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『嵌められた元王太子は、古の塔で自由に生きる 〜2000年前の魔導具師が遺した不思議な遺産〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第41話 最後の一枚に名前がなくても、誰かが変えた痕跡までは消えませんでした


 白鴉療養所の朝は、薄い霧に包まれていた。


 前日の夜から冷え込んだらしく、中庭の石畳はうっすら湿り、窓の向こうでは木々の輪郭が白く霞んでいる。廊下を歩く者の足音も、いつもより少し遠く感じられた。


 三〇八号室の扉を二度叩くと、今日はそれほど待たずに内鍵が外れた。


「入っていい」


 中へ入ると、少年はすでに着替えを終えていた。


 寝台の上には昨日まで着ていた服がきちんと畳まれ、窓際の椅子には自分で運んだらしい薄い毛布が置かれている。本人は窓枠へ肘をつき、外の霧を眺めていた。


「今日は早いな」


「昨日より寝た」


「夢は?」


 そう聞くと、少年は少しだけ振り返った。


「見た。でも、帰る夢じゃなかった」


「どんな夢だった?」


「言わない」


「分かった」


 返事をすると、少年は一瞬こちらの顔を確かめるように見た。


 以前なら、質問されたら答えなければならないと思っていたのだろう。今は「言わない」と言って、その後に理由を説明しなくてもいいことを、少しずつ受け入れている。


 セリーが朝の体調確認を始めると、少年は窓から離れ、自分から寝台へ腰を下ろした。頭痛も吐き気もなく、胸の苦しさもない。身体の重さは昨日と大きく変わらず、眠気も朝としては普通だという。


「白い薬は?」


 セリーが尋ねる。


 少年は少し考えた。


「今日は減らしてみたい」


 俺は思わず視線を向けた。


「昨日は四分の一だったな」


「うん。昨日も身体軽かったし、今日も変わらない。帰還管理所の話も昨日よりは落ち着いてる」


「どの程度まで減らしますか?」


 セリーはすぐに量を提示せず、本人へ確認する。


 少年は自分の指を見ながら考えた。


「半分じゃなくて……四分の一より少し少ないってできる?」


「できます。八分の一へ急に減らすより、四分の一から少量だけ減らす方法もあります」


「じゃあそれ」


「今日一日だけ試しますか?」


「うん。明日はまた決める」


「青と紫は?」


「なし」


「承知しました」


 エルがその日の希望として記録する。


 固定された処方ではない。


 昨日の判断も、今日の命令にはならない。


 少年は自分の身体を見ながら、少しずつ量を変えることを覚え始めていた。


「怖くなったら?」


 俺が聞くと、少年は少し眉を寄せる。


「薬戻す?」


「それも選べるし、すぐ戻さず様子を見る方法もある」


「アル呼ぶでもいい?」


「ああ」


「セリーでも?」


「もちろんです」


 少年はそれを聞いて小さく頷いた。


「じゃあ減らす」


 決めたあと、少しだけ表情が硬くなった。


「怖い?」


「ちょっと」


「やめる?」


「やめない。でも、怖いって言っとく」


「ああ」


 その言葉に、俺は余計な励ましを足さなかった。


 怖いまま選んでもいい。


 怖くなくなってからでなければ選べないわけではない。


 そして、途中でやめてもいい。


 それだけ分かっていれば十分だった。


 朝食は今日も廊下の窓辺を選んだ。


 霧で景色はほとんど見えなかったが、少年は「今日はこれでいい」と言って丸机の前へ座った。近衛が一人通りかかったものの、こちらへ近づかず、軽く会釈だけして階段へ向かう。


