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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第57話 昨日より先へ進める日でも、今日は同じ場所にいたいと言っていいはずでした



 翌朝、水たまりはなくなっていた。


 白鴉療養所の中庭へ朝日が差し込み始めた頃、昨日まで石畳の窪みに残っていた雨水はほとんど乾き、植え込みのそばに濃い色の湿り気を残すだけになっていた。夜の空気は冷えていたらしいが、雲の少ない空から落ちる光は明るく、開けた窓からは湿った土と薬草の匂いが薄く入り込んでいる。


 三〇八号室の少年は、窓際の卓でその跡を眺めていた。


「なくなった」


「なくなったな」


 俺が答えると、少年は窓硝子へ顔を近づけるでもなく、椅子へ座ったまま中庭を見ていた。


「昨日、残念かもって言った」


「ああ」


「ちょっと残念」


「どのくらい?」


「……一」


 数字で答えてから、少年は自分で少し笑った。


「これは記録しなくていい」


「承知しました」


 向かい側にいたセリーが、開きかけた記録板をそのまま閉じる。


「今のは冗談です」


「分かってる」


「でしたら結構です」


「セリー、たまに分かりにくい」


「主様には頻繁に言われます」


「俺を巻き込むなよ」


 少年がこちらを見る。


「アルは分かる?」


「長い付き合いだからな」


「では主様。昨夜、就寝前に私が申し上げたことを覚えていますか?」


「……何だっけ」


「分かっていませんね」


 少年が吹き出した。


 朝食前の診察だというのに、部屋の空気は昨日より軽かった。


 もちろん、体調の確認を雑にするわけではない。


 昨日は白い薬を減量後の量で維持した二日目だった。青と紫の薬は引き続き使っていない。朝に少し眠気があり、午前中の情報を聞いたあとには五十分ほど眠ったものの、その後に頭痛や吐き気、胸部違和感などは出なかった。


