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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第53話 本人の代わりに答える仕組みは、最初からそこにあったわけではありませんでした

 夜のうちに、雨が降ったらしい。


 朝、白鴉療養所の東廊下へ出ると、窓の向こうの石畳が黒く濡れていた。雨そのものはもう止んでいるが、軒先からは時折大きな雫が落ち、中庭の端にはいくつもの浅い水たまりが残っている。


 昨日、三〇八号室の少年が言っていた。


 明日まだ見たかったら、水たまりを窓から見るかもしれない。


 約束ではない。


 予定でもない。


 昨日の時点でそう思った、というだけの話だ。


 だから俺は三〇八号室の前へ着いても、外の話から始めなかった。


 二度扉を叩く。


「入っていい」


 内側から鍵が外れる。


 部屋へ入ると、少年はまだ寝台に腰掛けていた。髪は少し乱れており、窓の方を一度見た形跡はあるものの、立って外を確かめに行った様子はない。


「おはよう」


「おはよう」


「眠そうだな」


「ちょっと」


 今日は素直に認めた。


 セリーが体調を確認する。


 頭痛なし。


 吐き気なし。


 怖さ一。


 身体の重さは二。


 昨夜、雨音で一度だけ目を覚ましたらしい。


「雨、嫌だった?」


 俺が聞く。


「嫌じゃない。何の音か分からなくて起きた」


「分かってからは?」


「寝た」


「じゃあ大丈夫そうだな」


「うん」


 白い薬は昨日と同量。


 青と紫はなし。


 昨日は幼いアルフォンスとの偶然の再会もあり、帰還管理所の古い記録についても聞いている。体調そのものは安定しているが、今日は減量を急がないことで少年自身も納得した。


