第54話 最初は例外だったものが、いつの間にか普通の手順へ変わっていました
朝になっても、雨は完全には上がっていなかった。
激しく降るほどではない。白鴉療養所の窓へ細かな粒が時折触れ、石造りの外壁を伝った水が、軒先から一定ではない間隔で落ちている。
昨日より空は明るいが、中庭の水たまりはむしろ増えていた。
三〇八号室へ向かう途中、俺は開け放たれていない外扉の方を一度見た。
昨日、少年はあそこまで行った。
外気に触れ、雨の匂いを嗅ぎ、三歩ほど先にある屋根付きの石廊を眺めた。それでも自分から「今日はここまで」と戻った。
今日そこから先へ行くかどうかは、まだ誰にも分からない。
当然、昨日少し行きたそうだったからという理由で、今日の予定にも入れていない。
二度、扉を叩く。
「入っていい」
内側から鍵が外れた。
三〇八号室の少年は、昨日より少し早く起きていたらしい。髪も整えてあり、窓辺の椅子へ腰掛けている。
ただ、外を見ているわけではなかった。
膝の上に両手を置き、その指先をゆっくり動かしていた。
「おはよう」
「おはよう」
「何してる?」
「別に」
「指動かしてたぞ」
「考えてた」
「何を?」
「聞かないで」
「分かった」
少年が少しだけこちらを見る。
「本当に聞かないんだ」
「聞くなって言っただろ」
「前なら一回くらい聞いた」
「成長したんだよ」
「ガルムのおかげ?」
「そこは俺の努力ってことにしてくれ」
少年の口元が少し緩んだ。
セリーが体調を確認する。
頭痛なし。
吐き気なし。
胸の違和感なし。
身体の重さ一。
怖さ一。
夜中に一度だけ目が覚めたが、理由は覚えていない。
夢の記憶なし。
「白い薬はどうされますか?」
少年は少し考えた。
「同じ」
「昨日は外扉付近まで移動されています。疲労も軽度でしたが、減量は見送るということでよろしいですか?」
「うん。今日、帰還管理所の続き聞くかもしれないから」
「承知しました。青と紫は引き続き中止します」
「うん」
今日も白い薬は、数日前にごくわずか下げた量を維持する。
四分の一より少し少ない。
けれど八分の一にはまだかなり遠い。
減らせる日が続いているからといって、毎日減らす必要はない。
それも今では、少年自身が理解している。
「外」
体調確認が終わったところで、少年が言った。
「雨?」
「ああ」
「水たまり」
「昨日より多い」
「……そう」
それだけ言って、すぐには続けなかった。
「見に行く?」
俺が聞く。
「朝飯あと決める」
「分かった」
朝食は、昨日と同じ休憩卓だった。
今日のパンは少し柔らかい。
野菜と豆を煮込んだスープ、それに薄切りの肉。
果物はなし。
代わりに小さな皿が一つ、布で覆われていた。
三〇八号室少年は座るなり、その皿を見る。
「何」
「召し上がってからのお楽しみです」
セリーが答える。
「先に見たい」
「見ても構いません」
「じゃあ何で隠してるの」
「保温ではなく、乾燥防止です」
「お楽しみじゃなかった」
「結果として楽しみでもあります」
少年が布を少し持ち上げた。
次の瞬間、手が止まる。
「赤い」
白パンを小さく切り、その上へ赤いジャムが薄く塗られていた。
俺も思わず笑う。
「出たな」
「うん」
少年はしばらく皿を見ていた。
「向こうも出たかな」
保存槽から出た幼いアルフォンスのことだ。
「聞く?」
「今はいい」
「食べてから?」
「向こうが今日何食べてるか、朝から確認するの変じゃない?」
「昨日は伝言来たけどな」
「向こうが言ったから」
「なるほど」
少年はパンを一つ取る。
一口食べて、少しだけ目を細めた。
「甘い」
「感想が普通だな」
「赤いジャムなんだから甘いだろ」
「昨日まであんなに気にしてたのに」
「食べたら普通」
少し考えてから、少年が付け加える。
「でも嬉しい」
「そうか」
「うん」