 さらに午後には、少年自身が望んで中庭へ出ている。


 屋根付きの石廊を越え、屋根のない場所まで歩いた。


 水たまりの三歩手前で止まり、踏まないことを選び、自分から帰った。


 身体にとっても、心にとっても、普段より出来事の多い一日だった。


 だからこそ、今朝の状態だけを見て次の減量へ進めるつもりはなかった。


「眠れた?」


「うん。一回も起きなかったと思う」


「頭痛は?」


「ない」


「吐き気、胸の違和感、息苦しさは?」


「ない」


 少年は答えながら一度立ち上がり、寝台の横で数歩歩いた。


 ふらつきもない。


「身体の重さは?」


「一」


「怖さは?」


「一。……でも、薬の話したら二になるかも」


「それは薬の副作用ではなさそうですね」


 セリーの言葉に、少年が頷いた。


「減らすって言われると考えるから」


「今日はどうしたい?」


 俺が聞く。


 少年はすぐには答えなかった。


 窓の外へ目を戻す。


 乾いた石畳。


 昨日歩いた場所。


 もうなくなった水たまり。


 その全部を眺めながら、少年は片手を自分の胸元へ当てた。


「昨日と同じ」


「理由は?」


「昨日、外も歩いたし、いっぱい話聞いた。夜は平気だったけど、もう一回減らして何か変わったら、薬のせいか疲れたせいか分かんなくなりそう」


 俺は思わずセリーを見る。


 彼女も少年を見ていた。


「それから」


 少年は続ける。


「今の量で困ってない。だから今日は同じがいい」


「承知しました」


 セリーは迷わず記録する。


 白い薬は昨日と同量。


 減らさない。


 戻さない。


 青と紫は中止継続。


 明日のことは明日の状態で決める。


「それでいい?」


 少年が聞いた。


「もちろん」


「減らせそうなのに減らさないの、変じゃない?」


「変ではありません」


 セリーが記録板から顔を上げる。


「減らせる可能性があることと、今日減らす必要があることは別です」


 少年は少し考え、ゆっくり頷いた。


「昨日、水たまりのところまで行けたのと似てる?」


「どういう意味だ?」


「踏めたかもしれないけど、踏まなくてもよかった」


 俺は笑った。


「そう考えるなら、似てるかもな」


「じゃあ今日は薬も踏まない」


「薬を踏むな」


「主様、そこを拾う必要はありますか?」


「いや、何となく」


 少年はまた笑った。


 昨日より体調が悪くない。


 だから昨日より先へ進まなければならない。


 そう考えれば、何もかもが階段になる。


 一段上がったなら次の段へ。


 歩けたならもっと遠くへ。


 薬を減らせたならさらに減らす。


 手紙を一行読めたなら次の一行へ。


 誰かと会えたならまた会う。


 けれど人間は、いつも前だけを向いて同じ速度で進むものではない。


 同じ場所にいたい日もある。


 昨日できたことを、今日はしない日もある。


 それを後退と呼ばずに済む場所でなければ、ここを療養所と呼ぶ意味は薄いのだろう。


 朝食はそのまま窓際で取った。


 白パン、卵と細かく刻んだ野菜のスープ、それに今日は小さな器へ赤い果実のジャムが添えられている。


 少年は配膳された瞬間、ジャムを見た。


「赤い」


「期待一が叶いましたね」


「記録してないって言った」


「記憶はしています」


「ずるい」


「何がでしょう」


 セリーは真顔だった。


 少年は俺を見る。


「やっぱり分かりにくい」


「だろ?」


「主様はまず食事をしてください」


「俺まで?」


「当然です」


 俺の前にも同じ朝食が置かれている。


 昨日の夜から、セリーの「役目だけではなく、自分がそうしたい」という言葉が妙に頭に残っていた。


 だからなのか、いつもと同じように俺の食事へ目を光らせているだけなのに、少し違って見える。


 その視線に気づいたのか、セリーがこちらを向いた。


「何でしょう」


「いや」


「野菜を残す理由を考えているのでしたら認めません」


「考えてない」


「では召し上がってください」


「はい」


 三〇八号室の少年が、ジャムを塗ったパンを口元まで運びながら笑った。


「アル、昨日から素直」


「昨日からじゃない」


「セリーが怖い?」


「怖くない」


「では、なぜ従うのですか?」


 セリーまで乗ってきた。


「朝から二人で何なんだよ」


 少年が声を立てずに笑う。


 食堂ではなく三〇八号室前の卓だったが、少し離れたところを通った職員がこちらを見て口元を緩めた。


 俺の元王太子としての威厳は、白鴉療養所では日に日に失われている気がする。


 王位へ戻るつもりなどないのだから困りはしないが、もう少しくらい残っていてもいいのではないだろうか。


 朝食が終わり、少年が白い薬を飲む。


 飲んだからといって何かが始まるわけではない。


 しばらく窓際に座り、乾いていく中庭を眺める。


 今日は外へ出たいとは言わなかった。


