第50話 扉の向こうを知る前に、そこへ行きたくないと言った子供の言葉を置き去りにはしませんでした
夜明け前に薄く立ち込めていた霧は、朝食の時間が近づく頃には白鴉療養所の中庭からほとんど消えていた。
代わりに残ったのは、雨上がりとは違うしっとりとした冷気だった。東側の窓から見える森は遠くなるほど薄い灰色へ溶け、枝先に止まった小鳥が鳴くたび、その声だけが妙にはっきりと療養所の石壁へ返ってくる。
三〇八号室の前まで来ると、今日は内側から小さな物音がしていた。
二度、扉を叩く。
「入っていい」
少しして鍵が外れる。
扉を開けると、少年は床にしゃがみ込み、寝台の脇へ落としたらしい布を拾っていた。二通目の手紙へかけていた薄布とは違い、ただの小さな膝掛けだった。
「何してるんだ」
「落ちた」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くな」
朝から少し元気らしい。
セリーが口元を僅かに緩めながら、いつもの体調確認を始める。
頭痛なし。
吐き気なし。
胸の違和感なし。
眠気なし。
身体の重さは一。
怖さも一。
白い薬については、昨日と同じ量を希望した。
「今日も減らさない?」
俺が尋ねると、少年は椅子へ座りながら頷いた。
「昨日、あいつに会ったから」
「保存槽のアルフォンス?」
「うん」
口にしたあと、一瞬だけ困った顔になる。
「やっぱ呼び方長い」
「今すぐ決めなくていいだろ」
「話す時困る」
「本人に今度聞いてみろ」
「今度会うって決まってない」
「ああ」
少年は少し考え、薬へ話を戻した。
「昨日、怖さ上がったけど、薬減らしたせいか会ったからか分からない。だから今日変えない」
「分かりました」
セリーが静かに記録する。
「青と紫は?」
「なし」
「はい」
そこで少年がふと俺を見る。
「昨日、発見された子の話、聞かなかった」
「ああ」
「まだある?」
『保留状態で残っています』
エルが答える。
「緊急じゃない?」
『現在も緊急性なしです』
少年は少し迷ったあと、首を横に振った。
「朝飯先」
『承知しました』
それで終わる。
気になっていないわけではない。
昨日、旧保養施設から「体調、木片、通気口とは別の本人発言」があると聞いた時、少年は一度顔を上げた。
それでも、保存槽から出た幼いアルフォンスと初めて向き合った日の最後へ、さらに別の子供の重い言葉を詰め込まなかった。
今朝も、先に食べる。
その選択が少しずつ当たり前になっている。
朝食は三〇八号室の近くではなく、昨日より少し先の窓辺を選んだ。
今日は廊下を通る人が少ない。
療養所の職員が一人、掃除道具を抱えて通った時も、少年はちらりと見るだけだった。
外では霧が晴れ始め、濡れた草に朝日が差している。
「今日、甘いのある?」
「朝食に果実があります」
セリーが答える。
「昨日の酸っぱいやつ?」
「今日は別です」
「甘い?」
「昨日よりは」
少年が疑うような目を向ける。
「信用していい?」
「私は昨日も『少し酸味があります』と正確にお伝えしました」
「俺の少しと違った」
「味覚には個人差があります」
「便利」
少年が少し笑う。
今日は柔らかいパンと鶏肉の入った温かいスープ、薄く焼いた卵、それに橙色の果実が二切れだった。
一口食べた少年が、少し目を見開く。
「甘い」
「よかったですね」
「昨日より全然」
「個人差です」
「セリー、そこ絶対譲らない」
俺が横から果実へ手を伸ばすと、セリーがこちらを見る。
「主様はご自身の分を召し上がってください」
「取らないよ」
「昨日、赤いジャムを多く取ろうとされました」
「昨日の俺を今日の俺に使うな」
三〇八号室少年が吹き出した。
「それ違う!」
「何が」
「食べ物は累積するってセリー言ってた」
「お前、そっちにつくのか」
「面白い方」
「最悪だ」
朝から小さな笑いが続く。
その途中、廊下の向こうからミナが姿を見せた。
昨日までのように立ち止まるかと思ったが、今日は少し違った。
ミナは少年の近くまでは来ないまま、歩く速度だけを落とす。
「おはよう」
三〇八号室少年が一瞬遅れる。
