第46話 誰を対象と呼ぶのか分からないまま、扉だけを開けることはしませんでした
白鴉療養所の朝は、前日よりも冷えていた。
夜のうちに風向きが変わったらしく、東側の窓へ触れると石枠までひやりとしている。中庭では落ち葉を集める職員が二人、箒を動かすたびに乾いた音を立て、その向こうでは夜番を終えた近衛が肩を回しながら交代の報告をしていた。
三〇八号室の前まで来ると、今日は扉の向こうが静かだった。
二度叩く。
すぐには返事がない。
少し待っていると、寝台が軋むような音がして、そのあとに内鍵が外れた。
「……入っていい」
いつもより眠そうな声だった。
扉を開けると、少年はまだ上着を着ていなかった。寝台の端へ腰を下ろし、両手で髪を押さえている。昨日までならすでに小机や窓辺へ移動している時間だったが、今日は起きるのが少し遅かったらしい。
「寝不足?」
俺が聞くと、少年は首を横に振る。
「寝た。いっぱい」
「じゃあ何で眠そうなんだ」
「知らない」
その返しも、少し力がない。
セリーが近づきすぎない位置から様子を見る。
「頭痛はありますか?」
「ない」
「吐き気は?」
「ない」
「身体の重さは?」
少年は少し考えたあと、肩を回した。
「ちょっとある。昨日より一つ多い感じ」
「怖さは?」
「一」
「眠気だけが強いのですね」
「たぶん」
セリーはすぐ薬の話へ進まず、昨夜いつ寝たか、夜中に何度起きたか、目覚めた時に喉が渇いていなかったかを確認した。
少年は一度も起きていない。
夢は覚えていない。
夜の白い薬も、ここ数日と同じ量。
青と紫は使っていない。
「じゃあ、白い薬減らしたせい?」
少年が自分から聞く。
「可能性はありますが、反対に睡眠が深くなっただけかもしれません。昨日は情報量も多かったので、その疲れが残っている可能性もあります」
「どれ」
「今は決めません」
少年は少し不満そうにした。
「毎回それ」
「分からないものを一つに決めるより安全です」
セリーの返しに、少年は布団の端を摘まみながら少し考えた。
「今日の薬」
「はい」
「昨日と同じでいい」
「眠いのに?」
俺が聞くと、少年は俺を見る。
「今日減らしたら、眠いのが昨日の疲れなのか薬なのかもっと分かんなくなる」
そこまで言って、自分でも少し納得したように頷いた。
「だから今日は変えない」
「分かりました」
セリーが静かに答える。
「青と紫はなし」
「はい」
エルが、その日の希望だけを記録した。
薬を減らすことを競争にしない。
昨日より減らせたから今日も減らす、にはしない。
少年は少しずつ、自分の身体を「早く元へ戻すもの」ではなく、「その日の状態を見ながら扱うもの」として見られるようになっていた。
「朝飯、部屋にする?」
俺が聞く。
「廊下」
「眠いのに?」
「眠いから、近いところ」
「なるほど」
三〇八号室に近い窓辺を選ぶ。
昨日までなら「昨日ここだったから今日も」ではなく、人通り、疲れ、気分を見て場所を変えている。
少年は上着を自分で着てから廊下へ出た。
窓辺の丸机には、すでに朝の光が差していた。
遠くの山には薄い霧が残っているものの、空は晴れている。冷たい風が窓の隙間から少し入り、そこに温かなスープの湯気が流されていった。
「今日の甘いのは?」
席につくなり少年が尋ねる。
「朝からですか」
セリーが少しだけ眉を上げる。
「あるか聞いただけ」
「煮た林檎があります」
「赤いジャムじゃない」
「毎日ではありません」
「蜂蜜焼きも?」
「ありません」
少年は露骨に残念そうな顔をする。
「帰還管理所の人、毎日甘いの食べてたかな」
「そこまで期待する施設じゃないだろ」
「十三日いた人、二回果実煮あった」
「覚えてるのか」
「大事だから」
