第45話 奥の扉を開ける前に、何を知らなければ進まないのかを決めることにしました
翌朝の白鴉療養所には、前日よりも冷たい風が流れ込んでいた。
窓の外では雲が高く、空そのものは明るい。それでも山から下りてくる風には確かな冷たさがあり、廊下の窓辺へ置かれた小さな鉢植えの葉が、時折かすかな音を立てて震えていた。
三〇八号室の前へ着いた時、扉の内側から何かを動かす音が聞こえた。
二度叩く。
少し待つと、内鍵が外れた。
「入っていい」
扉を開けると、少年は小机の前に立っていた。
昨日まで開いた状態で置いてあった二通目の手紙は、今朝もそのままだ。ただし、紙の上には薄い布が一枚だけかけられている。
「それ、お前が?」
俺が聞くと、少年は頷いた。
「文字見えると気になるから」
「閉じないんだな」
「途中なのは分かるようにしたい」
昨日と同じ考えだった。
読み終えていないことを消さない。
けれど、ずっと文字を目に入れ続ける必要もない。
セリーが布へ触れる前に、少年が自分から言う。
「これは俺がかけたから、このまま」
「承知しました」
セリーはそれ以上近づかず、いつもの体調確認へ移った。
頭痛なし。
吐き気なし。
胸苦しさなし。
夜中に一度だけ目が覚めたが、怖い夢ではなかったらしい。白い薬はここ数日と同じ、四分の一より少し減らした量を続けている。
「怖さは?」
セリーが尋ねる。
「今は一」
「今日、さらに白い薬を減らすこともできます」
少年は少し考えた。
机の上の手紙を見る。
それから、窓の外を見る。
「今日は変えない」
「理由は?」
「帰還管理所、そろそろ奥の話するかもしれないだろ」
俺へ視線を向ける。
「まだ開けない?」
「今日開けるかは決まってない」
「じゃあ余計に変えない。話だけでも増えるかもしれないから」
「分かりました」
「青と紫はなし」
「はい」
エルが今日の希望として記録する。
「白い薬、ずっとこの量でもいい?」
少年がふと尋ねた。
「身体に合っているなら、しばらく同じでも構いません」
「減らさないと駄目じゃない?」
「減らすこと自体が目的ではありません」
セリーの答えに、少年は少し意外そうな顔をした。
「薬なくすのが治るってことじゃない?」
「必要な薬なら、使い続けることもあります。逆に、不要になれば減らします」
「先生は、飲めるようになるのが治療って言ってた」
声が少し小さくなる。
「薬を嫌がらなくなったら、よくなった証拠だって」
「ここでは違います」
セリーは静かに言った。
「必要だから使う。不要なら使わない。嫌だという感情だけで治療の成否は決めません」
少年はしばらく黙っていた。
「薬嫌いでもいい?」
「はい」
「飲むって選んでも?」
「もちろんです」
「嫌いだけど飲む」
「それも選択です」
少し考えてから、少年は頷いた。
「じゃあ今日はこれ」
今朝の薬量が決まった。
朝食は三〇八号室に近い窓辺を選んだ。
昨日と同じ場所だ。
ただし今日は、周囲に近衛だけでなく療養所の職員も何人か行き来していた。
少年は一度その様子を見て、それでも戻るとは言わなかった。
「今日は人多いぞ」
「昨日よりは少ない」
「基準変わった?」
「慣れたのもあるかも」
自分でそう言ってから、少しだけ不思議そうにする。
「慣れるって、悪くない?」
「何に慣れるかによる」
「昨日の規則みたいに、少しずつ悪いのに慣れるのは嫌」
「ああ」
「でも人が通るのに慣れるのは?」
「お前が嫌じゃないならいいんじゃないか」
少年は少し考えた。
「嫌じゃないか、まだ見る」
「それでいい」
セリーが朝食を運んでくる。
今日は焼いた卵と柔らかいパン、それに野菜と鶏肉を煮たスープだった。
少年は最初にスープを一口飲み、熱さに少し顔をしかめる。
