第43話 同じ赤い布に包まれていても、二十三通すべてが同じ手紙だとは限りませんでした
白鴉療養所の朝は、昨日より明るかった。
夜のうちに雲が抜けたらしく、東向きの窓から差し込んだ光が廊下の石床を淡い金色に染めている。冷え込みは残っているものの、窓の隙間から入る風には湿った重さがなく、遠くの山も輪郭まではっきり見えていた。
三〇八号室の扉を二度叩く。
少し間があってから、内側で鍵の動く音がした。
「入っていい」
扉を開けると、少年は寝台の上ではなく、小机の前に座っていた。
昨日途中まで読んだ二通目の手紙は、開いた状態のまま盆へ載せられている。本人が触らないよう求めたため、昨夜から位置も変わっていない。
ただ、少年が見ているのは手紙ではなかった。
赤い布の方だ。
まだ開けられていない二十一通と、一通目の封筒が収められている。
「早いな」
俺が声をかけると、少年は布から視線を外した。
「今日はちゃんと寝た」
「夢は?」
「見た気がするけど、覚えてない」
「怖さは?」
それはセリーが聞いた。
少年は少し考えてから、自分の胸へ手を置く。
「一か二」
「身体の重さは?」
「昨日と同じくらい。頭痛くない。気持ち悪くない。胸も平気」
昨日の朝も、白い薬は四分の一より少し減らした量を選んでいる。その状態で一日を過ごし、二通目の手紙を途中まで読んだ時だけ一時的に怖さが五まで上がったが、夜には二まで下がった。
「今日の白い薬はどうしますか?」
セリーに聞かれると、少年はすぐには答えなかった。
窓の外を見て、それから手紙へ視線を戻す。
「昨日と同じにする」
「減らしませんか?」
「今日は手紙のこと考えるかもしれないから」
「読む予定ですか?」
セリーは決めつけずに尋ねた。
「まだ分からない」
少年は正直に言った。
「でも、読むかもしれない日に薬まで変えたくない」
「承知しました」
「青と紫はなし」
「はい」
エルがその日の希望だけを記録する。
少年はそれを聞いてから、小机の上の開いた手紙へ手を伸ばしかけた。
けれど、指先が紙へ触れる前に止まる。
「朝飯、先」
自分でそう言った。
「昨日もそうしたな」
「うん」
「今日も窓辺?」
「今日は」
少年は少し迷った。
「もう少し先」
「先?」
「昨日の丸机より、階段側にもう一個あっただろ」
確かに、廊下を十歩ほど進んだところに、小さな窓と二人用の椅子がある。
昨日まで使っていた場所より人通りは少しだけ多い。
「そこ行くのか?」
「人いたら戻る」
「分かった」
昨日できた場所から、ほんの少しだけ先へ。
それを大げさな挑戦にはしない。
少年はセリーが持ってきた上着を自分で羽織り、三〇八号室を出た。
廊下の先には、朝番へ交代した近衛が二人いた。
少年が足を止める。
近衛たちもこちらへ気づいた。
一人が無意識に姿勢を正しかけ、隣の者がそれを見て僅かに肩へ触れた。王族へ接する昔からの習慣が出かかったのだろう。
少年はその小さな動きを見ていた。
「敬礼する?」
一人の近衛へ聞く。
男は少し困った顔になった。
「……必要であれば」
「俺が決めるの?」
「ここでは、そのように聞いております」
少年は眉を寄せた。
「しなくていい」
「承知しました」
「でも無視もしない?」
「おはようございます」
近衛が普通に挨拶した。
少年は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく返す。
「おはよう」
それで終わった。
近衛たちは道を塞がない程度に端へ寄り、少年は昨日より先の窓辺へ歩いていく。
途中で一度振り返った。
「今の、普通?」
「かなり普通だと思うぞ」
「王太子におはようだけ?」
「ここじゃ今のお前は患者でもあるからな」
「患者が上?」
「上下の話じゃない」
俺が答えると、少年は少し笑った。
「アル、すぐ上下じゃないって言う」
「王宮にいた頃、何でも上下で考えすぎてた反動だ」
「自覚あるんだ」
「最近言われるからな」
少年は今まで使っていた場所より少し階段に近い窓辺へ座った。
ここからなら、一階へ下りる人間の姿が少し見える。
それでも食堂ほど人は多くない。
