第55話 残されていた日付は、仕組みが変わる前にも誰かが迷っていたことを示していました
朝の雨は止んでいた。
白鴉療養所の窓にはまだ細かな水滴が残っていたが、雲の切れ間から淡い光が差し始めている。中庭の水たまりも昨日より浅くなり、石畳の一部にはもう乾いた色が戻っていた。
三〇八号室の少年は、今日は最初から窓の外を見ていた。
俺が扉を二度叩き、内側から鍵が外れるまでのわずかな間にも、その視線はずっと外へ向いていたらしい。
「おはよう」
「おはよう」
少年は窓辺の椅子から振り返る。
昨日、屋根付きの石廊まで自分で出た。
そのことをどう思っているのか。
俺はあえて聞かなかった。
先にセリーがいつもの体調確認を始める。
頭痛なし。
吐き気なし。
胸の違和感なし。
身体の重さ一。
怖さ一。
夜間覚醒なし。
夢は覚えていない。
「足は?」
「平気」
「昨日の歩行量による痛みもありませんか?」
「ない」
セリーが記録を進める。
「白い薬について、今日はどうされますか?」
少年は少し考えた。
昨日までと同じ量を数日維持している。
体調も安定している。
情報負荷はあったが、睡眠や食欲への大きな影響はない。
「少し減らす?」
自分からそう言った。
俺は口を挟まず、セリーを見る。
「ご本人の希望として受け取ります。減量幅は前回より小さくしますか?」
「うん。ちょっとだけ」
「八分の一にはまだ近づけません」
「分かってる」
「本日は前回維持量から、ごく小幅の減量。青と紫は引き続き中止。体調変化があれば明日戻すことも含めて再評価します」
「うん」
少年は少し安心したように息を吐く。
「今日は帰還管理所の話聞くから、減らさない方がいいかなとも思った」
「それでも減らしたいと思った?」
「うん」
「理由は?」
セリーの聞き方は静かだった。
答えを求めるというより、本人が自分の気持ちを確かめるための間を作る。
「ずっと同じだと、減らせるのに減らしてない感じがする」
「焦っていますか?」
「ちょっとだけ」
少年は正直に言った。
「でも一気には嫌」
「承知しました。その二つを両方記録します」
「焦りも?」
「はい」
「悪いことみたいにならない?」
「なりません。『本人より、小幅減量希望あり。継続量への停滞感を少し自覚。一方、一気の減量は望まず』とします」
少年は少し考える。
「それならいい」
白い薬は、ごく小さくだけ減らすことになった。
減らすこと自体が成功ではない。
維持することも失敗ではない。
必要なら明日戻していい。
その前提を本人も分かっている。
「昨日の外」
体調確認が終わったあと、少年が自分から言った。
「今日も行く?」
俺は聞いた。
「まだ分かんない」
「昨日出たから、今日も行かなきゃって感じる?」
少年は少し考えた。
「少しだけ」
「誰かに言われた?」
「言われてない」
「じゃあ自分で?」
「昨日できたから」
「できたことを続けなきゃ、って?」
「うん」
それを聞いて、俺は昨日の記録文を思い出す。
外出成功。
そう書かなかった。
本人がその日、屋根付き石廊まで移動を希望し、自分で終了を選んだ。
成功も失敗もつけない。
それでも本人の中には「昨日できた」が残る。
「今日行かなくても、昨日のことは消えないぞ」
「分かってる」
「でも気になる?」
「ちょっと」
少年は窓の外を見る。
「朝飯食べてから決める」
「それでいい」
朝食はいつもの廊下の休憩卓だった。
今日は赤いジャムはない。
柔らかい白パンに、豆と根菜のスープ、薄切りの肉、煮た林檎。
少年は皿を見て、少しだけ肩を落とす。
「今日はない」
「毎日ではありません」
セリーが答える。
「知ってる」
「残念ですか?」
「一」
「そこも数字?」
「今決めた」
「便利だな」
俺が言うと、少年が少し笑う。
「アル、昨日の外の嬉しさ何?」