「外、濡れてる?」


 薬を飲み終えたあと、少年がようやく聞いた。


「かなり」


「水たまりある?」


「ある」


「大きい?」


「窓から見えるくらいには」


 少年はすぐには立たなかった。


「朝飯あと見る」


「分かった」


 それだけだった。


 朝食は部屋の近くの休憩卓を選んだ。


 昨夜の雨のせいで空気は少し湿っており、開けていない窓越しにも土と濡れた葉の匂いがわずかに入ってくる。


 白パン。


 卵を混ぜた野菜スープ。


 薄く切った燻製肉。


 それから、小さく切った梨。


 今日は甘味の分類問題は起きなかった。


 少年は食事をしながら、何度か窓の外を見る。


「気になるなら先に見てもいいぞ」


 俺が言うと、少年は首を横に振った。


「飯食べる」


「偉い」


「セリーみたい」


「何が」


「食事優先」


「いいことだろ」


「アルが言うと変」


「何でだ」


「前、食事中でも報告来たら聞いてた」


 言われて、反論できない。


 セリーが静かにこちらを見る。


「改善されてきてはいます」


「過去形で刺してくるな」


「現在も継続中です」


 三〇八号室少年が笑う。


「まだ完成してない」


「人間は完成しないんだよ」


「便利」


「昨日から便利って言いすぎだろ」


 少年は少しだけ得意そうな顔をした。


 食事の途中、エルから連絡が入った。


『帰還管理所側から、昨夜保留した技術報告があります。緊急性なし。内区扉への接触なし、生体対象の使用なしです』


 少年がスープの匙を止める。


「昨日の続き?」


『はい。確認板らしき旧式定着跡と、後期管理層の接続位置についてです』


「今聞かなくていい?」


『朝食後で問題ありません』


「じゃああと」


『承知しました』


 通信が切れる。


 少年は何事もなかったように匙を動かした。


 以前なら、気になって食事の速度が変わっていたかもしれない。


 今日は少し視線が落ち着かなくなっただけだった。


「気にはなる?」


「なる」


「でも飯を先にする?」


「聞いたら長くなるかもしれない」


「賢い」


「セリーの真似」


「私の方針としては歓迎です」


 朝食を終える。


 薬も済ませる。


 それから少年は立ち上がった。


「先、水たまり」


「報告より?」


「報告は逃げない」


 そう言ってから、少し止まる。


「水たまりも逃げない?」


「晴れたら乾くぞ」


「じゃあ水たまり先」


「合理的だな」


 三人で廊下へ出る。


 まだ療養所の中だ。


 外へ出るわけではない。


 ただ、昨日ミナと話した窓まで歩くだけ。


 近衛たちももう慣れたのか、少年が近づいても必要以上に姿勢を正したりしない。武器へ触れる者もいない。


 窓辺まで来ると、少年は足を止めた。


 昨日はほとんど乾いていた中庭に、今日はいくつも水たまりがある。


 空を映した灰色のもの。


 木の枝が映り込んでいるもの。


 浅すぎてただ石畳が濃く見えるだけのもの。


「いっぱいある」


「ああ」


「ミナが言ってたより多い」


「雨、結構降ったみたいだからな」


 少年はしばらく眺めていた。


「踏んだらどうなる」


「靴が濡れる」


「それだけ?」


「勢いつければ跳ねる」


「服も?」


「汚れる」


「セリー怒る?」


「程度によります」


 少年がすぐ振り向く。


「怒らない時ある?」


「遊ぶために外へ出て、水たまりへ入ると事前に分かっているのであれば、汚れてもよい靴と衣服を用意します」


「用意するんだ」


「はい」


「止めない?」


「体調と安全上問題がなく、ご本人が望むのであれば」


 少年は少し驚いたようだった。


「汚れるのに」


「洗えますので」


「王宮だったら怒られそう」


「主様は怒られた経験がおありですか?」


 セリーが俺を見る。


「ある」


「何した」


 少年が興味を示す。


「雨の翌日に庭で転んだ」


「水たまり?」


「泥だな」


「何歳」


「覚えてない。たぶん五、六歳」


「怒られた?」


「乳母と侍女にはな」


「父上は?」


「直接は何も言われなかったと思う」


 そこで少しだけ、記憶が曖昧になる。


 母の顔。


 侍女の困った声。


 濡れた靴。


 父がその場にいたのかどうか。


 思い出せるようで、思い出せない。


 三〇八号室少年はこちらを見たが、追及しなかった。


「俺、今日は踏まない」


「ああ」


「でも見れた」


「ああ」


「次は」


 少年が言いかけて止まる。


 窓の向こうで、職員が水たまりを避けながら薬草籠を運んでいる。


「次も見たかったら見る」


「それでいい」


 少年はもう少しだけ外を眺め、それから自分から踵を返した。


「報告聞く」


 三〇八号室へ戻り、椅子へ座る。


 エルが通信を繋ぐ。


 今日はガルムとフェリクス、それからリディアが帰還管理所側にいるらしい。


『昨日の続きだ』


 ガルムが前置きを短くする。


『結論から言う。後期に追加された管理者代行層は、最初期の本人確認層そのものではない』


 三〇八号室少年の表情が少し変わる。


「別に付けた?」


『その可能性が高い』


 フェリクスが引き継ぐ。


『昨日確認した、最初期の確認板らしき魔力定着跡。その信号は、内区扉の古い認識層へ直接「帰還可」を送っていたわけではありませんでした』


「何を送る?」


『「確認手順が終了した」という状態です』


「答えじゃない?」


『はい。ここが重要です』


 少年は少し前へ身体を寄せた。


『本人登録、帰還資格、本人保持物照合。これらは魔導具側が条件として確認する。それとは別に、人が本人へ説明し、意思を確認する。その手順が終了したことを確認板から受け取る。ただし、本人の答えそのものを魔導具が勝手に作る仕組みではなかったらしい』