それ以上、大げさにしない。
幼いアルフォンスも赤いジャムが好きだ。
だからといって、同じ人間になるわけではない。
同じものを好きだと知られただけで、自分が薄くなるわけでもない。
その感覚が少しずつ身体の方にも馴染んできたのだろう。
食事の半ばで、エルから連絡が入った。
『帰還管理所側から、昨日保留した報告があります。緊急性なし。内区扉未開放、生体対象接近なし、後期接続層への直接操作なしです』
三〇八号室少年はジャムのついたパンを持ったまま、少し考える。
「年代?」
『はい。後期管理層の追加時期に関する候補です』
「今聞く?」
『朝食後で問題ありません』
「じゃああと」
前なら「内容だけ」と言ったかもしれない。
今日はそこで止めた。
俺も口を挟まない。
食事が終わり、薬を飲む。
赤いジャムの皿には何も残らなかった。
「向こうに伝える?」
俺が聞く。
三〇八号室少年は少し考えた。
「こっち今日は赤いジャム出た、ってだけなら」
「会いたいとは?」
「言わない」
「分かった」
エルが伝言だけを受ける。
返事を求めるものでもない。
そのあと三〇八号室へ戻り、少年が自分から椅子へ座った。
「今いい」
通信を繋ぐ。
帰還管理所側には、ガルム、フェリクス、リディアがいる。
『まず、昨日の続きを話す』
ガルムの声が届く。
『後から追加された管理層の年代について、完全な確定ではないが、三段階に分かれている可能性が高くなった』
「三回変えた?」
『最低三段階だ』
フェリクスが紙をめくる音がした。
『一番古いのが、これまで確認してきた原型です。本人登録、帰還資格、本人保持物との照合、処置説明、身体負荷の確認。それから、人による本人意思確認』
「そこは昨日までと同じ」
『はい』
「次は?」
『最初の追加らしい痕跡です』
フェリクスの声が少し慎重になった。
『文章が一部しか残っていません。ただし、「本人応答不能時」「生命維持」「一時代行」という三つの語が同じ時期の層から確認されています』
三〇八号室少年が少し眉を寄せる。
「命危ない時?」
『そう読める可能性があります』
「それなら昨日話した例外と似てる」
「中で誰かが倒れている場合とか、本人が意識を失っていて治療しないと死ぬ場合だな」
俺が言うと、少年は頷く。
「でも『一時』」
『そこが重要です』
ガルムが引き継ぐ。
『同じ層には、代行判断を継続的な本人意思として扱わない、という趣旨に読める断片もある』
「断片?」
『全文がない。「回復後」「再確認」「本人申告優先」という語だけだ』
少年が少し前へ身体を寄せる。
「じゃあ最初の代行って、本人の代わりにずっと決めるんじゃなくて、命危ない時だけ?」
『現時点では、そうだった可能性が高い』
「回復したら、また本人に聞く」
『らしい』
「それなら……」
少年はそこで言葉を止める。
「嫌じゃない?」
俺が尋ねる。
「嫌ではある」
素直な答えだった。
「でも、気絶してる時に死にそうなら、待たないでほしいかも」
「そうだな」
「でも起きた後も『前に代わりに決めたから今日も同じ』は嫌」
『その区別が、原型に近い追加では存在した可能性がある』
ガルムの声は落ち着いている。
『問題は、その次だ』
三〇八号室少年の顔が少し引き締まる。
「二段階目?」
『ああ』
フェリクスが続ける。
『次の改修層では、「生命維持」という限定語が見えなくなる。一方で、「治療継続困難」「判断能力低下の疑い」「再確認不能」という語が増える』
少年がしばらく黙った。
「命危なくなくても?」
『その可能性がある』
「治療続けられないから?」
『そう読める』
「何が治療か分かんないのに?」
『それも問題です』
俺が低く息を吐く。
「範囲が広がったんだな」
『らしい』
ガルムが答える。
