第47話 人を見分けるための印が、いつの間にか人そのものの代わりになっていました
朝方まで降っていた雨は、白鴉療養所の窓を開ける頃には止んでいた。
濡れた石畳が薄い朝日を反射し、中庭の木々からは時折大きな雫が落ちている。昨日までの乾いた冷たさとは違い、今日は土と濡れた葉の匂いが廊下の奥まで入り込み、歩くたびに靴底の音がいつもより柔らかく響いた。
三〇八号室の前へ着き、いつものように扉を二度叩く。
しばらくして内鍵が外れたが、今日は少年が扉を開けなかった。
「入っていい」
声ははっきりしている。
中へ入ると、少年はすでに着替えを終え、小机の前で赤い布を眺めていた。二通目の手紙へかけた薄布には触れていない。その隣で、残りの手紙を包む赤布の端だけを指先で弄んでいる。
「今日は早いな」
「昨日いっぱい寝たから」
「眠気は?」
「ない」
セリーが体調確認へ入る。
頭痛なし。
吐き気なし。
胸の不快感なし。
身体の重さも昨日より軽い。
怖さは一。
「では、今日の白い薬はどうしますか?」
少年はすぐには答えなかった。
ここ数日、四分の一より少し減らした量を維持している。
昨日は眠気が強かった。
今日はそれがない。
「……減らしてみたい」
「どの程度ですか?」
「ほんの少し」
「昨日より?」
「うん。でも、八分の一までは行かない」
「分かりました」
セリーはそれ以上勧めも止めもしない。
「理由は?」
「今日は体調いいし、昨日の眠気もなくなったから。あと」
少年は少し考え、言葉を整える。
「帰還管理所の話を聞くとしても、昨日ほど大きい情報じゃないって聞いてからにしたい」
「先に内容の種類を確認するのですね」
「うん」
青と紫は今日も使わない。
白い薬だけ、ごく僅かに減らす。
エルがその日の選択として記録した。
「減らしたから、明日も減らすわけじゃない」
少年が自分から付け加える。
「もちろんです」
セリーの返事を聞いて、少年は少し満足そうに頷いた。
「朝飯は?」
「廊下」
「どこまで行く?」
「見て決める」
部屋を出ると、昨日の雨のせいか療養所の中はいつもより静かだった。
外作業が減った分、職員の多くは一階へ集まっているらしい。二階の廊下を通る人影は少なく、三〇八号室の近くにある丸机も、その先の窓辺も空いている。
少年は一度近い方へ向かいかけ、途中で止まった。
「今日は先」
「昨日は近かったぞ」
「今日は人いない」
理由はそれだけだった。
昨日できたからではなく、今日の状況を見て選ぶ。
窓の近くまで行くと、雨上がりの冷たい空気が僅かに入り込んでいた。
「寒い?」
俺が聞くと、少年は窓枠へ手を近づける。
「少し。でもここがいい」
「閉める?」
「今はいい」
朝食が運ばれる。
温かい豆のスープと白いパン、薄く焼いた肉、それに小さく切った梨。
「甘い?」
少年が梨を見る。
「自然な甘さです」
「ジャムは?」
「昼食以降です」
「あるとは言ってない」
「よく覚えていらっしゃいます」
「騙されないから」
少年は少し笑いながらスープへ手を伸ばした。
食事を半分ほど終えた頃、エルから連絡が入った。
『帰還管理所より、昨日の対象認識解析に関する追加結果があります。緊急性はありません』
少年の匙が止まる。
「種類」
『旧外区記録との照合、認証層の年代差、対象条件の分類です。内区扉は開けていません』
「危険増えた?」
『新たな即時危険は確認されていません』
「じゃあ食べてから」
『保留します』
少年はすぐに食事へ戻った。
以前なら、内容が「対象」と聞いただけで気持ちが持っていかれたかもしれない。
今はまだ目の前のスープを温かいうちに食べる。
そのこと自体が、本人にとって少しずつ普通になっていた。
「梨うまい」
「よかったですね」