 俺たちも聞かなかった。


 代わりに少年が口にしたのは、別のことだった。


「昨日の人の記録、続き見つかった?」


「確認しますか?」


「見つかったかだけ」


 エルが応答する。


『新規の確定資料はありません。帰還管理所側では、昨日確認した旧王立療養補助所の記録と同時期の資料を照合中です』


「木の札は?」


『形状を確認できる資料は未発見です』


「別紙も?」


『「緊急時代行内容説明」の別紙は見つかっていません』


「そっか」


 少年はそれ以上聞かなかった。


「今日はもういい」


『承知しました』


 昨日、少年自身が「今日はもう報告を聞かない」と止めた。


 今朝は自分から尋ねた。


 それは昨日の拒否を撤回したという話ではない。


 昨日は昨日。


 今日は今日。


 本人の選択が変わることを、矛盾として扱わなくていい。


「アル」


「ん?」


「昨日のヨアヒムの言ったやつ、ガルムたちにも伝わってる?」


「本人の意思がなくなるんじゃなくて、その時は確認できないだけ、って話か?」


「うん」


『共有されています』


 エルが答える。


『ただし、現行の安全規則へどのような文言で組み込むかは未決定です』


「一人で決めてない?」


『ガルム隊長、ヨアヒム、現場担当者、記録担当者で検討中です。患者側の意見を求める場合も、特定の一人へ代表責任を負わせない方針です』


 少年はほっとしたように息を吐いた。


「ならいい」


「意見を聞かれたら答える?」


「その時考える」


「分かった」


 そこで話を終える。


 今日は昨日見つかった緊急事例を、朝からさらに掘り進める日ではないらしい。


 それでよかった。


 午前の廊下歩行も、昨日とは違う方向へ向かった。


 三〇八号室から西へ進むと、療養所の中でも比較的静かな区画がある。


 以前は患者用の小さな談話室として使われていたらしいが、現在は棚に本や木製の遊具、紙と炭筆などが置かれ、体調の良い者が好きな時に使えるようになっていた。


 扉は開け放たれている。


 中にはミナがいた。


 低い卓へ紙を広げ、炭筆を握っている。


 こちらに気づくと顔を上げた。


「あ」


 三〇八号室の少年の足が止まる。


 ミナも立ち上がらない。


 以前なら、会えたことを喜んですぐ近づいていたかもしれない。


 今は少年の様子を見ることを覚えている。


「おはよう」


「……おはよう」


「絵描いてる」


 ミナが紙を少し持ち上げる。


「見る?」


 少年は入口から中を覗いた。


「ここで?」


「うん。来なくても見えるようにする?」


「……入る」


 少年は自分から談話室へ入った。


 俺とセリーは入口に近い椅子へ座る。


 少年はミナの向かいではなく、卓の斜め横を選んだ。


 紙には大きな木が描かれていた。


 正確とは言い難い。


 幹は太すぎるし、枝は左右で長さが違う。葉らしき丸がいくつも重なり、その下には不自然に巨大な花が咲いている。


「これ何?」


「木」


「花の方が大きい」


「大きい花だから」


「そんなのある?」


「知らない」


 ミナは悪びれず答えた。


「描きたかったから描いた」


「いいの?」


「何が?」


「ないもの描いて」


「駄目って言われてない」


 少年が紙を見る。


「そっか」


 ミナは新しい紙を一枚、少年の側へ滑らせた。


「描く?」


「描けない」


「私も上手くない」


「それは分かる」


「ひどい」


 ミナが頬を膨らませる。


 少年は一瞬しまったという顔をしたが、ミナが本気で怒っていないことに気づくと、少し笑った。


「ごめん」


「いいよ。ほんとに上手くないし」


 炭筆が一本、卓の中央に置かれる。


 少年はすぐには取らなかった。


 ミナも押しつけない。


 自分の紙へ戻り、今度は木の横へ何か細長いものを描き始める。


「何それ?」


「水たまり」


「縦長すぎる」


「じゃあ川」


「変わった」


「川になった」


「そんな簡単に?」


「私の絵だから」


 少年が笑った。


 やがて卓の中央へ手を伸ばす。


 炭筆を取った。


「何描くの?」


「まだ決めてない」


「決めなくてもいいよ」


「紙、汚したら?」


「描くための紙だから汚れるよ」


 少年は炭筆の先を見る。


 白い紙の上へ置き、短い線を一本引いた。


 それからもう一本。


 何かの形になるほどではない。


 ただの線だ。


 少年はそれをしばらく眺めたあと、紙の端へ小さな丸を描いた。


「水たまり?」


 ミナが聞く。


「違う」


「じゃあ何?」


「まだ決めてない」


「そっか」


 ミナはそれ以上聞かなかった。


 しばらく二人とも黙って描いた。


 静かな時間だった。


 窓の外では、昨日の雨で濡れた布を干し直している職員の姿が見える。廊下を誰かが通るたびに床板がわずかに鳴り、遠くの厨房から昼食の準備を始めたらしい包丁の音が届いていた。