 少年はそれを見送ってから、スープへ匙を入れた。


「霧だと何も見えない」


「山だからな」


「塔もこうなる?」


「ああ。もっと濃い時もある」


「窓から何も見えない?」


「白いだけの日もある」


「それでも塔いる?」


「いるな」


「暇じゃない?」


「お前、塔を何だと思ってる」


「でかい家」


「だいぶ雑だな」


 少年が少し笑う。


「でも住む場所なんだろ」


「ああ」


「王宮より?」


「俺にはな」


「帰る場所?」


 昨日までなら、その言葉だけで少し空気が変わっていた。


 今日は少年自身が自然に使った。


「今はそうだ」


「そっか」


 それ以上は掘らず、パンを一口食べる。


 その途中でブラットが廊下の向こうから姿を見せたが、昨日と同じように朝食中だと分かると足を止めた。


 少年の手も少し止まる。


「昨日の残り?」


「はい」


 ブラットは距離を保ったまま答えた。


「安全に保全されています。急ぐ必要はありません」


 少年は数秒考えたあと、皿へ視線を戻した。


「食べてから聞く」


「承知しました」


 ブラットはそのまま離れた。


 少年はスープを一口飲み、少ししてから俺を見る。


「逃げてないよな」


「何が」


「昨日の残り」


「ああ。残ってる」


「誰も勝手に読まない?」


「証拠管理のために必要な人間は中身を知ってる。でも、お前へ伝えるのは待ってる」


「違う」


 少年は少し言葉を探した。


「俺が聞かないって言っても、記録自体なくならない?」


「ああ」


「じゃあいい」


 少年はまた食事へ戻った。


 答えを知ることと、証拠を守ることは別。


 その区別も、少しずつ分かるようになってきた。


 朝食を終え、減らした白い薬を飲んでから三〇八号室へ戻る。


 ブラットを呼ぶ前に、少年は自分から窓を少しだけ開けた。霧を含んだ冷たい空気が入ってきたため、すぐに半分ほど閉じる。


「寒い」


「だから言っただろ」


「言ってない」


「思った」


「それは分からない」


「正論」


 少しだけ笑ったあと、少年は寝台へ座った。


「聞く」


 ブラットが入ってくる。


 今日も距離は三歩。


 本人が昨日許した距離だが、ブラットは一度だけ視線で確認し、少年が頷いてから立ち位置を決めた。


「昨日の続きです」


 ブラットの声はいつもより少し低い。


「先に、内容の種類だけ申し上げます」


「うん」


「新しい改変規定に付随する、運用記録です。人名はありません」


 少年の肩が僅かに下がる。


 人名がないことに安心したのか、逆に残念なのかは分からない。


「何個?」


「大きな項目は一つです。ただし、中に三段階の記録があります」


「長い?」


「少し」


「じゃあ、一個ずつ」


「分かりました」


 ブラットは記録板を開いた。


「最初の記録は、改変の初期と思われるものです」


 部屋の空気が少し張る。


「文面は、『帰還拒否者に対し、再確認間隔を短縮する。本人申告を待たず、一日一回まで確認可能とする』」


 少年の眉が動いた。


「最初から症状じゃない?」


「はい」


「古いのは、本人が言うまで聞かない」


「そうです」


「それを一日一回にした」


「はい」


 少年は少し俯く。


「まだ嫌って言える?」


「この段階の文面では、拒否そのものは認められています」


「でも毎日聞かれる」


「そうなります」


 少年は寝台の縁を指でなぞった。


「嫌になるな」


「ああ」


 俺が答える。


「毎日『帰る?』って聞かれたら」


「ああ」


「そのうち、はいって言った方が楽になるかも」


 ブラットが少し視線を伏せた。


「それを狙った改変かどうかはまだ分かりません。ただ、負担が増えることは確かです」


 少年はしばらく黙った。


「次」


「二段階目です」


 ブラットが一度息を整える。


「『帰還拒否が三回以上継続した場合、判断能力低下の可能性を記録。補助処置後に再確認を行う』」


 少年の身体が止まった。


「補助処置」


「具体的内容は書かれていません」


「薬?」


「可能性はあります」


「魔法?」