朝食が運ばれるまでの間、少年は階下を眺めていた。
治療を受けている者。
近衛。
療養所の職員。
何かの書類を抱えた男。
皆がそれぞれ自分の用事で動いていて、少年を見ても立ち止まる者はほとんどいない。
「誰も見ない」
「見てはいるぞ」
「ずっとじゃない」
「ああ」
「前は、皆見てた」
王宮でのことだろう。
「王太子だから?」
「そうだな」
「何するか、見られてた?」
「歩き方とか、座り方とか、誰に何言ったとか」
「ご飯も?」
「残したら体調を心配されたし、好き嫌いなら注意された」
「最悪」
「お前も今セリーに見られてるぞ」
少年が横を見る。
ちょうどセリーが朝食を置いていた。
「健康管理です」
「ほら」
「でも、嫌いなもの食べろって?」
「栄養上必要なら調理方法を変えます」
「食べないは?」
「一度なら構いません。長期間の場合は別の食材で補います」
少年は少し考えた。
「王宮よりいい」
「比較対象が低すぎないか」
今日の朝食は卵を柔らかく焼いたものと、温かいパン、それに野菜の煮込みだった。
少年は普段より人の通る場所にいるせいか、最初は少し周囲を気にしていた。
けれど、何人かが前を通り過ぎても声をかけてこないと分かると、少しずつ食事へ集中する。
半分ほど食べた頃、エルから連絡が入った。
『アンナマリー様より、昨日許可された封蝋比較について追加結果があります。緊急性はありません』
少年は匙を止めた。
昨日までなら、そのまま聞いたかもしれない。
今日は目の前の皿を見る。
「あとで」
『保留します』
エルの声が消える。
「気になる?」
俺が聞く。
「気になる」
少年は一度パンへ手を伸ばし、それから少し得意そうに言った。
「でも冷める」
「もうそれ定番だな」
「大事だから」
食事を最後まで終えた。
途中で人通りが少し増えたが、三〇八号室へ戻るとは言わなかった。
食べ終わった後になってから周囲を見回し、自分から立ち上がる。
「今日はここまで」
「次はもっと先?」
「決めない」
「そうだったな」
少年は少し笑う。
昨日の成功が、今日の目標にはならない。
今日ここまで来たことが、明日の義務にもならない。
三〇八号室へ戻り、白い薬を昨日と同じ量だけ飲んでから、封蝋比較の結果を聞くことにした。
少年は寝台へ座り、赤い布を自分の膝へ置く。
「アンナマリーは繋ぐ?」
俺が聞くと、少し迷った。
「声だけならいい」
「本文は?」
「見せない」
「一通目と二通目の封蝋情報は?」
「それはいい」
『条件を記録します』
エルが確認し、通信が繋がった。
『おはようございます』
アンナマリーの声が届く。
以前より少年も、彼女の声に身構えなくなっている。
「おはよう」
『今日は封蝋の比較だけお伝えします』
「うん」
アンナマリーはすぐ本題へ入らず、比較した資料の種類だけ先に説明した。
王宮へ直接問い合わせはしていない。
塔に残っていた古い王家発給文書。
リューネの町に保存されていた王家名義の古い行政書類。
ブラットが過去に扱った記録の写し。
そこから、少年が許可した範囲だけを照合した。
『一通目と二通目は、どちらも現在の王家印とは完全一致しません。ただし、六年から八年ほど前に使用例のある旧式印群へ非常に近いです』
「同じ印?」
『同じ系統です。ただ、完全に同じ個体とは言い切れません』
「個体?」
少年が眉を寄せた。
アンナマリーは言葉を選び直した。
『同じ形の印でも、実際に使う封印具は複数作られることがあります。王宮本体、王族の私室、移動先、特定部署などです』
「じゃあ、父上の印が何個もある?」
『国王陛下ご本人だけが使うものとは限りません。王家名義の文書へ使える印には、用途別のものがあります』
少年の表情が少し変わる。
「なら、王家の印があるから父上ってならない」
『はい』
返事は短い。
それ以上、不必要な安心を足さない。
「一通目と二通目は?」
『構造はよく似ています。ただ、魔力の流れ方に小さな違いがあります』
「昨日、九割って言った」
『はい。その差をさらに調べたところ、面白いことが分かりました』
「何」
『一通目と二通目は、同じ封印具で連続して封じた場合に出る差とは少し違います』
少年が黙る。
