第40話 帰還を拒んだ人の記録が残っていても、その人が誰だったのかまでは決めませんでした
帰還管理所の外扉を初めて開けた翌朝、白鴉療養所の空には薄い雲が広がっていた。
雨が降るほど厚くはないが、日の光は柔らかく、石造りの廊下へ落ちる影も昨日ほどくっきりしていない。朝食の支度をする音が一階から響き、開け放たれた窓の近くでは、湿気を含んだ風が干された布をゆっくり揺らしていた。
三〇八号室の扉を二度叩くと、すぐには返事がなかった。
もう一度叩くべきか迷っていると、内側で小さく何かを動かす音がして、それから眠そうな声が返ってくる。
「……入っていい」
鍵が外れるのを待って扉を開けると、少年は寝台の上に座り、まだ半分ほど目を閉じていた。髪はいつも以上に跳ねており、掛け布の端を片手で握ったまま、こちらを見る目にも眠気が残っている。
「今日は遅いな」
「夜、二回起きた」
俺が軽く言ったつもりの言葉に、少年は素直に理由を返した。
「怖い夢か?」
「一回は分からない。もう一回は帰る夢だった」
そこで少し言葉を止め、俺ではなくセリーへ目を向ける。
「でも、アルって呼ばなかった」
「呼びたくなかったのですか?」
「呼ぼうか迷った。でも、水飲んだら寝られた」
セリーは「よく頑張りました」とも、「呼ばなくて偉かった」とも言わなかった。ただ寝台脇の水差しを確認し、昨夜どれくらい飲んだかを本人へ尋ねている。
それが今の少年にはちょうどいいのだろう。
呼ばずに眠れたことが正解になると、次に怖くなった時も呼ばなければならないと感じるかもしれない。だから、呼んでもいいし、呼ばなくてもいい。そのどちらも選べる状態を残しておく。
「身体は?」
俺が尋ねると、少年は少し考えながら肩を回した。
「眠い。でも重い感じは昨日より少ない。頭痛くないし、気持ち悪くない。胸も平気」
「白い薬はどうしますか?」
セリーに聞かれ、少年はすぐ四分の一と答えかけてから口を閉じた。
「減らす話、昨日した」
「はい」
「減らしたら、急に怖くなるかもしれないんだよな」
「可能性はあります。ただ、必ずそうなるとは限りません」
少年は寝台の上で膝を立て、その上へ腕を置いた。窓の外から聞こえる鳥の声へ一度意識を向けるようにしてから、ゆっくり答える。
「今日はまだ四分の一。帰還管理所の話も増えそうだから、薬まで変えると、どっちで変わったのか分かりにくい」
思わず俺は少年を見た。
セリーも僅かに目を細める。
「何」
「いや、ちゃんと理由考えてるなと」
「褒めるな」
「まだ褒めてない」
「顔が」
「最近そればっかりだな」
少年の口元が少し緩んだ。
「青と紫は?」
セリーが続けると、少年は今度は迷わず首を横に振る。
「なし。それは今日も変えない」
「承知しました」
エルが、白い薬を四分の一、青と紫は使用しないという今日の希望だけを記録した。
昨日と同じに見えても、理由まで同じとは限らない。
そこを確認してから決めることが、少年の中では少しずつ当たり前になりつつあった。
朝食は、今日も廊下の窓辺で取ることになった。
昨日より人通りが少なかったため、少年は三〇八号室へ戻らず、丸机の前へ自分から腰を下ろした。近くにいた近衛も、少年が来ると二、三歩だけ距離を取り、それ以上は意識していないように壁際へ立つ。
少年はその近衛を一度見たが、今日は「なぜ離れるのか」と確認しなかった。
もう知っているからだ。
柔らかなパンをちぎり、根菜の入ったスープへ少し浸す。セリーが隣へ置いた煮た果物を見て、少年は一口食べてから少し眉を寄せた。
「昨日より酸っぱい」
「果実が違います」
「同じ料理でも違う?」
「はい」
「薬も?」
「同じ量でも身体の状態によって感じ方は変わります」
少年は少し考え、それから俺の皿を見る。
「アルのも酸っぱい?」
「俺の食うか?」
「いらない。量多い」
「聞いた意味」
小さく笑った少年が、再び自分の皿へ向き直る。
その途中、階段を上がってきたブラットが姿を見せた。
いつもなら重要な記録を持っている時は、そのままこちらへ来るところだが、今日は少年が朝食中なのを見ると足を止めた。