 三〇八号室の少年の紙には、線が増えていく。


 丸。


 その横に細長い四角。


 さらに上へ何本か線を足す。


「それ、扉?」


 ミナが尋ねた。


 少年の手が止まった。


 俺も思わず紙を見る。


 だが少年は首を振った。


「分かんない」


「じゃあ分かんない絵」


「うん」


 そのまま続きを描く。


 俺は何も言わなかった。


 扉に見える。


 塔にも見える。


 建物にも見える。


 けれど本人が分からないと言っているものを、こちらが意味のある図へ変える必要はない。


 少しして、少年が炭筆を置いた。


「終わり」


「持って帰る?」


 ミナが聞く。


「……置いとく」


「捨てる?」


「それも今決めなくていい?」


「いいよ」


 紙は卓の端へ伏せて置かれた。


 誰も内容を記録しない。


 治療資料にも使わない。


 少年がただ描いた紙だ。


 それだけだった。


 談話室を出たあと、少年は三〇八号室へ戻る途中で足を止めた。


 正面の廊下を、幼いアルフォンスが歩いていた。


 保存槽から出た七歳の少年。


 まだ筋力は十分ではなく、隣には治療担当者がいる。今日は短い距離だけ歩く予定なのだろう。緑色の服を着て、壁へ手をつくことなく、自分の足でゆっくり進んでいる。


 向こうもこちらに気づいた。


 二人の足が同時に止まった。


 前に会った時とは違う。


 予定した面会ではない。


 たまたま廊下で会った。


 だからこそ、周囲の大人たちは誰も「せっかくだから話したらどうだ」とは言わなかった。


 幼いアルフォンスが先に小さく手を上げる。


「おはよう」


 三〇八号室の少年は一拍遅れて答えた。


「おはよう」


 それだけだった。


 幼いアルフォンスは治療担当者を見る。


「もうちょっと歩く」


「はい。疲れたらすぐ教えてください」


「うん」


 こちらへ近づいてくるわけではない。


 自分のリハビリを続ける。


 三〇八号室の少年は、その姿を見送った。


「今日は話さなかった」


「そうだな」


「嫌だったわけじゃない」


「ああ」


「向こうも?」


「それは本人に聞かないと分からない」


「……そうだった」


 少年は少し考える。


「でも、おはようは言った」


「言ったな」


「それでいい」


 三〇八号室へ戻る。


 昨日は会わなかった。


 今日は廊下ですれ違い、挨拶だけした。


 次に会った時は話すかもしれない。


 話さないかもしれない。


 同じ名前を持つ二人だからといって、会うたびに自分たちの正体について考えなければならない理由はない。


 午前はそれで終わった。


 昼食の少し前、俺の腕輪へガルムから連絡が入った。


『アル。今、話せるか』


「急ぎ?」


『急ぎではない。ただ、帰還管理所側で一つ確認したいことが出た』


 三〇八号室少年がこちらを見る。


 俺は通信を切らず、先に少年へ尋ねた。


「俺は別室で聞いてくる。お前は?」


「帰還管理所?」


「ああ」


「俺が聞かなきゃ駄目?」


「駄目じゃない」


「じゃあ今は聞かない」


「分かった」


 セリーが少年と残る。


 俺は廊下の端にある小部屋へ移動し、扉を半分閉めた。


「いいぞ」


『昨日の緊急事例そのものじゃない。旧制度の運用記録を洗っていて、少し妙な欄を見つけた』


「妙?」


『本人保持物照合の後だ』


 俺は椅子へ座る。


 帰還管理所の古い内区扉には、本人登録、帰還資格確認、本人保持物との照合らしき古い認識層が残っている。


 これまで、それらが揃えば何が起きるのかは分かっていなかった。


『古い紙記録の一部に、本人保持物照合の後、「最終確認者」という欄がある』


「最終確認者?」


『ああ。そこに人名らしき署名がある。魔術式の自動判定じゃない』


「本人意思とは別?」


『別欄だ』


 通信の向こうで紙の擦れる音がした。


『順番は、本人登録、帰還資格、処置説明、身体負荷、本人保持物照合。その後に本人意思。最後に最終確認者』


「最終確認者は何を確認する?」


『そこがまだ分からん。欄の見出ししか残っていない記録も多い。説明文は欠損している』


「内区扉の術式と繋がってる可能性は?」


『フェリクスはあると見ている。ただし、まだ可能性だ』


「扉は?」


『開けてない』


「電力……じゃないな、魔力供給は?」


『必要以上には触っていない。外側の観測だけだ』


 俺は息を吐く。


「それでいい」


『それから、後期の記録では「最終確認者」の欄が消えている』


