第42話 父上から届いたという二通目の手紙を、前の手紙と同じ意味だとは決めませんでした
翌朝、白鴉療養所の空には、昨夜のうちに流れ込んだ薄い雲がまだ残っていた。
雨の気配はないものの、窓から差し込む陽射しは柔らかく、石造りの廊下もいつもより少し暗い。一階の厨房から届くパンの匂いと、どこかで薬草を煮出している青臭い香りが混ざり、遠くでは夜番を終えた近衛たちが声を抑えて引き継ぎをしていた。
三〇八号室の扉を二度叩くと、今日はすぐに内鍵が外れた。
「入っていい」
扉を開けると、少年はすでに寝台の上へ起きていた。
ただし、いつものように窓辺を見ているわけではない。
寝台脇の小机。
そこに置かれた赤い布へ、じっと視線を落としていた。
二十三通あった手紙のうち、一通はすでに本人が選んで開いている。残る二十二通は、最初に並べられていた状態をできるだけ保ったまま、赤い布の中に収めてある。
「朝から見てたのか?」
俺が尋ねると、少年は少しだけ肩を揺らした。
「起きてから」
「開けた?」
「開けてない」
答えながら、少年の指先が布の端へ触れる。
「でも、今日は開けるかも」
昨日の夜にも、同じことを言っていた。
ただし、約束にはしなかった。
朝になっても気持ちが変わっていないらしい。
「先に身体を見る?」
セリーが尋ねると、少年は赤い布から手を離した。
「うん」
体調確認をする間、俺は手紙について何も言わなかった。
頭痛はない。
吐き気もない。
胸苦しさもない。
昨日、白い薬を四分の一より僅かに減らしたが、夜中に強い不安が出ることはなかったという。途中で一度だけ目が覚めたものの、水を飲み、そのまま再び眠れたらしい。
「怖さは?」
セリーが聞く。
「今は二」
「昨日の朝は?」
「二だった」
「帰還管理所の記録を聞いたあと、四まで上がりましたね」
「うん。でも寝る前は二くらいに戻った」
少年は少し考えてから、自分の胸元へ手を当てた。
「薬減らしたせいで怖くなった感じは、今のところしない」
「では、今日の量をどうしますか?」
「昨日と同じ」
「青と紫は?」
「なし」
「承知しました」
その日の希望がエルへ記録される。
少年は記録が終わるのを待ってから、また赤い布へ視線を戻した。
「今日、開けるなら」
自分から話し始める。
「朝飯のあと」
「今じゃないんだな」
「お腹空いてる」
少し意外な理由だった。
俺が笑うと、少年は眉を寄せる。
「何」
「いや、手紙より飯を先にするようになったなと思って」
「前も食べてた」
「途中で調査入ると止めてただろ」
「今日は止めない」
そこまで言って、少年は少し考え直した。
「……危ない話なら止めるけど」
「それでいい」
「帰還管理所も、朝は聞かない」
「現場から危険情報が来た場合は?」
「それは聞く。でも、ただの記録ならあと」
昨日まで積み重ねたことを、自分の生活へ使い始めている。
調査を止めるのではない。
調査に一日の全部を奪わせない。
それもまた、少年がこの療養所で取り戻しつつあるものなのだろう。
朝食は、今日も三〇八号室の外にある窓辺を選んだ。
廊下はそれほど混んでいない。
丸机には柔らかなパン、白身魚をほぐしたもの、温かい野菜のスープが並んだ。セリーが小さく切った煮果実を置くと、少年は昨日より少しだけ多くパンを取った。
「今日は多いな」
「食べられそう」
「無理しなくていいぞ」
「分かってる」
少年は自分で一口の大きさを調整しながら食べる。
途中、階段を上がってきたミナがこちらへ気づいた。
以前と同じように、近づかず、小さく手だけを振る。
少年も一瞬迷ったあと、今度は昨日より少し高く右手を上げた。
それだけでミナは嬉しそうに笑い、そのまま付き添いと一緒に廊下を進んでいく。
「会わない?」
俺が聞くと、少年は首を横に振った。
「まだ」
「ああ」
「でも、嫌じゃない」
「そうか」
「今は話すほどじゃない」
「分かった」