「何かあった?」
少年の方から気づいた。
「帰還管理所の第一空間について、昨夜までに整理された記録があります」
「今聞く?」
俺が聞くと、少年は手元のパンを見た。
少し考えてから首を横に振る。
「食べてから。昨日と同じ」
「では、食後に」
ブラットはそれだけ言い、離れた場所へ移動した。
少年は再び食事へ戻る。
昨日までは、重大そうな情報が届けば食事も休息も中断していた。それを今日は、自分の都合で後へ回した。
「気にならない?」
俺が聞くと、少年はすぐに答える。
「気になる。でも逃げないだろ、その記録」
「まあな」
「パンは冷める」
「そっち優先か」
「今は」
その言葉に、俺は少し笑った。
今は。
少年が最近よく使うようになった言葉だった。
朝食を終え、白い薬を四分の一だけ飲み、三〇八号室へ戻ってからブラットを呼んだ。
入室距離については、少年の方から「四歩じゃなくて三歩でもいい」と言った。
ブラットが少し意外そうな顔をしたため、少年は眉を寄せる。
「嫌なら四歩?」
「いいえ。ありがとうございます」
「ありがとうって変」
「距離を任せてもらえたので」
「俺が近くしていいって言っただけ」
「それがありがたいのです」
少年は納得しきらない顔をしながらも、それ以上は追及しなかった。
ブラットは椅子へ座らず、三歩ほど離れた場所へ立ったまま記録板を開く。
「昨夜、ガルム隊長たちが帰還管理所の第一空間から回収したものは、現時点で七点です。すべて二人以上で確認し、原位置の記録を残してあります」
「紙も?」
「新しい紙を含みます」
少年の表情が少し硬くなった。
「『戻せない者は、第三へ』」
「はい。それもあります」
「先生の字?」
「まだ判断できません」
「フェリクスは?」
「見たがっています」
「触った?」
「まだです」
「偉い」
ブラットが少し困ったように笑う。
「本人がいない文書なので、患者の許可が必要な証拠とは違いますが、まず現場の記録を優先しています」
「じゃあフェリクス、待たされてる?」
「かなり不満そうです」
少年が笑った。
重い話へ入る前に、その笑みが少しだけ部屋の空気を和らげる。
「まず古いものから説明してもよろしいですか?」
ブラットが確認すると、少年は頷いた。
「うん。でも一個ずつ」
「分かりました」
第一空間の棚には、紙ではなく薄い金属札が複数残されていた。
長く放置されていたため表面の変色は進んでいるものの、刻まれた文字は比較的読みやすい。いずれも帰還管理所がまだ正式に運用されていた時代のものらしい。
「一枚目は、『外区滞在者の帰還意思は本人申告時のみ再確認』です」
少年がすぐに反応した。
「昨日の床と同じ」
「ほぼ同じ規則です」
「帰りたくないって言ったら、何回も聞かない」
「はい」
「次」
「二枚目は、『帰還証紛失者へ再発行申請を認める。紛失を理由として内区移送を強制してはならない』」
少年の表情が変わった。
「なくしても戻れる?」
「少なくとも、再発行の手続きはあったようです」
「発見された子は、なくすと戻れないって言った」
「はい」
「じゃあ規則と違う」
少年はそこまで言って、少し考え直す。
「……今のその子が教えられてたこととは違う」
「その言い方の方が正確ですね」
「いつ変わった?」
「まだ分かりません」
少年は唇を少し噛み、続きを待った。
「三枚目は、『帰還証は身元証明にあらず』」
「え?」
今度は俺も思わず声を出した。
ブラットが記録板をこちらへ向ける。
「正確には、そのあとに続きがあります。『帰還証は身元証明にあらず。資格確認の補助具としてのみ扱うこと』」
「じゃあ、名前の札じゃない?」
少年が尋ねる。
「少なくとも本来の制度では、帰還証だけで誰かの身元を決めてはいけなかったようです」
「〇二とか?」
「そこまでは分かりません」
「AG-02の鍵も?」
「帰還証と同種かも未確定です」
少年は少し考え、寝台脇の机を見る。
赤い布に包まれた手紙。
そして、その向こうにある薬箱。
「持ってる物で、誰か決めちゃ駄目だった」