『最初は、本人が応答できず、しかも生命維持上の緊急性がある時だけだったかもしれない。その後、本人が拒否する、判断に迷う、治療が予定どおり進まない。そういうものまで管理側で処理できる余地が増えた』
三〇八号室少年が膝の上で手を組む。
「迷うのも?」
『「判断能力低下の疑い」と結びつけられた記録がある』
「拒否は?」
『後期には、治療進行上の問題として扱われる』
「それ、父上の手紙と……」
言いかけて、少年は止まった。
俺は続けない。
父王名義の二通目には、恐怖や怒りを治療中の揺らぎとして扱うような内容がある。
拒否が帰還を遅らせるとも書かれていた。
考え方は近い。
けれど、まだ同じ流れから生まれたとは言えない。
「似てるだけ」
少年が自分で言った。
「今はな」
「手紙の時期も分かってない」
『はい』
フェリクスが答える。
「三段階目は?」
少し間が空いた。
『今のところ最も新しい改修だ』
ガルムが言う。
『そこでは、これまで見てきた「再確認対象」「処置優先」「長期滞在者の再分類」が入ってくる』
三〇八号室少年の表情が固くなる。
『さらに、「確認不能項目は管理者判断により代行可」という後付け文言も、この時期に近い』
「命危ないとか、なくなった?」
『少なくとも残っている文面では、条件として前に出てこない』
「一時も?」
『確認できない』
「回復したら本人に聞き直す、は?」
『残存記録では見つかっていない』
少年はしばらく何も言わなかった。
雨音だけが窓の外で細く続いている。
「最初は例外だった」
少年がゆっくり言う。
「かもしれない」
俺が答える。
「死にそうで、本人が答えられない時だけ」
「ああ」
「それが、治療が進まない時もになって」
「ああ」
「最後は、分からないところ全部、管理者が代わりにできる」
「そう変わった可能性がある」
少年が顔を上げる。
「誰か、途中で止めなかった?」
『それを調べている』
ガルムが答える。
「反対した人」
『いた可能性はある』
「何で?」
『改修記録のうち、一箇所だけ文面が削られている』
少年の目が細くなる。
「切られた承認欄とは別?」
『別だ』
ガルムの返事に、俺も身体を起こした。
「何が削られてる?」
『署名ではない。注記だ』
フェリクスが説明する。
『二段階目から三段階目へ移る頃の資料に、余白へ別筆で書かれた形跡があります。紙そのものは残っていますが、文字部分だけ擦り落とされている』
「読めない?」
『完全には。ただ、魔力定着の残りから二語だけ候補が出ている』
「何」
『「再確認」と「本人」です』
部屋の空気が重くなる。
「誰かが、本人にもう一回聞けって書いた?」
『可能性はある。ただし、文脈が分からない』
「削った人も分からない」
『分からない』
「いつ削ったかも?」
『改修直後か、ずっと後かも不明です』
少年は少しだけ唇を噛んだ。
「じゃあ、止めようとした人がいたって決めない」
『ああ』
「でも、反対の言葉があった可能性は残す」
『残す』
「消さないで」
『もちろんだ』
ガルムの返事は短かった。
少年は少し力を抜く。
「三回って、全部同じ人がやったの?」
『分からない』
「期間は?」
『原型から最終改修まで、少なくとも複数年ある』
「一人の判断じゃないかもしれない」
『むしろ複数の担当者・部署が関与した可能性が高い』
「じゃあ、誰か一人が急に悪くしたんじゃないかも」
「そうだな」
俺が答える。
「少しずつ変わった可能性がある」
「その方が怖い」
少年が言った。
俺は思わず少年を見る。
「何で?」
「急に全部変わったなら、変だって分かる」
少年は考えながら言葉を続ける。
「でも最初に『命危ない時だけ』って言われたら、いいって思うかもしれない。その次に『治療止まったら危ないことあるから』って言われたら、それもいいって思うかもしれない」
指先が膝の布をつまむ。
「それで、気づいた時には本人に聞かなくても進める」