少年はまたパンへ戻った。
会う。
会わない。
その間に、手を振るだけという距離もある。
何でも二つに分ける必要はない。
「保存槽の方のアルフォンス、今日は何してる?」
少年が何気なく尋ねた。
「朝の軽い歩行訓練。昨日より少し長く歩けたって聞いた」
「転んだ?」
「転んではない。ただ、途中で足が震えたから止めた」
「町は?」
「まだ先だな」
「赤いジャムは?」
「食べたらしい」
「先越された」
「何のだよ」
「俺まだ赤いジャム食べてない」
「頼めば出るんじゃないか?」
少年がセリーを見る。
「ありますか?」
「塔から持ってくることは可能です。ただ、糖分が多いので量は少なめです」
「じゃあ昼」
「承知しました」
少年は少し楽しそうに頷いた。
父上から届いたという手紙を開こうとしている朝なのに、その前に昼のジャムを決めている。
そのことが、俺には妙に嬉しかった。
大事なことを考える日でも、昼飯は来る。
甘い物を食べる予定も立てられる。
人生を一つの答えへ全部捧げなくてもいい。
食事を終え、昨日と同じ量の白い薬を飲んでから、少年は三〇八号室へ戻った。
赤い布は朝と同じ場所にある。
「誰、呼ぶ?」
俺が聞く。
前回の手紙を開いた時は、本人の希望でブラットが王家文書の確認役として入り、エルが記録し、セリーも近くにいた。フェリクスとガルムは詳細検査や証拠管理の候補だったものの、その場には呼ばなかった。
少年は少し考えた。
「前と同じでいい。でもブラットは四歩」
「昨日三歩だったぞ」
「手紙は別」
迷いのない答えだった。
「分かった」
昨日許した距離を、今日そのまま維持しなければならない理由はない。
ブラットを呼び、本人へ距離を伝えると、彼は何も聞き返さず四歩離れた位置で止まった。
「フェリクスは?」
「呼ばない」
「ガルムは?」
「今日はいい。開けるだけだから」
「アンナマリーは?」
少年は少し迷う。
「まだ聞かせない」
「分かった」
「でも、印の比較に必要になったら、あとで本人に聞かせずデータだけ見せられる?」
ブラットが答える。
「可能です。手紙本文を共有せず、封蝋や紙質など必要な比較情報だけ扱えます」
「じゃあ、それは後で決める」
「承知しました」
少年は赤い布を膝の上へ置いた。
前回開けた一通は、本人が折り直した状態で別の位置に置かれている。残りの手紙は、大小も紙質も少しずつ違い、封蝋の形も完全には同じでない。
「どれにする?」
俺は尋ねた。
「自分で決める」
「ああ」
少年は一通ずつ触るのではなく、まず全体を見た。
目で選ぼうとしているらしい。
しばらくして、赤い布の右端にある少し小さな封筒へ指を置く。
「これ」
「理由は?」
「言わない」
「分かった」
俺もブラットも、それ以上聞かない。
「前の手紙より小さい」
少年が自分から言った。
「それだけ」
「ああ」
「理由じゃないからな」
「分かってる」
封筒を持ち上げる。
手が僅かに震えていた。
「怖さ?」
セリーが静かに確認する。
「三」
「止めますか?」
「まだ」
少年は一度封筒を膝へ戻した。
「開ける前に」
少し呼吸を整える。
「今日、一通だけ」
『記録します』
「嫌になったら途中でもやめる」
『記録しました』
「読み終わっても、すぐ本物とか偽物とか決めない」
『記録しました』
そこで少年は俺を見る。
「アルも」
「何が」
「途中で何か思っても、先に言わない」
一瞬、昨日自分の考えを先に言わないと決めた場面を思い出した。
「分かった」
「ブラットも」
「はい」
「セリーは?」
「必要な体調確認だけにします」
「うん」
少年はそれでようやく封蝋へ指をかけた。
前回とは違い、今日は封筒を開くまでにかなり時間をかけた。
封蝋の端を少しずつ浮かせる。
破らないようにするというより、途中で怖くなったら止められるよう、ゆっくり進めているように見えた。
古い蝋が小さく音を立てて外れる。