「ああ」
俺が答える。
「木の板持ってるから第二対象、とかも?」
「しない」
「よかった」
少年は少しだけ肩の力を抜いた。
ブラットが次の記録へ進む前に、セリーが水を少年の手元へ置いた。
「少し飲みましょう」
「まだ平気」
「喉が乾いてからではなく、今少しです」
少年は反論しかけたが、素直に杯を受け取る。
一気に情報を入れない。
それは、帰還管理所の調査だけではなく、ここで聞いている少年にも必要なことだった。
水を二口飲んでから、少年が自分で「続き」と言った。
四枚目の金属札には、別の内容が残されていた。
「『内区移送前に、帰還先、処置内容、身体負担を本人へ説明すること』」
少年の目が少し見開かれる。
「処置?」
「はい」
「ただ帰るだけじゃない?」
「何らかの処置を伴っていた可能性があります」
「何する?」
「そこはこの札にはありません」
「魔法?」
「可能性はあります」
「記憶?」
「それも否定できません」
「身体?」
「はい」
少年の顔から少しずつ色が引いた。
「怖い?」
俺が尋ねると、少年はしばらく黙ったあと、素直に頷いた。
「少し」
「ここでやめる?」
「……まだ一枚?」
「古い規則はあと一枚です」
「それ聞いてから休む」
「分かった」
ブラットも急がず、最後の札を開いた。
「五枚目は、『説明後も判断不能の場合、帰還を実施せず外区保護を継続する』です」
少年が眉を寄せた。
「判断不能って?」
「本人が帰るとも帰らないとも決められない状態でしょう」
「じゃあ、分からないって言っても戻されない?」
「この規則通りなら」
「寝てても?」
「それは本人意思が確認できないので、同じ扱いだった可能性があります」
「薬でぼんやりしてたら?」
部屋が静かになる。
俺は白い薬を思い出した。
紫の薬も。
外から与えられた記憶を受け入れやすくする薬。
感情を抑える薬。
時間や記憶を曖昧にする薬。
「本来の規則なら」
俺はゆっくり答える。
「そういう状態で帰還させるべきじゃなかったことになる」
少年の手が僅かに震えた。
「じゃあ先生が薬飲ませてたの」
そこから先は、声が少し掠れた。
「規則と逆?」
「帰還管理所のこの古い規則と、レイハンが同じ制度を使っていたならな」
「同じじゃないかもしれない」
「ああ」
「でも」
少年は赤い布を見た。
「薬飲めって、父上の手紙にも書いてた」
誰もすぐには返さなかった。
その一通が本物かどうかさえ、まだ決まっていない。
だからこそ簡単に慰められない。
「今日は、その二つを一緒にしない方がいいかもしれない」
セリーが静かに言った。
少年は一度彼女を見る。
「帰還管理所の古い規則と、あなたが受け取った手紙は、今の時点では別の資料です。一緒に考えることはできますが、同じ意図で作られたとはまだ分かりません」
「……うん」
少年は少し時間をかけて頷いた。
「分ける」
その言葉を確認してから、ブラットは古い規則の説明を止めた。
新しい紙については、休憩を挟んでからにする。
少年自身がそう選んだ。
午前中の残りは、何も調査しなかった。
三〇八号室の窓を少し開け、少年は寝台へ横になる。眠るつもりはないと言っていたが、しばらくすると呼吸がゆっくりになり、そのまま三十分ほど眠った。
俺が部屋を出ようとした時、セリーに袖を引かれた。
「主様も」
「何だ」
「休まれます」
「俺は平気」
「昨日、帰還管理所の報告を夜まで整理されていました」
「見てたのか」
「同じ部屋にいましたので」
「じゃあ少しだけ」
「はい」
結局、俺も隣の部屋で横になった。
目を閉じても帰還管理所の規則が頭から離れなかった。
帰還証を取り上げるな。
本人意思を確認しろ。
帰還拒否者へ何度も確認するな。
帰還先、処置、身体負担を説明しろ。
判断できない者を送るな。
驚くほど、今の俺たちが白鴉で試しているやり方に近い。
それなのに、二千年前の塔ではなく、後世に作られた王家系施設でその規則が残っている。
どこで変わったのか。
誰が変えたのか。
あるいは、最初から規則と実態が違ったのか。