少年はそう言ってから、少しだけ笑った。
その笑みが出るなら、今朝の眠気は深刻なものではなさそうだ。
食事が始まる。
今日は柔らかいパンと、鶏肉と根菜のスープ、煮林檎。少年はいつもより食べる速度が少し遅かったが、量は落ちていない。
途中、二人の近衛が廊下を通った。
一人は少年へ軽く会釈し、もう一人も同じようにする。それ以上、姿勢を正したり立ち止まったりはしない。
少年も慣れた様子で小さく頭を動かした。
「敬礼しないの、もう普通」
「嫌?」
「違う」
少年はパンをちぎる。
「前は、しないと変だった」
「ああ」
「今は、したら変かも」
「場所で変わるな」
「じゃあ王宮行ったらまた?」
「王宮には王宮のやり方がある」
「嫌って言える?」
「今のお前の立場なら、少なくとも近衛相手には話し合える」
「父上の前でも?」
そこで少しだけ手が止まる。
「それは相手にもよる」
「また分からない」
「ああ」
少年は小さく息を吐いた。
「でも今日は王宮じゃない」
「ああ」
「ならいい」
それ以上、朝食の時間に父王を引っ張らなかった。
しばらくすると、エルから帰還管理所側の連絡が入る。
『内区扉周辺の待機術式について、初期解析結果があります。緊急性はありません』
少年が匙を止める。
「危険?」
『即時危険は確認されていません』
「じゃあ食べてから」
『保留します』
また自然にそう言った。
俺は何も褒めなかった。
少年自身も、もうそれを特別な判断とは思っていないようだった。
食事を最後まで終え、煮林檎も食べる。
「酸っぱい?」
俺が聞く。
「甘い」
「昨日より?」
「今日の方が好き」
「セリー」
「何でしょう」
「明日も」
「明日は明日です」
少年がすぐ笑った。
「それ絶対言うと思った」
「では聞かないでください」
「聞く」
少しだけ明るい空気を残したまま、三〇八号室へ戻った。
白い薬を昨日と同じ量だけ飲む。
それから、少年は小机に置かれた二通目の手紙を見る。
薄い布は自分でかけたまま。
「今日は読む?」
俺は聞かずに待った。
少年は布の端へ触れかけ、すぐ離す。
「今は読まない」
「ああ」
「帰還管理所の話先」
「分かった」
「でも一日読まないって決めたわけじゃない」
「それも分かった」
少年は寝台へ座った。
今日はブラットを呼ばず、ガルムとリディアから技術面の報告だけを聞くことにする。
「ブラットいらない?」
俺が確認する。
「記録の文読むんじゃないんだろ」
「ああ」
「なら今日はいい」
「距離気にするのも疲れる?」
少年は少し考える。
「少し」
正直だった。
「誰がいるか少ない方が楽な時ある」
「ああ」
「でも一人は嫌な時もある」
「ああ」
「今は、アルとセリーだけでいい」
「分かった」
通信を繋ぐ。
ガルムの声の後ろでは、風が少し強い。帰還管理所の周辺も、白鴉と同じように冷えているらしい。
『まず待機術式からだ』
ガルムが始める。
『リディア』
『はい』
リディアの声に切り替わる。
『昨日確認した弱い術式ですが、単独では処置や転送を行うものではありません』
少年の肩が僅かに下がる。
「じゃあ安全?」
『そこまでは言えません』
「何するの?」
『何かを待っています』
少年が眉を寄せる。
「何を」
『命令ではなく、条件です』
「条件?」
『今のところ確認できたのは三つ。扉が開くこと。一定範囲に魔力源があること。そして、何らかの認証反応が成立すること』
俺も少し身を乗り出した。
「扉だけ開けても?」
『起動しません』
「魔力源だけでも?」
『しません』
「認証反応が必要」
『はい』
少年が少し考える。
「その認証が対象?」
『その可能性が高いです』
「王家?」
『それを確認しています』
少年の表情が少し強張る。