「熱い」
「少し冷ましてください」
「セリーが熱くした」
「温かい方が身体に良いので」
「アルのは?」
「俺のも熱い」
「じゃあいい」
「何がだよ」
少年が少し笑う。
食事を始めてしばらくすると、エルが小さな声で告げた。
『帰還管理所から、第一空間の追加調査結果があります。緊急性はありません』
少年は匙を止めた。
昨日の記録筒。
外区にいた十一人。
そこへ後から書き加えられた「第三」への再分類。
その続きを思い出したのだろう。
「内容の種類だけ」
『「内区扉」「旧運用表示」「安全確認条件」です』
少年の表情が少し変わる。
「人の記録?」
『新しい個人記録は含みません』
「じゃあ食べてから」
『保留します』
再びスープへ戻る。
「今日は迷わなかったな」
俺が言うと、少年は少し眉を寄せる。
「個人の話じゃないから」
「それでも気になるだろ」
「気になる。でも、今聞いても開けるわけじゃない」
「そうだな」
「それに」
一口パンを食べる。
「熱いうちに食べる」
「最近食事強いな」
「前まで弱かったみたいに言うな」
「実際、調査で止めてただろ」
「今は違う」
その「今」が、少し誇らしげだった。
食事を終え、白い薬を飲む。
そのあと三〇八号室へ戻る前に、少年は廊下の窓から外を少し眺めた。
風に揺れる木。
近衛の交代。
遠くの山。
数分だけ立ってから、自分で部屋へ戻る。
「今日は散歩しない?」
「後で」
「帰還管理所の話先?」
「うん。でも、全部聞かないかも」
「分かった」
三〇八号室へ戻ると、ブラットが四歩の距離で入り、ガルムは現地から通信参加した。リディアも帰還管理所側にいるらしい。
「今日は奥の扉開ける?」
少年が最初に聞いた。
『まだ決めてない』
ガルムが答える。
「何で」
『昨日まで外区を調べてたからだ。その結果を整理してから決める』
「じゃあ今日開ける可能性はある?」
『ある』
「俺の木の板じゃない子の木の板、使わない?」
『使わん』
「AG-02も?」
『使わん』
「そこは変わらない?」
『変える理由がない』
少年は少し肩の力を抜いた。
「じゃあ聞く」
ブラットが記録板を開く。
「まず、内区扉についてです。昨日まで触れていませんでしたが、外区側から確認できる範囲の記録が増えました」
「鍵穴?」
「あります。ただし、AG-02の鍵が近い形だった外扉とは構造が違います」
少年の眉が動く。
「じゃあAG-02、ここじゃない?」
「少なくとも内区扉の直接鍵ではなさそうです」
「木の板は?」
「差し込む場所は見つかっていません」
少年が少し安心した。
「次」
「扉の横に、古い運用表示板があります」
「何て?」
ブラットは一度ガルム側と確認してから読み上げる。
「『内区移送前確認』」
少年の表情が少し硬くなった。
「続きは?」
「四項目です」
「一個ずつ」
「はい」
ブラットが最初を読む。
「『本人意思』」
少年は小さく頷いた。
「次」
「『帰還資格』」
「それ前もあった」
「はい」
「次」
「『処置説明完了』」
少年の指が少し動く。
「最後」
「『身体負荷許容』」
室内が静かになる。
「身体負荷」
少年が低く繰り返した。
「帰るだけじゃない」
「ああ」
俺が答える。
「何かする」
「可能性は高い」
「どれくらい痛い?」
「まだ分からない」
「死ぬことある?」
その問いに、ガルム側も一瞬黙る。
「それも分からない」
俺は正直に答えた。
「でも、身体負荷を確認する欄があるなら、少なくとも負担がゼロではなかったんだと思う」
「だから説明して、耐えられるか見る」
「ああ」
少年は少しだけ顔をしかめる。
「後の規則だと、処置してから本人確認」
「そうだな」
「順番逆」
「ああ」
