第51話 本人に選んでほしいなら、分からないことまで隠さず伝える必要がありました
白鴉療養所の朝は、前日より少し冷えていた。
雲は薄く、空そのものは明るい。けれど夜のあいだに冷えた石壁がまだ朝の温度を抱えており、東側の廊下を歩くと、窓から入る光より先に足元から冷気が伝わってくる。
三〇八号室の前まで来たところで、俺は一度立ち止まった。
昨日の夜、少年は言った。
帰還管理所の内区を開けるかどうか本人へ聞くなら、分かっていることだけではなく、分からないことも説明してほしい。
何が起こるか保証できない。
どこまで術式を止められるかも完全には分からない。
それでも「開けていい?」とだけ聞かれても困る、と。
そして、その意見をガルムへ自分で言うかもしれないとも言った。
二度、扉を叩く。
少しして、内側から鍵が外れた。
「入っていい」
部屋へ入ると、少年はすでに着替えていた。
ただし、寝台の上にはまだ布団の跡が深く残っている。起きてそれほど時間は経っていないのだろう。
「眠い?」
俺が聞くと、少年は首を横に振った。
「眠くない。起きるの遅かっただけ」
「それを眠かったって言うんじゃないのか」
「今は眠くない」
「なるほど」
横でセリーが体調確認を始める。
頭痛なし。
吐き気なし。
胸の違和感なし。
身体の重さは一。
怖さも一。
昨夜、途中で起きた記憶もなく、夢も覚えていないという。
「白い薬はどうしますか?」
少年は少し考えた。
「同じ」
「理由を伺っても?」
「今日、ガルムに話すかもしれないから」
セリーが静かに頷く。
「情報負荷ではなく、ご自身が話すことによる緊張を変数として考えているのですね」
「たぶん」
「青と紫は?」
「なし」
「承知しました」
少年はそこまで答えると、俺の方を見る。
「今日、ガルムいる?」
「帰還管理所側にいるはずだ」
「通信できる?」
「ああ」
「朝飯あと」
「分かった」
少しだけ声が固い。
怖さ一と言っていたが、これから自分で意見を伝えることへの緊張は、別にあるらしい。
「それ、怖さに入れないのか?」
俺が尋ねる。
少年は少し考えたあと、眉を寄せる。
「怖いっていうより、失敗したら嫌」
「何を失敗するんだ」
「うまく言えないとか。途中で黙るとか、変なこと言うとか」
「言い直せばいいし、黙ったら待ってもらえばいい」
「ガルム待つ?」
「待つだろ」
少年は納得していないような顔をする。
「アル、簡単に言う」
「俺だって昔は簡単じゃなかった」
「今も下手じゃん」
「そこまで言う?」
「待つのは少し上手くなった」
「褒めてないよな、それ」
少年の口元が少し緩む。
朝食は昨日と同じく廊下を選んだ。
ただし今日は人通りの少ない窓辺ではなく、少し手前の小さな休憩卓だった。向こう側には二人の患者が座っており、一人は温かい飲み物を両手で包み、もう一人は職員とゆっくり話している。
少年はその二人を一度見てから、背中を向けすぎない位置へ座る。
パン、豆と根菜のスープ、薄く焼いた肉、梨。
それから小さな蜂蜜煮が一皿。
「今日、甘いのある」
「昨日は昼でしたので、本日は朝です」
セリーが答える。
「じゃあ昼ない?」
「その可能性は高いですね」
「最初から言わなくてもいいのに」
「期待値の調整です」
「嫌な調整」
俺が笑いながらパンをちぎる。
「でも先に分かってた方が昼にがっかりしないぞ」
「それ、帰還管理所と似てる」
「甘味と一緒にするな」
「分からないことも先に言う」
「そこはまあ……似てるか」
「セリー、昼にないかもしれないって言った。絶対ないとは言ってない」
「はい」
「分からないことも言った」
「その例を本日の安全規定会議で使用するのはおすすめしません」
セリーの真顔に、少年が吹き出した。
「言わない」
「賢明です」
朝食の途中、ミナは来なかった。
少年は何度か廊下の先を見る。
俺は気づいたが、何も言わなかった。
本人も途中でそれに気づいたのか、梨を口へ運びながら少しだけ目を逸らした。
「今日、いない」
「ミナ?」
「うん」
「別の場所で食べてるんじゃないか」