俺も姿勢を少し正した。
「どういうこと?」
今度は俺が聞いた。
『封蝋へ残る基礎構造は同じ系統ですが、魔力を通した術者側の癖が違います』
「別の人?」
『可能性があります』
少年の指が赤い布の端を掴む。
「父上と誰か?」
『それは分かりません』
「二人とも父上じゃないかもしれない」
『はい』
「一人が父上、一人が別の人も」
『あります』
「同じ人だけど、違う時に魔力変わった?」
『その可能性も完全には消せません。ただ、現時点では「二通が同一人物によって同じ条件で封じられた」とは考えない方がよさそうです』
少年はしばらく黙った。
赤い布の中には、まだ二十一通ある。
「全部違うかもしれない?」
『分かりません』
「二十三通、一緒に包まれてたのに」
『一緒に保管されたことと、一緒に作られたことは別です』
その言葉に、少年の視線が赤い布へ落ちる。
「誰かが集めた?」
『その可能性もあります』
「最初から束だった?」
『それもありえます』
「途中で足した?」
『はい』
少年は少し苛立ったように布を掴んだまま息を吐いた。
「また増えた」
「何が?」
「分かんないこと」
「減るばっかりじゃないからな、調査は」
「嫌だ」
「俺もだ」
それで少しだけ顔が緩んだ。
「アンナマリー」
『はい』
「二十三通全部、触らないで比べられる?」
『封蝋の外観だけなら、かなりの範囲で可能です。ただし、一通ずつ本人の許可が必要だと思っています』
「何で? 外から見るだけだろ」
『今のあなたにとって、どの手紙を調べるか自体が意味を持っているからです』
少年は少し黙った。
『一括で調べれば早いです。でも、「開ける前に全部を同じ物として分類されたくない」と感じる可能性もあると思いました』
「……ある」
返事は小さかった。
「勝手に全部、偽物っぽいとか本物っぽいとか分けられるの嫌」
『では、行いません』
「でも」
少年は二十一通の封筒を見た。
「全部調べるの遅い」
『急ぐ理由ができた時は、また考えましょう』
「今は?」
『ありません』
少年は少し考え、やがて頷く。
「じゃあ、一通ずつでいい」
『分かりました』
「昨日の二通目」
『はい』
「一通目と違う人が封じたかもしれないって、記録していい」
『本文とは分けて記録します』
「父上じゃないって書くな」
『書きません』
「父上かもしれないも、書かなくていい」
『現時点では「封印術者は未確定」とします』
「それで」
通信を終える前、アンナマリーが少しだけ間を置いた。
『一つ、確認してもいいですか?』
少年の肩が僅かに上がる。
「何」
『質問の内容だけ先に言います。答えたくなければ答えなくて構いません』
「うん」
『二十三通を一緒に包んでいた赤い布についてです』
少年が膝の上を見る。
『その布自体を、外側から記録してよいですか? 手紙ではなく、保管方法の証拠としてです』
「赤い布?」
『はい』
少年は意外そうだった。
「何かある?」
『今は分かりません。だから確認したいだけです』
「触る?」
『触らず、見た目と縫い方だけ』
「魔法?」
『それも非接触で確認できます』
少年は少し迷った。
自分の手で布を広げる。
ただの赤い布に見える。
端は少し擦れ、古い縫い目がある。
「今日じゃなくてもいい?」
『もちろんです』
「じゃあ、あとで決める」
『分かりました』
通信が切れた。
少年はしばらく赤い布を見ていた。
「布まで証拠」
「ああ」
「何でも調べるな」
「フェリクスに聞かせるなよ。喜ぶぞ」
「絶対言わない」
少年が少し笑った。
そこへ、廊下の外からブラットの声がした。
「入ってもよろしいですか?」
少年が一度扉を見る。
「何の話?」
「帰還管理所ではなく、王家文書についてです」
「手紙?」
「少し関係します」
「四歩」
「承知しました」
入室したブラットは、少年から四歩離れた位置で止まった。
手には薄い記録板が一枚だけある。
「アンナマリー様から聞いた?」
「封蝋比較の結果は共有されています」
「父上じゃないって?」
「そこまでは分かっていない、と」
「うん」
ブラットはその確認だけしてから、持ってきた記録について説明した。