「赤いジャムより?」
俺が聞く。
「比べない」
「何で」
「別の甘いものだから」
即答され、俺は思わず笑う。
「それ、最近の調査と同じじゃないか?」
「似てるけど同じじゃない」
「使いこなしてるな」
「便利」
少年も少し笑った。
食事を終え、今日選んだ量の白い薬を飲む。
少し休んでから三〇八号室へ戻ると、少年は寝台ではなく窓辺の椅子へ座った。
今日はガルム、リディア、ブラットの三人から報告を聞く。
「ブラットもいる?」
俺が確認すると、少年は頷いた。
「今日は記録の話あるから」
「距離は?」
「四歩」
ブラットが入室すると、本人の希望通り四歩離れた位置で止まる。
「おはようございます」
「おはよう」
少年の返事も以前より自然だった。
「今日は何が分かった?」
ブラットはすぐ記録板を開かず、まず内容の範囲を説明した。
「昨日、待機術式が王家血統だけでなく、施設登録や処置歴らしき痕跡にも反応する可能性が出ました。そこで、外区に残っている古い利用記録と、その人たちの認証痕を照合しています」
「十一人?」
「主に昨日確認した十一人です。ただし、全員分が読めるわけではありません」
「名前は?」
「今回も不要なら読み上げません」
「いらない」
少年は少し考えてから続ける。
「でも番号だけで人みたいに扱うのも嫌」
「では、『帰還希望の人』『判断保留の人』など、記録内容で区別します」
「それがいい」
ブラットが頷く。
「最初に、昨日まで使っていた『対象認識』という言葉について、一つ訂正があります」
少年の表情が少し変わる。
「間違ってた?」
「完全な間違いではありません。ただ、術式内の古い記述を読み直すと、元々は『対象』ではなく『照合対象』に近い意味だった可能性があります」
「照合?」
少年が眉を寄せる。
リディアの声が通信越しに入る。
『誰を捕まえるか、ではなく、誰の記録と一致するかを見るための仕組みだったのかもしれません』
「人を選ぶんじゃない?」
『元は違った可能性があります』
「じゃあ何のため」
ブラットが説明を続ける。
「例えば、外区で待っている人が内区へ進む時、その人が本当に説明を受けたか、資格確認を終えたか、身体負荷確認を終えたか。その記録と本人を照らし合わせるためです」
少年は少し黙った。
「チェックするだけ」
「古い仕組みなら、その可能性があります」
「でも今残ってる術式は」
『単なる照合より広い反応をしています』
リディアの言葉に、少年の口元から僅かな笑みが消える。
「後から変えた?」
『可能性があります』
「また?」
『また、かもしれません』
少年は水へ手を伸ばさず、両手を膝の上で組んだ。
「続けていい」
ブラットが最初の照合結果を示す。
「まず、帰還希望で内区へ進んだ人たちです。確認できた三人には、共通して薄い三層の認証痕があります」
「三つ?」
「本人登録。説明完了。身体確認」
少年がすぐ反応する。
「本人意思は?」
「魔力痕としては残っていません」
「何で」
「そこが重要です」
ブラットは一度言葉を切る。
「本人意思は、元の制度では魔導具が判定するものではなかった可能性があります」
少年が目を見開いた。
「人が聞く?」
「そう考えるのが自然です」
「術式じゃなく?」
「はい」
部屋の空気が僅かに変わった。
俺もそこは強く引っかかった。
本人意思。
帰還資格。
処置説明。
身体負荷。
四項目が並んでいたが、その全部を魔導具が判断していたとは限らない。
「じゃあ、帰りたいかは」
少年がゆっくり言う。
「誰かが本人に聞いて、記録した?」
「古い時代はそうだった可能性が高いです」
「魔導具は勝手に決めない」
『少なくとも確認できる範囲では』
リディアが慎重に答える。
「次」