「帰らないって言ったら?」


『その場合、紙面記録上では外区保護継続へ移る』


「扉は?」


『開放信号が成立しない』


「じゃあ最初は、人が聞いて、帰りたい時だけ最後まで進む?」


『今見つかっている範囲では、そう読めます』


 少年は少し黙った。


「十一人の記録と合う」


『そうだな』


 ガルムが答える。


『迷っている者、拒否している者、発語がない者が、すぐ内区へ入れられていない理由としては整合する』


「でも七人目は後で第三候補になった」


『そこからが問題だ』


 ガルムの声が低くなる。


 フェリクスが続ける。


『後世に追加された管理層は、最初期の「本人確認終了」とは違う入口を持っています』


「どこ」


『内区扉に後付けされた接続口です』


「前に見つけた、処置優先とか読むやつ?」


『同じ系統です』


「じゃあ管理者代行もそこ?」


『ほぼ間違いありません』


 少年が眉を寄せる。


「最初のところを直したんじゃなくて、横から足した?」


『その表現が近いです』


 フェリクスの声には抑えきれない興味が少し滲んだ。


『古い仕組みを全部作り直すのではなく、後から新しい判断層を横へ追加している。そこでは「本人意思確認済」ではなく、「意思確認不能」「再確認対象」「処置優先」などの分類を別の条件へ変換している可能性が高い』


「何の条件?」


『それを今解析しています』


 少年は少しだけ息を吐いた。


「そこはまだ分からない」


『はい』


「管理者が代わりに『帰りたい』って答えたわけじゃない?」


 少し意外な質問だった。


 ガルムが答える。


『少なくとも術式構造としては、本人の答えを書き換えるというより、本人の答えがなくても別条件で先へ進めるようにした形に見える』


 少年の顔が固くなる。


「そっちの方が嫌かも」


 部屋が静かになった。


「本人が帰りたいって言ったことにするんじゃなくて、本人が言ってなくても進める」


『そうだ』


「それ、本人の答え要らなくなる」


『結果的にはな』


 三〇八号室少年は視線を落とした。


 俺はその横顔を見る。


 父王の手紙にあった。


 迷いが生じた場合は、自ら判断せず、教師へ申し出ること。


 治療を拒否すれば帰還が遅れる。


 恐怖や怒りは治療過程の揺らぎかもしれない。


 本人が迷うこと。


 本人が拒否すること。


 本人が判断できないこと。


 それを少しずつ、本人を通さず処理できる仕組みに変えていく。


 まるで同じ方向を向いている。


 だが、今ここで結びつけるのは早い。


 三〇八号室少年も同じことを考えたのか、二通目の手紙がある机の方へ一瞬だけ視線を向けた。


「手紙と似てる気がする」


 自分から口にする。


「ああ」


「でも同じ人が作ったかは分からない」


「分からない」


 俺が答える。


「考え方が似てるだけかもしれない」


「うん」


 通信の向こうでフェリクスが言う。


『時期についても一致はまだ取れていません。手紙の作成年代自体が確定していませんから』


「じゃあ別で持つ」


『その方が安全です』


 少年が少し身体を戻す。


「後から足したところ、止められる?」


 リディアが答えた。


『前に報告した通り、後期管理分類の接続口は外側から一時的に遮断できる可能性が高いです』


「可能性?」


『まだ完全な切断試験はしていません。壊さず元へ戻せる方法を優先しています』


「切ったら古い方だけ?」


『それも断定できません』


 少年が少し困った顔になる。


「何で?」


『古い本人照合層は別電源で残っています。ただし、後期層が何か安全装置まで兼ねている可能性を捨てられません』


「悪い追加でも、安全なところあるかもしれない?」


『あります』


 俺がそこで口を挟む。


「後から付けたもの全部を消せば昔の安全な状態へ戻る、とは限らないってことだな」


『そうです』


 リディアの返事は落ち着いていた。


『改修の中には、事故防止や身体負荷軽減のためのものが混ざっている可能性もあります。本人意思を弱くした変更と、純粋な安全改修が同じ時期に行われていた場合、まとめて切るのは危険です』


