第48話 俺に残っていた『調整済』の印が、帰還管理所より古いものだと分かりました
朝の白鴉療養所には、雨上がりの冷たさがまだ残っていた。
昨夜は月が出ていたものの、地面までは乾かなかったらしい。中庭の植え込みには小さな水滴が並び、日の光が差すたびに細かな光を返している。廊下の窓を少し開けると湿った土と薬草の匂いが混じった風が入り込み、夜勤を終えた職員が肩をすくめながら窓を一枚だけ閉め直していた。
三〇八号室の扉を二度叩く。
今日は返事が早かった。
「入っていい」
内鍵が外れる音を待って扉を開けると、少年はすでに着替えを終えていた。小机の上には例の赤い布と、薄布をかけた二通目の手紙が昨日と同じ位置にある。
少年自身は手紙ではなく、窓の外を見ていた。
「眠気は?」
「ない」
「昨日、白い薬を少し減らしたけど」
「夜も普通に寝た」
セリーの確認に、少年は自分から身体の状態を一つずつ答えていく。
頭痛なし。
吐き気なし。
胸の違和感なし。
身体の重さもほぼない。
怖さは一。
昨日より僅かに減らした白い薬についても、今のところ目立った変化は感じていないらしい。
「今日も同じ量にしますか?」
セリーが尋ねると、少年は少し考えた。
「昨日と同じ」
「さらに減らすこともできます」
「今日は減らさない」
「理由は?」
少年はすぐ答えず、俺を見た。
「アルの『調整済』の話、続き来るかもしれないだろ」
「ああ」
「それ聞くなら、薬まで変えたくない」
「俺の話で?」
「俺も関係あるかもしれないから」
そこまで言ってから、少年は少し眉を寄せた。
「……いや、俺に関係あるって決まってない」
「ああ」
「でも気になるから」
「それで十分だ」
少年は小さく頷いた。
白い薬は昨日と同じ。
青と紫は今日も使わない。
エルがその日の選択として記録する。
「朝飯は?」
「廊下」
「昨日と同じ場所?」
「人見て決める」
それももう自然になっている。
三〇八号室を出ると、今日は昨日より人通りが多かった。
二階の廊下では職員が洗濯物を運び、向こうでは近衛二人が簡単な引き継ぎをしている。食事用の小机がある窓辺にも一人の患者が座っていたが、少年を見ると慌てて立つことはなく、自分の茶を飲んだまま軽く会釈した。
少年は一瞬だけ足を止める。
「使ってる」
「ああ」
「じゃあ別」
それだけ言って、さらに少し先の窓へ向かった。
誰かがいるから追い払うでもなく、自分が戻るでもない。
空いている別の場所を探す。
それだけの行動だったが、王宮で「自分が使うなら周囲が退く」ことに慣れていた子供にとっては、小さくない変化なのだろう。
窓辺へ座ると、少年は遠くの山を見た。
「昨日より晴れてる」
「ああ」
「地面まだ濡れてる」
「夜までは残るかもな」
朝食が運ばれてくる。
今日は柔らかいパンと、野菜を多めに入れた乳白色のスープ、小さく焼いた魚、それに薄切りの桃に似た果実が少し。
「これ甘い?」
「少しです」
「ジャムは?」
「ありません」
「蜂蜜焼きは?」
「ありません」
少年が露骨に落胆する。
「毎日甘いものあると思わないでください」
「昨日あった」
「昨日は昨日です」
「それ強い」
少年が笑う。
俺が先にパンへ手を伸ばすと、セリーから視線が来た。
「何だ」
「主様も果実を先に召し上がってください」
「何で俺まで」
「昨日、焼き菓子を優先されましたので」
少年がすぐ笑った。
「管理されてる」
「お前もだろ」
「俺は選んでる」
「俺だって選んでる」
「セリーに直されてる」
「うるさい」
朝の空気が少しだけ軽くなる。
食事の途中、昨日とは違う職員が廊下を通った。