通信の向こうが静かになる。
「誰かが最初からそこまで考えてたんじゃなくても、なる?」
「なると思う」
俺が答えた。
「制度は、理由のある小さな変更でも積み重なるからな」
「戻す時、最初に戻せばいい?」
『それも危険です』
リディアが初めて口を挟む。
『最初期の仕組みにも、現代の基準から見れば不足があります。内区で何が起こるのか完全には分かっていませんし、説明内容が本人に十分理解できるものだった保証もありません』
「じゃあ昔を正解にしない」
『はい』
「新しいの全部消すのも駄目」
『安全改修が混在している可能性があります』
「昨日と同じだね」
『そうです』
三〇八号室少年は小さく息を吐いた。
「難しい」
『だから今日は年代と変化の順番を確認するだけだ』
ガルムが言う。
『切らない。開けない。対象を連れて行かない』
「うん」
「俺も行かない」
『そこは聞いてないが助かる』
「まだ疑ってるだろ」
『前科がある』
「ないだろ」
『自分で行こうとする前科なら山ほどある』
三〇八号室少年が笑う。
「ガルム、もっと言って」
「味方するな」
少し重かった空気が緩む。
ガルムもそこで通信を終わらせた。
『追加があっても緊急でなければ午後以降に回す』
「今日はもう聞かないかも」
三〇八号室少年が答える。
『それでいい』
通信が切れた。
少年は椅子へ深く座り直した。
「怖さ?」
セリーが聞く。
「二」
「情報量は?」
「三くらい使った」
「残りを数字にしますか?」
「今日はやめとく」
「承知しました」
俺は少年を見る。
「さっきの、少しずつ変わった方が怖いって話」
「うん」
「俺もそう思う」
「アルも?」
「ああ」
王宮でだって、何かが一日で全て変わることは少なかった。
昨日まで認められていたものが、明日からいきなり禁止されるなら誰かが気づく。
けれど、例外が一つ増える。
手続きが少し簡略化される。
判断を早めるために、確認項目が一つ省かれる。
それが積み重なれば、最初に何を守ろうとしていたのかすら見えなくなる。
「俺も王太子の時、やってたかもな」
「何を?」
「細かい変更を認める側」
「悪いやつ?」
「全部が悪かったとは思わない。でも、結果まで見てなかったことはあるかもしれない」
「覚えてる?」
「具体的にはすぐ出ない」
「じゃあ作らないで」
「作らないよ」
少年は少しだけ安心したように頷く。
午前の残りは休憩へ回した。
二通目の手紙は読まない。
赤い包み布にも触れない。
帰還管理所の追加情報も、今日は一度止める。
しばらくして、幼いアルフォンス側からエルを通じて返事が来た。
『伝言です』
「何」
三〇八号室少年が椅子から顔を上げる。
『「こっちも赤いジャムあった」とのことです』
少年の口元が緩む。
「同じだった」
自分で言ったあと、一瞬止まる。
けれど今日は表情が固まらない。
「……今のは平気」
「自分で言ったもんな」
「うん」
『追加で、「今日は二枚」とのことです』
三〇八号室少年が皿のあった場所を見る。
「俺三つ」
「勝ったな」
「勝負じゃない」
「さっき顔が勝ってたぞ」
「違う」
少しだけ笑う。
「伝えて。こっちは三つだったって」
『承知しました』
「でも自慢じゃない」
『その注記も付けますか?』
「……いらない」
俺が笑うと、少年が少し睨んだ。
「エルまで変なこと言う」
『学習しています』
「誰から」
『周囲からです』
「アル?」
『複数名です』
「俺だけじゃないからな」
「ちょっと安心した?」
「何が」
「悪影響」
「お前な」
軽い会話のあと、少年は少し横になった。
眠るほどではない。
目を閉じ、雨音を聞いている。
昼前には雨がほとんど止んだ。
昼食後、雲の切れ間から薄い光も出る。
三〇八号室少年は休憩を終えると、窓の外を確認した。
「まだ水たまりある」
「ああ」