「成人アル、行ってない?」
『行かせてない』
ガルムの返事が早い。
「よし」
「お前、本当にそこだけ強いな」
『俺も賛成だがな』
リディアが続ける。
『王家血統反応だけなら、手元にある古い王家資料と保存魔力である程度模擬できます』
「人いらない?」
『生体そのものは使いません』
「それならいい」
少年は少し安心した。
『まず古い王家魔力を模した反応を、扉から十分離れた隔離具へ流しました』
「どうなった?」
『待機術式は反応しました。ただし、完全起動ではありません』
「途中?」
『そうです』
「何が足りない?」
『分かりません』
少年は少し口を尖らせる。
「また」
『分からないものは分からない』
リディアの返しが淡々としていて、少年が少し笑う。
「エルみたい」
『褒め言葉として受け取ります』
ガルムが咳払いを一つする。
『次に、帰還管理所の古い外区記録へ残ってた一般利用者の魔力痕を模した』
「王家じゃない人?」
『そうだ』
「反応した?」
『した』
少年の表情が変わる。
「え?」
俺も同じ反応だった。
「王家だけじゃない?」
『少なくとも、それだけじゃない』
ガルムの声が少し低くなる。
『王家系の反応より弱いが、待機術式自体は一般魔力にも反応した』
「じゃあ何見てる?」
少年の問いに、リディアが答える。
『魔力量でもありません。属性でもありません。年齢を推定する反応でもなさそうです』
「じゃあ誰でも?」
『それも違います』
「何で」
『施設の外にいる近衛や技術担当の魔力を遠隔で遮断具へ写してみたところ、ほとんど反応しない人もいました』
「帰還管理所使った人だけ?」
『そこを疑っています』
少年は少し黙った。
「昔、登録された?」
『可能性があります』
「帰還証?」
『それも候補です』
「木の板は使わないよ」
『使いません』
「AG-02も」
『使っていません』
「じゃあどうやって」
『古い外区記録筒や受付机には、利用者を記録した際に残った微弱な認証痕があります。それを複製せず、隔離状態で参照しています』
少年の眉が少し上がる。
「昔そこにいた人の跡」
『はい』
「それで反応する」
『一部は』
「全部じゃない?」
『十一人分のうち、判別可能だったのは六人。六人全員で強さが違います』
「帰る人と帰らない人で?」
『今のところ一致しません』
それは重要だった。
帰還希望だから強く反応する。
帰還拒否だから弱い。
そういう単純な仕組みではない。
「何で違う?」
『まだ』
少年が先に言った。
「分からない」
『その通りです』
「言わせた」
少しだけ笑う。
けれど、その表情はすぐ真剣なものへ戻った。
「十一人目みたいに喋れない人は?」
『判別できた六人には含まれていません』
「記録壊れてる?」
『それもあります』
「七人目は?」
『帰還拒否の七人目ですね。反応痕は残っています』
「強い?」
『中程度』
「じゃあ帰らない人でも対象になる」
『少なくとも、待機術式の認証候補にはなっていた可能性があります』
少年の顔が少し強張る。
「本人が帰らないって言ってても」
「あくまで術式の認証候補だ」
俺が言う。
「内区へ送るって意味とはまだ違う」
「でも対象にはなれる」
「ああ」
少年は少し黙る。
「対象って何なんだろ」
それは、誰もすぐに答えられない問いだった。
王家。
帰還希望者。
拒否者。
判断不能者。
後世にはそれらが混ざり合っている。
『もう一つあります』
リディアが続ける。
『認証反応には、単なる魔力痕とは別の薄い層があります』
「何」
『処置歴のようなものです』
俺の身体が僅かに固まる。
「処置歴?」
『正確な名称は分かりません。ただ、帰還管理所側の術式が、一度何かを施された魔力波形を区別している形跡があります』