三〇八号室少年へ気づき、少し迷ったように目を向ける。それでも声はかけず、近くにいた同僚と小さく会釈し合って、そのまま一階へ向かった。
少年はその背中を少し見ていた。
「知ってる?」
「お前のこと?」
「うん」
「部屋番号くらいは知ってるかもな」
「名前は?」
「共有範囲外なら知らない」
「じゃあ、俺見ても誰か分からない」
「ああ」
少年は少しだけ笑った。
「それ、まだ楽」
「まだ?」
「ずっと知られないのがいいかは分からない。でも今は」
「ああ」
「今はいい」
そこで終わらせる。
食事を半分ほど食べたところで、エルから連絡が入った。
『塔側の旧記録照合について、成人アル様の「調整済」識別に関する追加結果があります。緊急性はありません』
少年の手が止まる。
「種類」
『年代推定、使用された術式系統、王家精神安定化計画との直接一致の有無です』
「危ない話?」
『身体への新たな危険は確認されていません』
少年は少し考え、目の前のスープを見る。
「食べてから」
『保留します』
また自然に食事へ戻る。
「アルは?」
「何が」
「気になる?」
「かなり」
「今聞きたい?」
「かなり」
「でも?」
「お前が食べてるから待つ」
少年は一瞬だけ俺を見て、それから笑った。
「アルも待てるようになった」
「俺を子供扱いするな」
「前より」
「否定しにくいな」
食事を終え、今日選んだ量の白い薬を飲む。
そのあと三〇八号室へ戻った。
少年は小机の前ではなく、寝台の端へ腰を下ろす。今日はブラットとエルの塔記録担当だけを入れ、ガルムとリディアは帰還管理所側から必要時のみ繋ぐことになった。
「距離は?」
俺が確認する。
「ブラット四歩」
「俺は?」
「いつも」
「何歩だよ」
「数えてない」
「扱いが雑だな」
「アルは呼べば来る」
「それはそれで危ない評価だぞ」
少年が少し笑う。
ブラットが入室し、四歩離れた位置で止まった。
「おはようございます」
「おはよう」
互いの挨拶が終わると、少年が俺より先に尋ねる。
「『調整済』、いつの?」
「かなり絞れました」
ブラットは記録板を開いた。
「正確な年月までは特定できません。ただ、成人アル様の保存魔力記録に残る識別は、現在調査している帰還管理所の後世改変より古いです」
少年の表情が少し固くなる。
「どれくらい」
「少なくとも数年以上」
「じゃあ帰還管理所で付いたんじゃない」
「今の証拠だけなら、その可能性は低いです」
俺も無意識に息を吐いた。
「塔の記録は?」
「成人アル様が塔へ送られるより前のものです」
「王宮にいた頃」
「はい」
「王太子だった時?」
「その可能性が高いです」
三〇八号室少年が俺を見る。
「覚えてる?」
「印を付けられた記憶はない」
「魔法された?」
「それも、はっきりとは」
「薬?」
「子供の頃から体調管理の薬は飲んでた。ただ、それと同じかは分からない」
少年は少し考えた。
「ブラットは?」
「私は識別そのものを知りませんでした」
「王太子の側にいたのに?」
「はい」
ブラットの表情が少し曇る。
「私が側近として把握していた医療情報より、さらに限定された記録だった可能性があります」
「父上は?」
「分かりません」
「先生は?」
「分かりません」
「レイハンは?」
「当時関与したかは未確定です」
少年の眉が寄る。
「誰も分かんない」
「今は」
俺が言う。
「でも、いつ頃かは少し分かった」
「うん」
少年はその言葉を受け入れた。
以前なら、答えのない名前が三つ並んだ時点で不安に引っ張られていたかもしれない。今は「分からない」だけで終わらせず、分かった部分を残せる。
「術式は?」
少年が先を促す。
「そこが二つ目の重要点です」