少年はその瞬間に一度手を止めた。
「大丈夫?」
俺が聞くと、少し眉を寄せる。
「大丈夫って言うな」
「あ」
「今は三」
「分かった」
言い直す。
「続ける?」
「うん」
封筒の口を開く。
中には、一枚だけ折られた紙が入っていた。
前回の手紙より薄い。
少年は自分で取り出し、すぐには広げず膝の上へ置いた。
「読む人」
「お前が決める」
「最初、俺」
「分かった」
紙を開く。
目が一行目を追った瞬間、少年の表情が僅かに変わった。
けれど、声にはしない。
何行か読んでから止まり、もう一度最初へ戻る。
「何て書いてある?」
俺は聞かない。
本人が口を開くのを待つ。
やがて少年が低い声で言った。
「最初が違う」
「前と?」
「うん」
少年は紙を見たまま続けた。
「『アルフォンスへ』だけ」
前回は、「愛する息子アルフォンスへ」だった。
たったそれだけの違いなのに、少年の指先が少し強く紙を掴んだ。
「読む?」
少年が俺を見る。
「お前がいいなら」
「ブラットも」
「はい」
「セリーも」
「はい」
少年は一度深く息を吸った。
それから、今度は声に出して読み始めた。
「『アルフォンスへ。治療は順調だと報告を受けている。身体と心を正しく整えるには時間が必要だ。焦る必要はない』」
そこで一度止まる。
声はまだ安定している。
「続ける」
自分へ言い聞かせるようにして、また視線を落とす。
「『教師の指示に従い、処方された薬を欠かさず服用すること。今のお前が感じる不安や怒りは、治療の途中で生じる一時的な揺らぎである可能性がある』」
少年の声が止まった。
俺の胸の奥にも冷たいものが落ちる。
帰還拒否を「症状」として扱う。
昨日まで読んだ改変規定と、あまりにも近い。
だが、少年が最初に決めた。
すぐ繋げない。
俺は黙ったまま待つ。
「……続ける」
少年の声は少し掠れていた。
「『不安に従って判断してはならない。怒りに従って教師を疑ってもならない。王族は自らの感情より正しい判断を優先しなければならない』」
紙を持つ手が震え始める。
「怖さ」
セリーが静かに言う。
少年は目を閉じた。
「五」
「止めても構いません」
長い沈黙。
廊下の向こうから食器が触れる音が聞こえた。
三〇八号室の窓には薄い雲越しの光が差し込み、少年の手元だけを淡く照らしている。
「……あと、どれくらい」
自分で紙を見る。
「半分くらい」
「今日は途中でもいいぞ」
俺が言うと、少年は少し睨むようにこちらを見た。
「逃げると思ってる?」
「違う。選択肢として言っただけだ」
少年はしばらく俺を見たあと、紙へ戻る。
「一回、水」
セリーがすぐ杯を渡す。
少年は紙を自分の膝へ置き、両手で杯を持った。
一口。
二口。
少しずつ飲む。
「怖さ、四」
「続けますか?」
「うん」
今度は、読む速度を少し落とした。
「『お前が王宮へ戻る日には、迷いを残してはならない。戻った時、お前は以前と同じアルフォンスでなければならない』」
少年の眉が強く寄る。
「以前と同じ」
小さく繰り返した。
まだ感想は言わない。
「『教師は、お前をその状態へ戻すために必要なことを行っている。治療を拒むことは、自ら王家へ戻る道を遠ざけることになる』」
もう一度、呼吸が乱れた。
けれど今度は自分から紙を伏せた。
「止める」
「分かった」
即座にそう答える。
少年は紙を膝の上へ伏せたまま、しばらく動かなかった。
「最後まで読まない?」
ブラットは聞かない。
俺も。
少年が自分から言った。
「今日は、ここで止める」
『記録します』
「残りは?」
俺が確認する。
「同じ手紙だけど」
少し考える。
「明日読むかもしれないし、今日の夜かもしれない。でも今は読まない」
『未読部分を残したまま本人保留として記録します』
「うん」
少年は紙を折ろうとして、手を止めた。
「前の折り方、分からなくなる」
「そのまま置く?」
「うん」
セリーが空の盆を一つ用意し、本人の見える場所へ置く。
