第58話 暖房のある場所を「あったかくない」と呼んだ理由を、本人より先に決めることはできませんでした
翌朝、三〇八号室の少年は白い薬を減らさなかった。
昨夜は途中で目を覚ますこともなく、朝の頭痛も吐き気もない。立ち上がった時のふらつきもなく、身体の重さは一、怖さも一だった。ここ数日の状態だけを並べれば、もう一段階だけ量を下げることを検討してもおかしくはない。
それでも少年は、セリーが薬について尋ねる前に自分から言った。
「今日も同じがいい」
窓の外では、朝の光を受けた中庭の石畳が乾いている。昨日なくなった水たまりは戻っておらず、代わりに植え込みの葉先へ残った露が小さく光っていた。
「理由はありますか?」
「ある」
少年は寝台の縁へ腰掛けたまま、自分の手を見下ろした。
「昨日、何も悪くならなかった。でも、今日減らさないと困ることもない」
「はい」
「だから同じ」
セリーは記録板へ視線を落とした。
「承知しました」
それで決まった。
白い薬は第55話で減らした量を今日も維持する。青と紫は引き続き中止。明日については明日の朝に考える。
少年はセリーの筆先を眺めたあと、俺を見る。
「今日は水たまりで例えない」
「俺も薬を踏むなとは言わない」
「昨日のあれ、変だった」
「お前が言ったんだぞ」
「アルが拾った」
「拾わなかったら寂しいだろ」
「別に」
そう答えながら、少年の口元は少し緩んでいた。
昨日は外へ出なかった。
幼いアルフォンスとは廊下で挨拶しただけだった。
父王名義の二通目の手紙も読まず、帰還管理所で見つかった新しい資料についても聞かなかった。
それでも一日を終える時、少年は「嫌じゃなかった」と言った。
今日も同じ薬量を選んだことに、昨日ほどの迷いは見えない。
「ところで主様」
セリーが記録板を閉じた。
「今朝の水分摂取量は?」
「飲んだよ」
「量を伺っています」
「昨日より多い」
「具体的には?」
俺は答えず、エルを見る。
『約二百十ミリリットルです』
「ほら」
「昨日よりは改善しています」
「改善って言った」
「主様の水分摂取については評価して構いません」
「三〇八号室の子には使わないのに?」
「主様は療養計画上の歩行距離や選択を評価されているわけではありません。単純に必要量の水分を摂取してください」
少年が笑った。
「アルだけ規則違う」
「納得いかない」
「では今後、主様にも『今日は飲まないという選択を尊重します』と申し上げ、その結果脱水症状が出た場合にはヨアヒム様へお任せしましょうか」
「飲みます」
「結構です」
昨日、セリーが「役目だけではなく、自分がそうしたい部分もある」と言ったことを思い出す。
俺の健康管理に関しては、その「したい」がずいぶん強いらしい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
朝食は白パンと野菜の入った乳粥、それに小さく切った果物だった。
三〇八号室の少年は今日も窓に近い卓を選んだが、外を長く眺めることはなかった。パンをちぎって乳粥へ少し浸し、柔らかくなったところを食べている。
「昨日の資料」
半分ほど食べたところで、少年が言った。
「帰還管理所の?」
「うん。聞く」
「今?」
「食べ終わってから」
「分かった」
聞きたいと思った。
けれど、今すぐである必要はない。
その区切り方が、以前より自然になっている。
朝食が終わり、白い薬を飲み、十分ほど休んだあと、少年は椅子へ座り直した。
「聞く」
エルを通して、帰還管理所側との通信を繋ぐ。
今日はガルム本人が出た。
『おはよう』
「おはよう」
少年の返事には、以前のような近衛への硬さがほとんどない。
『アルから聞いていると思うが、昨日、古い運用記録から新しい欄が見つかった』
「聞いてない。新しい資料があるってだけ」
『そうか』
ガルムは一度言葉を切った。
『なら、分かっているところだけ話す。古い帰還記録の一部に、「最終確認者」という欄があった』