「数字にするのか」
「するなら」
「二くらい」
「少ない」
「大騒ぎしたらお前嫌がるだろ」
「それは嫌」
「じゃあ二でいい」
「本当は?」
「三」
「上がった」
「面倒だな、この会話」
少年が笑いながらパンをちぎる。
しばらくは普通の朝食だった。
食べる。
飲む。
窓の外を見る。
その途中で、エルから短い連絡が入る。
『昨日保留した帰還管理所側の補足報告があります。緊急性なし。内区扉未開放、接続層への操作なし、生体対象未使用です』
少年が匙を止める。
「年代のやつ?」
『はい。加えて、原型から第一追加層へ移る前後の記録に、一件の不一致があります』
「不一致?」
『詳細は食後に説明できます』
「じゃああと」
『承知しました』
通信が切れる。
少年がスープを一口飲む。
「不一致って嫌な言葉」
「いい意味かもしれないぞ」
「いい意味の不一致ある?」
「記録ミスが見つかったとか」
「それも良くはない」
「確かに」
「食べる」
「そうしろ」
前なら、そのまま俺が「不一致だけ聞こう」と言っていたかもしれない。
今日は誰も続きを求めない。
食事は最後まで終わった。
ごく小さく減らした白い薬を飲む。
青と紫はない。
体調にすぐ変化はない。
三〇八号室へ戻る。
少年は椅子へ座ったあと、窓の外を一度見た。
「今聞く」
エルが通信を繋ぐ。
向こうにはガルム、フェリクス、そして記録担当の近衛がいた。
『昨日の補足から話す』
ガルムが言う。
『原型の本人確認方式から、生命維持目的と思われる一時代行層が加わるまでの期間を、以前より狭められた』
「どのくらい?」
『約二年の範囲だ』
「二年」
『ただし、その二年間のどこかまではまだ絞れていない』
「うん」
フェリクスが続ける。
『原型時期の資料では、本人応答不能時の扱いは「外区保護継続」が基本です。ところが二年後の資料には、昨日話した「生命維持」「一時代行」「回復後再確認」に相当する語が現れる』
「何があった?」
『そこが今日の不一致です』
少年が少し身体を起こす。
『その二年間の間に、一件だけ、通常の原型手順から外れた記録がありました』
「代行した?」
『おそらく』
「おそらく?」
『本人意思欄が空白のまま、内区側の身体処置準備記録が進んでいる』
少年の表情が固くなる。
「帰った?」
『分からない』
「内区入った?」
『それも確定できない』
「じゃあ何で代行」
『処置準備まで進んだ理由欄に、「意識低下」「高熱」「呼吸不安定」という記録があります』
少年が少し黙る。
「死にそうだった?」
「可能性はあるな」
俺が言う。
『同意する』
ガルムの声が続く。
『医療側の記録では状態はかなり悪い。外区で治療を続けるより、内区設備を使うべきだという判断が出たらしい』
「本人に聞けなかった」
『意識低下とあるからな』
「それで内区準備した」
『そこまでは記録にある』
「助かった?」
『転帰が残っていない』
少年の眉間に皺が寄る。
「そこ大事なのに」
『大事だ』
ガルムの声も少し低い。
「名前は?」
『個人名は欠損。対象番号だけ残っている』
「その人の後で、一時代行が規則になった?」
『年代上は、その可能性がある』
「一回の緊急で?」
少年の言葉が少し速くなる。
『まだ因果関係は確定できない』
ガルムがすぐ止める。
『ただ、順番としては、緊急時の例外的な進行らしき記録が先。その後、一時代行の規則化が確認される』
三〇八号室少年はそこで黙った。
昨日話した内容と、少し違う重みがある。
制度が変わった。
それだけなら抽象的だ。
けれど、その前に本当に死にそうな誰かがいたかもしれない。
目の前で呼吸が不安定になり、本人へ聞くこともできず、設備を使うために待てなかった。
もしそうなら。
最初の例外は、誰かを助けたかっただけなのかもしれない。
