第44話 帰還を待っていた人たちの記録に、帰らなかった人の時間も残っていました
翌朝の白鴉療養所には、乾いた風が吹いていた。
窓の外では高い枝だけが忙しなく揺れ、中庭へ落ちた葉が石畳の上を滑っている。昨日まで残っていた湿り気はすっかり消え、開けた窓から入ってくる空気にも、秋へ近づくような僅かな冷たさがあった。
三〇八号室の前まで来ると、扉はまだ閉じている。
二度叩いて待っていると、中で床を踏む音がした。少し時間を置いて内鍵が外れ、少年が自分で扉を開く。
「今日は自分で開けるのか」
「近くにいたから」
それだけ答えて、少年は一歩下がった。
昨日より顔色はいい。寝癖は少し残っているが、目の下に強い疲れもなく、起きてからある程度時間が経っていることが分かる。
ただ、小机の上では二通目の手紙がまだ開いたままだった。
昨日も続きを読まなかった。
今朝も、少年はそこへ近づいていないらしい。
「手紙は?」
「今日はまだいい」
「もう決めた?」
「朝は」
少年は窓際へ歩きながら答えた。
「昼に読みたくなるかもしれない。でも朝は読まない」
「分かった」
以前なら「今日は読まない」と一日分をまとめて決めようとしていた。今は、朝の自分と昼の自分が違ってもいいことを覚え始めている。
セリーが体調を確認すると、頭痛も吐き気もなく、胸の不快感もない。昨日と同じく、白い薬を四分の一より少し減らした量で一日を過ごしているが、夜間の強い不安もなかった。
「怖さは一」
少年が自分から言った。
「では、今日の白い薬はどうしますか?」
「昨日と同じ」
「さらに減らすこともできます」
「今日は帰還管理所の記録聞くから変えない」
少年は迷わず答えたあと、一度だけ俺を見る。
「昨日、明日にしたやつ」
「ああ。記録筒の一本だな」
「覚えてる」
「俺も覚えてるよ」
「アル、忘れそうだから」
「俺の扱い雑じゃないか?」
少年が少し笑った。
青と紫の薬は今日も使用しない。それも本人が確認してから、エルがその日の記録へ残した。
朝食は、昨日使った階段寄りの窓辺ではなく、以前使っていた三〇八号室に近い丸机を選んだ。
「今日は戻るんだな」
「昨日より人多い」
少年は廊下の先を見ている。
今朝は療養所の職員が何人も行き来し、近衛の交代も重なっていた。昨日までなら、それでも先へ進もうとしたかもしれないが、今日は自分から人の少ない方を選んでいる。
「後退した?」
少年が椅子へ座ってから尋ねた。
「何が?」
「昨日は先だったのに、今日はここ」
「お前はどう思う?」
「質問返すな」
少し不満そうにしながらも、少年は考えた。
「……嫌だから戻ったんじゃなくて、人多いからこっちにした」
「ああ」
「じゃあ違う?」
「俺もそう思う」
「ならいい」
セリーが置いた朝食へ手を伸ばす。
今日は柔らかく煮た芋と肉のスープに、小さなパン。果実は昨日までとは違い、薄い黄色のものが添えられている。
「これ甘い?」
「少し酸味があります」
「赤いジャムは?」
「昼です」
「毎日昼にするの?」
「毎日は出しません」
「昨日も言ってた」
「健康管理です」
少年は不服そうにしたが、今朝の果実を一口食べると意外に気に入ったらしく、その後は何も言わず食べ進めた。
食事の途中、エルが帰還管理所側からの通信を知らせる。
『昨夜保全した記録筒の部分解読が進んでいます。緊急性はありません』
少年は匙を止めた。
窓の外では、乾いた葉が一枚、石畳をくるくる回りながら横切っていく。
「あとで」
『保留します』
すぐに食事へ戻った。
「もう慣れたな」
俺が言うと、少年はパンをちぎりながら眉を寄せる。
「何が?」
「情報をあとにするの」
「だって今聞いても、スープ冷める」
「それだけ?」
「あと、朝から嫌な記録だと食べられなくなる」
言葉にしてから、少年は少しだけ自分でも驚いたような顔をした。
「それ、分かるようになった?」
「何が」
「先に聞くと飯食えなくなるって」
「前からあっただろ」
「でも前は気にしてなかった」
少年は少し考え、匙を置いた。