「別に探さない。昨日、会えなくてちょっと残念だったけど、今日も同じかも」
「それでいいんじゃないか」
少年は小さく頷く。
「でも、会いたいから呼ぶのは違う気がする」
「用がなくても呼びたい時は呼んでいいぞ」
「それ、まだ分かんない」
「じゃあ分からないままでいい」
「アル、最近それ多い」
「便利だからな」
「俺の真似」
「お前より前から使ってる」
「嘘」
「王太子やってた頃は少なかったかもな」
自分で言ってから、少しだけ胸の奥が引っかかった。
王太子だった頃。
俺は「分からない」を言わないようにしていた。
分からないなら調べろ。
迷うなら決めろ。
王太子が不安を見せるな。
そういう言葉を、誰かに言われたこともある。
自分で自分へ言っていたこともある。
今となっては、その境目すら曖昧だった。
三〇八号室少年は俺の顔を少し見た。
「今、何か思った?」
「昔のこと」
「聞いていい?」
「王太子の頃、分からないって言うの下手だったなって」
「俺も?」
「お前が王太子だったかどうかはまだ分からない。でも、そう教えられていた可能性はある」
「あ、そっか」
「父上の手紙も」
「そうだな」
少年は二通目の手紙がある方向を見なかった。
それでも、昨日まで読んだ一文が頭に浮かんだのだろう。
「自分で判断するなって言われるのと、分からないって言うなって言われるの、逆みたい」
「そうだな」
「判断するな。でも正しくしろ」
「そんな感じだったら、かなり苦しいな」
「教師に聞け。でも迷うな」
「両立しないこともある」
少年は少し黙り、そのあと蜂蜜煮を一口食べた。
「甘い」
「話変えたな」
「今それ以上考えると朝飯まずくなる」
「正しい」
セリーが満足そうに頷く。
「食事を守る判断としては高評価です」
「セリーの評価いる?」
「必要です」
「何で」
「食事管理担当ですので」
小さな笑いが戻る。
朝食を終え、薬を飲み、三〇八号室へ戻る。
少年はすぐ通信を繋げとは言わなかった。
椅子へ座り、両手を膝に置いている。
「今?」
俺が尋ねる。
「ちょっと待つ」
「ああ」
窓の外では、中庭の職員が干していた布を取り込んでいる。
風が少し強くなったらしい。
白い布が一枚、腕の中で大きく膨らみ、近くにいた近衛が咄嗟に押さえる。職員が笑いながら礼を言い、近衛も少し照れたように手を振った。
三〇八号室少年はその様子を見ていた。
「近衛も洗濯手伝う?」
「頼まれたら手伝うだろ」
「王宮でも?」
「王宮ではあまり見なかったな」
「何で」
「役割分かれてたから」
「ここ、混ざる」
「ああ」
「いい?」
「俺は好きだ」
少年は少し考えてから頷く。
「じゃあ今」
エルが通信を繋ぐ。
最初に出たのはガルムだった。
『どうした』
三〇八号室少年が一度息を吸う。
「昨日の、開ける条件。俺、言いたいことある」
『聞く』
いつもより短い返事だった。
少年の肩が少しだけ上がる。
「えっと……本人に聞くって言っただろ。開けていいかって。でも、それだけじゃ嫌」
『どういう意味だ』
少年は一度俺を見た。
俺は何も言わない。
少し迷いながら、本人が続ける。
「分かってることだけじゃなくて、分かってないことも説明してほしい。何が起こるか、どこまで止められるか、古い術式だけなら安全なのか。分からないなら、分からないって」
一気に言ったせいか、途中で少し息が浅くなる。
それでも止まらなかった。
「俺なら『危なくないから開けていい?』って聞かれたら、危なくないと思って決める。でも、本当は危ないかもしれないなら、それは違う」
通信の向こうでガルムが何か書いたらしい。
『続けろ』
「分からないことが多すぎたら、決められないこともある。でも、それを『決められないから管理者が決める』にしないでほしい。帰還管理所、前そうなったから」
声が少し低くなる。
「待てるなら、待ってほしい。でも中に誰か倒れてるとか、助けないと死ぬなら、それは別。だから絶対じゃない」
『その認識でいい』
少年の指が膝の布を少し掴む。
「あと、対象かもしれない人に同じ説明をそのままするのも違うと思う」