「……おはよう」
「今日、霧すごかったよ」
「見てない」
「朝早かったから」
「何時?」
「分かんない」
「じゃあ早いって何で分かるの」
「眠かったから」
少年が明らかに困った顔をする。
「それで時間分かる?」
「分かんない」
「じゃあ同じじゃん」
ミナが笑う。
「そうかも」
そのまま二人とも少し笑った。
「今日も水たまりないね」
「昨日なくなった」
「また雨降ったらできるよ」
「踏む?」
「大きかったら」
「何で大きいと踏むんだよ」
「楽しいから」
「分かんない」
「今度やってみたら?」
三〇八号室少年の表情が固まる。
ほんの僅かだったが、俺には分かった。
外へ出る。
今度。
一緒に何かする。
単なる子供同士の言葉でも、この少年にはまだ少し大きい。
ミナも何か察したのか、それ以上押さなかった。
「嫌ならしなくていいよ」
「……うん」
「じゃあまたね」
「また」
ミナはそのまま廊下の向こうへ歩いていった。
少年は少しだけ彼女の背中を見ていた。
「怖さ?」
セリーが尋ねる。
「一のまま」
「今の話は?」
「びっくりしただけ」
「外へ出る話?」
「うん」
パンをちぎりながら、少し考える。
「でも『嫌ならいい』って言った」
「ああ」
「だから平気」
「水たまり踏みたい?」
「今は分かんない」
「それでいいだろ」
「アルは踏む?」
「セリーが許せば」
「主様」
「冗談です」
食事を最後まで終えた。
白い薬も今日選んだ量を飲む。
少し休んだあと、三〇八号室へ戻る。
「昨日の子の話」
少年が自分から切り出した。
「今聞く?」
「うん」
「誰いる?」
「アルとセリーだけ」
「ブラットは?」
「いらない。本人の言葉だけなら」
「分かった」
エルが旧保養施設との通信を繋ぐ。
ヨアヒムの声の向こうでは、窓を開けているのか僅かに鳥の声が聞こえた。
『おはようございます。本人の体調は安定しています』
「昨日の続き」
三〇八号室少年はすぐそこへ入った。
『はい。ただし、昨日の発言が何を意味するかはまだ確認していません』
「分かった」
『昨日の午後、本人は部屋の入口付近に座っていました』
「通気口から離れて?」
『はい。通気口は視界に入らない位置です』
「誰が近く?」
『オスカー。四歩です』
「木の板は?」
『胸元に持っています』
「それで?」
ヨアヒムが少し間を置いた。
『廊下の先を見て、本人から「むこう、した」と言いました』
三〇八号室少年の表情が変わる。
「向こう、下」
『はい』
「どっち?」
『廊下の奥、階段のある方向です』
「地下へ行く階段?」
『旧保養施設の構造上、下階へ続く階段はあります。ただし本人をそこへ近づけてはいません』
「帰還管理所?」
『方向は一致しません』
少年の目が少し大きくなる。
「違う?」
『少なくとも現在確認している帰還管理所の方向とは一致しません』
俺も思わず息を吐いた。
「じゃあ、今まで言ってた下が帰還管理所とは限らない」
『はい。むしろ今回の指示だけを見るなら、旧保養施設内部の下階を示している可能性が出ました』
「そこ調べた?」
少年がすぐ聞く。
『安全側から構造図だけ確認しました。本人を連れてはいません』
「下に何ある?」
『古い図面では貯蔵室、暖房用設備室、洗濯設備、それから一室だけ用途不明の小部屋があります』
「新しい図面は?」
『残っていません』
「通気口と繋がる?」
『構造上、可能性があります』
少年の指が膝の上で僅かに動いた。
「そこ、くる」
『はい』
「前、通気口見て言った」
『はい』
「下から何か来る?」
『可能性はあります。ただし現在、風・匂い・音の異常は検知できていません』
「本人には聞いた?」
『昨日は聞いていません』
「何で」
『「むこう、した」と言ったあと、本人の呼吸が早くなったためです』
少年は口を閉じた。
『そのあと、こちらから「下へは行きません」と伝えました』
「本人は?」
『頷きました』
「それだけ?」
『そのあと、本人からもう一つ』
ヨアヒムの声が少し低くなる。
『「あけないで」と』
部屋が静かになった。
三〇八号室少年の手が止まる。