答えは、まだ扉の奥にあるのかもしれない。
だが、だからといって急いで次の扉を開けるつもりはなかった。
昼食後、発見された子供からの連絡が先に届いた。
エルが内容を区分する。
『「発見された子供の体調」「本人の発言」「木片」に関する情報です。本人から、現在の共有範囲への伝達許可があります』
三〇八号室の少年は、昼食の最後の一口を飲み込んでから水を飲んだ。
「聞く」
通信の向こうでは、ヨアヒムの声とともに、時折木の窓枠が鳴る音が聞こえる。
『まず体調は安定しています。午前中、窓辺で過ごしたあと少し眠りました』
「オスカー?」
『今日も近くにいてよい人として選ばれています』
「リディア戻ってない?」
『まだ帰還管理所です』
「オスカー、何してる?」
『先ほどまで椅子に座っていました。今は本人から「外」を示されたので、扉の外にいます』
「嫌になった?」
『そこまでは分かりません。「一人」も同時に選んだので、今は一人でいたいという意思だと受け取っています』
「昨日よかったのに?」
『昨日や今朝よかったことと、今一人でいたいことは両立します』
少年はすぐに頷いた。
「うん。それ分かる」
ヨアヒムは少し間を置いてから、木片について話を進めた。
『午前中、本人から木片を見せることはありませんでした。ただ、昼食後に一度だけ自分から机へ置きました』
「裏?」
『表を上にしてです』
「帰と還」
『はい』
「何か言った?」
『今回は、こちらから質問する前に本人が話しました』
三〇八号室の少年の表情が引き締まる。
「何て?」
『「これ、かえす」と』
「返す?」
少年が聞き返した。
『はい』
「誰に?」
『そこまでは言っていません』
「何を返す?」
『木片を指していましたので、木片について話している可能性は高いと考えています』
「返したい?」
『その確認はしていません』
少年の眉が寄る。
「何で?」
『そのあと、本人が「でも」と言って黙ったからです』
少しの沈黙。
「続き待った?」
『はい。ただ、そのまま木片を手元へ戻しました』
「じゃあ終わり?」
『そこで止めています』
少年は唇を噛みそうになり、途中でやめた。
「気になる」
「俺も」
俺が言うと、少年は横目でこちらを見る。
「でも聞かない?」
「本人が止めたならな」
「……うん」
短い返事に、納得しきれない気持ちが滲んでいる。
『もう一つだけ、本人から話したことがあります』
ヨアヒムが続ける。
『木片を戻したあと、「これは、ぼくの」と言いました』
少年の目が大きくなった。
「ぼくの?」
『はい』
「もらったんじゃなくて?」
『そこは分かりません。ただ、本人は所有について「ぼくの」と言っています』
「じゃあ」
少年は一度強く息を吸った。
「絶対取らない」
『はい』
「帰還証でも」
『はい』
「証拠でも」
『生命に関わる理由がない限り、本人の手元に置きます』
「返すって言ったのに?」
『返したい相手や場所が本人から示された場合は、その時に安全を確認します』
少年はしばらく考える。
「本人のものだけど、誰かに返したい」
「ああ」
「でも、持ってると戻される」
「ああ」
「なくすと戻れない」
「ああ」
「全部一緒にある」
「今のところはな」
「変だけど」
少年は視線を落とし、ゆっくり言う。
「本人は変だと思ってないかもしれない」
「そうだな」
俺たちが知らない事情の中では、すべてが自然に繋がっている可能性もある。
矛盾して見えるのは、途中の情報を持っていないこちら側だけなのかもしれない。
「『ぼく』って言った」
少年がもう一度口にする。
「初めて?」
『自分を指す言葉としては初めてです』
「名前じゃないけど」
『はい』
「それでいい」
少年は少しだけ笑った。
「名前じゃなくても、自分のこと言える」
『そうですね』
「俺に伝えていいって、本人が言った?」
『今回も、同じ療養所で保護されている子供を含む現在の共有範囲を説明し、頷きを確認しています』
「じゃあ、ありがとうって言っていい?」
ヨアヒムが少し驚いたように黙った。
『本人へですか?』