「誰?」
『名前は複数ある。同じ人物が全部確認していたわけじゃない』
「何を確認する人?」
『そこが分からない』
少年は眉を寄せた。
「分からないの?」
『説明文が欠けている。今のところ分かっているのは、古い記録ではいくつかの確認項目の最後に、人間が署名する欄があったということだけだ』
「確認項目って?」
ガルムは必要なものだけを挙げた。
本人登録。
帰還資格。
処置説明。
身体負荷。
本人保持物との照合。
本人意思。
そして最後に、最終確認者。
少年は黙って聞いていた。
「本人意思のあと?」
『残っている記録ではそうなっている』
「じゃあ、その人が最後に『本当に行きたい?』って聞いた?」
『それはまだ分からん』
「違うこと確認したかもしれない?」
『そうだ』
「本人が嫌って言ってても入れる人だったかもしれない?」
ガルムが一拍置く。
『その可能性も否定できない』
少年は少し考えたあと、頷いた。
「分かった」
『それから、後の時期の記録では、この欄が見当たらなくなる』
「いつ?」
『まだ境目を調べている。ただ、管理者が本人の代わりに確認できるという記述が増えてくる時期には、少なくとも今見ている記録からは消えている』
「それ、関係ある?」
『あるかもしれない。ないかもしれない』
「ガルムも分からないって言うんだ」
『分からないものは分からん』
少年が少し笑った。
「アルみたい」
『それは褒められているのか?』
「たぶん」
「俺を基準にするなよ」
『お前が先に始めたんだろう』
通信の向こうで、誰かが小さく咳払いした。
おそらく近衛の誰かが笑いを堪えたのだろう。
ガルムが少し声を低くする。
『とにかく、最終確認者を「本人を守る役」だとはまだ考えない。逆も同じだ。何のためにあった欄なのかを調べる』
「扉は?」
『閉じたままだ』
「木の札も使ってない?」
『使ってない』
「アルも連れてってない?」
『連れていってない』
「俺も?」
『お前もだ』
「小さいアルフォンスも?」
『もちろんだ』
少年はそこで息を吐いた。
同じ確認を何度も繰り返すのではなく、必要なところだけを自分で確かめたらしい。
「じゃあ今日はそれでいい」
『分かった』
通信が終わる。
少年は椅子の背へ身体を預けた。
「怖さ?」
「一のまま」
「疲れは?」
「一」
「もう少し聞く?」
「聞かない。意味分かんないんでしょ?」
「ああ」
「分かってからでいい」
その答えに、俺は少しだけ笑った。
「何?」
「いや。前なら気になったら全部聞こうとしてた気がして」
「今も気になる」
「うん」
「でも、ない答えは聞けない」
「そうだな」
少年は窓の外へ視線を向けた。
「分かったら教えて」
「もちろん」
帰還管理所の話はそこで終わった。
その直後、少年が外へ行きたいと言うこともなかった。
今日は談話室にも向かわず、三〇八号室前の廊下を少し歩いただけで戻る。
途中、窓から中庭を見た。
昨日まで水たまりがあった場所も見た。
それでも足は外扉へ向かなかった。
誰も理由を聞かない。
部屋へ戻った少年は、昨日借りた本を開いた。
午前中はそのまま静かに過ぎていくはずだった。
けれど昼前、エルが俺だけへ短い報告を入れた。
『主様。旧保養施設側で、昨夜の発言について追加の非侵襲調査結果がまとまりました』
三〇八号室少年が本から顔を上げる。
「昨日、聞かなかったやつ?」
「ああ」
「俺に関係ある?」
「たぶん直接はない」
『緊急性もありません』
「じゃあ、アルだけ聞いていい」
「分かった」
「あとで聞きたくなったら聞く」
「ああ」
俺はセリーと少年を残し、廊下の小部屋へ移動した。
昨夜、名前の分からない子供が暖房設備室側の廊下を見ながら言った。
――あそこ、あったかくない。
実際の廊下の気温は低くない。
むしろ安全区画より少し高い。
それでも本人は「あったかくない」と表現した。