「あけないで」
『はい』
「何を?」
『確認していません』
「階段?」
『分かりません』
「下の部屋?」
『可能性はあります』
「通気口?」
『それも否定できません』
「帰還管理所?」
『方向が異なるため、直接結びつけてはいません』
少年は少し俯いた。
「怖さ二」
自分から言う。
「続けられますか?」
セリーが尋ねる。
「うん。でも聞きたいの一個」
少年は通信へ向き直る。
「今、下を開ける予定ある?」
『ありません』
「調べる?」
『安全側から構造だけ確認しています。扉や床、壁を開ける作業はしていません』
「本人に黙って?」
『現在の安全確認に必要な範囲だけです。もし地下の特定設備へ踏み込む必要が出た場合は、本人の発言との関連を整理してから判断します』
「本人に『何を開けないで』って今日聞く?」
『体調を見ます。こちらから急いで聞く予定はありません』
「それがいい」
少年は少し息を吐く。
「伝言は?」
俺が尋ねる。
しばらく考える。
「……『開けないって聞いた』」
「誰が?」
「俺」
「それを送る?」
「変?」
ヨアヒムが少し考えてから答える。
『「こちらでは今、下の設備を開ける予定はないと聞きました。あなたの言葉を勝手に詳しく聞き出してはいません」という内容なら伝えられます』
三〇八号室少年は眉を寄せた。
「長い」
『では、本人へは保護側から必要な説明だけ行います。あなたの伝言としては送らない方法もあります』
「それで」
『承知しました』
「俺が安心させなきゃってしなくていい?」
「いい」
俺が答える。
「向こうには向こうの人がいる」
「ヨアヒム、オスカー、リディア」
「ああ」
「俺が何か言わなくても守る」
「ああ」
少年は小さく頷いた。
『それから』
ヨアヒムが続ける。
『本人は今朝、木片を自分から机の上へ置きました』
「離した?」
『手の届く範囲です』
「取っていいって?」
『聞いていませんし、触れていません』
「何で置いた?」
『不明です』
「また持った?」
『朝食後、自分で戻しました』
少年が少しだけ表情を緩める。
「持たなくてもいい時間できた」
「そう見える可能性はあります」
『ただし、木片への執着が減ったとは記録しません』
エルの声が入る。
「うん」
「今日はそれで終わり?」
『共有許可範囲は以上です』
「分かった」
通信が切れる。
三〇八号室少年はしばらく黙っていた。
「下、帰還管理所じゃないかもしれない」
「ああ」
「少なくとも今回指した方向は違う」
「ああ」
「じゃあ『あっちは寒い』も?」
「まだ分からない」
「『そこ、くる』も」
「ああ」
「通気口の先、旧保養施設の地下かもしれない」
「ああ」
「帰還管理所とは別の場所が増えた」
「ああ」
「面倒」
「いつもの」
少年が少し笑う。
「でも、混ぜなくてよかった」
「そうだな」
「木の板、帰還管理所っぽい印ある。だから下も全部帰還管理所ってしてたら」
「ああ」
「間違ってたかもしれない」
少年は少し遠い目をした。
「似てるもの、まとめると楽」
「ああ」
「でも楽な方が正しいとは限らない」
「ああ」
午前中の最初の情報は、そこで終わった。
少年はそのまま休憩することを選んだ。
二通目の手紙へ目を向けたが、今日はまだ薄布を外さない。
「読む?」
俺が聞く。
「今は無理」
「帰還管理所じゃなく、発見された子の話なのに?」
「だから」
少年は少し考える。
「『あけないで』って聞いたあとに、父上の『自分で判断するな』読むと混ざる」
「ああ」
「今日はまだ分けたい」
「分かった」
それ以上聞かない。
少年が寝台へ横になる。
午前の陽射しが窓から入っている。
「アル」
「何だ」
「昨日会ったやつ」
「ああ」
「今日は会わない?」
「予定はない」
「向こうからも?」
「今のところ」
「よかったような、ちょっと残念なような」
「ああ」
「これも両方」
「ああ」
少年は目を閉じる。
「昨日またって言ったけど、今日会わなくても嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