「助けたかったのかな」
少年が小さく言った。
「かもしれない」
「悪いことしようとしたんじゃない?」
「その記録だけなら、そうは見えない」
「でもそれが後で広がった」
「ああ」
フェリクスが口を挟む。
『もう一点あります』
「何」
『その緊急記録の余白に、後世の追記ではないと思われる短い文章があります』
「読める?」
『かなり薄いですが、三つだけ』
「何て」
『「今回は例外」「本人回復後説明」「恒常化不可」』
三〇八号室少年の顔が止まった。
俺も息を止める。
「恒常化不可」
少年が繰り返す。
『はい』
「ずっと使うなって?」
『文脈上は、その可能性が高い』
「誰が書いた?」
『署名なし』
「筆跡は?」
『同じ記録を書いた医療担当者とは違う』
「じゃあ誰」
『分かりません』
ガルムが淡々と答える。
『管理担当者、監督者、別の医療職。候補はいくつかある』
「でも誰かが、これは例外って書いた」
『そうだ』
「あとから規則になった」
『そう見える』
少年が口を閉じる。
しばらく誰も喋らなかった。
外では、雲の切れ間から入った光が少し強くなり、窓辺の床を明るくしていた。
「その言葉、消されてない」
少年が言う。
『残っています』
「何で」
『分からない』
「後で見た人、気づかなかった?」
『可能性はある』
「気づいても無視した?」
『それもある』
「残したかった人がいた?」
『それも否定できない』
三〇八号室少年は少し考える。
「じゃあ、今は残ってたってだけ」
『そうだ』
「消さないで」
『もちろんだ』
ガルムはそれ以上意味を乗せなかった。
少年も、誰かが最後まで抵抗した証拠だとは言わない。
ただ。
少なくとも一度。
誰かが書いた。
今回は例外。
本人回復後説明。
恒常化不可。
「その人、分かってたんだ」
少年がぽつりと言う。
「何を?」
俺が聞く。
「例外が普通になるの、怖いって」
「そうかもしれない」
「でも止められなかった」
「止めようとしたかどうかも分からない」
「うん」
少し残念そうにしながら、それでも頷く。
「勝手に良い人にしない」
「そうだな」
ガルムが話を進める。
『昨日の三段階整理に、この緊急記録を加える。現時点の流れはこうだ』
三〇八号室少年は聞く姿勢を取る。
『原型では、本人意思確認が必要だった。次に、規則外の緊急例らしき事例が発生。その後、生命維持目的の一時代行が規定化される。さらに後年、治療継続困難や判断能力低下の疑いへ範囲が広がり、最終的には管理者判断代行へ近づく』
「一気じゃない」
『ああ』
「最初の一回、悪いとは言いにくい」
『そうだな』
「だから広がった時も止めにくかったかも」
「前に助かった実績があったなら、なおさらな」
俺が言う。
少年がこちらを見る。
「助かったか分かんない」
「ああ。そこは分からない」
「でも助けようとした例として使われたかもしれない?」
『可能性はある』
フェリクスが答える。
『制度変更理由の資料が見つからないため、断定できません。ただし、前例があったこと自体は後の規則化へ影響した可能性があります』
「前例」
少年の表情が少し曇る。
「一回やると、次もやりやすくなる?」
「なることはある」
「良かったか悪かったか分からなくても?」
「人は、以前やったことを理由にしやすいからな」
「怖い」
「ああ」
少年は少し黙ったあと、ゆっくり息を吐いた。
「今作る救命の例外も、同じになるかも」
『だから記録と見直しが必要になる』
ガルムが答える。
「期限」
『必要だ』
「回復したら本人に説明」
『必要だ』
「一人で決めない」
『必要だ』
少年が一瞬だけ笑う。
「全部必要」
『そういうことだ』
「面倒」
『それも必要だ』
ガルムの返しに、少年が少し笑った。
重かった空気がわずかに緩む。