「気にしてなかったんじゃなくて、食べなくてもいいと思ってた」
俺は返事を急がなかった。
「王太子なら?」
「大事な話の方が先」
少年はスープを見つめる。
「薬もそうだった。先生の話も。父上の手紙も。大事なら、自分のこと後」
「ああ」
「でも腹減る」
「人間だからな」
「それ、便利」
「本当のことだ」
少年はまた匙を取り、残っていたスープを口へ運んだ。
「じゃあ今日は食べる方が先」
「ああ」
朝食を食べ終え、白い薬を昨日と同じ量だけ飲む。
少し休んでから、三〇八号室へ戻った。
帰還管理所の記録を聞くため、今日はブラットだけでなくガルムも通信越しに参加する。現物は帰還管理所第一空間に近い仮設保全場所で管理され、劣化が進んだ記録筒を動かしすぎないよう、必要な部分だけ複写したという。
「フェリクスは?」
少年が最初に聞いた。
『現地の外で唸ってる』
ガルムが答える。
「何で」
『触らせてもらえないからだ』
「よかった」
『本人に聞かせてやりたい』
「駄目」
少年は即答した。
部屋の空気が少しだけ緩む。
「今日はどれくらい?」
少年がブラットへ尋ねた。
「読めた部分は長くありません。ただ、人の出入りに関する記録と、外区での滞在記録が混在しています」
「一個ずつ」
「はい」
少年は寝台へ座り、セリーが手元へ水を置く。俺は昨日までと同じ三歩ほど離れた椅子へ座り、ブラットは本人の希望通り四歩の位置に立った。
「まず、この記録筒は個人一名の記録ではありません」
ブラットが始める。
「外区待機室を一定期間利用した人たちの簡易記録を、まとめて保存したもののようです」
「何人?」
「読み取れた範囲で十一人」
「名前ある?」
「一部だけありますが、今回読み上げる必要はないと考えています」
少年はすぐに反応した。
「何で?」
「今確認したいのは制度の運用だからです。本人特定に関わる名前まで聞けば、あなたがその人たちのことを背負ってしまう可能性もあります」
少年は少し不満そうにしながらも、考える。
「でも名前消すのも嫌」
「記録上は保存しています」
「俺に言わないだけ?」
「はい」
「じゃあいい」
名前を伏せることと、存在を消すことは違う。
それを確認してから、少年は先を促した。
「最初の四人は、帰還希望として記録されています」
ブラットの声は落ち着いている。
「説明を受けたあとも意思は変わらず、内区へ移動したようです」
「処置された?」
「そこはこの記録にはありません」
「戻ったかも?」
「結果までは残っていません」
少年は少し眉を寄せた。
「じゃあ、行ったところまで」
「そうです」
「次」
「五人目と六人目は、判断保留」
「分からないって言った?」
「そう読めます」
「どうなった?」
「外区で待機を継続しています」
「何日?」
「一人は四日。一人は……少なくとも十三日です」
少年の目が少し大きくなる。
「十三日、外区?」
「はい」
「毎日聞かれた?」
「この記録が古い規則の時期なら、本人から申告するまでは再確認されていないはずです」
「飯は?」
「食事記録があります」
「何食べた?」
ブラットが少し意外そうに記録板を見る。
「普通食が中心です。途中で二日ほど流動食に変更されています」
「体調悪かった?」
「可能性はありますが、理由は残っていません」
「甘いのは?」
『そこ拾うのか』
ガルムの声が入る。
「重要」
『お前、昨日からそればっかりだな』
「待つ場所だったなら、甘いの食べたか知りたい」
少年の声は思ったより真面目だった。
ブラットもそれに気づいたらしく、記録をもう一度確認する。
「十三日滞在した方には、七日目と十二日目に『果実煮』の記録があります」
少年の表情が少し緩んだ。
「食べてた」
「はい」
「ずっと怖くて何もできない場所じゃなかったかもしれない」
「可能性はあります」
「でも楽しかったとも決めない」
「はい」
少年は頷く。
誰かが十三日そこにいた。
帰るとも帰らないとも決められないまま。
その間に食べ、眠り、体調を崩したかもしれず、果実煮を二度食べた。
それだけの時間が、薄い記録の中に残っている。