 三〇八号室少年はしばらく黙る。


「悪い仕組みだけ消すの、簡単じゃない」


「そうだな」


「作った人の理由分かんないと?」


「それだけでも足りないかもな」


「実際何してるかも見る」


「そうだ」


 少年は小さく息を吐く。


「面倒」


「大事なところはだいたい面倒だ」


「昨日も言った」


「使える言葉なんだよ」


『話を戻すぞ』


 ガルムが少し呆れた声を出した。


 三〇八号室少年がわずかに笑う。


『今回、もう一つ分かったことがある』


「何?」


『最初期の確認板らしき信号と、後期管理者代行層の信号では、内区側の受け取り方が違う』


「どう違う?」


『古い方は「人による確認終了」のあと、別途本人登録と帰還資格の一致が必要になる。後期層は、そのうち一部を管理分類で代替できる可能性がある』


 少年の表情が再び真剣になる。


「一部って?」


『本人意思そのものか、帰還資格の再確認か、あるいは両方か。そこまでは未確定だ』


「本人保持物は?」


『古い層では必要だった可能性が高い。後期層では、条件次第で省略できる痕跡がある』


「木片なくても?」


『もし木片が本人保持物に相当するなら、そういう改修だった可能性はある』


「でも木片がそれか分からない」


『分からない』


「AG-02も?」


『同じく未確定だ』


 少年がしばらく机の端を見つめた。


「なくすと戻れない」


 小さく呟く。


 名前不明の子供の言葉だ。


 これがあると戻される。


 なくすと戻れない。


 返して。


 これは僕の。


 これは印。


 僕じゃない。


「もし木片が昔の本人保持物なら、昔はなくしたら戻れない」


「再発行制度はある」


 俺が答える。


「古い規則に残ってた」


「あ」


 少年が顔を上げる。


「そうだった」


「だから本来は、なくしてもそれだけで終わりじゃない」


「じゃああの子が『なくすと戻れない』って思ってるの、後の仕組み?」


「可能性はある」


『あるいは、その子が再発行制度を知らないだけかもしれない』


 ガルムが補う。


「うん」


 三〇八号室少年は頷く。


「決めない」


 その一言だけで、話が過剰に広がるのを止めた。


 少し間を置いて、少年が聞く。


「今日やることは?」


『内区扉は開けない』


 ガルムが即答する。


『後期層の接続口を物理的・魔術的に切断せず、外側から信号経路だけ追う。あとは年代照合だ』


「人は近づけない?」


『対象になり得る人物は近づけない』


「アルも?」


『特にアルは来るな』


「何で俺だけ強調するんだ」


『来そうだからだ』


「行かないよ」


『今はな』


 三〇八号室少年が笑う。


「ガルム、分かってきた」


「何を」


「アル止めるの上手い」


「そこ褒めなくていいからな」


『褒め言葉として受け取っておく』


 通信が切れる。


 少年は椅子へ座ったまま、しばらく何も言わなかった。


 セリーもすぐ次の質問をしない。


 窓の外からは、軒先の雫が一定ではない間隔で落ちる音がする。


「怖さ」


 セリーが少し経ってから尋ねる。


「二」


「理由は分かりますか?」


「本人いなくても進める仕組み」


「記録しますか?」


「うん」


「他に?」


「ちょっと安心もした」


「何に」


 俺が聞く。


「最初からそうだったんじゃない」


 少年は少し言葉を探す。


「最初から、本人が邪魔だから抜こうって作ったんじゃないかもしれない」


「ああ」


「途中で足したなら、前は違った」


「そうだな」


「でも、だから昔が全部いいわけじゃない」


「その通りだ」


「最近そればっか」


「何が」


「良いか悪いか一個にできない」


「慣れろ」


「嫌」


「俺も嫌だ」


 少年が少し笑った。


 その後、午前は休憩にした。


 二通目の手紙は読まない。


 昨日に続き、赤い包み布にも触れない。


 帰還管理所の報告だけで情報量は十分だった。


 昼前になって、幼いアルフォンス側から短い連絡が来た。


『本人より一つ希望があります』


 エルが言う。


 三〇八号室少年が少し身体を起こす。


「何」


『昨日会った三〇八号室のアルフォンスへ、赤いジャムが昼に出たら教えてほしい、とのことです』


 数秒、沈黙があった。