 指先が止まった。


「いつ頃?」


『正確な境目を調べてる。少なくとも、管理者代行の記述が増える時期には見当たらなくなる』


 嫌な変化だった。


 だが、それだけで意味を決めることはできない。


「最終確認者が本人意思を守る役だったとは限らない」


『分かってる』


「逆に、押し込むための確認役だった可能性もある」


『ああ。だから今日はそこまでだ』


 ガルムの声は落ち着いていた。


『「人間が最後に何かを確認していた時期がある」。今言えるのはそれだけだ』


「分かった」


『三〇八号室の子には?』


「今は聞かないって本人が言った」


『なら今日はこちらからは伝えない。緊急性もない』


「頼む」


 通信を終える。


 新しい手掛かりではある。


 けれど、答えではない。


 古い仕組みには、自動的な本人照合だけでなく、人間による最終確認らしき段階が存在した可能性が出てきた。


 それが何を守るためだったのか。


 何を確認していたのか。


 なぜ消えたのか。


 まだ分からない。


 俺は小部屋を出た。


 三〇八号室へ戻ると、少年はセリーと何か話していた。


「アル来た」


「ただいま」


「何だった?」


 聞かれて、一瞬だけ迷う。


「新しい資料が一つ見つかった。ただ、急ぎじゃない」


「怖いやつ?」


「今のところ、危険が増えたって話じゃない」


「じゃあ明日でいい」


「ああ」


 少年はそれで昼食の話へ戻った。


「今日、魚だって」


「そうなのか」


「アル、魚好き?」


「嫌いじゃない」


「骨ある?」


「療養食なので、大きな骨は取り除いてあります」


 セリーが答える。


「小さいのは?」


「確認して提供されていますが、万一口に入った場合は無理に飲み込まないでください」


「分かった」


 新しい情報がある。


 だから今すぐ知らなければならない。


 そんな決まりはない。


 知らないまま魚を食べてもいい。


 昼食後、少年は部屋へ戻った。


 今日は外へ行く様子を見せない。


 窓から中庭を眺めることも少なく、寝台の横で借りてきた本の頁をゆっくりめくっている。


 午後になり、ミナが扉の前まで来た。


 二度ノックする。


「ミナだけど、入っていい?」


 少年は本から顔を上げた。


「いい」


 ミナが入ってくる。


 手には午前中に使っていた紙がある。


「これ」


 三〇八号室少年の紙ではない。


 ミナ自身が描いていた大きな木の絵だ。


「持ってきたの?」


「うん。川増やした」


「水たまりだったやつ?」


「川になったから」


 確かに細長い線がさらに伸び、紙の端まで続いている。


「あと橋」


「曲がってる」


「橋だから」


「橋ってまっすぐじゃない?」


「曲がった橋もあるかもしれない」


「見たことある?」


「ない」


「またないもの描いてる」


「いいの」


 少年は本を閉じた。


 ミナは椅子へ座る。


「今日、外行った?」


「行ってない」


「そっか」


 それだけだった。


「水たまりなくなってた」


「朝見た」


「私も見た」


「ちょっと残念だった」


「また雨降るよ」


「うん」


 ミナはそこで、「次は踏もう」とは言わなかった。


 少年も「次は踏む」と約束しない。


 二人はしばらく絵の話をしていた。


 橋をどこへ繋げるか。


 川の向こうに何を描くか。


 ミナは家を描きたいと言い、少年は「家なら煙突いる」と言う。


「煙突ある家しか知らないの?」


「冬寒いからあるだろ」


「塔にもある?」


 少年の視線が一瞬俺へ向く。


「塔は普通の煙突とは少し違うな」


「じゃあ描けない」


「別に正確じゃなくていいんだろ?」


「そうだった」


 ミナが笑う。


 少年もつられて笑った。


 しばらくしてミナが帰ったあと、少年は本を開かずに窓の外を見た。


「今日、外行かなかった」


「ああ」


「昨日より体調いい」


「ああ」


「でも行かなかった」


 俺は返事を急がなかった。


「嫌?」


「何が?」


「行かなかったの」


「何で俺が嫌なんだ?」


「昨日、嬉しい二って言ったから」


「ああ」


 少年は昨日、自分の嬉しさを二とした。


 だから俺も二だと答えた。


 あの言葉が、少年の中に残っていたらしい。


「昨日は嬉しかったよ」


「今日は?」


「お前が嫌なのに外へ行ったら、たぶん嫌だ」


 少年がこちらを見る。


「行きたくないって言ってるのに、昨日行けたからって連れていく方が?」


