第49話 同じ名前を持つ子供が歩いていても、同じ人だと急いで決める必要はありませんでした
白鴉療養所の朝は、久しぶりに柔らかな陽射しから始まった。
前日まで石壁に残っていた雨の湿気も少しずつ抜け、東側の窓から差し込む光が廊下の床へ細長く伸びている。中庭では職員が濡れた木椅子を日に当てて乾かしており、その向こうで近衛が一人、外套を脱いで腕に掛けながら空を見上げていた。
三〇八号室の前へ着いた時、扉の向こうから衣擦れの音が聞こえた。
二度叩くと、少し間を置いて内鍵が外れる。
「入っていい」
中へ入ると、少年は窓辺に立っていた。
今日は起きるのも早かったらしく、緑がかった灰色の上着まできちんと着ている。小机には昨日と同じように赤い布と、途中まで読んだ二通目の手紙へかけた薄布が残されていた。
「体調は?」
セリーが尋ねる。
「普通」
「普通では記録できません」
「頭痛なし。気持ち悪くない。胸も平気。眠くない」
「身体の重さは?」
「一くらい」
「怖さは?」
「一」
白い薬は、昨日と同じ量を希望した。
四分の一より少し減らしたところから、さらに僅かに下げた量。
青と紫は今日も使わない。
「今日は減らさないんですね」
「昨日平気だったけど、二日でまた減らすの早い気がする」
「ご自身では、何日くらい同じ量を見たいですか?」
少年は少し考える。
「分かんない。でも今日じゃない」
「分かりました」
セリーはすぐ記録へ回す。
俺が横から口を挟む。
「最近、薬の決め方しっかりしてきたな」
「アルより」
「何でそこで俺が出る」
「アル、調査行きたいってすぐ言う」
「薬と関係ないだろ」
「待つの下手」
「それは」
言い返しかけ、やめる。
「否定できない」
少年が少し笑った。
朝食は廊下を選ぶ。
今日は三〇八号室から少し離れた窓辺まで歩いた。
途中で一度だけ人通りを確認し、職員が二人いるのを見ても戻らない。その二人も少年を見て一度会釈しただけで、仕事を続けている。
朝食には白いパン、根菜と豆のスープ、薄く焼いた卵、それに小さな黄色い果実が添えられていた。
「甘い?」
「少し酸味があります」
「ジャム?」
「ありません」
「蜂蜜?」
「ありません」
「昨日もなかった」
「毎日必要ではありません」
少年は少し不満そうに果実を一つ口へ入れる。
噛んだ瞬間、眉が寄った。
「酸っぱい」
「だから申しました」
「少しって言った」
「主観です」
「セリーの少し、信用できない」
俺が笑う。
「お前、薬は信用してるのに果物で揉めるんだな」
「薬は量見える」
「果物も見えるだろ」
「酸っぱさ見えない」
「それはそうだ」
少しだけ笑いが続く。
昨日、ミナと水たまりの話をした。
それから二通目の手紙を一行だけ読んだ。
成人した俺に残る「調整済」識別が帰還管理所後期術式より古く、後世側に古い識別を読む互換層が追加されていたことも分かった。
重い情報は増えている。
けれど、今朝の少年は果物の酸っぱさを気にしている。
そういう時間があることを、もう誰も不自然だとは思わなくなっていた。
食事を半分ほど終えた頃、エルから連絡が入る。
『帰還管理所の待機術式隔離試験について、前日保留された結果があります。緊急性はありません』
少年の匙が止まる。
「種類」
『隔離可否、対象認識との分離、扉開放に伴う反応予測です。内区扉は開けていません』
「危険増えた?」
『即時危険は確認されていません』
少年は少し考えた。
「食べてから」
『保留します』
また食事へ戻る。
もう、その判断を特別なものとして扱わない。
食べ終え、今日選んだ白い薬を飲み、少し休憩してから三〇八号室へ戻った。
「今日は誰?」
少年が尋ねる。
「ガルムとリディア。必要ならヨアヒム」
「ブラットは?」
「記録の読み上げはない」
「じゃあいい」
少年は寝台へ座り、俺とセリーがいつもの位置へ入る。
通信が繋がると、最初にガルムの声がした。
『先に言っとく。内区は開けてない』
少年が少し笑う。
「今日は聞く前に言った」
『毎回聞くからだ』
「大事」
『知ってる』
