↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
56/163

第56話 助かったという結果だけでは、その時の選択まで正しかったことにはできませんでした


 翌朝、白鴉療養所には久しぶりに朝日が差し込んでいた。


 数日続いた雨は夜のうちに上がったらしい。中庭の石畳にはまだところどころ黒い濡れ跡が残り、軒先から落ちる雫が一定の間隔で小さな音を立てていたが、東側の窓から差し込む光は昨日までとはまるで違っていた。


 廊下を歩いていると、開け放たれた厨房の扉から焼いたパンの匂いが漂ってくる。早番の職員が湯気の立つ鍋を運び、その横を薬箱を抱えた治療担当が通り過ぎていった。


 療養所そのものが、雨の間に溜め込んでいた息を吐き出しているようだった。


「主様」


「ん?」


「朝食前に水を飲まれましたか?」


 三〇八号室へ向かう途中で、隣を歩いていたセリーから突然聞かれた。


「飲んだ」


「量は?」


「……一杯」


「一杯では分かりません」


「普通の一杯だよ」


「昨日もそう仰いました」


「昨日も普通だった」


 セリーがこちらを見る。


 表情はいつもどおりほとんど変わっていないのに、どうしてか責められている気がする。


「エル」


『主様が今朝摂取した水分量は約百二十ミリリットルです』


「裏切ったな」


『事実を回答しただけです』


「少ないです」


 すぐ横からセリーの声が飛んできた。


「あとで飲む」


「三〇八号室の方へ水分摂取を勧める前に、ご自身もお願いします」


「分かったよ」


 最近、俺の周囲では「本人の選択を尊重する」という言葉が頻繁に使われる。


 どうやら俺の水分摂取に関してだけは、その理念が少し弱くなるらしい。


 もっとも、セリーにそう言えば「飲まない自由と体調を崩した後の負担は別問題です」と返されるのが分かっているので、黙っておいた。


 三〇八号室へ続く廊下へ曲がる。


 途中で外扉の前を通った。


 昨日、少年はここへ来なかった。


 一昨日は自分で扉の外へ出て、屋根付きの石廊まで歩いた。外の空気を吸い、雨上がりの匂いを知り、中庭に残った水たまりを眺めた。


 だからといって、その翌日も外へ出る必要はない。


 昨日の少年は来なかった。


 俺たちも誘わなかった。


 今日どうするかも、今のところ誰も知らない。


 それでいい。


 三〇八号室の前で二度扉を叩くと、少し間を置いて内側から鍵の外れる音がした。


「入っていい」


 扉を開ける。


 少年は寝台の上へ座っていた。


 いつもより少し起きるのが遅かったらしく、髪はまだ寝癖が残っている。窓の外を見るでもなく、枕元に置かれた水差しをぼんやり眺めていた。


「おはよう」


「おはよう」


 返事は普段と大きく変わらない。


 ただ、目元には少し眠気が残っている。


「まだ眠そうだな」


「ちょっと」


「昨夜眠れなかった?」


「一回起きた。でも、また寝た」


 少年が水差しへ目を向ける。


「喉乾いて起きた。水飲んだら寝た」


 セリーはすぐ記録板を開いたが、それ以上細かく問い詰めることはしなかった。頭痛や吐き気、胸の違和感、立ち上がった際のふらつきなど、薬量変更後に必要な項目を確認していく。