少年の声は少し強くなっていた。
「判断保留の人は?」
「認証痕の一部だけがあります。登録はある。説明完了もある。ただし、内区移送に必要な最終照合痕がありません」
「だから待ってた?」
「可能性があります」
「十三日いた人も?」
「その人の痕跡は比較的よく残っています」
「何がない?」
「最終照合だけです」
少年の指が少し動く。
「帰るって決めなかったから?」
「その可能性があります」
「じゃあ昔は」
少年は窓の方を見る。
「登録されても、説明受けても、帰るって言わなかったら進まない」
「ああ」
俺が答える。
「少なくとも、その人の記録はそう見える」
少年の肩が少し下がる。
「いい」
小さな声だった。
「何が?」
「登録されたら対象、じゃない」
「ああ」
「何かされたら絶対進む、でもない」
「ああ」
「途中で止まれる」
「ああ」
ブラットが次へ進む。
「七人目。帰還拒否で、九日目に外区保護継続を自分から希望した人です」
少年の表情がまた真剣になる。
「その人も登録痕はあります」
「内区の?」
「最終照合はありません」
「よかった」
少年は思わずそう言ったあと、少しだけ顔を伏せる。
「まだ、その時は」
「はい」
「じゃあ後から第三移送候補って書かれた時」
ブラットが静かに頷く。
「別の認証層が追加されています」
三〇八号室の空気が重くなった。
「追加?」
「古い三層とは違うものです」
「何て」
リディアが答える。
『仮に「管理分類層」と呼んでいます』
「管理」
『本人が何を選んだかではなく、施設側がその人をどう分類したかを示す痕跡に見えます』
少年が黙る。
外では雨の雫が一つ、窓枠から落ちた。
その音がやけに近く聞こえる。
「帰還拒否」
少年が低く言う。
「第三候補」
「はい」
「それを本人に付けた?」
「魔力そのものへ直接刻んだか、記録媒体と紐づけただけかはまだ分かりません」
「本人知らなくても?」
「可能性があります」
「怖さは?」
セリーが入る。
少年は少し呼吸を整えてから答えた。
「二」
「続けられますか?」
「もう少し」
ブラットは少年の様子を見てから、十一人目へ進む。
「本人発語なしと記録された人です」
「灯り選んだ人」
「はい」
「その人は?」
「古い登録痕と生活記録痕だけ。最終照合はありません」
「じゃあ進んでない」
「少なくとも古い記録時点では」
「後からは?」
「劣化が強く、管理分類層があるかまでは読み取れません」
少年は少し残念そうにする。
「分からない」
「はい」
「でも、昔の時点では勝手に進めなかった」
「そう見えます」
その答えを聞いて、少年はしばらく黙った。
「本人意思だけ、魔導具に任せなかった」
「ああ」
「何でだろ」
「人の気持ちは魔力だけじゃ分からないからじゃないか」
俺が言うと、少年は少し考えた。
「今も?」
「今も」
「怖いって言ってるけど、本当は行きたいとか」
「ああ」
「行きたいって言ってても、本当は怖いとか」
「ああ」
「両方ある」
「ある」
少年は小さく頷く。
「じゃあ昔の人、そこ分かってたのかな」
「制度を作った誰かは、少なくとも簡単には決められないと思ってたのかもしれないな」
「でも後で」
「変わった可能性がある」
少年の口元が少し硬くなる。
ブラットが記録板を持ち直す。
「ここからが、昨日の『対象認識が複数パターンある』理由につながります」
「聞く」
「後世の管理分類層には、少なくとも三種類あります」
「昨日の三つと同じ?」
「近いですが、少し違います」
少年が水を一口飲む。
「一個ずつ」
「一つ目。『帰還可能』」
「普通?」
「元の資格確認と似ています」
「次」
「二つ目。『再確認対象』」
少年の眉が寄る。
「一日一回聞く頃?」