「一度何かされた人」
少年の声が低くなる。
『その可能性です』
「薬?」
『薬だけでは通常、魔力波形へ長期痕跡は残りません』
「精神魔法?」
『可能性があります』
「身体に何か?」
『それも』
「帰還処置?」
『候補です』
少年の呼吸が少し浅くなる。
「じゃあ、対象って」
自分の胸元へ手を当てた。
「王家じゃなくて、何かされた人かもしれない?」
『まだ一つに決められません』
「でも」
『王家反応、施設登録、処置歴らしき痕跡。そのどれか一つ、または組み合わせを見ている可能性があります』
少年は水へ手を伸ばした。
セリーが何も言わず杯を近くへ置く。
少年は一口飲んだ。
「怖さ」
セリーが静かに確認する。
「二」
「続けますか?」
「もう一個くらい」
リディアが少し間を置く。
『では、今日の最後に一つだけ』
「うん」
『この認証反応は、外から完全には再現できません』
「何で」
『生体情報が一部必要な可能性があります』
少年の顔が固まった。
「人いる」
『今すぐ必要という意味ではありません』
「誰使う?」
『使わない方法を先に探します』
「成人アルも?」
『使いません』
「保存槽のアルフォンスも?」
『使いません』
「俺も?」
『もちろん』
「発見された子も?」
『当然です』
少年はそれを聞いて、ようやく息を吐いた。
「よかった」
『ただし、内区扉を開けた時に周囲の誰かを勝手に生体対象として拾う可能性が残っています』
「だから対象認識遮断」
『はい』
「できる?」
『今のところ、八割程度までは』
「八割」
『残り二割が分からない状態では開けません』
少年は少しだけ笑った。
「それ、いい」
「何が?」
俺が聞く。
「八割できたから開けよう、じゃない」
「ああ」
『リディアも同じ意見だ』
ガルムが入る。
「十割?」
『十割って言葉は使わん。安全確認に絶対はない』
「じゃあどこまで?」
『何が分からないかを分かった状態まで』
少年はしばらく考えた。
「分からない二割の中身が分かるまで」
『そうだ』
「面倒」
『調査は面倒だ』
「皆それ言う」
通信の向こうで小さな笑い声がした。
張り詰めていた空気が少し和らぐ。
「今日はもういい」
少年が自分から言った。
『了解』
「奥開けない?」
『開けない』
「よし」
『また承認する』
「大事」
通信を切った。
少年は寝台へ少し深く座り直す。
「眠い?」
俺が聞く。
「ちょっと」
「朝からだな」
「でも今は頭疲れた」
「休むか」
「うん」
そのまま横になる。
二通目の手紙へ視線を向けることもなかった。
セリーが窓を少し閉め、冷たい風の入り方を弱める。
「怖さは?」
「二」
「身体の重さは?」
「朝と同じ」
「薬量は変えますか?」
「今は変えない」
「承知しました」
少年は目を閉じた。
「アル」
「何だ」
「対象って呼ばれるの嫌」
「ああ」
「誰か分かんなくなる」
「ああ」
「王家とか患者とか、帰還とか」
「ああ」
「何かされた人とか」
「ああ」
「でも術式は、そういうのまとめて見るんだな」
「機械は人間みたいに全部は見ないからな」
「魔導具?」
「ああ」
「じゃあ余計怖い」
「何で」
「間違えても、本人に聞かない」
俺は少し黙った。
「そうだな」
「術式に『俺は違う』って言っても止まらないかもしれない」
「ああ」
「だから開ける前に止める」
「ああ」
少年は少し安心したように呼吸を緩める。
「それならいい」
しばらくして眠った。
俺とセリーは静かに部屋を出た。
廊下へ出ると、朝より人通りが増えている。近衛が一人、白鴉の職員と書類を確認しながら低い声で話していた。
俺たちを見ると近衛が会釈する。
「殿下」
「今はアルでいい」