 頭痛なし。


 吐き気なし。


 胸の違和感なし。


 身体の重さは二。


 怖さは一。


 食欲は「たぶん普通」。


 昨日、白い薬をほんのわずかだけ減らした。


 だからといって、今朝少し眠そうなことを減量の影響だと決めることはできない。逆に、目立った症状がないからといって、昨日の変更が正解だったと判定する必要もなかった。


「今日はどうされますか?」


 セリーが薬について尋ねると、少年はすぐには答えなかった。


 寝台の端へ視線を落とし、足先を動かす。


 肩を回し、自分の身体の具合を確かめるように小さく息を吸った。


「昨日と同じがいい」


「減量後の量を維持ですね」


「うん。もう一回減らすのは早い気がする。でも、戻すほど悪くもない」


「承知しました」


 セリーがそのまま記録する。


 少年は彼女の手元を見ながら、少しだけ眉を寄せた。


「もし今日、あとで頭痛くなったら」


「その時点で改めて判断できます。必要なら戻すこともできます」


「減らしたの失敗になる?」


 その言葉で、セリーの筆が止まった。


 俺も少年を見る。


 本人は大した質問ではないように装っているが、膝の上に置いた指が少しだけ布をつまんでいた。


「なりません」


 セリーは短く答えたあと、記録板を閉じた。


「薬の量は、その時の身体に必要なものを選ぶためのものです。一度減らした量を増やしたからといって、昨日の判断が間違いだったことにはなりません」


「……うん」


 少年の指から力が抜ける。


 俺は壁際の椅子へ座った。


「まだ、戻すの嫌なんだな」


「嫌っていうか……」


 少年は少し迷ってから、膝を見たまま続けた。


「前は、治療が進まないと帰れないって言われてたから。薬が減って、また増えたら、戻ったみたいに思う」


 治療が進めば帰れる。


 迷えば遅れる。


 拒めば治療が進まない。


 教師へ従えば正しい。


 父王名義の手紙に書かれた言葉と、ここへ来るまでに繰り返し与えられた説明は、今も少年の中に残っている。


 頭では違うと分かり始めていても、身体の感覚まで一緒に変わるわけではない。


「増やす必要が出たら増やすぞ」


「うん」


「帰れるとか、戻るとかとは別だ」


「分かってる」


「それでも少し嫌?」


「……少し」


「なら、その少しまで無理になくさなくていいんじゃないか」


 少年が顔を上げた。


「いつかなくなる?」


「分からない」


「適当」


「分からないものを分かったふりするよりいいだろ」


 少年は一瞬きょとんとしたあと、口元を緩めた。


「それはそう」


 青と紫の薬は、今日も使わない。


 白い薬は昨日の減量後の量を維持する。


 それだけ決めて、朝の確認を終えた。


 部屋を出た少年は、いつもの休憩卓へ向かいかけてから途中で足を止めた。


「あっちでもいい?」


 指した先には、廊下の窓に近い四人掛けの卓がある。


 今まで何度か横を通っているが、少年自身が座りたいと言ったことはなかった。


「もちろん」


 セリーが窓際の温度と日差しを確認する。


「現在の室温であれば問題ありません。ただ、長時間ですと眩しく感じるかもしれません」


「嫌になったら移る」


「はい」


 少年は自分で椅子を引いた。


 外へ出るわけではない。


 ただ、以前なら窓からなるべく離れた場所を選ぶことが多かった少年が、今日は自分から光の近くへ座った。


 だからといって、それを「改善」と記録する必要はない。


 今日、ここで食べたかった。


 まずはそれだけでいい。


 朝食は柔らかな白パンと鶏肉の入った薄いスープ、温野菜。それから、小さな器に乳酪と蜂蜜が添えられていた。


 少年が器を覗き込む。


「赤くない」


「毎朝赤いジャムを期待するようになってないか?」


「期待一」


「数字にするなよ」


「これは遊び」


「記録しません」


 セリーが真顔で返す。


「しなくていい」


 少年が笑った。


 朝の光は卓の半分ほどまで届いていた。


 少年は最初こそ眩しそうに目を細めたものの、席を変えようとはしない。中庭では職員が雨水を箒で排水溝へ流しており、石畳を擦る音が窓越しにかすかに聞こえていた。


「水たまり、消してる」


「歩く場所だからな」


「全部?」


「端にまだ残ってる」


 俺が指すと、植え込みの近くに二つほど小さな水たまりが見えた。


 少年はパンを持ったまま少し身を乗り出す。


「ほんとだ」


「見に行きたい?」


 聞いたあと、少し早かったかと思った。


 だが少年は嫌そうな顔をせず、水たまりを見ながら考えた。


「今は見るだけでいい」


「分かった」


 それ以上は言わない。


 パンを食べ、スープを飲み、窓の外を眺める。


 そんな朝食が半分ほど進んだところで、エルの声が響いた。


『帰還管理所側から報告があります』


 少年の手が止まった。


『昨日依頼していた緊急事例の転帰について、候補となる外部記録が一件見つかりました。緊急性はありません』


 昨日、少年は自分の中にある迷いを言葉にしていた。


 助かっていてほしい。


 けれど助かっていたら、「代わりに決めてよかった」と思ってしまうかもしれない。


 助からなければ、「代わりに決めたことが間違いだった」と考えてしまうかもしれない。


 結果を知りたい気持ちと、結果だけで過去の選択を裁いてしまう怖さが、同時にあった。


「本人って分かった?」


『まだ確定ではありません』


「……じゃあ、今は聞かない」


『承知しました』


 エルの声が消える。


 少年はしばらくパンを持ったままだった。


「気になる」


「だろうな」


「すごくじゃないけど、気になる」


「ああ」


「でも食べる」


「それがいい」


 すぐ普段どおりに戻ったわけではない。


 何口かは食べる速度が遅くなり、スープの匙を持ったまま窓の外へ目を向ける時間もあった。


 それでも少年は、気になるものを消してから朝食へ戻ったのではない。


 気になるまま食べた。


 それで十分だった。


 朝食後に白い薬を飲み、少し休んでから、少年は廊下を歩きたいと言った。


 行き先は決めない。


 外扉まで行くとも言わない。


 三人で東廊下をゆっくり歩いた。


 朝の療養所には人の気配が増えている。洗濯物を抱えた職員、診察を終えて壁際の椅子で休む患者、薬草の入った籠を運ぶ治療担当。その向こうでは、武器を預けた近衛兵が重そうな薬箱を持ち上げ、年配の職員から「腰で持たないでください」と注意されていた。


