「隊長なのに?」


『隊長だから迷わなくなるわけじゃない』


「そっか」


 少年は卓へ戻った。


「俺は決めない」


「うん」


「でも、その子が怖くならない方がいい」


『意見として受け取る。ただし、お前が決めたことにはしない』


「うん」


 ガルムとの通信を終えた。


 俺もすぐに許可を出さなかった。


 旧保養施設の現場担当者、リディア、ヨアヒム、ガルム、フェリクス。


 それぞれから条件を確認する。


 冷却術式への影響。


 建物への影響。


 子供が感じる可能性。


 やらなかった場合の見落とし。


 やった場合に得られる情報。


 結局、試験は夕方遅くに一度だけ実施することになった。


 理由は単純だった。


 昨夜の金属音が自然な設備音と一致せず、今朝も旧送風路奥から微弱な振動が確認されている。


 誰かがいる証拠ではない。


 しかし、何らかの動きがある可能性を無視し続けることもできない。


 扉を開けるより遥かに低い負荷で、送風路が外部からの振動を伝える構造なのか確認できる。


 実施は一回。


 追加刺激なし。


 異常があれば即中止。


 子供は安全区画の別室。


 警備は見えない位置。


 俺は現地へ行かなかった。


 行きたかった。


 だが、俺が行かなければ成立しない試験ではない。


 むしろ、王家の古い識別に反応する可能性を持つ俺が近づかない方が変数は少ない。


 白鴉療養所の小部屋で、俺はガルムからの通信を待った。


 三〇八号室少年は自室にいる。


 結果を今聞くかどうかは、まだ決めていない。


 セリーが俺の前へ温かい茶を置く。


「落ち着きませんか?」


「ちょっと」


「現地へ行かれますか?」


「行かない」


「即答ですね」


「俺が行っても、見てるだけだから」


「成長されました」


「子供扱いするな」


「褒めたのですが」


「セリーの褒め方、たまに腹立つな」


 そう言ったところで、エルが短く鳴った。


『試験開始の連絡です』


 俺は茶から手を離した。


『刺激強度、予定値内。壁面への振動付与、一回』


 数秒。


 何も聞こえない。


 当然だ。


 俺は現場にいない。


『廊下側測定点、入力振動を確認』


 さらに数秒。


『旧送風路内部へ伝播』


 セリーが黙っている。


 俺も何も言わない。


 そして。


『……奥側から別振動を検出』


 息が止まりかけた。


「反射?」


『解析中です』


「時間差は?」


『入力から約六秒』


「反響にしては?」


『現時点では判断不能です』


 また数秒。


『追加振動なし。現場は予定通り待機しています』


「子供は?」


『安全区画側から連絡。明確な恐怖反応なし。現在、職員と紙片を並べています』


「よし」


 胸の奥にあった緊張が少しだけ緩む。


『ガルム隊長より。予定通り追加刺激は行わず、試験終了』


「分かった」


 それで終わった。


 一度だけ。


 こちらから振動を送った。


 六秒ほど後に、奥側から別の振動が返った。


 それだけだ。


 返事とは呼べない。


 機械の反応かもしれない。


 古い金属板が遅れて揺れただけかもしれない。


 送風路の途中にある何かが共振したのかもしれない。


 誰かが叩き返したとは、到底言えない。


 それでも。


「返ったんだな」


 俺が呟く。


「反応が検出された、という表現が現時点では適切かと」


 セリーが言う。


「分かってる」


「はい」


「でも、何もなかったわけじゃない」


「それも事実です」


 その日の夕方、三〇八号室少年へ結果を伝えるか確認した。


「一回やった?」


「ああ」


「何かあった?」


「結果を聞きたい?」


 少年は少し迷った。


「怖い話?」


「今のところ危険が増えたって結果ではない」


「じゃあ聞く」


「こちらから一度だけ弱い振動を送った。六秒くらいあとに、奥側から別の振動が記録された」


 少年の目が大きくなる。


「返事?」


「分からない」


「機械?」


「かもしれない」


「人?」


「それも分からない」


「もう一回やる?」


「今日はやらない」


「何で?」


「一回だけって決めたから。それに、最初の結果を調べる前に何度もやる必要はない」


「返事だったら、待ってるかも」


 少年の声が少し小さくなる。


「そうかもしれない」