「……失礼しました」
以前なら、その訂正一つで妙な空気が残ったかもしれない。
今は近衛も少し困った顔をしただけで、「アル様」と言い直し、仕事へ戻る。
セリーが横を見る。
「気になりましたか?」
「少し」
「王太子と呼ばれることが?」
「もう違うからな」
「嫌ですか?」
「嫌ってほどじゃない。でも戻される感じはする」
自分で言って、少しだけ可笑しくなる。
「俺も似たこと言ってるな」
「三〇八号室の彼とですか?」
「ああ」
「似ていることと同じことは別です」
「分かってる」
最近、皆それを口にする。
似ている。
でも同じではない。
その区別が、この場所では以前よりずっと大事になっている。
午前の残り、俺は帰還管理所の資料を開かなかった。
セリーに休むよう言われたわけではない。
今日は自分でそうした。
「主様」
「何だ」
「珍しいですね」
「何が」
「言わなくても休まれているので」
「俺だって学習する」
「良いことです」
「褒めるな」
「三〇八号室の影響ですね」
「それもある」
俺は少し笑った。
昼になる頃、少年が起きてきた。
眠気は朝より少し軽くなっている。
「怖さ一」
自分から言った。
「じゃあ朝の眠気、薬じゃない?」
俺が聞く。
「まだ決めない」
「お前に言われた」
「便利」
少年が少し得意そうに笑う。
昼食は三〇八号室の中を選んだ。
今日は人通りが多く、廊下へ出る気分ではないという。
「昨日も部屋だったな」
「だから何」
「いや、二日続けてても固定じゃないんだなと思って」
「明日は廊下かもしれない」
「ああ」
「食堂はまだ嫌」
「分かった」
昼食には赤いジャムが少量ついていた。
少年はすぐ気づく。
「今日ある」
「昨日の朝、煮林檎を召し上がったので」
「関係ある?」
「甘味量の調整です」
「セリー、全部計算してる」
「当然です」
俺が少し多く取ろうとすると、少年がすぐ見る。
「アル、多い」
「見張るなよ」
「セリー」
「主様」
「お前ら組むな」
少年が笑う。
食事の途中、旧保養施設から連絡が入った。
『名前不明の子供について、体調と本人発言の共有許可があります。緊急性はありません』
少年は赤いジャムをパンへ塗りながら少し考える。
「食べてから」
『保留します』
その判断も、もう迷いがない。
食後、少し休んでから通信を繋いだ。
ヨアヒムの声の向こうでは、今日は風がそれほど強くない。
『体調は安定しています。午前中、自分で窓辺まで歩きました』
「下は?」
少年がすぐ聞きかけ、少し止まる。
「……ごめん。先に言って」
『大丈夫です』
ヨアヒムは急かさず続ける。
『通気口から離れた位置を今日も選んでいます。近くにいてよい人はオスカー。距離は四歩です』
「昨日五歩」
『はい』
「近くした」
『本人がそう選びました』
「下へは?」
『移動していません』
少年は少し肩の力を抜いた。
『本人発言ですが、今日は通気口ではなく、自分の木片を見ながら話しました』
少年の表情が変わる。
「何て?」
『「これ、したじゃない」と』
部屋が静かになった。
「下じゃない」
『はい』
「木の板は下じゃない?」
『そう聞こえます』
「確認した?」
『「これが下ですか」と尋ねると、首を横に振りました』
少年は目を少し見開く。
「じゃあ木の板と下、別」
『少なくとも本人は、今回そう示しました』
「帰還管理所?」
『聞いていません』
「戻るところ?」
『それも』
少年は少し考える。
「じゃあ、木の板持ってると戻される。でも下じゃない」
『今の発言をそのまま並べるなら、そうです』
「前、下行かないって言った」
『はい』
「でも木の板は下じゃない」
『はい』
少年の指が膝を軽く叩く。
「やっぱり一緒にしなくてよかった」
「ああ」