「いつかのまた」
「ああ」
「便利だな」
「何でも便利って言うな」
少し笑ったあと、少年は短く眠った。
昼前に目を覚ました時、怖さは一へ戻っていた。
そして、ちょうどその頃。
帰還管理所側から、前日に保留した待機術式隔離試験の追加結果が届いた。
『緊急性なし』
エルが先に告げる。
「内容の種類」
『扉内部認識層への魔力供給経路、外部隔離状態での擬似開閉信号試験、後世管理分類接続口の停止可否です』
少年が少し目を細める。
「扉開けた?」
『開けていません』
「動かした?」
『物理的には動かしていません』
「じゃあ聞く」
午前の名前不明の子供の話から時間も空いている。
少年自身がそう判断した。
通信にはガルムとリディアが入った。
『先に結果だけ言う』
ガルムの声がする。
『扉は開けてない。中にも入ってない。誰も対象試験に使ってない』
「全部先に言った」
『お前が聞くからだ』
「今日はまだ聞いてない」
『どうせ聞くだろ』
少年が少し笑う。
「正解」
リディアへ変わる。
『扉内部の認識層へ流れる魔力ですが、外側待機術式とは別の供給経路がありました』
「やっぱり」
『はい。そのため、外側を完全隔離しても、扉そのものへ一定量の魔力が入れば内部認識層は動く可能性があります』
「扉開ける時?」
『開けるための解除術式を流した段階で起動する可能性があります』
「じゃあ、開ける前にもう動く」
『そうです』
少年の表情が少し硬くなる。
「何する?」
『古い認識なら本人登録、帰還資格、保持認証物との照合。後世接続が生きていれば管理分類も参照する可能性があります』
「処置優先も」
『はい』
「対象見つけたら?」
『そこから先が分かりません』
「怖さ二」
少年が自分から言う。
「止めますか?」
「まだ平気」
リディアが続ける。
『ただ、進展もあります。後世管理分類を読む接続口だけは、外側から一時的に遮断できる見込みが高くなりました』
「古い方は?」
『残ります』
「それ、いい?」
『古い方が安全だとはまだ言えません』
少年が少し考える。
「本人登録とか資格見るだけでも、そのあと何するか分からない」
『はい』
「保持物も」
『はい』
「だから古い方だけになっても開けない」
『今はその方針です』
「じゃあ何が進んだの」
少し不満そうな声だった。
ガルムが答える。
『後世の「処置優先」分類を切れる可能性が高くなった』
「でも古いの残る」
『ああ』
「だからまだ開けない」
『ああ』
「……進んではいる」
『そういうことだ』
少年は少しだけ口元を緩める。
「擬似開閉って?」
リディアが答える。
『扉へ実際の解除魔力を流さず、「開ける命令に近い信号」だけを隔離具から送っています』
「反応した?」
『外側待機術式は反応しました。内部認識層にも僅かな反応がありました』
「誰もいないのに?」
『認証対象が存在しないため、照合開始前で止まっています』
「じゃあ対象いたら進んだ?」
『可能性があります』
「アルいなくてよかった」
『だから白鴉に置いてる』
ガルムが即答する。
「俺も今日は反論しない」
『珍しい』
「昨日から俺の調整済拾うかもしれないって分かってるからな」
「保存槽の方は?」
少年が尋ねる。
『試してない』
「俺も?」
『試してない』
「発見された子も?」
『当然だ』
「木の板も?」
『触ってもない』
「AG-02?」
『使ってない』
少年の肩が少し下がる。
「よし」
『それでだ』
ガルムの声が少し真面目になる。
『今日、一つ決めたい』
少年の顔から笑みが消える。
「何」
『内区を開ける条件に、もう一項目追加する』
「何を」
『対象になり得る本人の意思確認だ』
室内が静かになった。
「誰」
『そこがまだ分からん』
「アル?」
『候補』
「保存槽のアルフォンス?」
『候補』
「俺?」
『候補』
「発見された子?」
『候補になり得るが、現時点で帰還管理所との直接関係は確認できてない』
「じゃあ全員に聞く?」
『今すぐじゃない』
ガルムは少し言葉を選んだ。
『まず、誰が対象として拾われる可能性があるかを記録だけで絞る。そのうえで、実際に本人へ関係する可能性が高いなら、扉を開ける前に説明する』