「先に身体に何かして、それから聞く」
昨日までに見つかった改変規定が、ここでさらに重く見える。
古い制度では、本人意思、資格、説明、身体負荷の確認を終えてから内区へ送る。
後の制度では、本人確認を処置完了後へ回す。
「次ある?」
「表示板の下に、追加の小札があります」
「古い?」
「こちらは少し新しいです」
少年の肩が僅かに上がる。
「読む?」
俺が尋ねると、少年は少し考える。
「怖さは?」
セリーが答えを待つ。
「二」
「続けられます」
「じゃあ一枚だけ」
ブラットが読む。
「『確認不能項目は管理者判断により代行可』」
少年の顔が変わった。
「何を代行?」
「表示板の四項目のうち、確認できないものを管理者判断で代行できる、という意味に読めます」
「本人意思も?」
「文面上は除外されていません」
少年の手が膝を強く掴む。
「じゃあ、本人が何も言えなくても」
「管理者が代わりに決められる」
「帰るって?」
「その可能性があります」
「処置説明も?」
「説明できない状態なら、完了扱いにした可能性も否定できません」
「身体負荷も?」
「管理者判断で許容とした可能性はあります」
少年はしばらく何も言わなかった。
廊下の向こうで、職員が誰かへ「今日はここまでにしましょう」と話している声が聞こえる。
この部屋の中だけでなく、白鴉全体が少しずつ「止まること」を覚え始めている。
それとは逆の記録が、目の前にある。
「最初は」
少年がゆっくり言う。
「分からない人は外区に置いた」
「ああ」
「十一人目みたいに、喋れない人も」
「ああ」
「灯りとか飯だけ選んで」
「ああ」
「帰るは決めなかった」
「ああ」
「それが後になると、管理者が代わりに決めていい」
「そう見える」
少年は目を閉じる。
「少しずつだ」
声が震える。
「また」
「ああ」
「最初は一日一回聞いていい」
「ああ」
「三回嫌って言ったら判断できないかも」
「ああ」
「拒否が症状になる」
「ああ」
「長くいる人まとめて第三」
「ああ」
「今度は、本人の代わりに管理者が決める」
部屋の中の空気が重くなる。
「最後、本人いらないじゃん」
その言葉は小さかった。
けれど、よく聞こえた。
「そうならないための古い規則だったはずなんだよな」
少年の声が少し強くなる。
「本人意思って最初に書いてあるのに」
「ああ」
「それを『分からないから代わりに決める』ってしたら」
「ああ」
「もう何でもできる」
セリーが近くに置いていた水へ視線を向ける。
「一度休みますか?」
少年はすぐには答えず、杯を自分で取った。
一口飲む。
少し待つ。
「怖さ三」
「続けますか?」
「今日はこれで止める」
「分かりました」
ブラットが記録板を閉じる。
ガルムも現地側へ「そこまで」と伝えたらしく、通信の向こうで複数の足音が少し遠ざかった。
「奥の扉」
少年が言う。
『今日はまだ開けない』
ガルムが答えた。
「今決めた?」
『半分はな』
「半分?」
『今の表示だけでも、内区に本人意思を代行する仕組みが後付けされた可能性がある。開けるなら、その仕組みが今も動くか先に確認する』
「扉開けたら勝手に処置?」
『可能性を切れない』
少年の顔が強張る。
「じゃあ開けるな」
『そのつもりだ』
「誰か中にいたら?」
『生命反応は外から何度も確認してる。今のところ反応なし。ただし完全ではない』
「なら」
少年は少し迷う。
「今すぐ助けなきゃいけない人がいる証拠はない」
『そうだ』
「じゃあ待てる」
『ああ』
少年は少しだけ息を吐いた。
「アルも」
「分かってる」
「本当に?」
「今日は行かない」
『今日は、じゃない』
ガルムの声がすぐ入る。
「お前ら最近そこ拾うな」
少年が小さく笑った。
緊張で固まっていた空気が少しだけ緩む。