「でも違うかもしれない」


「ああ」


「……難しい」


「難しいな」


 少年は自分の絵へ目を落とした。


 今日描いた道。


 紙の途中で止まっている一本の線。


「その子は?」


「試験中も大きく怖がってはいない。別の部屋で遊んでた」


「知らない?」


「試験の細かい内容は伝えてない」


「あとで教える?」


「必要があるなら、分かる形で説明する。ただ、今すぐ『地下に何かいるか調べた』って話を聞かせる必要があるかはヨアヒムたちと考える」


「隠すの?」


「隠すためじゃない。本人に関係することだから、ずっと知らせないのも違うと思う。でも、何が起きたか俺たちも分かってない段階で、不安だけ渡すのも違う」


 少年は黙って考える。


「その子が聞いたら?」


「答える」


「分からないって?」


「分かってることと分からないことを分けて」


「そっか」


 少年は紙へ炭筆を置いた。


 道の先を少しだけ伸ばす。


 けれど紙の端までは描かなかった。


「これ、今日ここまで」


「うん」


「続きは?」


「描きたくなったら」


「分かった」


 夕食後の体調確認でも、薬を減らした影響と思われる明確な異常はなかった。


 身体の重さ一。


 頭痛なし。


 吐き気なし。


 胸部違和感なし。


 怖さは、旧保養施設の話を聞いた直後だけ二へ上がり、その後一へ戻った。


 少年はそれを自分から申告した。


「薬のせいじゃないと思う」


「理由は?」


 セリーが尋ねる。


「地下の話聞いた時だけだったから」


「そのように記録します。ただし、こちらで断定はしません」


「うん」


「明日の薬は?」


「明日の朝」


「承知しました」


 二通目の父王名義の手紙は、今日も開かなかった。


 少年は赤い包み布を一度見たが、触れずに寝台へ入った。


「アル」


「ん?」


「六秒って長い?」


「何が?」


「振動返ってくるまで」


「構造によるな」


「人が返事するなら?」


「聞いて、考えて、叩くなら……長いとも短いとも言えない」


「また分かんない」


「悪いな」


「もう慣れた」


 少年は布団を胸まで引き上げた。


「でも、返事だったら」


「うん」


「一回しかやらなかったから、向こうも『もう終わり?』って思うかな」


 俺は答えに迷った。


「そう思う誰かがいるなら、そうかもしれない」


「助けてって思ってたら?」


「……そうかもしれない」


「じゃあ明日、もう一回?」


「今日の結果を調べてから考える」


「絶対やらないじゃない?」


「絶対とは決めてない」


 少年は少し安心したようだった。


「開けるのも?」


「それも絶対に開けないとは決めてない」


「『あけないで』って言ったのに?」


「あの言葉は大事にする。でも、もし本当に誰かの命が危ないと分かったら、何を開けないでと言ったのか、開けないことで誰が危険になるのかも考えないといけない」


「その子に聞く?」


「必要になったらな。ただ、答えられないことまで決めさせない」


「難しいね」


「本当に」


 少年は目を閉じる。


「お休み、アル」


「お休み、アルフォンス」


 三〇八号室を出たあと、俺は帰還管理所ではなく、旧保養施設の調査記録を待った。


 塔へ戻る頃には夜も深くなっていた。


 ガルムたちはまだ現地にいる。


 フェリクスは白鴉療養所へ戻らず、振動記録の解析に張り付いているらしい。


『本人曰く、あと少しで分かりそうだ、とのことです』


「それ、一番信用しちゃいけないやつだろ」


『ガルム隊長も同様の発言をしています』


「寝かせろよ」


『リディアが監視しています』


「なら大丈夫か」


 セリーが俺を見る。


「主様も同類では?」


「俺は塔に戻った」


「資料を待っています」


「寝る前に一個だけ」


「フェリクス様も同じことを仰っている可能性があります」


「やめろ。急に不安になってきた」


 それから二十分ほどして、最初の解析結果が届いた。


『主様。振動波形の比較結果です』


「うん」


『入力した振動と、六秒後に検出された振動は、単純反射としては一致しません』


 俺は椅子へ座り直した。


「違う波形?」


『はい。強度は入力の約三分の一。継続時間も短く、周波数構成が異なります』


「共振?」


『その可能性は残ります』


「古い機械が動いた?」