三〇八号室少年の指が少し動く。
「何て説明する?」
『施設の扉が本人を対象と認識する可能性があること。開けた時に何が起きるか分からないこと。調査側は認識を遮断するつもりだが完全ではないこと』
「それ聞いて、嫌って言ったら?」
ガルムは間を置かなかった。
『開ける理由が一つ減る』
「絶対開けないじゃない?」
『命がかかった救助みたいな別理由が出れば話は変わる』
「でも今、生命反応ない」
『そうだ』
「なら嫌って言ったら止まる」
『かなり重く扱う』
少年は少し考えた。
「本人が分かんないって言ったら?」
『待てるなら待つ』
「言えなかったら?」
『勝手に賛成とは扱わない』
少年がゆっくり息を吐いた。
「それ、入れて」
『そのつもりだ』
「誰が言った?」
『ヨアヒムとリディア。あとブラットも似た意見だった』
「アルじゃない」
「何で俺を見る」
「何でもアルが決めない」
「いいことだろ」
「うん」
少年は少し笑った。
「俺も賛成」
『記録する』
エルが答える。
「でも、俺が賛成したから全員賛成じゃない」
『もちろんです』
「保存槽のあいつにも聞く」
『必要になれば本人へ』
「発見された子も」
『直接関係が確認された場合は』
「アルも」
『本人だからな』
俺が横から言う。
「お前、そこ時々忘れるよな」
「アル、止める側にいるから」
「俺も対象かもしれないぞ」
「だからややこしい」
「それは同意する」
通信の向こうでガルムが小さく笑った。
『内区は今日も開けない』
「うん」
『明日開けるとも決めない』
「うん」
『以上』
「短い」
『お前が途中で質問多いんだよ』
「必要」
『知ってる』
通信を切った。
少年はしばらく無言だった。
「怖さ?」
セリーが尋ねる。
「二」
「午前の『あけないで』と混ざっていますか?」
「ちょっと」
「どう混ざっていますか?」
少年は目を伏せる。
「発見された子が何を開けないでって言ったか分からない」
「ああ」
「でも帰還管理所も開けない話してる」
「ああ」
「だから頭の中で同じ扉にしたくなる」
「ああ」
「でも違うかもしれない」
「ああ」
「今朝、方向も違った」
「そうだな」
「だから分ける」
自分へ言い聞かせるような声だった。
「旧保養施設の下にある何かを『あけないで』」
「何を指すか未確定」
「帰還管理所の内区は、まだ危ないから開けない」
「ああ」
「二つ」
「そうだ」
少年は一度深く息を吐いた。
「よし」
昼食まで少し時間があった。
その間、少年は三〇八号室で休むことを選んだ。
俺も資料を開かない。
セリーが温かい飲み物を用意してくれる。
「主様も今日は素直ですね」
「何で毎回言うんだ」
「以前との差が大きいので」
「三〇八のやつに悪影響受けた」
「良い影響です」
「本人いる前で言うな」
少年が少し笑う。
「俺がアル育ててる」
「違う」
「待てるようになった」
「お前もだろ」
「じゃあお互い」
「それならまだいい」
昼食には小さな蜂蜜菓子が一つついた。
三〇八号室少年は皿を見た瞬間に気づく。
「ある」
「あります」
「昨日なかった」
「本日はあります」
「明日は?」
「明日は明日です」
「知ってる」
少年は笑いながら先に食事へ手をつけた。
「先に菓子じゃないんだな」
「食後」
「成長した」
「子供扱いするな」
その言い返しも、少し楽しそうだった。
食事の途中、保存槽から出た幼いアルフォンス側から短い連絡が入った。
『本人の体調は安定。昨日の接触後、特に強い不安反応なし。本日は接触希望の確認をしていません』
三〇八号室少年は少し考える。
「向こうから会いたいって言った?」
『言っていません』
「俺も言ってない」
『はい』
「じゃあ今日はなし」
『その通りです』
「報告それだけ?」
『歩行訓練は昨日より短く本人が選択しました』
少年の表情が少し緩む。
「疲れ残った?」
『本人は「今日は短くする」とだけ』
「そっか」
「伝言は?」
俺が尋ねる。
少年は少し迷う。
「……赤いジャム今日あったか聞くの変?」