「その人、最後どうした?」
「十三日目以降の記録が欠けています」
「帰った?」
「不明です」
「帰らなかった?」
「それも不明です」
少年は残念そうに息を吐く。
「途中で切れてる」
「ああ」
「でも十三日はいた」
「ああ」
俺が答えると、少年は小さく頷いた。
「じゃあそこまでは消えない」
「そうだな」
ブラットが次へ進む。
「七人目は、帰還拒否」
少年の肩が僅かに強張った。
「古い時期?」
「その可能性が高い記録です」
「どうなった?」
「外区へ留まりました。翌日も帰還拒否のままですが、本人から再確認の希望なしと記されています」
「何日?」
「少なくとも九日」
少年が息を止める。
「九日、帰らないって?」
「はい」
「何度聞かれた?」
「初日に一度。その後は、本人申告なしという記録だけです」
少年の握っていた指が少し緩んだ。
「ちゃんと待った」
「この時点ではそう見えます」
「飯は?」
「食べています」
「眠った?」
「睡眠記録は簡略ですが、夜間休息あり」
「外出できた?」
「外区内の中庭利用記録があります」
少年が顔を上げる。
「中庭?」
「今の第一空間から直接ではありません。外区側に、待機者が使える小さな屋外区画があったようです」
「帰らないって言った人も外出られた?」
「少なくともこの人は」
少年の視線が窓へ向く。
乾いた風に葉が揺れている。
「閉じ込めるだけじゃなかった」
「ああ」
「最初は」
その二文字には重さがあった。
最初は。
制度が変わる前。
「その人、九日目どうなった?」
少年が聞く。
ブラットは記録板へ目を落としたまま、少し間を置いた。
「九日目に、『外区保護継続希望』と本人申告があります」
「帰らない?」
「はい」
「そのあと?」
「十日目の記録がありません」
少年の表情が止まる。
「また切れてる?」
「ここから先は、記録筒の表面がかなり傷んでいます」
「読めない?」
「一部だけ」
少年の呼吸が少し浅くなった。
「何て?」
「先に内容の種類を言います」
ブラットが少年の顔を見る。
「時代の違う追記がある可能性があります」
「新しい方?」
「はい」
少年は少し考える。
「聞く」
「今?」
「うん。でも一個だけ」
「分かりました」
ブラットが追記部分を読み上げる。
「『対象七、外区継続不適。第三移送候補』」
三〇八号室の空気が一気に冷えた。
「第三」
少年が低く呟く。
昨日まで何度も見た言葉だ。
帰還管理所・第三保護区画。
そして新しい紙にあった、「戻せない者は、第三へ」。
「同じ人?」
「記録番号上は、同じ七人目を指す可能性があります」
「でも時代違う?」
「筆記材と術式記録の形式が違います。元の古い記録へ、後世に追記された可能性があります」
「何年後?」
「正確にはまだ」
「その人、九日待ってたのに」
少年の声が震え始める。
「帰らないって言ったのに、後から第三へ送る候補にされた?」
「そう読める可能性はあります」
「本人に聞いた?」
「その追記には書かれていません」
「じゃあ」
少年の指が寝具を強く掴む。
「また変えた後」
「可能性は高い」
セリーが少年の顔を見ている。
「怖さは?」
「三……四」
「一度休みますか?」
少年はすぐには答えず、杯へ手を伸ばした。
水を一口飲む。
もう一口。
「今日はここで一回止める」
「分かった」
ブラットは記録板を閉じた。
ガルムも通信の向こうで何も急かさない。
少年はしばらく黙ったまま、窓の外を見ていた。
「昔の記録に、後から書いた」
「ああ」
「帰らないって言った人を」
「ああ」
「第三へ」
「ああ」
「本人まだ生きてた?」
「それも分からない」
「後から記録だけ変えた可能性も?」
「ある」
「本当に送ったかは」
「まだ分からない」
少年は何度か呼吸を整える。
「なら、送られたって決めない」
「そうだな」
「でも候補にされた跡はある」
「ああ」
「それは残る」
「ああ」
昨日までと同じように、事実を分けていく。
送られたかは不明。
本人の同意も不明。
けれど、古い帰還拒否者の記録へ「第三移送候補」という後世の追記がある。