「そっちの方が嫌だな」


「……そっか」


「今日、外に行かずにミナと話してたのは?」


「それは普通」


「なら、普通の日でいいんじゃないか?」


 少年は少し考える。


「昨日より先に行かない日?」


「ああ」


「後ろにも行ってない?」


「そもそも毎日同じ道の上にいるわけじゃないだろ」


「どういう意味?」


「昨日は外へ行った。今日は絵を描いた。比べる必要あるか?」


 少年はしばらく黙った。


 やがて小さく笑う。


「ないかも」


「だろ」


「でも薬は比べる」


「体調を見るためにな」


「何でも比べちゃ駄目じゃないんだ」


「そうだな」


 少年は納得したように頷いた。


 何かを比べること自体が悪いわけではない。


 薬量。


 症状。


 体温。


 歩行距離。


 必要な場面では比較する。


 ただ、その数字をそのまま人間の価値や努力へ繋げない。


 歩行距離が短かったから怠けたわけではない。


 怖さが上がったから治療が失敗したわけでもない。


 薬が増えたから後退したわけでもない。


 記録は人間を見るための道具であって、人間を記録へ合わせるためのものではない。


 夕方になる前、旧保養施設から連絡が届いた。


 名前の分からない子供についてだった。


『本日も用途不明室および地下区画には接近していません。冷却術式も現状維持です』


 エルが先にそう伝えた。


 三〇八号室少年は椅子へ座ったまま聞いている。


『生活上の変化として、本人は昼食後、自分で木片を衣服のポケットから取り出し、寝台脇の卓へ置きました。その後、昼寝をしています』


「誰も触ってない?」


『はい』


「起きたあと?」


『本人が再び手に取りました』


「それだけ?」


『それだけです』


「じゃあ、それでいい」


 少年は少し笑った。


「昨日は持って歩いた。今日は置いて寝た」


「そうみたいだな」


「なくなると思わなかったのかな」


「それは本人に聞かないと分からない」


「あ、また」


 少年が苦笑する。


「すぐ意味つけちゃ駄目だった」


「駄目というより、分からないなら分からないままでもいいんじゃないか」


「うん」


 木片を卓へ置いた。


 それだけ。


 昨日持ち歩いたから、今日は手放せるようになった――とは決めない。


 職員への信頼が増した証拠とも決めない。


 明日またずっと握っているかもしれない。


 今はただ、本人のものが本人の手元にあり、本人が置きたい時に置き、持ちたい時に持つ。


 それで十分だった。


 夕食前、俺はガルムから届いた資料の要点だけを紙へ書き出した。


 本人登録。


 帰還資格。


 処置説明。


 身体負荷。


 本人保持物照合。


 本人意思。


 最終確認者。


 最後の欄だけが、新しい。


 その意味は分からない。


 後期の記録では消えている。


 管理者代行が増える時期と近い可能性がある。


 だが因果関係は未確定。


 俺は紙の下へ大きく書いた。


 ――役割不明。


 その横に、さらに書く。


 ――保護機能と決めない。


 ――強制機能とも決めない。


 ――扉は開けない。


「主様」


 背後からセリーの声がした。


「何だ?」


「夕食です」


「今行く」


「先ほどもそう仰いました」


「今度は本当に行く」


「三十秒待ちます」


「短くない?」


「十分です」


 俺は紙を伏せて立ち上がった。


「セリー」


「はい」


「俺が行かなかったら?」


「食事をこちらへ運びます」


「選択肢あるようでないな」


「食堂へ行くか、こちらで召し上がるかはお選びいただけます」


「食べないは?」


「ありません」


「ほら」


「主様の生命維持に必要ですので」


 昨日ヨアヒムが話した救命時の代理判断を思い出し、俺は思わず笑った。


「何でしょう」


「いや。俺の夕食に緊急代行を適用するなよ」


「適用しておりません。今は意思確認できています」


「じゃあ食べない」


「却下します」


「本人意思は?」


「主様は今日、朝食と昼食を摂取しており、現在も健康状態は安定しています。したがって緊急代行ではなく、私個人からの強い要望です」


「強い要望なら拒否できる?」


「できます」


「じゃあ拒否する」


「理由を伺います」


「面倒になってきた」


 少し離れた場所で、三〇八号室少年が笑っていた。


「アル、食べた方がいい」


「お前まで」


「俺も食べるから」