『聞くことはできますが、医療連絡を使う必要性は低いです』
エルが淡々と答える。
少年が少しむっとする。
「分かってる」
「次会った時でいいんじゃないか」
「次あるか分かんない」
「だからあった時」
「そっか」
少し考えたあと、頷く。
「じゃあいい」
その日の午後。
三〇八号室少年は自分から散歩へ出た。
今日は昨日より少し先。
南側廊下までは行かず、中ほどの大きな窓辺までだった。
昨日、幼いアルフォンスと会った方向を一度だけ見る。
「行く?」
俺が聞く。
「行かない」
「怖い?」
「違う」
少年は少し考える。
「今日は用ない」
「ああ」
「昨日会ったから、今日もそっち行く必要ない」
「ああ」
窓辺に立つ。
外では朝の霧が完全に消え、青い空が広がっていた。
中庭に出ている患者が二人いる。
一人は職員と話し、もう一人は椅子に座って陽を浴びている。
少年はしばらくその光景を眺めた。
「外、出てる」
「ああ」
「俺もいつか?」
「お前が行きたくなれば」
「近衛つく?」
「最初は安全のために距離置いてつくかもな」
「セリーも?」
「おそらく」
「アルは?」
「呼ばれたら」
「来たい?」
「来たい」
「じゃあ呼ばなくても来そう」
「行かないよ」
「本当?」
「信用ないな」
少年が笑う。
「ミナの水たまり」
「ああ」
「今度雨降ったら、外から見るだけでもいいかも」
「踏まない?」
「そこはまだ」
「慎重だな」
「靴汚れる」
「セリーに似てきた」
「それは嫌」
「何でですか」
セリーが後ろから静かに聞き、少年が慌てて振り返る。
「嫌じゃない。違う」
「何が違うのです?」
「その……靴の話だけ」
「そうですか」
「セリー怒った?」
「怒っていません」
「本当?」
「はい」
少年が俺を見る。
「分かんない」
「俺に振るな」
三人で少し笑った。
三〇八号室へ戻る途中、ミナとは会わなかった。
少年は少しだけ廊下の角を見る。
「いない」
「ああ」
「残念?」
「ちょっと」
「会いたかった?」
「話すことない」
「話すことなくても会いたい時あるぞ」
少年が少し考える。
「それ、変」
「人間そういうの多い」
「面倒」
「最近の結論全部それだな」
部屋へ戻る。
二通目の手紙には、今日も薄布がかかっている。
少年はその前へ立った。
昨日は一行だけ続けて読んだ。
『迷いが生じた場合は、自ら判断せず、教師へ申し出ること』
少年が嫌だと言った一文。
今日、帰還管理所では「対象になり得る本人へ説明し、意思を確認する」という条件が追加された。
今読めば、また何かが混ざるかもしれない。
「読む?」
俺は一度だけ聞いた。
「今日は読まない」
「ああ」
「でも」
少年が薄布へ触れる。
「嫌だから逃げてるわけじゃない」
「誰かに証明する必要ある?」
「ない」
「ならそれでいい」
「……うん」
手を離す。
「読みたい日もある」
「ああ」
「読まない日もある」
「ああ」
「今日は読まない」
「ああ」
その選択は記録される。
けれど「三日連続拒否」などとは書かない。
読まなかった。
今日はそれだけだ。
夕方、旧保養施設からもう一度短い連絡があった。
名前不明の子供が昼寝から起きたあと、体調は安定。
地下方向への追加発言なし。
「あけないで」の意味確認もしていない。
木片は本人が持っている。
通気口から離れた位置を選択。
近くにいる人は今日はリディア、距離は三歩。
三〇八号室少年は報告を聞き、しばらく黙ったあとに言った。
「何も進んでない?」
「新しい言葉はないな」
「ああ」
「でも、開けてない」
「ああ」
「本人も平気」
「ああ」
少年は少しだけ笑った。
「じゃあそれでいいか」
何か新しい証拠が出ることだけが進展ではない。
何も壊さず。
何も無理に聞かず。
昨日怖がっていた子供が、今日も自分で距離を選び、木片を持ったまま過ごせた。
それも一日だ。
夕食は穏やかに終わった。
白い薬は朝と同じ量。
青と紫はなし。
体調変化なし。
怖さ一。
蜂蜜菓子が昼にあったため、夕食の甘味はなし。
「分かってた」
少年が皿を見ながら言う。
「成長しましたね」
「それでも残念」