ブラットが記録板の一部を指でなぞる。
「『調整済』識別は、帰還管理所で使われている後世の管理分類術式と同じではありません。ただし、基礎となる記述形式がよく似ています」
「親戚?」
「魔導式の系統としては、そういう表現が近いかもしれません」
少年が少し顔を上げる。
「どっちが先?」
「成人アル様の『調整済』識別の方です」
「じゃあ後の帰還管理所が、アルの印みたいなのを真似した?」
「それも候補ですが、まだ早いです」
ブラットは慎重に続ける。
「共通のもっと古い仕組みから、別々に発展した可能性もあります」
「王家の医療?」
「可能性があります」
「研究所?」
「それもあります」
「古代塔?」
俺が聞くと、ブラットは少し間を置いた。
「完全には否定できません。ただ、現時点では成人アル様の識別と古代塔固有術式に直接一致する箇所は見つかっていません」
「じゃあ古代そのものじゃない」
「今のところは」
三〇八号室少年が小さく息を吐いた。
「何でも塔にしなくていい」
「ああ」
「塔すごいから、全部繋がりそうに見える」
「そうだな」
それは俺自身にも刺さる言葉だった。
塔には二千年前の技術がある。
今の王国が理解できない仕組みも多い。
だから、似た魔導技術を見るたびに「塔由来かもしれない」と考えたくなる。
けれど、それもまた便利な答えだ。
「三つ目」
ブラットが少し表情を改める。
「王家精神安定化計画との直接一致についてです」
少年の肩が僅かに上がる。
「怖さは?」
セリーが確認する。
「一。まだ大丈夫」
「続けますか?」
「聞く」
ブラットは頷く。
「保存槽で見つかった記録には、『処置完了』『正常化』『不要感情の分離』などの記述があります」
「うん」
「成人アル様の『調整済』識別は、その記録に使われる管理符号と一部似ています」
少年の顔が強張る。
「同じ計画?」
「確定できません」
「何で」
「『調整済』という識別自体が、王家医療の別制度でも使われていた可能性があるからです」
「他の王族にも?」
「それを調べています」
「結果は?」
「まだ十分ではありません。ただし」
ブラットが少しだけ呼吸を整える。
「成人アル様だけに存在する特別な形式ではない可能性が出ています」
俺自身、そこで少し肩の力が抜けた。
「他にいる?」
「旧王家資料に、似た識別を持つ記録が二件あります」
三〇八号室少年がすぐ反応する。
「誰」
「名前は伏せられています」
「王族?」
「王家血統者であることだけ確認できます」
「年齢は?」
「一人は成人、一人は未成年」
「アルと同じ処置?」
「不明です」
「精神?」
「それも不明」
少年は少し口を尖らせる。
「また分かんない」
「ただ、識別の用途欄が一部残っています」
「何て」
「『安定処置後経過観察対象』」
少年が黙った。
俺も、その言葉を頭の中で繰り返した。
「安定処置」
「ああ」
「精神?」
「そこまでは書かれていません」
ブラットが答える。
「魔力循環の安定化、術式暴走予防、精神状態の安定化、身体治療後の経過観察など、王家では複数の意味に使われた言葉です」
「じゃあ『調整済』だけで精神いじったってならない」
「はい」
「でもアルは精神安定化計画の記録もある」
「はい」
「だから関係あるかもしれない」
「はい」
「ないかもしれない」
「はい」
少年は少し苛立ったように息を吐いたが、すぐ水へ手を伸ばした。
「面倒」
「最近それ多いな」
「だって本当に面倒」
少し飲んでから、少年は俺を見る。
「アル、怖さは?」
「二」
「低い?」
「思ったよりは」
「何で」
俺は少し考える。
「俺だけの変な印じゃない可能性が出たからかもな」