リディアへ代わる。
『昨日保留された待機術式の隔離試験ですが、結論から言うと、術式そのものを壊さず、外側から反応経路を切り離すことは可能です』
少年の表情が少し緩んだ。
「全部?」
『待機術式と、対象認識の大部分は分離できました』
「大部分」
『はい』
「残りある」
『あります』
少年は水へ手を伸ばさず、少しだけ身体を前へ傾ける。
「何」
『扉そのものに組み込まれている認識層です』
俺も少し眉を寄せた。
「外から切れない?」
『完全には』
「壊せば?」
『壊せる可能性はあります。ただし、扉の閉鎖機構や記録保存まで同時に損傷する危険があります』
「じゃあ壊さない」
少年がすぐ言う。
『今のところはその方針です』
「扉開けたら、その認識層は動く?」
『可能性があります』
「高い?」
『中程度です』
「何で中」
『認識層は魔力が流れないと反応しません。ただ、扉を動かす時に自動で魔力が供給される構造かどうかがまだ分かっていません』
「開けないと分からない?」
『開けずに調べる方法を探しています』
少年が少しだけ頷く。
「ならまだ開けない」
『そうなる』
ガルムが答える。
「対象認識と待機術式、別だった?」
『全部が別ではない』
リディアが説明する。
『外側の待機術式は、誰か条件に合う者が近づいた時に、内側の認識層へ確認を投げる役割だった可能性があります』
「門番?」
『近いです』
「じゃあ外の待機術式止めても、中の門番残る」
『はい』
「しかも中の方が古い?」
リディアが少し間を置く。
『そこが新しい発見です。扉内部の認識層は、外側の後世管理分類より古い構造です』
少年の顔が変わった。
「じゃあ処置優先より前?」
『はい』
「元の制度?」
『可能性があります』
「何見る?」
『まだ完全には読めません。ただ、今のところ強く反応しそうなのは三つです』
少年は姿勢を少し整える。
「一個ずつ」
『本人登録』
「うん」
『帰還資格確認』
「うん」
『本人保持物との照合』
少年の指が僅かに動く。
「保持物」
『はい』
「木の板?」
『分かりません』
「帰還証かもしれないやつ」
『候補にはなります。ただし、木片は使っていません』
「よかった」
少年は息を吐く。
「AG-02?」
『こちらも使っていません』
「じゃあ昔の記録だけ?」
『旧外区の受付台に残った照合痕と、保管記録から推定しています』
「本人保持物って、何でも?」
『特定形式の認証物です』
「帰還証以外もある?」
『可能性があります』
「何種類」
『分かりません』
「印違う?」
『少なくとも、昨日まで見ていた「管理分類」とは別です』
少年が少し黙る。
「古い方は、本人が持ってる物も見る」
「ああ」
俺が答える。
「しかも古い規則だと、帰還証を本人から取り上げるなってあった」
「うん」
「繋がるかも」
「可能性はある」
少年は少し考えた。
「木の板、持ってると戻されるって言ってた」
「ああ」
「なくすと戻れない」
「ああ」
「でも昨日、しるし、ぼくのって」
「ああ」
「本人保持物だったら」
そこまで言って止まる。
「……まだ決めない」
「そうだな」
リディアも通信越しに続ける。
『形や言葉は合いますが、木片が帰還証であるとはまだ確認できていません』
「使わないから確認できない?」
『使わずに確認する方法を探しています』
「それでいい」
少年が少し安心する。
「中の認識層、後から変えられてない?」
『改修痕はあります』
空気が少し重くなる。
「また」
『ただし、外側ほど大きな変更ではありません』
「何が変わった?」
『元の照合条件を消したのではなく、後から別の管理分類を読めるよう接続口が追加されています』
俺は小さく息を吐いた。
「元の本人登録や帰還資格や保持物照合は残して、そこへ処置優先みたいな後世分類を足した」
『そう見えます』
「じゃあ、古い仕組みを全部壊したわけじゃない」
『はい』
三〇八号室少年が膝の上で指を組む。
「だから変なのか」
「何が?」
俺が尋ねる。
「古い規則は本人のこといっぱい見るのに、後のは本人いらなくなる」