「それを言われると断りにくいな」


 結局、三人で食堂へ向かった。


 今日の夕食は鶏肉と豆の煮込みだった。


 昨日の昼に肉と芋の割合で職員と揉めていた年配患者もいて、今日は最初から芋の量が少し減らされている。


「見ろ。交渉の成果だ」


 老人が得意げに言う。


 担当職員がすぐ横から口を挟んだ。


「その代わり豆を増やしました」


「聞いてないぞ」


「必要量です」


「横暴だ」


「昨日の夜、胃が重いと言った方の発言とは思えませんね」


 周囲から笑いが起きる。


 三〇八号室少年も笑いながら、自分の皿を見る。


「俺は普通」


「何がだ?」


「肉と豆」


「嫌いなのある?」


「今はない」


「なら食え」


「おじさんも豆食べた方がいいよ」


「若造に言われた」


「昨日、食べ過ぎたんでしょ」


「誰から聞いた」


 老人が俺を見る。


「アルさんか?」


「俺じゃない」


「昨日ここで自分で話してましたよ」


 職員の指摘に、老人はしばらく黙り込んだあと、渋々豆を口へ運んだ。


 その様子に、また小さな笑いが広がる。


 白鴉療養所にいる人間たちは、それぞれ違う事情を抱えている。


 名前を奪われた者。


 薬を使われた者。


 記憶が曖昧な者。


 身体の傷が残っている者。


 近衛の姿を見るだけで身を固くする者。


 それでも毎日の食事では、豆が多いとかパンが硬いとか、そんなことで文句を言う。


 それはきっと、悪いことではない。


 食後、三〇八号室少年は自分から部屋へ戻った。


 夜の体調確認でも変化はない。


 頭痛なし。


 吐き気なし。


 胸部違和感なし。


 身体の重さ一。


 怖さ一。


 白い薬を現在量で維持したことによる明確な問題も確認されていない。


「今日は外行かなかったけど、疲れ一」


「はい」


「明日の薬は?」


 セリーが聞く前に、少年が首を振る。


「明日の朝」


「承知しました」


 二通目の父王名義の手紙は、今日も読まなかった。


 赤い包み布も調べない。


 帰還管理所の新しい資料についても、少年はまだ聞いていない。


「さっきの資料」


 寝台へ入る前、少年が言った。


「明日聞くかもしれない」


「分かった」


「聞かないかもしれない」


「ああ」


「どっちでもいい?」


「もちろん」


 少年は布団へ入る。


 今日は昨日より体調が良かった。


 薬もさらに減らせたかもしれない。


 外へ出れば、昨日の水たまりがあった場所より先まで歩けたかもしれない。


 幼いアルフォンスと廊下で会った時、もっと話すこともできたかもしれない。


 帰還管理所の新しい資料も、その場で聞くことができた。


 父王名義の手紙だって、続きを読もうと思えば読めた。


 けれど、どれもしなかった。


 代わりに、ミナと絵を描いた。


 正体の分からない丸と線を紙に残した。


 幼いアルフォンスとは「おはよう」とだけ言った。


 昼には魚を食べた。


 午後は本を読んだ。


 夕食では、豆を嫌がる老人を見て笑った。


「アル」


「ん?」


「今日、何も進んでない?」


 少年が聞いた。


 俺は椅子へ座ったまま少し考える。


「帰還管理所の調査なら、一個資料が増えた」


「俺のこと」


「お前?」


「薬同じ。外行ってない。手紙読んでない。あの子とも話してない」


 少年の声に強い不安はない。


 ただ、確かめている。


 以前なら「治療が進んでいない」と判断された一日なのかもしれない。


 薬が減らない。


 訓練が進まない。


 課題をこなさない。


 教師の指示を受けない。


 帰還へ近づかない。


 そんな尺度だけで測れば、今日は空白になる。


「朝、自分で薬を同じにしたいって決めただろ」


「うん」


「ミナと絵描いた」


「うん」


「幼いアルフォンスに挨拶した」


「うん」


「新しい資料は今聞かないって決めた」


「うん」


「夕飯食った」


「それも?」


「大事だぞ。セリーがいるからな」


「はい」


 扉の近くにいたセリーが即答する。


 少年が笑う。


「じゃあ、いっぱいある」


「あるな」


「でも昨日より先じゃない」


「先ってどっちだ?」


 少年が止まった。


「……外なら、水たまりより向こう」


「絵なら?」


「分かんない」


「ミナとの話なら?」


「分かんない」


「薬なら?」


「減らす方?」


「増やす必要がある時もあるだろ」


「あ」


「全部を同じ方向へ並べるのは無理なんじゃないか?」