そこまでは、消さない。
「残りの人は?」
少年が少しして尋ねた。
「今日は聞かない方がいいか?」
俺が聞くと、少年は眉を寄せる。
「聞くかは俺が決める」
「そうだな」
「でも今じゃない」
「分かった」
「昼のあと」
「それも昼に決めろ」
「うん」
通信を切る前、少年がガルムへ声をかけた。
「奥の扉」
『触ってない』
「聞く前に答えるな」
『毎回聞くからだ』
「今日は聞こうと思っただけ」
『同じだろ』
少年が少し笑った。
緊張で固まっていた肩が僅かに下がる。
「第三って書いてあったから、行きたくなった?」
少年が俺を見る。
「少し」
「行くなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「ガルムに止められる」
『俺を理由にするな』
通信越しの声に、今度は俺も笑った。
午前中は、その後の調査情報を入れないことにした。
少年は三〇八号室の窓辺で少し休み、途中から寝台へ横になった。眠るつもりはないと言っていたが、二十分ほどすると呼吸がゆっくりになる。
俺が静かに部屋を出ると、廊下にはセリーが待っていた。
「怖さは?」
「寝る前に三まで下がりました」
「薬の影響は?」
「現時点では判断できません」
「昨日と同じ量だしな」
「はい。今日は情報負荷の方が大きい可能性があります」
セリーは俺の顔を少し見る。
「主様は?」
「何が」
「怖さです」
「俺も数字で言うのか?」
「言っても構いません」
少し考える。
「三くらい」
「第三という言葉で?」
「ああ」
「行きたい気持ちは?」
「六」
「高いですね」
「でも行かない」
「それを記録しましょうか?」
「やめろ」
セリーが僅かに笑った。
「では昼食まで休んでください」
「また?」
「主様も情報負荷が高いです」
「俺は患者じゃないぞ」
「患者でなくても休息は必要です」
結局、隣の部屋で少し横になることになった。
目を閉じても、記録の中の七人目が浮かぶ。
名前は聞いていない。
だから顔も知らない。
それでも、九日間帰らなかったという時間だけは残る。
初日に拒否し。
翌日も拒否し。
それ以降は、本人が言い出すまで聞かれず。
食事をして。
眠り。
中庭へ出て。
九日目に、外区での保護継続を自分から望んだ。
その記録へ、後から「第三移送候補」と書き足した誰かがいる。
送ったのか。
送らなかったのか。
本人は知っていたのか。
そのどれも分からない。
だが、制度改変が紙の規則だけではなく、過去の人間一人一人の扱いにまで及んだ可能性が、初めて見えた。
昼食の頃には、少年の怖さは二まで下がっていた。
赤いジャムは今日は出なかった。
「ない」
少年が皿を見るなり言う。
「昨日召し上がりました」
「一日空ける?」
「はい」
「明日は?」
「食事内容次第です」
「決めてない」
「昨日の判断を今日の命令にはしませんので」
少年が一瞬黙ったあと、吹き出した。
「それここでも使う?」
「使えます」
「セリー強い」
「前からだ」
俺が言うと、少年は笑いながらパンへ手を伸ばした。
今日の甘味は少量の蜂蜜を入れたヨーグルトのような発酵乳だった。最初は怪しそうに見ていたが、一口食べると悪くなかったらしい。
「帰還管理所の蜂蜜焼き、どんなだったんだろ」
「まだそれ気にしてるのか」
「帰らない人も食べたかな」
その言葉で、少しだけ空気が変わる。
「食べたかもな」
「七人目も?」
「記録に残ってれば分かるかもしれない」
「あとで聞く」
「今じゃなくて?」
「飯中」
「ああ」
少年は自分で線を引いた。
食事が終わったあとも、すぐに記録へ戻らなかった。
廊下を少し歩き、昨日行った端の休憩場所までは行かず、途中の窓で止まる。外の風が強く、木々が大きく揺れているのを見て、今日はそこで引き返した。
「昨日より短い」
「そうだな」
「でも今日は疲れてる」
「ああ」
「ならいい」
自分で理由を言い、三〇八号室へ戻る。
そのあと、旧保養施設から名前不明の子供について連絡が届いた。