「ああ」
「でも術式の中には両方残ってる」
「ああ」
「だから一個の扉で、違う考え方が重なってる」
リディアが静かに答える。
『その見方はできます』
「怖いな」
「何が一番?」
セリーが尋ねる。
少年はすぐ答えず、少し考えた。
「古い方だけなら、本人が持ってる物とか登録とか確認して、最後は人が帰りたいか聞いてたかもしれない」
「はい」
「でも後の分類も繋がってるなら」
少年は視線を落とす。
「本人が帰りたくなくても、処置優先が強かったら動くかもしれない」
『その可能性を消せないので、開けていません』
「怖さ三」
少年が自分から言う。
「ここで止めますか?」
セリーが尋ねる。
「もう一個だけ。隔離できたら、後の分類だけ切れる?」
リディアが少し間を置く。
『外側の後世分類入力は、かなりの範囲で止められます』
「かなり」
『扉内部の接続口までは完全に切れていません』
「じゃあまだ駄目」
『はい』
「古い照合だけなら安全?」
『それも断定できません』
「何で」
『古い制度が本人意思を尊重していたとしても、内区で何をする場所だったかは未確定です』
少年が少し目を伏せる。
「そうだった」
「いい規則でも、処置自体が安全とは限らない」
俺が言う。
「うん」
「それに、良い規則が書いてあっても守られてたか分からない」
「うん」
少年は少しだけ水を飲んだ。
「今日はここまで」
『了解』
ガルムがすぐ答える。
「内区は?」
『開けない』
「うん」
『あと、アルも現地に来させない』
「それは聞いてない」
『ついでだ』
少年が少し笑う。
「大事」
「お前ら」
『保存魔力記録に古い識別残ってるやつは近づけん』
「正論だから腹立つな」
『じゃあ大人しくしろ』
通信の向こうでリディアが小さく咳払いする。
『それから、もう一件。保存槽から出た幼いアルフォンスについて、今日の午前に歩行訓練を少し長くする予定です』
三〇八号室少年の表情が変わる。
今までとは違う種類の緊張だった。
「何で今それ」
『白鴉内の移動範囲が少し広がるため、三〇八号室付近へ来る可能性があります』
少年が黙る。
保存槽から出た幼いアルフォンス。
七歳ほどの姿。
成人した俺の幼少期に酷似した顔。
自分をアルフォンスと名乗り、自分が不要な感情を入れられた存在かもしれないと知らされた子供。
三〇八号室少年とは、別人だ。
少なくとも今は、そう扱っている。
「会う?」
俺は決めつけずに聞いた。
少年はすぐには答えなかった。
「向こうは?」
「まだ、お前と会うことについて聞いてない」
「じゃあ先に俺だけ決めるの変」
「ああ」
「向こうも嫌かもしれない」
「ああ」
「俺も」
少し言葉を探す。
「怖くないわけじゃない」
「ああ」
「でも、ちょっと見たい」
声が小さくなる。
「顔?」
「……うん」
少年は少し気まずそうに視線を落とした。
「アルに似てるって聞いた」
「ああ」
「俺もアルフォンスって呼ばれてる」
「ああ」
「でも別」
「ああ」
「だから、見たら何か分かるかなって思う」
「何が?」
「分かんない」
その答えを、誰も急かさない。
セリーが静かに尋ねる。
「会う場合、どの程度を希望しますか?」
「話すのは」
少年は少し迷う。
「今は怖いかも」
「見るだけ?」
「向こうがいいなら」
「距離は?」
「遠く」
「何歩程度ですか?」
「十歩以上」
「同じ部屋?」
「廊下」
「顔を隠す?」
少年は考える。
「向こうが嫌なら隠していい。俺は見たいけど、見せろって言わない」
「分かりました」
俺は少し驚いた。
以前の少年なら、「本物かどうか確かめるために見たい」という気持ちが先に出たかもしれない。
今は、見たい自分と、見られたくないかもしれない相手を分けている。
「向こうに聞く?」
「うん」
「俺の名前は?」
少年はまた考える。
「三〇八号室の、アルフォンスって呼ばれてる子がいるって」
「顔の説明は?」
「俺の顔?」
「ああ」
「まだ言わなくていい」
「理由は?」
「向こうも混乱するかもしれない」
エルがその希望を記録する。