『成人アル、保存槽から出た幼いアルフォンス、お前。それぞれに合わせるべきだ、と?』
「うん。あいつはまだ長く話すと疲れるし、俺は手紙とかで頭いっぱいになる時ある。アルは勝手に全部聞こうとするし」
「俺は何だよ」
『それはこっちで止める』
「おい」
少年が少し笑い、緊張がわずかに抜けた。
「だから、その人が分かる量とやり方で説明してほしい」
『分かった。それも含めて案に入れる』
「記録する?」
『する。どう残してほしい』
少年の表情が少し固くなる。
「俺の名前、ずっと規則に残るのは嫌」
『提案者を非公開にして、理由だけ残せる』
「あとで見たい人は?」
『本人が許可した範囲だけ確認できる形にする』
「それがいい」
『決定ではなく提案扱いにする。運用前に医療側、現場側、患者側で確認する』
「患者側って俺?」
『お前一人に固定する気はない』
「それは嫌」
『知ってる』
少年は少し考えた。
「喋れない人は?」
『職員が勝手に気持ちを決めるのではなく、本人が選べていることを残す。必要なら支援者が補う』
「十一人目みたいに。喋らなくても、暗い灯りがいいとか柔らかい飯がいいとか」
『そういう選択も意見として扱う』
少年の肩が少し下がる。
「じゃあ、それで」
『提案として受けた』
「……終わり?」
『お前が他にないなら』
少年は少し笑う。
「思ったより短い」
『長くしたいのか』
「したくない」
『じゃあ終わりだ』
「ガルム」
『何だ』
「途中で待った」
『待てって言ったのはお前らだろ』
少年は少しだけ目を伏せる。
「うん」
『じゃあ守る』
「……ありがと」
『どういたしまして』
通信が切れる。
三〇八号室少年はしばらく何も言わなかった。
表情は落ち着いているが、両手はまだ膝の上で少し強く組まれている。
「怖さ?」
セリーが尋ねる。
「一」
「緊張は?」
「三だった。今一」
「記録しますか?」
「緊張はしたって残していい」
「はい」
「失敗した?」
俺が尋ねる。
少年は少し考える。
「最初止まった。でも言えたからいい」
「それなら十分だろ」
「ガルム、思ったより普通だった」
「どういう想像だったんだ」
「もっと『規則は大人が決める』って」
「昔なら、俺も患者の意見を聞いた上で最後は自分が決める、くらいに考えてたかもしれない」
「今は?」
「俺自身が対象かもしれないし、決める側と決められる側を両方経験すると、見えるものも増える」
少年は少し考えてから頷いた。
「決められる側を知らない人が、一人で決めるの怖い」
「だから一人で決めない仕組みにするんだろ」
「それならいい」
午前の話はそこで終わるはずだった。
だが、三〇八号室少年が温かい飲み物へ手を伸ばしたところで、エルから別の連絡が入る。
『旧保養施設側から、非侵襲調査の結果が届いています。緊急性はありません』
少年の手が止まる。
「種類」
『地下構造、通気経路、温度差、封鎖箇所の有無です』
「開けた?」
『開けていません。本人も地下へ近づけていません』
少年は少し考え、飲み物を一口飲んだ。
「今聞く」
「大丈夫か?」
「ガルムの話、もう終わった。情報入る余裕、まだ二くらい」
「それ数にするのか」
「怖さと違う」
「便利だな」
セリーは記録しなかった。
本人が自分の感覚を整理するために使っているだけと判断したのだろう。
通信先にはリディアとオスカーがいた。
ヨアヒムは名前不明の子供と別室にいるらしい。
『先に確認します。地下の扉、壁、床板は開けていません。通気口も分解していませんし、本人の木片も使っていません』
「うん。それ大事」
オスカーの声が少し遠くで聞こえる。
『俺、今までこんなに「何もしてない」ことを報告したことないぞ』
「してないの大事だから」
『最近分かってきた』
少年が少し笑った。
「それで、地下」
『古い図面と、外側からの温度測定、音響反射、空気流だけで確認しました。昨日本人が示した廊下奥の階段の下には、図面どおり設備区画があります』
「貯蔵室とか」
『はい。暖房設備室、洗濯設備、貯蔵室までは一致しました。用途不明の小部屋も存在します』