俺も同じことを思っていた。
木片。
帰還管理所。
下。
寒い。
戻るところ。
同じ言葉の周囲にあるからといって、全部同じ場所へ繋がるわけではない。
『もう一つあります』
ヨアヒムが続ける。
『木片を胸へ抱えたあと、「これ、いる」と言いました』
少年の表情が少し柔らかくなる。
「必要?」
『そう受け取れる可能性があります』
「捨てない」
『はい』
「返すって言ってたのに」
『「返したい」と「今は必要」は両立するかもしれません』
「そっか」
少年は少し考える。
「俺も父上の手紙、嫌だけど持ってる」
言ってから、すぐに自分で止めた。
「……同じじゃない」
『似た部分はあっても、本人の理由は別でしょうね』
「うん」
「伝言は?」
俺が聞く。
少年は少し迷った。
「今日はいい」
「何で」
「俺、今朝対象って話聞いて、ちょっと怖いから。変なこと言いそう」
「分かった」
『承知しました』
通信が終わった。
少年は少しの間、窓の方を見る。
「木の板、下じゃない」
「ああ」
「じゃあ帰還管理所の内区とも違うかもしれない」
「ああ」
「でも印似てる」
「ああ」
「面倒」
「それは本当にそうだな」
二人で少し笑った。
午後になると、ガルムから追加の技術報告が届いた。
今度は少年が「聞く」と自分で決めるまで待った。
「どれくらい?」
『短い』
「対象認識?」
『そうだ』
「聞く」
通信の向こうでリディアが説明する。
『午前の続きです。王家魔力、施設利用者痕、処置歴らしき層を分けて確認しました』
「分かった?」
『一つだけ』
少年が少し身体を起こす。
『待機術式は、三つ全部が揃わなくても反応します』
「じゃあどれか一個?」
『違います』
「また違う」
『組み合わせが複数あるようです』
俺も少し眉を寄せた。
「条件が一つじゃない?」
『はい。王家反応+何らかの登録痕。一般魔力+強い処置歴。登録痕+特定の魔力偏り。少なくとも三種類の反応パターンがあります』
「何でそんな」
少年が思わず言う。
『時代ごとに追加された可能性があります』
リディアの答えに、部屋が静かになる。
「また後付け」
少年が低く言う。
『可能性です』
「最初は一個だった?」
『それも分かりません』
「でも、何個も条件ある」
『はい』
「制度変えた時に、対象の決め方も増やした?」
『そういう可能性があります』
少年は少し目を閉じた。
「帰還拒否とかまとめたのと同じ頃?」
『まだ時期照合が必要です』
「じゃあ決めない」
『はい』
ガルムが続ける。
『ただ、これで一つ分かった』
「何」
『誰か一人を現地へ連れてって反応見る方法は、一番危ない』
「成人アルとか?」
『そうだ』
「保存槽の方も」
『そうだ』
「俺も」
『そうだ』
「発見された子も」
『そうだ』
少年はゆっくり頷いた。
「よかった」
「何が」
「誰か連れて試そう、にならなくて」
『フェリクスは一瞬考えてた』
「駄目!」
『だから止めた』
少年が露骨に嫌そうな顔をする。
「やっぱり外でいい」
『本人に言うなよ』
「絶対言う」
『やめろ』
通信の向こうで誰かが笑った。
その軽いやり取りのあと、ガルムの声が少し真面目になる。
『内区は今日も開けない』
「うん」
『明日も開けない可能性が高い』
「条件足りない?」
『対象認識遮断がまだ不十分』
「待機術式は?」
『隔離方法が見えてきた』
「転送?」
『未確認』
「記録破棄?」
『未確認』
「じゃあまだいっぱいある」
『そういうことだ』
少年は少しだけ安心したように息を吐いた。
「遅くていい」
『前は遅いって文句言ってたろ』
「今も嫌だよ」
『じゃあどっちだ』
「遅いの嫌。でも危ない方がもっと嫌」
ガルムが少し間を置く。
『それでいい』