「……それだけ?」


『それだけです』


 少年が吹き出した。


「何で」


『昨日、赤いジャムがなかった話をしたからだそうです』


「医療連絡じゃない」


『本人希望の伝言として受けています』


「今日出た?」


『まだ昼前なので不明です』


「じゃあ出たら教えて」


『伝えますか?』


「うん」


「向こうに?」


『はい』


「俺も、今日甘いの出たら教える?」


 俺が笑う。


「競争になってないか?」


「違う」


「本当に?」


「赤いジャムだけ」


「限定的だな」


 少年は少し考える。


「でも会う約束はしない」


『承知しました』


 そこで通信は終わった。


「普通だな」


 俺が言う。


「何が」


「昨日お前が言ってたやつ」


「普通って慣れてない」


「今日もか」


「でも、こういうのは嫌じゃない」


「赤いジャム情報」


「うん」


「平和だな」


「平和な方がいい」


「その通りだ」


 昼食には赤いジャムは出なかった。


 三〇八号室少年の皿には白パンと鶏肉の煮込み、温野菜、それに少量の果実。


 パンを見た瞬間、少年が少しだけ残念そうな顔をする。


「ない」


「残念だったな」


「別に」


「今の顔は残念だったぞ」


「ちょっとだけ」


 エルへ伝言を預ける。


「こっちは赤いジャムなし」


『承知しました』


 数分後。


『幼いアルフォンス側も本日は赤いジャムなしとのことです』


 三〇八号室少年が笑う。


「両方ない」


「仲良く残念だな」


「同じって言わないで」


「あ」


 反射的に口を押さえる。


 少年は少しだけ眉を寄せたが、すぐ表情を緩めた。


「今のは平気」


「悪い」


「同じでも、それだけなら消えないって分かってきた」


「そうか」


「でも言い方はまだちょっと嫌」


「気をつける」


「うん」


 前なら、その一言がしばらく空気に残った。


 今日はそこで終わる。


 嫌なことは嫌だと言う。


 言われた側は謝る。


 それ以上、大きな意味へ広げない。


 それも一つの変化だった。


 午後になると、雨雲は少し薄くなった。


 中庭の水たまりはまだ残っている。


 三〇八号室少年は昼食後の休憩を終えたあと、自分から窓の方を見た。


「また見る?」


 俺が聞く。


「今度、下まで行ける?」


「一階?」


「外に出る扉の近く」


 予想より少し先の言葉だった。


「外へは?」


「出ない」


「扉の前まで?」


「うん」


「体調は」


 セリーが確認する。


「重さ一。怖さ一」


「歩行距離としても問題ありません」


「じゃあ行く?」


 俺が聞く。


 少年は少し考えたあと、頷いた。


「行く」


 階段は使わず、緩い傾斜の回廊を通る。


 療養所内で歩行が不安定な患者も移動できるよう、後から整備された場所だ。


 途中、三人の患者とすれ違った。


 一人は杖を使い。


 一人は職員の腕を借り。


 もう一人は一人でゆっくり歩いている。


 三〇八号室少年は彼らを見るが、以前のように自分と比べる言葉は出なかった。


 一階の外扉近くへ来る。


 厚い木扉の向こうには、小さな屋根付きの石廊がある。


 その先が中庭だ。


 今日は扉が半分だけ開いていた。


 濡れた空気が内側へ入ってくる。


 三〇八号室少年の足が止まる。


「ここでいい?」


 俺が尋ねる。


「うん」


 外へ出ない。


 扉から三歩ほど離れた位置。


 それでも窓越しではない空気が届く。


 少年がゆっくり息を吸う。


「匂い違う」


「雨の後だからな」


「土?」


「土と草かな」


 風が少し吹く。


 濡れた石の冷気も混じる。


 少年の前髪がわずかに動いた。


「寒い?」


「ちょっと。でも嫌じゃない」


 セリーが薄い上着を差し出す。


「着用しますか?」


「まだいい」


「寒さが増したら言ってください」


「うん」


 その時、中庭の向こう側からミナが歩いてきた。


 外ではない。


 反対側の屋根付き回廊の中だ。


 彼女も少年に気づく。


「あ」


 三〇八号室少年も小さく声を出す。


 ミナはすぐこちらへ来なかった。


 距離を残したまま、手を振る。


「水たまり見た?」


 少し大きな声。