『保存槽から出た幼いアルフォンス本人へ、接触可否と範囲を確認します。三〇八号室少年の顔情報は共有しません』
「うん」
通信が切れたあと、少年はしばらく黙っていた。
「怖さ?」
セリーが尋ねる。
「帰還管理所は二。会う話は三」
「別に記録します」
「分けるの?」
「恐怖の理由が異なりますから」
少年は少し安心したように頷いた。
「それがいい」
午前の残りは調査を止めた。
三〇八号室少年は散歩へも行かず、部屋の窓辺で休む。
「緊張してる?」
俺が聞く。
「少し」
「会うって決まってないぞ」
「分かってる」
「嫌なら断ってもいい」
「分かってる」
「向こうが断るかも」
「それも分かってる」
少年は窓の外へ目を向ける。
「でも、断られたらちょっと嫌かも」
「それもいいだろ」
「相手が悪いって思わない?」
「ああ」
「嫌だけど、相手が悪いわけじゃない」
「ああ」
「こういうの多いな」
「何が」
「両方あるやつ」
「人間だいたいそうだぞ」
「王太子の時、そんなの教わらなかった」
「俺も教わらなかったかもな」
「正しいか間違いかばっか」
「ああ」
少年は少しだけ笑う。
「今の方が面倒」
「でも?」
「少し楽」
昼前。
保存槽から出た幼いアルフォンス側から返答が届いた。
エルが先に内容の種類だけ告げる。
『本人は、三〇八号室少年について説明を聞きました。接触可否について本人の回答があります』
三〇八号室少年が息を呑む。
「今聞く」
『本人は、「見るだけならいい」と回答しました』
少年の肩が僅かに下がる。
「話す?」
『「今日は話さない」と希望しています』
「俺も同じ」
『距離については、「遠い方がいい」と本人から希望がありました』
「何歩?」
『最低十二歩』
「俺十歩以上って言った」
『両者の希望を合わせ、十五歩程度とします』
「どこ?」
『南側廊下の広い窓辺です。途中でどちらかが嫌になれば、それぞれ別方向へ戻れます』
「近衛?」
『見える位置にはいますが、双方から十分離します』
「セリー?」
『同行可能です』
「アルは?」
『成人アル様について、保存槽側の本人から「いていい」と回答があります』
「……俺もいい」
少年は少しだけ緊張した顔で頷いた。
「いつ?」
『昼食後、体調を再確認してから。どちらか一方でも怖さが高ければ延期します』
「今日じゃなくても?」
『はい』
「分かった」
昼食は三〇八号室で取った。
少年はいつもより少し静かだった。
今日の献立は柔らかい肉と野菜の煮込み、白いパン、それに小さな赤いジャム。
いつもなら真っ先に反応するところだが、今日は少し遅れて気づいた。
「ジャムある」
「あります」
セリーが答える。
「食べる」
「はい」
パンへ少し塗る。
一口食べてから、少年は手を止めた。
「向こうも好きなんだよな」
「ああ」
「赤いジャム」
「ああ」
「同じ」
「ああ」
「でも別」
「ああ」
「分かってる」
少年はもう一口食べる。
「同じでもいいんだよな」
「何が」
「好きなもの」
「ああ」
「同じだから同じ人になるわけじゃない」
「ああ」
「違うもの探さなくても?」
「無理に探す必要はないだろ」
少年は少し考えた。
「俺、違うって証明したいのかも」
その言葉に、俺はすぐ返さなかった。
少年自身も少し驚いたような顔をしている。
「何でそう思った?」
「同じ赤いジャム好きって聞いた時、最初ちょっと嫌だった」
「ああ」
「でも前、そこは同じでいいって思った」
「ああ」
「今日会うってなって、また違うところ見つけたいって思った」
「ああ」
「顔違うとか、歩き方違うとか」
少年はパンを皿へ置く。
「それないと、俺消える気がするのかな」
セリーが静かに座る位置を少し調整した。
近づきすぎない。
「今、怖さはいくつですか?」
「四」
「会うのを延期しますか?」
少年は少し黙る。
「……まだ決めない」
「食事を続けますか?」
「うん」
「では会う判断は食後にします」
少年は少し息を吐き、煮込みへ戻った。
無理に「違うから大丈夫」と言わない。
無理に「同じでもお前はお前」とまとめない。