「時期が近い可能性があります」
「次」
「三つ目」
ブラットは一拍置いた。
「『処置優先』」
少年の顔から表情が消えた。
「何それ」
「まだ意味は完全には分かりません」
「帰るより先に処置?」
「文面だけなら、その可能性があります」
「本人意思は?」
「その分類層には含まれていません」
少年の手が寝台の布を掴む。
「また本人いない」
「ああ」
俺が低く答える。
「前の札も、確認できなかったら管理者が代わりに決める」
「ああ」
「今度は処置優先」
「ああ」
「帰るかじゃなくて、何かする方が先」
「可能性はある」
少年は目を閉じ、しばらく呼吸を整えた。
「怖さ三」
自分から言う。
「一度止めますか?」
セリーが尋ねる。
「……あと、それが今の待機術式とどう関係するかだけ」
リディアが答える。
『今残っている待機術式は、この後世の管理分類層へ強く反応します』
「古い本人登録より?」
『はい』
「どれ」
『「処置優先」が最も強いです』
少年が完全に黙った。
俺も一瞬、言葉を失った。
「じゃあ今の扉は」
少年がゆっくり言う。
「帰りたい人より、処置する人を見つけやすい?」
『そう見える可能性があります』
「可能性?」
『術式全体が劣化しているため、強い反応=本来の優先順位とは断定できません』
「でも強い」
『はい』
「誰かが変えた」
『それもまだ確定ではありません。修理や後付けで結果的にそうなった可能性もあります』
少年は眉を寄せたまま、水をもう一口飲んだ。
「今日はここまで」
「分かりました」
ブラットが記録板を閉じる。
通信の向こうでガルムがすぐ言った。
『内区は開けない』
少年は少しだけ笑った。
「今日は聞いてない」
『顔が見えなくても聞きそうなの分かる』
「ガルム、慣れた」
『誰のせいだ』
そのやり取りで、張り詰めた空気が少しだけ緩んだ。
「待機術式、止められる?」
少年が尋ねる。
『壊さず隔離する方法はだいぶ見えてきた』
「処置優先の反応も?」
『そこだけ切り離せるか試す』
「人使わない?」
『使わん』
「木の板?」
『使わん』
「AG-02?」
『使わん』
「アル?」
『行かせん』
「よし」
「俺の扱い何なんだ」
少年が少し笑う。
『危ない実験に自分から首突っ込む元王太子』
「正しい」
「お前まで」
笑いがもう一度起きた。
通信を終える。
少年はしばらく窓の外を見ていた。
朝の雨で濡れた枝から、まだ時々雫が落ちている。
「最初は、照らし合わせるだけだったかもしれない」
「ああ」
「本人が誰か」
「ああ」
「説明受けたか」
「ああ」
「身体大丈夫か」
「ああ」
「でも帰りたいかは、人が聞く」
「ああ」
「それが後から」
少年は自分の胸へ手を置いた。
「施設が分類するようになった」
「ああ」
「再確認する人」
「ああ」
「処置優先の人」
「ああ」
「それが今の術式に強く残ってる」
「ああ」
少年は少し嫌そうに唇を噛む。
「人より印の方が残った」
その言葉に、俺はすぐ返せなかった。
少年は続ける。
「本人が帰りたくないって言ったのは記録古くて消えかけてるのに、第三とか処置優先は魔法に残ってる」
「ああ」
「嫌だな」
「ああ」
「本人より長く残る」
管理のためにつけた分類。
誰かを見分けるための印。
それは便利で、記録しやすく、術式にも読み取らせやすい。
けれど人の声より丈夫に残るなら、いつか印の方が本人の代わりになってしまう。
「白鴉では?」
少年が聞く。
「何が」
「俺、薬の量とか怖さとか、いっぱい記録してる」
「ああ」
「それが俺になる?」
「ならないようにする」
「怖さ三の人、とか」
「今日は三でも明日は一かもしれない」
「薬少なくした人」
「明日増やすかもしれない」
「王太子」
「もう元だ」