『内容は「体調」「本人の選択」「環境反応」です。新しい木片情報はありません』
少年は少し迷う。
「先にそっち聞く」
「帰還管理所じゃなく?」
「うん。帰還管理所はあと」
通信を繋ぐと、ヨアヒムの落ち着いた声が届いた。
『体調は安定しています。食事量も昨日と同程度です』
「歩いた?」
『今日は昨日より少し短い距離だけです。本人が途中で戻る方を選びました』
三〇八号室少年が少し笑う。
「俺と同じ」
言ってから、すぐに表情を変えた。
「……同じって決めるの違うか」
『似た選択ではありますね』
「それならいい?」
『はい』
少年は少し安心する。
「誰近くにいる?」
『今日はリディアです。ただ、昨日より距離を広げています』
「何歩?」
『四歩ほどです』
「昨日二歩だった」
『はい』
「嫌になった?」
『そこは聞いていません』
「そっか」
昨日近づけた相手を、今日は遠ざけてもいい。
少年はもうそこを不思議がらなかった。
『環境反応ですが』
ヨアヒムが続ける。
『今日は本人が床ではなく、部屋の隅にある古い通気口を見ていました』
「穴?」
『小さな金属格子です。現在はほとんど使われていません』
「下に繋がってる?」
『確認中です。ただし、本人が見ていたからという理由だけで壊したり開けたりはしていません』
「何か言った?」
『「そこ、くる」と』
三〇八号室少年の顔が強張る。
「何が来る?」
『尋ねていません』
「何で」
『直後に本人が耳を塞いだからです』
少年の視線が止まる。
「音?」
『その可能性はあります』
「匂い?」
『それも否定できません』
「冷たい空気?」
『はい』
少年はすぐに答えを繋げようとせず、しばらく考えた。
「昨日、下が寒いって」
『はい』
「今日は通気口見て、そこ、くる」
『はい』
「でも、同じものとはまだ」
『決めていません』
「何か本当に来た?」
『今の職員には、特別な音や匂い、風は確認できませんでした』
「本人だけ分かる?」
『記憶に反応している可能性もあります』
少年は膝へ置いた手を少し握る。
「怖がった?」
『呼吸が速くなりました。リディアが何も言わず四歩の位置に座ったまま待ち、本人から「ここ」と言われたので、そのまま動かずにいます』
「ここ?」
『リディアへ、そこにいてという意味だと受け取っています』
「近くしなかった?」
『はい。本人が四歩を選んでいたので』
少年の表情が少し緩む。
「よかった」
『そのあと、通気口へ布を掛けるかどうかを選んでもらいました』
「掛けた?」
『本人は首を横に振りました』
「怖いのに?」
『はい』
「何で?」
『聞いていません』
少年は少し不思議そうにしたあと、自分で答えを飲み込んだ。
「見えた方がいいのかもしれない」
「可能性はあるな」
「でも決めない」
「ああ」
『本人は今も、現在の安全区画へ留まることを希望しています』
「白鴉来ない?」
『今日も移動希望はありません』
「分かった」
少年は少し迷ってから尋ねる。
「こっちから何か言っていい?」
『内容によります』
「……今日は言わない」
『承知しました』
「俺も怖い話聞いたから、今言うと混ざる」
ヨアヒムは短く「はい」と答えた。
自分が不安定な時は、無理に誰かを慰めなくてもいい。
相手に返事をしないことも、関係を切ることにはならない。
通信が終わったあと、少年は少しだけ窓を開けた。
強い風が入った瞬間、髪が揺れる。
「寒い」
「閉める?」
「うん」
自分で窓を閉じた。
「寒いって、今の寒いと、あの子の寒い、同じ言葉」
「ああ」
「でも同じじゃないかもしれない」
「ああ」
「面倒」
「最近そればっかりだな」
「本当に面倒なんだよ」
それでも少年は、少し笑っていた。
午後の後半。
本人が「今なら」と言ったため、帰還管理所の記録筒の続きを聞くことになった。
怖さは二。
白い薬の量は朝から変えていない。
水を近くへ置き、途中で止められることも再確認する。
「七人目の続きから?」
少年が聞く。
「七人目について読める追記は、さきほどの『第三移送候補』までです」
ブラットが答える。
「その後はない?」