だからといって、比喩だと決めることも、魔術的な冷気を感じていると決めることもできない。
「調べたのは?」
『壁面温度、床面温度、空気温度、気流、既知の冷却術式からの魔力漏出、換気経路です。扉、床、壁、格子は開けていません』
「結果は?」
『暖房設備室側廊下の空気温度は安全区画より約一・八度高い状態でした。床面と壁面にも異常な低温箇所はありません』
「冷却術式は?」
『地下用途不明室周辺の既知反応に変化なし。漏出も検出されていません』
「じゃあ、温度じゃない?」
『そう断定することもできません』
「だよな」
『ただし一件、昨夜まで詳細照合していなかった構造上の特徴があります』
俺は壁へ背を預けた。
「何だ?」
『暖房設備室側の古い送風路です』
「換気口?」
『現在使われている暖房用の送風路とは別です。壁内に封鎖された旧式経路があります』
エルが簡略化した構造図を俺の腕輪上へ投影する。
旧保養施設は何度か改修されている。
現在の暖房設備は後から追加された部分が多く、古い設備の一部は壁内に残されたまま使われていない。
図には細い線が一本、暖房設備室の裏側から下へ伸びていた。
「地下に行ってる?」
『途中までは確認できます。ただし、最下部の接続先は古い図面上で欠損しています』
「用途不明室?」
『現時点では結びつけられません。方向は近いですが、同一地点とするには情報不足です』
「昨日の『あそこ、あったかくない』と関係ある?」
『不明です』
「空気は通ってる?」
『通常測定ではほぼ停止しています。ただし完全閉塞ではありません。非常に弱い圧力差が確認されています』
俺は眉を寄せる。
「どっち向き?」
『一定していません』
「一定してない?」
『測定時間中に二度、極めて弱い変化がありました。廊下側から壁内へ向かう時と、壁内から廊下側へ戻る時があります』
「風ってほど?」
『人間の皮膚で通常認識できる強さではありません』
「魔力反応は?」
『既知の術式反応との一致なし』
嫌な言い方をすれば、何かがある。
だが今の情報で言えるのは、使われていない古い送風路にごく弱い圧力変化があることだけだ。
「子供には?」
『調査中、本人を廊下へ連れていっていません』
「よし」
『職員からも昨夜の発言の意味は尋ねていません』
「それでいい」
本人の言葉を解読するために、本人を測定器の代わりにするつもりはない。
「古い送風路の先は調べられる?」
『開口せずに確認できる範囲は限られます。外側からの魔力走査を強める方法はありますが、地下冷却術式への干渉可能性を完全には除外できません』
「なら今はやらない」
『承知しました』
「ガルムたちにも共有を」
『すでに概要のみ共有済みです』
「帰還管理所との関連は?」
『現時点では示す証拠がありません』
「分かった」
通信を終える。
壁内に古い送風路がある。
地下方向へ続いている。
非常に弱い圧力変化がある。
それだけだ。
名前の分からない子供が以前言った「そこ、くる」という言葉を思い出す。
換気格子を見つめ、耳を塞いだ。
あれと繋げたくなる。
だが、「くる」が空気なのか、音なのか、匂いなのか、誰かなのか、記憶なのかさえ分からない。
今ここで線を引けば、たぶん俺たちはその線に沿って証拠を見るようになる。
だからまだ引かない。
部屋へ戻ると、三〇八号室少年は本を閉じていた。
「終わった?」
「ああ」
「何かあった?」
「古い建物の構造で、一つ分かったことがある」
「危ない?」
「今すぐ危険って話じゃない」
「地下の扉開ける?」
「開けない」
「じゃあ昼ご飯のあと聞く」
「分かった」
昼食の方が先だった。
今日の献立は細く切った鶏肉と根菜を煮たもの、それに柔らかなパンだった。
昨日、豆を嫌がっていた年配患者は今日も食堂にいる。
皿を覗いた老人が、職員へ疑わしそうな目を向けた。
「今日は豆ないな?」
「ありません」
「本当に?」
「根菜です」
「小さい豆を隠してないか?」
「そこまでして食べさせません」