「アルフォンス」
「今そう呼ばれたいだけで、それだけがお前の全部じゃない」
少年は少しだけ表情を緩めた。
「記録はいる?」
「いる」
「何で」
「薬を間違えないため。昨日どうだったか確認するため。本人があとで『そんなこと言ってない』って確認できるようにするため」
「じゃあ悪くない?」
「使い方次第だな」
少年は少し考えた。
「記録に俺を合わせるのは嫌」
「ああ」
「俺に記録を合わせる」
「それなら近い」
「今日怖さ三だから、怖い人じゃなくて」
「ああ」
「今日三だったってだけ」
「ああ」
少年は少し笑った。
「それ覚えとく」
午前中はそこで調査を終えた。
少年は少し疲れたらしく、散歩へは行かず三〇八号室で横になることを選んだ。
「減らした薬、戻す?」
セリーが尋ねる。
「今は戻さない」
「怖さが上がったから?」
「情報聞いたからだと思う」
「そうですね。ただし決めつけません」
「分かってる」
少年は目を閉じる。
「昼まで寝る」
「承知しました」
俺とセリーは部屋を出た。
廊下へ出ると、ブラットがまだ少し離れたところに立っていた。
「殿下」
「アル」
「……アル様」
「何だ」
ブラットは少し迷った。
「先ほどの『処置優先』についてですが、成人したあなたの古い魔力記録と照合する案が出ています」
セリーの視線がすぐ鋭くなる。
「現地へ行く話じゃないぞ」
「もちろんです」
「保存記録だけ?」
「はい。塔に残っている過去の魔力記録です」
俺は少し考える。
「三〇八のやつや保存槽の子は?」
「本人許可なしには使いません」
「名前不明の子も?」
「使いません」
「俺のは?」
「成人したあなた自身の許可があれば」
セリーが俺を見る。
「主様」
「保存記録だけならいいだろ」
「目的を限定してください」
「『処置優先』分類に似た痕跡があるかだけ」
「それ以外には使用しない?」
「ああ」
「原記録は?」
「改変せず、照合結果だけ別記録」
ブラットが答える。
俺は頷いた。
「それでやれ」
「承知しました」
「結果出ても、すぐ内区開ける材料にはするな」
「はい」
「俺に痕跡あっても、現地に連れてくなよ」
「ガルム隊長から同じことを言われています」
「皆信用ないな」
セリーが平然と返す。
「実績がありますので」
「否定しにくい」
ブラットが少しだけ笑った。
昼前、塔の古い記録から成人した俺の魔力波形を使った限定照合が行われた。
結果はすぐには出ない。
それでよかった。
昼食の時間になり、三〇八号室少年が起きてくる。
「怖さ二」
自分から申告する。
「身体は?」
「平気。薬減らしたけど、変な感じない」
「昼もそのままですか?」
「うん」
昼食は部屋の中を選んだ。
外の廊下では職員の行き来が増えており、今日はそこへ出る気分ではないらしい。
「ジャム」
皿を見るなり少年が言う。
「今日はありません」
セリーが即答する。
「梨は?」
「朝召し上がりました」
「甘いのない?」
「小さな蜂蜜菓子が一つあります」
少年の顔が明るくなる。
「あるじゃん」
「食後です」
「分かってる」
食事が始まる。
途中、旧保養施設から連絡が入った。
『名前不明の子供について、本人から共有許可のある短い発言があります。緊急性はありません』
少年は少しだけ迷い、今日も食事を優先した。
「あと」
『保留します』
食べ終え、蜂蜜菓子まできちんと食べる。
「うまい」
「よかったですね」
「帰還管理所の蜂蜜焼きもこんな?」
「分かりません」
「レシピないかな」
「調査隊に菓子の製法を探させるな」
「ついで」
「ついででもだ」
少年が笑う。
少し休んでから、旧保養施設と通信を繋いだ。
今日はヨアヒムではなく、オスカーが近くにいるらしい。声の向こうで、何か木製の器を置く音がした。