本人が今感じた恐怖へ、少し時間を置く。
食事が終わる頃には、怖さは三まで下がった。
「会う?」
俺が尋ねる。
「見るだけ」
「ああ」
「違うところ探したくなるかもしれない」
「ああ」
「それしてもいい?」
「思うだけなら」
「相手に言わない」
「ああ」
「比べて、勝ったとか負けたとかもしない」
「ああ」
少年は少し考える。
「途中で嫌になったら帰る」
「もちろん」
「向こうも」
「ああ」
「じゃあ行く」
保存槽から出た幼いアルフォンス側も、体調確認のうえで「行く」と決めた。
午後。
南側の廊下は、普段より人を減らしていた。
封鎖ではない。
患者や職員へ「通るな」と命令したわけでもない。
ただ、近衛側の仕事を少し別の廊下へ回し、偶然大人数が重ならないよう調整している。
窓からは穏やかな日差しが入り、庭の木々がまだ濡れたまま光っていた。
三〇八号室少年は俺の少し後ろを歩く。
セリーは横。
「怖さ?」
「三」
「続ける?」
「うん」
廊下の中央近くで止まる。
ここから先は広い。
反対側の角から誰かが来ても、十五歩以上離れて見える。
「来る?」
「向こうがまだ来たいなら」
その数十秒が長かった。
三〇八号室少年の指が上着の裾を掴む。
顔は前を向いている。
逃げる様子はない。
けれど、身体は少し固い。
やがて、反対側の廊下からセリーとは別の治療補助員が姿を見せた。
その横に、小さな子供がいる。
三〇八号室少年の呼吸が止まったように見えた。
俺も、何度見ても胸がざわつく。
保存槽から出た幼いアルフォンス。
七歳頃の俺とよく似た顔。
緑色の柔らかな服。
以前より少し血色は戻っている。
けれど、身体はまだ細い。
歩幅も小さい。
一歩ずつ、足の位置を確かめるように進んでいる。
右側には補助員がいるが、身体には触れていない。
本人が転びそうになった時だけ支えられる距離だ。
十二歩。
十五歩。
そこで幼いアルフォンス側が止まる。
三〇八号室少年も動かない。
誰も声をかけない。
見るだけ。
今日はそれでいい。
三〇八号室少年が最初に見たのは、顔だった。
目。
髪。
輪郭。
それから服。
手。
足元。
視線が何度も移動する。
幼いアルフォンスも同じようにこちらを見ていた。
成人した俺。
三〇八号室少年。
セリー。
けれど特に長く見ているのは、やはり三〇八号室少年だった。
怖さを聞こうか迷う。
その前に、三〇八号室少年が小さく息を吐いた。
「……小さい」
一瞬、空気が止まる。
本人も言ったあとで「あ」と顔を変えた。
「悪い意味じゃなくて」
幼いアルフォンスが少し眉を寄せた。
けれど、怒った様子ではない。
「七歳だから」
小さな声が返ってくる。
今日、話さないと決めていたはずだった。
周囲の誰も続けさせない。
三〇八号室少年も驚いた顔をする。
「……ごめん」
「いい」
幼いアルフォンスは少し息を整える。
「話さないって言ったけど、今は言った」
その言葉に、三〇八号室少年の表情が変わる。
「変えていい」
「うん」
そこでまた会話が止まる。
誰も「せっかくだから話せ」とは言わない。
幼いアルフォンスはまだ身体が弱い。
長く立ち続けるだけでも負担がある。
補助員が視線だけで状態を確認する。
幼いアルフォンス自身が近くの壁へ手を伸ばす。
「座る?」
補助員が聞く。
「うん」
廊下の壁際に用意してあった椅子へ座る。
三〇八号室少年が反射的に一歩近づきかけた。
すぐ止まる。
「行っていい?」
俺へではなく、幼いアルフォンスへ聞いた。
幼い方は少し考える。
「一歩だけ」
三〇八号室少年が一歩進む。
まだ十四歩ほどある。
「ここ」
「うん」
それ以上近づかない。
幼いアルフォンスが息を整える間、三〇八号室少年は黙って待つ。
少しして、幼い方がこちらを見る。
「そっちもアルフォンス?」
三〇八号室少年の身体が僅かに固まった。
「今は」
「今は?」
「今はアルフォンスって呼ばれてる」
「僕も」
「知ってる」
「嫌?」
その問いに、少年はすぐ答えなかった。
指がまた上着の裾を握る。
「最初は、ちょっと」