少年自身が、その上へ開いたままの手紙を載せた。
「触らないで」
「承知しました」
「エルも、本文の続き勝手に読まない?」
『読取範囲は、本人が音読または閲覧許可した箇所までに制限します』
「封筒は?」
「俺の横」
赤い布の上へ、自分で戻す。
それから少年はしばらく何も言わなかった。
俺も、今読んだ内容について分析を始めない。
それを先にすると、少年の感情がまた調査の材料へ変わってしまう。
「怒ってる」
やがて少年が自分から言った。
「誰に?」
「分からない」
昨日と似た答えだった。
「父上かもしれない。先生かもしれない。これ書いた誰か」
「ああ」
「怖いのもある」
「ああ」
「悲しいのも」
声が少し小さくなる。
「最初、『愛する息子』なかった」
そこが引っかかっていたのか。
文面の危険さより、最初の呼びかけ。
「それで悲しい?」
「……分からない」
少年は唇を少し噛み、すぐ離した。
「一通目にはあった」
「ああ」
「二通目にはない」
「ああ」
「父上が俺のこと嫌いになった?」
「そこまでは分からない」
「書いた人違う?」
「それもある」
「急いで書いただけ?」
「ああ」
「言葉が違うだけ?」
「ああ」
少年は一度俯いた。
「いっぱいある」
「そうだな」
「でも」
少し時間を置く。
「悲しいのは、本当」
「ああ」
「理由決まってなくても?」
「ああ」
少年は目元を手の甲で軽く擦った。
泣くほどではない。
けれど、目の奥が少し赤くなっている。
セリーは何も言わず、水だけを近くへ置いた。
ブラットも四歩の距離を保ったまま、視線を下げている。
「ブラット」
少年が突然呼ぶ。
「はい」
「父上の手紙って、毎回同じ書き出しじゃない?」
「私が知る限り、必ず同じではありません」
「成人アルに?」
「はい。国王陛下から殿下への私信でも、短い伝達であれば名前だけの場合はありました」
少年の顔が僅かに上がる。
「じゃあ、『愛する息子』ないから嫌いって決まらない?」
「決まりません」
「本物とも?」
「それも決まりません」
少年は少しだけ息を吐いた。
「なら、それは別」
自分の中で一つ分けた。
「悲しいのは残るけど、嫌われたって決めない」
「ああ」
俺が答える。
「次」
少年が手紙を見る。
読んだ内容のことだ。
「不安とか怒り、一時的な揺らぎって書いてた」
「ああ」
「帰還管理所の新しい規則と似てる」
俺は少し黙った。
「似てる部分はある」
「でも同じ?」
「まだ言えない」
「何で」
「この手紙で言ってる『治療中の不安や怒り』が、帰還拒否を症状扱いする規定と直接同じ思想から書かれたのかは分からないからだ」
少年は紙を見つめる。
「でも、先生を疑うなって」
「ああ」
「感情より正しい判断って」
「ああ」
「正しいの、誰が決める?」
その問いに、ブラットも少しだけ顔を上げた。
「手紙では、教師の指示へ従うことが正しい判断として扱われてるように見える」
「じゃあ先生」
「少なくとも、この部分ではな」
「父上が書いたなら?」
「父上がレイハンへ判断を任せていた可能性が出る」
「本物なら」
「ああ」
「偽物なら?」
「誰かが、そう信じさせたかった可能性がある」
少年は少し考えたあと、セリーへ目を向けた。
「今、怖さ」
「いくつですか?」
「三」
「下がりましたね」
「話したから?」
「その可能性もあります」
「薬?」
「朝から量は変わっていません」
「じゃあ、話した影響かも」
「そうかもしれません」
少年は少しだけ笑う。
「何でも薬じゃない」
「はい」
紫や白の薬へ何でも原因を押しつけない。
感情は薬だけで生まれるものでも消えるものでもない。
それを自分の身体で確かめ始めている。
「今日は、この手紙を詳しく調べる?」
少年が聞く。
「お前が決める」
「封蝋だけなら?」
ブラットが答える。
「前回と同じく、非接触比較は可能です」
「内容は?」