「それも」


「三回嫌って言ったら、判断できないってことにする?」


 声に怒りが混じる。


「そう読める文面です」


「嫌って言い続けたら、頭おかしいって?」


「そこまでの表現ではありませんが」


「同じだろ」


 少年の声が強くなった。


 窓の外では霧が少しずつ薄れ始めていたが、部屋の中の空気は逆に重くなる。


「嫌だから嫌って言ってるのに」


 少年は自分の膝を強く握った。


「何回言っても聞かれる。三回言ったら、判断できないかもしれないって。それで何かされて、もう一回聞かれる」


 言葉の途中で呼吸が少し乱れた。


 セリーがすぐに近づくのではなく、少年の視界へ入る位置から声をかける。


「一度止めますか?」


「……まだ」


「水を飲みますか?」


「飲む」


 セリーが杯を差し出す。


 少年は両手で受け取り、一口ずつゆっくり飲んだ。


 しばらくして呼吸が戻る。


「次が、昨日の症状扱い?」


 少年が聞く。


「ほぼそこへ繋がります」


「聞く」


「本当に?」


「聞く。でも、これで終わり」


「分かりました」


 ブラットは最後の段階を読む。


「『帰還拒否が継続する対象について、拒否を症状分類へ統合。本人意思記録を治療経過記録へ移管。処置完了後に本人確認を行う』」


 少年の顔から表情が消えた。


 昨日読んだ「帰還拒否は症状として扱う」「本人確認を処置完了後へ変更」と同じところへ到達する。


 しかし、今日はその途中が見えた。


 いきなり全部変わったわけではない。


 少しずつ。


 最初は確認の間隔を縮める。


 次に、拒否が続けば判断能力へ疑いを付ける。


 その次に、拒否そのものを症状へ変える。


「少しずつだった」


 少年が小さく言った。


「そう見えます」


「最初から全部悪くしなかった」


「はい」


「ちょっとずつ」


「そうです」


 少年は長く黙った。


 その沈黙の間、廊下から誰かが水桶を運ぶ音が聞こえた。少し遠くでは患者の笑い声もしている。


 今この場所では、誰かが嫌だと言えば止まる。


 けれど、記録の中では、それが少しずつ止まらなくなっていった。


「何で」


 少年の声は、さっきより低かった。


「一気に変えなかったんだろ」


「反発を避けるためかもしれない」


 俺は慎重に答える。


「最初から『嫌って言っても無視する』って変えたら、止める人が多かったかもしれない」


「じゃあ、少しずつなら」


「ああ」


「慣れる?」


「そういうことはある」


 少年の目が細くなる。


「怖い」


「ああ」


「悪いことしてるって気づきにくい」


「ああ」


「昨日より今日、ちょっとだけ変わる。明日またちょっと」


「ああ」


「そのうち、最初どうだったか忘れる」


 ブラットの手が僅かに止まった。


「記録が残っていなければ、その可能性は高いでしょう」


 少年は視線を上げる。


「だから古いの消した?」


「一部は薄くされていました」


「全部消せなかった?」


「そうですね」


「じゃあ」


 少年の声が少し震える。


「残っててよかった」


 俺はすぐには返さなかった。


 残っていてよかった。


 その一言には、怒りも安堵も混ざっている。


「名前は?」


 少年が聞いた。


「改変した人の」


「ありません」


「署名も?」


「ありません」


「命令番号とか」


「通常あるはずの承認欄が、切り取られています」


 部屋の空気が変わる。


「切り取った?」


「紙の端に不自然な断面があります」


「最初からなかったんじゃなくて?」


「元は何か付いていた可能性が高いです」


 少年はすぐに身を乗り出しかけ、途中で止まった。


「誰が切った」


「分かりません」


「書いた人?」


「それも候補です」


「先生?」


「可能性は残ります」


「父上?」


「残ります」


「他の王宮の人?」


「はい」


 少年は苛立ったように息を吐く。


「名前ないの、ずるい」


「ああ」


「やったのに、自分だけ消した」


「そう見える可能性はある」


「でも」


 少年は少し考え直す。