三〇八号室少年が聞いて笑う。
老人はこちらに気づいた。
「おう、昨日の若いの」
「俺?」
「他に誰がいる」
「アルも若いよ」
「そっちは保護者だろ」
俺の匙が止まった。
「保護者……」
「違うのか?」
三〇八号室少年も俺を見る。
「アル、保護者?」
「正式には違う」
「じゃあ何?」
「……何だろうな」
少年が少し考える。
「アルはアル」
「便利だな、それ」
「昨日言ってたじゃん。一個の言葉で全部決めなくていいって」
「こんなところで返ってくるとは思わなかった」
老人が俺たちを交互に見る。
「よく分からんが、仲良いならいいだろ」
「雑だな」
「飯時に難しい話するな。腹に悪い」
職員が呆れたように笑う。
「昨日、豆が腹に悪いみたいな顔をしていた方が言わないでください」
「豆の話はもういい」
食堂に小さな笑いが広がる。
三〇八号室少年も笑っていた。
俺はその横顔を見ながら、さっきの「アルはアル」という言葉を思い返す。
保護者。
元王太子。
偽物かもしれない大人。
同じ名前を持つ人。
少年から見れば、俺にはいくつもの呼び方がある。
それでも今は、アルでいい。
たぶん俺も、少年に対して同じだった。
昼食を終え、少し休んでから、少年が言った。
「さっきの聞く」
俺は旧保養施設の報告を、必要なところだけ話した。
暖房設備室側の廊下は、実際には冷たくない。
壁や床にも異常な低温はない。
地下の冷却術式にも変化はない。
ただ、現在使われていない古い送風路が壁の中にあり、地下方向へ続いている。
接続先は不明。
ごく弱い空気圧の変化がある。
原因はまだ分からない。
「風?」
「風って呼べるほど強くないらしい」
「じゃあ、あの子が感じたか分かんない?」
「分からない」
「『あったかくない』って、それのこと?」
「それも分からない」
少年は少し眉を寄せた。
「何も分かんない」
「送風路があることは分かった」
「でも関係あるか分かんない」
「そうだな」
「調べる?」
「壁を開けたり、強い魔力を流したりしないと分からないところまでは、今はやらない」
「何で?」
「地下の冷却術式に影響する可能性が消せないから」
「止まったらどうなるか分かんない?」
「ああ」
「じゃあやらない方がいい」
「今はな」
少年は少し考えた。
「本人に聞かないの?」
「『あったかくないってどういう意味?』って?」
「うん」
「聞くこと自体が絶対駄目とは思わない。ただ、今すぐ答えが必要なわけじゃない」
「怖くなるかもしれない?」
「それもある。それに、俺たちが『暖房設備室のことを説明してくれ』って何度も聞いたら、あの子にとっては答えるのが仕事みたいになるだろ」
少年の表情が変わった。
「……それ嫌」
「ああ」
「俺も前、聞かれると答えなきゃって思った」
「だから、今は本人から話すまで待つ方法もある」
「でも危なかったら?」
「危険が見つかったら、その時は別だ。本人の説明を待たずに安全確認が必要なこともある」
「また分ける」
「また分ける」
少年は少し笑った。
「全部同じ規則にできないね」
「人間相手だからな」
「昨日も言ってた」
「便利なんだよ」
「そればっかり」
そこで話は終わった。
午後、少年は談話室へ行った。
ミナはいなかった。
代わりに、昨日自分が描いた紙が卓の端へ伏せたまま残っていた。
少年はそれを見つけ、しばらく立ったまま眺める。
「そのままだ」
「触らないように伝えてありましたから」
セリーが答える。
「俺が置いたから?」
「はい。処分するか保管するか決めていませんでしたので」
少年は紙を持ち上げた。
昨日描いた丸と線。
扉にも建物にも見える細長い四角。
本人は何を描いたのか分からないと言っていた。
今日見ても、やはり分からないらしい。
「これ」
「うん」
「持って帰る」
「分かりました」
「記録じゃなくて」
「もちろんです」
「俺の?」
「あなたが描いたものですから、あなたのものとして扱います」