「旧王家印が複数の部署で使われていた話に関連して、私の記憶に一つありました」
「何」
「王宮の外に長期滞在する王族へ文書を送る場合、本人が書いた手紙でも、封印だけは現地担当官が行うことがあります」
少年が顔を上げる。
「父上が書いて、別の人が封じる?」
「はい」
「じゃあ二通の封印する人が違っても、父上が書いた可能性ある」
「あります」
「逆に」
少年は少し考える。
「父上が書いてなくても、王家の担当が封じたらそれっぽくなる?」
「そうです」
「面倒」
「申し訳ありません」
「ブラットが悪いわけじゃない」
少年は少し苛立ちながらも、その矛先を間違えなかった。
「本文の字は?」
「一通目も二通目も、国王陛下の筆跡に似ています」
「似てるだけ」
「はい」
「写せる人いる?」
「王宮には公文書の代筆官がいました。私信そのものを代筆することも、陛下の指示があればありえます」
「父上が言ったことを別の人が書く?」
「はい」
「じゃあ字も決め手じゃない」
「単独では」
少年は目を閉じ、後ろへ少し倒れた。
「何なら決め手になるんだよ」
その声には、怒りより疲れがあった。
俺はすぐ答えなかった。
ブラットも同じだった。
「一個だけで決めるのは難しい」
しばらくして俺が言う。
「字、封蝋、紙、内容、届いた経路。その全部を積むしかない」
「時間かかる」
「ああ」
「父上に直接聞けば早い?」
部屋の空気が少し変わった。
それは、いずれ避けられない選択肢だ。
「早い部分はある」
「でも、父上が本当言うか分からない?」
「そういう問題もある」
「父上に俺のこと知らせたくない」
「ああ」
「今は」
「ああ」
少年は少し考える。
「じゃあ遅くていい」
そう言ったあと、表情はまだ納得していなかった。
「嫌だけど」
「嫌でもいい」
「遅いの嫌」
「ああ」
「でも知らせる方がもっと嫌」
「ああ」
両方嫌。
その中で、今はまだ遅い方を選ぶ。
選択という言葉は、いつも気持ちのいいものではない。
選びたいものが二つ並ぶとは限らない。
どちらも嫌な時に、より嫌ではない方を選ぶこともある。
「今日は手紙読む?」
ブラットが退出したあと、俺は尋ねた。
少年は盆の上の二通目へ目を向けた。
昨日、途中で止めた場所がそのまま残っている。
「今は読まない」
「分かった」
「さっき情報増えたから」
「ああ」
「書いた人と封じた人が別かもしれないって考えながら読んだら、全部そっちになる」
「なら少し置くか」
「うん」
少年は自分で手紙から顔を背けた。
「今日は父上じゃなくていい」
「何する?」
「……分からない」
「それなら何もしなくてもいいぞ」
少年は少し不満そうに俺を見る。
「暇」
「さっきまで調査しすぎって言ってたの誰だよ」
「それとこれ」
「じゃあ散歩でもするか?」
「外?」
「療養所の中」
少年は廊下を見る。
「どこまで?」
「お前が決める」
「またそれ」
「便利だからな」
少年が小さく笑った。
結局、午前中は三〇八号室のある階を端まで歩くことになった。
以前なら、部屋から食事の窓辺までがほぼ限界だった。
今日は途中で何度も止まりながら、その先へ進む。
患者の部屋の前を通る時は声を落とし、開いた扉があれば中を見ないようにする。
「見ちゃ駄目?」
「本人がいいって言わないならな」
「俺も見られたくない時ある」
「なら分かるだろ」
「うん」
廊下の端には小さな休憩場所があった。
窓が大きく、向こうに山裾と、療養所へ続く細い道が見える。
少年はそこまで来ると、しばらく立ったまま外を見た。
「遠い」
「何が」
「三〇八」
振り返れば、部屋はもうかなり先だ。
「戻る?」
「ちょっと座る」
椅子へ腰を下ろす。
セリーが同行しているものの、何かを手伝う必要はない。
「王宮なら、こういうところも兵士いた?」
「いたな」
「何人?」
「場所による」
「俺の後ろにも?」
「ああ」
「ずっと?」
「ほぼな」
少年は少しだけ背後を見た。
今は、俺とセリーしかいない。
遠くに近衛はいるが、こちらを囲んではいない。
「変」
「どっちが」
「今」
「嫌か?」
「まだ分からない」
少年は少し身体を椅子へ預けた。