少年の表情が少し引き締まる。
「入口は?」
『石壁の一部へ金属枠を埋め込み、その内側に厚い板材を重ねた扉です。古い設備室の保守扉に近い構造で、物理鍵穴と微弱な魔力残留があります。ただし帰還管理所の王家式認証とは別系統です』
「じゃあ関係ない?」
『そこまでは言えません。建物自体が後から改修されていますから』
「分かった。通気口は?」
『本人が以前見ていた通気口は、暖房設備室の主流路ではなく、用途不明室の上部へ繋がる補助流路の可能性が高いです』
三〇八号室少年の指が止まる。
「『そこ、くる』」
『はい。ただ、現時点で確認できるのは空気だけです。通常時の温度もほぼ室温です』
「じゃあ『あっちは、さむい』とは今の状態だと合わない」
『その通りです。壁材には微量の薬草系成分も残っていますが、種類はまだ特定していません』
「紫鈍草?」
『候補の一つですが、まだ決めません』
少年が小さく頷く。
「他は」
『用途不明室の床下に、さらに細い空洞があります。深さは一メートル前後で、人が立てるほどではありません』
「管かも?」
『可能性はありますが、行き先はまだ不明です』
少年はしばらく黙る。
「『むこう、した』も『あけないで』も、その部屋と関係あるかもしれない。でもまだ分からない」
『はい』
「本人に聞く?」
リディアがすぐには答えなかった。
代わりにオスカーが話す。
『今朝は普通に朝飯食ってる。木片も持ってる。地下の話は自分からしてない。だから今日は聞かないつもりだ』
『私とヨアヒムも同意見です。今すぐ開ける必要もありません』
少年は少し息を吐いた。
「よかった」
『ただし、一つ安全上の問題があります』
「何」
『用途不明室の周辺だけ、他の地下区画より三度ほど低温です』
少年の顔から少し笑みが消える。
「暖房設備の近くなのに?」
『はい。理由は不明です』
「冷却か、保存?」
『どちらも可能性はあります。生命反応は外側からの検知では確認できていませんが、壁材が厚いため完全否定もできません』
「もし中に人がいたら、開けないでって言われてても救助するかもしれない」
『生命危機が確認された場合は、その可能性があります。ただし現時点では確認されていません』
少年は口を閉じ、少し考える。
「今は開けない。でも何か見つかったら、その時また考える」
『はい』
「冷たい部屋、帰還管理所方向じゃない?」
『違います』
「なら今は一緒にしない」
『その判断でいいと思います』
少年が小さく頷く。
「終わり」
通信を切ったあと、部屋にはしばらく静けさが残った。
外では風が強くなり、窓枠がかすかに鳴っている。
「寒い部屋」
少年がぽつりと言った。
「ああ」
「名前不明の子、前『あっちは、さむい』って言った」
「繋がる可能性は上がったな」
「でも同じって決めない」
「調べる価値が上がった、くらいだ」
「それならいい」
少年が少し安心したように背もたれへ身体を預ける。
「何か食べる?」
セリーが尋ねる。
「今?」
「情報量が多かったので」
「甘いの?」
「温かい飲み物と、小さな乾燥果実があります」
「蜂蜜じゃない」
「朝召し上がりました」
「分かってる。果実でいい」
休憩を挟む。
その後、三〇八号室少年は二通目の手紙へは触れなかった。
赤い布にも。
今日の午前だけで、自分からガルムへ意見を伝え、旧保養施設地下の新しい情報を聞いた。
これ以上重ねない。
昼前には、保存槽から出た幼いアルフォンスについて、医療側から短い報告だけ届いた。
体調安定。
歩行訓練は昨日と同程度。
今日は本人から「廊下じゃなく窓の近くまで」と希望。
三〇八号室少年との再接触希望なし。
「向こうから言ってない」
三〇八号室少年が確認する。
『はい』
「俺も言ってない。じゃあ今日も会わない」
『その予定です』
「元気?」
『疲労は一。痛みなし』
「赤いジャム」
少年が言いかけて止まる。
「何でもない」
『承知しました』
俺が少し笑う。
「気になるんだろ」
「次会った時でいい。医療連絡で聞く必要ない」
「それならいい」
昼食は部屋ではなく、少し広い食堂脇の小区画を選んだ。