 少年はそうした人々を以前より長く見るようになっていた。


 兵士の姿があるだけで足を止めることは減った。


 ただ、背後から急に靴音が近づいた時、肩がわずかに強張った。


 振り向く。


 そこにいたのは湯の入った小桶を運ぶ職員だった。


「あ、ごめんなさい。驚かせました?」


 職員がすぐに足を止める。


 少年は相手の顔を見てから、一度息を吐いた。


「……大丈夫」


「後ろから近づかない方がいいですか?」


「急じゃなければ平気」


「分かりました。次は少し声をかけますね」


 職員は無理に謝り続けることもなく、少年から少し距離を取って横を通った。


 その背中を見送りながら、少年が小さく呟く。


「今の、記録する?」


「必要だと思う?」


「しなくていい。でも次もびっくりするかもしれない」


「それでいいんじゃないか」


「兵士とか後ろの音が怖いの、治ってないってならない?」


 俺は少し考えた。


「後ろから急に人が来たら、俺でも振り向くぞ」


「アルは剣抜くかも」


「抜かない」


「昔なら?」


「……状況による」


「ほら」


 少年の口元が緩む。


「それは怖いんじゃなくて警戒?」


「怖さが混じることもある」


「じゃあ同じ?」


「全部同じではないだろうけど、驚いたり警戒したりすること自体をなくすのが治療ってわけでもないと思う」


「そっか」


 少年は納得したというより、とりあえず持っておくような顔で頷いた。


 それでいい。


 廊下の端まで歩き、窓辺の長椅子で休んだ。


 外扉へは向かわなかった。


 誰も「今日は外へ行かないのか」と聞かない。


 少年自身も気にしている様子はなく、窓から見える屋根の濡れ跡を眺めながら、水を少し飲んだ。


 部屋へ戻ったのは朝食から一時間ほど経ってからだった。


 少年は椅子へ座り、しばらく窓の外を眺める。


 それから、自分から言った。


「聞く」


「さっきの報告?」


「うん」


 セリーが体調だけ確認する。


 怖さは一。


 聞くことで上がるかもしれないことも、途中でやめられることも、少年はもう知っていた。


「分かってる。聞く」


 それで十分だった。


 エルを通して帰還管理所側と通信を繋ぐ。


 最初に聞こえたのはフェリクスの声だった。隣にはヨアヒムもいるらしい。


『候補記録について説明します。最初に一つだけ。この記録が昨日確認した緊急事例と同一人物である可能性は高いですが、まだ確定ではありません』


「何が合ってる?」


『時期、対象番号の末尾、年齢区分、症状、搬送日です。ただし名前が欠損しており、日付にも一日の幅があります』


 少年は膝の上で指を組んだ。


「じゃあ、同じかもしれない人」


『その扱いが適切です』


「それで?」


『旧王立療養補助所の搬送記録です。対象は未成年。高熱、意識低下、呼吸不安定。特殊処置設備へ搬送された後、三日間の集中管理を受けています』


 少年の指先へ少し力が入った。


 フェリクスは必要な部分だけを続ける。


『三日目に意識回復。四日目には自力で水を飲んだ記録があります』


「……助かった?」


『少なくとも、この記録の人物は生存しています』


 少年はすぐには答えなかった。


 閉じていた唇が少し開き、ゆっくり息を吐く。


「よかった」


 小さな声だった。


 その一言のあと、少年は目を伏せた。


 喜んでいいのか確かめるような間があった。


「よかったって思う」


『はい』


 ヨアヒムが静かに答えた。


 少年は少しだけ肩を緩める。


 けれど、そこで終わらなかった。


「内区に入れたから助かったって分かる?」


『分かりません』


 フェリクスが即答した。


『特殊処置設備で治療されたことは確認できます。ただ、その設備が帰還管理所の内区そのものなのか、内区を経由した別設備なのか、同じ施設群の別区画なのかは未確定です』


「治療は?」


『解熱、呼吸補助、魔力循環の安定化と思われます。意識回復後には軽い筋力低下と記憶の混乱が記録されていますが、処置が原因とは断定できません』


「高熱でもなる?」


『なります』


 ヨアヒムの声が続く。


『意識障害の前後にも起こり得ます。ですから、その記録だけで処置の副作用とは判断できません』


「うん」


 少年はそれ以上追わなかった。


 知りたいことと、まだ分からないことを無理に埋めなくなっている。


『七日目に一般療養区画へ移動しています。そして八日目に「緊急時代行内容説明」という記載があります』


 少年の顔が上がった。


「説明したの?」


『記録上はそうです。詳しい内容は別紙参照となっていますが、その別紙はまだ見つかっていません』


「本人は?」


 紙をめくる小さな音が通信越しに聞こえた。


『「本人、不満を表明。処置必要性について再説明。翌日再確認予定」』


 少年の眉が寄る。


「不満?」


『はい』


「助かったのに……」


 そこまで言ったところで、自分の言葉に引っかかったらしい。


 少年は口を閉じた。


 誰も先回りして訂正しない。


 しばらくして、少年は組んでいた指を解いた。


「違うか」


 小さく呟く。


「助かったから、不満言っちゃ駄目ってわけじゃない」


 俺は頷いた。


「何が嫌だったか残ってる?」


『翌日の記録にあります』


 フェリクスが読み上げる。


『緊急処置そのものへの異議なし。ただし、覚醒後の説明が遅かったこと、私物返却が翌日となったことへ不満あり』


 少年は何度か瞬きをした。


「処置じゃないんだ」


『少なくとも、その時点の本人はそう記録されています』


「説明遅かったのと、物返すの遅かったのが嫌」


『はい』


「私物って何?」


『木製の認証札一点、布袋、衣服』


 空気が変わった。


 三〇八号室少年がこちらを見る。


 俺も同じものを思い浮かべた。


 旧保養施設にいる名前の分からない子供。


 本人が「これは、ぼくの」「これは、しるし」と言い、誰にも渡したがらない小さな木片。


 だが似た言葉が出たというだけで、同じものにしてはいけない。


 少年の方が先に口を開いた。


「形は?」


『記載されていません』


「印は?」


『ありません』


「大きさも?」


『不明です』


 少年は一度息を吐いた。


「じゃあ、同じって決めない」


『その通りです』


「帰還管理所の本人保持物かも分かんない?」


『はい。木製の認証札という名称だけでは判断できません』


「じゃあ今は、木の札を持ってた人がいた。それだけ」


『そう扱います』


 通信越しのフェリクスの声にも、どこか安堵が混じった気がした。


 以前なら、彼は「似ていますね、試してみましょう」と身を乗り出していたかもしれない。


 今も興味が消えたわけではない。


 だが興味を、そのまま誰かの持ち物へ触れる理由にはしなくなった。


「その人、そのあとどうなった?」


『十二日目、本人希望により外区相当の療養区画へ移動。十四日目には家族、もしくは保護責任者と思われる人物と面会しています。二十一日目に施設退所。「本人希望確認済」とあります』