「誰も後ろにいないと怖い時もある。でも、ずっといるのも嫌」
「じゃあ今日はこれでいい」
「うん」
休んでから、同じ道を戻った。
部屋へ着く頃には、少年の頬が少し赤くなっている。
「疲れた」
「昼寝するか?」
「飯」
「食欲あるならいい」
昼食には昨日ほど甘いものはなかったが、赤いジャムは少量だけ出た。
少年はそれを見て、少し嬉しそうにする。
「今日もある」
「昨日、気に入ったようでしたので」
「保存槽の方も食べた?」
「今日は別の果物です」
「なら俺だけ」
「競争じゃないぞ」
「分かってる」
言いながら、少し嬉しそうなのが分かる。
昼食の途中、旧保養施設から連絡が入った。
エルが内容を告げる。
『名前不明の子供について、「体調」「本人の発言」「環境反応」の共有許可があります。緊急性はありません』
少年は赤いジャムを見た。
それから、エルの腕輪を見る。
「食べ終わってから」
『保留します』
俺は何も言わなかった。
もう本人が自然にそう決めている。
食事の後、白湯を飲み、少し休んでから通信を繋いだ。
『こんにちは』
ヨアヒムの声。
「こんにちは」
『今日は、少しだけ新しいことがありました』
「窓?」
『それもあります』
名前不明の子供は、今日も窓辺へ行くことを自分で選んだ。
昨日は少しだけ窓を開け、数分後に閉めている。
今日は最初から閉じたままを選び、その代わり、窓の近くに置いてあった毛布を自分で膝へかけたという。
「寒かった?」
『本人へ聞くと首を横に振りました』
「じゃあ何で毛布?」
『分かりません。感触が好きなのかもしれませんし、安心するのかもしれません』
「聞かなかった?」
『はい』
少年はすぐ頷いた。
「それでいい」
『その状態で、本人がまた「あっち」と言いました』
少年の顔が少し真剣になる。
「昨日の寒いところ?」
『続けて「さむい」と言ったため、同じ対象を指している可能性はあります』
「今度は指した?」
『はい』
「どこ?」
ヨアヒムが一度間を置く。
『窓の向こうではありませんでした』
少年が眉を寄せる。
「じゃあ?」
『床です』
俺も思わず姿勢を正した。
「下?」
『本人は、床へ指を向けました』
「地下?」
『まだそうとは決めていません』
「旧保養施設の地下、もっと下?」
『可能性はあります』
少年の指が膝の上で動く。
「発見された場所より?」
『分かりません』
「何か聞いた?」
『「下ですか」と確認すると、頷きました』
少年の呼吸が少し浅くなった。
「寒いの、下」
『本人の今の表現を繋げるなら、「あっちは、下で、寒い」と受け取れる可能性があります』
「戻るところ?」
『そこは尋ねていません』
「何で?」
『本人の顔が強くこわばったからです』
少年はすぐに黙った。
ヨアヒムは続ける。
『呼吸が速くなったので、その時点で言葉の確認を止めました。本人は木片を取り出していません』
「泣いた?」
『泣いてはいません』
「リディア?」
『近くにいてよい人として今日はリディアを選んでいます。本人から距離を二歩にしてよいと示されました』
「昨日三歩」
『はい』
「近くなった」
『ただし、その直後に「いかない」と言っています』
少年の顔が僅かに強張る。
「下に?」
『そこは確認していません』
「でも床指してた」
『はい』
少年は何度か呼吸し、焦って答えを作ろうとする自分を抑えるように目を閉じた。
「……じゃあ、今分かるのは」
ゆっくり言う。
「下が寒い。あっちって言った。いかないって言った」
『はい』
「全部同じ場所かもしれない。でも決まってない」
『その通りです』
「帰還管理所ともまだ」
『結びません』
少年は息を吐いた。
「よかった」
「何が?」
俺が聞く。
「すぐ地下探しに行かないから」
「昔の俺なら行ってたかもな」
「今も行きたい?」
「少し」
「行くなよ」
「お前に言われるとは」
ヨアヒムの向こうで小さな笑い声がする。
『本人からもう一つ共有許可のある発言があります』
「何」
『落ち着いたあと、毛布を握ったまま「ここは、あったかい」と言いました』
少年の表情が緩んだ。
「今いるところ?」
『その可能性が高いです』
「よかった」
今度は素直な言葉だった。