「今日、内区は?」
『開けない』
「何する?」
『追加年代の照合と、その緊急事例の転帰を探す。外部記録に残っている可能性がある』
「王宮?」
『王宮だけではない。医療記録、搬送記録、別施設記録も見る』
「俺ら行く必要ある?」
『ない』
「アルも?」
『特にない』
「また俺だけ強い」
『お前が来ると話が増える』
「否定できないのが腹立つな」
三〇八号室少年が笑った。
通信はそこで終わる。
少年は椅子へ深く座り、しばらく目を閉じた。
「怖さ」
セリーが聞く。
「二」
「情報負荷は?」
「三」
「減らした薬の影響と思われる変化は?」
「分かんない。今はない」
「承知しました」
しばらく休む。
少年は水を飲み、窓の外を見る。
「今日、外」
自分から言った。
「どうする?」
「今は行かない」
「昨日行けたのに?」
わざと聞いた。
少年がすぐこちらを見る。
「それ言う?」
「嫌?」
「ちょっと」
「じゃあ言わない方がいいな」
「うん」
「今ので分かった」
少年は少し眉を寄せたあと、口元を緩めた。
「試した?」
「少し」
「悪い」
「ごめん」
「でも、嫌って言えたからいい」
「じゃあ今日は?」
「午前は行かない」
「午後は?」
「午後の俺が決める」
「了解」
午前の残りは静かに過ごした。
二通目の手紙は読まない。
赤い包み布にも触れない。
幼いアルフォンスへの伝言も追加しない。
帰還管理所の補足も一度止める。
昼前。
旧保養施設側から、別件の報告が入った。
『緊急性はありません』
エルが先にそう言った。
三〇八号室少年が顔を上げる。
「種類」
『地下低温区画の非侵襲調査です』
「開けてない?」
『開けていません』
「名前不明の子には?」
『地下の話を聞いていません。本人も自発的には話していません』
「聞く」
通信先はリディアとヨアヒムだった。
『用途不明室の冷却術式について、少し分かりました』
リディアが話す。
「何のため?」
『それはまだ不明です。ただし、術式そのものは室温を下げ続けるためではなく、一定範囲より上がらないよう制御する型に近い』
「上限?」
『はい』
「冷やすんじゃなくて、温まりすぎないようにする?」
『その理解でいいです』
三〇八号室少年が少し眉を寄せる。
「保存?」
『可能性は上がりました』
「人?」
『まだ分かりません』
「薬?」
『それもあり得ます』
リディアは候補を広げたままにする。
『さらに、床下空洞の一部に、細い金属管が残っている可能性があります』
「何流す?」
『今は空です』
「昔は?」
『残留成分を外側から測定したところ、水分、微量の鉱物成分、それから有機物反応があります』
「血?」
少年がすぐ聞く。
『そこまでは特定できません』
「薬液?」
『候補です』
「冷却水?」
『それも候補です』
少年は少し息を吐く。
「候補いっぱい」
『はい』
「良い」
リディアが一瞬黙る。
『良い、ですか?』
「一個に決めてないから」
『なるほど』
ヨアヒムが続ける。
『名前不明の子供は、今朝はよく食べています』
「木片」
『持っています』
「地下の方見る?」
『今日はほとんど見ていません』
「安心した?」
『そこは判断しません』
三〇八号室少年が小さく頷く。
「うん」
『ただ、一つだけ行動があります』
「何」
『朝、暖房設備室側の廊下を職員が通った時、本人が一度だけそちらを見ました。その後、自分から寝台へ戻っています』
「怖がった?」
『呼吸変化なし。表情も大きな変化なし』
「じゃあ見ただけ」
『現時点ではそう記録しています』
「それでいい」
俺も同意する。
見ることと、怖がることは同じではない。
その廊下を見たから地下のことを思い出したとも限らない。
「今日は開けない?」
『開けません』
「冷却止める?」
『止めません』
「何で?」