「共有せずにできます」
「紙は?」
「透かしや年代推定も、触れずにある程度は可能です。ただ、今は開いた状態なので、本人の許可範囲が必要です」
少年は少し考えた。
「封蝋だけ今日やる」
「紙は?」
「今日はしない」
「フェリクスは?」
「呼ばない」
即答だった。
「アンナマリーは?」
「前と同じ。本文なしで、印だけなら比較していい」
「分かりました」
エルが共有条件を記録する。
少年はそれを聞いてから、開いたままの手紙へ視線を落とした。
「これ、途中で止めたのも記録?」
『はい。ただし理由は本人が指定した範囲だけです』
「理由」
少し考える。
「怖さが五まで上がったから。あと、帰還管理所の規則と混ざりそうになったから」
『記録しました』
「逃げたって書くなよ」
『記録しません』
少年が少しだけ笑った。
緊張が少し和らぐ。
ブラットが部屋を出たあと、少年は横になった。
眠るとは言わなかったが、目を閉じてしばらく休む。
俺も椅子から動かず、三〇八号室の中に流れる静かな時間へ身を置いた。
窓の外では薄い雲が少しずつ流れ、時折陽が差す。
廊下からは患者の話し声が聞こえる。
誰かが今日は窓を開けたいと言い、別の誰かが寒いから閉めてほしいと言っているらしい。職員が両方の希望を聞き、少しだけ開ける位置を探している。
そんな当たり前のやり取りが、今はやけに大事に聞こえる。
一時間ほどして少年が起きた頃、封蝋の非接触比較結果が届いた。
エルが内容を先に告げる。
『二通目の手紙封蝋について、古い王家発給文書および一通目の封蝋との比較結果があります。本文情報は使用していません』
「聞く」
少年は寝台の上で身体を起こした。
『二通目の封蝋は、一通目と非常に近い構造を持っています。ただし完全一致ではありません』
少年が少しだけ顔をしかめる。
「どれくらい?」
『一通目との構造一致率は約九割です』
「前の王家文書は八割」
『はい』
「じゃあ二通は同じところから来た?」
『可能性は高まりますが、同じ人物が封じたとはまだ言えません』
「使用者識別は?」
『差があります。ただし差異の位置は一通目と似ています』
少年は少し考える。
「同じ種類の印を、別の人が使った?」
『その可能性があります』
「同じ人が毎回ちょっと違う?」
『それもあります』
「古くなって変わった?」
『可能性は低めですが、ゼロではありません』
少年は眉間へ指を当てる。
「もういい」
『比較説明を止めます』
「本物に近づいた?」
俺が答える前に、少年が自分で続けた。
「……近づいたっていうより、二通が同じ仕組みで作られた可能性が上がっただけ?」
「俺もそう思う」
「父上が書いたは、まだ」
「ああ」
少年は頷いた。
「それでいい」
昼食には、約束していた赤いジャムが出た。
白く柔らかいパンの横へ、セリーが小さな器に入れて持ってくる。
少年はそれを見た瞬間、手紙より先に目を輝かせた。
「赤い」
「赤いジャムですから」
「保存槽の方と同じ?」
「同じ果実です」
「どれくらいつける?」
「少量から」
「もっと」
「まず少量です」
「ケチ」
「健康管理です」
俺が横から少し多めに取ろうとすると、セリーの視線が飛んできた。
「主様も」
「俺も?」
「糖分は適量に」
「俺まで管理されるのか」
「前からです」
少年が笑う。
「アル弱い」
「お前、最近それ好きだな」
「塔の主なのに、ジャムも自由じゃない」
「自由には責任があるんだよ」
「便利な言い方」
赤いジャムを塗ったパンを一口食べる。
少年は目を少し見開き、それからゆっくり噛んだ。
「甘い」
「気に入った?」
「うん」
「保存槽の方も好きだったらしいぞ」
「そこは同じでいい」
即答だった。
俺は思わず笑った。
似ているものを全部警戒しなくてもいい。
同じ食べ物を好きでも、同じ人間になるわけではない。
「明日も?」
「量次第です」
「セリー厳しい」