「安心?」
「少し」
「でも他の人も何かされたかもしれない」
「ああ」
「じゃあ喜べない」
「そうだな」
少年はその返事に少しだけ安心したようだった。
「同じ印あるから同じ処置じゃない」
「ああ」
「同じ王家だからでもない」
「ああ」
「でも調べる材料にはなる」
「ああ」
ブラットが続ける。
「帰還管理所との関係について、もう一つあります」
「聞く」
「後世の『処置優先』分類術式は、古い『調整済』識別をそのままコピーしたものではありません」
「違う?」
「はい。むしろ、古い識別を読み取るための互換層が追加されています」
少年の目が少し大きくなる。
「後から、昔の印も読めるようにした?」
「そう見えます」
「何で」
「それはまだ不明です」
「帰還管理所より前に処置された人も対象にするため?」
「可能性があります」
「昔の患者?」
「それも」
「王族?」
「それも」
俺は腕を組んだ。
「つまり、帰還管理所後期の誰かは、自分たちが作った分類だけじゃなく、古い王家医療の識別も拾えるようにした」
「そう見える可能性があります」
「それなら制度同士の接続は、後世側が意図して作った可能性が高くなる」
「はい。ただし、接続した目的までは分かりません」
三〇八号室少年の指が膝の上で止まる。
「治療終わった人を帰すため?」
「ありえます」
「また処置するため?」
「ありえます」
「隔離するため?」
「ありえます」
「保護?」
「それも否定できません」
少年は少し顔をしかめた。
「全部ある」
「ああ」
「でも、古い印読む仕組みは後から入れた」
「ああ」
「そこは進んだ」
「そうだな」
「今日はそれでいい」
少年が自分で区切った。
セリーが確認する。
「怖さは?」
「二」
「もう少し聞けそうですか?」
「聞けるけど、聞かない」
「理由は?」
「今の話、考えたい」
「承知しました」
ブラットも記録板を閉じる。
「では、追加照合は結果がまとまるまで保留します」
「勝手に俺の記録増やさない?」
少年が聞く。
「あなたの記録は使用していません」
「アルのは?」
「今回許可された範囲だけです」
俺が横から言う。
「俺が許可した」
「うん」
少年は改めて俺を見る。
「嫌になったら止める?」
「ああ」
「じゃあいい」
ブラットが退出したあと、少年はしばらく何も話さなかった。
窓の外では、屋根の端から溜まった雨水が一滴ずつ落ちている。遠くで誰かが洗濯物を広げる音がして、そのあと、子供の小さな笑い声が聞こえた。
「アル」
「何だ」
「『調整済』って嫌?」
「言葉だけなら嫌だな」
「何で」
「俺が終わったみたいだから」
少年が少し驚いた顔をする。
「終わった?」
「調整した。はい完成、って感じがする」
「ああ」
「でも、その時の医療ではただの管理用語だったかもしれない」
「嫌だけど、悪いって決めない?」
「ああ」
「俺の『治療中』みたいな?」
「近いかもしれない」
少年は少し考えた。
「でも治療中って書かれても、俺全部じゃない」
「ああ」
「調整済もアル全部じゃない」
「ああ」
「ならいい?」
「印として残る分にはな。勝手に今の俺を決める材料にされたら嫌だ」
「帰還管理所みたいに」
「ああ」
少年は小さく頷いた。
「人より印の方が長生きするの、やっぱ嫌だな」
「だから読む側が気をつけるしかない」
「魔導具は?」
「そこが難しい」
俺が答えると、少年は少し不満そうな顔をした。
「魔導具、本人に聞けない」
「ああ」
「エルは聞く」
『私は対話機能があります』
腕輪から即座に声が返る。
少年が少し笑った。
「エルは特別」
『恐縮です』
「でも帰還管理所のは?」