少年は紙を両手で持った。
「部屋に置く」
折らずにそのまま持ち帰る。
大した出来事ではない。
けれど昨日は置いていくと決めた紙を、今日は持ち帰ると決めた。
昨日の選択を変えたからといって、昨日が間違いになるわけではない。
三〇八号室へ戻る途中、少年は窓から中庭を見た。
足を止める。
「外行く?」
自分で言ってから、俺を見る。
「俺に聞いてる?」
「……違う。言ってみただけ」
「そうか」
「行こうかな」
しばらく中庭を見る。
今日は雲が少し増えている。
風も昨日よりある。
「やっぱり行かない」
「分かった」
「今、変えた」
「ああ」
「変えていい?」
「いいだろ」
「外行くって言ったのに?」
「まだ約束してないし、仮に約束してても体調とか気持ちが変わったら相談すればいい」
「すぐ変えるの、迷ってるってこと?」
「迷ってるのかもしれない」
「迷っててもいい?」
「駄目な理由ある?」
少年は少し考える。
「手紙だと、迷ったら自分で決めるなって」
父王名義の二通目。
今読んでいる最後の一文。
――迷いが生じた場合は、自ら判断せず、教師へ申し出ること。
少年はその先をまだ読んでいない。
今日は手紙そのものを開いてもいない。
「今は?」
「外行くか迷った」
「うん」
「自分で行かないって決めた」
「うん」
「何も起きてない」
「そうだな」
少年は窓の外を見る。
「迷ったら、誰かに聞いてもいい。でも絶対聞かなきゃ駄目じゃない?」
「内容によると思う」
「薬は?」
「相談した方がいい」
「勝手に全部やめたら危ないから?」
「そうだな」
「外行くのは?」
「今日みたいに安全な範囲なら、自分で行かないって決めても問題ない」
「じゃあ、迷うことが悪いんじゃない」
「ああ」
「何に迷ってるかで違う」
「そう思う」
少年は自分の紙を胸元へ持ち直した。
「今日、手紙読まない」
「分かった」
「今の一文だけでちょっと考えたい」
「うん」
そのまま部屋へ戻った。
夕方まで、特別なことは起きなかった。
少年は持ち帰った紙を寝台脇の卓へ置いた。
少し傾いていたので自分で位置を直し、今度は伏せずに表を上にする。
俺はそれを見ても何も聞かなかった。
丸が何なのか。
四角が何なのか。
本人がまだ分からないと言っている。
なら、分からない絵のままでいい。
夕方、幼いアルフォンスから伝言が来た。
『今日は少し長く歩けた。明日は分からない。赤いジャムがあったら食べたい』
三〇八号室少年が聞いて、笑った。
「赤いジャム好き」
「お前もな」
「同じでもいい」
「ああ」
「明日会うって言ってる?」
『いいえ。伝言は以上です』
「じゃあ返事だけ」
「何て?」
少年は考える。
「俺も今日赤いジャムなかった。明日は分からない」
『そのまま伝えますか?』
「うん」
「ジャムの話だけ?」
「それでいい」
エルが伝言を送る。
同じ名前を持つ二人のやり取りは、それだけだった。
正体の話も。
王宮の話も。
保存槽の話も。
本物と偽物の話もない。
赤いジャムがあるかどうか。
明日は分からない。
それだけで繋がる日があってもいい。
夕食後、三〇八号室少年の体調に変化はなかった。
白い薬を同量で維持して三日目。
頭痛なし。
吐き気なし。
胸部違和感なし。
身体の重さ一。
怖さ一。
眠気も普段の範囲。
「明日は減らす?」
俺が聞く前に、少年が言った。
「明日決める」
「はい」
セリーが頷く。
「今のは俺に言った?」
「二人に」
「便利になったな」
「アルの真似」
「悪いところ覚えるな」
少年が笑う。
夜になり、俺は三〇八号室を出た。
今日は父王名義の手紙を読まなかった。
外にも出なかった。
帰還管理所の新しい記録を聞き、旧保養施設の送風路についても聞いた。
昨日描いた紙を持ち帰った。
外へ行こうかと考え、行かないことへ変えた。
幼いアルフォンスとは会わず、赤いジャムについて短い伝言だけを送った。
一日の中で、大きく物語が動いたようには見えない。