「うん。でも、返事いらないって」
『伝えること自体を希望されますか?』
少年は少し迷った。
「やっぱり」
言葉を探す。
「俺が勝手に聞いてるわけじゃなくて、教えてくれてありがとうって。でも名前とか聞かないって」
『そのまま伝えてよいですか?』
「うん」
「お前の名前は?」
俺が確認すると、少年はすぐ首を横に振った。
「まだ言わない」
「分かった」
『では、「同じ療養所で保護されている子供が、教えてくれてありがとう、名前は聞かないと伝えている」とだけ伝えます』
「それでいい」
通信が終わったあと、少年は少し落ち着かない様子で寝台の端へ座っていた。
「返事くるかな」
「いらないって言っただろ」
「そうだけど」
「気になる?」
「少し」
「じゃあ待て」
「簡単に言う」
「俺も待ってることいっぱいあるぞ」
「父上とか?」
「ああ」
「先生も?」
「ああ」
「保存槽の方も?」
少し考える。
「それは待つというより、本人が決めるのを見てる感じだな」
「同じじゃない?」
「似てるけど少し違う」
少年が笑う。
「また」
「ああ。まただ」
午後になると、帰還管理所第一空間から回収した新しい紙について、ブラットとガルムから整理結果が届いた。
今回は三〇八号室の少年だけでなく、アンナマリーも通信の向こう側に参加している。
少年へは、彼女が聞く情報の範囲を先に説明した。
帰還管理所そのものの調査情報は共有してよい。
だが、発見された子供の木片や発言は共有しない。
三〇八号室少年自身の薬、手紙内容、王太子主張についても、以前の制限を維持する。
「アンナマリー、帰還管理所は知っていい?」
『はい。今回の施設調査については、町側の古文書照合にも必要です』
「発見された子の木の板は?」
『知りませんし、聞きません』
「俺が今聞いてることは?」
『それも、必要のない部分までは知りません』
少年は少し安心したようだった。
「じゃあいい」
ブラットが、新しい紙の現状を説明する。
「紙そのものは最近作られたものです。少なくとも、帰還管理所が最初に使われていた時代の物ではありません」
「何年前?」
「紙質と保存状態だけでは、一年以内という程度までしか絞れません」
「字は?」
「筆跡を確認したところ、レイハンの署名資料とは一致しませんでした」
少年の眉が動く。
「先生じゃない?」
「少なくとも、通常の筆跡とは違います」
「変えて書いた?」
「可能性は残ります」
「ローデン?」
「比較材料がありません」
「じゃあ誰」
「まだ不明です」
少年は不満そうに息を吐いたものの、先を急かさなかった。
「文章は『戻せない者は、第三へ』だったな」
「はい。ただ、紙を開くと内側にも記載がありました」
「開いた?」
「証拠管理手順に従い、ガルム隊長と現地記録官の二名で開封しています」
「何て?」
ブラットが一度アンナマリー側とも確認し、それから読み上げた。
「『外区規定を停止。本人確認を処置完了後へ変更。帰還拒否は症状として扱う』」
三〇八号室の少年が動かなくなった。
俺も言葉を失った。
古い規則と、ほとんど真逆だ。
「本人確認、あと?」
少年がゆっくり尋ねる。
「そう書かれています」
「処置してから?」
「はい」
「嫌って言ったら?」
「『帰還拒否は症状として扱う』」
「それって」
少年の声が少し震える。
「帰りたくないって言っても、病気だからってことにする?」
「この文面だけを読めば、そう扱う規定です」
「誰が決めた?」
「まだ署名部分がありません」
「父上?」
「分からない」
「先生?」
「分からない」
「王宮?」
「王宮式の文書ではありません」
少年が顔を上げる。
「じゃあ王宮じゃない?」
「それも断定できません。正式様式を使わずに運用された文書かもしれない」
「いつから?」
「それを今調べています」
少年は両手を握った。
俺は、彼が怖がっているのが分かった。
レイハンに教え込まれていたことと近い。
薬を飲まなければならない。
疑うのは弱さ。
王太子なら帰る。
偽物を疑わないのは異常。