『可能性があります』


「人が何かした?」


『否定も肯定もできません』


「位置は?」


『旧送風路の奥側。昨日の金属音と同じ方向です。ただし正確な距離は算出できません』


「用途不明室と一致する?」


『まだできません』


「冷却術式は?」


『変化なし』


「生命反応?」


『新規検出なし』


 そこで報告が終わるかと思った。


 だがエルは続けた。


『もう一点あります』


「何?」


『六秒後の振動とは別に、その約十一秒後、ごく弱い二度目の振動が記録されていました』


「二度目?」


『初回解析では環境雑音として除外されていました。しかし複数の測定点を照合した結果、同じ旧送風路奥側から伝播した可能性が高いと判断されています』


「強さは?」


『一度目のさらに半分以下です』


「波形は?」


『短い単発振動です』


「つまり?」


『現時点では意味を付与できません』


 俺は長く息を吐いた。


 一度送った。


 六秒後に一度。


 さらに十一秒ほど後に、もう一度。


 返事ではない。


 まだそう呼べない。


「明日は?」


『ガルム隊長は、今夜は追加試験を行わない方針です』


「俺も賛成」


『明朝、建築構造担当を含めて、自然振動・設備反応として説明可能か再検討します』


「それで」


 俺は立ち上がろうとした。


『主様』


「まだある?」


『名前不明の子供について、就寝前の記録が追加されています』


 足が止まる。


「何て?」


『本人は木片を枕元へ置いたあと、職員へ「きょう、こなかった」と発言しています』


 胸の奥がざわついた。


「何が、とは聞いてない?」


『はい。職員は「そうなんだね」とだけ返答しています』


「本人の様子は?」


『強い恐怖反応なし。その後、自分で布団へ入りました』


「……分かった」


 通信を終える。


 昨日は「まだ、いる」。


 今日は「きょう、こなかった」。


 昨日の金属音を指しているのか。


 送風路から届く何かを指しているのか。


 人なのか。


 音なのか。


 冷たさなのか。


 まったく別のものなのか。


 分からない。


 俺は寝室へ向かおうとして、窓際で足を止めた。


「主様」


「寝るよ」


「はい」


「でも、一個だけ思った」


「何でしょう」


「俺たちが今日やった振動は、あの子にとっての『くる』とは違ったんだな」


「そうかもしれません」


「感じなかっただけかもしれない」


「はい」


「『きょう、こなかった』が同じものを指してるとも限らない」


「その通りです」


「……分からないな」


「はい」


 セリーは否定しなかった。


 けれど、分からないから何もなかったことにすることもできなくなっていた。


 旧送風路の奥から、こちらが与えたものとは異なる振動が二度返っている。


 子供は昨日「まだ、いる」と言い、今日は「きょう、こなかった」と言った。


 それぞれを一本の線で結ぶには早い。


 それでも、ばらばらのまま記録しておく価値はある。


「明日、自然現象で説明できるか徹底的に見る」


「はい」


「それで説明できなかったら、二回目の試験をするか考える」


「はい」


「同じ刺激にする。変数増やさない」


「その方針をガルム様へ共有します」


「あと、子供の生活は変えない」


「承知しました」


「調査のために暖房設備室の近くへ連れていかない。何か言わせようともしない」


「はい」


「でも本人が話したら、そのまま聞く」


「そのように」


 俺は今度こそ寝室へ向かった。


 扉はまだ開けていない。


 地下へも降りていない。


 誰かを見つけたわけでもない。


 助けを求める声を聞いたわけでもない。


 ただ、閉じたものの向こうから、何かが届いている可能性だけが少しずつ大きくなっている。


 開けないことを選ぶなら、開けないまま見えるものを見続けなければならない。


 待つことを選ぶなら、待っている間に変化がないか確かめなければならない。


 本人の「あけないで」を守るために、向こう側から届くかもしれないものまで無かったことにしていいわけではない。


 廊下の灯りを一つ落とす。


 明日は、扉を開ける日ではない。


 けれど、閉じているという事実だけで安心していられる日でも、もうなかった。

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