「ここ、違うって言ってたけど」
『はい』
「戻るところじゃないかもしれないけど、あったかい」
『そうですね』
「なら、今いる場所が戻る場所じゃなくてもいい」
少年は窓の外を見る。
「俺も三〇八が王宮じゃないけど、今寝てる」
「そうだな」
『本人は今日も、移動の希望を示していません。現在の安全区画に留まります』
「うん」
「こっちから何か言う?」
俺が尋ねると、少年はしばらく考えた。
「今日は」
少し迷う。
「『あったかいならよかった』って、伝えたい」
『返事を求めない形で伝えますか?』
「うん。でも」
また考える。
「俺も、今いるところが戻る場所か分からないって、言わない方がいい?」
ヨアヒムは答えを急がなかった。
『それを伝えたい理由は何ですか?』
少年は少し驚いたように瞬きをする。
「同じって」
そこで止まる。
「……同じにしたいからかも」
『本人の経験があなたと同じとは限りません』
「うん」
「じゃあやめる?」
俺が聞く。
少年は頷いた。
「『あったかいならよかった』だけ」
『承知しました』
通信を終える。
「危なかった」
少年が呟く。
「何が」
「俺と同じにするとこだった」
「悪気はなかっただろ」
「でも違うかもしれない」
「ああ」
「名前も知らないし」
「ああ」
「戻る場所も違う」
「そうだな」
少年は少しだけ笑った。
「ありがとうだけで話せるなら、それでいい」
午後の遅い時間になると、アンナマリーからもう一度連絡が入った。
今度は赤い布ではなく、王家文書の保管方法についての補足だった。
三〇八号室少年は少し疲れていたため、聞くか迷った。
「急ぐ?」
『急ぎません』
「じゃあ明日」
『承知しました』
それだけで終わる。
相手側も、もう「情報が出たらすぐ渡す」ことだけを正しいとは考えていない。
白鴉の中では、情報の速度そのものにも選択が入り始めていた。
夕方、ガルムから帰還管理所の現地報告が届く。
『今日は奥の扉には触ってない』
「毎回最初それ言うな」
『お前が聞くからだろ』
「今日は聞いてない」
『じゃあ先に言った』
少年が少し笑う。
「何した?」
『外区待機室の記録筒を三本保全した。一つは空、二つは劣化がひどい』
「読める?」
『一本だけ部分的に』
「何書いてる?」
『今すぐ聞くか?』
少年は少し止まった。
今日だけで、父王の手紙群について新しい可能性を知り、旧保養施設の子供から「下」「寒い」という情報も入っている。
「明日」
『了解』
ガルムの返事は早かった。
「何も言わない?」
『何をだ』
「気になるだろとか」
『気になるなら明日聞けばいい』
「ガルムも変わった」
『元からだ』
「嘘」
『切るぞ』
少年が笑った。
『ただ一個だけ、危険情報じゃないから言っていいか?』
「何」
『食事札の続きだ』
少年が目を輝かせる。
「菓子?」
『あった』
「何!」
『記録に「果実煮」「蜂蜜焼き」「柔らか焼き菓子」』
「花?」
『形までは知らん』
「使えない」
『何で俺が怒られるんだ』
通信の向こうで、また誰かが笑う。
「昔の帰還管理所でも甘いの食べてた」
『待機が長い人間もいたんだろう』
「帰りたくない人も?」
『可能性はある』
少年は少し考えた。
「なら、ずっと怖い場所だったわけじゃないかもしれない」
『そうかもな』
「でも規則変わった後は?」
『分からん』
「うん」
そこで止める。
古い施設の生活の痕跡は、制度が良かった証明にはならない。
けれど、そこにいた人々が四六時中苦しんでいたとも限らない。
甘い物を食べた日があったかもしれない。
誰かと笑った日も。
その一方で、帰りたくないと言い続けた人がいたかもしれない。
生活は、制度の文章だけでは一色に塗れない。
夜。
二通目の手紙は、朝から一度も読まなかった。
少年は夕食後、小机の前へ座って開いた紙を見た。
手を伸ばす。
今度は触れた。
ただし文字を読むためではなく、紙の端を少し押さえただけだった。
「閉じる?」
俺が聞く。
「まだ」
「開いたまま?」
「うん」
「何で?」
少年は少し考えた。
「途中だから」
「ああ」
「途中のままって分かるようにしたい」
「分かった」