「古い自動術式だ」
「じゃあ余計に止めないと」
「ああ」
午前中はそこで情報を切った。
少年は散歩へ行くか少し迷った末、今日は三〇八号室の近くの窓辺だけにした。
廊下へ出ると、ちょうどミナが反対側から歩いてくるところだった。
昨日は少年の方から「雨だった」と声をかけた。
今日、ミナは三歩ほど離れた場所で止まる。
「おはよう」
少年が一瞬固まる。
「……おはよう」
「昨日の水たまり、まだ残ってたよ」
ミナが窓の外を指す。
中庭の端に、確かに小さな水たまりがある。
「見た」
「踏んだ?」
「踏まない」
「私は踏んだ」
「何で」
「大きかったから」
少年が眉を寄せる。
「大きいと踏むの?」
「踏みたくなる」
「分からない」
ミナは楽しそうに笑った。
「アルなら分かる?」
突然こちらへ振られる。
「昔なら踏んだ」
「今は?」
「セリーに靴を汚すなって言われる」
「やっぱり管理されてる」
三〇八号室少年がすぐ言い、ミナも笑う。
「管理?」
「何でもない」
少年は少しだけ慌てた。
ミナはそれ以上聞かなかった。
「今日は晴れそうだね」
「うん」
「じゃあまた」
「……また」
ミナは手を振り、廊下の向こうへ歩いていく。
少年はしばらくその背中を見ていた。
「昨日より長かった」
「ああ」
「何話した?」
「水たまり」
「意味ない」
「普通の話って大体そんなもんだ」
「意味ないのに話す?」
「ああ」
「何で」
「楽しいからじゃないか」
少年は少し考えた。
「水たまりが?」
「話すことが」
その答えにも、まだ完全には納得していない顔だった。
「王宮の会話って、意味あるのばっかだった?」
「挨拶にも意味があるし、誰に何を言うかも見られる」
「じゃあ水たまりの話しない?」
「身内ならしたかもしれないけどな」
少年はもう一度ミナが消えた角を見る。
「明日、水たまりなくなる?」
「晴れればな」
「じゃあ話せなくなる」
「別の話すればいい」
「何」
「それを今決める必要あるか?」
少年が少し笑った。
「ない」
それだけ言い、窓辺へ移る。
五分ほど外を見てから、本人が「今日は戻る」と言った。
三〇八号室へ戻ると、薄布をかけた二通目の手紙が目に入る。
少年は少し迷い、その前へ立った。
「読む?」
今度は俺が聞いた。
「……一行だけなら」
予想していなかった言葉だった。
「続き?」
「うん」
「今?」
「今は怖さ一。朝の話も落ち着いた」
「条件は?」
少年はすぐ薄布を外さず、考える。
「昨日までと同じ。俺が触る。アルとセリーだけ。ブラット呼ばない。エルは俺が読んだところだけ記録」
「一行で止める?」
「一行読んでから決める」
「分かった」
少年は薄布を自分で外した。
二通目の手紙は、数日前に止めた位置のまま開かれている。
手が紙の端へ触れる。
少し震えていた。
「怖さ」
セリーが小さく尋ねる。
「二」
「止めても構いません」
「うん」
少年は前回読んだ最後の一文を目で確認し、その下へ視線を落とした。
声に出すまで少し時間がかかった。
「……『迷いが生じた場合は、自ら判断せず、教師へ申し出ること』」
そこで止まった。
少年の眉が少し寄る。
「一行」
「ああ」
「どうする?」
俺は意味を言わなかった。
少年自身が最初に考えると決めている。
「嫌」
小さな声だった。
「何が嫌?」
「迷ったら先生に言うところは、別に嫌じゃない」
少年は文字を見たまま続ける。
「自分で判断するな、が嫌」
指先が少し紙を押さえる。
「迷った時に相談するのと、判断するなは違う」
「ああ」
「先生に聞いて、最後俺が決めるのは?」
「できるならな」
「この手紙はそう書いてない」
「ああ」