 少年が答える。


「見た」


「踏む?」


「今日は踏まない」


「そっか」


 それだけでミナは笑う。


「私も今日は靴違うから踏まない」


「靴で決めるの?」


「濡れたら怒られるやつ」


 三〇八号室少年がセリーを見る。


「やっぱ怒る人いる」


「家庭ごとの方針があります」


 ミナが遠くから笑う。


「セリーさんなら用意してくれそう」


「条件が整えば」


「いいなあ」


 ミナは職員に呼ばれ、手を振って去っていった。


 三〇八号室少年はその後もしばらく開いた扉の近くに立っていた。


「外、そこ」


「ああ」


 三歩先。


 屋根付き石廊までなら、もうほとんど外だ。


 けれど少年は踏み出さない。


「行きたい?」


「ちょっと」


「行く?」


 少年はすぐには答えなかった。


 濡れた石。


 水たまり。


 開いた空。


 外気。


 その全部を見ながら、少し長く考える。


「今日はここまで」


「ああ」


 俺はそれ以上言わなかった。


 戻る途中、少年は何度か後ろを振り返った。


 それでも自分から戻った。


 部屋へ着くと、少し疲れて椅子へ座る。


「どうだった?」


 セリーが尋ねる。


「怖さ一。緊張二」


「寒さは?」


「一」


「外へ出なかったことは?」


 少年が少し考える。


「残念一」


「行きたかった?」


「ちょっと」


「後悔は?」


「ない」


 セリーが記録する。


 俺はその横で、少しだけ笑った。


「何」


「いや」


「何」


「行きたいのに行かなかった、ができるようになったなと思って」


 少年が眉を寄せる。


「変?」


「全然」


「前なら?」


「行きたいなら行け、か、怖いならやめろ、みたいにどっちかに決めようとしてたかもしれない」


「今は?」


「行きたいけど今日はやめる、でいい」


「帰還管理所と似てる」


「ああ」


「帰りたいけど今日は嫌、とか」


「あるかもな」


「昔の八人目」


 記録にいた。


 今日は違う。


 明日なら。


 その夜だけ外区へ残り、翌日自分から帰還を希望した人物。


「そうだな」


「今日じゃないって、大事なんだ」


「大事だと思う」


 少年は少し満足そうに頷いた。


 夕方前、帰還管理所側から追加報告が届いた。


 ただし、少年は聞かなかった。


「種類だけ」


『後期管理層の年代候補です』


「緊急じゃない?」


『緊急性なし』


「明日」


『承知しました』


 俺も聞かなかった。


 フェリクスなら今すぐ話したがっているかもしれない。


 だが、今日の少年にはもう十分だった。


 古い確認層。


 後から足された管理者代行。


 窓の向こうの水たまり。


 そして、外扉の三歩手前。


 夕食は三〇八号室で取ることを本人が選んだ。


 今日は少し疲れたらしい。


 セリーが温かいスープを用意し、パンと焼いた白身魚を添える。


 食後には、ほんの小さな果実菓子が一つ。


「これは菓子?」


「菓子です」


「今日は揉めない」


「喜ばしいことです」


「赤いジャムじゃないけど」


「明日に期待しますか?」


「期待すると出なかった時残念」


「では期待しませんか?」


「ちょっとだけ期待する」


「承知しました」


 セリーが微笑む。


 夜。


 白い薬は朝と同量。


 青と紫はなし。


 足の疲れ一。


 怖さ一。


 外扉前での緊張はもう残っていない。


 二通目の手紙は今日も読まない。


 赤い包み布にも触れない。


 少年は寝台へ入り、しばらく天井を見ていた。


「アル」


「何だ」


「本人の代わりに決める仕組み、後から足したって分かった」


「ああ」


「でも全部悪いかまだ分からない」


「ああ」


 少年が少し笑う。


「また『ああ』だけ」


「じゃあ何て言えばいい」


「アルはどう思った?」


「怖かったよ」


 自分でも少し意外なくらい、すぐ出た。


 少年がこちらを見る。


「何が」


「本人がいなくても先へ進める仕組み」


 俺は寝台の近くの椅子へ座り直す。


「たぶん、作った側には理由があったんだと思う。意思確認できない人をずっと外区に置けないとか、状態が悪化したらどうするとか、そういう問題が本当にあったのかもしれない」