「外扉」
それだけ言う。
「行きたい?」
「昨日のところまで」
「分かった」
セリーが体調を確認する。
身体の重さ一。
怖さ一。
歩行に問題なし。
「本日は外扉付近までの移動を希望、という記録でよろしいですか?」
少年が少し考える。
「外に出るかは決めてないって入れて」
「承知しました」
三人で一階へ向かう。
昨日と同じ緩い回廊。
途中で職員二人とすれ違い、片方が小さく会釈した。
少年も少しだけ頭を下げる。
外扉は今日も開いていた。
昨日より風は弱い。
濡れた土と草の匂いが、室内まで入ってくる。
三〇八号室少年は、昨日と同じ位置で止まった。
三歩ほど先に、屋根付きの石廊。
その先が中庭だ。
水たまりはまだ残っている。
「昨日ここ」
「そうだな」
少年はしばらく外を見る。
セリーも俺も何も言わない。
外へ行きたいか。
今日はどうするか。
聞けば答えるかもしれない。
けれど今、本人が自分で考えている。
ならば待つ。
しばらくして、少年が一歩進んだ。
室内の石床。
もう一歩。
扉の敷居。
そこで止まる。
半分だけ身体が外気に近づく。
「ここ、外?」
「境目だな」
「変なところ」
「そうだな」
少年は足元を見る。
敷居の向こうには、雨で少し濡れた石がある。
屋根があるため水たまりはない。
けれど風に運ばれた雫で、表面が暗くなっていた。
「滑る?」
「少しは」
「セリー」
「現在の履物であれば、通常歩行には問題ありません。ただし走らないでください」
「走らない」
少年はもう一度外を見る。
右手がわずかに動く。
何かを掴むでもなく、拳にするでもなく、指だけが少し曲がった。
「怖さ?」
セリーが静かに尋ねる。
「二」
「戻りますか?」
「まだ」
「分かりました」
それから、少年は敷居を越えた。
両足が、屋根付きの石廊へ乗る。
たった一歩。
空の下ではない。
雨にも当たっていない。
建物の壁から手を伸ばせば触れられる距離だ。
それでも、昨日は行かなかった場所だった。
少年はすぐには顔を上げない。
濡れた石を見ている。
靴の先を少しだけ動かす。
「外?」
もう一度聞いた。
「外だと思う」
「屋根ある」
「屋根のある外」
「変」
「世の中、境目はだいたい曖昧だ」
「それ今言う?」
「ごめん」
三〇八号室少年が少し笑った。
その笑いで肩の力が少し抜ける。
ゆっくり顔を上げた。
窓越しではない中庭。
匂いも、風も、空気の冷たさも直接届く。
「寒い」
少年が言う。
「戻る?」
「一じゃなくて二くらい」
「上着を着用しますか?」
「うん」
セリーが持ってきていた薄手の上着を肩へ掛ける。
少年自身が前を留めた。
「水たまり、近く見える」
「ああ」
「でもあそこまでは行かない」
「分かった」
「今日はここ」
「うん」
誰も、もう一歩を求めなかった。
少年は屋根の下に数分いただけだった。
途中で水滴が風に乗り、頬へ一つ当たる。
驚いて触れる。
「雨?」
「屋根から飛んだんじゃないか」
「冷たい」
「嫌だった?」
「びっくりした」
頬を拭う。
「でも平気」
そのままもう少しだけ外を見る。
中庭の向こうには誰もいなかった。
ミナもいない。
それでも少年は残念そうにはしなかった。
「戻る」
自分で言う。
「分かった」
敷居を越え、建物の内側へ戻る。
そこで一度だけ振り返った。
「外出た」
「ああ」
少年が眉を寄せる。
「大げさに言わないで」
「言ってないだろ」
「顔が」
「どんな顔だよ」
「嬉しそう」
「そりゃ少しは嬉しい」
「何でアルが」
「お前が自分で決めたから」
「外出たからじゃなくて?」
「それも嬉しいけど、途中で戻っても同じくらい良かったと思う」
少年はしばらく俺を見る。
「本当?」
「本当」
「昨日戻った時も?」
「ああ」
「じゃあ今日は出たから偉い、じゃない」
「違う」
少年は少しだけ息を吐いた。