通信が切れた。
少年はしばらく寝台に座ったままだった。
「怖さ」
セリーが尋ねる。
「二」
「朝より上がりましたね」
「でも昨日の三より低い」
「比較だけで決めません」
「分かってる」
少しだけ口を尖らせる。
「休みますか?」
「散歩」
「今?」
「短く」
俺が少し驚く。
「頭疲れてるのに?」
「部屋にいると考える」
「じゃあ行くか」
少年は今日は三〇八号室から廊下の中ほどまで歩いた。
昨日より短い。
その代わり、窓辺で少し長く立って外を見た。
風に揺れる木々。
遠くの道。
行き交う近衛。
療養所の庭で洗濯物を干している職員。
「皆、自分のことしてる」
「ああ」
「帰還管理所のこと知らない人もいる?」
「多いと思うぞ」
「俺のことも?」
「ああ」
「それで普通に生きてる」
「ああ」
少年は少しだけ笑う。
「変な感じ」
「何が」
「俺には今、これがすごい大きいのに」
「ああ」
「他の人には関係ない」
「そういうもんだ」
「前は、王太子のことは皆知ってると思ってた」
「実際かなり知られてた」
「でも今は」
窓の外へ視線を向ける。
「俺知らない人の方が多い」
「ああ」
「それ、ちょっと楽」
声は小さかった。
「誰にも見られない?」
「完全には無理だけどな」
「でも、ずっとじゃない」
「ああ」
それだけで、少年は少し満足したようだった。
部屋へ戻る途中、ミナとすれ違った。
ミナは今日も近づかず、小さく手を振る。
少年も返す。
今日は昨日より自然だった。
それ以上、互いに何も求めない。
三〇八号室へ戻ると、少年は小机の前へ立った。
薄布の下にある二通目の手紙を見る。
少し迷う。
今日は読むのかと思った。
けれど、少年は布をめくらなかった。
「今日は読まない」
「ああ」
「対象って話で頭いっぱい」
「ああ」
「これ読んだら、父上も対象にしたとか、先生もとか、勝手に繋げそう」
「なら今日はやめとけ」
「うん」
「赤い布は?」
「それもまだ」
「分かった」
少年は手紙から離れた。
夕食前、セリーが今日の薬量を再確認する。
「夜も朝と同じにしますか?」
「うん」
「眠気は?」
「昼寝したら少しよくなった」
「怖さは?」
「一」
「では同量で記録します」
「青と紫なし」
「はい」
夕食には甘い物がつかなかった。
「ない」
「昼に赤いジャムを召し上がりました」
「一日一個」
「目安です」
「明日は?」
「明日は明日です」
少年は笑う。
「絶対言う」
「同じ質問をされるので」
「AIみたい」
俺が思わず笑いかけて、意味が分からないのでやめた。
「何」
「いや、何でもない」
「変」
少年は少し訝しみながらも、食事へ戻った。
夜。
扉は内側から閉める。
灯りは薄く残す。
怖くなれば「アル」と呼べる。
呼ばなくてもいい。
少年は布団へ入り、少し長く天井を見ていた。
「アル」
「何だ」
「対象って」
「ああ」
「人の名前じゃない」
「ああ」
「王家とか、登録とか、何かされた跡とか」
「ああ」
「そういうので決める」
「術式はそうかもしれない」
「便利?」
「機械にとっては」
「でも怖い」
「ああ」
「俺が嫌って言っても、条件合ったら対象になるかもしれない」
「ああ」
「逆に俺が対象ですって言っても、条件合わなかったら違うかもしれない」
「ああ」
少年は少し眉を寄せた。
「本人より術式の方が強い」
「そうならないように止める」
「開ける前に?」
「ああ」
「条件隠す」
「対象認識を遮断する」
「ああ」
「それできなかったら?」
「開けない」
「ずっと?」
「必要ならな」
少年は少し驚いたように目を開ける。
「答え分からなくても?」
「ああ」
「中に何あるか分からなくても?」
「ああ」
「気になるのに?」
「気になる」