「今は?」
「分かんない」
幼いアルフォンスは少し考える。
「僕は嫌じゃない」
三〇八号室少年が目を上げる。
「何で」
「僕がアルフォンスでも、そっちがアルフォンスじゃなくなるわけじゃないから」
その言葉に、俺は胸の奥を掴まれたような感覚を覚えた。
三〇八号室少年も何も言わない。
幼いアルフォンスは続ける。
「アルもいるし」
成人した俺を見る。
「三人」
「……変」
三〇八号室少年が呟く。
「うん」
幼いアルフォンスも小さく笑った。
「変だね」
その笑い方が、子供の頃の自分に似ているのか。
俺には分からなかった。
記憶の中の七歳の俺は、もっときちんと座って、もっと周囲を見て、もっと王太子らしい顔をしようとしていた気がする。
けれど、その記憶自体がどこまで確かかも分からない。
三〇八号室少年が幼い方の足元を見る。
「歩くの、大変?」
「まだ」
「痛い?」
「痛くはない。疲れる」
「俺は歩ける」
言ってから、少年が少し気まずそうにする。
比較した。
違うところを見つけた。
自分でも分かったらしい。
「……ごめん」
幼いアルフォンスが首を傾げる。
「何で?」
「俺の方が歩けるって」
「うん」
「嫌じゃない?」
「別に」
「負けたとか」
「何が?」
本気で分かっていない顔だった。
三〇八号室少年が少し目を瞬かせる。
「歩ける方が」
「僕、今練習中」
「……そっか」
「昨日より少し歩けた」
その言葉に、三〇八号室少年の肩から力が抜ける。
「じゃあ今日の方がいい?」
「昨日より長く歩いたから、今日は疲れた」
「じゃあ良くない?」
「分かんない」
幼いアルフォンスが少し困った顔をする。
三〇八号室少年は数秒黙ったあと、ふっと笑った。
「同じこと言ってる」
「何が?」
「昨日よりできたから今日もいい、じゃない」
幼いアルフォンスには事情が分からない。
それでも少し笑い返した。
「赤いジャム」
三〇八号室少年が突然言った。
「好き?」
幼いアルフォンスの顔が少し明るくなる。
「好き」
「俺も」
「知ってる?」
「聞いた」
「今日食べた?」
「昼」
「僕は朝」
三〇八号室少年が少し眉を寄せる。
「朝に出るの?」
「出た」
「ずるい」
「何が?」
また幼い方が分からない顔をする。
俺は思わず笑った。
「そこ競うなよ」
三〇八号室少年が俺を見る。
「アル、朝ジャムあった?」
「ない」
「じゃあ二人負け」
「何の勝負なんだ」
セリーが静かに口を挟む。
「主様は昨日も甘味を召し上がっています」
「今それ関係ないだろ」
幼いアルフォンスが小さく笑う。
三〇八号室少年も笑った。
その瞬間だけ、三人の名前がどうとか、本物がどうとか、王家精神安定化計画がどうとか、全部少し遠くなった。
赤いジャムの話をしている。
それだけだった。
しばらくして、幼いアルフォンスが少し肩を落とした。
疲労が出てきたらしい。
補助員が聞く。
「戻りますか?」
「うん」
三〇八号室少年がすぐ一歩下がる。
距離を戻す。
「今日は終わり?」
幼いアルフォンスが聞く。
「うん」
三〇八号室少年が答える。
「また会う?」
その問いに、二人とも少し止まった。
三〇八号室少年が先に答える。
「今日決めなくていい」
幼いアルフォンスが少し驚く。
「うん」
「また会いたくなったら」
「その時?」
「うん」
「分かった」
幼い方が少し笑う。
「じゃあ今日は帰る」
三〇八号室少年の表情が僅かに変わる。
帰る。
最近、その言葉には重い意味がつきまとっている。
けれど今の幼いアルフォンスが言った「帰る」は、自分の部屋へ戻るというだけだ。
三〇八号室少年もそれに気づいたらしい。
「どこに?」
思わず聞く。
「部屋」
「……うん」
少し安心したように笑う。
「じゃあ、また」
「うん。また」
幼いアルフォンスは補助員と一緒にゆっくり廊下を戻っていった。
三〇八号室少年は、その姿が角を曲がるまで見ていた。
「怖さ」
セリーが尋ねる。
「二」
「会う前より下がりましたね」
「でも、だから次も平気って書かないで」
「もちろんです」
「今日二」