「それならいい」
三〇八号室へ戻る途中、歩き方に変化はなかった。
部屋へ入ってからセリーが確認する。
「現在の怖さは?」
「一」
「外にいた時の最大は二」
「はい」
「緊張は三」
「寒さは二まで上昇、上着着用後一」
「うん」
「もう一度出たい気持ちは?」
少年が少し考える。
「今日?」
「今日についてです」
「今はない」
「記録します」
「明日は?」
「記録しなくていい。分かんないから」
「承知しました」
今日の選択は今日で終わる。
昨日の「少し行きたい」が今日の外出命令にならなかったように。
今日出られたことも、明日また出る義務にはならない。
午後。
帰還管理所側から追加の通信が一度来た。
『緊急性なし。午前の年代照合について補足があります』
三〇八号室少年が俺を見る。
「聞く?」
「俺じゃなくてお前が決めろ」
「今日は聞かない」
『承知しました』
通信は終わる。
「気になる?」
俺が聞く。
「ちょっと」
「なら聞いても」
「今日は外出た」
少年が言う。
「頭の中でそっち残したい」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「いいと思う」
「帰還管理所のこと入れると、そっちでいっぱいになる」
「明日でも資料は逃げない」
「水たまりは逃げるけど」
「乾くからな」
少年が少し笑った。
その後、幼いアルフォンスから赤いジャムの返事が来ることもなかった。
三〇八号室少年も追加で何かを送ろうとはしなかった。
伝言は一往復した。
今日はそれで十分だった。
夕食は部屋で取った。
外へ出た疲れは大きくないが、少年自身が静かな場所を選んだ。
温かい肉の煮込み。
柔らかいパン。
野菜。
小さな焼き菓子。
「今日、甘いの二回目」
「朝の赤いジャムは果実加工品です」
セリーが言う。
「また分類」
「正確さは重要です」
「でも甘かった」
「はい」
「じゃあ俺の中では二回」
「ご本人の感覚として記録する必要はありません」
「しないよ」
俺が笑う。
「平和な会話だな」
「帰還管理所よりいい」
「比較対象がおかしい」
「でも本当」
食後、少年は少し早めに寝台へ入った。
白い薬は朝と同じ。
青と紫はなし。
身体の疲労一。
怖さ一。
足の痛みなし。
外気に触れたことで体調が崩れた様子もない。
二通目の手紙は、今日も読まない。
赤い包み布にも触れない。
「アル」
「何だ」
「今日の帰還管理所の話」
「ああ」
「最初は命危ない時だけだったかもしれないってやつ」
「うん」
「それ自体は必要かもしれない」
「そう思う」
「でも広がるの怖い」
「俺も」
「じゃあ、今作る規則も広がる?」
少し考える。
「可能性はある」
「嫌だな」
「だから、例外を作らないって決めるだけじゃ足りないんだろうな」
「何する?」
「例外を使ったら理由を残す。あとで見直す。誰か一人だけで決めない。緊急が終わったら本人に説明する」
少年が続きを考える。
「元に戻せるのは戻す」
「そうだな」
「本人が後から嫌って言えるようにする」
「ああ」
「救命だから何してもいい、にはしない」
「そうだな」
「……いっぱいある」
「一個の綺麗な規則じゃ済まないな」
「面倒」
「大事なところはだいたい面倒」
「それ何回目」
「もう数えてない」
少年が笑った。
少し間を置いてから、目を閉じる。
「今日、外出た」
「うん」
「でも明日は出なくてもいい」
「もちろん」
「もし明日怖さ三になって、やっぱり嫌って言っても?」
「今日出られたのに、とは言わない」
「記録見て誰か言わない?」
「言わせない仕組みにする」
少年の目が開く。
「それ、できる?」
「完全には難しい。でも、少なくとも記録の書き方は変えられる」
「どうやって」
「『外出成功』じゃなくて、『本人が本日、屋根付き石廊までの移動を希望。数分滞在後、自分から終了を選択』くらいにする」