「後から誰かが切ったかもしれない」


「ああ」


「証拠隠すために」


「ああ」


「先生を守るためとか」


「ああ」


「父上を守るためとか」


「ああ」


「逆に、先生を犯人にするためとか」


 俺は少し驚いた。


「そこまで考えるか」


「だって名前ないから」


 少年は自分でも嫌そうな顔をする。


「何でも入る」


「そうだな」


「だから、まだ決めない」


 強く言い切るのではなく、疲れたように呟いた。


 それでも、自分で保留した。


「これで昨日の残り全部?」


「はい」


 ブラットが答える。


「大きな情報として保留していたものは、以上です」


「じゃあ今日はここまで」


「承知しました」


「他の記録は?」


「ありますが、急ぎません」


「奥の扉は?」


「まだ開けていません」


「よかった」


 少年は少しだけ肩を落とした。


 情報を知ったあとでも、世界がそのまま止まっていてくれる。


 その感覚が、今の少年には必要なのかもしれない。


 ブラットが部屋を出る前、少年が呼び止めた。


「ブラット」


「はい」


「昔」


 少しだけ言いにくそうに視線を逸らす。


「アルに、毎日同じこと聞いたことある?」


 ブラットはすぐには答えなかった。


「何をでしょう」


「王太子だからやるべきだ、とか」


 ブラットの表情が少し硬くなる。


「あります」


「嫌って言っても?」


「殿下は、はっきり嫌とは言わないことが多かったです」


「でも嫌そうだった?」


 今度はもっと長い沈黙が落ちた。


「……今思えば、そうだった場面はあります」


「何で続けた?」


 責めるような声ではなかった。


 だからこそ、ブラットは逃げなかった。


「必要なことだと思っていたからです。王太子である以上、気持ちより先に果たすべき役目があると」


「悪いって思わなかった?」


「当時は、ほとんど」


「少しずつ?」


 ブラットが少年を見る。


「何がですか?」


「最初は一回だけ。次は二回。毎日言うようになる。そういうの」


 ブラットはしばらく黙り、やがて静かに頷いた。


「そうだったかもしれません」


 俺の胸の奥にも、古い記憶が浮かぶ。


 朝の勉強。


 昼の謁見。


 夜の報告。


 体調が悪くても、少しだけ。


 疲れていても、今日だけ。


 嫌だと言わなかったから。


 王太子だから。


 一つ一つは、それほど大きな強制ではなかったように見える。


 けれど積み重なると、選ぶ余地はほとんど残らなかった。


「アル」


 少年が俺を見る。


「怒ってる?」


 少し考える。


「今は、ブラットにというより昔の自分にも」


「何で」


「嫌なら言えばいいって思ってたところがあった」


「言えなかったのに?」


「ああ」


「自分に怒る?」


「少しな」


 少年は眉を寄せた。


「変」


「そうか?」


「子供の自分だろ」


「ああ」


「それに怒るの、かわいそう」


 思わず言葉が止まった。


 ブラットも少し驚いた顔をする。


「じゃあ誰に怒ればいい?」


「知らない」


 少年は困ったように言った。


「でも、子供のお前に全部は違う」


 その一言が、妙に胸へ残った。


「……そうだな」


 俺が答えると、少年は少しだけ安心したように息を吐いた。


 ブラットも深く頭を下げる。


「私も、過去を全部殿下の責任にするつもりはありません」


「俺も全部お前の責任にするつもりはない」


 俺が言うと、ブラットは僅かに目を伏せた。


「ありがとうございます」


「でも、やったことは消えない」


 三〇八号室の少年が言う。


「はい」


「謝ったから終わりでもない」


「はい」


「でも全部悪い人でもない」


 ブラットは少しだけ笑った。


「難しいですね」


「面倒」


「そこに戻るのか」


 俺が言うと、少年も小さく笑った。


 ブラットが出たあと、少年はしばらく休むことにした。


 白い薬を少し減らした影響か、帰還管理所の記録を聞いた影響か、午前中の終わり頃から少し疲れが出ている。だからセリーは、どちらが原因か今すぐ決めようとせず、まず横になるよう勧めた。