「うん」


「でも、その解決として本人を通らなくても進める道を作ると、便利なんだ」


「便利?」


「管理する側には」


 少年の表情が少し硬くなる。


「本人が迷わないまで待たなくていい。何度も説明しなくていい。拒否されても分類を変えれば進められる。困る人を、仕組みの中では困らない形にできる」


「それ嫌」


「ああ。俺も嫌だ」


「でも王太子だったアルなら?」


 少し考える。


「昔の俺なら、条件付きなら必要だと思ったかもしれない」


「条件?」


「命が危ない時だけとか、複数人で確認するとか」


「今もそれある」


「ある。でも今は、その条件が少しずつ広がる怖さも知った」


「一回だけが、何回もになる?」


「救命だけだったのが、治療のためになって、治療が遅れるからになって、本人は判断できないからになって」


 少年の目が少し伏せられる。


「帰還管理所みたいに」


「そう」


 少し沈黙が落ちる。


 外では、また弱い雨が降り始めていた。


 窓を叩くほどではない。


 細かな雨音が、遠くで続いている。


「今日、外出たかった」


 少年が言う。


「うん」


「でも出なかった」


「うん」


「もし誰かに『出たいって言ったから出す』ってされたら嫌だったかも」


「今日はな」


「明日は分かんない」


「明日は明日決めればいい」


「本人意思って、面倒」


「生きてるから変わるんだろ」


 少年が少し目を細める。


「規則は変わらない方が楽」


「管理する側にはな」


「でも人が規則に合わせるようになる」


「そういう危険はある」


「じゃあ規則も変える」


「見直せるようにな」


 少年は布団の端を指でつまむ。


「今日、扉の前まで行けたの、記録する?」


「したくない?」


「していい。でも『外出希望』にはしないで」


「分かった」


 セリーが答える。


「『外扉付近まで移動。外気接触を本人選択。外へ出ることは本人が本日は希望せず』とします」


 少年は少し考える。


「『本日は』入れる?」


「入れます」


「それがいい」


 昨日の選択を、今日の命令にしない。


 今日の拒否を、明日の拒否にも固定しない。


 逆も同じだ。


 今日「少し行きたい」と思ったことを、明日「行くべき」に変えない。


「明日また雨だったら」


 少年が言う。


「うん」


「水たまり増える?」


「たぶん」


「見たい?」


 俺が尋ねる。


 少年は少し考える。


「明日決める」


「分かった」


「赤いジャムも」


「出るか分からない」


「幼い方も」


「会うかどうかは明日」


「帰還管理所の続きも」


「体調と情報量次第」


「手紙は」


 少年の視線が、薄布の下へ一瞬だけ向く。


「まだ」


「ああ」


「いっぱい先送りしてる」


「悪いことみたいに言うな」


「王太子なら怒られそう」


「昔の俺なら自分で自分を急かしたかもな」


「今は?」


 俺は少し笑う。


「王位なんてもうないし」


「それ便利に使ってる」


「これは本当に便利なんだよ」


 少年が声を立てずに笑う。


 やがて瞼が少し重くなってきた。


「お休み、アル」


「お休み、アルフォンス」


 セリーと一緒に部屋を出る。


 内側から鍵がかかる。


 廊下の窓へ雨粒がつき始めていた。


 帰還管理所の内区扉は、今日も開いていない。


 だが、その扉へ繋がる仕組みについては、一つだけ輪郭が濃くなった。


 最初から、本人の言葉が邪魔だったわけではない。


 最初期の仕組みには、人が説明し、人が確認し、そのあとで道具が補助する形があった可能性が高い。


 本人の答えが取れない時に、別の判断で進める道。


 それは、後から横へ足された。


 おそらくは何かを解決するために。


 けれど、便利な迂回路は、一度作れば使える。


 救命のため。


 治療のため。


 安全のため。


 本人のため。


 そうやって理由を積み重ねれば、いつか本人がいなくても仕組みだけは動くようになる。


 だから怖い。


 そして今日、三〇八号室の少年は外へ少し行きたいと思いながら、扉の手前で止まった。


 誰にも止められず。


 誰にも背中を押されず。


 自分で、今日はここまでだと決めた。


 それは何かを成し遂げたわけではない。


 外へ出てもいない。


 けれど、今の俺には。


 閉じた内区扉を一つ開けることより、ずっと大切な一歩に見えていた。

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