ここまで来るのは初めてではないが、以前より人の気配が多い。
患者が四人。
職員が二人。
近衛が一人、離れた入口付近にいる。
三〇八号室少年は最初に人数を数えた。
それから、奥ではなく出口の見える席を選ぶ。
誰もその選択を訂正しない。
「ここ、ちょっと騒がしい」
「戻りますか?」
セリーが尋ねる。
「いや。今日は平気」
「分かりました」
食事は魚の煮込みと白パン、野菜の温かい蒸し物。
予告どおり甘味はない。
少年は皿を見て、一度だけため息をついた。
「本当になかった」
「朝ご説明しました」
「分かってた」
「では問題ありませんね」
「分かってても残念は残る」
「それは否定していません」
向かい側の患者が小さく笑った。
少年は一瞬そちらを見る。
患者は慌てて視線を逸らさず、少しだけ会釈した。
「ごめん。聞こえた」
三〇八号室少年は少し迷ってから答える。
「別にいい」
「甘いのないと残念だよね」
「うん」
「私も昨日なかった」
「何で?」
「先生に食べすぎって言われた」
少年がセリーを見る。
「同じ?」
「あなたは食べすぎではありません。全体量を調整しているだけです」
「じゃあ俺の方がまし」
「勝負にしないでください」
患者がまた笑う。
少年も少し笑った。
知らない相手との会話だった。
名前を聞かない。
病気も聞かない。
ただ甘味がなかった話をした。
それだけで終わる。
けれど食事の後、席を立つ時、少年は少しだけその患者へ向かって言った。
「明日はあるといいな」
「そっちもね」
「うん」
廊下へ出てから、少年が小さく呟く。
「名前知らない。でも話せた」
「別に知らなくてもいい時はある」
「でも名前大事な時もある」
「そうだな」
「面倒」
「今日二回目だぞ」
「人間が面倒」
「それは否定しない」
午後。
旧保養施設側では地下の温度差をさらに外側から調べていた。
三〇八号室少年へはすぐ共有されなかった。
本人が午前に「情報余裕二」と言っていたこともあり、エルが非緊急情報として保留したのだ。
代わりに、少年は短い散歩を選んだ。
中庭へはまだ出ない。
昨日と同じ窓辺まで。
ミナはそこにいた。
廊下の壁へ背を預け、外を見ている。
三〇八号室少年が足を止める。
「いた」
思わず出た声だった。
ミナが振り返る。
「あ、おはよう……じゃないや。もう昼すぎ」
「こんにちは?」
「たぶん」
二人とも少し曖昧な顔になる。
「何見てる?」
「雲。変な形だから」
窓の外へ視線を向ける。
白い雲が横に長く伸び、その先だけ細く折れている。
「何に見える?」
「魚」
「私は靴」
「どこが」
「ここ」
ミナが窓ガラスへ指を近づける。
三〇八号室少年も少し寄る。
「魚だろ」
「靴だよ」
「じゃあ魚の靴」
「何それ」
「知らない」
二人とも笑う。
俺とセリーは少し離れる。
近衛も視線を外した。
聞こえなくするほどではない。
けれど、会話の真ん中へ入らない。
少しして、ミナが窓の外を見たまま言った。
「今日、外ちょっと寒いって」
「出た?」
「ううん。職員さんが言ってた」
「俺もまだ」
「水たまりないよ」
「知ってる」
「また雨降るかな。降ったら見る?」
三〇八号室少年は前よりすぐ固まらなかった。
「窓からなら」
「じゃあ雨の日ここ来る?」
少年が少し考える。
「その時、ここ来たかったら」
「うん。じゃあ約束じゃないね」
三〇八号室少年が少し驚く。
「何で分かった」
「前、嫌そうだったから」
「嫌じゃない。びっくりしただけ」
「じゃあ、びっくりした顔」
「分かる?」
「ちょっと」
少年は少し恥ずかしそうに目を逸らす。
「今は平気」
「じゃあよかった」
そこまで話すと、ミナは職員に呼ばれた。
「またね」
「また」
彼女が去ったあと、少年はしばらく窓の外を見ていた。
「約束じゃない」
「でも、またって言える」
「昨日のあいつとも同じ?」
「似てはいるな」
「同じじゃない」
「そこまで言わなくても分かってる」
「確認」
少年が笑う。
夕方前。
エルが、旧保養施設地下の追加報告があると知らせた。
「今聞く?」