本人が拒否しても、その拒否自体を「症状」とされたなら、選択は最初から存在しない。
「ここで止めるか?」
俺が尋ねると、少年はすぐには答えなかった。
呼吸を整えるように一度大きく息を吐く。
「もう少しある?」
「ある」
「何個?」
「大きい情報は二つ」
「一個だけ聞く」
「分かった」
自分で量を決めた。
ブラットも頷き、次の記録だけを取り上げる。
「この新しい規定には、修整前の古い文章が薄く残っています」
「消した?」
「上から薬剤で文字を薄くし、書き直したようです」
「何があった?」
「元の文面は完全ではありません。ただ、一部だけ読めました」
ブラットは少し間を置いた。
「『帰還拒否は本人意思として保存し――』」
その先は消えている。
少年の顔が強く歪んだ。
「変えた」
「可能性は高い」
「最初は、嫌って言ったら残す規則だった」
「ああ」
「それを」
少年は喉の奥で言葉を詰まらせた。
「症状にした」
部屋へ沈黙が落ちた。
セリーがすぐ近づくことはせず、少年の呼吸を見ている。ブラットもそれ以上記録を読まない。
通信の向こうのアンナマリーも黙っていた。
「誰が」
少年の声は低い。
「誰が変えた」
「そこを調べる」
俺は答えた。
「でも、今はまだ分からない」
「また」
少年が少し苛立ったように俺を見る。
目の奥には怒りだけでなく、怖さがある。
「こんなの、誰かがやったんだろ」
「ああ」
「自然に変わらない」
「ああ」
「なら誰かいる」
「ああ」
「父上かもしれない」
「可能性はある」
「先生かもしれない」
「ああ」
「他の誰かも」
「ああ」
少年は一度唇を強く噛み、すぐ離した。
「嫌だ」
「ああ」
「古い方がよかった」
「ああ」
「帰りたくないって言ったら、それで止めてくれる方」
「ああ」
「何で変えたんだよ」
俺には答えられない。
だから、慰めるための理由を作らなかった。
「それを調べる」
少年はしばらく俺を睨むように見ていたが、やがて視線を落とした。
「今日はもういい」
「分かった」
「残り一個は明日でもいい」
「ああ」
「消えない?」
「証拠は保全してある」
「誰かが取らない?」
「二人以上で管理してる」
「じゃあ明日」
少年はそう決めた。
アンナマリーも「承知しました」とだけ答え、続きを勧めなかった。
通信が終わったあと、少年は寝台へ横にならず、窓辺へ移動した。
窓は閉じたまま。
外には曇った空と、風に揺れる木々が見える。
「怒ってる?」
俺が尋ねると、少年は頷いた。
「誰に?」
「分からない」
「そうか」
「先生かもしれないし、父上かもしれないし、知らない誰かかもしれない」
「ああ」
「分からないのに怒っていい?」
「誰がやったか分からなくても、されたことに怒ることはできるだろ」
少年は少し振り返る。
「規則変えたことに?」
「ああ」
「俺にしたことにも?」
「ああ」
「でも先生が全部やったか分からない」
「分からない部分は分ければいい」
少年は再び外を見た。
「怒るの、悪いって言われた」
「保存槽の方のアルフォンスも、怒ることを不要にされたって言ってた」
「ああ」
「俺も薬飲んでたら、怒らなくなった」
紫の薬。
感情を抑える作用。
少年の声が少しずつ震える。
「怒ったら、本物じゃなくなる気がしてた」
俺は椅子から立たなかった。
すぐ隣へ行くこともしない。
「今は?」
「分からない」
少年は少し時間をかけて答えた。
「でも今、怒ってる」
「ああ」
「それでもアルフォンス?」
「お前が今そう呼ばれたいなら」
少年は手の甲で目元を一度拭った。
「今は」
「ああ」
「アルフォンス」
「分かった」
それ以上、何かを証明する必要はなかった。
夕方近くまで、帰還管理所から新しい報告は入れないようにしてもらった。
現場の調査自体は続く。
ただし三〇八号室少年へ流す情報は一度止める。
ガルムから「了解」と短い返事が来ただけだった。
その間に、少年は少し休み、セリーの作った花型の焼き菓子を食べた。
「今日は?」
セリーが聞く。
「何が」
「形です」
少年は焼き菓子を持ち上げて、少し角度を変えながら見る。