「ありません」
「分かった」
「残り四人について進めます」
少年は頷いた。
八人目は帰還希望。
説明を受けたあと、本人から「今日ではなく翌日」を希望し、外区で一晩過ごしている。翌朝にもう一度本人から帰還を申し出て、その後内区へ移った。
「すぐ行かなくてもよかった」
少年が呟く。
「はい」
「帰るって言っても、明日ってできた」
「この時期はそうだったようです」
「それ大事」
言ったあと、少年は少し考える。
「帰るって一回言ったら今すぐ、じゃない」
「ああ」
「気が変わったら?」
「この記録ではそこまでは分からない」
「でも一晩待てた」
「ああ」
九人目は帰還拒否。
ただし三日目に本人から再確認を求め、帰還希望へ変更している。
「変えていい」
少年がすぐに反応した。
「嫌から帰るに」
「はい」
「逆もあった?」
「読み取れた中にはまだありません」
「でも古い規則ならできた?」
「原則上は、その可能性が高いです」
「じゃあ、今日嫌でも明日帰る。今日帰るでも、明日やめるかもしれない」
「そうですね」
少年は少しだけ満足そうに頷いた。
十人目は判断保留。
六日間外区へ滞在し、六日目の夜に発熱。帰還判断は延期され、そのまま治療区画へ移されている。
「病気でも帰らせなかった?」
「少なくとも、この記録では治療優先です」
「治ってから?」
「その後の記録はありません」
「また途中」
「はい」
少年は少し残念そうにしたが、もう「答えがないこと」そのものへ強く苛立つことはなかった。
「十一人目は?」
ブラットが一度記録板へ視線を落とす。
「少し特殊です」
「どういう」
「帰還意思欄が空白です」
「書き忘れ?」
「可能性はあります。ただし、横に『本人発語なし』とあります」
少年の表情が変わる。
「話せない?」
「理由は書かれていません」
「どうした?」
「外区保護継続」
「帰らせなかった?」
「はい」
少年はすぐに窓の方を見る。
名前不明の子供を思い出したのかもしれない。
ほとんど言葉を出せなかった時期。
もし古い帰還管理所の規則が本当に運用されていたなら、言葉がないから「帰る」と決めつけることはしなかった。
「どれくらい?」
「五日までは記録があります」
「その人、何か選んだ?」
「食事の種類と、部屋の灯りについて記録があります」
「帰る以外?」
「はい」
「何選んだ?」
「柔らかい食事。夜は弱い灯りを残す」
少年はしばらく黙った。
「喋れなくても、他は選んだ」
「そう見えます」
「帰るって言えないからって、全部選べない人にしなかった」
「少なくとも、この時点では」
少年はゆっくり息を吐いた。
「いいな」
すぐに続ける。
「……規則としては」
「ああ」
「人全部がよかったとは決めない」
「ああ」
「でも、これ大事」
その表情には、少し羨ましさにも似たものがあった。
「俺も昔、薬で頭ぼんやりしてた時」
声が少し小さくなる。
「先生が何か聞いて、答えられないと、『分からないなら任せて』って」
俺は黙って聞いた。
「そのまま薬増えたことある」
「覚えてる?」
「全部じゃない。でも、そういう感じ」
少年は膝へ視線を落とす。
「言えないのと、任せるのは違うんだな」
「ああ」
「黙ってるのと、はいも違う」
「ああ」
「十一人目、帰るって書かれなかった」
「ああ」
「それでいい」
ブラットも静かに頷いた。
そこまでで、十一人分の読める範囲は終わった。
「これだけ?」
「個人記録部分は以上です」
「他にある?」
「末尾に、別時代の追記が二行あります」
少年の表情が僅かに固まる。
「新しい?」
「七人目の『第三移送候補』と同じ筆記形式です」
「今日は聞く?」
俺はあえて少年に尋ねる。
少年は少し嫌そうな顔をしたが、自分で考えた。
「怖さ、今二」
「はい」
セリーが答える。
「水ある」
「あります」
「あと二行」
「はい」
「……聞く」
ブラットが読み上げる。
「一行目。『外区長期滞在者、再分類対象とする』」
少年の眉が寄る。
「長くいるだけで?」
「この文面では、そう読めます」
「何日にした?」