「頭痛くない」


「はい」


「怖さは」


 少年は少し考える。


「四くらい」


 数字で答えた。


「朝は?」


「二」


「では増えていますね」


「薬減らしたから?」


「記録を聞いた影響もあります」


「どっち?」


「今は分けられません」


 少年は少し眉を寄せたが、すぐ頷く。


「じゃあ午後まで見る」


「はい」


「薬戻すのはまだ?」


「本人が希望するなら戻せます」


「今はいい」


 少年は寝台へ横になった。


「寝るかも」


「どうぞ」


「起きたら戻ってる?」


「何が」


「記録」


「消えない」


「じゃあ寝る」


 数分もしないうちに、呼吸がゆっくりになる。


 俺とセリーは部屋を出た。


 廊下へ出ると、霧はほとんど晴れていた。窓の向こうには山の緑が戻り、朝には見えなかった遠くの稜線も薄く見える。


「主様」


「何だ」


「先ほどのことを、考えすぎないでください」


「どれだ」


「子供の頃のご自分へ怒っているという話です」


 俺は少し黙った。


「セリーもそう思う?」


「はい」


「甘くないか?」


「責任を分けることと、甘やかすことは違います」


 セリーは静かな声で続ける。


「当時の主様には、選べると思っていても実際には選びにくい状況があったのでしょう。それを、今の主様が一人で背負い直す必要はありません」


「でも、俺も人に同じことした」


「それは別に向き合えばよいのです」


 三〇八号室少年と似たことを言われた。


 俺は少し笑う。


「皆、分けろって言うな」


「主様が一つにまとめすぎるからです」


「俺だけ悪いみたいじゃないか」


「そこまで申していません」


 セリーの口元が少しだけ緩む。


「ただ、主様は反省を始めると、責任の範囲を広げすぎる傾向があります」


「自覚はある」


「では休んでください」


「そこへ繋がるのか」


「当然です」


 結局、俺も昼食までは記録を開かないことにした。


 午後、名前不明の子供からの連絡が先に届いた。


 エルが内容を区分する。


『内容は「本人の体調」「近くにいてよい人」「本人からの発言」です。木片について新しい共有情報はありません』


 三〇八号室少年は昼寝から起きたあとだった。


 怖さは三まで下がり、頭痛もない。薬量を戻すことはせず、そのまま様子を見ると自分で決めている。


「聞く」


 通信が繋がる。


 ヨアヒムの声の後ろで、何かをゆっくり動かす音が聞こえた。


『体調は安定しています。今日は午前中に少し長く眠りました』


「俺と同じ」


 少年が呟く。


『そうかもしれませんね』


「でも同じじゃない」


『はい』


 もうそこまでが一つの癖になりつつある。


『近くにいてよい人については、今日はオスカーではなくリディアを選びました』


「戻った?」


『本人がそう選びました』


「昨日はオスカー」


『はい』


「今日はリディア」


『はい』


 少年は少しだけ笑う。


「やっぱり変えていい」


『その通りです』


「オスカー、傷ついた?」


『本人は「盾役は交代するものだ」と言っています』


「強がってる?」


『少しだけ寂しそうでした』


 少年が吹き出した。


「言っていいのそれ」


『本人了承済みです』


「じゃあ笑う」


 少しだけ空気が和らぐ。


『本人からの発言ですが』


 ヨアヒムの声が少し落ち着いたものへ戻る。


『今日は木片ではなく、窓の外を見ながら話しました』


「何て?」


『「ここ、ちがう」と』


 少年の笑みが消える。


「旧保養施設が?」


『そう受け取れる可能性はあります。ただ、こちらから場所を指して確認はしていません』


「何と違う?」


『そこは言っていません』


「もどるところ?」


『可能性はあります』


「帰還管理所?」


『その言葉はまだ知らせていません』


 少年は少し考えたあと、深く息を吐いた。


「続き言った?」


『はい。少し時間を置いて、「においがちがう」と』


 俺は僅かに眉を寄せる。


「匂い?」


『はい』


「何の?」


『そこは分かりません』


「薬?」


『可能性はあります』


「木?」


『それも』


「山?」


『はい』


 少年は窓の外を見た。


「場所、匂いで分かる?」


「あると思う」


 俺が答える。


「塔も違う?」


「ああ。塔は石と古い木と、セリーの飯の匂い」


「最後いる?」


「重要だろ」


 セリーが少しだけ笑う。