だが、俺には悪くない一日だった。
「主様」
廊下を歩いていると、セリーが呼ぶ。
「何だ?」
「旧保養施設の追加報告が届いています」
「緊急?」
「いいえ」
「じゃあ、塔に戻ってから聞く」
「承知しました」
俺たちは療養所を出た。
夜の空気は昼より冷たい。
空には薄い雲がかかり、月の輪郭が少し滲んでいる。
塔へ戻ったあと、俺はセリーに温かい飲み物を渡された。
「今日は水じゃないんだな」
「夜間ですので、身体を冷やさないものにしました」
「ありがとう」
「どういたしまして」
椅子へ座る。
「エル。報告を」
『旧保養施設の名前不明の子供についてです』
「うん」
『夕食後、本人は安全区画内で過ごしていました。木片は寝台脇の卓に置かれていました』
「本人が?」
『はい。その後、職員が暖房用の薪を補充するため廊下を通った際、暖房設備室側から金属音が一度発生しました』
俺は杯を置いた。
「どんな音?」
『小さな接触音です。現場職員の表現では、「薄い金属同士が一度触れたような音」』
「子供は?」
『音がした直後、身体を強張らせています』
「呼吸は?」
『上昇。怖さの数値確認はしていません。本人からの申告もありません』
「何て言った?」
『最初は何も』
エルが一度間を置いた。
『職員が「ここにいる。向こうへは行かない」と伝えると、本人は木片を取りに戻りました』
「それから?」
『木片を両手で持ち、暖房設備室側の廊下を見たまま、こう発言しています』
俺は黙って待つ。
『「まだ、いる」』
部屋の中が静かになった。
セリーも俺の向かいで動かない。
「……誰が、とは聞いてないな?」
『聞いていません』
「何が、とも?」
『はい』
「音のあとに言ったからって、音を出した何かがいるって意味とも決めない」
『その通りです』
「実際に人の気配は?」
『確認されていません。警備担当が安全区画側から確認した範囲では侵入者なし。地下へは降りていません。用途不明室も開けていません』
「送風路は?」
『先ほどまでの測定範囲では、金属音発生のおよそ数秒前後に微弱な圧力変化が一度記録されています』
「一致する?」
『時間幅が粗いため、完全な同期とは断定できません』
俺は額へ手を当てた。
繋げたくなる材料が増えている。
古い送風路。
地下へ続く不明な経路。
微弱な圧力変化。
金属音。
以前の「そこ、くる」。
「あっちは、さむい」。
「あそこ、あったかくない」。
そして今日の「まだ、いる」。
これだけ並べれば、一つの答えを作りたくなる。
だが、まだ早い。
「子供は今?」
『落ち着いています。木片は本人が保持。職員一名が本人の希望した距離で同室しています』
「移動したがってる?」
『いいえ』
「地下へ行きたいとは?」
『言っていません』
「なら動かさない」
『承知しました』
「警備は増やせる?」
『本人から見えない範囲で一名追加可能です』
「それで。兵士っぽく見せないように」
『手配します』
「暖房設備室は?」
『通常利用に必要な範囲を除き、不要な出入りを止めます。ただし安全区画の暖房を切ることはしません』
「そうしてくれ」
通信を終える。
セリーが静かに俺を見る。
「主様」
「行かないよ」
「まだ申し上げていません」
「顔に書いてある」
「私の表情変化を読めるようになったのですね」
「長い付き合いだからな」
「でしたら、今夜は休まれるべきだということもお分かりですね」
「……分かってる」
それでも俺は、すぐには立たなかった。
「まだ、いる」
その言葉だけが頭に残る。
何がいるのか。
誰がいるのか。
過去の記憶の中の誰かなのか。
今も地下に誰かがいるのか。
あるいは、人ではない何かなのか。
分からない。
「エル」
『はい』
「生命反応の確認は?」
『既存の安全範囲から行える探査では、名前不明の子供および職員以外の明確な生命反応は検出されていません』
「検出できない場所は?」