手紙はそのまま。
赤い布も、今日は調べる許可を出さなかった。
「布は明日?」
「それも決めない」
「ああ」
「二十三通全部、同じだと思ってた」
少年が赤い布を指で撫でる。
「一緒にあったから」
「ああ」
「父上が二十三回送ったって」
「ああ」
「違うかもしれない」
「そうだな」
「でも、違うって決まったわけでもない」
「ああ」
「誰かが集めたかもしれないし、最初から一緒だったかもしれない」
「ああ」
少年は少し疲れたように息を吐いた。
「何か、一個分かると二個増える」
「調査ってそんなもんだ」
「嫌い」
「俺もたまに嫌いになる」
「でもやめない?」
「やめる時もある」
「全部?」
「今日はここまで、っていうやめ方なら」
少年は少しだけ笑う。
「それ、俺もやってる」
「ああ」
夜の薬は朝と同じ量。
青と紫は使わない。
怖さは二。
身体の不調なし。
扉を内側から閉め、灯りを残す。
眠る前の確認が終わると、少年は布団へ入った。
「アル」
「何だ」
「父上の手紙、本物だったら」
「ああ」
「二十三通全部、同じ気持ちで書いたとは限らない?」
「人間ならな」
「怒って書いた日も?」
「あるかもしれない」
「心配して書いた日も」
「ああ」
「誰かに言われて書いた日も」
「ああ」
「自分で書いてない日も」
「ああ」
「じゃあ」
少年は天井を見ながら、ゆっくり言葉を選ぶ。
「一通目が優しかったから、全部優しい手紙じゃない」
「ああ」
「二通目が嫌だったから、全部嫌な手紙でもない」
「ああ」
「父上が一通悪いこと書いたら、全部悪い父上でもない」
「ああ」
「でも悪いこと書いたのは、消さなくていい」
「そうだな」
「そこだけ怒っていい」
「ああ」
少年は少し目を閉じる。
「今日の封蝋も同じ」
「何が」
「同じ王家の形でも、封じた人が同じとは限らない」
「ああ」
「赤い布に一緒でも、作った人が同じとは限らない」
「ああ」
「俺と保存槽の方、顔とか名前が似てても同じじゃない」
「ああ」
「発見された子の木の板と帰還管理所の印、似てても同じってまだ決めない」
「ああ」
少し間が空いた。
「似てるって、面倒」
「そうだな」
「でも似てるから調べられる」
「ああ」
「違うところも分かる」
「ああ」
少年の声は、少しずつ眠気を含み始めていた。
「今日、廊下の先まで行った」
「行ったな」
「明日行かなくてもいい?」
「もちろん」
「戻っても?」
「ああ」
「もっと先でも?」
「ああ」
「……じゃあいい」
目を閉じたまま、少し笑う。
「お休み、アル」
「お休み、アルフォンス」
セリーも挨拶し、俺たちは三〇八号室を出た。
内側から鍵がかかる。
夜の廊下には、昼間より冷たい空気が流れていた。
二十三通の手紙。
昨日までは、一つの赤い布に包まれた「父上からの手紙」という一組の証拠だった。
けれど今日、その見方が少し揺らいだ。
一通目と二通目は、似た王家系の封印を持つ。
それでも、封印した術者が同じとは限らない。
父上が書き、別の者が封じたのかもしれない。
代筆されたのかもしれない。
誰かが王家の印だけを使った可能性も消えていない。
二十三通が最初から一組だったのかさえ、まだ分からない。
だからといって、全部を疑わしい偽物として扱うわけでもない。
一通ずつ。
紙も。
文字も。
封蝋も。
保管方法も。
内容も。
届いた経路も。
それぞれを分けて見る。
旧保養施設の名前不明の子供も、今日また少しだけ言葉を渡してきた。
「あっち」。
「さむい」。
「下」。
そして、「いかない」。
それらを一つの場所へすぐ繋げることはしない。
ただ、今いる場所については「あったかい」と言った。
戻る場所でなくても。
昔いた場所でなくても。
今そこが暖かいことは、それだけで本当なのだろう。
帰還管理所も。
父上の手紙も。
三人のアルフォンスも。
名前のない子供も。
似た言葉や印や名前が増えるほど、一つにまとめた方が楽になる。
けれど、楽な答えほど誰かを消すことがある。
だから今夜も、似ているものを似ているまま置く。
同じだとは決めず。
違うとも決めず。
その間に残った小さな違いを、一つずつ見失わないように。