「じゃあ、開ける前に何調べる?」
少年が聞く。
ガルムはすぐ答えなかった。
『そのために、今から条件整理する』
「俺も聞いていい?」
『聞くだけなら』
「決めるのは?」
『現地、安全管理、医療、記録、そっちの保護側で分ける』
少年は少し満足そうに頷いた。
「アル一人じゃない」
「何で俺を見る」
「前なら自分で決めてた」
「否定できない」
ブラットが僅かに笑い、セリーも口元を緩めた。
午前中の調査はそこで終わった。
少年は、今日は散歩へ行かず三〇八号室で休むことを選んだ。
「昨日より短い日」
「ああ」
「戻ってる?」
「どう思う」
「質問返し禁止」
「じゃあ、俺は戻ったと思わない」
少年は少しだけ笑う。
「今日は頭使った」
「そうだな」
「なら部屋」
「ああ」
寝台へ横になり、目を閉じる。
眠るまでには少し時間がかかった。
「アル」
「何だ」
「十一人目みたいな人が、後の時代だったら」
目を閉じたまま言う。
「管理者に決められたかもしれない?」
「可能性はある」
「名前不明の子も?」
「もし同じ制度に入れられてたなら、そういう危険はある」
「だから、もどさないで?」
「そこはまだ繋げない」
少年が少し眉を寄せる。
「……うん」
「本人が何をされたかは本人の言葉を待つ」
「分かってる」
しばらくして、呼吸がゆっくりになる。
セリーと俺は部屋を出た。
廊下へ出ると、ガルムから別回線で現地側の相談が入った。
『アル』
「何だ」
『内区扉、今日開けない方針でいいな』
「俺も賛成だ」
『理由を整理する』
「ああ」
『一つ。扉開放そのものが内区装置の起動条件か分からん』
「ああ」
『二つ。本人意思代行の後付け術式が残ってる可能性』
「ああ」
『三つ。記録破棄装置』
「白鴉にもあったからな」
『四つ。転送』
「帰還の名前がある以上、警戒する」
『五つ。中に人がいた場合の救出経路』
「退路を先に作る」
『六つ。AG-02や木片みたいな認証物を要求された場合の扱い』
「患者の木片は使わない。AG-02も用途不明のまま差さない」
『そこは一致』
リディアの声が少し遠くから入る。
『もう一つあります。内区扉の周囲へ、弱い待機術式が残っています』
「待機?」
『命令を受けるまで止まっている術式です。ただ、命令条件が分かりません』
「扉開放で起きる?」
『可能性があります』
「なら先に切れる?」
『切ることはできます。ただし、何のための術式か分からないまま壊すのは証拠として惜しいです』
「じゃあ隔離できる?」
『試します』
俺は少し考える。
「一人でやるなよ」
『ガルム隊長と古式担当、それにエルの遠隔監視を付けます』
「分かった」
『それから』
ガルムが続ける。
『開ける条件をこっちだけで決めるなって話になった』
「誰が言った?」
『リディア』
『正確には、ヨアヒム先生です』
リディアが訂正する。
「何でヨアヒム」
『内区が処置区画なら、医療側が身体負荷を判断できない状態で開けるのは危険だと』
「正しいな」
『それと、三〇八の坊主が聞いたら多分言うだろ。「本人いないのに本人意思どうする」って』
俺は少し黙った。
「言いそうだな」
『だから、そこも整理する』
「本人がいない施設の本人意思?」
『今いる患者の誰かを対象として扱う装置かもしれないだろ』
空気が少し冷えた。
「名前不明の子」
『木片持ってる』
「三〇八号室少年」
『王家反応がある可能性』
「保存槽のアルフォンス」
『もっと直接関係する可能性もある』
「成人アルもだな」
『お前は最後だ』
「何でだよ」
『勝手に対象認識されて扉閉まったら困る』
「分かったよ」
ガルムの声に呆れが混じる。
『だから、内区を開ける前に、対象認識を遮断できるか確認する』