『地下用途不明室周辺は、冷却術式と古い遮蔽構造のため精度が著しく低下します』
「ゼロじゃなく、分からない?」
『はい』
俺は目を閉じる。
行きたい。
自分で見たい。
地下へ降りて、壁を調べ、送風路の先を確かめたい。
もし誰かが本当にいるなら、待たせたくない。
その衝動は確かにあった。
けれど同時に、名前の分からない子供が言った言葉も覚えている。
――した、いかない。
――あけないで。
今のところ、明確な救命緊急事態は確認されていない。
なら、その言葉を置き去りにして扉を開ける理由はまだない。
「明日の朝」
俺は言った。
「まず、非侵襲でできる安全確認を増やす」
「はい」
「音が設備の自然な収縮とか、古い金属板の振動とか、普通の原因じゃないかも見る」
「はい」
「送風路は開けない。冷却術式にも触れない」
「承知しました」
「本人へ『何がいるのか』って聞きに行かない」
「はい」
「でも、もしまた音がして、本人が何か言ったら、そのまま記録する」
「そのように手配します」
俺は杯を手に取った。
少し冷めていた。
「……これでいいかな」
思わず口にした。
セリーはすぐには答えなかった。
「主様は、私に正解だと言ってほしいのですか?」
「いや」
「では、今決められる範囲では、それでよいと私は思います」
「そっか」
「ただし、状況が変われば判断も変えます」
「ああ」
救命の可能性が出れば、開けないという昨日までの判断へ固執しない。
逆に、謎が深まったという理由だけで、危険を承知で開けることもしない。
選択を尊重することと、何もしないことは同じではない。
待つことと、放置することも違う。
その間にできることを探す。
俺は温くなった飲み物を最後まで飲んだ。
「主様」
「今度は何?」
「全部飲まれましたね」
「そこ?」
「大切です」
思わず笑う。
「セリー」
「はい」
「役目だから?」
昨日から少し気になっていた問いを、今度は軽く投げてみる。
セリーは俺を見た。
「それもあります」
「それも?」
「そして、私がそうしたいからです」
昨日と同じ答え。
けれど今日は、それ以上聞こうとは思わなかった。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、ありがとう」
セリーの目がわずかに見開かれた。
「何だよ」
「いえ」
「今、驚いた?」
「主様が素直でしたので」
「俺だって礼くらい言う」
「存じています」
今度は、セリーの口元がほんの少しだけ緩んだ。
夜は深くなっていた。
旧保養施設の地下では、何かが解決したわけではない。
帰還管理所の内区扉も閉じたまま。
三〇八号室の少年の二通目の手紙も途中のままだ。
名前の分からない子供が「あったかくない」と言った理由も、「まだ、いる」と言った意味も分からない。
ただ、明日調べるものが一つ増えた。
扉の向こうではなく、扉を開けずに調べられるものだ。
音。
空気。
古い送風路。
設備の振動。
建物そのものが出す音。
本人を答え合わせの道具にせず、まず俺たちの側で確かめられることを確かめる。
それで何も分からなければ、分からないまま次を考える。
寝室へ向かう途中、俺は一度だけ窓の外を見た。
遠くに白鴉療養所のある方角がある。
さらに別方向には、旧保養施設。
目では見えない。
けれど、そこで一人の子供が木片を握って眠ろうとしている。
誰にも取られないように。
あるいは、ただ自分のものだから。
その理由さえ俺たちは知らない。
知らないことは多い。
けれど、知らないからこそ、勝手に決めてはいけないこともある。
暖房のある場所を「あったかくない」と呼んだ理由を、俺たちの知識だけで決めることはできない。
そして「まだ、いる」という一言だけで、閉じた扉の向こうに誰かがいると決めることもできない。
明日も扉は、たぶん閉じたままだ。
それでも、扉の手前でできることはまだ残っている。
今夜はそれを忘れずに眠ることにした。