「でも」
少年は一度だけ息を吐いた。
「これだけで父上が全部俺に決めさせたくなかったって決めない」
「ああ」
「先生が悪いとも」
「ああ」
「手紙が本物とも」
「ああ」
少年は少し考えたあと、次の行へ目を移しかけた。
そこで止まる。
「今日はここ」
「分かった」
「一行だけだった」
「それでも読んだ」
「進んだ?」
「お前が読みたくて読んだなら」
少年は少し笑った。
「途中の途中になった」
「前より中途半端だな」
「でもいい」
自分で薄布を戻す。
「続き、また今度」
「ああ」
怖さは二のままだった。
手紙を読んだからといって、必ず五まで上がるわけではない。
以前と同じ文書でも、その日の体調や情報量、自分で決めた読み方で反応は変わる。
それも記録されるが、「もう平気になった」とは書かない。
今日は二だった。
ただそれだけだ。
昼食は三〇八号室で取った。
白い薬は朝と同じ、昨日より僅かに減らした量のまま。
体調変化なし。
昼には赤いジャムが少量出た。
「ある」
「今日はあります」
セリーが答える。
「明日は?」
「明日は明日です」
少年が笑う。
「聞く前に言った」
「毎回同じ流れになるので」
「セリーが先に変えた」
「効率化です」
「帰還管理所みたい」
一瞬、俺とセリーの動きが止まった。
少年自身も「あ」と顔を変える。
「……違う」
「まあ待て」
俺が笑いを堪える。
「何でも制度改変に繋げるな」
「ごめん」
「セリーのは、お前の選択を奪ってない」
「うん」
「甘味を制限されてはいるが」
「主様もです」
「そこは奪われてる」
少年が吹き出した。
少し重くなりかけた空気がほどける。
「便利でも全部悪くない」
「そういうことだな」
「本人いらなくならなければ」
「ああ」
少年はジャムを少しだけパンへ塗った。
俺が同じ瓶へ手を伸ばすと、今度は少年ではなくセリーに止められる。
「主様は少なめです」
「何で」
「昨日も召し上がっています」
「俺も昨日は昨日だろ」
「食事管理は累積します」
三〇八号室少年が腹を抱えて笑った。
「昨日の選択、今日に関係ある!」
「身体は昨日と繋がっていますから」
「例外ある」
「選択を命令にしないことと、情報を無視することは別です」
少年は笑いながら頷いた。
「難しい」
「だから規則だけで全部決めないんだろ」
「ああ」
俺の言葉に、少年は少しだけ真面目な顔になった。
「昨日の記録は使う。でも昨日の俺に今日の俺を合わせない」
「そういうことだ」
昼食後、旧保養施設から連絡が入った。
『名前不明の子供について、体調と短い本人発言の共有許可があります。緊急性はありません』
少年は食後の水を飲みながら考える。
「今聞く」
『承知しました』
通信を繋ぐと、ヨアヒムの声の向こうで木の床を歩く足音が聞こえた。
『体調は安定しています。今日は部屋の入口付近まで本人が歩きました』
「外に出た?」
『廊下へは出ていません』
「自分で止まった?」
『はい』
「誰近く?」
『リディアを選びました。三歩です』
少年が少し頷く。
『今日の発言は、昨日の木片についての続きかもしれません』
「何て?」
『本人が木片を持ち、「しるし、ぼくの」と言いました』
三〇八号室少年が少し眉を寄せる。
「昨日は、印はぼくじゃない」
『はい』
「今日は、ぼくの」
『はい』
「自分じゃないけど、自分の物」
『そのように受け取れます』
「それ大事」
少年は少し考える。
「持ち主と物、別」
「ああ」
「でも別だから関係ない、でもない」
「ああ」
俺が答えると、少年はさらに考える。
「アルの調整済も?」
「俺そのものじゃない。でも俺についてる情報ではある」