「日数の基準はここにはありません」
「次」
ブラットは少し間を置いた。
「『帰還不能・帰還拒否・意思確認不能を第三保護区画へ統合』」
少年の顔から表情が消えた。
部屋へ沈黙が落ちる。
「三つ」
やがて少年が言う。
「帰れない人」
「ああ」
「帰りたくない人」
「ああ」
「何も言えない人」
「ああ」
「全部一緒にした」
「そう読める」
俺が答える。
「全然違うのに」
「ああ」
「帰れないと、帰りたくないは違う。言えないも違う」
「ああ」
少年は少しずつ声を強める。
「何で一緒にするんだよ」
「管理しやすかったのかもしれない」
ブラットが慎重に言った。
「処置の対象をまとめるため、区分を減らした可能性もあります」
「人を?」
「記録上は」
「それが嫌」
少年の声が震えた。
「最初は十一人、違うこと書いてる」
帰りたい。
帰りたくない。
分からない。
明日にしたい。
発熱した。
喋れない。
その一人一人に別の記録があった。
「後は三つまとめて第三」
少年の手が強く握られる。
「それ、名前消すのと似てる」
俺は少し息を呑んだ。
「番号にするのと?」
「うん」
「違うことしてる人を、同じ箱に入れる」
「ああ」
「扱いやすいように」
「ああ」
少年は目元を手で擦った。
「嫌だ」
「今日はここまでだな」
今度は少年も反論しなかった。
「うん」
ブラットが記録板を閉じる。
通信の向こうでガルムが低く言った。
『奥の扉は今日も開けない』
少年が僅かに笑った。
「今それ言う?」
『お前が心配すると思ってな』
「少しした」
『だからだ』
「……ありがとう」
ガルムが一瞬黙る。
『どういたしまして』
その返事が妙に硬く、少年が少し笑った。
張り詰めた空気が、ほんの僅かに緩んだ。
その日の夕方、少年は父王の二通目の手紙を読まなかった。
盆の上に開いたまま置かれた紙へ何度か視線を向けたが、手を伸ばすことはない。
「今日は帰還管理所でいっぱい」
「ああ」
「父上まで入れたら混ざる」
「ああ」
「だから明日でもいい」
「そうだな」
「でも、ずっと読まないかもしれない」
「ああ」
俺が答えると、少年が少し意外そうに見る。
「いいの?」
「お前の手紙だろ」
「証拠でも?」
「証拠として保存はする。でも、本人が読むこととは別だ」
「誰か他の人が読む?」
「必要になった時は、お前に相談する」
「勝手に?」
「しない」
少年はしばらく俺を見たあと、頷いた。
「じゃあいい」
夕食後、セリーが赤いジャムをほんの少しだけ出した。
「今日ある」
「昼には出しませんでしたから」
「一日一回?」
「毎日出すとは申し上げていません」
「明日は?」
「明日は明日です」
少年が笑う。
「昨日の選択は今日の命令じゃない」
「よく覚えていらっしゃいます」
「ジャムに使うと思わなかった」
「原則は幅広く使えます」
「強い」
俺も横からパンへ手を伸ばす。
セリーの視線が来る前に少しだけジャムを取ると、少年が目ざとく気づいた。
「アル多い」
「大人だから」
「関係ある?」
「ある」
「ありません」
セリーが即座に否定し、少年が吹き出した。
今日聞いた記録の中では、昔の外区にいた人々も、果実煮や蜂蜜焼きを食べていた。
それを思い出したのか、少年はジャムを塗ったパンを一口食べてから少し黙った。
「七人目も甘いの食べたかな」
「記録にはなかったな」
「でも食べたかもしれない」
「ああ」
「十一人目も」
「ああ」
「帰るか言えなくても、甘いの好きだったかもしれない」
「ああ」
少年は少しだけ口元を緩める。
「そういうの、残ってないの嫌だな」
「全部は記録できないからな」
「でも、いたのは残った」
「ああ」
「それで今はいい」
夜の薬は朝と同じ量を維持した。
怖さは二。
身体の不調はない。
青と紫は使わない。
扉は内側から閉め、灯りは薄く残す。
眠る前、少年はいつものように寝台へ入ったが、今日はすぐに目を閉じなかった。
「アル」
「何だ」
「十一人、全員違った」
「ああ」
「帰る人も、帰らない人も、分からない人も」
「ああ」