「どこへ帰ったの?」


『行き先は欠損しています』


「本人希望確認済って、本当に本人が決めた?」


 フェリクスは少し間を置いた。


『そこまでは保証できません。記録にはそう書かれていますが、どんな説明を受け、誰が確認し、拒否できる状態だったかは、この一行だけでは分かりません』


「そっか」


『それから、この人物が帰還管理所の緊急事例と同一人物だったとしても、この一件が後の一時代行制度を作る直接のきっかけになったとは断定できません』


「うん」


 少年は背もたれへ身体を預けた。


 顔には疲れが見え始めている。


 それでも、聞いたことを一度自分の中で並べているようだった。


「もし同じ人なら」


 しばらくして口を開く。


「助かったのはよかった」


「ああ」


「意識なくて、このままだと死ぬなら、誰かが代わりに決めないと駄目だったかもしれない」


「そうだな」


「でも起きたあと説明遅かったのは別。物返すの遅かったのも別」


「ああ」


「それで、この人が助かったから次の人も勝手に決めていい、にはならない」


「ならない」


 少年は少し眉を寄せた。


「一個ずつ別に考えるの、面倒」


「人間相手だからな」


「もっと簡単ならいいのに」


「簡単にすると、誰かが困るんだろうな」


 少年はそれを聞いて、少しだけ口を尖らせた。


「アル、たまに嫌なこと言う」


「俺も簡単な方が楽なんだけどな」


 ヨアヒムが通信の向こうで小さく笑ったあと、声を整えた。


『一つだけ、医療側から付け加えてもいいですか』


「うん」


『命に関わる場面では、本人の意思確認を待てないことがあります。ですが、その時に本人の意思そのものがなくなるわけではありません。話せない、答えられない、待てない。それだけです』