『体調は安定しています』
ヨアヒムが報告する。
『午前中は窓辺へ行かず、部屋の中で過ごしています』
「通気口?」
『見ていません』
「下?」
『移動していません』
少年は一度頷く。
「本人の言葉は?」
『木片を持った状態で、「これは、しるし」と言いました』
少年が目を見開く。
「印?」
『はい』
「何の?」
『そこはまだ分かりません』
「帰還証?」
『その言葉は本人に使っていません』
「聞かなかった?」
『本人が続けて話すか待ちました』
「続いた?」
『少しだけ』
ヨアヒムが間を置く。
『「ぼくじゃない」と』
室内の空気が変わった。
少年の表情が固まる。
「木の板が?」
『本人は木片を指してから、自分の胸へ手を置き、「ぼくじゃない」と言いました』
少年がゆっくり息を吸う。
「印は、本人じゃない」
『そう受け取れる可能性があります』
俺も無意識に三〇八号室少年を見る。
今朝、まさに同じ話をしていた。
記録。
分類。
対象認識。
人を見分けるための印が、人そのものの代わりになる危険。
「それ、誰か教えた?」
少年が尋ねる。
『いいえ』
「帰還管理所の話も?」
『していません』
「俺の話も?」
『していません』
「じゃあ本人が言った」
『はい』
少年の指が膝の上で少し動く。
「もう一回聞いた?」
『「この印があなたですか」と確認したところ、強く首を横に振りました』
「じゃあ」
少年は言葉を探す。
「木の板は本人じゃない」
『はい』
「でも本人の物」
『はい』
「必要」
『本人はそう言っています』
「返す」
『過去にそう発言しています』
「持ってると戻される」
『はい』
「でも本人そのものじゃない」
『はい』
少年はしばらく黙った。
「大事」
やがて、低い声で言う。
「何が?」
俺が聞く。
「印がその人じゃないって、本人が言った」
「ああ」
「今日の帰還管理所と同じ」
そこまで言って、自分で止まる。
「……いや、同じじゃない」
『似た考え方には見えます』
ヨアヒムが助けるように言う。
「うん。似てる」
少年は少し安心する。
「本人に、こっちの話伝える?」
『まだ必要性は低いと考えています』
「俺もそう思う」
「理由は?」
俺が聞くと、少年は少し考えた。
「本人が自分で『印はぼくじゃない』って言えたから。そこに帰還管理所の難しい話足すと、俺たちの答え押しつけそう」
「なるほど」
「本人の言葉、そのまま残して」
『承知しました』
「返事は?」
少年は少し迷う。
「今日は」
唇を少し噛む。
「『分かった』だけも変?」
『何が分かったのか曖昧になりますね』
「じゃあ何も送らない」
『承知しました』
通信が終わる。
「すごいな」
少年が呟く。
「何が」
「発見された子」
「ああ」
「名前言わないのに、自分と印は違うって言える」
「ああ」
「名前なくても自分いる」
「ああ」
「前も思ったけど」
少年は少しだけ笑った。
「やっぱ名前だけじゃない」
午後。
成人した俺の保存魔力記録と、「処置優先」分類痕との限定照合結果が届いた。
少年は聞くかどうか迷った。
「アルのだろ?」
「ああ」
「聞いていい?」
「俺はいい」
「嫌だったら?」
「今のところ嫌じゃない」
「あとで嫌になるかも?」
「その時言う」
少年は少し考えた。
「じゃあ聞く」
ブラットが再び四歩の位置へ入り、結果だけを説明する。
「成人アル様の保存魔力記録には、『処置優先』と完全一致する痕跡はありません」
少年の肩が少し緩む。
「じゃあ関係ない?」
「そこまでは言えません」
「また」
「似た古い層があります」
俺も眉を寄せた。
「どんな」
「『調整済』に近い識別です」
少年の表情が変わる。
「調整」
「王家精神安定化計画との関係は未確定です」