「花に見える」
「昨日は?」
「何か丸いやつ」
「改善しました」
「勝った?」
「まだです」
「だから誰とだよ」
俺が口を挟む。
「主様には分からない戦いです」
「俺だけ除外されてる」
少年が小さく笑った。
さっきまで泣きそうな顔で怒っていたからといって、一日中その感情の中へ閉じ込めておく必要もない。
怒ってもいい。
甘い物を食べてもいい。
笑ってもいい。
それらは互いに打ち消し合わない。
日が傾き始めた頃、ヨアヒムから短い通信が届いた。
内容は発見された子供からの返事だけ。
少年は聞くと決めた。
『午前中に預かったあなたからの言葉を、本人へ伝えました』
「どうだった?」
『最初は何も言いませんでした』
少年が少し緊張する。
『そのあと、木片を膝の上へ置き、「きかない?」と尋ねました』
「何を?」
『私も同じことを尋ねました。本人は、少し考えてから「なまえ」と言いました』
三〇八号室の少年の目が大きくなる。
「俺が名前聞かないって言ったから?」
『そうだと思います』
「何て返した?」
『「聞かないそうです」と伝えました』
「それで?」
『本人は、少しだけ笑いました』
少年が黙った。
俺も、何も言わなかった。
『そのあと、本人から「ありがとう」と言いました』
少年の口が僅かに開く。
「俺に?」
『同じ療養所で保護されている子供へ、と確認したところ頷きました』
「……そっか」
少年はしばらく自分の手を見ていた。
「返事、いらないって言ったのに」
『返したかったのだと思います』
「それ、本人が選んだ?」
『はい』
少年の表情が少しだけ柔らかくなる。
「じゃあ、受け取る」
『分かりました』
「俺からもう返事しなくていい」
『はい』
「ずっと続いたら、返事しないといけなくなるから」
ヨアヒムが少し笑った。
『それも分かりました』
「でも」
少年は少し迷ってから、もう一度口を開く。
「笑ったっていうの、教えてくれてありがとう」
『どういたしまして』
通信が終わった。
少年はしばらく黙っていたが、さっきまでの怒りとは違う静けさだった。
「名前知らないのに」
「ああ」
「向こうも俺の名前知らない」
「ああ」
「でも話した」
「そうだな」
「変じゃない」
「ああ」
「名前、なくても全部なくなるわけじゃない」
その言葉を、俺は少しだけ胸の中に留めた。
夜になる前、ガルムから必要最低限の現地報告だけが入った。
帰還管理所の奥の扉には触れていない。
第一空間の警備を続けている。
新しい侵入者の痕跡も、レイハン本人も見つかっていない。
そして、今日読むのを止めた「残り一つ」の記録は、明日まで安全に保全される。
「それだけ?」
少年が尋ねる。
『それだけだ』
「本当に?」
『聞きたいならもう一個あるぞ』
ガルムの声には少しだけ笑いが混じっていた。
「何」
『オスカーが、発見された子供の部屋で二時間ほとんど動かずにいたせいで、足が痺れた』
少年が吹き出した。
「盾みたいに座ってたから?」
『立った瞬間に転びかけた』
「本人見た?」
『見た』
「怖がった?」
『笑ったらしい』
少年の笑いが止まる。
「発見された子が?」
『ああ。声は小さかったらしいがな』
「それ、俺に言っていい?」
『本人に確認済みだ』
少年は少し安心し、それからまた笑った。
「オスカー、役に立った」
『本人には言うなよ。かなり恥ずかしがってる』
「言わない」
『アルにもな』
「俺もう聞いてるんだけど」
『広めるなって意味だ』
「分かってる」
通信を切ったあと、三〇八号室には久しぶりに柔らかな空気が残った。
今日一日で、重いこともたくさん知った。
古い帰還管理所には、本人の意思を守ろうとする規則があった。
帰還証を奪わない。
拒否を繰り返し問い直さない。
処置内容や負担を説明する。
判断できない者は送らない。
そして、後の時代にはその一部が上書きされていた。
本人確認を処置後へ回す。
帰還拒否を症状として扱う。
誰かが変えた。
そこまでは見えてきた。
けれど、誰が、いつ、何のために変えたのかはまだ分からない。