「木の板も、その子じゃない。でもその子の物」
「ああ」
「だから勝手に使えない」
「ああ」
『本人はそのあと、木片を胸元へしまいました』
ヨアヒムが続ける。
『「かえす?」と尋ねることはしていません』
「何で?」
『今日は本人から返す話を出していないからです』
少年の表情が少し緩む。
「いい」
「返すって前に言ったから、今日も聞くんじゃない」
『はい』
「昨日の言葉、今日の命令にしない」
そこまで言って、少年は少し笑った。
「これ、便利だけど毎回言うと変」
「最近多いな」
「分かってる」
『では、こちらも意味を汲んで記録します』
エルが淡々と入る。
「言葉そのままだけじゃなく?」
『本人が過去に返却意向を示したが、本日は再確認していない、と分けて記録します』
「それならいい」
少年は頷いた。
「返事は送らない」
『承知しました』
通信を終える。
午後になる頃、帰還管理所から追加の安全報告が届いた。
対象認識遮断そのものではなく、待機術式の隔離試験だという。
三〇八号室少年は少し疲れていたため、内容の種類だけ聞いて保留した。
「今日はもうアルの印と手紙と子供聞いた」
「ああ」
「多い」
「じゃあ明日だな」
「緊急じゃない?」
『緊急性なし』
エルの返事を聞き、少年は迷わず頷いた。
「明日」
その判断で、帰還管理所の内区は今日も動かない。
条件確認が一日遅れる。
けれど、誰も急かさなかった。
夕方、少年は昨日より少し長く廊下を歩いた。
中ほどの窓辺へ来ると、朝まで残っていた水たまりはほとんど消えている。
「なくなった」
「ああ」
「ミナに言う?」
「自分で決めろ」
「見たら分かる」
「それでも話していいだろ」
少年は少し考えた。
「意味ない話」
「ああ」
「楽しいかもしれない話」
「ああ」
そこへちょうど階段からミナが上がってきた。
少年が少しだけ姿勢を正す。
ミナもこちらに気づいた。
「こんにちは」
「……水たまり、なくなった」
挨拶より先だった。
ミナが窓の外を見る。
「ほんとだ」
「朝はあった」
「じゃあ明日は踏めないね」
「踏まなくていいだろ」
「でも楽しいよ」
「靴汚れる」
「洗えばいい」
三〇八号室少年が明らかに困った顔をする。
「アルは?」
「俺に振るな」
「昔踏んだって」
ミナが笑う。
「じゃあアルも楽しいって知ってる」
「昔の話だ」
「今も踏めばいい」
「セリーがいるから無理だ」
三人の視線が同時に少し離れた位置のセリーへ向く。
「主様の靴を洗うのは私です」
静かな声だった。
ミナが肩をすくめる。
「じゃあだめだ」
三〇八号室少年が笑う。
「セリー強い」
「知ってる」
ミナはそれだけ言って手を振った。
「またね」
「また」
今日は少年の返事も少し早かった。
ミナが去ったあと、少年は小さく息を吐く。
「昨日より普通だった」
「自分で分かる?」
「分かんないけど、昨日より考えなかった」
「何話すか?」
「うん」
「それが慣れるってやつかもな」
少年は少し考えた。
「悪い慣れじゃない?」
「今のところは」
「じゃあいい」
夜。
白い薬は朝と同じ量。
昨日より僅かに減らしたままでも、頭痛、吐き気、胸の違和感、強い眠気は出なかった。
だからといって、明日さらに減らすとは決めない。
青と紫は使わない。
二通目の手紙は、午前中に一行だけ続きを読んだまま再び薄布をかけてある。
少年は寝台へ入る前、少しだけその布を見た。
「今日、一行読んだ」
「ああ」
「少なすぎ?」
「お前が決めたなら」
「続き気になる」
「ああ」
「でも今は読みたくない」
「ああ」
「それ、変じゃない?」
「全然」
少年は少し安心したように布団へ入る。
「アル」