『中身が分からない状態で、環境維持術式を止める方が危険だからです』
少年が少し目を細める。
「もし中に薬なら壊れるかも」
『はい』
「人なら?」
『その可能性も完全には捨てられない以上、なおさらです』
「でも生命反応ない」
『外からは確認できません』
「分かった」
少し間を置いて、少年が聞く。
「もし中身を守る術式だったら、開けない方が今は安全?」
『その可能性は高いです』
「名前不明の子も開けないでって言った」
『はい』
「理由が二つ」
『少なくとも二つあります』
少年は少し安心したようだった。
「本人の言葉だけに全部背負わせない」
『そうですね』
通信を終える。
昼食は食堂脇の小区画。
少年は今日は少し静かだった。
薬を減らした影響か。
朝の帰還管理所の情報か。
旧保養施設の話か。
まだ分からない。
「疲れた?」
俺が聞く。
「ちょっと」
「身体?」
「頭」
「じゃあ午後、何もしない?」
「それは嫌」
「何したい?」
「分かんない」
「じゃあ飯食ってから考えるか」
「うん」
食事は白身魚と温野菜、スープ、パン。
甘味はない。
少年は今日はそれに何も言わなかった。
半分ほど食べたところで、知らない患者が近くの席へ座る。
以前、甘味がなかった話をした人とは別だ。
相手は少年を気にする様子もなく、職員に「今日はスープ多くない?」と文句を言っている。
「昨日より少し多いですよ」
「やっぱり」
「残してもいいです」
「じゃあ飲めるだけ」
三〇八号室少年がその会話を聞いていた。
患者はスープを全部飲まなかった。
職員も「残した」と責めない。
皿を下げるだけだ。
「残していいんだ」
少年が小さく言う。
「お前も腹いっぱいなら残していいぞ」
「薬の時、ちゃんと食べないとって言われた」
「最低限必要な量がある時は別だろ」
セリーが説明する。
「必要量はお伝えします。その上で、満腹や吐き気があれば調整できます」
「全部食べるのが正しいわけじゃない」
「はい」
「これも同じだ」
「何が」
「規則」
少年はスープを見る。
「食べるの大事。でも絶対全部にすると変になる」
「そうだな」
「今日、何でも帰還管理所にするな」
「自分でしてるだろ」
少年が少し笑った。
昼食を終える頃には、表情も少し戻っていた。
部屋で一時間ほど休む。
少し眠った。
起きたあと、セリーが再確認する。
「身体の重さは?」
「一」
「頭の疲れは?」
「二から一」
「怖さは?」
「一」
「白い薬の小幅減量による明確な悪化は現時点でありません」
「明日も減らす?」
「明日決めます」
少年が先に言う。
セリーが微笑む。
「その通りです」
午後。
少年は窓の外を見る。
水たまりは朝より減っていた。
「乾いてる」
「ああ」
「昨日より少ない」
「今日は日が出てるからな」
「外扉」
少年が言う。
「行く?」
「今日は行かない」
「決めた?」
「うん」
「理由は?」
聞いてから、少しだけまずかったかと思った。
けれど少年は嫌そうにはしない。
「今日は頭使ったから」
「なるほど」
「あと、昨日出たから今日出なくてもいいってやってみたい」
俺は少し驚く。
「やってみたい?」
「うん」
「外に出ないことを?」
「昨日できたから、今日もやらなきゃって思わない練習」
セリーがその言葉を聞き、すぐに記録へ手を伸ばしかける。
「記録する?」
少年が先に聞いた。
「本人希望があれば」
「する。でも『外出拒否』じゃない」
「では『本日は外出を予定せず。本人より、昨日の選択を本日の義務としないことを自分で確かめたいとの申告あり』」
「長い」
「正確です」
「うん。それで」
俺は少し笑った。
「今日も一歩だな」
少年が睨む。
「外出てない」
「だからだよ」
「……ならいい」
午後は外へ出なかった。
代わりに、少し長めに療養所の廊下を歩く。