「はい」
少年は少しだけ笑う。
「似てた?」
俺が聞く。
「顔はアルに似てた」
「ああ」
「俺には、そんなに似てない」
「ああ」
「声も違う」
「ああ」
「歩き方も」
「ああ」
「でも赤いジャム好き」
「ああ」
「名前同じ」
「ああ」
少年は少し考える。
「違うところ探した」
「うん」
「でも途中からどうでもよくなった」
「何で」
「向こう、歩ける方が勝ちとか思ってなかった」
「ああ」
「俺だけだった」
「比べたくなった?」
「うん」
「悪いと思う?」
「少し」
「思うだけなら悪くない」
「言ったけど」
「謝っただろ」
「うん」
「相手も嫌じゃないって言った」
「うん」
「なら次に同じことしないように気をつければいい」
少年は少し頷く。
「違うって証明しなくても、あいつは俺じゃない?」
「ああ」
「同じ好きな物あっても?」
「ああ」
「同じ名前でも?」
「ああ」
「顔もし似てたら?」
「ああ」
少年が少し笑う。
「しつこい」
「お前が聞くからだ」
「でも分かった」
午後の残りは休むことになった。
保存槽から出た幼いアルフォンスも、歩行訓練を兼ねた接触で疲れたため部屋へ戻って休む。
三〇八号室少年も三〇八号室へ戻った。
座ると、最初に目が向いたのは二通目の手紙だった。
けれど、薄布は外さない。
「今日は読まない」
「ああ」
「何でか聞く?」
「聞いてほしい?」
少年は少し考える。
「いや」
「じゃあ聞かない」
「……でも言う」
「どっちだよ」
少年が少し笑う。
「今日、もういっぱいだから」
「ああ」
「帰還管理所と、あいつ」
「ああ」
「手紙入れると混ざる」
「ああ」
「父上がどっちをアルフォンスと思ってたとか考えそう」
「それは今は材料足りない」
「うん」
「だから今日はやめる」
「分かった」
薄布の上へ一度手を置き、すぐ離す。
「赤い布も今日は見ない」
「ああ」
「明日も分かんない」
「ああ」
夕方になり、旧保養施設から名前不明の子供について短い共有が入った。
少年は少し疲れていたため、内容の種類だけ確認する。
『体調、木片、通気口とは別の本人発言です』
「緊急?」
『いいえ』
少年は少し迷い、首を横に振った。
「今日は聞かない」
『明日以降へ保留します』
それで終わる。
以前なら、「名前不明の子供の新しい発言」と聞けば気になって仕方がなかったかもしれない。
今も気になる。
けれど、気になることと今聞くことは同じではない。
夕食には甘味がなかった。
「ない」
「昼に赤いジャムを召し上がっています」
「向こう朝食べた」
「他の患者様との甘味量を競わないでください」
「競ってない」
「先ほど『ずるい』と」
「それは」
少年が少し言葉に詰まる。
「会話」
「便利ですね、その言い方」
「セリー最近強い」
「以前からです」
俺が笑う。
三〇八号室少年も笑いながら食事を続けた。
夜。
白い薬は朝と同じ量。
青と紫は使わない。
体調に新しい変化なし。
怖さは一。
扉を内側から閉め、薄い灯りを残す。
少年は寝台へ入ったあとも、しばらく目を閉じなかった。
「アル」
「何だ」
「今日会ったやつ」
「ああ」
「保存槽のアルフォンス」
「ああ」
「何て呼べばいい?」
俺は少し考える。
「本人はアルフォンスって呼ばれたい」
「俺も」
「ああ」
「二人いるとややこしい」
「そうだな」
「番号つける?」
「本人たちが嫌ならやめた方がいい」
「俺は嫌」
「じゃあやめろ」
「保存槽の子って呼ぶのも」
「本人の前では避けたいな」
「じゃあどうする」
「本人たちが必要になったら決めればいい」
少年が少し嫌そうな顔をする。
「また保留」
「困ってないなら急がなくていいだろ」
「今日話す時困った」
「お互い向いてたから名前呼ばなくても済んだ」
「次会ったら?」
「その時考える」
少年は布団を少し引き上げる。
「向こうに、別の呼ばれ方あるか聞いてもいい?」
「本人が嫌じゃなければ」
「俺も聞かれる?」
「多分な」
「今はアルフォンス」
「ああ」
「変えるかもしれない?」
「お前が変えたくなれば」