「すごく?」
「かなり」
「でも開けない?」
「危険が大きすぎれば」
少年は少し考えた。
「それ、前のお前なら無理だった?」
「多分、行ってた」
「ガルムに怒られる」
「ああ」
「セリーにも」
「ああ」
「今も?」
「今も行きたい」
「じゃあ変わってない」
「行きたいのと行くのは別だ」
少年が少し笑った。
「それ、今日の薬と同じ?」
「どういう」
「減らしたい。でも今日は減らさない」
「ああ」
「手紙読みたい。でも今日は読まない」
「ああ」
「中見たい。でも開けない」
「ああ」
「木の板、調べたい。でも使わない」
「ああ」
少年はゆっくり息を吐いた。
「したいって、命令じゃない」
「ああ」
「怖いも、命令じゃない」
「ああ」
「嫌も?」
「嫌は止まる理由になることが多いけど、それだけで全部決まるわけじゃない」
「命危ない時とか」
「ああ」
「でも聞く」
「できる限りな」
少し沈黙が落ちる。
「発見された子」
「ああ」
「木の板は下じゃないって言った」
「ああ」
「下行かない」
「ああ」
「木の板いる」
「ああ」
「前よりちょっと分かれた」
「そうだな」
「でも答え増えてない」
「整理は進んだ」
「それでも進んだって言う?」
「ああ」
少年は目を閉じた。
「じゃあ今日の帰還管理所も」
「何が」
「対象が誰か分からなかった」
「ああ」
「でも王家だけじゃないって分かった」
「ああ」
「一個の条件じゃない」
「ああ」
「時代で増えたかもしれない」
「ああ」
「誰か連れて試すの危ない」
「ああ」
「じゃあ進んだ」
「そうだな」
声に少しだけ納得が混じる。
「答え出なくても、分けられたら進んだことにしていい?」
「ああ」
「面倒だけど」
「ああ」
「最近そればっか」
「お前が言うからだ」
少年が少し笑う。
「明日、内区」
「まだ多分開けない」
「よかった」
「本当に?」
「少し残念」
「どっちだよ」
「両方」
少年は目を閉じたまま答えた。
「見たい。でも怖い。だから今は開けない方がいい」
「ああ」
「両方あっていい」
「ああ」
呼吸がゆっくりになる。
「お休み、アル」
「お休み、アルフォンス」
セリーも静かに挨拶し、俺たちは三〇八号室を出た。
内側から鍵のかかる音がする。
廊下には夜の冷たい空気が流れていた。
帰還管理所の内区扉は、今日も開かなかった。
けれど、開けなかったから何も分からなかったわけではない。
扉の周囲に残る待機術式は、ただ王家の血を待っているわけではなかった。
王家系の魔力。
施設へ登録されたらしい痕跡。
何らかの処置を受けた人間に残る可能性のある変化。
それらを単独ではなく、いくつかの組み合わせで見ているらしい。
しかも、条件は一つではない。
後から追加された可能性もある。
だから、誰を「対象」と呼んでいたのかは、まだ分からない。
王族なのか。
患者なのか。
帰還希望者なのか。
処置を受けた者なのか。
それとも、その全部を時代ごとに違う方法で拾うようになったのか。
答えは出なかった。
それでも、一つだけ確かなことがある。
今の状態で誰かを現場へ連れて行き、術式へ差し出して反応を見ることはしない。
成人した俺も。
保存槽から出た幼いアルフォンスも。
三〇八号室の少年も。
名前を言わない子供も。
誰一人、扉を開けるための試験材料にはしない。
術式が人を「対象」と呼ぶなら。
こちらはその前に、その人自身を見る。
何を望んでいるのか。
何を嫌がっているのか。
何をまだ言えないのか。
それを聞く。
そして、聞けない状態なら。
分からないまま、扉の方を止める。
少なくとも今は、それでいい。
誰を対象と呼ぶのか分からないまま。
扉だけを先に開ける理由は、どこにもなかった。