「ああ」
『患者を現場へ連れてくることはしない』
「絶対に」
『分かってる』
通信を切った。
その会話をセリーが横で聞いていた。
「主様」
「何だ」
「最後に現地へ行かないでください」
「まだ何も言ってない」
「考えました」
「顔で?」
「はい」
「最近皆それ言うな」
「分かりやすいので」
俺は少し息を吐いた。
「行きたいのは本当」
「理由は?」
「対象認識が王家の血や魔力を見るなら、俺なら何か反応するかもしれない」
「それを試すために主様自身を使うのは最後です」
「分かってる」
「本当に?」
「三〇八のやつと同じ言い方するな」
セリーは少しだけ笑った。
「影響されました」
「俺、完全に管理されてるな」
「健康と安全の範囲です」
昼食まで、俺も調査資料を開かないことにした。
セリーに言われたからだけではない。
三〇八号室少年へ「自分のことを後にしすぎるな」と言いながら、俺自身が食事も休息も無視していたら意味がない。
昼になり、少年が起きてくる。
怖さは二まで下がっていた。
「昼、廊下?」
「今日は部屋」
「人多いから?」
「疲れたから」
「分かった」
食事を三〇八号室へ運ぶ。
今日は赤いジャムではなく、蜂蜜を少し練り込んだ小さな焼き菓子が付いていた。
「蜂蜜焼き?」
少年が目を輝かせる。
「帰還管理所のものとは別です」
セリーが先に釘を刺す。
「分かってる。でも似てる」
「偶然です」
「食べる」
焼き菓子を一口齧る。
外は少し硬く、中は柔らかい。
「うまい」
「よかったですね」
「帰還管理所のもこうかな」
「今残ってるわけないだろ」
「記録に作り方ない?」
「調査目的変わってるぞ」
少年は笑った。
午前中に「本人が最後にはいらなくなる」と言っていた同じ子が、今は蜂蜜焼きの味を考えている。
その両方が同じ一日にある。
それでいい。
食事を半分ほど終えた頃、旧保養施設から連絡が入った。
『名前不明の子供について、体調と本人の希望に関する共有があります。緊急性はありません』
少年は少し迷った。
「内容の種類だけ」
『「通気口」「場所の希望」「本人の言葉」です』
「木の板?」
『新規情報なし』
「食べてから」
『保留します』
食事を最後まで終えたあと、少し休み、本人から「聞く」と言って通信を繋いだ。
ヨアヒムの声の向こうから、今日は窓を叩く風の音が聞こえる。
『体調は安定しています。午前中、本人が通気口から離れた場所へ椅子を移したいと示しました』
「昨日は見てた」
『はい』
「今日は離れる?」
『本人がそう選びました』
「塞ぐ?」
『それは首を横に振りました』
「見えない方にした?」
『椅子の位置からは見えにくい場所です』
少年は少し考える。
「怖いもの、隠すんじゃなくて、自分が離れた」
『そう見えます』
「誰が近く?」
『今日はオスカーです』
「また戻った」
『はい。ただし距離は五歩ほどです』
「遠い」
『それでも本人が選びました』
「オスカー、また足痺れない?」
『今日は立っているので大丈夫です』
少年が少し笑う。
『本人の発言ですが』
ヨアヒムの声が落ち着いたものへ変わる。
『通気口から椅子を離したあと、「した、いかない」と言いました』
三〇八号室の少年の表情が止まる。
「下、行かない」
『そのように聞こえます』
「確認した?」
『「下へ行きませんか」と聞くと、強く首を横に振りました』
「もどるところ?」
『それは聞いていません』
「帰還管理所?」
『知らせていません』
「木の板?」
『本人は持っていますが、今回は出していません』
少年は少し息を吐く。
「今までより、はっきりした」
「ああ」
俺が答える。
「少なくとも下へ行きたくないは」
『はい。現在の安全区画から下へ移動しない方針を明確にしました』