 少年が顔を上げる。


『ですから、本人が再び答えられるようになったなら、そこで説明をし、何をされたのかを伝え、今後どうするかを本人へ戻す。少なくとも私は、その方が自然だと思います』


「気絶してても、その人はいる?」


『もちろんです』


「答えられないだけ?」


『はい』


 少年はしばらく黙った。


 その言葉を胸の中で確かめているように、呼吸がゆっくりになる。


「それ、いい」


『ありがとうございます』


「規則に入れたら?」


『検討する価値はあります。ただ、私一人では決めません』


「あ」


 少年が少し笑った。


「そうだった。一人で決めない」


『はい』


 そこで通信を終えた。


 ガルムからは、追加調査は継続するが今日中に結論を出すつもりはない、という短い伝言だけが届いていた。


 内区扉も開けない。


 緊急事例の候補者が助かった可能性が見えたからといって、それを根拠に今の扉を開く理由にはしない。


 通信が切れると、部屋には窓から入る昼前の光と、遠くで誰かが食器を重ねる音だけが残った。


「怖さ二」


 少年が自分から言う。


「情報で疲れたのは三」


 セリーが記録板へ書き込む。


「休まれますか?」


「うん。寝るかも」


「構いません」


 少年は寝台へ移った。


 横になる前に、俺を見る。


「アル」


「何だ?」


「助かってよかったって思っていい?」


 さっきも口にしていた言葉だった。


 けれど今度は、確認というより、自分の中に置いていい場所を探しているように聞こえた。


「いいと思う」


「制度が正しかったって意味じゃなくて」


「ああ」


「その人が、生きてたかもしれないのがよかった」


「俺もそう思う」


 少年はゆっくり頷いた。


 それでようやく横になる。


 午前の残りは、何もしなかった。


 帰還管理所から追加情報が来ても、緊急でなければ午後以降へ回す。


 二通目の父王名義の手紙も読まない。


 赤い包み布にも触れない。


 幼いアルフォンスへ今日の話を伝えることもしない。


 少年は五十分ほど眠った。


 俺もその間ずっと部屋にいたわけではなく、セリーに追い出された。


「主様も休憩してください」


「俺は別に疲れてない」


「先ほど水分摂取が不足していました」


「それとこれ関係ある?」


「あります」


「何でも水に繋げるな」


「では水を飲んでから仰ってください」


 結局、俺は食堂横の休憩室まで連れていかれた。


 水差しから一杯飲み、ついでに厨房の女性から焼きたての小さなパンまで渡される。


「アルさん、最近細くなってません?」


「なってないと思うけど」


「セリーさん」


「体重変動は許容範囲内ですが、食事時間がずれることがあります」


「ほら」


「何が『ほら』なんだ」


 厨房の女性は笑いながら仕事へ戻っていった。


 俺はパンを一口かじり、隣のセリーを見る。


「最近、味方増やしてないか?」


「主様の健康を心配してくださる方が増えただけです」


「それを味方って言うんだよ」


「では、ありがたいことですね」


 返す言葉がなくなった。


 塔にいた頃は、俺とセリーとエルだけで済んでいた。


 今は違う。


 町の人間がいる。


 療養所の職員がいる。


 近衛がいる。


 患者がいる。


 俺が誰かを助けようとして動き回れば、その俺を止める人間まで増えた。


 不思議な話だ。


 王太子だった頃は、大勢の人間に囲まれていたのに、誰かに「水を飲め」と言われた記憶などほとんどない。


 今の方がよほど面倒で。


 今の方が、悪くなかった。


 三〇八号室へ戻ると、少年はちょうど目を覚ましたところだった。


「寝た」


「見れば分かる」


「どのくらい?」


「五十分ほどです」


 セリーが答える。


「長い?」


「問題になる長さではありません」


「薬減らしたせいかな」


「可能性はあります。ただ、午前中に負荷の高い情報を聞いた影響も考えられます。今の段階では分けられません」


 少年は寝台へ座り、自分の身体を確かめた。


 頭痛なし。


 吐き気なし。


 身体の重さ一。


 眠気もほとんど残っていない。


「じゃあ、明日も今の量?」


「それは明朝に決めましょう」


「今は同じがいい」


「その希望は記録します」


 少年が頷く。


 昼食は部屋ではなく、廊下の卓を選んだ。


 朝とは違う場所だ。


 昼時なので周囲には人が多く、患者二人と職員三人、それに少し離れた場所で武器を外した近衛が食事を取っていた。


 少年は席へ着く前に一度だけ周囲を見渡す。


 それでも「部屋に戻る」とは言わなかった。


 今日の昼食は肉と野菜の煮込み、パン、それに薄めた果汁だった。


 食べ始めてしばらくすると、斜め向かいの卓に座っていた年配の患者が、皿を覗き込んで職員へ手を上げた。


「これ、肉多いな」


「減らします?」


「いや、肉は食う。芋減らしてくれ」


「肉は食べるんですか?」


「肉は別だ」


 職員が呆れたように笑い、芋を少し別皿へ移す。


 三〇八号室少年が小声で呟いた。


「肉は食うんだ」


「聞こえてるぞ」


 年配の患者がこちらを向く。


 少年の肩が一瞬固くなった。


 けれど相手は気にした様子もなく、煮込みの肉を匙で持ち上げる。


「年取るとな、食える時に肉食っとかないと損した気になるんだ」


「そうなの?」


「俺はな。お前は好きなもん食え」


「でも薬あると、食べる量決まる時ある」


「じゃあ必要な分食って、残りは好きにしろ」


「簡単に言う」


「難しく言っても腹は膨れん」


 横にいた職員が肩を落とす。


「昨日、必要量よりパンを二枚多く食べて、夜に胃が重いって言った人が何か言ってますね」


 年配の患者の匙が止まった。


「……あれはパンがうまかった」


「理由になってません」


「肉なら平気だった」


「もっと駄目です」


 近くにいた患者まで吹き出した。


 三〇八号室少年も口元を押さえている。


「怒られてる」


「お前も食い過ぎるなよ」


「俺じゃない」


「若いから食える」


「そういう話じゃないって言われてるよ」


 今度は少年がはっきり笑った。


 午前に聞いた重い話がなくなったわけではない。


 命を救われた人。


 代わりに決められた処置。