「何だ」
「調整済って、いつ付いたかまだ分からない」
「ああ」
「でも帰還管理所より前」
「ああ」
「アルだけじゃないかもしれない」
「ああ」
「精神安定化計画と関係あるかもしれないけど、決まってない」
「ああ」
「後の帰還管理所は、その古い印も読めるようにしてた」
「ああ」
「そこは結構大きい?」
「大きいと思う」
「でも何のためか分からない」
「ああ」
少年は枕へ頬を沈める。
「今日はそれでいいか」
「ああ」
「全部分からなくても」
「ああ」
「前より、ちょっと慣れた」
そこで少しだけ眉を寄せる。
「この慣れはいい?」
「分からないことを放ってるわけじゃないなら、悪くないと思う」
「忘れてない」
「ああ」
「嫌じゃなくなったわけでもない」
「ああ」
「でも寝れる」
「それは大事だ」
少年は少し笑う。
「昔なら、全部分かるまで寝たくなかったかも」
「俺もそうだった」
「今は?」
「セリーに寝かされる」
「主様」
横から声が飛ぶ。
「冗談だ」
「半分本当」
三〇八号室少年が笑う。
「アルも管理対象」
「その言葉は今やめろ」
「照合対象?」
「もっと悪い」
笑いが少し続く。
落ち着いたあと、少年がぽつりと言った。
「ミナと今日、水たまりの話した」
「ああ」
「意味ない話」
「ああ」
「でも覚えてる」
「ああ」
「父上の手紙の一行も覚えてる」
「ああ」
「帰還管理所のことも」
「ああ」
「同じ日にあっていいんだな」
「いいだろ」
「大事な話した日は、ずっと大事なこと考えなくていい?」
「ああ」
「水たまりの方考えても?」
「ああ」
少年は少し目を閉じる。
「それ、いいな」
呼吸がゆっくりになる。
今日一日、王家精神安定化計画へ繋がるかもしれない古い識別が自分の近くに現れた。
成人した俺の中に、「調整済」という印が残っていた。
その識別は帰還管理所より古い。
そして帰還管理所の後世術式は、後からその古い識別まで読み取れるよう作られていた可能性がある。
制度と制度の間に、細い線が一本増えた。
けれど、それだけで全てを同じ計画にはしない。
王家医療。
精神安定化。
魔力調整。
帰還。
処置優先。
似た術式が使われていても、目的まで同じとは限らない。
今夜そこまで考えた少年は、それ以上を求めなかった。
「お休み、アル」
「お休み、アルフォンス」
セリーも静かに挨拶し、俺たちは三〇八号室を出た。
内側から鍵がかかる。
廊下の窓から見える中庭には、もう朝の水たまりは残っていない。
今日、大きく動いたことは少ない。
帰還管理所の内区も、まだ開いていない。
父上から届いたという二通目の手紙も、たった一行しか進んでいない。
名前不明の子供も、自分の木片について「これは、しるし」「ぼくじゃない」に続き、「しるし、ぼくの」と言っただけだ。
それでも。
自分ではない物を、自分の物として持つことができる。
印は本人ではない。
記録も本人ではない。
けれど、だからといって無関係でもない。
俺に残る「調整済」も同じだ。
それは俺そのものではない。
けれど、誰かが過去の俺へ何かを行い、何らかの理由でその印を残した痕跡ではある。
ならば、消す必要もなければ、従う必要もない。
調べればいい。
時間をかけて。
今の俺を、過去についた印へ合わせないために。
そして三〇八号室の少年もまた、今日は一通の手紙より水たまりの話を覚えて眠ろうとしている。
それでいいのだと思う。
人間の一日は、事件だけでできているわけではない。
恐怖だけでも。
過去だけでも。
大事な答えだけでもない。
どうでもよさそうな話をして笑った時間まで含めて。
その人の今日になるのだから。