「必要な範囲です」
そんな話をしながら昼食を終えた。
午前中に父王の手紙で怖さが五まで上がった少年が、今はジャムの量で文句を言っている。
感情は一つに固定されない。
それも、本人にとっては少しずつ普通になってきていた。
午後になって、旧保養施設の名前不明の子供から短い共有が届いた。
内容は「体調」と「本人の発言」。
木片についてではない。
三〇八号室少年は少し迷ったあと、聞くことを選んだ。
『本人の体調は安定しています。今日は、窓辺へ移動したあと、初めて自分から窓を少し開けることを選びました』
「昨日は閉めたままだった」
『はい』
「今日は開けた?」
『ほんの少しだけです』
「風、嫌じゃなかった?」
『数分で閉めました』
「自分で?」
『リディアへ「しめて」と言いました』
少年の口元が少し緩む。
「言葉増えた」
『はい』
「共有していいって?」
『確認済みです』
ヨアヒムが続ける。
『もう一つ、本人から短い発言があります』
「何て?」
『窓を閉めたあと、「あっちは、さむい」と言いました』
少年の表情が変わる。
「あっち?」
『指差しはありませんでした』
「もどるところ?」
『分かりません』
「帰還管理所?」
『まだその言葉は知らせていません』
「匂いが違うって言ってた場所?」
『関係がある可能性はあります』
少年は少し考える。
「寒い場所」
俺も頭の中でいくつか候補を思い浮かべたが、口には出さない。
「何か聞いた?」
『「今ここは寒いですか」とだけ確認しました』
「何て?」
『首を横に振りました』
「じゃあ、今じゃないところ」
『そう受け取れる可能性は高いです』
少年は静かに頷いた。
「それでいい」
今日は、向こうへ言葉を返さないことを選んだ。
「毎回返すと、会話しなきゃってなる」
『はい』
「聞いたってだけでいい」
『承知しました』
通信が切れたあと、少年は少し窓の外を見ていた。
「寒いところ、どこだろ」
「まだ分からない」
「塔?」
「塔の地下は寒いところもある」
「白鴉?」
「地下はな」
「王宮?」
「冬は寒い」
「全部ある」
「そうだな」
「なら置いとく」
以前なら候補を一つずつ潰したがっただろう。
今は、そのまま置ける。
夕方前、ガルムから帰還管理所の状況だけが入った。
今日は奥の扉を開けていない。
第一空間の古い記録筒を外側から確認し、劣化したものから順番に保全している。
新しい侵入者の痕跡もない。
「進んでない」
少年が言う。
『昨日も言ったが、奥へ行ってないだけだ』
「今日は何見つけた?」
『小さいのなら一つ』
「何」
『昔の外区利用者向けの食事札』
「食事?」
『柔らかい食事、普通食、流動食の三種類』
少年が一瞬黙る。
「それだけ?」
『それだけだ』
「何か普通」
『施設なんだから飯くらい出す』
「帰還管理所でも?」
『人が待つ場所だったならな』
少年は少し笑った。
「花の甘いのあった?」
『知らん』
「調べて」
『そこまで記録残ってるか』
「ガルム」
『何だ』
「重要」
『何がだ』
通信の向こうで、オスカーらしき笑い声が聞こえた。
『分かった分かった。菓子の記録があれば教える』
「約束?」
『そこまで記録するな』
少年が笑う。
重い制度改変の記録ばかりだった場所に、食事札が残っている。
そこでも誰かが食べて、待っていた。
帰りたい人。
帰りたくない人。
決められない人。
それぞれが何かを食べ、眠り、時間を過ごしていたのだろう。
制度の記録だけでは見えない生活が、一枚の食事札から少しだけ覗いた気がした。
夜になり、二通目の手紙は朝のまま、開いた状態で盆の上に置かれていた。
少年は夕食後、その前へ座る。
「続き、読む?」
俺は聞かずに待つ。
しばらくして、少年が自分から言った。
「今日は読まない」
「ああ」
「怖さは今二。でも」
紙へ視線を落とす。
「今読む理由ない」
「そうだな」
「朝、途中で止めたから夜に続き、ってしなくていい」