「成功って書かない?」
「ああ」
「何で?」
「成功って書くと、次も同じことができるのが良いことみたいに見えるから」
三〇八号室少年がしばらく黙った。
「今日出たの、成功じゃない?」
「お前がそう思うなら成功でもいい」
「でも記録は?」
「事実を残す」
「本人が嬉しかったも?」
「残してほしい?」
少年は少し考える。
「少し嬉しかった。でも、怖くなかったわけじゃない」
「両方残せる」
「じゃあ、それ」
セリーが頷く。
「『本人より、外へ出られたことについて少し嬉しいとの申告あり。同時に緊張・怖さもあり。翌日の外出希望とは扱わない』とします」
「長い」
「必要事項です」
「でもそれがいい」
少年が布団を少し引き上げる。
「帰還管理所も、昔そうやって書いてれば変わらなかったかな」
「分からない」
「だよね」
「でも、変わったことに気づく人は増えたかもしれない」
「例外が増えたって」
「ああ」
「最初は命危ない人だけだったのに、治療嫌って言った人まで入ってるって」
「そういう比較ができればな」
少年は天井を見た。
「記録って怖いけど、使い方で違う」
「お前を決めるために使えば怖い」
「でも変なこと増えてないか見るのにも使える」
「そうだな」
「じゃあ消せばいいってものでもない」
「そういうことだ」
少年はしばらく考えてから、小さく息を吐いた。
「今日、赤いジャム食べたのも記録?」
「医療記録には食事量として入るんじゃないか」
「好きってのは?」
「必要なければ入れなくていいだろ」
「でも好き」
「それはお前が覚えてればいい」
「幼い方も好き」
「それも本人が覚えてればいい」
「三人目は?」
「俺?」
「うん」
「好きだぞ」
少年が一瞬固まる。
「赤いジャム?」
「赤いジャム」
「……また同じ」
「嫌だった?」
少しだけ迷う。
「今は平気」
「そうか」
「三人とも好きでも、三人いる」
「ああ」
「それならいい」
少年の顔から力が抜ける。
「明日、幼い方に言う?」
「何を」
「アルも赤いジャム好きって」
「本人と話す機会があって、言いたかったらな」
「勝手に伝言しない?」
「しない」
「うん」
外では、また雨が弱く降り始めていた。
今日踏み出した屋根付きの石廊も、今頃は少し冷えているだろう。
三〇八号室少年はその音をしばらく聞いていた。
「明日、水たまり残るかな」
「残るかもしれない」
「乾くかもしれない」
「ああ」
「じゃあ明日見るか決める」
「そうしろ」
「お休み、アル」
「お休み、アルフォンス」
セリーと一緒に部屋を出る。
内側から鍵が掛かる音がする。
廊下を歩きながら、午前の報告を思い返した。
本人が答えられない。
命が危ない。
だから、一時だけ誰かが代わりに判断する。
最初は、そういう例外だった可能性がある。
それ自体は、今の俺たちだって必要だと考える場面がある。
けれど、例外には理由がいる。
期限もいる。
終わったあとで本人へ返す手順もいる。
それが少しずつ失われれば、「本人を守るため」の道が「本人を通らず進めるため」の道へ変わっていく。
今日、その変化の順番が少し見えた。
そして同じ日に、三〇八号室の少年は外へ一歩だけ出た。
昨日は行かなかった場所へ。
誰かに「昨日行きたがっていたから」と連れ出されたのではなく、自分で今日の気持ちを確かめてから。
外へ出ることそのものが正解だったわけではない。
昨日止まったことも間違いではない。
今日進んだことも、明日進む義務にはならない。
仕組みが人を守るなら、その程度の揺れくらい受け止められなければいけないのだろう。
人は毎日同じ答えを出す道具ではない。
だからこそ、昨日の選択を今日の命令にしない。
その当たり前を忘れないことが、今の俺たちにできる最初の修理なのかもしれなかった。