 遅れた説明。


 返されなかった私物。


 それらは少年の中に残っている。


 それでも同じ日に、肉と芋の話をして笑うことはできる。


 重いことを考えた日は、最後まで重い顔をしていなければならないわけではない。


 昼食後、少年は少し廊下を歩いた。


 行き先を聞かずについていくと、やがて外扉へ続く廊下へ入った。


 今日は朝から晴れていたため、扉は大きく開けられている。


 屋根付きの石廊の向こうには、まだ湿り気を残した中庭が見える。


 少年は扉の少し手前で止まった。


「外、暖かそう」


「朝より暖かいな」


「行く」


 今日はその言葉が出るまで早かった。


 だからといって、前より慣れた、進歩したと決める必要はない。


 少年は自分の足で扉まで歩く。


 敷居の前で一度止まり、外から流れ込む空気を吸った。


「寒くない」


「上着はどうしますか?」


 セリーが聞く。


「いらない」


「短時間であれば問題ありません」


 少年は敷居を越えた。


 屋根付きの石廊へ出る。


 前に来た時と同じ辺りで一度立ち止まったが、今日はそこからさらに中庭へ目を向けた。


 朝には二つあった水たまりが、一つだけ残っている。


「あった」


「残ってたな」


「遠い?」


「十歩ちょっとじゃないか?」


 少年が自分の足元を見る。


「行くか聞かないで」


「分かった」


 俺もセリーも動かない。


 反対側では、職員が一人、洗った布を籠に入れて運んでいた。


 少年に気づくと一瞬だけ足を緩めたが、声をかける代わりに軽く頭を下げ、そのまま通り過ぎていく。


 少年も小さく会釈を返した。


 少しして、一歩進んだ。


 もう一歩。


 屋根の端まで行く。


 そこで止まる。


 顔を上げた。


 頭上に屋根はない。


 青い空がそのまま見えている。


「ここから雨降ったら濡れる」


「そうだな」


「今日、降る?」


「今のところ降りそうには見えないけど、絶対とは言えない」


「急に降ったら?」


「戻ればいい」


「途中でも?」


「もちろん」


 少年は俺を見る。


 ほんの少しだけ確かめるような目だった。


 それから片足を屋根の外へ出した。


 陽光が靴の先へ落ちる。


 もう片方も続く。


 少年は初めて、屋根のない場所へ自分から立った。


 俺は何も言わなかった。


 セリーも褒めなかった。


 少年自身が、今の一歩をどう感じるかまだ分からないからだ。


 壁沿いをゆっくり進む。


 五歩ほど行ったところで、一度止まった。


「怖さ二」


「戻りますか?」


 セリーが尋ねる。


「まだいい」


 それだけ確認して、また歩く。


 水たまりまで三歩ほどの場所で、少年は完全に足を止めた。


 水面には青空と白い雲、それに療養所の壁の一部が映っている。


「近い」


「ああ」


「ミナ、踏むと跳ねるって言ってた」


「勢いよく踏めばな」


 少年が自分の靴を見る。


「これ、濡れていい?」


「多少であれば問題ありません」


「服に跳ねたら?」


「洗えます」


「怒らない?」


「汚れたこと自体では怒りません」


 セリーが答える。


「ただし、わざと私へ泥水をかけた場合は別です」


 少年が顔を上げた。


「かけたら怒る?」


「怒ります」


「アルなら?」


「やらないよ」


「今ちょっと考えた」


「考えてない」


 少年の口元に小さな笑みが浮かぶ。


 それでも足は動かない。


 右足をほんの少し前へ出しかけて、戻す。


 水たまりを見つめる時間が続いた。


 誰も待ちくたびれた顔をしない。


 踏んでもいい。


 踏まなくてもいい。


 ここまで来たからといって、最後の三歩を進む義務はない。


「今日は踏まない」


 少年が言った。


「分かった」


 俺はそれだけ答えた。


 セリーも頷く。


 少年は水たまりの手前にしばらく立っていた。


 踏まないと決めたのだから、すぐ帰らなければならないわけでもない。


 水面に映る雲を眺め、少しだけ風を受ける。


 やがて自分から身体の向きを変えた。


「戻る」


「うん」


 来た道をそのまま戻った。


 屋根の下へ入り、外扉の敷居を越える。


 建物の中へ戻ったところで、少年が振り返った。


「今日は前より遠く行った」


「ああ」


「でも水たまり踏まなかった」


「ああ」


「アル、嬉しい?」


 少し答えに迷った。


「お前は?」


「……二」


「じゃあ、俺も二くらい」


「合わせた」


「駄目か?」


「別に」


 少年は少し笑った。


「俺、ちょっと嬉しい。でも踏まなかったのも嫌じゃない」


「なら、それでいいんじゃないか」


「次は踏むか分かんない」


「次に決めればいい」


「うん」


 部屋へ戻ったあと、セリーが外出時の事実を記録した。


 屋根のない場所まで本人希望で移動。


 最大怖さ二。


 緊張二。


 疲れ一。


 水たまりの手前で本人が停止。


 踏まないと選択。


 本人希望で帰室。


「前回より進歩、とか書かない?」


「書きません」


「外出成功は?」


「それも書きません」


「距離は?」


「事実として残します」


「それがいい」


 少年は水を飲み、椅子へ座った。


 しばらくして、自分から言う。


「今日はもう報告聞かない」


「分かった」


「手紙も読まない。地下の話も、急ぎじゃなければ明日でいい」


「幼いアルフォンスは?」


 少年は少し考えた。


「会いたいって来たら、その時考える。でも俺からは今日はいい」


「分かった」


 情報を受け取れるから受け取る。


 調べられるから調べる。


 会えるから会う。


 以前の少年にとって、そうした「できる」は、そのまま「しなければならない」に繋がりやすかった。


 今は違う。


 今日はここまで。


 それを自分で決められる。


 夕方、旧保養施設から一件だけ連絡が入った。


『緊急ではありません。名前不明の子供について、生活上の報告です』


 三〇八号室少年が少し考える。


「地下の調査?」


『違います』


「じゃあ聞く」


『本日、本人が木片を枕元ではなく衣服のポケットへ入れ、そのまま食堂区画まで移動しました。職員は木片へ触れていません』