「向こうも?」
「ああ」
少し沈黙が落ちる。
「同じ名前、奪い合わなくていい?」
「ああ」
「王太子は一人だったのに」
「ああ」
「アルフォンスは二人でも三人でもいい?」
「名前ならな」
少年が少し笑う。
「アルも入れて三人」
「俺は普段アルでいい」
「逃げた」
「便利なんだよ」
「俺もアルにしたら?」
「ややこしくなるぞ」
「セリー困る」
「かなり」
セリーが即答する。
「主様と三〇八号室の方が同時に『アル』では、呼び分けが困難です」
少年が笑う。
「じゃあやめる」
「実用性で決めたな」
「大事」
笑いが少し落ち着く。
「今日、あいつ小さかった」
「ああ」
「でも、別に弱いって思わなかった」
「ああ」
「最初、歩ける俺の方が上って思いかけた」
「ああ」
「でもあいつ、昨日より歩けたって言った」
「ああ」
「自分の昨日と比べてた」
「ああ」
少年は少しだけ目を伏せる。
「俺、人と比べる癖ある?」
「王宮にいたなら、あっても不思議じゃない」
「王太子は一番じゃなきゃって」
「ああ」
「勉強も、魔法も、礼儀も」
「ああ」
「俺がそうだったかは分かんないけど」
「ああ」
「でも今日、勝ち負けなくても話せた」
「ああ」
「赤いジャム」
「ああ」
「水たまりと同じくらい意味ない?」
「本人たちには大事だったろ」
「そっか」
少年の顔が少し緩む。
「意味ない話って、本当は意味ある?」
「楽しいなら、それで十分なこともある」
「難しい」
「ああ」
「帰還管理所より?」
「種類が違う」
「似てるけど同じじゃない」
「最近それ好きだな」
「便利」
少年は目を閉じる。
「帰還管理所、今日も開かなかった」
「ああ」
「古い扉の中にも本人の物見る仕組みあった」
「ああ」
「でも後の分類も繋がってる」
「ああ」
「まだ危ない」
「ああ」
「明日も?」
「多分開けない」
「よかった」
少し間を置く。
「でもちょっと見たい」
「ああ」
「両方」
「ああ」
もうその答えを自分で受け入れられるようになっていた。
「今日、あいつにもまた会いたいかも」
「ああ」
「でも明日は会わないかも」
「ああ」
「向こうも」
「ああ」
「今日『また』って言ったけど、明日の約束じゃない」
「ああ」
少年の呼吸がゆっくりになる。
「それも、昨日の選択を今日の命令にしない?」
「そうだな」
「言いすぎ?」
「少し」
少年が小さく笑った。
「じゃあ今日はもう言わない」
「助かる」
「お休み、アル」
「お休み、アルフォンス」
セリーも静かに挨拶し、俺たちは三〇八号室を出た。
内側から鍵のかかる音がする。
夜の廊下は静かだった。
今日も帰還管理所の内区扉は開いていない。
その代わり、扉の内側に古い認識層が残っていることが分かった。
本人登録。
帰還資格。
本人が保持する認証物。
それらを照らし合わせる、古い仕組み。
さらに後の時代、その仕組みへ「処置優先」などの管理分類が継ぎ足された。
昔の考え方を全部消したのではない。
残したまま、別の考え方を上に重ねた。
だから今の扉には、違う時代の価値観が一緒に残っている。
本人を確認するための仕組み。
本人より管理分類を優先する仕組み。
その二つが同じ扉の中で繋がっているなら、今すぐ開けるわけにはいかない。
そして今日は、別の二人も初めて互いを見た。
保存槽から出た幼いアルフォンスと。
三〇八号室で「今はアルフォンス」と呼ばれる少年。
二人は同じ名前を持っていた。
赤いジャムも好きだった。
けれど、身体の大きさも。
声も。
歩ける距離も。
感じている恐怖も。
持っている記憶も違う。
それでも、違うところを集めなければ別人になれないわけではない。
同じところが増えても、一人がもう一人になるわけでもない。
名前は大事だ。
顔も大事だ。
記録も大事だ。
印も、過去も、本人を知るための手掛かりにはなる。
けれど。
今日、十五歩ほど離れた廊下で、二人が赤いジャムの話をして笑った時間は。
どの古い記録にもまだ書かれていない。
だからこそ、それは今を生きている二人だけのものだった。