「ああ」
「明日でも、もっと後でもいい」
「ああ」
少年は開いた紙を見ながら、少しだけ笑った。
「途中のままでも、壊れない」
その言葉に、俺は少しだけ目を細めた。
「何が?」
「手紙」
「ああ」
「最後まで読まなくても、そこにある」
「ああ」
「答えも、たぶん逃げない」
「証拠としては保全する」
「うん」
少年は盆ごと小机の奥へ少し押した。
「今日はここまで」
「分かった」
夜の薬は朝と同じ量。
青と紫はなし。
怖さは二。
扉は内側から閉め、灯りは少し残す。
いつもの確認を終えると、少年は布団へ入った。
「アル」
「何だ」
「二通目」
「ああ」
「一通目より嫌いかも」
「そうか」
「まだ全部読んでないけど」
「ああ」
「そう思っていい?」
「もちろん」
「本物か偽物か分からなくても?」
「ああ」
「父上が書いたか分からなくても?」
「ああ」
少年は天井を見たまま少し黙った。
「書いてあることが嫌」
「それなら、誰が書いたかとは別に言える」
「ああ」
「感情は一時的な揺らぎってところ」
「ああ」
「怒るな、先生疑うなって」
「ああ」
「嫌い」
「そうか」
今度は、理由を足さなかった。
「でも」
少年が少し続ける。
「父上まで嫌いって決めない」
「ああ」
「先生全部嫌いも、まだ」
「ああ」
「この手紙の、この部分が嫌」
言葉にしてから、少し安心したように息を吐いた。
「分けられた」
「そうだな」
「前なら、父上の手紙嫌いって思ったら、自分も嫌だった」
「何で」
「父上好きなのに、父上の手紙嫌いって思ったら、王太子じゃない気がした」
「ああ」
「今は」
少年は少し考えた。
「手紙嫌いでも、父上に会いたい」
「ああ」
「先生疑っても、助けてもらったと思ってた時間は残る」
「ああ」
「怒っても、アルフォンス」
「ああ」
「途中で読むのやめても、弱くない?」
「弱いかどうかで決めなくていい」
少年は少し笑った。
「それもそう」
目を閉じる。
「今日、赤いジャム美味かった」
「最後それか」
「大事」
「ああ。大事だな」
俺も笑った。
「お休み、アルフォンス」
「お休み、アル」
セリーも静かに挨拶し、俺たちは三〇八号室を出た。
内側から鍵のかかる音がする。
廊下には夜の静けさが広がっていた。
父上から届いたという二通目の手紙は、最後まで読まなかった。
分かったのは途中まで。
治療は順調。
教師へ従え。
薬を欠かすな。
不安や怒りは治療中の揺らぎかもしれない。
感情に従って教師を疑うな。
王宮へ戻る時には、以前と同じアルフォンスでなければならない。
治療を拒むことは、王家へ戻る道を遠ざける。
帰還制度の後期改変と、似た匂いはする。
けれど、同じものだとはまだ決めない。
二通目の封蝋は一通目と約九割の構造一致を示したが、父上自身が封じた証明にはならない。
書き出しが違うから、愛情が消えたとも決めない。
文面が嫌だから、父上全部を嫌いになる必要もない。
そして、最後まで読まなかったからといって。
今日の調査が失敗したわけでもない。
少年は、自分が耐えられるところまで読んだ。
怖さが上がった時に止まり。
水を飲み。
考え。
自分の感情を、父上や王太子という役割から少しずつ切り離した。
その途中で、昼には赤いジャムを食べた。
名前不明の子供が窓を少し開けた話も聞いた。
ガルムから、帰還管理所に食事札が残っていたという、どうでもよさそうで少し大事な話も聞いた。
答えだけを追っていた頃なら、そんな一日は無駄に見えたかもしれない。
今は違う。
途中で止まった手紙も。
食べかけではなく、きちんと食べ終えた昼食も。
笑った時間も。
嫌だと思った言葉も。
全部、今日の少年が自分で選んだ一日の中に残っている。
だから、続きは明日でなくてもいい。
最後まで読まなければ分からないことがあっても。
最後まで読むことだけが、前へ進むことではなかった。