「感情と理解は別です」
「それ便利」
「事実です」
俺が笑う。
「甘い物で哲学するな」
「アルが言うな」
夜が深くなる。
三〇八号室の灯りを少し落とし、少年が寝台へ入る。
今日は情報が多かった。
名前不明の子供の「あけないで」。
帰還管理所内区扉に残る古い認識層。
後世管理分類との接続。
そして、内区開放条件へ「対象となり得る本人への説明と意思確認」が新しく加えられた。
それでも少年の怖さは一まで下がっている。
「アル」
「何だ」
「今日、第何日?」
「何の」
「ここ来てから」
「三〇八号室で?」
「うん」
エルが正確な日数を答えようとする前に、少年が手を上げた。
「やっぱいい」
「何で」
「数字にすると、何日目だからこれできたって考えそう」
「ああ」
「昨日より歩けたとか、何日目で手紙読めたとか」
「ああ」
「保存槽のやつも、昨日より短くした」
「ああ」
「だからいい」
「日付の記録は残ってるぞ」
「それはいい」
「自分で数えないだけ?」
「うん」
少年は枕へ頬を寄せる。
「記録なくすのと、毎日気にするの違う」
「ああ」
「帰還管理所も、記録はあった方がいい」
「ああ」
「でも記録に合わせるの嫌」
「ああ」
少し沈黙が落ちる。
「発見された子の『あけないで』」
「ああ」
「何を開けないでか分からない」
「ああ」
「帰還管理所じゃないかもしれない」
「ああ」
「でも、だから無視していいわけじゃない」
「ああ」
「本人が言ったことは残す」
「ああ」
「分かるまで開けない?」
「少なくとも、本人に関係する可能性が高いものはな」
「全部?」
「全部止めたら何もできなくなる時もある」
少年は少し顔を上げる。
「じゃあどうする」
「何に対して言ったか分からないなら、まず不用意に開けない。安全確認だけ外からやる。必要なら、本人の状態を見ながら聞く」
「聞けなかったら?」
「急がない理由があるなら待つ」
「危なかったら?」
「命を守る方を優先する」
「また例外」
「ああ」
「規則いっぱい作っても、最後全部その場で考えるの?」
「全部じゃない。でも規則だけで足りないところはある」
少年が天井を見る。
「それ面倒」
「ああ」
「でも、管理者が全部代わりに決めるよりいい」
「ああ」
「皆で考える?」
「ああ」
「本人も入れて」
「できる限り」
「言えなかったら?」
「言えないこと自体を情報として扱う。賛成にはしない」
少年はゆっくり息を吐いた。
「十一人目」
「ああ」
「喋れない人」
「ああ」
「でも暗い灯りとか柔らかい飯は選べた」
「ああ」
「発見された子も名前言わない。でも木の板は自分のって言える」
「ああ」
「俺も父上のこと分かんない。でも手紙読むかは決められる」
「ああ」
「全部決められなくても、一個は決められる」
「ああ」
少年の表情が少し緩んだ。
「それなら、対象になった人に『扉開けていい?』だけ聞くのも駄目かも」
「何で」
「何するか分かんないのに聞かれても困る」
俺は少し驚いた。
「そうだな」
「帰還管理所の古い規則、説明完了あった」
「ああ」
「身体負荷も」
「ああ」
「だから本人に聞く前に、分かってること説明しないと」
「ああ」
「分かってないことも」
「ああ」
「『何起こるか分かんないけど開けていい?』なら」
少年は顔をしかめる。
「俺なら嫌」
「それも大事な意見だ」
「じゃあガルムに言って」
「今?」
「明日でいい」
「自分で言えば?」
「俺が?」
「ああ」
「通信で?」
「ああ」
「……考える」
少し緊張した顔になる。
「俺、規則作る人じゃない」
「だからいいんじゃないか」
「何で」
「使われる側の意見だから」
少年が黙る。
「俺、使われる側?」
「今のところ、この扉がお前を対象認識する可能性は消えてない」
「ああ」
「でも王太子としてじゃなく、本人として言えばいい」
少年は少し考えた。
「『説明できないことも説明して』って?」
「ああ」
「分からないなら分からないって言って」
「ああ」
「それ聞いてから決めたい」
「ああ」
「……明日言うかも」
「分かった」