『本人は、そのあと「ここじゃない」ともう一度言いました』


「ここにいたいって前に言ったのに?」


 少年がすぐ気づく。


『「今いる安全区画に留まりたい」という意思と、「ここが戻るところではない」という認識は両立する可能性があります』


「そっか」


 少年は少し考える。


「いたい場所と、戻る場所は別」


「ああ」


「俺も三〇八にいたいけど、帰る場所かって言われたらまだ分かんない」


「ああ」


「そういう感じかもしれない」


『可能性の一つです』


「でも同じにしない」


『はい』


 少年は少しだけ得意そうな顔をした。


「それ、本人が俺に言っていいって?」


『はい。現在の共有範囲を説明し、頷いています』


「じゃあ受け取る」


 以前から使うようになった言葉だった。


 返事を強制しない。


 理由を聞きすぎない。


 ただ、相手が渡した言葉を受け取る。


「こっちから何か言う?」


 俺が聞くと、少年は少し迷った。


「今日はいい」


「ああ」


「毎回返したら、返さなきゃいけなくなる」


「そうだな」


「でも忘れてない」


「本人にそれ伝える?」


「伝えなくていい。俺が覚える」


 少年はそう決めた。


 通信が終わる頃、午後の光が三〇八号室へ差し込み始めていた。


 朝の霧は完全に消え、窓からは遠くの山まで見える。


「ここじゃない」


 少年が小さく呟く。


「帰還管理所の近くかな」


「可能性はある」


「匂い違うって、覚えてるんだな」


「ああ」


「薬で記憶ぼやけても?」


「全部消えるわけじゃない」


 少年は赤い布へ視線を向ける。


「俺も、王宮の匂い覚えてるかな」


「何の匂いだった?」


「分からない」


 少し笑う。


「聞かれても出てこない」


「そのうち何かで思い出すかもな」


「塔行ったら?」


「王宮とは違うぞ」


「知ってる」


 少年は少し考えた。


「でも違う匂い覚えたら、今いる場所増える」


 その言葉が妙に印象に残った。


 帰る場所を一つ決めるのではなく。


 自分がいた場所を、自分の記憶で増やしていく。


 それもまた、少年にとっては必要なことなのかもしれない。


 夕方、ガルムから帰還管理所の現状だけが短く届いた。


 奥の扉には、今日も触れていない。


 第一空間の残りの棚と床面を調査しているだけ。


 新しい侵入痕はなく、ローデンもレイハンも見つかっていない。


「進んでない?」


 少年が聞く。


『進んでる。奥へ行ってないだけだ』


「同じじゃない?」


『外だけで分かることを潰してる』


「遅い」


『安全だ』


「面倒」


『調査はそういうもんだ』


 少年が俺を見る。


「皆同じこと言う」


「本当にそうだからな」


『それと』


 ガルムが続ける。


『新しい規定の切り取られた承認欄について、紙片が周囲に残ってないか探してる』


「見つかりそう?」


『分からん』


「燃やされた?」


『可能性はある』


「持ってった?」


『それもある』


「誰かが名前だけ隠した?」


『そこもな』


 少年はしばらく黙る。


「見つからなくても」


『何だ』


「変えたこと自体は残る?」


 ガルムが少し間を置いた。


『残る』


「名前なくても?」


『規則の変化そのものは消えない』


 少年の肩が少し下がった。


「じゃあいい」


『よくはないがな』


「全部分からないよりは」


『そうだな』


 通信が切れる。


 少年はしばらく自分の手を見ていた。


「犯人の名前ない」


「ああ」


「でも変えた人がいた」


「ああ」


「それは消えない」


「ああ」


「じゃあ、名前分からないままでも調べられる」


「そうだな」


 名前が分からないから存在しないわけではない。


 それは、名前不明の子供にも通じる話だった。


 夜になり、父王の手紙へは今日も手を伸ばさなかった。


 ただ、昨日までとは違い、少年は赤い布を避けるようにはしなかった。寝台脇の机へ座り、布の上へ手を置いたまま少し考えている。


「明日」


「何だ」


「開けるかもしれない」


「ああ」


「帰還管理所の残り、今日全部聞いたから」


「ああ」


「でも、朝決める」


「分かった」


「今約束しない」


「ああ」


 少し笑ったあと、少年は手を離した。


「薬」


 セリーが確認する。


「朝より怖さ増えたけど、今二くらい」


「では減らした量を夜も続けますか?」