「自分で持って?」


『はい』


「落とさなかった?」


『確認しています』


 少年の表情が少し緩む。


『帰室途中、暖房設備室側の廊下へ一度視線を向けましたが、立ち止まり、呼吸変化、明確な表情変化はいずれも確認されていません』


「何か言った?」


『いいえ』


「じゃあ、見ただけ」


『現時点ではそのように扱います』


「うん」


 通信はそこで終わった。


 地下の扉は開かない。


 用途不明室にも入らない。


 新しい謎めいた言葉も増えなかった。


 ただ、あの子供は自分の木片を自分のポケットへ入れ、それを持ったまま食堂へ行った。


 ほんの小さな出来事だ。


 けれど、本人の持ち物を本人が持ち、自分の足で別の場所へ移動し、また戻ってくる。


 今はそれでよかった。


 夕食は三〇八号室で取った。


 外へ出た分だけ少し疲れたのか、少年は廊下の卓ではなく部屋を選んだ。


 食事中、帰還管理所の話はしない。


 代わりに昼の年配患者の話になった。


「肉だけ食べたいって、セリーなら怒る?」


「長期間栄養が偏るのであれば調整を提案します」


「一回なら?」


「その日の他の食事内容によります」


「厳しい」


「合理的です」


 少年が俺を見る。


「アルなら肉だけ食べる?」


「食べたい日はある」


「主様は野菜も召し上がってください」


「俺に来るのか」


「当然です」


 少年が吹き出した。


「アル、患者じゃないのに管理されてる」


「昔からだよ」


「主様の健康管理は私の重要な役目ですので」


「役目だから?」


 少年の何気ない質問に、セリーがわずかに止まった。


 俺も匙を持ったまま彼女を見る。


「はい。ただし、それだけではありません」


「それだけじゃない?」


「私自身が、そうしたいと思っている部分もあります」


 今度は俺の方が止まった。


「……そうなのか」


 セリーがこちらを見る。


「今さら何を驚いているのですか?」


「いや。役目だからって部分が大きいのかと」


「役目だけであれば、主様が食事を抜こうとされた時に、あれほど腹立たしく感じる必要はありません」


 三〇八号室少年が目を丸くする。


「セリー、怒ってるんだ」


「はい」


「アルに?」


「頻繁に」


「頻繁ではないだろ」


「自覚がありませんね」


「アル、弱い」


「何がだよ」


「セリーに」


「お前までそっち側に行くな」


 少年は楽しそうに笑った。


 その横で、セリーは何事もなかったように野菜の皿を俺の方へ寄せる。


「主様」


「分かった。食べる」


「まだ何も言っていません」


「言う前に分かった」


「結構です」


「負けた」


 少年がまた笑う。


「勝ち負けじゃない」


 ここ数日、帰還管理所の記録や旧保養施設地下、薬、父王名義の手紙と、重いものばかり扱ってきた。


 だからなのか。


 こうして野菜を食べるかどうかで笑われる時間が、妙に大事に思えた。


 夜の体調確認でも、大きな変化はなかった。


 頭痛なし。


 吐き気なし。


 身体の重さ一。


 怖さ一。


 外へ歩いたあとの足の痛みもない。


 白い薬を小幅に減らして二日目だが、現時点で明確な悪化は確認されていない。


「明日も同じ量にする?」


 セリーが聞く。


 少年は少し考えてから首を傾げた。


「今は同じがいい。でも明日の朝決める」


「承知しました」


 それで今日の薬についての話も終わった。


 二通目の父王名義の手紙は読まない。


 赤い包み布にも触れない。


 帰還管理所の追加資料も明日以降。


 少年は寝台へ入り、布団を胸元まで引き上げた。


 灯りを落とし、俺が椅子から立とうとしたところで声をかけられる。


「アル」


「何だ?」


「今日の人」


「緊急事例の候補?」


「うん」


 少年は天井を見ていた。


「もし本当に同じ人だったら、助かってた」


「ああ」


「俺、嬉しかった」


「うん」


「でも最初、ちょっとだけ思った。じゃあ、代わりに決めてよかったんだって」


 昼間には言わなかった部分だった。


 俺は座り直す。


「それから?」


「その人、起きたあと怒ってた」


「説明と私物のことにな」


「うん。それ見て、変じゃないって思った」


「何が?」


「助けてもらったのに怒ること」


 少年は布団の上で指を組む。


「前なら、恩知らずって思ったかもしれない。助けてもらったなら言うこと聞かなきゃって」


 その考え方は、少年自身の中から自然に生まれたものではないのだろう。


 治療してもらっている。


 帰すためにしている。


 だから従う。


 だから疑わない。


 だから不満を言わない。


 積み重なれば、感謝は簡単に鎖へ変わる。


「今は?」


「助けたことと、嫌なことしたのは別」


「ああ」


「助けた人が良い人でも、全部良いことするわけじゃない」


「そうだな」


「悪いことした人も、全部悪い?」


「それは、その人が何をしたかにもよる。でも、一つの行動だけで全部を説明できないことはある」


「グレゴルみたいに?」


 意外な名前だった。


「妹を助けたかった。でもやったことは消えない」


「ああ」


「妹は悪くない」


「ああ」


「町の人が許すかは別」


「そうだ」


 少年は小さく息を吐く。


「全部分けるの大変」


「そうだな」


「一個にした方が楽」


「本物とか偽物とか?」


 俺が聞くと、少年の指が止まった。


 しばらく答えない。


 やがて小さく頷く。


「……うん」


 以前ほど強く、自分こそ本物のアルフォンスで、俺は偽物だと言わなくなった。


 だが、言わなくなったことと、不安が消えたことは同じではない。


「俺も?」


 少年が尋ねる。


「何が?」


「一個の言葉で決めない?」


「決めたくないな」


「本物じゃないって意味?」


「違う」


「じゃあ何?」


 俺はすぐ答えなかった。


 ここで綺麗な言葉を探しすぎれば、かえって嘘になる。


「お前が誰なのか、まだ分からないことが多い」


 少年は黙って聞いている。


「でも、お前が今日どこまで歩いたかは分かる。水たまりを踏まないって決めたことも、赤いジャムが好きなことも、ミナと話したことも、薬をどうしたいか自分で考えたことも知ってる」