「でもアルにある」
「はい」
「いつ?」
「保存記録の年代から、少なくとも成人後ではありません」
胸の奥が少し冷える。
「子供の頃」
「可能性があります」
少年が俺を見る。
「怖い?」
「三くらい」
「俺みたいに数字言った」
「影響された」
少しだけ空気が緩む。
「『調整済』と処置優先は同じ?」
「完全には違います」
ブラットが答える。
「構造上、『調整済』の方が古いと見られます。そして『処置優先』は、その古い識別を読み取れる形で作られています」
「後の仕組みが、前の印見る」
「はい」
「じゃあ昔アルについたものを、後の帰還管理所が対象にするかもしれない」
「可能性があります」
少年の表情が険しくなる。
「やっぱ現地行かせない」
「俺も今は行かない」
「今は?」
「今後も条件分かるまでは」
「ならいい」
俺自身、今回は反論する気にならなかった。
自分の身体に、いつ付けられたかも分からない「調整済」の識別が残っている。
それを帰還管理所の後世術式が読み取る。
偶然かもしれない。
同じ研究系統かもしれない。
古い王家医療制度で広く使われた印かもしれない。
まだ何も決められない。
「保存槽のアルフォンスは?」
少年が聞く。
「本人の許可がないため照合していません」
「よし」
「聞く?」
「今はいい」
「三〇八の俺も?」
「調べていません」
「それもいい」
「名前不明の子も?」
「もちろん」
少年は大きく息を吐いた。
「アルだけ勝手に?」
「俺は自分で許可した」
「あ」
「俺も本人だぞ」
少年は少し気まずそうにする。
「忘れてた」
「ひどいな」
「アル、何でも先にやるから」
「今回は保存記録だけだ」
「でも嫌だったら断れた?」
「ああ」
「途中でやめられた?」
「ああ」
「結果聞かないも?」
「ああ」
少年は頷く。
「じゃあいい」
その日の調査はそこで終えた。
ガルムからも、内区扉を開けない方針が改めて伝えられる。
対象認識遮断の残り二割は、単に魔力を隠すだけでは足りない。
古い登録痕。
後世の管理分類。
処置履歴らしき識別。
その全てを誤認しない状態にする必要がある。
しかも、成人した俺には後世術式が読み得る古い「調整済」識別が残っている。
内区へ近づける理由は、さらに減った。
「明日も開けない?」
少年が尋ねる。
『多分な』
「よかった」
『また残念でもあるんだろ』
「少し」
『面倒なやつだな』
「ガルムに言われたくない」
少年が笑い、通信の向こうでも誰かが噴き出した。
夕方、少年は短い散歩へ出た。
今日は廊下の中ほどまで。
途中でミナとすれ違う。
ミナは一度手を振ったあと、今日はそのまま通り過ぎようとした。
少年が少し迷う。
「ミナ」
小さな声だった。
少女が止まる。
近づかず、その場で振り返る。
「なに?」
三〇八号室少年の喉が僅かに動いた。
「……今日、雨だった」
それだけだった。
ミナは少し不思議そうに窓を見る。
「うん。でも止んだね」
「うん」
「外、濡れてるよ」
「見た」
「そっか」
ミナは笑った。
「じゃあ、またね」
「うん」
会話はそこで終わった。
名前を聞かない。
何者か確認しない。
保存槽のアルフォンスの話もしない。
ただ、今日雨だったという話だけ。
ミナが角を曲がって姿を消すと、少年は少しだけ息を吐いた。
「話した」
「ああ」
「何言えばいいか分かんなかった」
「雨でよかったんじゃないか」
「普通?」
「かなり」
少年は少し笑った。
「普通、難しい」
「王太子より?」
「比べるの変」
「そうだな」
二人で笑いながら三〇八号室へ戻った。
夜。
白い薬は朝に選んだ少し減らした量のまま。
昼から体調変化なし。
怖さは一。
青と紫は使わない。
二通目の手紙は今日も読まなかった。