「病気になった人も、喋らない人も」
「ああ」
「最初は分けてた」
「ああ」
「でも後から、長くいる人まとめて」
「ああ」
「第三」
「ああ」
少年の目が少し細くなる。
「便利だったのかな」
「管理する側にはな」
「じゃあ便利って怖い」
「便利なこと全部が悪いわけじゃない」
「分かってる」
少年は少し不満そうに言った。
「でも、人が違うのに同じにする便利は嫌」
「ああ」
「俺と保存槽のアルフォンスと、俺を一緒にされたら嫌」
「ああ」
「発見された子も、第二とか〇二とかで一緒にされたら嫌」
「ああ」
「帰れないと、帰りたくないと、言えないも違う」
「ああ」
しばらく沈黙する。
「今の白鴉は?」
「何が」
「まとめない?」
「必要な分類はする」
「するんだ」
「薬の量とか、治療の優先順位とか、安全のための分類は必要だ」
少年は少し眉を寄せる。
「じゃあ同じ?」
「違うと思いたい。でも、絶対違うって言い切るんじゃなくて、本人の言葉を分類より上に置くようにする」
「分類より?」
「ああ」
「患者とか、王太子とかより?」
「ああ」
「アルフォンスよりも?」
少し考える。
「名前も大事だ。でも名前を聞いたから全部分かったことにはしない」
少年はゆっくり頷いた。
「十一人目、名前言えなくても、灯り選んだ」
「ああ」
「それ、いい」
「ああ」
「俺も、名前分からなくなる日があっても」
声が少し小さくなる。
「他のこと選んでいい?」
「もちろん」
「逆に、何も選べない日は?」
「守る」
「勝手に決める?」
「命を守るのに必要な最低限は決めるかもしれない。でも、落ち着いたら説明するし、あとから変えられることは戻す」
「全部は戻せない?」
「ああ」
「そこは嘘つかない」
「ああ」
少年は天井を見つめる。
「昔の帰還管理所、最初は結構ちゃんとしてたのに」
「ああ」
「何で壊れたんだろ」
「まだ追う」
「ゆっくり?」
「ああ」
「内区行かない?」
「少なくとも今日はいかない」
「明日?」
「明日は明日だ」
少年が少し笑う。
「セリーみたい」
「影響された」
「ジャムも?」
「それは別」
また笑いが漏れる。
少しして、少年の呼吸がゆっくりになった。
「お休み、アルフォンス」
「……お休み、アル」
セリーも挨拶し、俺たちは部屋を出る。
内側から鍵がかかる音がして、廊下に夜の静けさが戻った。
今日読んだ記録には、大きな秘密の名前はなかった。
父上も。
レイハンも。
ローデンも。
AG-02も。
代わりに残っていたのは、帰還管理所の外区で過ごした十一人の時間だった。
帰ると決めた者。
帰らないと決めた者。
決められない者。
明日に延ばした者。
途中で気持ちを変えた者。
熱を出した者。
言葉を出せなかった者。
古い記録は、それらを別々に残していた。
食べたもの。
眠れたか。
灯りをどうしたか。
中庭へ出たか。
帰還以外のことまで、僅かではあっても人ごとに違う。
けれど、後の時代に書き足された記録は違った。
長く外区へ留まる者を再分類し。
帰還不能。
帰還拒否。
意思確認不能。
本来まったく違う三つを、第三保護区画へ統合する。
そこまで変わっていた。
七人目が本当に第三へ送られたかは分からない。
十一人目がその後どうなったのかも分からない。
だから、起きていないことまで作らない。
けれど、誰かが違う人々を一つの区分へまとめ直そうとした痕跡までは、もう消せない。
名前を奪うことだけが、人を一つにする方法ではない。
理由をまとめる。
拒否を症状へ変える。
言葉が出ないことを判断不能へ押し込む。
違うものを、管理しやすい一つの箱へ入れる。
それもまた、その人自身を見なくなる始まりだったのかもしれない。
だからこそ。
明日、内区の扉を開けるかどうかより先に。
外区に残った十一人の違いを、今夜はそのまま覚えておくことにした。
帰った人だけが、帰還管理所にいた人ではない。
帰らなかった時間も。
決められなかった時間も。
そこで食べて、眠って、外を見た時間も。
同じように、その人たちが確かにそこにいた証だった。