「それで足りる?」


「今はな」


「あとで、本物じゃないって分かったら?」


 少年の声が少し細くなる。


「今日、水たまりの前まで歩いたことが消えるのか?」


「消えない」


「赤いジャムが好きなのは?」


「消えない」


「ミナと話したことは?」


「消えない」


「俺と話してることは?」


 少年は少しだけ視線を逸らした。


「……消えない」


「だったら、後から見つかった一個の答えに、今までの全部を食わせなくていいだろ」


 部屋に沈黙が落ちた。


 少年は布団の縁を指でゆっくり撫でている。


「怖さ、一上がった」


「二?」


「うん」


「今日はここまでにする?」


「もうちょっとだけ」


「分かった」


 少年は少し迷ってから口を開いた。


「もし父上の手紙が偽物だったら」


「ああ」


「父上が書いてなかったら、俺が読んで怖かったのも偽物?」


「ならない」


 少年の目がこちらを向く。


「本物の手紙じゃなくても?」


「ああ」


「何で?」


「お前が怖かったことは本当だから」


 喉が小さく動く。


「騙されてたら?」


「騙された人の気持ちまで偽物になるわけじゃない」


「……そっか」


「それに、まだ手紙が偽物だとも決まってない。父上が全部書いたとも決まってない」


「うん」


「分かってるところと、分からないところを今は分けて持つしかない」


「また分ける」


「今日はそればっかりだな」


「面倒」


「同感」


 少年が少しだけ笑った。


「もう終わり」


「ああ」


 俺は立ち上がる。


「お休み、アルフォンス」


「お休み、アル」


 扉へ向かう。


 背後で布団の擦れる音がした。


「アル」


「何だ?」


「明日、水たまりなくなってたら」


「うん」


「ちょっと残念かも」


「そうか」


「でも今日踏まなかったの、後悔してない」


 俺は扉の前で振り返った。


 少年はもう横になっている。


 昼間、水たまりの前まで行った。


 踏める距離だった。


 靴が濡れてもいいと確認した。


 服が汚れても洗えると知った。


 それでも踏まなかった。


「なら、今日はそれでいいんじゃないか」


「うん」


「また雨が降れば、水たまりもできるかもしれない」


「その時、踏みたいか分かんない」


「そうだった」


 少年の口元が少し緩む。


「お休み」


「お休み」


 部屋を出る。


 少しして、内側から鍵が掛かった。


 夜の廊下には昼間の賑やかさがない。


 夜勤の職員が記録板を抱えて静かに歩き、少し離れたところでは近衛兵が武器を壁際の保管具へ預けて交代している。


 俺とセリーは並んで歩いた。


「セリー」


「はい」


「さっきの」


「どれでしょう」


「役目だけじゃなくて、したいから俺の健康管理してるってやつ」


「はい」


「……いつから?」


 セリーがこちらを見る。


「主様は今、それを確認する必要がありますか?」


「いや、別に必要ではないけど」


「では、今日はお休みください」


「逃げた?」


「主様が一日に受け取る情報量を増やさないための配慮です」


「俺も患者扱いされてないか?」


「されたいのですか?」


「遠慮する」


 セリーはほんの少しだけ笑ったように見えた。


 気のせいかもしれない。


 それ以上は聞かなかった。


 帰還管理所では今日も内区の扉を開けていない。


 旧保養施設の地下にある用途不明室も閉じたままだ。


 冷却術式を止めてもいない。


 父王名義の二通目の手紙も途中のまま。


 赤い包み布も調べていない。


 名前の分からない子供の木片と、今日記録に出てきた木製認証札が同じものなのかも分からない。


 緊急事例と外部記録の人物が同一かさえ、まだ確定していない。


 大きな謎は、ほとんど残ったままだ。


 けれど、今日見つかった記録の中には、一人の人間がいた。


 高熱で意識を失い、呼吸が不安定になり、自分で答えられなかった未成年。


 誰かが、その人の代わりに救命のための判断をした。


 その人は生き残った可能性が高い。


 目を覚ましたあと、処置そのものには異議を示さなかった。


 けれど説明が遅かったことには不満を言った。


 自分の持ち物をすぐ返してもらえなかったことにも不満を言った。


 そして誰かが、その不満を記録に残した。


 恩知らずとは書かなかった。


 治療への抵抗とも書かなかった。


 症状とも書かなかった。


 少なくとも残された記録の上では、その人は「助けられた対象」のままで終わらず、目を覚ましたあとに自分の言葉を持つ人間へ戻っていた。


 救命が必要な瞬間に待てないことはある。


 返事がない。


 意識がない。


 今すぐ動かなければ死ぬ。


 そんな時に、誰かが代わりに決めなければならないことは確かにあるのだろう。


 けれど、その瞬間に本人の意思そのものが消えるわけではない。


 聞けなかっただけだ。


 なら、聞けるようになった時には返さなければならない。


 何をしたのかを説明すること。


 本人の持ち物を返すこと。


 これからどうしたいかを尋ねること。


 不満を言う余地を残すこと。


 助けた側にとって都合の悪い答えだったとしても、その言葉を勝手に病気へ変えないこと。


 たぶん、最初はそうだった。


 少なくとも、そうしようとした誰かがいた。


 それがいつの間にか、「緊急時にだけ代わりに決める」から、「本人が決められないと判断したら代わりに決める」へ変わり、さらに「拒否するなら判断能力に問題がある」へ変わっていったのだとしたら。


 変わった場所を、一つずつ見つけなければならない。


 善意から始まったのかもしれない。


 誰かを救った成功例があったのかもしれない。


 だからこそ厄介だ。


 悪意だけで作られた仕組みなら、壊すのはもっと簡単だっただろう。


 けれど誰かを助けた仕組みが、その成功を理由に範囲を広げていったのなら、必要なのは「全部間違いだった」と切り捨てることではない。


 何を残すのか。


 何を止めるのか。


 どこから先を、本人へ返すのか。


 それを分けて考える必要がある。


 昼間、三〇八号室の少年は水たまりの三歩手前まで行った。


 踏もうと思えば踏めた。


 靴が濡れてもいいと知っていた。


 服が汚れても洗えると知っていた。


 俺たちが怒らないことも確認した。


 それでも、踏まなかった。


 だから失敗だったわけではない。


 逆に、屋根のない場所まで歩いたから成功だったわけでもない。


 今日の少年が、自分でそこまで行った。


 水面を見た。


 そこで止まった。


 踏まないと決めた。


 帰ると決めた。


 それが今日あったことの全部で、それ以上の意味を俺たちが勝手に足す必要はない。


 明日の朝には、最後の水たまりも乾いているかもしれない。


 少年は少し残念に思うかもしれない。


 あるいは、起きた時にはもう気にしていないかもしれない。


 次に雨が降った時、今度こそ踏むかもしれない。


 また見るだけかもしれない。


 水たまりなど見向きもせず、別の場所へ行きたくなるかもしれない。


 それでいい。


 昨日の選択は、今日の命令ではない。


 今日できたことも、明日の課題ではない。


 そして今日しなかったことも、次に必ず克服しなければならない失敗ではない。


 俺は隣を歩くセリーを見る。


 彼女は前を向いていた。


 役目だからではなく、自分がそうしたい部分もある。


 さっきの言葉が、まだ少し胸に残っている。


 聞けば答えてくれるかもしれない。


 聞かなくても、いつか分かるかもしれない。


 今夜すぐ答えを出さなければならない話でもない。


「主様」


「何だ?」


「戻られましたら、もう一杯お水を」


「……まだ飲むの?」


「百二十ミリリットルで十分だとお考えですか?」


「せっかくちょっといいこと考えてたのに」


「健康と良いことを考える行為は両立します」


「はいはい」


「返事は一度で結構です」


 思わず笑った。


 結局、塔へ戻ったあと、俺はセリーに見張られながら水を一杯飲むことになった。


 明日になれば、また新しい記録が見つかるかもしれない。


 何も見つからないかもしれない。


 少年が外へ行きたいと言うかもしれないし、部屋で一日過ごしたいと言うかもしれない。


 薬を同じ量にしたいと言うかもしれない。


 少し戻したいと言うかもしれない。


 それを、今日の結果から決めておく必要はない。


 助かったという結果だけで、その時のすべての選択を正しかったことにはできない。


 けれど同じように、間違いがあったからといって、助かった命まで否定する必要もない。


 明日は明日の本人に聞く。


 聞けない時には、守るために必要なことだけをする。


 そして再び聞けるようになったなら、できるだけ早くその人へ返す。


 説明も。


 持ち物も。


 怒る権利も。


 迷う時間も。


 自分で決める場所も。


 その当たり前を失わないために、俺たちはまだ、閉じた扉の前で立ち止まっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。