「読む気なくなった?」
俺が聞くと、少年は薄布のかかった紙を見る。
「ある」
「じゃあ何で」
「今日じゃない」
「ああ」
「読みたいって、今日読めって意味じゃない」
「そうだったな」
赤い布の調査も、まだ保留。
少年は灯りを少し弱くし、寝台へ入った。
「アル」
「何だ」
「今日の子の『これは、ぼくじゃない』」
「ああ」
「大事だった」
「ああ」
「印って、便利だろ」
「そうだな」
「帰還証かもしれない木の板も、王家の印も、薬の記録も」
「ああ」
「アルの調整済も」
「ああ」
「俺の怖さ三も」
「ああ」
「でも、それだけで人にしちゃ駄目」
「ああ」
少年は布団を胸元まで引き上げる。
「七人目、帰還拒否って記録ある」
「ああ」
「でもその人、帰還拒否っていう人じゃない」
「ああ」
「十三日いた人も、判断保留っていう人じゃない」
「ああ」
「俺も王太子っていう人じゃない」
「ああ」
「患者っていう人でもない」
「ああ」
「アルフォンスって名前だけでもない」
「ああ」
少し沈黙が落ちる。
「じゃあ、何なら俺?」
以前なら、その問いは恐怖の底から出ていた。
本物か偽物か。
王太子かそうでないか。
成人した俺か、自分か。
今日は少し違う。
分からないことを確かめる問いではなく、自分で考える余地を持った声だった。
「今ここで、赤いジャム好きで、ミナと雨の話して、手紙読むの途中で止めて、薬の量を自分で決めてるやつ」
少年が少し笑った。
「長い」
「一個じゃ足りないだろ」
「名前より長い」
「ああ」
「でも、その方が俺っぽい」
「ああ」
目を閉じる。
「アルも?」
「何が」
「元王太子だけじゃない」
「そうだな」
「塔の主だけでもない」
「ああ」
「危ないところ行きたがる人」
「そこ入れるな」
「セリーに管理されてる人」
「もっとやめろ」
少年が布団の中で笑う。
「赤いジャム多く取ろうとする人」
「お前、寝る気ある?」
「ある」
笑いが落ち着くまで少し時間がかかった。
やがて少年の呼吸がゆっくりになる。
「お休み、アル」
「お休み、アルフォンス」
セリーも静かに挨拶し、俺たちは部屋を出た。
内側から鍵がかかる。
雨上がりの夜は冷え、廊下の窓には濡れた中庭の石畳が月明かりを反していた。
帰還管理所の扉は、今日も閉じたままだ。
その代わり、扉の前に残された仕組みが少しだけ見えてきた。
古い時代。
魔導具は、人の代わりに意思を決めるためではなく、本人と記録を照らし合わせるために使われていた可能性がある。
誰なのか。
説明を受けたか。
身体は耐えられるのか。
けれど、帰りたいかどうかは人が聞いた。
少なくとも、残った記録はそう見える。
その後。
人へ付ける印が増えた。
再確認対象。
第三移送候補。
処置優先。
そして、いつしか今残っている術式は、本人の声よりも、そうした管理側の分類へ強く反応するようになっていた。
人を見分けるための印だったものが。
いつの間にか、その人自身を決める印へ近づいていたのかもしれない。
けれど、旧保養施設の名前を言わない子供は、自分の木片を抱えながら言った。
「これは、しるし」
そして。
「ぼくじゃない」
名前を言えなくても。
過去をまだ話せなくても。
その区別はできる。
印は、自分ではない。
記録も。
分類も。
役割も。
薬の量も。
昨日の恐怖も。
それらは本人を知るための一部にはなっても、本人そのものにはならない。
だから明日も。
帰還管理所が誰を「対象」と呼ぶのかを調べる前に。
こちら側では、人を人のまま見失わないことから始める。
扉を開けることより、その方がずっと時間がかかる。
それでも、その時間を削ってしまえば。
きっとまた、同じところへ戻ってしまうのだから。