俺が尋ねる。
三〇八号室少年は少し考えた。
「内容の種類」
『低温区画の原因候補、壁外からの生命反応再確認、床下空洞の方向です』
「緊急性は?」
『ありません。生命反応も現時点では未確認です』
「じゃあ聞く」
通信先はリディアだけだった。
『用途不明室そのものに、弱い冷却術式が残っている可能性が高いです。完全稼働ではありません』
「何のため?」
『保存、薬品管理、その他の設備用途。まだ絞れません』
「人は?」
『生命反応は確認できません。ただし壁が厚いため完全否定はしません』
少年は少し安堵する。
『床下の空洞は南西方向へ続き、旧保養施設の外壁付近で反射が弱くなります。排気管、薬液管、保守経路などが候補です』
「帰還管理所方向じゃない」
『直接は向かっていません』
「じゃあ今は別にしておく」
『はい』
「開けない?」
『開けません』
「名前不明の子が『あけないで』って言ったからだけじゃない?」
『それも理由ですが、用途も内部状態も不明です。準備なしで開ける必要がありません』
少年の表情が少し緩む。
「もし本人が明日『開けて』って言っても?」
『安全確認はします』
「逆に嫌って言ったら?」
『緊急性がなければ、かなり強い停止理由です』
少年は少し考えた。
「やりたいは、すぐやる理由じゃない。でもやりたくないは止める理由になりやすい」
『概ねその理解でいいです。ただし救命のような例外はあります』
「分かった」
少年は椅子の背へ少し身体を預けた。
「今日、俺がガルムに言ったやつと似てる」
『報告を読みました』
「俺の名前出てない?」
『提案者非公開です。「対象となり得る本人側からの意見」とだけ』
「それならいい」
通信を終えたあと、少年は少し疲れた顔をしていた。
「情報余裕」
俺が聞く。
「ゼロ」
「じゃあ終わりだな。手紙も旧保養施設の続報も今日はなし」
「うん。来ても明日」
セリーが温かい飲み物を出す。
「夕食まで休息です」
「アルも?」
「主様もです」
「何で俺まで」
「午前から複数の通信へ同席されています」
「俺は平気だぞ」
「本人申告だけで判断しないんだろ」
三〇八号室少年が少し楽しそうに言う。
セリーも静かに頷いた。
「その通りです。表情、姿勢、呼吸、行動量も参考にします」
「二人がかりか」
「主様、本日は反論を減らしてください」
「はい」
思わず素直に答えると、少年がさらに笑った。
夕食までは本当に何も調べなかった。
俺は一度だけ資料へ手を伸ばしかけ、セリーに見られてやめた。
三〇八号室少年はその様子を見ていたが、今日は何も言わなかった。
代わりに窓の外の雲を見ている。
「魚?」
俺が聞く。
「もう形変わった」
「靴?」
「それもない」
「何に見える」
「何にも」
「それでも見るのか」
「うん」
その答えが少し意外だった。
何かに見えなくても見る。
意味がなくても見る。
以前のこの少年なら、時間を使う理由を探したかもしれない。
何のため。
何が分かる。
何が正しい。
そういう問いを出す前に、ただ窓の外を見る時間が少しずつ増えている。
夕食は白鴉の小さな食堂脇で取った。
昼とは別の患者がいて、職員たちの会話も少し多い。
少年は騒がしさを確認してから、自分で同じ場所を選んだ。
今日は甘味がないと思っていたが、小さく切った焼きリンゴが添えられていた。
「ある」
「甘味ではなく果物です」
セリーが答える。
「甘い」
「加熱した果実です」
「同じ」
「分類上は違います」
「分類」
三〇八号室少年が少し目を細める。
「人じゃないからいい?」
「食材分類は本人意思を奪いません」
「セリー強い」
周囲にいた職員が笑いを堪えている。
少年はそれに気づき、以前なら少し表情を固くしたかもしれない。
今日は自分から言った。
「聞こえた?」
近くの職員が少し申し訳なさそうに頷く。
「はい。すみません」
「別にいい」
そして焼きリンゴを一口食べる。
「甘いから俺の勝ち」
「何に勝ったのですか」
「分類」
「意味が分かりません」
今度は周囲から小さく笑い声が漏れた。
三〇八号室少年も笑った。
夜。