夕食後、少年は赤い布に包まれた父上の手紙へ手を伸ばさなかった。
「今日は見ない」
自分から言う。
「怒ってるから?」
「ああ」
「父上がやったって決めそう?」
少年は少し迷ったあと、頷いた。
「今読むと、何書いてあってもそう思うかもしれない」
「じゃあ今日はやめるか」
「うん。明日も分からない」
「ああ」
「でも、逃げてない」
「順番を選んでる?」
少年は少しだけ笑った。
「それ」
白い薬は朝と同じ四分の一。
青と紫は使わない。
今日は頭が疲れたため、夜の確認は短くした。
扉は内側から閉める。
灯りは少し残す。
怖くなったら「アル」と呼んでよい。
呼ばなくてもよい。
そこまで決めたあと、少年は布団へ入った。
「アル」
「何だ」
「古い規則作った人」
「ああ」
「いい人だった?」
答えるまでに少し時間がかかった。
「分からない」
「規則いいのに?」
「いい規則を書いた人が、全部いい人とは限らない」
「逆も?」
「悪いことした人でも、全部の行動が悪いとは限らない」
「先生みたい?」
「レイハンにも当てはまるかもしれない」
「父上も?」
「ああ」
「お前も?」
「ああ」
少年は布団の中からこちらを見る。
「アル、悪いことした?」
「あるぞ」
「何」
「昔、人の気持ちを考えずに命令したこともあるし、王太子だから自分が決めるべきだと思い込んでたこともある」
「今もすぐ現場行こうとする」
「それは……」
「悪い?」
「場合による」
「逃げた」
「本当に場合によるんだよ」
少年が笑った。
その笑いが落ち着いてから、もう一度天井を見る。
「俺も悪いことする?」
「ああ」
「するって言うんだ」
「人間だからな」
「王太子でも?」
「ああ」
「じゃあ、悪いことしたら」
少年は少しだけ言葉を探した。
「そのことだけ謝ればいい?」
「まずはな。責任があるなら取る」
「全部自分が偽物になるわけじゃない?」
「ならない」
「全部いい人じゃなくなるわけでも?」
「一個の行動だけで全部を決める必要はない」
少年はゆっくり頷いた。
「規則も同じか」
「ああ」
「古い規則がよくても、場所全部がいいとは限らない」
「ああ」
「新しい規則が悪くても、そこで働いてた人全部が悪いとも限らない」
「ああ」
「発見された子が怖がってても、そこで怖いことされたとはまだ決まらない」
「ああ」
「でも、怖がってるのは本当」
「ああ」
少年は目を閉じた。
「分けるの、疲れる」
「そうだな」
「でも前より」
少し間が空く。
「全部壊れない」
俺は返事を急がなかった。
「父上が間違ってても、父上だったこと全部なくならない」
「ああ」
「先生が悪いことしてても、俺が助けられたと思った時間は俺のもの」
「ああ」
「俺が王太子じゃなくても、今の俺までなくならない」
「ああ」
「発見された子も、名前言わなくてもいる」
「ああ」
少年の呼吸が少しずつゆっくりになる。
「じゃあ」
眠気の混じった声で、最後に言った。
「明日の残り一個も、聞けるかもしれない」
「明日決めればいい」
「うん」
「お休み、アルフォンス」
「……お休み、アル」
俺とセリーは三〇八号室を出た。
内側から鍵のかかる音がして、廊下に静けさが戻る。
帰還管理所の第一空間から見つかった古い規則と、新しく書き換えられた規定。
その間には、明らかに考え方の断絶がある。
本人の意思を確認する制度から。
本人が拒否すれば、その拒否そのものを「症状」とみなす制度へ。
どこかで何かが変わった。
それは、今回初めて形として見え始めた大きな手掛かりだった。
けれど、まだ誰か一人の名前をそこへ置くには早い。
父上。
レイハン。
王宮。
研究者。
あるいは、まだ名前すら出ていない誰か。
明日読む予定の最後の記録に、答えの一部があるかもしれない。
なくてもおかしくない。
だから今夜は、そこまでにする。
一枚の記録が残っているからといって。
今日、それを読まなければならない理由にはならない。
帰還管理所の扉を開いた時と同じように。
答えの前に立ったからこそ、そこで止まる選択も必要だった。