途中で窓際の椅子に座り。
別の患者が職員とカード遊びをしているのを見て。
名前を聞かず。
話しかけもしない。
ただ少し見ていた。
ミナにも会わなかった。
幼いアルフォンスからの伝言もなかった。
それでも少年は、今日はそれを気にしすぎなかった。
夕方前。
エルから帰還管理所側の追加連絡が入る。
『緊急性なし。午前の緊急事例について、外部転帰記録はまだ発見できていません』
三〇八号室少年は少し考える。
「それだけ?」
『もう一点、例外記録の翌年に「同様時は要事後説明」という短い運用メモがあります』
「本人回復後?」
『その可能性が高いです』
「じゃあ最初は残ってた」
『少なくとも翌年までは、事後説明の考え方が残っていた可能性があります』
「その後消えた?」
『後期資料では見つかっていません』
「うん」
少年は少し視線を落とす。
「今日はそれでいい」
『承知しました』
通信が切れる。
俺が少年を見る。
「どう思った?」
「少し安心した」
「何で?」
「最初の例外が出たあと、すぐ全部壊れたんじゃない」
「そうだな」
「ちゃんと戻そうとした人もいたかもしれない」
「かもしれない」
「でもそれがなくなった」
「ああ」
「だから、なくなるところ探したい」
「何が?」
「事後説明とか、一時とか、本人に戻すやつ」
少年の声は少し真剣だった。
「どこで消えたか」
「そこが分かれば、変わった理由も見えるかもしれないな」
「うん」
「でも今すぐお前がやる仕事じゃないぞ」
少年が少しむっとする。
「分かってる」
「本当に?」
「俺、患者側で一回意見言っただけ」
「そうだったな」
「役目にしないで」
「しない」
「聞きたい時だけ聞く」
「それでいい」
少し機嫌が戻る。
夕食は食堂脇へ行かず、三〇八号室で取った。
本人が静かな場所を選んだ。
温かい肉の煮込み。
柔らかいパン。
野菜。
今日は小さな蜂蜜菓子が一つついていた。
「甘い」
「はい」
「今日はちゃんと菓子?」
「はい」
「分類揉めない」
「喜ばしいことです」
少年が半分ほど食べ、残りを見た。
「アル、食べる?」
「いいのか」
「うん」
「じゃあもらう」
受け取る。
セリーにも少し渡す。
以前と同じようなやり取りだが、今日は笑いが少し静かだった。
疲れているのだろう。
夜。
白い薬を減らした一日目は、大きな問題なく終わった。
頭痛なし。
吐き気なし。
怖さ一。
身体の重さ一。
午後に少し眠った。
食欲問題なし。
青と紫は引き続きなし。
二通目の手紙は今日も読まない。
赤い包み布にも触れない。
「明日、薬」
少年が寝台の上で言う。
「どうする?」
「今は分かんない」
「戻すかも?」
「体調悪かったら」
「維持も?」
「ある」
「また減らす?」
「それもある」
「選択肢多いな」
「決めなくていいの便利」
「便利だろ」
「ちょっと好きになってきた」
少年が布団へ背中を預ける。
「今日、外行かなかった」
「うん」
「でも昨日出たの、消えなかった」
「当然だ」
「何か変になるかと思った」
「何が?」
「昨日できたのに今日やらなかったら、戻った感じ」
「後退したって?」
「うん」
「した?」
少年は少し考える。
「してない」
「じゃあそれが答えだろ」
「うん」
窓の外は暗い。
雨雲はほとんど去ったらしく、水音ももう聞こえない。
「帰還管理所の最初の例外も」
少年が言う。
「一回やったから次もやるってしなければよかった?」
「それだけならな」
「でも本当に必要な時またある」
「あるだろうな」
「じゃあ、一回ごとに考える」
「それが大事かもな」
「前例って楽だけど怖い」
「そうだな」
「前にやったから、で決められる」
「ああ」
「今日の俺も、昨日外出たから、で出そうになった」
「似てる部分はあるな」
「でも止まれた」
「うん」