 少年は天井を見る。


「進むって、難しい」


「そうだな」


「じゃあ使わない方がいい?」


「使いたい時は使えばいい。ただ、誰かが決めた一方向だけを『前』にしなくてもいいんじゃないか」


「俺が決めてもいい?」


「お前のことならな」


「今日は」


 少年が少し考える。


「同じところにいた日」


「うん」


「でも嫌じゃなかった」


「なら、それでいいだろ」


「明日は?」


「明日決めろ」


「またそれ」


「便利なんだよ」


「逃げてる時もある?」


「あるかもな」


 少年が笑った。


「正直」


「分からないことを全部今日決めるよりはましだ」


 部屋の灯りを少し落とす。


 少年は横になった。


「お休み、アル」


「お休み、アルフォンス」


 今日はそれで終わるはずだった。


 俺が扉へ向かった時、エルが低い音を一度だけ鳴らした。


『主様。緊急ではありませんが、旧保養施設側から報告が一件あります』


 三〇八号室少年が布団の中からこちらを見る。


「地下?」


『地下そのものではありません』


「今聞かなくてもいい?」


『問題ありません』


「じゃあ明日」


『承知しました』


 少年は目を閉じた。


 俺もその場では聞かなかった。


 部屋を出て、内側から鍵が掛かるのを待つ。


 セリーと二人で廊下を少し歩いてから、少年の部屋から十分に離れたところで足を止めた。


「エル。報告を」


『名前不明の子供が就寝前、木片を手にした状態で暖房設備室側の廊下を見ました』


「反応は?」


『呼吸の軽度上昇がありました。ただし、以前のような強い拒否反応ではありません』


「何か言った?」


『一言だけです』


 俺は黙って待つ。


『「あそこ、あったかくない」』


 すぐには意味が分からなかった。


 暖房設備室。


 あの子供は以前、今いる安全区画について「ここは、あったかい」と言っている。


 地下方向については「あっちは、さむい」とも言った。


 だが今日の言葉が温度そのものを意味するのか、それとも別の感覚なのかは分からない。


「実際の温度は?」


『暖房設備室側廊下の表面温度に異常はありません。安全区画より若干高い程度です』


「術式反応?」


『新規変化は確認されていません』


「本人には?」


『職員は意味を尋ねていません。「分かった。今日は行かない」とだけ返答しました』


「それでいい」


 俺は息を吐いた。


「記録は言葉そのまま。『冷たい場所がある』とか『地下のことだ』とか足すな」


『すでにその形式で記録されています』


「扉も開けない」


『変更ありません』


 そこで報告は終わった。


 新しい言葉が一つ増えた。


 けれど、答えは増えていない。


「あそこ、あったかくない」。


 暖房設備室側の廊下を見ながら発せられた言葉。


 それだけだ。


「主様」


「分かってる」


「まだ何も申し上げていません」


「今日は見に行かない」


「それなら結構です」


「俺、信用ないな」


「信用しているから確認しています」


「それ、便利な言葉じゃない?」


「主様ほどではありません」


 セリーが歩き出す。


 俺もその隣へ並んだ。


 昨日より先へ進める日だったとしても、今日は同じ場所にいる。


 それを自分で選べるなら、その一日は空白ではない。


 帰還管理所の内区扉は今日も閉じている。


 旧保養施設の用途不明室も開けていない。


 三〇八号室の少年の手紙も途中のままだ。


 名前の分からない子供が見た先に何があるのかも、まだ知らない。


 閉じたままのものばかりだ。


 けれど今夜は、それを遅れているとは思わなかった。


 開けられる扉を開けない。


 読める手紙を読まない。


 減らせるかもしれない薬を減らさない。


 歩けるかもしれない距離を歩かない。


 それらが許されない場所では、「選べる」という言葉は、結局ひとつの方向へ進ませるための飾りになってしまう。


 廊下の窓から、中庭が見えた。


 昨日まであった水たまりはもうない。


 月明かりの下には乾いた石畳だけが広がっている。


 俺はその場所を少し眺めてから、セリーとともに歩き出した。


 次に雨が降る日がいつなのかは知らない。


 その時、あの少年が水たまりを踏むのかも知らない。


 知らないままでいい。


 少なくとも今は、明日の足を今日の俺たちが勝手に前へ置く必要はなかった。

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