「誰かが行くのも嫌?」
『そこは確認していません』
「じゃあ本人だけ」
『現時点では』
少年は少し考える。
「伝えていいって?」
『現在の共有範囲へ許可されています』
「じゃあ受け取る」
少し間を置く。
「こっちからは」
迷う。
「何も言わない」
『承知しました』
「俺たち、帰還管理所の奥開けるか考えてるって言わない?」
ヨアヒムが少し黙る。
『本人の「下」や「帰るところ」と帰還管理所が同一と確認できていないため、今は知らせない方がよいと考えています』
「うん」
「もし後で同じだと分かったら?」
俺が聞く。
『その時点で、本人に関係する範囲を説明する必要があります』
「勝手に開けた後じゃ遅い?」
三〇八号室少年が尋ねる。
その問いに、部屋の空気が少し変わった。
『もし本人の過去や所有物が直接関係する施設だと分かれば、先に説明する方が望ましいでしょう』
「じゃあ」
少年は俺を見る。
「まだ開けない方がいい?」
「今日のところは、その理由も増えたな」
「俺が決めるんじゃない?」
「ああ。現地、安全、医療、保護側で決める。でもお前の意見は聞く」
「俺は」
少し考える。
「開けない方がいいと思う」
「理由は?」
「本人が下行かないって言ったばっかりだから。帰還管理所と同じか分からなくても、同じだった時に勝手に先行くの嫌」
「分かった」
『意見として記録します』
エルが静かに告げる。
「本人の意見じゃないぞ」
『はい。三〇八号室少年本人の意見として記録し、名前不明の子供の意思とは混同しません』
「それで」
少年は少し安心した。
午後、ガルムたちとの「内区を開ける条件整理」が始まった。
今度は三〇八号室少年へ全会話を聞かせるのではなく、本人が聞きたい範囲だけを先に選んだ。
「条件だけ」
「細かい術式は?」
「いらない」
「誰が行くか?」
「それは聞きたい」
「患者関係は?」
「聞きたい」
「危険の種類?」
「大きいのだけ」
条件を先に絞り、通信を繋ぐ。
ガルム。
リディア。
ヨアヒム。
ブラット。
エル。
そして俺とセリー。
フェリクスは技術的意見だけ提出し、通信には参加させなかった。
「怒ってる?」
『扉の外でぶつぶつ言ってる』
リディアの声に、少年が少し笑う。
「触らせる?」
『必要な時だけ』
「よし」
『お前が決めることじゃない』
ガルムが返す。
それから条件整理が始まった。
第一。
内区扉を開けることで自動術式が起動しないことを確認する。
リディアが待機術式を壊さず隔離できるか調べる。
第二。
対象認識を遮断する。
王家血統、魔力波形、帰還証、AG-02など、誰かを「対象」として認識して処置が始まる条件を先に無効化する。
「アルも?」
少年が聞く。
『現場へ来させないのが一番早い』
ガルムが答える。
「それでいい」
「俺の意見は?」
「行きたいって言うから駄目」
『三〇八の坊主に一票』
「多数決じゃない」
少し笑いが起きる。
第三。
帰還管理所と名前不明の子供との直接関係が確認された場合、その子に関係する設備・記録へは本人への説明前に踏み込まない。
「名前とか顔出たら?」
少年が尋ねる。
ヨアヒムが答える。
『本人に関係する情報の可能性が高い場合、まず保護側で必要範囲だけ確認します。本人へどこまで知らせるかは、体調と本人の希望を見ます』
「全部一気に言わない?」
『はい』
「でも隠す?」
『永遠に隠すとは決めません』
「分かった」
第四。
奥に生命反応が確認された場合は、調査より救助を優先。
ただし武器を持って突入せず、声かけ、退路確保、医療担当待機を先に行う。
第五。
記録破棄術式・転送術式が起動した場合の停止方法を先に用意する。
第六。
木片は使わない。