その言葉に少しだけ緊張が混じっている。
けれど、嫌そうではなかった。
「アル」
「何だ」
「五人で決める町のやつ、あっただろ」
「代表会?」
「うん」
「覚えてるのか」
「前聞いた」
「それが?」
「一人で守るのやめたって」
「ああ」
「帰還管理所もそれでいい?」
「近い考え方だな」
「患者側も一人入る」
「正式に制度へ入れるかはこれからだが、意見を聞く仕組みは必要かもな」
「俺ずっとやるの嫌」
「誰も固定しなくていい」
「代わる?」
「ああ」
「言いたい時だけでも?」
「ああ」
少年が少し笑う。
「それならいい」
目を閉じる。
「今日、発見された子は『あけないで』って言った」
「ああ」
「俺は『分からないまま開けるの嫌』」
「ああ」
「似てる?」
「少し」
「同じ?」
「違う」
「うん」
満足したような声だった。
「保存槽のやつは?」
「今日は短く歩くって選んだ」
「ああ」
「ミナは水たまり踏みたい」
「そうだな」
「セリーは靴汚すな」
「その通りです」
「アルは踏みたい」
「子供の頃な」
「皆違う」
「ああ」
「でも同じ廊下にいる」
「ああ」
少年の呼吸がゆっくりになる。
「それ、白鴉っぽい」
小さな声だった。
俺はすぐ答えなかった。
白鴉療養所は、元々そういう場所ではなかった。
名前を奪い。
番号をつけ。
薬を飲ませ。
拒否を症状として扱い。
違う人間を、同じ扱いやすい箱へ押し込めた場所だった。
今は少しずつ逆のことをしている。
同じ場所にいるからといって、同じ人間にしない。
似た恐怖があるからといって、同じ理由だと決めない。
同じ名前があっても、同じ存在だと急がない。
それぞれが今日どうしたいかを、できる範囲で聞く。
「そうなるといいな」
俺が言うと、少年は薄く目を開けた。
「まだ違う?」
「これからも変わるだろ」
「悪く?」
「その可能性もある」
「じゃあ見ないと」
「ああ」
「俺も?」
「気づいたら言ってくれ」
「面倒」
「嫌なら毎回じゃなくていい」
「……でも、変なのあったら言う」
「ああ」
「今日みたいに」
「ああ」
少年は再び目を閉じる。
「お休み、アル」
「お休み、アルフォンス」
セリーも静かに挨拶し、俺たちは三〇八号室を出た。
内側から鍵がかかる音がする。
夜の廊下は静かで、遠くの窓の向こうに薄い月が見えていた。
帰還管理所の内区扉は、第50話になっても開かなかった。
けれど、開けるための条件はまた一つ増えた。
術式を止めること。
対象認識を遮断すること。
転送や記録破棄に備えること。
救護と退路を準備すること。
木片を奪わないこと。
用途不明のAG-02を使わないこと。
そして。
もし、その扉が誰かを「対象」として認識する可能性があるなら。
その本人へ、先に説明する。
分かっていることだけではない。
何が分かっていないのかも。
何が起こるか保証できないのかも。
そのうえで、意思を聞く。
もちろん、それでも全てが解決するわけではない。
聞かれても決められない人はいる。
言葉にできない人もいる。
危険を理解するには情報が足りない場合もある。
命が危うく、待てないこともあるだろう。
だから、「本人に聞けば終わり」という新しい便利な規則へ置き換えてはいけない。
選べるところを選んでもらう。
選べないところは勝手に同意へ変えない。
待てるものは待つ。
守らなければならない時は、その理由を残す。
その積み重ねしかない。
旧保養施設では、名前をまだ言わない子供が「むこう、した」と言い。
さらに「あけないで」と言った。
何を指しているのかは、まだ分からない。
それでも、その言葉を分からないからと捨てる必要はない。
三〇八号室少年もまた、「分からないまま開けるのは嫌だ」と言った。
似ている。
けれど、同じではない。
だから二人の言葉を一つにまとめず、それぞれの場所へ残しておく。
いつか扉を開ける日が来た時。
誰かが「そんなことは聞いていない」と言わずに済むように。
そして、もし開けないまま終わることになったとしても。
それを失敗だと決めないために。
俺たちは今日も、閉じた扉の前で進んでいた。