三〇八号室へ戻り、白い薬は朝と同じ量。
青と紫はなし。
体調変化なし。
怖さ一。
今日も二通目の手紙は読まない。
薄布の下に置いたまま。
赤い布も調べない。
俺とセリーが退出する前、少年が寝台の上で少し考え込んでいた。
「アル」
「何だ」
「今日、俺、途中で止まったけど言えた」
「ガルムに?」
「うん。ガルムも待った」
「それなら十分だろ」
「言葉って、全部一回で言わなくていいんだな」
「言い直してもいいし、途中で変わってもいい」
「今日の『分からないことも説明して』も、あとで変えるかも」
「変えたくなったらな」
「規則になったら?」
「規則も見直せるようにする」
少年は少し考えた。
「帰還管理所も変わった。でも悪くなった」
「変えること自体が悪かったんじゃない。誰のために何を変えて、その結果どうなったのかを見る仕組みがなくなったんだと思う」
「本人が規則の中からいなくなった」
「そうだな」
「今回は本人を入れる。でも本人だけでも決めない。医者とか、安全見る人とか、みんなで見る」
「その方がいい」
「アル一人には?」
「決めさせない」
少年の口元が少し緩む。
「それ大事」
「おい」
「主様」
「セリーまで」
「事実です」
三〇八号室少年の笑い声が少し長く続いた。
やがて落ち着き、少年は布団へ身体を沈める。
「名前不明の子の寒い部屋、今日も開けなかった」
「そうだな」
「生命反応は見つからなかった。でも完全には分からない。そう言われた方が、少し安心した」
「不安にはならないのか」
「なる。でも、本当は分からないのに『大丈夫』って言われる方が嫌」
その言葉に、俺は少し黙った。
父王の手紙。
教師。
治療。
本物。
偽物。
正しい感情。
間違った判断。
この少年はずっと、誰かに「正しい答え」を与えられてきたのかもしれない。
だから今、答えがないことを隠さない人間の方を少しずつ信じ始めている。
「アルは?」
「何が」
「分からないって言われるの、怖い?」
「昔はかなり嫌だった。でも今は、その方が選べることもある」
「待つとか、調べるとか、やめるとか?」
「誰かに聞くのもな」
「答えがないから選べる時もある」
「時々な」
少年は少し目を細めた。
「変なの」
「人間は面倒なんだろ」
「今日三回目」
「数えてたのか」
「記録」
「その記録はいらない」
「俺にはいる」
「何に使う」
「分かんない」
「じゃあいらないだろ」
「分からないから残す」
「使い方が上手くなったな」
少年が満足そうに笑う。
「明日、保存槽のあいつに会うかも分かんない。ミナも、水たまりも、手紙も、旧保養施設の下も、帰還管理所も」
「いっぱいあるな」
「いっぱい分かんない」
少年は目を閉じる。
「でも今日、言えたこと一個あるからいい」
「分からないことも言ってほしい、だろ」
「うん。それは今の俺」
「明日変わっても?」
「今日はそう思った」
「それで十分だ」
「お休み、アル」
「お休み、アルフォンス」
セリーも静かに挨拶し、俺たちは部屋を出た。
内側から鍵がかかる。
白鴉療養所の夜は静かだった。
帰還管理所の内区扉は、まだ閉じている。
旧保養施設地下の用途不明室も、まだ開けていない。
名前不明の子供の「あけないで」が何を指しているのかも、冷たい部屋に何があるのかも、通気口や床下の空洞がどこへ繋がるのかも分からない。
答えは、ほとんど増えていなかった。
それでも今日、三〇八号室の少年は自分から一つの意見を外へ出した。
本人に選んでもらうなら、都合のいい情報だけを渡さない。
分からないことは、分からないまま伝える。
決められないなら、待てる時は待つ。
そして説明そのものも、受け取る人に合わせる。
かつての帰還管理所では、本人の意思が規則の中から少しずつ消えていった。
今度は、その逆を一度で完成させるのではなく、本人の言葉も、医療側の判断も、安全を見る者の意見も、分からないことも残したまま見直していく。
扉はまだ閉じたままでいい。
今は開けることより先に、どう聞き、どう待つのかを決めるところから、俺たちはやり直していた。