AG-02も使用しない。
必要になった場合は、用途を特定してから再検討する。
「木の板、本人の」
少年が改めて言う。
『分かってる』
ガルムの返事は早い。
第七。
内区へ入る人数を最小限にする。
候補はガルム、リディア、オスカー、古式担当一名。
ブラットは外区側で記録。
ヨアヒムは救護待機。
ミラとウォルターは外周。
「フェリクスは?」
『外』
ガルム。
「絶対?」
『最初は』
「よかった」
『お前、本当にあいつ好きじゃないな』
「嫌いじゃない。触るから」
部屋に少し笑いが戻る。
「アルは?」
少年が聞く。
『白鴉』
「よし」
「何でお前が承認するんだ」
「大事」
条件はそこまでだった。
最後に、ガルムが言う。
『全部満たしても、開けるかはその時また決める』
少年が少し考える。
「条件満たしたら絶対開けるじゃない?」
『違う』
「何で」
『満たしたのは「開けてもいいかもしれない条件」だ。開けなきゃいけない理由じゃない』
少年はしばらく黙っていた。
「……それ、いい」
『何が』
「準備したらやらなきゃ、じゃない」
『ああ』
「手紙と同じ」
『どういう意味だ』
「開いたから最後まで読まなきゃ、じゃない」
ガルムは少し間を置いた。
『そうだな』
「じゃあいい」
通信が終わる。
少年は少し疲れていたが、朝の記録を聞いた時ほど怖さは上がっていなかった。
「今いくつ?」
セリーが尋ねる。
「二」
「休みますか?」
「うん」
「薬は?」
「そのまま」
「承知しました」
その日は午後の散歩をやめた。
昨日より動かなかったからといって、後退ではない。
少年自身ももう、その確認を求めなかった。
夕方になる頃、二通目の手紙へ一度だけ近づいた。
布を少しめくる。
途中まで読んだ文字を見る。
「読む?」
俺は少し離れた場所から尋ねた。
「今日はやめる」
「ああ」
「帰還管理所の『管理者が代わりに決める』で頭いっぱい」
「ああ」
「これ読むと、父上も先生もまた全部混ざる」
「じゃあ別の日だな」
「うん」
少年は自分で布を戻した。
「途中のままでも平気になった」
「そうだな」
「前は、終わらせないと嫌だった」
「何で」
「答え出ないのが怖かった」
「今は?」
「まだ嫌」
少し笑う。
「でも、置ける」
「それで十分だ」
夜の食事には、赤いジャムはなかった。
「今日はない」
「蜂蜜焼きを昼に召し上がりました」
セリーが淡々と返す。
「そうだった」
「忘れていたのですか?」
「帰還管理所の話してたから」
「では、甘味の記憶は調査に負けましたね」
「違う」
「何がだ」
俺が笑う。
少年は少し悔しそうにパンを食べた。
食後、怖さは一。
身体の不調もない。
夜の白い薬は朝と同じ量。
青と紫は使わない。
扉を内側から閉め、灯りを少し残す。
寝台へ入ってから、少年はしばらく天井を見ていた。
「アル」
「何だ」
「本人いらなくなるの、怖い」
「ああ」
「最初は本人意思って一番上にあったのに」
「ああ」
「でも、分からない時は管理者が代わりに決めるって」
「ああ」
「それが増えたら」
少年は少し言葉を探す。
「全部、本人いない方が早くなる」
その言葉に、俺は少し胸が詰まった。
「早くはなるかもしれない」
「便利」
「ああ」
「でも嫌」
「ああ」
「十一人目みたいに喋れない人、待つの時間かかる」
「ああ」
「俺も薬でぼんやりしてたら、待つの時間かかる」
「ああ」
「発見された子も、言葉少ない」
「ああ」
「でも待たないと」
声が少し小さくなる。
「その人の答えじゃなくなる」
「ああ」
少年は布団の端を指でつまむ。
「でも命危ない時は?」
「待てないこともある」
「じゃあ勝手にする?」
「生かすために必要なことはするかもしれない」