「うん。今日はそれで見る」


「青と紫は?」


「なし」


「承知しました」


 灯りは少し残す。


 扉は内側から閉める。


 怖ければアルを呼ぶ。


 呼ばなくてもよい。


 いつもの確認を終え、少年は布団へ入った。


「アル」


「何だ」


「少しずつ悪くなるの、怖いな」


「ああ」


「最初は一回増やすだけ」


「ああ」


「次は三回嫌って言ったら判断できないって」


「ああ」


「最後は嫌って言うのが症状」


「ああ」


「誰も途中で止めなかったのかな」


 俺は少し考えた。


「止めた人もいたかもしれない」


「記録ない」


「消されたかもしれないし、まだ見つかってないかもしれない」


「じゃあ」


 少年は天井を見た。


「全部の人が賛成だったって決めない」


「ああ」


「一人くらい嫌だって言ったかもしれない」


「ああ」


「でも言っても止まらなかったかもしれない」


「ああ」


 少年の声が少し小さくなる。


「それ、怖い」


「そうだな」


「今は?」


「何が」


「俺が嫌って言って、皆に止められなかったら」


「一人だけに頼らないようにしてる」


 俺は答える。


「俺が聞かなかったらセリーが聞く。セリーが駄目ならガルムがいる。ブラットも、アンナマリーも、エルの記録もある」


「皆間違ったら?」


「その可能性もゼロじゃない」


 少年が少し不安そうにこちらを見る。


「じゃあどうする」


「だから、決めたことを残す。あとから見直せるようにする。役割も分ける」


「完璧じゃない?」


「ああ」


「怖い」


「ああ」


 それでも俺は嘘をつかなかった。


「でも、前よりは止めやすい」


 少年は少し考えた。


「一人が全部決めるより」


「ああ」


「父上だけとか、先生だけとか」


「ああ」


「お前だけも?」


「もちろん」


 少年が少し笑った。


「そこは自分で言う」


「言うよ」


「王太子だったのに」


「元な」


「今も偉そう」


「お前に言われたくない」


 少年の笑いが少しだけ大きくなる。


 その笑いが落ち着いたあと、また静かな声で続けた。


「名前なくても、変えた跡は残った」


「ああ」


「発見された子も、名前なくてもいる」


「ああ」


「俺も、王太子じゃなくてもいる」


「ああ」


「保存槽の方も」


「ああ」


 少年は目を閉じた。


「じゃあ」


 少し眠気の混じった声になる。


「名前って大事だけど、全部じゃない」


 俺はすぐには答えなかった。


「そうかもな」


「今はアルフォンスがいいけど」


「ああ」


「それも俺が決める」


「ああ」


「お休み、アル」


「お休み、アルフォンス」


 セリーも静かに挨拶し、俺たちは部屋を出た。


 内側から鍵がかかる音がする。


 廊下の窓から見る外は、朝とは違って澄んでいた。


 帰還制度は、一度に壊されたわけではなかったらしい。


 本人が申告するまで待つ仕組みが、一日一回の再確認へ変わった。


 拒否を続ければ判断能力を疑われるようになった。


 そして最後には、拒否そのものが症状へ変えられた。


 少しずつ。


 だからこそ、怖い。


 一つ一つは小さな変更に見えたかもしれない。


 誰かは便利だと思ったかもしれない。


 誰かは必要だと思ったかもしれない。


 誰かは疑問を持ちながら、まだ大丈夫だと考えたかもしれない。


 その積み重ねの先で、最初にあった本人の意思だけが、制度の外へ追い出された。


 誰が始めたのか。


 誰が止めなかったのか。


 誰が最後に承認したのか。


 名前はまだない。


 けれど、名前がないから何も起きなかったことにはできない。


 削られた承認欄。


 薄く残った古い文章。


 三段階に変えられた運用規則。


 それら全部が、誰かの手で制度が動かされた痕跡だった。


 明日、父上の手紙をもう一通開くのか。


 帰還管理所の奥へ進むのか。


 名前不明の子供が次の言葉を話すのか。


 どれもまだ決まっていない。


 だから今夜は、今日分かったことだけを残す。


 一つずつ変えられたものなら。


 一つずつ辿れば、いつか変わった場所へ辿り着けるかもしれない。


 答えを急がず。


 誰かの名前を先に犯人へ置かず。


 それでも、残された痕跡だけは見失わないように。

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