「規則も止まれればよかった」
その言葉には、すぐ答えられなかった。
制度には身体がない。
疲れたと言わない。
怖いとも言わない。
一度動き始めると、誰かが止めなければ続く。
「だから、人が止めるんだろうな」
俺は言った。
「誰が?」
「一人じゃなくていい」
「ガルムとか」
「医者も」
「患者も?」
「言える人はな」
「言えない人は?」
「言葉以外の選択も見る」
「管理する人も?」
「必要だ」
「多い」
「一人で止められない仕組みなら、一人で進められないようにもしたい」
少年が少し目を細める。
「それ、いい」
「本当に?」
「うん」
「理由は?」
「誰か一人が正しいって思い込んでも、他の人が止められる」
「そうだな」
「でも全員同じこと思ったら?」
「その時は難しい」
「じゃあ完全じゃない」
「完全な仕組みなんてないだろ」
少年は少し嫌そうな顔をする。
「それ、嫌」
「俺も」
「でも分からないって言う?」
「言う」
「ならいい」
しばらく沈黙が続く。
少年は目を閉じかけて、また開いた。
「今日の人」
「誰?」
「高熱で呼吸不安定だった人」
「ああ」
「助かったか分かるかな」
「記録が残ってれば」
「知りたい」
「明日もそう思ってたら、ガルムに聞いてみるか?」
「聞く。でも探すの俺のためじゃない?」
「どういう意味だ」
「助かっててほしいって思ってる」
「ああ」
「でも助かってたら、例外が正しかったって思いそう」
その言葉に、俺は少し息を止める。
「助からなかったら?」
「例外が悪かったって思いそう」
「なるほど」
「でも本当は違う?」
「たぶんな」
俺は考えながら答える。
「一人助かったから仕組み全部が正しいわけじゃない。一人助からなかったから、その時の救命判断が全部間違いとも限らない」
「結果だけじゃ決められない」
「でも結果も無視しちゃいけない」
「また両方」
「そういうことになる」
少年は深く息を吐く。
「面倒」
「今日は言うと思った」
「でも知りたい」
「それでいいんじゃないか」
「明日」
「明日な」
「今日じゃない」
「うん」
少年はようやく目を閉じる。
「お休み、アル」
「お休み、アルフォンス」
セリーと一緒に部屋を出る。
内側から鍵がかかる。
廊下の窓の外には、雲の切れ間から少しだけ月が見えていた。
今日、内区扉は開かなかった。
旧保養施設地下の用途不明室も開けなかった。
名前不明の子供へ地下のことを聞き直すこともしなかった。
その代わり、古い記録から一人分の例外が見つかった。
意識が低下し。
高熱があり。
呼吸が不安定だった誰か。
本人へ聞けないまま、内区設備を使う準備が進められた。
そして、その記録の余白に残っていた。
今回は例外。
本人回復後説明。
恒常化不可。
制度が変わるより先に、誰かは危うさを分かっていたのかもしれない。
それでも例外は残り。
やがて規則になり。
対象は少しずつ広がっていった。
今日の三〇八号室の少年は、昨日外へ出た。
けれど今日は出なかった。
昨日できたから今日もやる。
そうしなかった。
一度の選択を前例にしない。
必要なら毎回考え直す。
人一人の暮らしでも、それは案外難しい。
まして制度なら、もっと難しい。
だから記録する。
だから複数で見る。
だから例外には終わりをつける。
そして、終わった後で本人へ戻す。
たぶん本当に必要なのは、例外を一つも作らない仕組みではない。
例外が普通へ変わり始めた時に、誰かがそれに気づける仕組みなのだ。
昔の誰かが余白へ残した三つの言葉は、そのことを今の俺たちへ教えているようにも見えた。
けれど。
それすら、俺たちが勝手に意味を与えているだけかもしれない。
だから明日も。
分かったことと。
分からないことを。
混ぜずに残していく。
扉を開けるのは、そのあとでいい。