「それ、後の管理者と同じにならない?」
難しい問いだった。
俺は少し考える。
「違いを作る努力はする」
「何が違う?」
「目的を限定する。命を守るための最低限だけ。理由を記録する。複数人で確認する。落ち着いたら本人へ説明する。戻せるものは戻す。あとから異議も言えるようにする」
「それでも間違う?」
「ああ」
「怖い」
「ああ」
嘘はつかなかった。
「でも、間違う可能性があるって分かってる方が、止める人を置ける」
「一人じゃなく?」
「ああ」
「アルだけじゃなく?」
「ああ」
「セリー、ガルム、ヨアヒム、ブラット、エル」
「ああ」
「本人も」
「ああ」
少年は少し安心したように息を吐く。
「帰還管理所、最初はそれあったのかな」
「本人意思と身体負荷と説明を分けて確認してたなら、近い考えはあったのかもな」
「それが一人の管理者で代わりにできるようになった」
「ああ」
「壊れるの、簡単」
「少しずつならな」
少年は目を閉じる。
「じゃあ、今の白鴉もずっと大丈夫って思わない方がいい?」
「そう思う」
「規則作ったから終わりじゃない?」
「ああ」
「見直す?」
「ああ」
「誰が?」
「町、近衛、治療側、塔。できれば患者本人たちも」
少年が少し目を開ける。
「俺も?」
「意見があるなら」
「面倒」
「そこは変わらないな」
「でも」
少しだけ笑う。
「言うかも」
「ああ」
「本人いらなくなる規則あったら、嫌って」
「それは大事だな」
少年はまた目を閉じた。
「内区、明日開ける?」
「まだ分からない」
「条件揃っても?」
「揃っても、また決める」
「よかった」
「何で」
「準備したからやる、にならないから」
「ああ」
「俺も手紙、開けたから読む、じゃない」
「ああ」
「発見された子も木の板持ってるから使う、じゃない」
「ああ」
「帰るって昔言ったから今日も帰る、じゃない」
「ああ」
少年の声が少しずつ眠気を含んでいく。
「全部、今また聞く」
「そうだな」
「面倒だけど」
「ああ」
「でも、その方がいい」
少し間が空いた。
「お休み、アル」
「お休み、アルフォンス」
セリーも静かに挨拶し、俺たちは三〇八号室を出た。
内側から鍵のかかる音がする。
廊下の窓には、夜の暗い山が映っていた。
帰還管理所の奥の扉は、今日も開かなかった。
代わりに、その前へ残されていた四つの確認項目が見つかった。
本人意思。
帰還資格。
処置説明。
身体負荷。
本来なら、それらを一つずつ確認してから内区へ進む仕組みだった。
けれど、後の時代には「確認不能なら管理者が代行してよい」という札が加えられていた。
それは小さな変更に見える。
判断できない時に誰かが代わる。
急ぐ時には便利だったかもしれない。
現場の負担も減ったかもしれない。
けれど、その便利さを広げていけば。
本人が嫌だと言っても。
本人が何も言えなくても。
本人が何をされるか理解できなくても。
最後には、本人がいなくても制度だけが動く。
それが、三〇八号室の少年には何より怖く見えた。
俺も同じだった。
だから、扉を開ける準備をする前に。
扉を開けない条件も決めた。
自動術式。
対象認識。
転送。
記録破棄。
救助経路。
患者との直接関係。
それらを確認する。
そして全部整っても。
その時にもう一度、開けるかを決める。
準備したから、実行しなければならないわけではない。
鍵があるから、使わなければならないわけでもない。
手紙を開いたから、最後まで読まなければならないわけでもない。
誰かが昨日帰ると言ったから、今日も帰らなければならないわけでもない。
昨日の答えを、今日の命令にしない。
その当たり前を守るために。
明日もまた、奥の扉の前で一度止まることになるのだろう。




